水無月ことね編⑧ しゃぶったまま喋らないでっ




 その日は午前授業だったため、授業を終えるとことねの家へと移動した。

 ことねの部屋は十四階建てマンションの八階に位置していた。

 俺は廊下の手すりに身を乗り出すようにして、眼下に広がる世界を眺めた。何もかもがミニチュアのように小さく見える。

「すっげーたっけー! 俺ずっと一軒家だからさ、マンション憧れてたんだよね!」

「子どもみたいにはしゃがないでよ」

 ことねが苦笑しながら鍵を回した。

「家族になんて説明しようか? 彼氏だと思われたらどうしよう?」

 俺が背中越しに言うと、

「残念でした。一人暮らしよ」

 と極めて冷静に返される。

「一人暮らしか。いいなあ……なにっ、一人暮らし? で、オートロック式のマンションを?」

 ことねは金持ちなのだろうか。

 可愛い女の子をセキュリティの甘いボロアパートには住ませたくないという親の愛なのかもしれない。

 それにしても、一人暮らしということは二人っきりになれるということだ。生まれて初めて訪れる女の子の家で、いきなりこんな大チャンスが到来するとは。一生分の運を使かっている感が拭い去れず、怖くなってくる。


「お、お邪魔します」

 一歩入った瞬間からもう、なにやら甘い香りがする。

 これが女の子の部屋なのか! と俺は感動に身を震わせながら奥に進む。

 居間には観葉植物がいくつも置かれていて、大画面薄型テレビの両脇には大きなスピーカーが設置されていた。ダイニングテーブルとチェアは、銀箔で覆われ、表面にはバラの彫刻が施され高級感あふれるクラシックでロマンチックなデザイン。英国貴族達のお茶会にでも出てきそうだ。カーテンはカーテンで金持ちが歩くときに敷かれるような赤い絨毯を彷彿とさせる仕様。見上げればシャンデリアまである始末。

「す、凄いな」

 レコードまである。アンティークな趣味もお持ちな様子。

「普段どんな曲聴くんだ?」

「カンニバル・コープスとか?」

「うーん、わからんな」

「一言で表すならグロ系ね」

「へえ。確かにことねはチェーンソーとか似合いそうだな」

「どんなイメージよ」

「こう、ロリに大剣みたいな? これぞほんとのロリポップチェーンソーってな。違うか」

「胸の話してるんだったら怒るわよ?」

「すいません……」

「台所はこっちよ」

 居間とカウンター一つ挟んで繋がっているスペースへと俺を案内する。

 ことねは野菜と鶏肉、包丁を用意し俺を見た。さっそくやってみろ、ということだろう。

 そう、俺は遊ぶためにやってきたわけではないのだ。調理試験をパスするべく、教わりに来たのだ。


「はい、包丁」

「包丁を見るとついこう持ちたくなっちゃうよな」

 逆手持ちで包丁を構える。

「気持ちはわかるけど危ないからちゃんとやって」

「了解であります教官殿」

 俺が包丁を持たぬ方の手で敬礼すると、ことねが得意気に笑った。

「まずはトマトからね。輪切りしてみて」

「よし」

 俺がトマトの真ん中に刃を押し当てようとすると、

「先にヘタを取るのよ」

 と注意する。

 指でヘタをむしろうとすれば、包丁でと言われる。

 はて。どうしたものかと首を傾げていると、ことねが別の包丁を引き出しから取り出し、やってみせてくれた。

 角を当ててまわすようにして、ヘタを綺麗に取り除く。

 たいしたものだ。

 俺は見よう真似で別のトマトのヘタに挑戦する。

 余分に肉をカットしてしまったが、まあなんとかクリアした。

 では本番と、上から本体に包丁を押し当てた。

 しかし、思うように歯が食い込まない。

「こ、この……」

 無理に力を込めると、歯が果肉の上を滑っていき、切っ先が中指をかすめた。

「いっ」

 俺は包丁から手を離し後ろに飛びのいた。

 フローリングに赤黒い液体が転々と散った。

「なにやってんのよ」

「うまく切れなくて」

「……まったく。ほら、指見せて」

 左手を差し出す。中指のちょうど第二関節部分に、横向きの赤い線が一本走っている。じわじわと血が溢れてくる。痛い。

「見た目ほど深くはなさそうね。あんた、血液型なに?」

「え、Aだけど」

「そ。なら問題ないか」

 何故そんなことを訊くのだろうか。

 傷口のグロさに目をそむける。

 するとあろうことか、ことねが俺の手首を掴み、中指を口に含んだ!

「え、ことね? うぁっ」

 ちゅーちゅーと血を吸われ、くすぐったいやら恥ずかしいやらで身体が熱くなる。

「ちょっ、ことねさん? なにして――」

「なにっへひょうほふにひまっへんへひょ」

「ふぁっ、しゃぶったまま喋らないでっ」

「はい。おっけー。ってなによその変な顔……」

「何よだって? 俺のはじめてを奪っておいて。はじめての指フェラだったんだぞ」

「指フェラゆーな」

 デコピンを食らう俺。

「そうやって俺を惑わして! 小悪魔ですよことねさんっ」

「はいはい。そういうのいらないから。絆創膏もってくるから待ってなさい」

「……はい」

 戻ってきたことねは俺の指に絆創膏を巻く。

 再び包丁を握ると、

「包丁の持ち方がなってないのよ。角を当てて、奥に向かってこう切れ込みを入れるように――」

 俺の背後に回って手を重ねてきて、動きを教えてくれる。

 彼女の髪が腕にかかる。軽く触れている程度でもわかる、髪の柔らかさ。

 胸が背中に押し付けられる。ほとんど柔らかい感触はないけど。

 きゅうりやキャベツなど、ひと通り野菜の切り方を覚えると、今度は鶏肉にとりかかる。

 ことねが若鶏のもも肉と書かれているパックを破り、まな板に置く。

「さ、やってみて?」

「お、おう」

 試しに包丁を当てるも、思うように切れない。何度も刃をスライドさせ、やっとのことで両断に成功するも切れ込みがあっちへこっちへとズレまくりで見るも無残、ぐちゃぐちゃだ。

「これはね、力じゃないのよ。身体はこう。足を開いて、横向きに。それで引くの。何回もギコギコやらないで、一回で綺麗に」

 ことねがしゃがみ込み、俺の太ももを触る。脚を縦方向に開かせる。ことねの頭がちょうど股間のところにある。

 意識してはいけないと自分に言い聞かせても、どうにも反応してしまう。

「こうすればやりやすいわよ」

 ことねが顔を上げる。目線に、俺の股間。山盛りになっている制服のズボン。

「な、なな、何興奮してんのよっ」

「ち、違うっ。わざとじゃないっ。だってことねがそんなところにいたからっ」

「どんな想像したってのよ変態っ」

「だってっ」

 俺は慌てて後退り、手をトマトにぶつけてしまう。輪切りされたトマトがボトボトとことねの頭に落下した。

「ご、ごめんっ」

「……はあ。もういいわ。ちょっとシャワー浴びてくるから、続けてなさいよ」

「すまん」

「いいって言ってるでしょ。それよりちゃんと作業してなさいよ。変なことしたら刺すから」

「変なことって?」

「それはし――って、い、言わせないでよばかッ!」

 顔を真赤にさせて脱衣所へと消える。なにを想像したんだろうか。

 俺はことねに言われた通りに肉を切り続けた。最初はうまくきれなかったが、数をこなせばそれなりになる。

「まあこんなもんか」

 包丁を置き、袖で額を拭う。

「いやあああああああ」


 三十分程たってから、ことねが脱衣所から飛び出してきた。ピンクのうさ耳付きフードをかぶっている。パジャマだろうか。全体が白い半袖のパーカーだ。下に薄い水色のネグリジェを身につけている。

 ことねが俺の胸にダイブした。

「うおっ」

 俺はなんとか彼女を抱きとめる。

 ことねが小さな身体を俺に押し付けたまま、胸の辺りをぎゅっと掴んできた。

 石鹸の甘い良い匂いがする。

「ど、どど、どうしたんだですか?」

 顔をあげることね。目元に涙が浮かんでいる。

 今なら抱きしめても問題なさそうだが、なんだかそれは犯罪な気がする。

 彼女のほうが歳上なのに。

「蜘蛛、蜘蛛ぉ……」

 震える声でそう発した。

「なんだ、そんなことか」

 見に行ってみると、脱衣場の壁に一匹黒いのがいる。ティッシュでそっとくるみ、窓から逃がしてやった。

「あ、ありがと……」

「ドクロパーカーとか着て制服も改造してるくせに、結構可愛いところあるんだな」

「わ、悪い? 仕方ないでしょ。嫌いなものは嫌いなんだから」

「いや、そのパジャマ」

「うぅ……に、似合わないのはわかってるわよ。でも、私だって家でくらいこんな格好もするのよ……」

 片手を胸に当て、もう一方でスカート部分を小さくつまむ。

 恥じらう姿もまた犯罪臭い。

「いやいや、すっごい似合ってる。可愛いよ。最高だ。マジキュート。写真、撮ってもいい?」

「……ちょっと、だけなら」

 嬉々として携帯端末を構える。

 ことねはポーズを変えることなく、視線を斜め下に逃した。

「ほら笑って」

「うう……」

 すると今度はポケットに両手を突っ込み、一瞬だけこちらを見る。

 が、すぐに羞恥心が増したとみえ、再び目線をそらされてしまう。

「もっと笑って。笑顔笑顔。ぎこちないよことねちゃん。こっち向いて。ほらほら」

「――やっぱだめ! 写真禁止っ! 調子のんな!」

 ことねは俺の手から端末を奪うと、逃げていった。

 やがて戻ってきたことねはジャージの上下を着ていた。

「そんなあ」

 その後、ことねは俺が切った食材で昼飯を作ってくれた。

 余談だが、帰宅してから端末をチェックすると、なんと撮りそこねたはずの写真が収まっていた。パジャマ姿のことねが恥ずかしそうに視線を逸らしている写真だ。撮るなと言いつつ、こんなサプライズを仕込んでくるのだから可愛いやつだ。

 と、俺は頬を緩ませ、ベッドの上でバタバタと暴れた。




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