水無月ことね編② まるで北極の大地に咲いた一輪の薔薇
トイレから出ると、美人で有名な生徒会長・黒宮麻衣が腕を組んで堂々と立っていた。
いったい男子トイレになんの用事があるのだろうか。高貴な人のお考えは俺にはわからない。
軽く会釈し、通りすぎようとしたところで、
「宮原シンくんだな」
声をかけられた。
俺は声を裏返し「はいぃ」と間抜けな返事をした。力強いコバルトブルー色の双眼が俺を捉えて離さない。
「先程第二軽音部から出てきたようだが、なんの用だったのだ?」
「……えっと、その、入部……しようと思いまして」
「ほう。それで、入部したのか?」
「……いえ。部長に初心者はいらないって断られました。でも俺、どうしても入りたいんですよね」
「何故だ?」
「あの部長さんのことはよく知らないんですけど、でもゲーセンでそれはもう鳥肌が立つほどに上手く、ギターを引いていたんですよ。その姿に惚れちゃって。お近づきになりたいなあって。あ、勿論あんな風にギター引けたらなってのもありますよ」
「なるほど。それで、これからどうするのだ? 断られたのだろう?」
「……そうですね。とりあえず新しくパソコン買うために貯めてたお金があるんで、それでギターでも買って、再突入ですかね。お近づきになりたいってのもあるんですけど、一つ気がかりでして」
「気がかり?」
「あの先輩、あんなにギターが上手いのに、どうして”第二”軽音部なのかなって。そこに複雑な事情があるのなら、何か力になれたらいいなって。こんな俺に何が出来るんだって話ですけど」
俺が見た彼女は本物のギターを演奏していたわけではない。それでも、動きはかなりのレベルだったし、周囲の見物人を大いに楽しませていた。あれだけの力をゲームだけにとどめておくのは勿体無い。
第二とはいえ、軽音部に所属しているのなら、彼女にもその気はあるはずだ。
ひょっとすると元々の軽音部に嫌いな奴でもいるのかもしれない。
黒宮は暫く何かを考えこむように唸っていたが、やがて黄金色の髪をなびかせながら身を翻し、
「ついてこい」
と俺を生徒会室まで誘った。
俺が空いている席につくと、黒宮はカップに紅茶を注いでくれた。
「い、頂きます」
学校一の美人が淹れる紅茶は、いろんな意味で美味しかった。俺が幸せを感じて目元をうるませていると、黒宮がハハと笑った。
「君は正直者なのだな」
「そ、そうですか? 確かに嘘つくのは下手ですけど……」
「もし君が御託ばかりを並べるような男なら斬ってやろうと思っていたが、気に入った」
斬るって。
俺は黒宮がサムライのごとく抜刀の構えをとっているところを想像する。
凄く、様になっている。斬られてもいいかもしれない。冥土への土産話になる。地獄の鬼共も嫉妬しまくることだろう。
「あいつ、水無月ことねはプライドの高い女でな。優しくて努力家だが、不器用なやつでもある。プロのミュージシャンを目指しているのだが、考えの不一致からケンカをしてしまい、軽音部を飛び出した」
「じゃあ元々軽音部だったんですか」
「うむ。あいつは親友である私にも弱みを見せたがらない。けど、本当は仲間を欲しているんだ。だが私ではあいつの力にはなりきれない。それが悔しい。あいつは私にとってただ一人の、同じ目線でいてくれる親友だというのに」
「同じ、目線……?」
「だから、君にあいつのことを任せたい」
黒宮が頭を下げる。俺はびっくりしつつも、冷静に返す。
「お断りします」
「なっ」
「頼まれなくても、俺は俺の意思で部長さんと親しくなりたいんです」
「……フッ、なるほど。わかったよ。宮原シンくん。君は本当に正直者だな」
一度帰宅した俺は、貯金箱に詰め込んでいた諭吉さんと福沢さんをかき集め、楽器屋へと旅だった。中古だが、そこそこ値の張るギターと、入門書を購入した。
翌日の放課後。
俺は黒宮に頼られたこともあって、嬉々として第二軽音部の扉を開いた。
ことねがいた。
漆黒のレース付きブラとパンティを身につけ、ワイシャツに袖を通そうとしていたことねが。今日の彼女はツインテールだ。二本の尻尾がぴょこんと揺れる。
「おっと失敬失け――」
極めてクールに立ち去ろうとした俺の顔面に、スクールバッグが命中した。
五分後、鼻にティッシュを詰めた俺が再度入室すると、彼女は腰に片手を当てて部屋の中央に屹立していた。
目がナイフのように鋭い。相当ご立腹なご様子。
「いやぁ今日は暑いですね。もうすっかり夏って感じだ。あ、ジュース飲みます? 買ってきましょうか?」
「……一応聞くけど、何しに来たわけ?」
「ああそうそう、まだ出してませんでしたよね」
俺はショルダーバッグから一枚の紙切れを取り出す。入部届と書かれたそれを、俺は突き出す。彼女は受け取らない。相当不機嫌なご様子。これはなんとかおだてなければ。
「それ、かっこいいですね。センスがもうマジパネェっすよ」
俺は彼女が着ている血のように赤いパーカーを指さした。
ほとんど無地だが、右下の方に蜘蛛の糸らしき絵が黒く描かれている。蜘蛛のイラストはない。と思っていると、ワイシャツの方にいた。胸ポケットから一直線に糸を垂らし、本来スカートの中にしまうべき部分に申し訳程度のサイズの蜘蛛が黒く縫い付けられている。
俺はボタンとボタンの隙間から覗くキュートなおへそに気付き、生唾を飲んだ。
「帰れ」
視線に気付かれたのかは定かではない。だが俺は蹴られ、追い出された。背負ってきたギターを魅せつける暇もなかった。
その翌日も翌々日も、俺はしつこく部室の戸を叩いては強引に入室した。
「今日も貴方はクールだ。まるで北極の大地に咲いた一輪の――薔薇ァ!」
片膝を着き、両手を上に伸ばしてことねを称える。
ことねは壁に寄りかかって黙って窓の外を眺めていたが、俺がポーズをとったまま動かないことに気付くと、わざとらしくため息を付いた。
「はあ。呆れた。あんた、そうまでして入りたいわけ? 軽音部だったら別のがあるでしょ。そっちの方が評判いいし、人数も多いわよ? こっちはどうせ同好会にもならないレベルの――」
「何を言うんですか!」
ことねが目を丸くして、驚く。
「俺は水無月先輩のゲーセンでの演奏に心奪われたんです! 評判? 人数? そんなモン犬にでも食わせてろってんですよ! 俺は先輩の奏でる音楽が聴きたい。先輩と一緒に音楽がやりたい。だから、俺を入部させてください!」
俺は土下座した。
「ちょ、ちょっと。恥ずかしいからやめてよ!」
「どうせ誰も見てませんよ」
「そうだけど――」
「――どうしてもダメだというのなら、最後に先輩の生の演奏を聴かせてくれませんか?」
俺は部屋の隅に立てかけてあるギターケースを一瞥した。
「……しょ、しょうがないわね。一度だけよ?」
俺の必死さとしつこさに折れたのか、ことねは照れ隠しするように頬をポリポリと引っ掻いた。
結論から言うと、彼女の演奏は素晴らしかった。迫力があり、それでいてどこか繊細さを感じさせるような演奏であった。音楽が人の心を揺さぶるというのは、事実だったのだ。
俺が感動の涙をぼろぼろこぼしながら拍手していると、ことねは人差し指に髪を巻き付けながら言った。
「入部、認めてあげてもいいわよ」
「ほ、本当ですか! いいいいいんですか、こんな俺で!」
「嫌ならやめてもいいんだけど?」
「嫌じゃないです光栄ですありがとうございます!」
俺がことねの両手を握りしめてブンブン振るうと、彼女は真横を向いて、
「……言っとくけど、厳しいわよ?」
と顔を赤くさせた。
俺は急にデレた彼女を愛しく思いながら、彼女の手を自分の頬に当てた。
「柔らかくてすべすべだなあ」
瞬間、股間を蹴り上げられ床に沈む俺。
「ごめんやっぱ入部取り消しで」
にっこり笑うことね。
「そ、そんなあ……」
その後俺はギターや服装を褒めに褒めて、学食のカレーライスを奢ることでなんとか再度入部を認められたのであった。
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