黒宮麻衣編⑨ 今まで見上げたどんな月よりも輝いて見える


 放課後、俺と麻衣、海堂、水無月ことねの四人は黒宮家へと突撃した。

 道場持ちというからそれなりに大きな家なのだろうと推測していたが、想像以上であった。石の外壁にぐるりと囲まれ、でかでかとそびえ立つ和風の館。それはさながら江戸城だ。


「まじもんの金持ちか」

 海堂が見上げながらつぶやく。

 入り口は大きな木の門だった。両脇に黒いスーツを着たスキンヘッドの男が立っている。随分と体格がよく、身長は二メートル近い。目を覆い隠すサングラスが威圧感を増幅させている。

「ヤクザかよ。相棒、突っ込んでこいよ」

「俺はまだ死にたくはない」

 不用意に近づけば発砲してきそうな威圧感に気圧され、電柱の陰から観察していると、水無月が歩み寄った。

 小学生みたいな容姿のくせに、たいした度胸だ。それとも、彼女は麻衣の友人らしいし、ここの男共とも面識があるのかもしれない。

 いずれにしてもやると決めたのだ。ぐずっていても仕方ない。

 水無月に続き、俺達も門の前に立つ。

 門の端に、『黒宮家』と達筆で記された看板がかかっている。ますます組の仕事だ。


「お嬢。おかえりなさい。ことねさんに、そちらの二人も友達ですかい?」

「うむ」

 というやりとりの後、すんなりと門が開く。

 考えてみれば麻衣がいるのだから渋る必要などなかったわけだ。

 少しも恐れる素振りを見せずぐんぐん進む三人。海堂までこの事実に気付いていたらしい。

 途端、俺は恥ずかしくなった。


「この時間、父上は道場の方にいる。道場へは渡り廊下を通れば早い。こっちだ」

 道場では多くの二十代前後と見られる男達が、懸命に木刀を振るい稽古に汗を流していた。

 その一角に、白い道着と袴を身につけた、ダンディな髭のおじさんがいた。スーツを着れば英国紳士といった風の小柄な男性だが、目つきはナイフのように鋭い。

 彼は俺たちに気づくと、音もなく歩み寄ってきた。

 まず麻衣を見て、それから順に俺たちへと品定めでもするかのような視線を捧げる。

「なんだ、友達か? 今日は稽古の日だったはずだろう?」

 随分と威厳のある声だなと俺は思った。

 どうやら彼が父であるようだ。なるほど麻衣の大物オーラは彼から引き継いだものらしい。

 俺は海堂と目配せをし、今が戦うべき時なのだと意を決した。


「お父様。お話があるのです」

「なんだね君は。お父様? まさか娘をくださいなどと言うつもりではないだろうな」

 ジロリと睨まれ、怯みかける。

「ま、まさかっ。そんなことは決して――。あ、いや麻衣に魅力がないという意味ではなくっ」

「相棒、話が脱線してるぜ」

「あ、ああ。その、つまり、娘さんに演劇部をやらせてあげてほしいんです」

「だめだ」

「何故ですっ」

「娘にはこの道場を継ぐという大事な使命がある。くだらぬことにうつつを抜かしている暇はない」

「くだらなくなんてない! 麻衣は演劇が好きで、やりたくて、部に入ったんです」

「やりたくて入ったのなら両立できるよう頑張るはずだろう。だが無理だった。つまりはそういうことだろう」

「それは生徒会に勉強に道場にとあるからで」

「勉強は学生の本分だ。言い訳にはならん。それに、生徒会に関しては娘が自分で選んだことだ」

「それでも、やらせてあげてほしいんです。お願いします」

 俺は頭を下げた。

 ここに来るまでにいろいろとセリフを用意してきたはずだが、既に緊張で吹き飛んでしまっている。

 ここから先はもうアドリブだ。やけくそである。


「俺には家を継ぐ責任の重さなんてわからない。これは俺がただ麻衣と一緒に部活をやりたいって言うわがままなのかもしれない。だけど見ちゃったから。演劇を楽しそうにやる麻衣を見てしまったから。演劇部を提案したのは俺です。麻衣は昔から演劇が好きで、でも忙しいからと一度は諦めた。高校の間だけでもいい。せめて今だけでも、楽しんでほしい。だから、提案した。俺にも責任はある。出来ることはします。めちゃくちゃ言ってるのはわかってるけど、でも、お願いします。俺たちにチャンスをください」

「会長さん、成績は問題ないし生徒会長としても優秀っすよ。けど、あまりの出来の良さと美貌のせいか、二歩も三歩も離れて会長さんを見る人が多いんすよね。部活を通してもっとフレンドリーなところを見せた方が、会長さんのためにもなると思うっすよ」

「私からもお願いします。麻衣ちゃんは自分の気持ちをあまり語らないけど、文化祭で劇をやるんだってことは、凄く楽しみにしていたんです」


 沈黙。

 いつの間にか道場の門下生たちも剣を止め、俺たちに注意を注いでいるのだ。

 彼はしばしの間眉間にシワを寄せ、俺たちを眺めていたが、やがて重々しい声で喋り始めた。

「そうか。お前たちが娘のことを思っていることはわかった。だが麻衣。それを人に言わせっぱなしなのはずるいんじゃないか?」

 麻衣が一歩前に出た。


「父上。私はこの者たちと演劇部がやりたい。剣だったらあとでいくらでも頑張る。全力を尽くす。だから高校の間だけは、部活に専念させてほしい」

 そう言って頭を下げる。

「……本気、なのだな」

「はい」

「……そうか。ならば好きにするといい」

「よ、よろしいのですか、父上」

「別にやりたいことをやるなとは言っていない。ただ今までお前が主張をしてこなかっただけだ。だが、言ったからにはやりきれ。途中で挫折したり、中途半端な気持ちでやるようなら許さん」

「はい。無論当然やるからには全力だ!」

「うむ。だが勉強の方も疎かにはするなよ。あくまで自分が学生であるということは忘れるな」

「心得ている」


 いつしか門下生達が手を叩き合い、俺たちは拍手に包まれた。

 麻衣は心底嬉しそうに笑うと、俺たちに対しありがとうと言った。

 こうして俺たちは無事麻衣を演劇部にとどめることに成功し、ファミレスでお祝いパーティを開いた。


「演劇部再開と新入部員を祝してカンパーイ!」

 海堂がグラスを持ち上げ、俺たちは各々のグラスをぶつける。

 中身は当然酒ではない。ドリンクバーのジュースだ。

「――ってちょっと待って! いつの間に私も加わったの?」

「ことねなら一日もあればセリフくらい覚えるだろう。頼む」

「ま、まあね。しょうがないわねー。そこまで頼られちゃ。仕方ないから手を貸してあげるわ」

 水無月が照れ隠しするように胸を張って見せた。



 帰り道、俺は麻衣に誘われ近くの公園へと寄った。気を利かせてくれたのか、あるいは別の意味が隠されているのか、海堂とことねは揃って別の方角へと消えた。

 俺たちは無人の公園で月を見上げながら、ブランコの上で並んだ。

「君に出会えて本当によかったと思うよ」

 キイキイと鎖を軋ませながら、麻衣が言った。

「それは俺のセリフですよ」

「いいや私だ」

「俺ですって」

「ふ。ならお互い様というわけだ」

 麻衣が勢いをつけてブランコをこぎだし、

「靴を飛ばし、遠くまで飛ばした方がジュースを奢って貰えることにしよう。いくぞっ」

 靴を飛ばした。数メートル先の砂場に靴が落下した。表向きだ。

「いきなりですね。でも負けませんよ」

 俺は立ち漕ぎでブランコを加速さけ、片足を振り上げる。ガチャン、片側の鎖が外れ横転した。投げ損ねた靴が頭に落下する。

 我ながら間抜けすぎる。

 俺は吹き出した。麻衣も笑った。俺達は顔を向け合い、夜空に笑い声を響かせた。


「私の勝ちだな?」

「みたいですね」

 俺は差し伸ばされた彼女の手を掴み、立ち上がった。

 結局、俺はまだまだ麻衣には敵わないらしい。

 俺は自販機で爽快ビタミンとメロンソーダのロング缶を購入し、片方を放り投げてから言った。


「今夜は月が綺麗ですね」

「うむ。今まで見上げたどんな月よりも輝いて見える」

「…………あ、あの、一応言いますけど、今のは……」

「冗談……のつもりだったか?」

「いえ、本気です…………と言ったらどうします?」

「わたし死んでもいいわ、と言い換えようか?」

「……いいんですか?」

「うむ。その敬語を辞めたらな」

「え……?」

「私と君は今まで以上に対等な関係になる。そうだろう? シン(・・)」

 麻衣が満面の笑みを浮かべた。青白い月明かりに照らされた彼女の笑顔は、どんな宝石よりも美しく輝いて見えた。


「あ、ああ。そうだな、麻衣」

「シン……」

「麻衣……」

 見つめ合う俺と麻衣。麻衣が吹き出した。

「ふふ。名前を呼ばれるだけでこんなに嬉しいことがあるんだなんて、知らなかったよ」

「ああ。名前を呼ぶだけでこんなに嬉しくなれるなんて知らなかった。だから、何度だって呼ぶよ。麻衣、麻衣、麻衣――」

 闇の中で俺達は互いを呼び合った。何度も何度も、噛み締めながら名を口にした。時が止まり、世界に俺と麻衣しかいないような、奇妙な錯覚に陥る。

 きっと、これが青春というヤツなのだろう。


 こうして俺達は恋人同士になった。


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