第2話 明日





気がついたら、ただ好きだった。

それを種類分けしたことはない。


好きで好きで好きで、大好きで。

毎日言ってた。


『お兄ちゃん、だいすき。

ずっと紗季といてね。』


ふふってお兄ちゃんは笑う。


『紗季はかわいいな。』


そう言って、頭を撫でてくれた。

お兄ちゃんの大きな手が、大好きだった。


好きの種類に興味なんかない。


叶うと思ってたんだ。

未もくもくした雲の向こうにしか見えなくても、その向こうには、お兄ちゃんと私がいるんだと思ってた。


あ、あとヒデも。



私がって中学生のとき、お兄ちゃんが連れてきた彼女は、とってもはつらつとした人だった。

5つ上のお兄ちゃんが、選んだお兄ちゃんよりも2つ年上のひと。


とても礼儀正しく、お父さんとお母さんに挨拶をして、


紗季ちゃん智くんに聞いてたとおり、ほんとかわいいね、ってニッコリとした。


だから、私は一瞬で嫌いになった。

私からお兄ちゃんを奪う、悪魔にしか見えなくなって、怖くて苦しくてたまらなくなって、部屋に逃げ込んだ。





それまでだって、ちらほらと噂も聞いた。


彼女なんだろうなってひとと、駅前で手をつないでいるところだって見た。


でも、なんでだろう。

お兄ちゃんが1番大事にしてるのは、私だと思い込んでいた。


彼女だと家に連れてきたことより、何よりも、初めて見たんだ。


『トオルくん』

『ん?』


名前を呼ばれて、彼女を見るその目がとてもとても、優しかったから。


送ってくる、と立ち上がったお兄ちゃんの背中が、とても凛としていてたから。



思い知ったんだ。

違う、と。



玄関がしまる音。

お兄ちゃん手が彼女の頬にのびて、

その手をくすぐったそうに笑った彼女に、

まるで甘えるように、お兄ちゃんはキスをした。



逃げ込んだ部屋の窓から、見ていた薄暗がりの甘いシーン。



あぁ。

そうか。



悪魔は、私だ。

お兄ちゃんが、欲しかった。

お兄ちゃんの全部を欲しかったから。


好きを種類分けなんかした事なくって、

大人に近づくたびに叶うわけないって、ちゃんとわかるけどそれでも欲しかったから。




お兄ちゃんの幸せを呪う、私は悪魔だ。





今重たい窓を今閉めてしまったら、ガララと音がなってしまう。

そしたら、見ていたと気付かれてしまう。


泣き出しそうなのを、ぐっとぐっと押し込んだ。

泣けない、なんて初めてのことだ。


いつだって、お兄ちゃんの胸で泣いてきたから。


お兄ちゃん達が、駅に向かって歩き出したのを見てすぐ、私は窓を越えて隣の家に瓦を歩いた。


トンと控えめに窓叩いたら、ヒデがめんどくさそうにゆっくり重たい窓を開けた。

窓の音が鳴らないよう、気を使ったことなんかないくせに。


耐えきれない涙と、しゃくり上げ初めてぐしゃぐしゃの顔をした私を見て、眉間に皺を寄せた。


『‥なんだ、今日だったんだ。』


バカだなぁヒデも、知ってたくせに。


ヒデの胸に窓枠からダイブして、勢いで私を抱きとめたまま背を畳で打った。


『痛っ!おい!俺を殺す気かよ』


そんなの御構い無しに、うわーんって、その胸に顔を埋めた。



ふぅ、とため息をついて、仕方なさそうに私の髪を撫でながら、バカだよな俺らって、とんでもなく寂しそうに笑った。



ヒデの気持ちを、ちゃんと聞いた事はない。

私の気持ちを、和に話した事もない。



でも。

私たちは蛍光灯に群がる目玉が見えて、急な古い階段をふわっと一息で飛び越せる。


ヒデの気持ちが、それだけでわかって。

ヒデもお兄ちゃんが、好きで好きで、大好きで。

なのに私みたいに、好きだと言う事もできなくて。


多分、お兄ちゃんに甘え放題の私の事なんか、大嫌いだったはずなのに。


ぎゅって、抱きしめてくれた腕がちゃんと優しかった。




あれから8年。



お兄ちゃんは明日結婚する。







『なぁ。』


ふぅ、と塗り終えたネイルに息を吹きかけてると、座卓に顎を刺したまま和は呟いた。



『‥それ、いつ乾くの?』

『爪?さあ、あと5分くらい?』

『じゃぁさ、そのあと飯行かね?』

『え、ヤダ。』

『今日なら、なんと俺のおごり。』

『あとが怖いから余計やだ。』

『しかも牛丼つゆだく大盛り。今なら味噌汁付き』

『牛丼でつられません。』

『釣られとけば?』



『いや。』



ヒデの視線がちら、っと私にうつった。


『‥トオル、帰ってくんだろ?今夜。』


爪に吹きかけた、私の息が止まる。


『なんだ、知ってたの。独身最後の夜だから、家で過ごすんだって。』

『トオルから、連絡来た。帰るから、お前待っとけって』


『牛丼食べてる場合じゃないじゃん』


ふふって、私が笑うから


『だからだよ。俺、多分セーブ効かなくなる。』


お前もだろ?


ヒデはそう言って、上目遣いで私を見上げた。



胸がどくん、と音を立てる。

どうしてヒデにはわかるんだろう。



伝えるなら今夜がリミットだ。


もう二度と、『紗季』って、

あの柔らかな声で呼んでくれなくても。

涙をぬぐってもらえなくても。

髪を、撫でてもらえなくても。



私は、あなたと血のつながりもない『女』なのだと。

お兄ちゃんは、私があの日を覚えてるとは思ってないだろうから。


ちゃんと、お兄ちゃんにとっての女の位置に私を並べて欲しかった。


『なんで?』


ヒデを見ないで、小さく聞く。


『‥だってお前、今、勝負下着だから。』


肩を見れば、白いレースが見えていた。

カジュアルな格好ばかりの私に、似合いもしないもの。


慌てて、ずれていた襟元を引っ張りあげたら、乾きかけていたネイルが、ぐしゃりとめくれてしまった。



ぽたん、と座卓にシミができた。



お兄ちゃんに、抱いてと、言うつもりだった。

もう、誰かのものになるなら。

最後に、私にお兄ちゃんの痕を残して、と。



チッ、と舌打ちしながらヒデは、散らばっていたコットンに除光液を染み込ませて、ぐしゃぐしゃになったネイルを、丁寧に丁寧に、拭き取ってく。



ぽたん。ぽたん、ぽたぽた‥。



『お前ねぇ。‥トオルに教わっただろ?』


ぽたん。ぽたん。



『人のモンに手ぇだすな、っつってさ。』



ぽた‥ぽたぽた。


止まらなくなった涙を、ヒデは拭ってくれなかった。

素に戻った爪に、ヒデは仕方なさそうにマニキュアを乗せた。

わたしがどんなに丁寧にやってもムラができるのに、ヒデが塗ったところはとても綺麗だ。



『と、いいうわけで、釣られとけ。』

『‥焼肉なら。』

『ふざけんな。』

『じゃぁ、行かない。』

『‥後が怖い覚悟あるなら、焼肉でもいいよ。』


ヒデが、ニコってわざとらしく笑う。


『もう、これ以上怖いもんなんかない』



『だよな。

じゃ。肉食うか。』


ヒデがハハッて笑った。



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