第5話:トロールと囚われの竜姫
「バカ言ってんじゃない!ダメに決まってるだろ!」
珍しくお姉さんがそんな鋭い声をあげたものだから、私は思わず身をすくめてしまった。
怖いって言うんじゃなくって、ただ単に驚いただけだけど…
「でも…!俺たちならうまくやれると思うんだ!」
「そうだよ、なぁ、行っていいだろ、十三姉ちゃん!」
十六号さんと十七号くんがそうお姉さんに食らいつく。
でも、お姉さんはさらに険しい表情を浮かべて言った。
「ダメなもんはダメだ!あいつらは本当に得体が知れない…もし万が一捕まって実験体にでもされたらどうするつもりなんだ!」
だけど、二人も負けてはいない。
「そんなヘマは踏まないよ!」
「いざとなったら、十三姉ちゃん直伝の転移魔法で逃げてくるさ」
そう言い返されたお姉さんは、今度は呆れたような顔を見せた。
「あのな…あいつらは、あんた達が思っていほどバカでもマヌケでもない。あの施設には数箇所、解けば感知される種類の封印魔法がかけられてる場所があるし…それも特に、地下にある勇者に関する場所は厄介なんだ。あたしもほとんど知らないけど、妙な研究をしている連中もいるって言うし、もしあたしが行ったとしたって、聖なる剣でも持ち出されたら、下手したら勇者の紋章を封印されるか、奪われるなんてことになるかも知れないような場所なんだ。
いくら力があろうと、どんなに強力な魔法が使えようと、そのほとんどはあいつらが生み出した代物だってことを忘れるな。あいつらは必ず対抗手段を持ってる。でなきゃ、強力な魔法の類をあたし達や騎士団の連中に伝授したりするわけがないんだ」
「どうしてだよ?王下の軍隊が強くなるのはいいことだろう?」
「単純に魔族相手になら、な。人間界だけのことを考えるとそう簡単な話でもない。魔導協会と王下貴族院、それに王都行政部は、それぞれお互いの首根っこを握り合っているんだ。王都行政部は軍事と政治、王下貴族院は民衆の意見、魔導協会は法律を司っている。そいつは、どれか一つが暴走してしまわないためなんだけど…現実的には、魔導協会が持つはずのない軍事力を持ってしまってる。 そのこと自体が普通じゃないうえに、王下軍や貴族配下の部隊にまで魔法を供給してるんだ。今や、王下軍や貴族達の持つ騎士団連中のほとんどは魔導協会の開発した呪印で魔法を使ってる。
魔法の力は強力だ。どんなに鍛錬を積んだ騎士や剣士だって、生身では魔法の力の前に無力だ。 兵長も、他の兵隊の連中も、少なからず魔法で身を守ったり、魔法で自分の力を増幅させる方法を身につけている。それも全部魔導協会が開発した呪印で、な。
もし万が一、あいつらが呪印を一方的に無効化するような仕掛けでも仕込んでいたら、王下軍も貴族の騎士団も、魔導協会には手も足も出ない。それは、あんた達の魔法やあたしの勇者の紋章だって例外じゃないかもしれないんだ」
「要するに、十三姉ちゃんは魔導協会が人間界を支配するつもりなんだ、ってそう思ってるのか?」
「いや…でも、恐らくそれも可能だ、って話だ。…って、話が逸れてるな…とにかく、あんた達はあいつらには関わるな。
どうしても竜族の子を助けに行かなきゃならないようなことになったら、あたしが出る。人間の魔法じゃない魔王の紋章なら、あいつらだってそう簡単に手は出せないだろうからな」
お姉さんはそう言いながら、チラリとサキュバスさんを見やった。
サキュバスさんは申し訳なさそうに、肩をすくめてうつむいている。
サキュバスさんが焚きつけたわけでもないし、みんなだって頼まれたからこんなことを言い出したわけじゃない。
でも、お姉さんの視線はまるで私たちを咎めるような、そんな感じだった。
お姉さんが、私やみんなを思って言ってくれているのは分かる。
お姉さんは、悲しい顔をしながら、それでも、世界の平和のために、全てを背負うってそう決めた人だ。
でも、お姉さんは一人しかいない。
昨日の晩、人間軍がこの城に攻めてきたときのことを考えたのと同じで、どんなにお姉さんが強くっても、一人では一箇所でしか戦えない。もしほかのところで何か困ったことが起こっても、お姉さんは助けにはいけないんだ。
それと同じことが、竜娘ちゃんに起こっているかもしれない…
私は、ふと、そんなことを思ってしまっていた。
「でも!みんな竜娘ちゃんのことが心配なんだよ、お姉さん…!」
そう声をあげた私にお姉さんは
「分かってる。あたしだって気持ちはおなじだ。だから、二週待ってくれ。その間に必ず魔界に関することの筋道を立てて、それを終えたらあたしが乗り込んで行って助けてやる。それまで、なんとか我慢しておいてくれないか?」
と訴えるような視線で見つめて言ってくる。
お姉さんのその言葉に、私は黙ってしまう他になかった。そんな表情はずるいよ、お姉さん…
私は知ってる。
この戦争で、人と魔族との争いで、一番胸を痛めているのはお姉さんなんだ、って。
そんなお姉さんのそばに私はついていてあげたいって、そう思った。
その気持ちは、少しも変わっていない。
でも、竜娘ちゃんを助けてあげたいって気持ちもまた本当だ。
お姉さんの表情に、私はその二つを同時に突きつけられてしまったように感じて、それ以上、何かを言うことができなかったのだ。
黙ってしまった私を見て、お姉さんはふぅ、とため息をついて顔をあげた。
「じゃぁ、その話はここまでだ。サキュバス。各地に散らばってる魔王軍の残存兵力の再統合のことを考えたいから、あとで上の部屋に来てくれ。兵長にも、軍全体の編成案について考えてもらってるけど、こっちのことはやっぱり事情にあかるいあんたがいないと進まなそうなんでな」
そう言われたサキュバスさんは、まるで叱られたあとの子どもみたいに、肩を落としたままで
「はい。すぐに参ります」
と小さな声で返事をした。
それからお姉さんは
「悪いな」
と一言だけ言い、私の頭をクシャっとなでると、みんなが集まっていた暖炉の部屋から出て行った。
お姉さん…困らせちゃって、ごめんなさい…
部屋を出て行くお姉さんの背を見ていた私の胸には、そんな思いがこみ上げてきていた。
だけど、扉がパタン、と閉まったとたんに、十六号さんが声をあげた。
「なんだよ、十三姉ちゃんのわからず屋!」
「なぁ、十二兄ちゃん!頼むよ、姉ちゃんを説得してくれよ!」
続いて、十七号くんがそう魔導士のお兄さんに訴えた。
「兄さん。私も、なんとかしてあげたい」
「あそこに閉じ込められてるかもしれない、って言うんなら、なんとかしてやりたいよなぁ」
十八号ちゃんと、十四号のお兄さんも口々に言って魔導士さんを見た。
みんなの視線を浴びた魔導士さんは、ため息混じりに肩をすくめて見せる。
「あいつの言うことはもっともだ。そもそも、なぜ、やつらがその半人半魔の子を拐ったのかを考えるべきだな。実験体にするつもりだったのか、調査目的なのか…いずれにしても、まっとうな理由であるはずがない」
「だとしたら、やっぱり助けてあげないと!」
十六号さんがまた声を張り上げる。そんな彼女を、魔導士さんは表情のない視線を向けて諌めるように言った。
「いい加減にするんだな。俺もあいつも、なにがどうあろうがお前たちをあそこに送り返すようなマネはしたくないんだ。うまく行こうが行くまいが、その事には少しも変わりはない」
それを聞いた十六号さんは黙ってしまう。そんなとき、十四号さんがふと、何かを思いついたように静かに口にした。
「…だったら、十二兄ちゃんに頼んじゃダメなのか?」
ほかの子どもたちの視線が、魔導士さんに集まった。
「俺がみんなに指示を出して、この城を守る。十六号の結界魔法と、十七号の体術、十八号の広域殲滅魔法を合わせれば、兄ちゃん一人分とは行かなくてもこの城を姉ちゃんと一緒に守ることくらいはできる。兄ちゃんなら、あそこへ戻ってもそう簡単に捕まったり、魔法を封印されるなんてことはないはずだ」
十四号さんの言葉に、部屋が一瞬、沈黙に包まれる。
魔道士さんは、またふぅ、と呆れたように大きくため息をついた。
「俺はあいつに雇われている身だ。俺やお前たちの判断で勝手なことはできん」
「なんだよ!ケチ!」
「兄ちゃん、頼むよ!」
「どうにかならないの?」
魔道士さんの言葉に、みんなが一斉に喚き始める。
でも、私は魔導士さんの言葉を聞いて、何かに気がついた。
そう、魔導士さんは、お姉さんに雇われている。
お姉さんの命令を聞いて、それを実行するのが、魔導士さん本来の役目。
魔導士さんは、それを、この城に住むことと、みんなの分の食事を、その対価としてお姉さんに求めた。
だからもし…もし、私が、魔導士さんと契約するとしたら…?
「ね、ねぇ、魔導士さん…!」
私は、自分の考えがまとまらないうちに、思わずそう大きな声で魔導士さんを呼んでいた。
魔導士さんとみんなが、私の方をみやる。
そんな中、私は頭を精一杯回転させて、魔導士さんにどう頼めばいいのかを考えて、それから聞いた。
「も、もし、私が魔導士さんにお願いをするとしたら…魔導士さんはその対価に、何が欲しいですか?私、きっとそれを用意します…!だから、お願いします!竜娘さんを助ける為に、力を貸してください!」
***
「人間ちゃん、あった?」
「うーん、わかんない…これは違うよね?」
「それはランのお花だよ。でも、トロールの絵に似てるね」
「うん、そっくりなんだけどねぇ…その、なんていうかトロールさん、絵があんまりうまくない、っていうか…この絵だけじゃよくわからない、っていうか…」
「あー…だよねぇ…」
私が広げて眺めた羊皮紙を妖精さんもそんなことを言って覗き込んでくる。
そこに描かれているのは、まるで小さな子どもが描いたみたいなお花の絵。いや、私もまだ十分だ子どもだけど、さすがにもう少し上手に描けるんじゃないかな…
そんなことを思いながら、私は羊皮紙を畳んでポーチにしまって
「とにかく、頑張って探してみよう。このあたりにあるはずだ、ってトロールさん言ってたし」
「うん、そうだね!」
私が言うと妖精さんはキュッと表情を引き締めてそう言い、パタパタと原っぱを飛んでいった。
私たちは、お城から歩いて一刻ほどはなれたところにある小高い丘の中腹にいた。
昨日、竜娘ちゃんの救出に協力して欲しいとお願いした魔導士さんは、しばらく無表情で宙を眺めてから、最後にはため息混じりに私に言った。
「ウコンコウと言う、魔界原産の花の種を革袋いっぱい用意しろ」
お花の種だなんて、最初はちょっとキョトン、としちゃったけっど、思い返せば魔導士さんはあのお城に住むってことだけで、あれだけ大勢の人間相手に戦おうとしてくれた人なんだ。もちろん、お姉さんとの関係、って言うのもあったとは思うけど…とにかく、そのお花の種、っていうのは、魔道士さんにとってはお姉さんとの約束に少し違反してしまっても私に手を貸しても良いと思える位のものだったんだろう。
ウコンコウっていうのがどんなものかは私も知らないけど、もしかしたら、魔法の薬とかそういうものを作るための材料なのかもしれない。
魔導士さんと話をしたときに一緒にいた妖精さんはそのお花のことを知らなかったから、私たちはお城の図書室に行って図鑑を調べて回った。でも、その名のお花は図鑑のどこにもない。困り果てた私は、懲りずにサキュバスさんに聞いてみることにした。
事情を話したサキュバスさんは、また難しい顔をしたけど、それでもいつも料理に使っている調味料のターメリックが魔界ではウコンって名前なんだ、と教えてくれた。それからさらにサキュバスさんは
「植物のことなら、大地の妖精様に聞いてみるのが早いかもしれませんね」
とひらめいたよう言って、私をハッとさせた。
大地の妖精のトロールさんなら、知っているかもしれない!
そのことに気がついて、私たちは少し興奮しながらまだ夕方前で眠っていたトロールさんの部屋を訪ねた。
トロールさんに話をすると、それはきっと「ボタンユリ」の花のことではないか、とあのゴロゴロ声で言った。なんでも、ボタンユリは、ターメリックに少し匂いが似ていて、だからウコンコウ、つまり、「ウコン香」というのではないか、って。
他に情報もなかったし、なによりトロールさんの話を聞いて、きっと間違いないと思った私は、そのお花の絵を描いてもらい、そしてどこに生えているかをトロールさんに教わった。
そして、今、ここでそのウコンコウ、ボタンユリのお花を探している…んだけど、あっちこっちにお花は咲いているものの、どれもトロールさんの描いた絵には似てないし、そもそもこの絵がどれだけ本物に似ているのかわからないし、なにより、手がかりのターメリックの匂いもしない。
私は探し始めて半刻ほどで、すっかり困ってしまっていた。そもそも、生えている場所がここであっていたとしたって、今がお花を付ける季節じゃなかったらただの草と見分けがつかないかもしれない。それに、お花の季節だとしたって、すぐに種が手に入るはずもない。そのときは苗にして幾つか持って帰って魔導士さんに相談してみるつもりだけど、それもお花自体が見つからないことには、どうしようもない。
でも、諦めるわけにはいかないんだ。もしかしたらこうしているあいだにも、竜娘ちゃんは辛い目に合わされているかもしれないんだ。そう思ったら、探す手を休ませてなんていられないんだ。
「んー、しっかし、兄ちゃんも兄ちゃんだよなぁ。本当は自分だって放っておけないって思ってるクセにさ」
近くにあった岩の上に腰掛けてあたりを眺めていた十六号さんがそんなことを言っている。昨日、ウコンコウがボタンユリという名前なんだ、ということを知った私たちのところに、心配をして来てくれた十六号さんは今日の護衛を買って出てくれた。戦うのはそれほど得意ではない、って自分では言っていたけど、そのぶん、結界魔法やお姉さんと同じ転移魔法が得意なんだそうだ。
一緒になって竜娘ちゃんのことを心配してくれているのもそうだけど、それとは別に、私はまだ会ったばかりのみんなと仲良くできることが嬉しくて、十六号さんにお礼を言って着いてきてもらった。
「大人って、いろいろ難しいんだよ、きっと」
私が言ったら、十六号さんは鼻で笑う。
「そういうの、みんな言うよな。兄ちゃん、昔はもっと無茶苦茶に暴れまわる人だったし、姉ちゃんももっといろいろスパスパっと決めてパパっと行動しちゃう人だったのに、いつもの間にかあれだもんな。大人になんかなりたくないねー」
十六号さんは昨日からずっとそんな感じで呆れっぱなしだ。でも、と言葉を挟みそうになって、私はやめた。
お姉さんが向き合わなければならない問題のことはわかっているつもりだし、それが簡単なことじゃないってのも理解できている。だけど、十六号さんが言っていることもよく分かる。手続き、とか、順番、とか。大人って、難しい。
「でも、十六号さんは一番お姉さんに似てるよね」
「えぇ?あー、まぁ、嬉しいのが半分、複雑なのが半分かな、それ」
私が言ってあげたら、十六号さんはそんなふうに言って苦笑いを浮かべた。その表情に、思わず私もクスっと笑顔になってしまった。
十六号さんだけじゃない。みんなも、私と一緒の気持ちになって、竜娘ちゃんを助けよう、って言ってくれた。だから、諦めたりなんてするはずないんだ!
そんなことを思って意気込み、起き上がってあたりを見回したときだった。色とりどりの花の中でも、なんだかとっても鮮やかで目立った色をした花が咲いているのが目に入った。
遠めだけど、トロールさんが描いた絵に似ていなくもない…う、ううん、この絵は、とにかくあんまり当てにできないけど…とにかく、行ってみよう。
私は草を踏み分けてその場所まで足を運ぶ。そこには、赤、白、黄色の色の三色それぞれの鼻を付けた小さなカップほどもある花を咲かせた植物がたくさん生えていた。
硬そうなまっすぐの葉っぱに、花を支えているのは一本の茎。そしてその上の花は、色濃く、大きく、なんだか私には、それが誰かの笑顔のように見えた気がした。
その一本に鼻を近づけて匂いを確かめる。ふわりと、変な匂いがした。こう、なんていうか、埃臭い、っていうか、ムワっと香る、変な匂い。見ている分にはきれいだけど、香りを楽しむ花ではないのかな。
そういえば昔お父さんが、いい匂いのする花は虫を集めて花粉を運んで欲しいと考えている花で、悪い匂いのする花は害虫を遠ざけるためにそんな匂いを出しているんだ、と言っていた。
もし、その話がこの花に当てはまるのなら、やっぱり魔法の薬か何かの材料になるような気もするしならないような気もするけど…いや、それは置いといて、匂い。そう、この匂い…ターメリックに似てる!
「これだ!」
私は胸が弾む思いでそう声を上げていた。
「あったの!?」
「へぇ、どれだ?
妖精さんと十六号さんの声が聞こえて来るのも気にせず、私はあたりに群生してる花を見渡した。つぼみのままのもあるくらいで、種をつけているのはないみたい。それなら、やっぱり苗にして持って帰るしかない、か…それでも良いって、魔導士さん言ってくれるかな?
そんなことを不安に思ったけど、それは考えても仕方のないことだ。きっとこの花に間違いないはず。それなら時期を見て種を作らせることだってきっとできる。とにかく、これを持って帰ろう。
「へぇ、これがそうなんだ?」
「わぁ、ずいぶんと派手なお花だね」
私の元に二人が駆けつけてきた。
「匂いもそうだし、ほら、トロールさんの絵に似てないこともないでしょ?」
私はポーチを開いて持ってきておいた革袋とシャベルを出すついでに、十六号さんにあの羊皮紙の絵を見せてあげた。すると十六号さんは感心した様子で
「へえ、確かに特徴が同じだな!間違いないだろ!」
と声をあげた。
うーんと、どのあたりの特徴が同じなんだろう?
ふと思い浮かんだ疑問を頭を振って払いのけ、目の前にあった花の根元を身長に掘り進めていく。葉っぱの生え際から手の平ぐらいの範囲で土ごと掘り起こしてみると、そこには根っこではないなにかがあった。
私は、それを知っていた。
これ、球根だ!そっか、このボタンユリは球根でも大丈夫なんだ?増やすためには種がいるけど、花を咲かせるなら何度かはこのままでも大丈夫なはず。お芋やオニオンなんかと一緒だ。
「あたしも手伝うよ」
十六号さんがそう言ってくれて、落ちていた木の棒で他の花の根元を掘り始める。妖精さんはポーチから出した革袋の口を広げて、私がその中に苗を納めるのを手伝ってくれた。
二人がそうして手伝ってくれたおかげで、ホンの少しの間に苗をとりあえず十個分、用意できた。
「とりあえずこれくらいで良いかな…あとは、帰ってこれでもいいか、って魔導士さんに相談しないと」
私はそう言って、十六号さんをチラリと見やった。彼女は私の言葉の意味をわかってくれたようで、ニコッと笑って頷き
「じゃぁ、つかまりな。お城までひとっ飛びだ!」
と言って手を伸ばしてくれた。
その手を掴み、妖精さんが私の肩に捕まったのを確認した十六号さんは、小さな声で何かを唱えた。
とたんに私達の周りにお姉さんが転移魔法を使うときとよく似た魔法陣が現れて、パパっと目の前が明るく光る。
次の瞬間、私たちは、お城の中、あの暖炉の部屋にいた。そこでは、サキュバスさんが十九号ちゃんと二十号ちゃんに、お昼の準備をしている最中だった。ほかの人の姿は見えない。
三人は、いきなり私たちがあわられたものだから、少し驚いていたけど、私たちが抱えていたものを見て、サキュバスさんがらしくない嬌声をあげた。
「見つけられたのですね!」
「はい!最初はちょっと探しちゃいましたけど…」
「トロールの絵が、分かりづらかったんです」
「そうかぁ?よく似てるじゃないか、その花と」
私たちは三者三様の言葉を返した。
「これで…魔導士様が、あの子を…」
サキュバスさんはそう言って、なんだが急に顔色を暗くした。
「その…やはり、大丈夫なのでしょうか?危険ではありませんか?」
そんな心配をするのは当然だよ思う。だって、その魔導協会ってやつらは、人を人とも思わないような方法でお姉さんたちを閉じ込めるようなことをしていた人たちだ。危険がないとは思えない。でも、それでもなんとかしなきゃいけないことなんだ。
「私、これで魔導士さんに相談に行ってみるね!」
私が言うとサキュバスさんが、心配げな表情を、なんとか真剣な力強い顔に戻して、黙って頷いてくれた。
それから私は妖精さんと十六号さんを連れて部屋から出て、魔導士さんの部屋へと向かった。
コンコン、とドアを叩くと、
「はいはいー」
と十四号さんの返事が聞こえる。しばらくして、ドアが開くとそこにはすでに魔導士さんが立っていた。
「魔導士さん、これがそのウコンコウ…魔界では、ボタンユリって言うらしいです」
私はそう言って、魔導士さんにボタンユリを見せる。すると、あのいつも無表情の魔導士さんの口元が微かに緩んだように、私にはみえた。
「なるほど…確かに、以前行商人から手に入れたものと同じだな。そうか、ボタンユリ、というのだな。調べてもわからないはずだ。あの行商人、適当なことをふかしやがって」
魔導士さんはそんなことを言ってから頭を振って、私たちに部屋に入るように促した。
「作戦会議だ。あいつをうまく言いくるめ方法を考えなきゃならないからな」
「はい!」
その言葉に、私はついつい、元気の入れすぎでそんな声で返事をしてしまっていた。
***
お姉さんが怖い顔をして私たちを見つめている。さっきから、一言も話さないで、ずうっと腕組みをして、眉間に皺を寄せたままだ。
緊張感が消えないけれど、それでも私は、お姉さんの目をジッと見つめ返していた。
あれから私は、魔導士さんとお姉さんを説得する方法を考えた。だけど、魔導士さんが言うには、無理やり押し通すしかないってことらしい。
それくらい、お姉さんは一度決めたら頑固になって、考えを変えるのは難しいだろう、って魔士さんは言った。
確かに、魔導士さんの話はその通りだと思う。
今まで私はお姉さんとそんな話をしたことはなかったけど、お姉さんは傷ついても、辛い思いをしても、頑なに魔族の人たちのことを思って諦めなかった。
南の城塞で司令官さんと話をしたときも、どんな言葉を投げかけられてもお姉さんは考えを変えたりしなかったし、東の城塞で元の仲間だった剣士さんや弓士さんに言葉を聞き入れてもらえなかったときでさえ、お姉さんはサキュバスさんや兵長さんが戦おうとすることを止めていた。
あんな状況でも、お姉さんはこれ以上の戦いを広げさせない、って強い思いが揺らがなかったんだ。
もし、それと同じくらいの強い気持ちで私が王都の魔導協会っていうところに行くことを反対しているんだとしたら、それを覆すのは簡単じゃない。
だけど、それを承知で私たちはお姉さんと兵長さん、そしてサキュバスさんが魔族軍再興の思案をしていたお城の上層階にある部屋に来ていた。
私に妖精さんに魔導士さん。それから、どうしてか妖精さんが寝ていたところを起こして連れてきたトロールさんもいる。
「頼む。考え直してくれ」
お姉さんは怖い表情のまま、私達に言った。私は胸のあたりに緊張とは違う重苦しい何かが詰め込まれたような気持ちになる。
だけど、私はお腹に力を入れてお姉さんに返事をした。
「ごめん、お姉さん。私、どうしても行きたい」
お姉さんの表情がさらに曇った。それを見たのか、肩にとまっていた妖精さんが私の服をギュッと掴むのが伝わってくる。
お姉さんは今度は、魔導士さんに視線を送った。
「あんたも、この子に担がれるだなんてな…あたしとの契約はどうしたんだよ?」
「二重契約は違反だ、と聞いていなかったんでな。もし意に背いたんなら、次からはないようにするさ」
お姉さんの言葉に、魔導士さんは何でもないという風な表情で答えた。すると、お姉さんは相変わらずの表情のままに、
「はぁ」
と深くため息を吐いた。
「もう一度言うぞ。あそこは、危険だ。下手を打てばあんた達もろとも捕まって、実験体にされるかもしれない。魔導士、ただでさえあんたはもうあたしの仲間として『裏切り者』になってるんだ。顔が割れてるあんたがあそこに行って無事にいられるとは、あたしは思わない」
でも、魔導士さんは負けてない。
「以前の話だがな、あいつらが使う魔法陣にはある種の共通項がある。もしお前が言ったように、やつらが魔法を無効化する技術を持っているとしたら、その共通項…魔法陣の構造にその仕掛けがあるはずだ。だが、俺はやつらの魔法陣を使わない。俺の魔法陣はほとんどが古文書から俺自身が生成した魔法陣だ。やつらの支配を受ける可能性は低い」
「絶対にそうだ、と言い切れるか?」
「物事に絶対、などと言えることはない。あくまで可能性だ」
「大丈夫だという保証が無い限りは、あたしは諾とは言えない」
お姉さんが魔導士さんに鋭い視線を突き刺す。でも、それでも魔導士さんは表情を変えない。
「では、魔族魔法を使える連中を連れて行く、ってのはどうだ?」
そんなお姉さんに、魔導士さんはそう言葉を返した。お姉さんは少し驚いた様な表情を見せる。私も、少し驚いた。
そんな話はさっきの作戦会議では言っていなかったからだ。魔族の魔法を使える人で、それも、とびきり強いやつを使える人、と言ったら、このお城には一人しかいない。
「サキュバスか?」
お姉さんも私と同じ答えを導き出したようで、チラリとお姉さんのそばに侍っていたサキュバスさんを見やって聞く。しかし、魔導士さんは
「いや」
と静かに首を振った。
「その小さいのと、このデカ物だ」
魔導士さんは言った。
その小さいの、とは、妖精さんのこと。そして、もう一人、デカ物とは、魔導士さんの隣に座っていたトロールさんのことだ。
「バカ言うな。その二人連れてったって悪いけど戦力にはならないし、そもそもそんなナリで王都を連れ回す、ってのか?」
お姉さんがそう声をあげる。
そんなとき、魔導士さんは私の方に視線を送ってきた。いや、私に、じゃない。私の肩に止っていた、妖精さんに、だ。
「力を貸してくれるな?」
そう聞かれた妖精さんは、小さな口をへの字に曲げて、それでもコクりと頷いた。
「どういうことなのですか、魔導士様…?」
不意に、サキュバスさんがそう声をあげた。その表情は、どこか心配げというか、不安げというか、そんな風に見える。
魔導士さんはそんなサキュバスさんの言葉を聞いていたのかどうなのか、妖精さんに静かに言った。
「見せてやってくれ、あの石頭に」
「はいです…」
そう返事をした妖精さんがパタパタっと私の肩から離れて、テーブルの少し離れた空中に静止する。それから、いつものようにポッと体をほのかな光で輝かせ始めた。
トロールさんも席を立つと、目を閉じた。すると、妖精さんのようにからだが輝き始める。
妖精さんが、サキュバスさんにポツリと言った。
「ごめんなさい、サキュバス様。どうか、許して欲しいです」
それを聞いたサキュバスさんの表情が変わった。その表情は、今までに見たことのない、慌てて、狼狽した顔付きだった。
「まさか…!妖精様、トロール様!それは掟に反します!」
サキュバスさんはいつもは出さない位の大きな声で妖精さんに言った。でも、妖精さんは体を光らせたまま、目をつぶってその言葉には答えない。
掟、って何?妖精さんとトロールさんは、何をしようとしているの…?それって、いけないことなの…?
私がサキュバスさんの言葉に戸惑っている間に、その変化は起こった。
光の中の妖精さんとトロールさんがみるみる大きくなっていくのだ。
トロールさんは全身を覆うゴツゴツとした石が、妖精さんは背中に生えていた透明な羽が、キラキラと輝きながら宙に解け、
目に見える速さで手足が伸び、頭も体もまるで膨れるように変化していく。
そして、少しの時間も経たない間に、トロールさんは魔道士さんと同じくらいのお兄さんの姿に、妖精さんはちょうど十六号さんと同じくらいの歳の女の子へと姿を変えた。
よ、よ、よ、妖精さん達…人間に姿を変えることができたの…!?
私はそれを見て言葉を失くしてしまう。おんなじように、テーブルの向こう側でお姉さんがあんぐりと口をあけているのも見える。兵長さんも、驚いていた。
だけど、サキュバスさんとトロールさんと妖精さん、そして魔導士さんの四人は違った。
サキュバスさんは何かに絶望したかのような、そんな表情をしていて、妖精さんとトロールさんはなんだか少し申し訳なさそうな顔をしている。
魔導士さんは…まぁ、相変わらずの無表情だけど。
え、えと…その、こ、これは、どういうことなの!?
「お、おい…いったい、これ、どういうことなんだよ…?」
私と同じように驚いていたお姉さんが、喉が詰まったみたいな声で魔導士さんやサキュバスさん、妖精さんを順番に見つめている。
「俺が説明しようか、サキュバス」
不意に魔導士さんがそう言うと、サキュバスさんはハッとして我に返り、お姉さんの視線に気づいて、口をつぐんだ。
サキュバスさんは、「掟」と言った。「掟」って、なんなの?この姿になることは、魔族達の中では禁じられているの…?
「サキュバス様」
黙ったままだったサキュバスさんに、妖精さんがそう声を掛けた。小さいままのときとおなじ、とても綺麗で、透き通るような声だ。
「私たちはもう、魔族でも人間でもない者になったですよ。
魔王様…いえ、古の勇者様の再来と共に、この世界に平和と繁栄を築くために、その志に応えたいと思って、ここにいるです。それなのに、魔族の掟を守らなきゃいけないのはおかしいと思います。私は、もっともっと魔王様のお役に立ちたいです。そのためには、魔族の姿でいるよりも、この元の姿になって、人間の魔法を使える方がもっと良いと思うです」
も、元の、姿…?それ、どういうこと…?妖精さんは、もともとは人間だった、ってこと?
う、ううん、人間に見えるけど、もしかしたらそうじゃないのかもしれないけど…
私は混乱した頭のまま、とにかく妖精さんが見つめたサキュバスさんを見やった。
サキュバスさんは、ギュッと唇を噛み締めていたけれど、やがて何かを諦めたように口を開いた。
「竜娘様がそうでしたように、また、魔王様が兵長様に仰ったように、魔族と人間の間に子が成せる、と言うことがどういうことか、お考えになられたことがございますか?」
私は、そのことの意味がわらからなくて首を振った。お姉さんは、呆然とサキュバスさんを見つめているし、兵長さんは…なんだか急に赤い顔をしてモジモジしているから、今は放ってくとして…それにしても、やっぱりサキュバスさんの言葉の意味がわからない。
魔族と人間の間に子どもが出来る、っていうことに、何か重要なことがあるの?
そんなことを考えていた私をよそに、サキュバスさんは続けた。
「犬と猫の間に子が成せぬように、馬と牛との間に子が成せぬように、異なる種族同士が子を成すことなど、出来はしないのです」
そ、そ、そ、それって…つ、つまり…
「…魔王様。今まで黙っていて、申し訳ございません。これは、魔族の中でも他言することは禁忌の、絶対の掟。そして、魔族が忘れていたい事実でございました…ですが、そうですね…妖精様の仰るとおり私たちは、魔族が王であり、人間でもある魔王様にお使えする身。その中で私たちがその掟を順守することは、魔王様に対する裏切りにございましょう」
そこまで言うと、サキュバスさんはその場に膝まづいて、お姉さんに頭を垂れた。
「魔族とは…その身に自然の力を宿し、その力を使ってある種族は生活を営みやすいよう、別の種族は戦いに向くよう、自らの姿形を変えた、人間なのでございます」
え…?
ま、魔族が…人間…?
私は、背中からバンっと叩かれたみたいな衝撃を感じて頭が真っ白になった。びっくりしすぎて、何も考えられないし何も思いつかない。
魔族が、人間…?そんなの、考えたこともなかった。
だって、魔族は人間に悪さをする存在で、人間は魔族にいつも悪いことをされてきた…もちろん、今はそんなじゃない、ってわかっているけれど、
でも、少なくとも人間界に残る魔族に関するお話はそんなものばかり。
魔族っていうのは、野蛮で、狡猾で、ずるくて、人間を陥れて困らせる、悪い存在だって、そう言われていたんだ。
でも、魔族は人間だったの?それじゃぁ…それじゃぁ、どうして、戦争が起こったの?どうして戦いなんてしなきゃいけなかったの?どうして…?どうして…?
そんな私の思考を、トロールさんの言葉が遮った。
「魔王様。オイ達も、魔王様と共に在る以上、守られてばかりではいられない。オイ達も、なすべきことをすべきだ」
トロールさんの声色は、あのゴロゴロと言う聞き取りづらい声ではない。少し掠れた、でも、私達人間と同じような、そんな声。
素朴な村のお兄さん、って感じの、その「トロールさんだった人」は、そう言ってお姉さんを見つめた。
お姉さんは、表情を変えなかった。だけど、私には分かった。お姉さん、混乱していた。
急に魔族が人間になって、サキュバスさんが謝ったりして…いったい、なにが起きているのかがわからない、ってそんな雰囲気がする。
私もそう感じているけど、でも、お姉さんは私以上に頭の中がぐしゃぐしゃになっちゃっているんじゃないか、って、そう思えた。
「えっと…待て…気になることは山ほどあるが…今は、とにかく…」
お姉さんはブツブツと呟くようにそう言ってから、魔導士さんを見た。
「人間になれたから、って言って、戦力がどうこうなる問題じゃない。ただあいつらに怪しまれにくくなった、ってだけじゃないか」
「まぁ、このままなら、な」
お姉さんの言葉に、魔導士さんは静かに答えると、さっと右腕を振り上げて、妖精さんに頭を振った。
コクリと、妖精さんは頷いて、自分の右腕を魔導士さんに差し出す。
「ま、まさか…!」
お姉さんがそう声を上げたのも束の間、柔らかな光が妖精さんの腕を包み込んだ。
その光の中で、それよりももっと明るい光の粒が、まるで意思を持つようにいして動いているのが見える。あれって…もしかして…
私は気がついた。それは、オークの森で妖精さんがお姉さんの転移魔法の魔法陣を描いたときの光に似ていた。そして、その光は、妖精さんの腕に何かを刻み込んでいる。
魔法陣…魔導士さんが、妖精さんに魔法陣を描いているんだ…
やがてその光が収まると、妖精さんがふぅ、とため息を吐いた。その様子を見て、魔導士さんが
「気分は?」
と尋ねる。妖精さんは頷いて
「平気です」
と答えた。それから自分の腕に描かれた魔法陣を見やって
「不思議な模様です」
なんて言うと、その手をギュッと握った。
とたん、ふっと部屋の中が暗くなった。窓がある部屋で明るかったのに、突然、だ。思わず窓の外に目をやった私が見たものは、一面真っ暗なガラスだった。
外に、景色が見えない。ううん、見えないどころの騒ぎじゃない。まるで黒く塗りつぶされてしまったかのように、真っ暗…
「自然の力を扱える魔族に、俺特性の増幅魔法陣を使う。やつらの干渉は受けない上に、体に取り込んだ自然の魔力を増幅して扱うことができるはずだ。もっとも、体への負担はどうか知れないが、それでも魔力だけなら中級の魔導士を軽く超える。これを羽妖精とトロールに施せば、最低限の戦力にはなるはずだ」
魔導士さんがそう言った。
そうか…魔族に人間の魔法陣を使う、ってことは、お姉さんが魔王の紋章と勇者の紋章を両方使うのと同じような性質になれる、ってことなんだ。
妖精さんは光魔法が得意だって言っていた。窓の外が真っ黒に見えるのは、妖精さんが窓に差し込む太陽の光を魔法で操って遮っているから…?
そう思って目を向けた妖精さんは、握っていた拳をパッと開いた。途端に窓の外から眩しい太陽の光が入ってきて、目がくらむ。
「魔王様、お願いしますです。私たちが人間界に行くことを、許しで欲しいです」
妖精さんはそう言って、サキュバスさんのように跪いてお姉さんに頭を下げた。
お姉さんの顔が、沈痛に歪む。それを見れば、私たちがお姉さんにどれだけのことを頼んでいるかなんていやでも分かる。
でも、それでも私は、竜娘ちゃんを助けに行きたい。
魔族と人間との間でずっと苦しんできたに違いない竜娘ちゃんを、これ以上その苦しみの中にとどめておくなんて、私にはできなかった。
「お姉さん、お願い…!」
私もお姉さんにそう言った。
表から聞こえてくる鳥のさえずりが場違いに聞こえるくらいに、重い沈黙が部屋を押し包む。みんなの視線がお姉さんに注がれた。
お姉さんは、誰の目を見ることなく、ジッとテーブルの上に目を落とし、口をつぐんでいる。それが、どれだけの間続いたかはわからない。
ほんの一瞬だったかもしれないし、ずいぶんと長い時間だったかもしれない。
ただ、とにかく、その胸が詰まるような重苦しい雰囲気を破ったのは、お姉さんのため息混じりの一言だった。
「…はぁ…わかった、わかったよ。あたしの負けだ。あんたたちに任せる」
そう言ったお姉さんは、くたびれたようにギシッとイスの背もたれに身を預けて天井を見上げた。
それから、やおら傍らに侍っていたサキュバスさんを見下ろして、囁くような声で頼んだ。
「サキュバス、お茶を。あと、話せるところまででいい。あたしに教えてくれ。魔族、ってのが、なんなのかを」
***
かつて、この大陸で争いが起こった。
それは、人と人との争いだったのだという。
一方は、自然と共に生きた者達。
そしてもう一方は、自然の中に生きながら、森や草原を切り開き田畑を作り、
同じ面積で狩りや採集を行うよりも、ずっと多くの食料を作り出すことを発見した者達。
二つの異なった生活を持つ者達は相容れず、大陸中で狩猟場と田畑のための土地が重なり合い、度重なる戦いが起こっていた。
争いが続くうち各々の勢力は一本化をはじめ、ついには大陸を二分する大きな勢力となって、争いは戦争になった。
しかし、その戦争によって大地は荒れ、狩猟場も田畑も減少していったのだという。
食料を得る場を守るための戦いが、逆に人々から安定した生活を奪い去ってしまったのだ。
人々は飢え、その飢えのため狂気的に戦いを継続させた。
その事態を受け、大陸に古くから伝わる神官の一族が力を集めて一人の治世者を立てた。
それが古の勇者。
彼の力は人智を超え、片腕をを振れば森が生い茂り、息を拭けば大嵐が起こったほどだった。
古の勇者はその力を以って戦争を収め、自然と共に暮らす大地の民を大陸の西へと導いた。畑田を営む民を大陸の東へと向かわせた。
そして、この大陸を分かち、二つの生活圏が干渉しえないよう、あの中央山脈を築いたのだ。
田畑を営む民は荒れた野を再び田畑に戻すために、神官の一族から己が肉体を強化する術を学び、その数を増やし、大いに発展した。
大地の民は荒れ果てた野を再び豊かにするために、勇者の“片割れ”の力を引き継いだ施政者から自然の力を取り込む術を学んだ。
そして、自然の力を扱っているうち、大地の民はその体に自然の要素をまとうこととなり、やがて人とは異なる姿形をとることが出来るようになった。
それが、魔族、と呼ばれる存在。自然と共にあろうとした民は、ついに、自然と一体化したとそれを誇ったのだという。
それが、この大陸でかつで起こった出来事。
戦争の始まり。魔族の始まり。
そして、この大陸が分かたれた理由だ。
遠い遠い昔から、人間と魔族は、争っていたんだ。
ううん、争ってしまったから、人間と魔族とに分かれてしまった…
その事実に、私は愕然とした。
だってそれは、とても深くて暗い因縁だ。
南の城塞の司令官が言っていた、人と魔族との間にある怒りだなんて感情よりももっと強く、深く、お互いの心に、生活に、価値観に刻み込まれているもの。
私達の“敵”…
何も、魔族と人間を元通りにしようだなんて思っているわけじゃない。
ただお互いがお互いの生活を邪魔しないような世界になればいいと思う。
でも、果たしてそれすらうまく行くのか…南の司令官さんから怒りの話を聞いたとき以上に、私はこの先のことが不安になった。
サキュバスさんから話を聞いたお姉さんは、サキュバスさんの手を握って言った。
「聞かせてくれて、ありがとう。ようやく、あたしの立ち向かっていくべき相手の姿がはっきりしたよ」
その表情は、険しくもつらそうでもなかった。
お姉さんの顔に浮かんでいたのは、ただの一つだけ。
それは覚悟、だったんだと思う。
私は、お姉さんが話を聞いて、いろんなことをあきらめたんだ、ってことを悟っていた。
魔族も、人間だった。
それは、お姉さんにとっては、これまでたくさん殺してきてしまった魔族の人たちに対する罪の意識をさらに重くさせただろう。
でも、その反面、北の城塞でお姉さんがしてしまったことへの罪の気持ちは、もしかしたら薄らいだかもしれない。
どっちにしたって、お姉さんの手は血で汚れていた。
勇者は人間の希望で、魔族の天敵なんてことは幻想だった。
言ってしまえば、ただの人殺し。
英雄でも、正義の味方でもない。
お姉さんが望んだかどうかに関わらず、お姉さんは勇者としてたくさんの人を殺した。
戦争でなければ、ただの犯罪者だ。
お姉さんは、それを受け入れたのかもしれない、と私は感じた。
これまで「仕方がなかった」と思って目を背けていた戦争中の出来事から、お姉さんは逃れることが出来なくなったんだと思う。
“堕ちた”って言葉が正しいんじゃないか、とそう感じた。
お姉さんは、自分を人間の希望である勇者ではなく、ただの人殺しなんだ、と認めて、そして、自分が人殺しだ、と受け入れたようだった。
それを感じた私は、胸が押しつぶされるほど悲しい気持ちなったけど、でも、お姉さんはなんだか脱力したようにイスに腰掛けたまま
「そっか…そうだったんだな」
なんてうわごとのように繰り返していたけど、サキュバスさんの話を聞き終えるころには何かを決意したような、そんな引き締まった表情になっていた。
そんなお姉さんは堕ちたその先で、それでも平和とは何か、ってことを、上を向いて真剣に見据えてよじ登っていく事を決めたような、そんな表情に、私には思えていた。
お姉さんのために、私が出来ることはいったいなんなのだろう?
これまでは、お姉さんが一人にならないように、って、そう思っていたけれど
果たしてそれだけで、お姉さんの望む未来の助けになるんだろうか?
先代の魔王様が望んだ平和と繁栄がある世界に繋がるのだろうか…?
「人間、大丈夫か?」
不意にそう声をかけられて、私は我に返った。
見ると、素朴な雰囲気をしたお兄さんが、私を心配げに見つめている。
もちろん、人間の姿に“戻った”トロールさんだ。
「あぁ、うん。ごめんなさい、大丈夫だよ」
私はトロールさんにそう言って笑顔を返す。
私達は人間界にいた。
魔導士さんの転移魔法で王都から三日のところにある町に移動して、そこから馬車に乗って王都を目指している。
「むにゅ…んー…」
私の膝を枕に眠っている妖精さんが不意にそんな声をあげてモゾモゾと動いた。
うん、まぁ、その…なんていうか、気分的にすごく複雑…
小さい姿の妖精さんはかわいらしいって感じだったけど、人間の姿に“戻った”妖精さんはどっちかと言えば、美人、って感じ。
それに、私よりもずっと年上なのに、この姿になってからも妖精さんは小さい姿のときに私の肩に止まっていたように、私にべったりとくっついている。
最初の日にそのことを聞いてみたら
「人間ちゃんはふわふわしてて気持ちいいんだよ」
なんて言って、私よりは二まわりは大きいその体で背中から私にのしかかってきたりした。
そんな風に言って仲良くしてくれるのは嬉しいけど、やっぱり年上のお姉さんに甘えられているようで、なんだか複雑だ。
魔導士さんは人間界に来てからも馬車に乗っているあいだも、今までと変わりない。
無表情で、何を考えているのかを読み取ることもできない。
ただ、最初の町の宿に泊まったときに、あのボタンユリの使い道について私が聞いてみたら、その色のない顔を微かに緩ませて
「ただきれいだと思ったからだ。笑顔みたいだろ、あの花。俺は笑い方を知らないから、ああいうのが好みなんだ」
なんて言った。
笑い方を知らない、なんて、そんなことあるのかな?
と不思議に思ったけど、それ以上は聞かなかった。そういうことってあんまり聞かれたくないことかもしれないし、それに、その言葉は不思議だったけど、魔導士さんを見ていたら納得が出来たような気がしたからだ。
「んーむにゅむにゅ…サキュバス様、もう食べられないですぅ…」
ゴトリと馬車が揺れた拍子なのか、妖精さんがそんな寝言を言うので魔導士さんに向けていた視線を思わず妖精さんに戻して、私は笑ってしまった。
とにかくお姉さんのことは、今は忘れよう。
私は、浮かんできていたお姉さんの顔を頭を振ってかき消す。
今は竜娘ちゃんのことを考えていないといけない。魔導士さんの話だと、確かもうすぐ関所に到着するはずなんだけど…
そう思って、私は妖精さんを起こさないように上半身だけで伸びをして、馬車の御者さんの背中越しに前の風景を覗き込む。
遠くに見えていた長い城壁は近づいては来ているけど、到着するにはまだもう少し時間がかかりそうだ。
「南部防衛要塞前衛関所。ここいらじゃ、“石壁”って呼んでるんだ」
私の動きに気が付いたみたいで、ふと、こっちに振り返った御者のお姉さんがそう言った。
「石壁…」
「そ。東の山と西の山のちょうど重なる谷にできた関所と防衛壁。こんな距離でも大きく見えるでしょ?真下から見上げると、血の気が引くほどの高さなんだから」
御者のお姉さんはそんなことを言って、私の表情を見る。
まるで、私がどう反応するのかを待っているような、そんな視線だ。
「へ、へぇ…!は、はやく見てみたいな!」
私が慌ててそう返事をしたら、お姉さんはなんだか可笑しそうに笑った。
「その子からは何も出やしないぞ?」
不意に、魔導士さんがそう言った。すると、お姉さんはすぐに肩をすくめて
「年中愛想のない顔したあなたには、子どもの扱いってのは分かんないだろうね」
と呆れた様子だ。
「夜盗まがいのあんたに分かるとは思えないがな」
魔導士さんはお姉さんの言葉通りに表情を変えずにそう言い返す。すると御者のお姉さんはちょっとムッとした表情で言った。
「夜盗ってなによ!人を泥棒みたいに言わないでくれる!?あたしは前線だろうがどこだろうが潜り込んで敵の情報を盗み出す凄腕の諜報員様だよ!?」
「関所を抜ける算段は付いてるんだろうな?」
御者のお姉さんの言葉を無視して、魔導士さんは端的にそう聞き返す。お姉さんはしかめっ面で不快の意を表しながらも
「部下をもぐりこませてる。通行手形は彼が手に入れてくれてるはずだよ」
と言ってまた私にチラっと視線を送ってくる。なんだか分からないけど、気に入られているようだ。
マントをかぶった黄金色に青い瞳の御者のお姉さんは、私と目が合うと子どもみたいにニッコリ笑ってくれた。
首元には、何かの羽根をかたどった金のネックレスが光っている。
「だから、安心して。あたし、約束は必ず守るタチだからね!」
「約束…?」
「そ、約束。戦争中にね、彼女に守ってもらったことがあってさ、あたし達。そのときに、もし彼女が困ったときには、どんなことでも力になる、って約束したんだ」
御者さんが言う彼女、というのは、もちろん勇者で魔王のお姉さんのことだ。
馬車を準備してもらった日のこと、魔導士さんとこの御者さんがずいぶんと慣れた様子で話しているのを見て、私が二人の関係について聞くと
「戦争のころに、少しな」
と魔導士さんが教えてくれた。
魔導士さんは、トロールさんや妖精さん、そしてこれから助けに行く竜娘ちゃんのことも全部話して協力を申し出ていた。
御者さんは話を聞くなり
「囚われの姫君を助け出す、ね…なんかそれカッコいいね!」
なんて笑って言って、快く準備を整えてくれた。しかも、とんでもない手際で、だ。
まさか兵隊さんだとは思わなかったけど…あれ、諜報員さんって兵隊さんでいいんだよね…?まぁ、それはともかく人間軍の中にも、お姉さんのことを分かってくれる人がいたんだ…
私はその事実になんだかほっと胸を撫で下ろしてしまう。
馬車がゴトゴトと進み、やがて石壁、と呼ばれた関所がすぐ近くに見えてくる。
確かに御者さんの言った通り、魔王城と同じくらいの高い壁がそびえていて、その下には馬車が二台、ギリギリならんで通れるくらいの小さな戸口があるだけだ。
確かに関所、っていうより、壁だね、これは…
そんな小さな戸口のところには、中に入ろうとしている人たちがズラリと列をなしている。もちろん、戸口の向こうから出てくる人たちもたくさんだ。
この向こうに王都があるんだ…
そう思うと、私はこみ上げる緊張を隠せなかった。
「あぁ、いたいた」
不意に御者さんがそう声をあげる。
見ると、戸口へ続く列から少し離れたところに立ち並ぶ木造の建物のそばに、マントを羽織って大きな荷物を背負った商人風の男の人がいた。
「ごめん、待たせちゃった」
「いいえ、問題ありません、大尉」
馬車を止めるでもなくそう言った御者さんに、男の人はそう返事をしながらパッと軽い身のこなしで御者台の上に上がって来た。
それからすぐに私達の方を覗き込んで、魔導士さんの顔を見るなりスッと目礼をする。
「魔導連隊長、お久しぶりです」
「その名で呼ぶな…魔導士で良い」
「…はい、魔導士さん」
男の人はそううなずいて、今度は私とトロールさんうを見やった
「初めまして。私は、王下騎士団諜報班の中尉です」
「初めまして、中尉さん。よろしくお願いします」
「世話になる」
御者さんはお調子者、って感じだけど、この少尉さんはとっても礼儀正しい人だな。
そんなことを思いながら、私とトロールさんもきちんとご挨拶をする。
中尉さんは私達の挨拶にもう一度目礼を返してくれて、それから前に向き直って御者さんに木の札のようなものを手渡した。
「手形です、大尉」
「あぁ、ありがとう!…うん、頼んでおいた通りだね!じゃぁ、準備しちゃおうか!」
御者さんはそう言うなり私達の方を振り返った。
「そこの木箱の中にある服に着替えて。あなた達は森の街から王都の魔導教会の本部に勉強しに行く若き魔導士さん達、ってことになってるから」
「直接あそこに届けるつもりか?」
御者さんの言葉に、魔導士さんが珍しくそんな驚いたような声をあげた。
そんな魔導士さんに、御者さんが肩をすくめ、首を傾げながら
「言ったでしょ?凄腕の諜報員だ、って。潜入工作に抜かりはないんだから」
なんて白々しい口調で皮肉の様に言う。
そんなことを言われた魔導士さんは、これは珍しいのかどうか分からないけど、なんとなく、柄ではないな、なんて私が思うほど
「分かった、俺が悪かったよ」
と素直に謝った。
なんだかそんな様子がおかしくて、私も思わずクスっと笑ってしまう。
いつの間にか、こみ上げていたはずの緊張はどこかに行ってしまっていた。
そんな私を見て、御者さんはどうしてか、満足そうに笑顔を浮かべていた。
ガタゴトと馬車が揺れて、関所の入り口へと近づいて行く。
入り口のところには鎧を身に着けた兵隊さんたちがたくさんいた。
兵隊さんたちは中へ入ろうとする人たちから、何かを受け取り、それを確認してから道を開け、関所の向こうへと送り出している。
並んでいるのは、商人さんに、剣を背負った旅人風の人、親子に、男女の二人組に、今の私達のように、魔導協会のローブに身を包んだ人たちもいた。
「潜入のためとはいえ、いい気分はしないな」
不意に、魔導士さんがそう声を漏らした。すると御者の大尉さんが乾いた笑い声をあげて
「ごめんね連隊長。でも、この方法が一番怪しまれなくって済むんだよ」
なんて肩をすくめて見せる。そんな大尉さんの言葉に、魔導士さんはふぅとため息を吐きながら
「その名で呼ぶな、と言っている」
と無表情なのにどこか不機嫌そうに言った。
「ふむ、小麦の搬入だな?」
「へい、王都の商会様からのご依頼で。この三人は雇い入れた護衛役でございます」
「なるほど。荷を検品させてもらうぞ?」
「へいへい、どうぞどうぞ」
私達の前に並んでいた荷馬車にたくさんの麦の袋を積んだ商人さんが、扉の前で兵士さん達とそんな話をしている。
「うむ、問題ないな」
「そりゃぁもう。こちとら、信用が第一なもんでしてね」
「さもあろうな。よし、許可印を押せ。お通ししろ」
荷車の麦の袋を確かめた兵隊さんが、部下らしい別の兵隊さんに声をかけた。
商人さんが差し出した木札に部下の兵隊さんが何かを押し付け、それから先を馬の手綱を引いて扉の向こうへと誘導していく。
「次の馬車、こちらへ!」
商人さんの荷車が通り過ぎるよりも前に、兵隊さんの声が聞こえた。
とたんにまた、ガタゴトと馬車が動き出し、ほんの少ししてギシっと止まった。
少しだけ、緊張で胸が苦しくなる。
魔導協会のローブに着替える時に起こした妖精さんが、私の隣でぎゅっと手を握りしめているのが分かった。
妖精さんは、人間にいたずらをされたんだ。
きっと私よりもずっと怖いし、ずっと緊張しているに違いない。
私はそう思って、ローブの下からそっと手を伸ばして、私よりお姉さんの姿になった妖精さんの膝に手を置いてあげる。
「大丈夫」
私がそう言うと、妖精さんはハッとして私の顔を見て、全然大丈夫そうじゃない顔をしながらコクリ、と私に頷いて見せた。
「こんにちは。よろしくお願いします」
大尉さんがそんなことを言っているのが聞こえてくる。
「ふむ、客車か。乗客は?」
「はい、森の街より魔導協会本部へ留学される魔導士様方をお連れしてます」
「ほほう、魔導協会本部へ?さぞかし優秀な方々なのだろうな。御顔を拝見させていただけるか?」
か、顔を…?私達は大丈夫だけど…魔導士さんは人間軍には顔が知られているんじゃ…!
私はそう思って、慌てて魔導士さんの方を見た。
でも、そこにいたはずの魔導士さんがいない。いるのは、見知らぬシワシワのおじいちゃんだった。
え?えぇ?あれ、魔導士さんは…?
私がその光景に頭を混乱させているあいだに
「ええ、どうぞ。後ろから回ってくださいな」
と言う大尉さんの言葉を聞いた兵隊さんが、馬車の後ろの幌をあけて中を覗き込んできた。
強面の兵隊さんが、私達ひとりひとりをジッと鋭い視線で見つめてくる。
「ほほほ、これはこれは、ご苦労様でございますな」
おじいちゃんが兵隊さんにそう声をかける。
「痛み入る。その方は?」
「私はこの子らの付き添いで参りました、森の街の魔導協会の老いぼれでございます」
「いずれ名のある導士でありましょう」
「いやいや、とんでもございません。私などは、子ども等に手習いなどを任されておった身でしてな」
「左様でありますか。いや、それとて大事なことでありましょう」
「この者どもも、私が親代わりに育てた導士見習いでございまして、私の自慢です。ほれ、兵隊様に顔をお見せしてご挨拶せんか。お勤めをさまたげてはならんぞ」
おじいちゃんに言われた私はただただ驚きながらだったけど、トロールさんに妖精さんがローブのフードを脱いで兵隊さんに挨拶をしたので、それに倣って頭を下げる。
「これは丁寧に。いずれも知性あふれた目をしておられますな。必ずや良い導士になられましょう」
兵隊さんはそんなことを言っておじいちゃんに頷いて見せる。おじいちゃんもそれをみて
「そうであればと願っております」
とうなずき返した。
それを見るや、兵隊さんは
「では、失礼」
と幌を閉めて姿を消した。
それからすぐに表で
「うむ、大丈夫だ。印を押してお通しせよ」
と叫ぶ声が聞こえる。
「お世話になります」
大尉さんのそんな間延びしたお礼も聞こえてきて、ゴトリ、と馬車が動き出す。
ふっとあたりが薄暗くなった。御者台の大尉さんの背中が越しに外を見やると、どうやら石造りの洞穴のようなところを進んでいるらしい。
関所のあの石壁の中なのだろう。
少しもしないうちに大尉さんの向こうから明かりが差し込んできて、パッと青空が開けた。まぶしくて思わず目をつむってしまう。
どうにか光に慣れてもう一度目を開いたときには、私達の乗る馬車は石壁を抜けていた。
「やれやれ、まったく。よく喋る衛兵だな」
不意に魔導士さんの声が聞こえて私は驚いて振り返った。
するとそこには、おじいちゃんではなく、さっきのままの魔導士さんの姿があった。
魔導士さんは私の視線に気づいて、あぁ、と声をあげると
「簡単な変身魔法だ。肉体の操作は人間の魔法の得意とする分野だからな。まぁ、あの程度の衛兵を誤魔化すくらいワケはない」
と教えてくれる。
へ、変身魔法、なんて言うのもあるんだ…?い、いや、でも、そもそも魔族が人間で、魔力であの姿を保っていることを考えれば魔力を使って姿を変えることは意外に簡単なのかもしれない。
トロールさんがあの大きな体を身にまとわせるのと同じなのかな…?
そんなことを思っていたら、
「あぁ、そう言えばさ」
と大尉さんが御者台からこっちを振り返った。
「そっちは本部に着いたらどうするつもりなの?一応、どう動くかだけでも教えておいてくれれば、万が一のときに支援しやすいんだけど」
大尉さんの質問に、魔導士さんは微かに目をあげて静かに言った。
「あそこには、呪印の発動を感知する魔法陣が敷かれている。俺の魔法ですら感知される恐れがあるから、戦闘になる前には使うことは避けたい」
「だから、私の魔法を使うですよ!」
魔導士さんの言葉に反応したのは、私の隣に座っていた妖精さんだった。
それを聞いて妖精さんの方を見やった私は、また驚かされた。そこには妖精さんの姿がなかったからだ。
「へぇ、魔族式の魔法だ、それ?光属性の魔法なの?」
私ほど驚かなかった大尉さんが、珍しそうにそう声をあげる。
「はいです。光を屈折させて、姿を消すですよ」
そんな声が聞こえて目の前の空間がゆらりと歪み、妖精さんが姿を現した。
「魔族式の魔法は自然そのものの力だ。感知するのはそう簡単じゃない」
魔導士さんがそう説明し、妖精さんが少し得意そうに胸を張る。しかし、それを見た大尉さんは微かに表情をこわばらせて言った。
「そうだと良いけど…あそこには、あのオニババがいるからねぇ」
オ、オニババ…?なにそれ、魔族の名前…?
「あぁ、あの女か。確かにあいつだけは、得体が知れないな…」
女?あ、あぁ、オニババって、そのまま怖い女の人って意味だったんだ。
思わず言葉に戸惑っていた私は、そのやりとりに納得して二人の会話に聞き入る。
「神官の一族の末裔、なんでしょ?彼女が身に着けている紋章を作り出した、っていう」
「あくまで噂の類だ。肩書は、確か今は魔導協会の顧問理事、だったか…あの組織の実質の最高責任者だ」
神官の、一族…?
ふと、私はその言葉に引っかかった。
それ、どこかで聞いた気がする。
えっと…確か、それ…もしかして…!
「サキュバス様と同じですか…?」
私が気が付いたのと同時に、妖精さんがそう声をあげた。
妖精さんも、あのとき一緒にサキュバスさんから聞いた話を思い出していたに違いない。
「サキュバスが神官の一族だと?」
「うん、サキュバスさんは自分がそうだって言ってた。命の魔法を使える、魔族の中でも変わった存在なんだ、って」
「命の魔法…そうか、ゴーレム達のあれは、その理屈だと言っていたな…待てよ、だとすると…」
不意に、魔導士さんがそう呟いて、珍しく表情を私が見て分かるくらいに曇らせた。
「魔族の魔法にも精通している可能性がある…」
魔導士さんの言葉を継いだのは、大尉さんだった。
「もしそのサキュバスって人も神官の一族なのだとしたら、その命の魔法というのは彼女の持つ二つの呪印を作り出した魔法そのものの可能性が高い…」
サキュバスさんと、その顧問理事、という人が同じ一族…
ふと、私はサキュバスさんから話を聞かされたときのことを思い出した。
そう、あのとき私は、まるでもともとは同じ一族だったけど、二つに分かれてしまった天使と悪魔の話を思い出していた。
やっぱり、サキュバスさんと同じような人たちが人間界にもいたんだ…ううん、それだけじゃない。
今考えれば、人間と魔族だって、それと同じだ…
「ど、どういうことです…?」
魔導士さんの言葉に、妖精さんが戸惑った様子で聞く。
「命の魔法…それはおそらく、ある種の生命の活性に関する魔法だと考えていい。勇者の紋章とは、その力を内向きに使うことで自己を強化している。魔王の紋章は外向きに使うことで自然の力を操るものなのかもしれない。それはつまり、命の魔法を使って自己、あるいは自然そのものを活性化させるってことだ。そして、その命の魔法、という概念は、おそらく俺たち人間が使う魔法陣すべてに共通している」
「人間の魔法は、自分の中の力を増幅させるための物…」
思わずそう呟いた私に、魔導士さんは静かにうなずく。
「魔族の魔法については理屈を解しているわけじゃないが、魔王の紋章と同じ方法を用いているとすれば、根っこは同じだ。感知することも、封じる方法も…」
「いや、それは違う」
不意に、それまでずっと黙っていたトロールさんが口を開いた。
「オイ達は、この模様は使わない。自然の声を聴き、力を借りる。オイ達は外向きに力を使ってない。自然から力を取り込んで使ってる」
「自然から力を取り込む…?」
トロールさんの言葉に、魔導士さんが首をひねった。
でも、私にはトロールさんの言っていることがすこしだけ理解できた。
自然の魔法を使う、って言うのはそういうことなんだ。
言葉で言ってしまえば、自然を操る、ってことなんだけど、何も自然の力を支配しているわけじゃない。
むしろ、自然の魔法を使うときは、もっとこう、自分が自然に飲まれて、自然と一体化しているような感覚になる。
風の流れを感じて、水の冷気を感じて、光のまぶしさも、土の感触も、そういうのに包まれて、自分もそれと一つになっている、って感じるものだ。
「そう、オイ達は自然と共にある一族。オイ達の魔法を封じるためには、自然の力を封じなければならない。そんなこと、たぶんできない」
トロールさんの言葉に、妖精さんがうなずいた。私も、魔族の魔法についてはまだ知り始めたばかりだけど、あの力がそう簡単に封じ込められるとは思わない。
トロールさんの言うように、それは自然そのものの力を封じ込めようとするようなものだ。空気も水も、光も土も、私達から奪うことなんてできない。
私達もまた、そういうものから成り立っているからだ。
「だが、感知はどうだ?」
俯き加減で何かを考えていたような魔導士さんが顔をあげてトロールさんに尋ねた。すると、今度はトロールさんが顔を伏せて何かを考え始める。
感知…それは、出来る、かもしれない。同じ魔族の魔法を使える人になら…自然の声を聴くことが出来る人になら…もしかしたら…
「オイ達は、魔族の魔法を感じ取ることが出来る」
考えた末に、トロールさんはそう言った。
「はいです…もし、その神官の一族、という人が魔族の魔法を使えるのなら、私達の魔法も感じ取られてしまうかもしれないです」
妖精さんも険しい表情でそう魔導士さんに伝える。
だとすると、妖精さんの光の魔法で姿を消しても、魔導協会の本部というところに入ったら気づかれてしまうかもしれない…
もしそうなったら、竜娘ちゃんを助け出す、なんてことは難しくなってしまうかもしれない。
戦いになれば、魔導士さんの強力な魔法があったとしても、どうなるかは分からない。
それこそ、お姉さんのような力がない限りは、忍び込んでいるのがバレてしまうかもしれない、っていうのに準備もなしに飛び込んでしまうのは危険だ。
「…策を練り直す必要がある、か」
魔導士さんがポツリとそう言葉にした。
トロールさんも、妖精さんもそれを聞いてコクリとうなずく。そんな私達に、大尉さんが笑って言った。
「そう来なくっちゃね!あたしも力になるよ!なんてたって凄腕の諜報員だからね!」
「夜盗の間違えだろう?」
頼もしい言葉をかけてくれたのに、魔導士さんがそう皮肉ると大尉さんはわざとらしく不機嫌そうな表情を浮かべてから、すぐさま笑顔に戻った。
それから私達にかぶりをふって見せる。
「ほら、見えて来たよ。あれが王都。人間界の中枢」
その言葉に、私とトロールさんと妖精さんは思わず揃って立ち上がって、大尉さんの背中越しに馬車の進む先に視線を投げた。
そこには、空に伸びる大きな宮殿と、それを取り囲む巨大な城下街、そして、そんな城下街を守るようにしてそそり立つ城壁が見えて来た。
まだずいぶんと遠くに見えるのに、あの石壁なんて比べ物にならないくらいの、それこそ、道の先に大きな山があらわれたような、そんな光景だった。
***
「ね、ねぇ…こんな方法で本当に大丈夫なんですか…?」
私は、今にも泣き出しそうになってしまって、すがる様に魔導士さんに聞いた。
しかし、魔導士さんはいつもの色のない顔で
「大丈夫だ、問題ない」
と答えるばかりだ。
昨日、私達は王都にたどり着き、宿を取った。
転移魔法で魔王城に帰ってしまうと、宿に戻るときに魔導協会の人たちに気づかれてしまうかもしれない、という魔導士さんの判断だ。
その代わりに、妖精さんが魔族の魔法で念信を送って、事情を説明したらしい。
念信もあまり安全ではないかもしれないけど、宿から魔導協会の本部からは距離もあるし、転移魔法のような人間の魔法よりはずっと気づかれにくいんだろう。
それから、姿を変えた魔導士さんに案内されて、少しだけ王都を案内してもらった。目抜き通りだという大きな道にはたくさんの店が立ち並んでいて
人も物もたくさん。見たことのない食べ物や果物、おしゃれな服や装飾品、高価そうな武具のお店まで、何でもあった。
そして、それを買い求めるためなのか、行きかう人々の数も無数にいて、田舎者の私は目が回ってしまいそうだった。
妖精さんなんかは本当に目を回して、途中でくたっと倒れてしまいそうになったくらいだ。
目抜き通りを抜けて行くと、城下街の中にさらに城壁があり、その中がこの人間界の統治者、王様が住んでいる王宮があるのだと魔導士さんが教えてくれる。
きっと、こんなところまでやってきた魔族はトロールさんと妖精さんが初めてだろう。
トロールさんも妖精さんも、誰が見たって人間だから、そう簡単にはバレたりはしないだろうけど、それでも私はビクビクとせざるを得なかった。
それから魔導士さんが案内してくれたのが、魔導協会の本部という建物だった。
私はてっきり、砂漠の街にあった憲兵団の屯所のような場所なのかと思っていたけれど、行ってみた先にあったのは、魔王城と同じくらいの立派な建物だった。
「あれが囚われのお姫様、らしいよ」
一緒に着いて来てくれた大尉さんが、小さな声でそう言い、空を見上げた。
私も釣られて上の方を見ると、お城のような塔のてっぺんの辺りにある窓辺に誰かがいた。
炎のような赤い髪に、小さな体のその人物は、窓から入る明かりを頼りに、何かに目を落としているようだった。
「竜娘…」
トロールさんが小さくうめく声が聞こえる。
トロールさんは竜娘ちゃんを守れずに…ううん、戦わずに、魔導協会の人達に連れて行かれてしまったんだ。
私だけだったら…とてもじゃないけど、顔を見ることすらできないかもしれない。
トロールさんのためにも、竜娘ちゃん自身のためにも、早く助け出してあげなくっちゃ。
それから宿に戻った私達は、夕食を摂ってからすぐに潜入のための作戦会議に入った。
潜入方法をあれこれと考えたけれど、魔法を感知されてしまう危険性を考えると、やはりどれもうまく行きそうにない。
そんなとき、凄腕諜報員だという、大尉さんが出した発案のせいで、私は今、こんなことになってしまっている…
泥だらけの服を着て、髪もぐしゃぐしゃにしてある。
道行く人が私を、まるで哀れな何かを見るように視線を投げかけてくる。
私は別の意味で怯えてしまっているのだけど、どうやらそれも、このお芝居に良い方向に働いてしまっているらしい。
私は、私と同じように泥だらけで怯えた表情の妖精さんを見上げた。
妖精さんも、目に涙をいっぱいに貯めて私を見る。
はたから見れば妖精さんは私の手を引くお姉さんに見えているんだろうけれど、実際はもう、お互いに今にも逃げ出したい気持ちだ。
私たちは、姿を変えた魔導士さんと大尉さんに誘導されて、魔導協会の建物の正門だというところにやってきた。
昨日、大尉さんが考え出した作戦は簡単。
魔導協会にある孤児院、というところに、孤児として入れてもらえるよう持ち掛ける、というものだ。
そして、中に入ったら、魔導士さんが描いてくれた地図に従って裏門へ回り、そこのカギを外す。
私と妖精さんが協会の人をひきつけている間に、魔導士さんとトロールさんが竜娘ちゃんを助けに行く…
要するに、私と妖精さんは囮、というわけだ。
「うまくやれよ」
魔導士さんが、小さな声でそんなことを言うと、トロールさんと一緒に通りの人ごみの中へと姿を消す。
正門の前に残されたのは私と妖精さんに、大尉さんだ。
「さぁて、行くよ!」
どうしてそんな風にいられるのか、まったく怖気づく様子のない大尉さんに促されて、私と妖精さんは身を寄せ合って大尉さんに着いて行く。
「あの、すみません」
大尉さんが門のすぐ前に居た協会のローブに身を包んだ男の人に話しかけた。
「ふむ、どうされましたか?」
「実は、旅先の山村で、魔族に襲われて生き残った姉妹を見つけたんです 近場の貴族様の孤児院は、この時勢どこも手一杯な様子で、魔導協会が管轄している孤児院はどうかな、と思って来てみたんですけど…」
大尉さんはそう言いながら、そばにいた私たちの頭を交互に撫でて、まるかわいそうなような顔をしてから男の人に視線を戻す。
「戦争孤児、ですか…当協会の孤児院も、手一杯ではありますが…」
「そこをなんとかお願いできません?あたしもまだこれから行くあてがあって、長いこと連れては歩けないんだ。せめてあたしの用事が終わるまで…ひと月でいいから、ね?そのあとは、あたしの御用人として引き取るつもりだからさ」
困り顔の男の人に、大尉さんはずいぶんと腰の低い言い方をしながら頼み込む。
「うぅむ……分かりました。では、担当の協会員に相談をされてみてください…」
男の人はそういうと、私たちに道を開けてくれた。
「恩に着るよ、ありがとう!」
大尉さんはそう明るい声で言うと、また私たちを促して門の中へと足を踏み入れる。
すると、すぐに別の男の人が私たちの前に姿を現した。
「門衛から話は伺っております。どうぞこちらへ。応接室へご案内いたします」
男はまるで警戒する様子もなく私たちを先導して、協会本部だという建物のドアを開けてその中へと私たちを招き入れた。
私はもう、怖くって怖くって、妖精さんと体を寄せ合って震えているのに、大尉さんは本当に何でもないって、感じで、ヘラヘラと
「いやぁ、急にすみませんねぇ」
なんて笑っている。
まるでお城のような廊下を進んだ先にあった部屋に私たちは通された。そこはそれほど広い部屋ではなかったけど、しっかりとしたソファーにテーブルもある。
「では、担当を呼んでまいりますのでしばらくお待ちください」
私たちをここへ案内してくれた男は、そう言い残して部屋を出ていった。
パタン、とドアが閉まると、即座に大尉さんが立ち上がってドアに耳を当て、外の様子をうかがい始める。
私と妖精さんは、震えたままソファーに座ることもせずに、ただただその様子を見ていることしかできない。
しかし、大尉さんはしばらくすると、ふぅ、っと軽く息を吐いて、そして、何でもない、って顔で私たちに告げた。
「さて、じゃぁ、裏門の鍵を開けて来てね。あたしはここで、なるべくあいつらを引き留めておくから!」
私は、妖精さんと身を寄せ合いながら、そんなことを笑って言える大尉さんがなんだか悪魔のように思えてしまって、余計に体が震えてしまう有様だった。
私と妖精さんは、通された応接室から出た。
もう、心臓がドクドクと大きく早く脈打っていて、口から出てきてしまいそうなほどだ。
それでも…竜娘ちゃんを助けるためには、裏口の鍵を開けて魔導士さんとトロールさんに忍び込んでもらうしかない。
いっそのこと、大尉さんに鍵を開けに行ってもらって、私と妖精さんは待っていたい、とも言ってみようかと思ったけど、応接室に残されたままでいるのもそれはそれで恐ろしい。
私は、出来る限り大きく息を吸い込んで、そして大きく吐き出す。それから、両手でペシっと自分の頬を叩いて気持ちを整える。
そうだ、怖いけど、私には守ってくれる人がいる。
でも、竜娘ちゃんはそうじゃないかも知れないんだ。
こんなところで、気持ちで負けているわけにはいかない。
私の着ていたボロボロの服の裾を妖精さんがギュっと握った。
私は、妖精さんの手の上に、自分の手を添えてあげながら
「行こう、妖精さん。パッと行って、パッと済ませて来ちゃえば、きっと大丈夫」
と言ってあげた。
妖精さんはそんな私の言葉に、相変わらず体をこわばらせたままだけど、コクリ、とうなずいてくれた。
私は、ポケットにしまっておいた地図を取り出してそっと広げる。
魔導士さんは、一階の大まかな見取り図を描いてくれた。
その地図の上で、自分たちが今どこに居るかを確認する。
私達は建物の入り口から入ったところの廊下を右に曲がった。その廊下の突き当りを左に行って、建物の奥の部屋…応接間に通された。
裏口は、入り口から入って左に曲がって行き、さらにその先を右へ曲がった廊下の奥にある。
応接間とはちょうど正反対の場所の廊下のようだ。
廊下はひっそりとしていて、誰かが歩いている気配はない。
もっといろんな人が歩いていてくれれば紛れ込みやすいのに、これほど人がいないと、かえって私達の存在が目立ってしまう。
ただでさえ、魔導協会のローブなんて着ていなくって、こんなボロボロで汚れたかっこうだ。協会の人でなくたって、心配してか、怪しんでか声をかけてくるに違いない。
そうなったらもう、誤魔化すほかにやりようがない。
本当なら妖精さんの魔法で姿を消してしまえば簡単なんだろうけど、それは神官の一族の人に感づかれてしまうかもしれないから、
今はまだ使っちゃダメだと言われている。
とにかく、このままなんとかして裏口まで行くしかないんだ。
私は、そう決心を決めてそっと一歩踏み出した。
木の板が敷き詰められている廊下に靴底が触れて、微かな音を立てる。
そんな音以上に、自分の心臓の音や息をする音が大きいように思えてしまって、呼吸もなるべく小さくして、ゆっくりととにかく音が立たないようにと慎重に廊下を歩く。
やがて、まっすぐと、右へ折れる道とに廊下が分かれた。これを、右へ行けば入って来た入り口のはず。
私は息をひそめてこっそりと曲がり角から顔を出して、先の様子を伺った。
入り口の前には警備のためなのか、魔導協会のローブを着こんだ人が二人、身じろぎもせずにじっと立っている。
でもあそこの前を通らないと、反対側へは行けそうにない…なにか、うまく誤魔化さないと…
私はそう思って、チラリと妖精さんを見た。
妖精さんは身を縮こまらせて、微かにフルフルと震えている。
ふと、その姿を見て、私の頭が閃いた。
パッと地図を広げて、それを確かめてみる…あった。廊下の向こう側だ…これ、これなら、平気…かも?
私は地図をポケットにしまって、ゴクリ、と息を飲む。
それからもう一度妖精さんを振り返って、声を落として言った。
「妖精さん、私の言う通りにしてね」
「に、人間ちゃん、行くの?あっち、行くの?」
妖精さんは私に反対するような口調で、そう言って来る。
でも、行かないことには何もできない。
「大丈夫、なんとかするから、着いて来てね」
私は妖精さんにそう伝えて前に立ち、妖精さんの手を引いて、警備の人たちがいる入口へと歩いて行く。
近づくと、一人が私達に気が付き、もう一人に声をかけて二人してこちらを見やった。
そのうちの一人は、私達を応接室に案内してくれた人だった。
「どうしました?」
まるで私達を探るような視線で男の人が見つめてくる。
「あの…その、ご、ごめんなさい、ゆ、許して下さい…」
私は、そう言って頭を下げる。
「どうされたのだ?」
男の人はさらにそう質問を投げかけてきた。
「その、あの…お姉ちゃんがお手洗いに行きたいって…えっと、勝手に歩き回って、ごめんなさい…」
私はさらにそう言って頭を下げる。
奴隷とか、捨てられてしまった子ども、っていうがどういうものなのかは分からなかったけど、とにかく、精一杯、そう見えるように演技をして見せた。
きっとそういう子は、周りの人に邪険にされたり、悪い人に利用されたり、汚い物って見られたりしているんじゃないか。
そういうのが怖くて、きっとなんにだってビクビクしているに違いない、ってそう思った。
もちろん、怖くってビクビクしているのは、演技なんかではないんだけど…
すると、男の人はやおらその表情を優しくゆがめて言った。
「なるほど。お姉さん思いのしっかりした妹さんですね。お手洗いは、この先を右に行ったところにありますよ。空色に塗ってあるドアがそうですから、間違えないようにしてくださいね」
「ご、ごめんなさい…その、あ、あ、ありがとうございます」
私はまたそうやって謝って頭を下げる。
二人が道を開けてくれたので、私は妖精さんの手を引いて入り口の前を通って廊下の奥へと進む。
怪しまれないように、今までと同じ速さで、慎重にゆっくりと足を進める。
ドクン、ドクンと、心臓がさらに高鳴っているのが分かる。
廊下の角まではあと二十歩ほど。
早くあの角を曲がりたい。姿を隠したい。
そんな焦る思いを無理やりに抑えつけて、とにかくゆっくりと、身をこわばらせたまま廊下を進む。
「あぁ、ちょっとお待ちなさい」
不意に、背後からそう声が掛かったので、ビクリ、と体と心臓が飛び上った。
私の手を握る妖精さんの手に力がこもるのが感じられる。
私は、それでも逃げる分けにもいかず、ドキドキしながら警備の人たちの方を振り返った。
「は、は、はい、ごめんなさい、なにか、いけないことしちゃったんでしょうか…?」
私がそう聞いてみると、警備の人はまた優しい笑顔で
「そんなにおびえなくとも大丈夫ですよ。ここの孤児院でお預かりできるかは分かりませんが、
少なくともここには、あなた方をひどい目に遭わせるような者はおりませんから御安心なさい」
と言ってくれた。
ふと、そんな言葉を聞いてお姉さんや魔導士さんの話が頭をよぎった。
ここは、魔導協会。
お姉さんや魔導士さん、十六号さん達を閉じ込めて、無理やりに勇者の修業をさせて、要らなくなったら捨ててしまうような人がいるところ。
お姉さんが、私達がここに来ることに反対していたのは、捕まれば実験台にされてしまうかもしれない、って思っていたからだ。
私が竜娘ちゃんを助けたいって思ったのだって、そんなひどい目にあっているかもしれない、って考えたからだ。
ーーーひどい目に遭わせるような人はいない…?
私は、その言葉になぜかお腹の辺りが熱くなるのを感じた。
ムカムカと、落ち着かない心地がこみ上げてくる。
よくもそんなことが言えるよね…
お姉さんや魔導士さんやみんながここでされたことをどんな風に感じていたか、どんなに辛かったか…子どもの私でさえ想像が出来るのに、同じところにいるあなた達にはそれが分からなかったの?それとも、分かっていてそんなことが言えるの?
どっちにしたって、今の言葉は…信じられない。
信じられないどころか…ひどい言葉だ…お姉さんやみんなの気持ちを蔑ろにして傷つけるような、そんな言葉だ…
私の胸にこみ上げていたもの。それは、怒りだった。
あまりにも白々しい。あまりにもわざとらしいその言葉に、私はどうしたって不快感を隠せなかった。
でも、次の瞬間、私の手を握っていた妖精さんの手にこれまで以上にぎゅっと力がこもったのが感じられて、私は我に返った。
そうだ、今は怒っているときなんかじゃない。
とにかく、裏口の鍵を外しに行かなきゃいけないんだ。
「そ、その…えっと、はい…ありがとうございます」
私はそう、おびえた演技を続けながら言って、もう一度頭を下げると妖精さんの手を引いて廊下の突き当りまで歩き、そこを右に曲がった。
廊下の先に、もう人の姿はない。
私はそれを確かめて、大きくふうっと息を吐いた。
胸の中に溜めこんでいたいろんな気持ちが少しだけ吐き出せて、微かに気持ちが落ち着いてくる。
あの男の人が言った言葉、許せない…妖精さんが気が付かせてくれなかったら、何かを言い返してしまっていたかもしれない。
「ありがとう、妖精さん」
「う、ううん…お、落ち着かないと…ね」
妖精さんは相変わらず体をこわばらせてはいたけど、それでも、応接室を出たばかりのときとは違って、少しだけ余裕のある表情にも見えた。
「うん、ごめんね。行こう、裏口はこの先だと思う」
私は小声でそう言い、妖精さんがうなずいたのを見て、また廊下を進んでいく。
すると、さらにその先に、曲がり角がある。ここを右だ…
角に立って、そっと角の向こうを覗く。
そこに見えるのは、ドアがいくつかとそれから廊下の右側には階段があった。
地図通りだと、一番奥にある廊下の左にあるドアが裏口のドアのはず。
私はこれまでと同じように慎重に歩いて、その前まで行く。
木でできた少し頑丈そうなそのドアには、内鍵がかけられていた。
魔導士さんの魔法を使えばこんなのは簡単に壊せるんだろうけど…魔法が使えないと不便だな…
そんなことを思いながら、私はそっと内鍵を開けて、ドアのノブを回した。
ガチャリ、と音がしてドアが開く。
隙間から外の明るい光が差し込んできて、すこしまぶしい。
と、次の瞬間、その隙間から魔導士さんとトロールさんが顔をのぞかせた。
二人の姿を見た私は思わず安心してしまって、ホッとため息が出る。
「良くやった。あとは戻って、大尉と一緒にここを出ろ。あとは俺たちでやる」
魔導士さんがそう言いながら中へと入って来た。
私はとにかくその言葉に頷いて見せると、魔導士さんが不意に私の額に触れた。
「汗だくだな…」
その手触りはとても優しくて、私は全身からふっと力が抜けそうになるのをなんとかこらえた。それから魔導士さんは妖精さんを見やると
「お前もよく頑張ってるな。安心しろ、今のお前なら、かつて人間がしたような目に遭わされることはない。もしものときは全力で抵抗すれば、並のやつらならどうとでもなる」
その言葉に、妖精さんもコクリと安心したような表情でうなずた。
いつも無表情の魔導士さんだけど、お姉さんが言っていたように、
皆が慕っているように、とっても優しくて思いやりのある人なんだ、っていうのが、初めて感じられたような気がした。
そんなことを思ったら気持ちに余裕が出て来たのか、ふと、そばにいたトロールさんの表情が見えた。
トロールさんは、不思議とずっと見て来ていたように思える人間に戻った顔をピシッと引き締めて、じっと私達を見つめてくれていた。
「トロールさん、気を付けてね」
私はトロールさんにそう声をかける。
トロールさんは私に頷いて見せて
「分かってる。人間も妖精も、気を付けろ」
と魔導士さんがしてくれったのと同じように優しく、私の頭を撫でてくれた。
「よし、トロール、行くぞ」
「ああ」
魔導士さんの言葉に、トロールさんは身を起こした。
「この階段だ。おそらくあの子は昨日と同じ幽閉塔にいる。上だ」
「分かった」
二人はそう確認し合うと、気配を殺して階段を駆け上がっていった。
私はその後ろ姿を妖精さんと二人で見送る。
その姿が見えなくなるったとき、ポン、と私の肩に妖精さんの手が置かれた。
「行こう、人間ちゃん。私達がここにいると、迷惑になっちゃうかもしれない」
そんなことを言って来た妖精さんを見上げたらさっきまでの表情はどこへやらで、なんだか吹っ切れたような、凛々しい表情をしていた。
「うん」
さっきまで怖がってたのに、なんて意地悪なことは言えるはずもない。
何しろ私は戦えないんだ。
妖精さんがこうしてしっかりしてくれるのは、頼もしい限りだ。
私は、それでもあの警備の人たちに怪しまれないように、と、さっきと同じように妖精さんの手を引いて廊下を戻る。
最初の角を左に曲がって、次の角へと向かっている時だった。
角の向こうから、こっちへ歩いてくる足音が聞こえた。
ギュっと、緊張感が高まる。でも、さっきはうまく行った。同じ方法で誤魔化せば、大丈夫なはずだ。
空色にぬられたお手洗いのドアはもう通り過ぎたし、お手洗いにはちゃんと行けた、と言っておけば怪しまれないはず。
私はそう考えて、緊張を押し込めながら足を進める。
と、廊下の先に協会のローブを羽織った人が姿を現した。
背丈はそれほど大きくはない。さっきの警備の人たちではなさそうだ。
「あら?」
そのローブの人は、私達に気が付いてそう声をあげてフードを脱いだ。
そこから覗いたのは、死んじゃったお母さんよりも少し年上くらいの女の人だった。
「どうされました?」
女の人は、優しい声色で私達にそう声をかけてくる。
私は、さっきと同じように身を固くした。
怖いけど、さっきほどではない。今回は、意識してさっきよりもワザと怖がっている振りをした。
「あ、あの、その…お手洗いを、お借りしました…」
私が言うと女の人は
「そう」
とまた柔らかな笑顔を見せて、私達の前まで歩いてきた。
それからしげしげと私達を見つめて
「あなた方が、戦争で家族を亡くされた方たちでしょうか?」
と尋ねてくる。
どうやら、私達の話を聞いた人のようだ。それなら、きっと私の演技も信じてもらえる。
私はそんなことを思いながらコクリとうなずいた。
すると、彼女の表情がみるみる悲しみの色に染まっていく。
「大変だったことでしょう…ご安心してくださいね。一時であれば、協会で保護させていただくことも出来ると思いますので」
そんなことを言いながら、彼女は私達の前にしゃがみ込んで私の顔を覗き込んできた。
じっと私を見つめるその瞳は優しく穏やかで、まるでお母さんに見つめられているような、そんな風に感じてしまう。
そっと伸びて来た女の人の手を、私はほとんど警戒もしないで受け入れていた。
柔らかな手の平が私の額に押し当てられて、優しく私の額を撫でる。
ふと、私はその手の平が、穏やかに温かくなるのを感じた。
「あっ!」
次の瞬間、妖精さんがそう叫ぶ声が聞こえた。
ーーーえ!?
そう声を出す間もなく、私は妖精さんに抱えられて、五歩ほどの距離を飛びのいていた。
廊下の先で、女の人がやおらに立ち上がる。
その表情は、さっきまでの優しい笑みとは違っていた。
いや、それだけじゃない。
さっきまでお母さんより少し年上くらいに見えていたのに、そこに立っているのはもっとずっと年上…
私のことを預かってくれていた隣のおばちゃんと同じくらいの、中年の女の人の顔になっていた。
「そう…あの子が来ているの…」
女の人は、静かにそう言った。
なに…?
一体、何があったの…?
私はそう思って、妖精さんを見上げる。
妖精さんは、苦しそうな表情で私に言った。
「読心魔法だよ…!」
ドクシン…?心を読む魔法、ってこと…!?
私はそれを聞いて、ようやく理解した。そして、自分の置かれた状況も把握できた。
しまった…バレたんだ…!
バッと布ずれの音がして、妖精さんが片腕を振り上げた。
「人間ちゃん、離れないで!」
妖精さんがそう叫ぶので、私はその体にしがみつく。
次の瞬間、パパパっとあたりに閃光が走り、次いで狭い廊下の中を強烈な風が吹き始めた。
「姿を消してるからね、喋らないで、そのまま掴まってて!」
妖精さんの声が聞こえた。
見れば、私の体も妖精さんの姿も見えない。
魔導士さんの魔法陣で力を増幅させた妖精さんは、とっておきのあの魔法を前よりも自由に使うことが出来るようになったんだ。
吹き荒れる風の中を妖精さんが走っていく。
私は振り落とされないように、とにかく見えない妖精さんの体にしがみついた。
でも、私達の進行方向に居た女の人は慌てた様子も見せずに
「お待ちなさい」
とぼそりと口にすると、右腕を払った。
そのとたん、吹き荒れていた風がやみ、廊下に入り込んでいた窓からの光が暗くなる。
すると、見えなくなっていたはずの私達の体が色を取り戻してしまう。
「そ、そんな…!」
妖精さんが慌てた様子で立ち止まった。
妖精さんのとっておきの魔法が、打ち消されちゃったの…?そんなこと、人間の魔法では出来ちゃうの?
…人間の魔法?でも、待って…あの女の人、今、魔法陣を使ったの?
十六号さん達が魔法を使うときは、いつだって魔法陣が浮かび上がって、そこから魔法が放たれていた。
そうじゃない時でも、必ず体のどこかに魔法陣が掘ってあったはず。
体の魔法陣は見えないから分からないけど、すくなくとも今は、魔法陣が目の前に浮かび上がったりはしなかった。
それに、人間の魔法は自分の力を増幅させるもの。自然の力を操ったりは出来ないはずだ。
でも、今、この女の人は、まるで妖精さんやサキュバスさんが魔法を使うときと同じような感覚で風を止め、窓から入ってくる光を曲げた。
サキュバスさんと、同じように…も、もしかして…この人が…
「サキュバス様と同じ、神官の一族…!」
妖精さんが苦しそうにそう声を出した。
こ、この人が、魔導士さん達が言っていた…あの…あの…!
「誰がオニババ、なんでしょうかね?」
女の人はそう言うと、気味悪くその表情をゆがめた。
今度は私達を強烈な風が襲って来る。
「くぅっ…!」
妖精さんがそう声を漏らしながら、両手を前に突き出した。
すると、窓から入ってくる明かりが急激に強くなり、目を開けていられないほどにまぶしくなる。
同時に、廊下の温度が急激に上がって私は全身に熱を感じた。蒸し暑いとかそういう程度じゃない。まるで、火あぶりにされているような温度だ…!
「なるほど…増強の魔法陣を仕込まれた土の民ですか」
土の民…?
魔族のこと?
女の人の言葉にそんな疑問を持った次の瞬間、私は眩しい中に、魔法陣が浮かび上がるのを見た。
「妖精さん、気を付けて!」
そう叫んだとき、急激にパシパシっと何かが割れるような音が廊下中に響いた。
瞬時に廊下を凍てつかせる氷が多い、窓からの光が遮られる。
今のは、人間の魔法だ…!
そうだ、間違いない、この人が神官の一族なんだ…!
「あぁっ!?」
不意に妖精さんがそう声を挙げた。
「妖精さん、大丈夫?!」
「つ、捕まった…!」
見ると、妖精さんの足が氷の中に埋もれて、身動きが出来ない状態になっていた。
マズい…妖精さんは光の魔法と風の魔法を使えるのに、光は窓を氷で覆われて十分に入ってこない。
風の魔法は、あの神官の一族の人に打ち消されてしまった。
このままじゃ、妖精さんがやられちゃう…!
私は、そう思って妖精さんの体から離れた。
今日はダガーは持ってない。私に出来ることなんかない。
でも、わずかでも時間を稼げれば、妖精さんがあの氷から抜け出す隙だけでも生み出せれば…!
「やめて!」
私はそう叫んで、氷に覆われた廊下を、神官の一族に向かって突進した。
「ダメ、人間ちゃん!」
妖精さんが叫ぶ声が聞こえる。
妖精さん、早く、抜け出して…!
「勇ましいお嬢さんですこと」
神官の一族は、慌てた様子も見せないで私に向かって手を振り上げた。
魔法が来る…!風の魔法?それとも、人間の魔法…!?
ううん、どっちにしたって私には防げないし、どうしようもない。とにかく、あの人の邪魔をしないと…!
私は覚悟を決めて神官の一族の人に飛びかかった。
でも次の瞬間、何か強烈な力に体を弾かれて、飛びかかった勢いよりも強く、後ろに弾き飛ばされてしまう。
全身がひどく痛んで、思わず体を丸めてしまう。
神官の一族は、凍った廊下をヒタリ、ヒタリと足音をさせて妖精さんに近づいた。
妖精さんは必死に足元の氷から抜け出そうとしているけど、ピシピシと音を立てるだけで、抜ける気配はこれっぽっちもない。
「さて、あの子のところに行かないといけませんのでね…こちらは終わりにいたしましょう」
神官の一族はそう言って妖精さんの顔の前に手を振り上げた。
あぁ、ダメーーーやめて!
そう叫ぼうとした次の瞬間だった。
ドゴン、と言う爆発音とともにあたりが粉塵のようなもので包まれた。
「妖精さん!」
私は、悪くなった視界で見えなくなった妖精さんにそう呼びかける。
そんな私の声に応えたのは、妖精さんでも、神官の一族の声でもなかった。
「ふっふー!間一髪、危なかったぁ!」
この声…!
巻き上がる土ぼこりか煙かの隙間から見えたのは、大尉さんの姿だった。
「大尉さん!」
「おチビちゃん、妖精ちゃん連れて連隊長を追いかけて!」
「でも、大尉さん!」
「あたしはいいから!あなた、連隊長と合流しないと結局帰れないでしょ!?早く行って!」
私の言葉に大尉さんはそう言うと、手をかざして魔法陣を浮かべた。
バキャっと鈍い音がして、妖精さんの足を固めていた氷がひしゃげて割れる。
「大尉さん、この女、すごく強いですよ!」
妖精さんがそう叫びながら私を抱き上げてくれる。
「大丈夫、あたしもちょっとは心得あるしね!時間稼いで適当なところで逃げるから!」
大尉さんはそう返事をしながら、両腕に魔法陣を浮き上がらせた。
その両腕に陽炎がまとわりつき、激しい炎が巻き上がる。
「おりゃぁぁぁ!」
大尉さんがその両手を突き出すと、炎が一気に廊下を包み込んだ。
「何事だ!?」
「賊です!すぐにマルゴウを三番塔に向かわせなさい!」
物音を聞きつけたのか、どこからか叫ぶ声が聞こえ、さらに神官の一族がその声にこたえている。
人が来る…もたもたしている時間はない…!
「妖精さん、行こう!」
「…うん!」
私は妖精さんに声をかけた。
妖精さんも、口をまっすぐに結んでそう返事をする。
私は妖精さんの腕から飛び降りて、もときた廊下を走った。
角を曲がった先の階段にたどり着き、そこを必死に駆け上がっていく。
ドカン、と再び大きな音が聞こえた。
でも、今度のは上からだ。魔導士さん達に違いない。
私はさらに薄暗い階段を駆け上がる。どれくらい上ったか、その先には人の姿があった。
慌てて足を止めようと思うのと、妖精さんが後ろから私の前に躍り出てくるのとが同時だった。
「このぉ…あっ」
妖精さんが何かを叫ぼうとして、そんな声を漏らした。
「よ、妖精…?今の音は…うがっ」
別の声が聞こえた、と思ったら、妖精さんの向こうに居た人影が壁に勢いよく打ち付けられる。
「わぁぁっ、トロール、ごめん!」
壁から床に崩れ落ちたのは、人間の姿になったトロールさんだった。
「うぐっ…大丈夫だ。それより、今の音は?」
「神官の一族って人にバレちゃったの!今、大尉さんが戦ってくれてるけど、すごく強くて…早く竜娘ちゃんを助け出さないと!」
私はトロールさんを助け起こしながらそう伝えた。
トロールさんはそれを聞くや、顔をさらに引き締めて
「急ぐぞ」
と私の体を背負いこんだ。
「トロールはどうしてここに?」
「音がしたから、足止めに残った。魔導士は上に行った」
妖精さんの問いに、トロールさんは答えながら階段をさらに駆け上がる。
その先は少し広い踊り場になっていて、階段が三つに分かれていた。
トロールさんは迷うことなくその中の一つを選んだ。
そこはらせん階段になっていて、グルグルと円を描く様な構造になっている。
この先が、あの塔の上の部屋なんだろうか?
そんなことを思っている間に、階段の先に大穴の空いたドアが見えて来た。
トロールさんと背負われた私に、それから妖精さんがその穴をくぐってドアの先に行くと、そこは小さな部屋になっていた。
ベッドに、部屋を埋め尽くすほどの本が置かれ、大きな窓もある。お手洗いかお風呂なのか、小さな部屋に似つかわしい小さなドアが別もあった。
その部屋の真ん中で、魔導士さんが赤い髪をした女の子と向き合っていた。
女の子は、魔導士さんを鋭い視線で睨み付けている。
その瞳は、まるで羊の物のようで、あの悪魔のような姿になったお姉さんと同じ、縦長をしていた。
この子が、竜娘ちゃんだ…人間と、竜族の間に生まれた、っていう…
「竜娘…!」
トロールさんがそう声をあげると、竜娘ちゃんは自分を呼ばれたことにハッとした様子でトロールさんを見やる。
私がトロールさんの背中から飛び降りると、トロールさんは、おずおずと竜娘ちゃんの前に歩み出て、ゆっくりと膝を折って跪いた。
「竜娘…オイだ。魔王様にお前を任された…トロールだ」
トロールさんは、絞り出すような声色でそう言った。
とたんに、厳しい表情をしていた竜娘ちゃんの顔がみるみると緩んでいく。
「…トロール…?あの、トロール様なのですか?」
竜娘は、跪いたトロールさんの前にしゃがみ込んで、その顔を覗き込むようにして尋ねた。
「はい…」
トロールさんは、申し訳なさそうにそう返事をした。でも、それとは反対に、竜娘ちゃんはハラリと涙を溢してトロールさんの両の手を握って
「良かった…ご無事だったのですね…!」
と声をあげる。
「竜娘…すまなかった…オイが、戦えなかったばかりに…」
「いいのです…もとより、お逃げくださいと頼んだのは私です。あぁ、本当にご無事でよかった…!」
二人はそんな言葉を交わしていく。
きっと感動の再会なのだろうけど、私の心は穏やかではなかった。
下では、大尉さんが必死に戦ってくれているはずだ。
とにかく私達は安全なところに逃げて、それから大尉さんを助けて、って魔導士さんにお願いしないと…!
「下で何があった?」
そんな私と同じ思いだったようで、魔導士さんが私達に聞いてくる。
「ごめんなさい、魔導士さん!私が神官の一族の人にバレちゃって…!」
「読心魔法で心を読まれたです…人間ちゃんは、悪くないです!私が油断して…!」
私の言葉に、妖精さんがそう言い返してくる。でも、魔導士さんは
「そんなことは良い。無事でよかった。どうやってここまで逃げて来た?」
と先を促してくる。そう、そうだ。今は大尉さんのこと、だ。
「大尉さんが助けてくれて、今、下で神官の一族の人と戦ってくれてます…!」
「あいつが…!?そうか…あいつ、そこまで…」
魔導士さんは微かにギリっと歯噛みして、それから気を取り直したように言った。
「お前たちを城へ送る。それからすぐにここへ戻って、大尉も城へ連れ出そう。しくじった、とあいつに言っておいてくれ。あいつにこれ以上、人の命を取らせたくはないが…今は大尉のことが最優先だ」
「はい!」
私は魔導士さんの言葉にそううなずく。
「はいです!」
私に続いて、妖精さんもそう答えた。
それを聞くや、魔導士さんは両手を広げた。
すぐに、部屋の地面に魔法陣が姿を現す。この魔法陣は、人間界に来るときに見た。魔導士さんの転移魔法の魔法陣だ。
魔法陣が徐々に形になりだし、不思議な光がその強さを増していく。
そんな時だった。下の方で、ズズン、と重い音がしたと思ったら、部屋が大きくぐらり、と揺れた。
床がビシビシと音を立ててひび割れ、浮かび上がった魔法陣がすうっと消えて行く。
「な、なに!?」
一瞬、何が起こったのかが分からずそう声をあげた私は、自分の体が宙に浮いていることに気が付かなかった。
でも、次の瞬間、体を襲うふわりとした感覚を覚えて、私は分かった。
ーーー落ちている!?
私は、ハッとして窓の外を見やった。そこには、真横に傾いた城下街の景色が見えていた。
ーーー塔を、壊されたんだ…!
「くそっ…!」
魔導士さんのそんな苦しそうな声が聞こえた。
ガツン、と体が部屋の壁に打ち付けられた。
地面に激突したのかと思ったけれど、窓の外の景色は傾いたまま、部屋はまだ空中にある。
魔導士さんを見やると、微かに空中に浮き、足元にはさっきとは違う魔法陣が輝いている。
空中に、浮いてるの…?
そう言えば、魔導士さんが東の城塞に来てくれた時も、空に浮いていた。あのときと同じ魔法を使っているのかな…?
「羽根妖精、浮遊魔法は使えるか…?」
魔導士さんは、少し表情を苦しげにゆがめて妖精さんにそう聞く。
「つ、使えるです!」
「追手だ。南南西に向かえば、砂漠の街に着く。そこを目指せ」
妖精さんの言葉に、魔導士さんがそう指示をした。
妖精さんは、自分が浮いたり、物を浮かせたりすることも出来ていた。
風の魔法の応用だ、って言っていたけど、魔法陣の力のある妖精さんだったら、私とトロールさんに竜娘ちゃんをまとめて浮かせておくこともきっと出来るはずだ。
「わ、分かったです!」
「頼むぞ」
そう言うと、魔導士さんはすっと拳を握り、その手に魔法陣をまとわせるとまっすぐ前に突き出した。
ドカン、と音がして、部屋の壁が吹き飛んだ。
外には、真っ青な空が広がっている。
「行くです!」
妖精さんの声と共に、体がふわりと浮きあがった。
魔導士さんが自分の足で歩く様に部屋の外に出て行き、妖精さんの魔法で浮かされた私達もそのあとへと続く。
外に出ると、塔のあった魔導協会の建物を見下ろしていた。
その視線の先には、誰かがいた。
体の小さな…私や、竜娘ちゃんくらいの子どもに見えるくらいの幼い人だ。
魔導協会の物みたいだけどローブとは違う立派そうなマントを羽織り、その下にはこれも上等そうな軽鎧を身に着けている。
右手には剣を、左手には盾を持っていて、その顔は、仮面のようなものも付けている。
そのせいで顔は見ることはできないけど…一目見て、あの人がこの塔を折ったんだろう、ってことはなんとなく分かった。
「手を引け。俺は強いぞ?」
魔導士さんがそう言う。すると、仮面の人はこっちを見上げて言った。
「私はもっと強いよ」
仮面の人は、そう言った。
私、って言った?女の人なの?お、女の子…?
「そうなのか?それなら、どうしてこんな奴らの言いなりになっている?」
魔導士さんが、仮面の人を探る様にそう聞く。すると仮面の人は剣を魔導士さんに向けて言った。
「悪い人に奪われた私を取り戻すため」
次の瞬間、仮面の人の右腕から何かが漏れ始めた。
最初はほのかで良くわからなかったけど、次第にそれはほのかに色を帯び始め、そして輝きだした。
「な、なんだと…!」
仮面の人の右腕には、青く輝く紋章が刻まれていた。
それは…お姉さんの腕に描かれた、勇者の紋章と同じに、私には見えた。
「死んで」
仮面の人は小さな声でそう言うと、パッとその場から姿を消した。
「ちぃっ!」
気が付いたときには、声を漏らしながら腕を突き出した魔導士さんが作り出した魔法陣に仮面の人が衝突していた。
「強力な物理魔法…無駄…」
仮面の人はそう言うと、剣を一閃、振りぬいた。
空中に描かれた魔法陣が切り裂かれる様にして消えて行く。
「悪く思うなよ…!」
でも、魔導士さんが少しも動じずに、腕から黄色く光る閃光を発した。
か、雷の魔法…!
魔導士さんの腕から何本もの雷が仮面の人に襲い掛かる。
でも、仮面の人は盾を構えると体の前に魔導士さんの魔法と同じように黄色く輝く魔法陣を浮かび上がらせた。
魔導士さんの雷が、それに引き寄せられるようにほとばしって霧散する。
私は、息を飲んでいた。
これが、魔法同士の戦いなの…?
お姉さんが偽物の勇者と戦ったときなんかとは比べ物にならない。
私なんかじゃ、逃げることすらできないかもしれないくらい…強力で早い…
だけど。
私はそれ以上に、驚きを隠せなかった。
攻撃を受けていた魔導士さんの表情が、歪んでいたからだ。
それは、苦しさでも、悲しさでもない。明らかな、憎しみに、だった。
「貴様…十五号を知っているな…?」
魔導士さんは静かに言った。でも、その表情は穏やかではない。
その言葉に、仮面の人は首を傾げた。
「…誰?」
「二年前の川辺の街…そこに暮らしていた子ども達の一人だ」
「二年前…川辺の街…?あぁ、知ってる」
仮面の人は、言った。
「私が殺した。私を取り戻すために」
えっ…?
こ、この人が…?
勇者の紋章を持っているこの仮面の子どもが、十五号さんを殺したの…?
「私を取り戻す」ってどういうこと…?この人は、みんなに何かを奪われたの…?
私はその言葉が理解できずに、頭が真っ白になった。
そんなときズドン、と地上の方で音がした。
ハッとして見下ろすとそこには、もうもうと土煙が立ち上っていて、その真ん中に、人の姿があった。
あれ…大尉さんだ!
「大尉さん!」
私は思わず声をあげる。
すると、その声が届いたのか、大尉さんがこっちを向いた。
「逃げて!」
「あっ!」
大尉さんの叫び声と、妖精さんの小さな悲鳴が重なった。
ハッとして顔をあげるとそこには、宙に浮かぶ、魔導協会のローブを来た中年の女性、あの神官の一族の人の姿があった。
彼女は、私に腕を突き出して、その先に魔法陣を浮かべていた。
なにかされる…!
私は直感して、全身が凍り付いた。空中じゃ、逃げようもない。体を腕でかばうこともできなかった。
神官の一族の人の腕から白く光る粒のような物が噴き出して、私めがけて飛んでくる。
それが小さな氷の刃だと気が付いたときには、もう私との距離はほんの数歩程度だった。
―――――ダメだ!
私はようやく体を動かして身を丸めた。
全身を襲うだろう痛みに恐怖して、体をこわばらせる。
でも、痛みは一向にやって来ない。痛くも、冷たくもない…
私、魔法を撃たれたんじゃないの…?
そう思っておそるおそる顔をあげると、そこには私達をかばうように、大きな岩盤が空中に浮かんでいた。
岩…?つ、土の魔法…?こ、これって、トロールさん…?
私はそのことに気が付いて、トロールさんを見やった。すると、トロールさんは竜娘ちゃんから体を離して、全身に緑色の光をまとわせていた。
「羽根妖精…二人を頼む…!」
「トロール、何する気!?」
「おいも、戦う…!」
妖精さんの声に、トロールさんは答えた。
私は、そんなトロールさんの体が膨れ上がっていくのを見た。
確か、トロールさんは魔力であの大きな体を練成しているんだ、ってお姉さんは言ってた。
魔族の魔法を使えて、それを魔導士さんの魔法陣で増幅させてるトロールさんなら、あの姿に戻るのもきっと簡単なんだろう。
トロールさんが、あの大きな「トロール」の姿に戻る…
私はそれに気が付いて、思わず叫んでいた。
「ダメ!トロールさん!」
そう、ここは人間界なんだ。しかも、人間界の中枢の王都だ。下には人間の人達がいっぱいいる。
そんな中で、魔導協会を“襲った”私達が魔族であることを示したら…トロールさんがあの姿で暴れてしまえば…今度こそ、止められない戦争になってしまうかもしれない。王都に、人間界の中枢に魔族が攻め込んだってことになってしまうからだ。
それは、人買いに売られ、魔界に竜娘ちゃんのお母さんって人を助けるために魔族と戦った人たちを同じ…理由はどうあれ、そこに住んでいる人たちを傷つけることに変わりはない。
「うがぁぁぁ!」
だけど、私の声はトロールさんのあの雷鳴のような雄たけびにかき消されて届かなかった。
トロールさんは体を膨らませ続ける。
今はまだ土と石がまとわりついているだけのように見えるけど、もしこれがトロールの姿になったら…
どうしよう…こんなのダメ、ダメだよ…お姉さんが悲しむ…それだけは絶対にダメっ…!
「トロールさん、やめて!!!」
私が込みあがる思いに耐えかねて、そう叫んだときだった。
トロールさんの体に何かが飛んできて、土と石で覆われた“鎧”を貫いた。
あっ、と声を出す暇もなかった。
私が見たのは、トロールさんの体を覆う、“鎧”を打ち壊して、トロールさんのお腹に拳を沈める大尉さんの姿だった。
「熱くなりすぎ…それはあんまりうまくないと思うな、きっと」
大尉さんはそう言いながら、トロールさんの体をかばいつつ、空中に横たえた。
「大尉さん…」
「あぁ、ごめんね。叫んでも止まらなかったから、これが一番かと思って…大丈夫、ちょっと気絶させただけだから」
大尉さんは、ボロボロの身なりでそう言い、クスっと無邪気に笑った。
あちこちから血が出て、火傷なのか凍傷なのか分からない痕もいっぱいできている。
それでも、大尉さんは笑って言った。
「さって、逃げようか。あたしが援護するから、妖精ちゃん、三人を無事に運んでね」
「はいです…!」
大尉さんの言葉に、妖精さんがそう返事をした。すると大尉さんは満足そうな笑顔を見せて、スイっと空を滑る様にして私の前までやってくる。
そして、私と神官の一族との間に割って入る様に位置取った。
「連隊長、冷静にね。たぶんこれ、あたしら勝てないよ」
魔導士さんの表情に気が付いたのか、大尉さんがそんなことを言う。
でも、魔導士さんはそんなの聞いていない。
魔導士さんは両腕を広げると、空中のあちこちに魔法陣を描き出してそこから仮面の人に雷を降らせた。
空気がびりびりと振動するほどのすさまじい雷鳴が鳴り響くけれど、仮面の人はあの黄色に輝く魔法陣でそれを難なく打ち消している。
あれが、勇者、っていうものの力なんだ…雷もものともしないあの力が…
「まぁ、仕方ない、か…死ぬ前になんとか回収しよっと。まずは、あのオニババ黙らせないと」
大尉さんは、相変わらずあっけらかんとした様子でそう言うと、両腕と両足をピンと伸ばして何かを呟いた。
大尉さんの体が、白い光に包まれる。
きれいな大尉さんのブロンドの髪がふわりふわりと風に吹かれるようにして浮き上がる。やがてその白い光は、大尉さんの背に集まる様にしてその輝きを強めて、パッとまぶしく瞬いた。
その閃光に思わず目を閉じ、すぐに私が瞼をあけてみたのは、大尉さんの背中に一対の白い翼の生えている姿だった。
そう、まるで、絵物語に出てくる天使が背負っているような、大きくて白い翼…
「天使…様…?」
私は思わずそんなことを呟いてしまう。
するとそれが聞こえたのか、大尉さんが私を振り返って言った。首から下げていたあの羽根の形をしたネックレスがきらりと光る。
「まぁ、ただのイメージなんだけどね…そんな在り難いものじゃないんだよね、あたし達」
その表情は笑顔だったけど、どこか少し悲しげで、まるでお姉さんの笑顔みたいだな、って、そう思った。
「さて…っと。とにかく…空なら誰にも気を遣うことないし、あたしも全力でやれるからね。掛かって来なよ、宗家のオニババ」
「一族の血を毛ほども継いでいない分家の生き残りが、私の邪魔をするな!」
「見てらんないんだよねぇ、危なっかしくてさ」
ケタケタと答える大尉さんの言葉に、神官の一族のオニババの顔が醜く歪んだ。
「その娘は渡さん!死んで後悔するがいい!」
オニババがそう叫んで、再び私達に向かって両腕を突き出した。
「そうはさせないんだから!」
大尉さんがそれに素早く反応して私達の前に大きな魔法陣を浮かべて、その氷を防いでくれる。
「おのれ…分家の分際で!」
なおも顔を歪めるオニババをよそに、大尉さんは言った。
「妖精ちゃん、早く行って!」
「は、は、はいです!」
妖精さんがそんなハッとしたような声を漏らした。
次の瞬間、体を何か得体の知れない力に捕まれたように感じ、それに驚いていたら、ものすごい速さで空を移動し始めた。
風がびゅうびゅうに吹き荒れて、息が苦しいくらいだ。
竜娘ちゃんは支えているつもりなのか、トロールさんにしがみつく様にして私のそばを飛んでいる。
先頭には妖精さんがいて、魔導士さんに描き込まれた魔法陣を光らせつつ、小さかったころと同じように背中に光る羽を生やしていた。
振り返ると、グングンとお城と城下街が遠くなっていく。
そんな王都の上空で、パパパっとあちこちから閃光が上がっていた。
二人が戦っているんだろう。
魔導士さんと、大尉さん、大丈夫かな…?
もっと考えなきゃいけないことはいっぱいあったんだろう。
あの仮面の子のこととか、神官の一族のこととか、大尉さんのこととか、とにかくいろいろ。
でも私は、そんなことはちっとも頭には思い浮かばなかった。
頭の中には、ただただ、魔導士さんと大尉さんの無事を祈る言葉だけが繰り返し繰り返し湧き上がってくる。
竜娘ちゃんを助け出した達成感も、無事に抜け出せた安心感もない。
二人の心配をしながら私は、引き返すことのできない分かれ道に一歩足を踏み入れてしまったような、世界を丸ごと放り投げてしまったみたいなそんな感覚を覚えていた。
そして、その奇妙な感覚はやがて、私の思わぬ言葉を紡ぎださせていた。
―――――お姉さん…この世界は、本当に救うことが出来るのかな…?
***
眼下に広がっているのは、一面の砂漠。そのはるか先に、街らしい影が見えてきていた。
砂漠の中、人の身丈の三倍くらいの城壁で囲まれ、その中にたくさんの家々やお店が集まっている、あの砂漠の街だ。
「トロールさま、おかげんはいかがですか?」
「オイは大丈夫だ!お前は!?」
「はい、魔導士様達が身を賭してお守りくださいましたので…」
トロールさんは目が覚めて、竜娘ちゃんとそんな話をしていた。
妖精さんは疲れが来ているのか、飛んでいる時間が長くなるに連れて口数が減って今はもうほとんど喋らない。
私は、と言えば、ついさっきお城で起こったことの一部始終を頭の中で整理しようと一生懸命だった。
まずは、神官の一族の人のことだ。あの人は確かに魔族の魔法も人間の魔法も使いこなしていた。
人間の魔法も強力だったけど、それ以上に妖精さんの風の魔法を打ち消したり出来ていた、と言うところを考えてみると、あの人も同じように魔族の魔法を知っていながら、さらに力を魔法陣で増幅させて使っていたのかもしれない。
強力な魔法をそのまま使えるサキュバスさんに人間の魔法陣を描いて強化したような、そんな感じだった。
きっと、私達の予想は悪い方向に当たってしまっていたんだ。
そして、もう一つ…天使の翼をまとった大尉さんのことだ。
あれはまるでお姉さんが背中に魔族のような翼と角を生やすのに似ていたし、それ以上に、色や形なんかは違ったけど、でもその魔法の雰囲気はサキュバスさんのものに近かった。
あのとき大尉さんは言った。「宗家オニババ」、って。宗家、という言葉は良く知らないけど、その後に出た神官のオニババの言葉の中にあった単語はわかった。
「分家のクセに」みたいなことを言っていたと思う。分家と言うのは当主様じゃない家系のことを言うはずだ。
分家がそのような意味なら、宗家とは逆に当主様のような家系のことを言うのかもしれない。そう考える都浮かび上がってくること。
それは、大尉さんも神官の一族の一人なのかも知れない、と言う事だ。
大尉さんの魔法は魔法陣を使った物以外は見なかったけど、言葉の意味としてはきっと間違ってない。
そして最後が、あの仮面の子だ。
腕にで勇者の紋章を付け、十五号さんを殺して、私達をも襲ってきたその理由は「奪われた私を取り返す」ため…
言葉だけ聞けば、それはお姉さんや魔導士さん、十六号さん達があの仮面の子の存在に関わる大事なものを奪ってしまったってことになる。
私には、十六号さん達がそんなことをするとは思えないし、思いたくもない。
もしかしたら、魔法か何かでそう思い込まされているんじゃないのかな…私の心を読むような魔法があるくらいだ。読むだけじゃなくって書き換える魔法があっても驚かない。
ただ、でもとにかく、勇者の紋章を付けた人がいるってことはとても大事な情報だ。それも、魔族の平和維持に関わる重大事。
あの子一人ならお姉さんがなんとか相手を出来るだろうけど、お姉さんが持っているはずの勇者の紋章をあの子が持っていたとすれば、
勇者の紋章は複数あったのか、それともあの模様を魔法陣として描くことが出来る人がいる、ってことだ。
もしあそこにあんな子が何人もいて、勇者の紋章を使って戦いを挑んでくるようならお姉さんでももしかしたら…
そんなことを考えていたら、風の音に混じって妖精さんの叫ぶ声が聞こえた。
「見えた…!」
その言葉に、私は地平線の彼方を見やる。
そこには、あの城壁で囲まれた砂漠の街が見えてきていた。
「妖精、どこへ降りる?」
トロールさんがそう尋ねる。
「魔導士さまと決めてある!街のはずれの、小さなオアシス!」
妖精さんがそう言って指を差す先には、確かに街の中心にあるのとは比べ物にならない位の小さな泉と微かに緑の茂る場所がみえた。
前に街に来たときには行かなかった場所だけど、こうして空から見れば一目瞭然だ。
ふわり、と微かに落ちる感覚がして、高さがどんどん下がっていく。
やがて私達は、トサっと小さなオアシスのそばの草むらに降り立った。
とたんに、妖精さんが大きくため息をついてその場にへたり込む。
私は、自分の足で地面を踏みつけて、体がちゃんと着地していることを何度も確かめていた。
「妖精さん、大丈夫?」
私は妖精さんにそう声をかけてあげる。
「うん、平気…それよりも、早く魔王様たちに念信でこのことを伝えないと…」
妖精さんはそう言いながら、四つん這いのかっこうからその場に座りなおすと、額に浮かべた汗を拭って目を閉じ、集中を始めた。
微かに妖精さんの体が光を帯びているのを私は見た。こういうときは、邪魔をしない方がいい。
声をかけたりなんかしたら、妖精さんを余計に疲れさせてしまいそうな、そんな風に思って、私はトロールさん達の方を見やった。
トロールさんは、少し脱力したように地面に腰砕けになっているように見えた。
竜娘ちゃんは、降り立つなりすぐにオアシスの泉に駆け出して水際で何かをやっている。
「トロールさん、大丈夫?守ってくれてありがとう」
私は今度はトロールさんのそばに行ってそう声をかける。
トロールさんは、ぼんやりとしながらもコクリコクリと何度かうなずいてから
「あぁ、大丈夫だ…おい達は、逃げられた…のか?」
なんてことを口にした。
戦いのせいなのか、それとも空を飛んできたせいなのか、トロールさんはがっくり力が抜けてしまったみたいだ。
「トロール様、これでお顔を拭いてください!」
竜娘ちゃんがそう叫びながら戻ってくる。見ると、手には濡らしたハンカチが乗せられていた。どうやら、泉へはこれを濡らしに行っていたらしい。
トロールさんはハンカチを受け取ってそれをそっと額に当てる。とたんに、ふぅぅ、と大きく息を吐いてまた全身からクタっと力を抜いた。
それを見届けた竜娘ちゃんが、今度は私に向き直って深々と頭を下げて来た。
「この度は、あしりがとうございました」
りゅ、竜娘ちゃんって、その、すごく言葉がおしとやかで丁寧だよね…歳は同じくらいのはずなのに、私、丁寧語とか分からないから、すごいなぁ…
なんてことに気が付きつつ、私は
「ううん!それよりも、あそこでひどいことされたりしなかった?」
と、心配をしていたことを聞いてみる。
すると竜娘ちゃんは真剣な表情で私を見つめ、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。あそこでは、特になにも…もちろん閉じ込められましたし、自由はあまりありませんでしたが…たくさんの本を渡されて、すべて読むようにと言われたくらいで」
「本?それって、絵物語とかじゃなくて?」
「はい、歴史書や、魔導書などでした」
それを聞いて、私はホッと胸を撫で下ろした。
どうやら、お姉さん達が言っていたように、実験体にされたり厳しい修行を押し付けられていたわけじゃないらしい。とにかく、竜娘ちゃんが辛い思いをしていないことは幸いだった。
「あぁ、ダメだ…ちょっと疲れちゃって…」
急に、妖精さんがそんな声をあげてがっくりとうなだれた。
やっぱり、いくら人間の魔法陣で力を増幅させているとは言え、王都からここまで、あんなに早い速度で私達をいっぺんに運ぶのは大変だったらしい。
それを見て、私も竜娘ちゃんがしていたように泉まで小走りで駆けて、着ていたボロ服の裾を破いて水で濡らして妖精さんの元に戻る。
「ありがとう、人間ちゃん」
妖精さんがお礼を言ってくれて、受け取った濡れた布きれを額に乗せ、うー、なんて声をあげた。
「妖精さん、守ってくれて、ありがとう」
そんな妖精さんに、私はお礼を言ってあげる。でも、妖精さんは少し複雑そうな表情をして
「うん…私、怖かっただけだから…人間ちゃんこそ、ありがとう。人間ちゃんが支えてくれたから、私、なんとか正気で居られたよ」
なんて言って来た。それはなんだかくすぐったかったけど、私も妖精さんに守ってもらったし、きっと二人でうまく切り抜けた、なんて思っておくのがいいんだろうと思う。
「うん、妖精さんも、ありがとね」
私がそう改めてお礼を言ったら、妖精さんは観念したように苦笑いを浮かべて
「うん」
とうなずいてくれた。
それから、どさっとその場に倒れ込んで
「ごめん、ほんの少しだけ休ませて。自然の力を取り込むから、ほんの少しだけ」
と私に言って来た。そのほかに、私達が出来ることはない。
念信は風の魔法で言葉を伝える魔法だ、って妖精さんは以前言っていた。
トロールさんには使えないし、私にしても、まだ風の魔法は小さな物に風を当てるくらいしかできないから、妖精さんにお願いするしかない。
「うん、ここは安全みたいだし、平気だよ」
私は妖精さんにそう言ってあげた。
すると、安心したのか妖精さんはふぅ、とため息を漏らしてから
「魔導士様達、大丈夫かな…」
と急に情けない声色でそんなことを言った。
そう…魔導士さんや大尉さんは、まだ王都で戦っているんだ。
「大丈夫だよ、きっと…」
私は妖精さんにそう声を掛けてあげる。しかし、不安げな妖精さんの表情は変わらない。
確かに、あの神官の一族って言うおばさんも、あの勇者の紋章に見えた魔法陣を使った仮面の子の力は普通じゃなかった。
魔導士さんの力が強いのは十分知っているけど…もし、あの紋章が本当に勇者の紋章と同じくらいの力があるんだとしたら、魔導士さんは敵わないだろう。
大尉さんは、うまく逃げるから、と言っていたけど…あんなすごい術者を二人も相手にして、そう簡単に逃げられるのかどうかは、私にも分からなかった。
もし妖精さんの念信がお姉さんに届けば、きっとお姉さんは私達を城に送って、それからそのまま王都に向かうだろう。
私はきっとそれを止められない。
そうすることでお姉さんが傷つくのが分かっていても、そうすることでお姉さんに対する人間側からの憎しみが強くなってしまうと分かっていても、お姉さんが魔導士さんや協力してくれている大尉さんを見殺しになんてしない人だっていうのが分かってしまっているから…どんな言葉も、きっと上っ面にしかならない気がする。
私に出来るのは…きっとそんなお姉さんと一緒に王都に戻って、人間たちからの憎しみを一緒に受けることなんじゃないか…
私はそんないつだか考えたときと同じような決意を、胸の内に秘めていた。
そんなときだった。
穏やかな風がふわりと私達を包み込んだ。
優しくて少し乾いた風が、私の髪を梳き、泉の水面を波打たせて吹き抜けていく。
これ、妖精さんかな…?風の力を取り込めた証拠に風が吹いたとか、そんな感じ…?
私はふとそう思って、寝ころんでいた妖精さんを見下ろす。
しかし、妖精さんはまるで寝こけているように、ゆっくりと穏やかに息をしているだけで、魔法を使っている様子も魔力が輝いている光も見せていない。
今のは妖精さんじゃないの…?でも、自然の風にしては、なんだか変な感じが…
私はそう感じて、何となしにあたりを見回し、そして空を見上げていた。
「あっ!」
そこにあったものに、私は大きな声をあげてしまった。
「なに!?人間ちゃん、どうしたの!?」
「ど、どうした!?」
「いかがされました!?」
妖精さんが飛び起き、トロールさんが驚き、竜娘ちゃんがそう聞いてくる。
でも、それにこたえるよりも、見上げた先にあるものを見る方が早かった。
見上げた空、そこには、白く輝く魔法陣が描かれていたからだ。それも、空中に…!
「ま、魔法陣…!?」
トロールさんの歯噛みしたような声が聞こえる。
「あれって…!」
妖精さんは、トロールさんとは違う、少し落ち着いた反応を見せていた。
私も、妖精さんと同じだった。
あの魔法陣は、知ってる。あれは、転移魔法の魔法陣。
それも、魔導士さんの使う魔法陣だ。
私と妖精さんは、お姉さんの使う転移魔法や、十六号さんの使う転移魔法を見たから、なんとなく違いが分かったんだろう。私は、本当にただなんとなく、だったけど…
その刹那、空がパパっと眩しく瞬いた。
ズザッ!と砂をこする音がして目を落とすとそこには、ボロボロの何かを抱えた大尉さんが、同じようにボロボロになりながら地面に膝をついていた。
「大尉さん!」
「ま、魔導士様!」
私と同時に、妖精さんも叫んだ。
大尉さんが抱えていたのは、魔導士さんの体だった。
「お待たせっ!みんな、掴まって!多重に転移しないと、すぐにでも追って来る!」
大尉さんがいきなり私達にすごい剣幕でそう声をかけてくる。
掴まる、ってことは、もう一度転移魔法を使うんだ…今度こそ、魔王城へ飛ぶんだね…!?
私はその事を理解して誰となしに叫んでいた。
「急いで!」
私の声で動いてくれたのかどうか、トロールさんと竜娘ちゃん、そして妖精さんも大尉さんの体に飛びつく。
それを確認した大尉さんは、魔導士さんの体をグッと引き起こして言った。
「頑張ってよ、連隊長!あと二回で良いから…!」
そう言われた魔導士さんは、血だらけの顔で
「くそっ…くそっ…」
と憎悪で歪んだ表情のままに、ブツブツと言葉を口にした。
すぐに私達の足元に魔法陣があらわれて、目の前がパパっと光る。
目を開けると、そこは見たことのない場所だった。
辺りは薄暗く、でも白に塗りつぶされていていて、そして肌を刺すような冷たい空気が私の身を襲う。
この白いの…雪?
もしかして、ここは…あの中央山脈…?
「まだ、もう一回!手を離さないで!」
大尉さんの声が響くので、私はうっかり緩めてしまっていた手にもう一度力を込めた。
再び足元に魔法陣が浮かび上がり、パパッと光った次の瞬間には、私達は見慣れた石造りの壁の一室に居た。
そこは魔王城のあの暖炉と大きなソファーのある部屋だった。
「うぐっ…!」
ドサリ、という音と共に、魔導士さんがその床に崩れ落ちた。
「ま、魔導士様!」
妖精さんがその傍らに座って、両手をその体にかざす。
ふわりと暖かな光が魔導士さんを包み込んだ。
これは…初めて二人にあったときに、妖精さんがトロールさんに使った回復魔法…!
光の中で、魔導士さんの体にある傷がみるみるふさがっていく。
そんなとき、バタン、と音がして部屋のドアが開いた。
そこには、腰の剣に手を伸ばした兵長さんと、それからそのあとにお姉さん、そしてサキュバスさんに黒豹さんが続いていた。
「ま、魔導士!」
「誰だ、その方は!?」
お姉さんの声と、兵長さんの警戒した叫び声が重なる。
「魔王様、力かしてくださいです!魔導士様、大けがです!」
妖精さんがそう言って、お姉さんを呼び寄せる。
それをしり目に、大尉さんはふぅ、と息を吐いて
「あたしは、王下騎士団の諜報班に居た諜報員。まぁ、こんなことになっちゃったから、元、諜報員、なんだろうけどね」
と手の平を兵長さんに見せつけて答えた。
敵じゃない、って意味なんだろう。
それをみた兵長さんも、そっと腰の剣から手を離した。
「おい、しっかりしろよ!何があった!?」
お姉さんが、二人して魔導士さんを挟み込むようにして妖精さんの向かいにしゃがみ込み、両腕を伸ばしてその腕を光らせた。
そう言えば、お姉さんの回復魔法って初めて見るな…私が矢で射られたときも使ってくれたって言っていたから、出来るっていうのは知っていたけど…。
「ぐっ…ゲホゲホっ…はぁ…はぁ…はぁ…」
やがて、苦しげに呻いていた魔導士さんの息が落ち着いてきた。
どうやら、受けた傷がなんとかなってきたようだ。
「おい、魔導士。喋れるか?追手は来そうか?」
お姉さんが魔導士さんの様子を伺いながらそう聞く。
すると、魔導士さんはムクっと体を起こし、大きく深呼吸をしながら答えた。
「いや…おそらく追跡はされないだろう。疑似魔法陣を三重に掛けながら三度転移をしてきた」
そんな魔導士さんの顔からは、いつのまにやらあの憎悪の色が消え失せて、いつもの無表情に戻ってしまっていた。
それから魔導士さんは
「もういい、十分だ」
と静かに言って、お姉さんに頭を振り、妖精さんを見やり
「感謝する」
と伝えてその場に立ち上がった。
それを確認したお姉さんも、ふぅ、と落ち着いた表情を見せて、傍らに立っていた大尉さんを見上げて
「あんた、久しぶりだな。助けになってくれたのか?」
と聞く。大尉さんはなんだかバツが悪そうに肩をすくめて
「まぁさ、ほっとけなくってね。あなたには、ヤバいところを助けてもらったお礼もしなきゃ、って思ってたから」
なんて答える。でも、それからすぐに表情を引き締めて、大尉さんはお姉さんに言った。
「たぶん、話さなきゃいけないことがたくさんある…あたしのことも、その竜族の子のことも…これまでのことも、これからのことも、たぶん、たくさん」
「あなた様は…」
そんな言葉に反応したのは、誰でもない、サキュバスさんだった。
サキュバスさんの視線は、微かに驚いているような、そんな感じに見える。もしかしたら、サキュバスさんには何かが分かるのかもしれない。
大尉さんはきっと、神官の一族なんだ。サキュバスさんはそれをどこかで感じているに違いない。
「あなたがそうなんだね?うん、そう、あたしも、同じ」
大尉さんは、そんなサキュバスさんにそう言ってうなずいて見せ、それからお姉さんに視線を戻して言った。
「あなたの力が必要になりそうなんだ、古の勇者さま」
そんな言葉を聞いたお姉さんは、やっぱりあの少しだけ悲しそうな表情を見せてから、それでもため息交じりに笑顔を見せた。
「まぁ、そんなことだろうと思ってたよ。揉め事をなんとかしようってのが、古の勇者さまだもんな」
その言葉は皮肉っぽく聞こえはしたけど、なんとなく、私にはお姉さんが皮肉を言ったんじゃない、って思えた。どっちかと言えば、覚悟を新たにしている、って、そんな感じだ。
それからお姉さんが不意に私に目をやって、優しく穏やかに笑った。
「あんた達、なんだよ、その汚いカッコ」
そう言えば…言われてハッとした。
私と妖精さんは、孤児のふりをするためにボロボロの服を着ていたんだった。それだけじゃない、あっちこっちを土で汚して、髪もぼさぼさになっている。
その事をお姉さんに指摘されて、今更ながらになんとなく気恥ずかしくなってしまう。でも、そんな私にお姉さんは言ってくれた。
「あんた達は風呂に入って、着替え済ませてきな。それまで、大事な話は待っておくからさ」
そんなお姉さんの言葉を聞いて、今度はサキュバスさんが笑顔を見せて私達に言った。
「ふふ、そうですね。まずは、お疲れをお湯でお流しください、人間様、羽妖精様」
そんな二人の、いつもと変わらない言葉を聞いて、私はずっとずっと張りつめていた気持ちがようやくほぐれ、ぐったりと膝から崩れ落ちてしまいそうな、そんな感覚に襲われていた。
***
「さて…じゃぁ、なにから話そうか…」
大尉さんがそんなことをつぶやきながら、サキュバスさんの淹れてくれたお茶のカップをあおってピクリと眉を動かした。
「ミカン…オレンジの皮のお茶なんだって」
私が教えてあげたら、大尉さんはへぇ、なんて声を漏らして、もう一度カップに口をつけてから満足そうに頷いた。
「いや、それよりも、先に」
そんな大尉さんに、お姉さんが口を開く。
「この子達と、竜娘を助けてくれたこと、感謝する」
そう言うが早いか、お姉さんは大尉さんに頭を下げた。
しかし、大尉さんはあはは、と声をあげて笑って
「ううん、気にしないで。あたしが好きでやったことだし、それに、戦争中に助けてもらった借りもあるしね」
なんて応える。それを聞いたお姉さんは渋い表情をして
「助けた、って…あれはそんなこと考えてなくって、ただ暴れただけなのに」
と口をつぐむ。それでも、大尉さんはお姉さんを見つめて言った。
「それでも、なんでも、あなたが来てくれたおかげであたしの隊はみんな無事にあの戦場から抜けられた。本当は、あたし達が守らなきゃいけなかったのに、すべてをあなたが救ってくれた。返しても返しきれない恩だよ」
その言葉に、お姉さんは嬉しそうな、泣きそうな表情で
「そっか…」
なんてつぶやいて、もう一度顔を伏せた。
今の言葉は、お姉さんにとっては嬉しいだろうな。
お姉さんが戦ったおかげで、死んでしまった人達もいたんだろうけど、大尉さんのように生き延びることができた人達もいたんだ、って、そう思えるような言葉だったからだ。
私たちは、暖炉の部屋にいた。
魔王城に戻ってからすぐ、サキュバスさんが沸かしてくれたお風呂に、妖精さんと二人で入って、着替えを済ませた。
あんまりゆっくりはできなかったけど、それでも、旅の疲れを取って、それから、あの緊張感を拭うには十分すぎる時間のように感じた。
暖炉の部屋に戻ると、十六号さん達もやってきていて、皆でなんだか重苦しい雰囲気だった。
それもそのはず、竜娘ちゃんがトロールさんに肩を抱かれて、シクシクと泣き続けていたからだった。
どうしたのか、小さな声で十六号さんに話を聞いたら、竜娘ちゃんは初めて、先代の魔王様が死んでしまったことを知らされたらしかった。
先代様は、確か、竜娘ちゃんを人間と魔族との平和の希望だと言って、戦争が始まる前に魔族の中で人間への憎しみが煮え立ち
それが竜娘ちゃんに降りかかったとき、竜娘ちゃんをかばい、そして、祠守の一族であるトロールさんにその身を預けたんだ。
竜娘ちゃんにとってもしかしたら先代様は、私にとってのお姉さんのような存在だったのかもしれない。
自分の命を助けてくれて、自分を大切にしてくれた、そんな人だったんだ。
竜娘ちゃんは私達が来てからもしばらくそうして泣いていたけれど、半刻ほどしてようやく泣き止み、真っ赤になった目を擦りながら
「すみません…取り乱してしまいました」
なんて大人のようなことを言って、お姉さんに抱きしめられていた。
「子どもなんだから、もっと泣いたっていいんだぞ。あいつの代わりに、今度はあたしがあんたを守ってやるって約束する」
お姉さんのそんな言葉に竜娘ちゃんの目にはまた涙があふれさせていたけれど、部屋の中の重い空気はどこか薄らいでいるように私には感じられた。
それからは、泣き止んだ竜娘ちゃんも一緒にテーブルに着き、
いつものとおりサキュバスさんがお茶とお菓子を準備してくれてから、話し合いが始まって、今、だ。
「…その、大尉様は…カミシロの民、なのでございますか?」
サキュバスさんが、お姉さんからのお礼をはねのけた大尉さんにたずねた。
カミシロ…神官の一族のことをそういうのだろう。
神代の民。どこか古い印象を受ける言葉だ。
「うん、そう。あたしも、古の神官の末裔。もっとも、あたしは分家の分家、一族からしたら気が遠くなるほどの末端だけど…あたしも、あなたと同じ。雌雄同体の体を持っていて、自然の魔法を使う。もちろん、人間界にいるからあっちの魔法もできるけどね」
大尉さんの言葉に、内心、分かってはいたはずなのに、私は驚きを隠せなかった。
サキュバスさんは、魔族だからそんな不思議な存在がいたって納得ができる気がしたけど、同じ人間の世界に、サキュバスさんのような人がいただなんて…
ただ、それを聞いてお姉さんが低くうなって頷いた。
「正直、考えもしなかったけど…でも、魔導協会のあの女がその神官の血筋だ、っていうのはなんとなく納得がいくな。あいつ、本当に不気味だったから」
お姉さんはそう言ってからハッと顔を上げて、慌てた様子でサキュバスさんを見やった。
「あ、あ、あんたがそうだ、っていう意味じゃないからな!」
そんなお姉さんの言葉を聞いたサキュバスさんはクスっと笑って
「承知しておりますよ」
なんて答えたので、お姉さんはホッと安堵の息を吐く。
「で、お前はあいつの考えていることを知っている風だったが、いったい魔導協会の目的ってのはなんなんだ?」
今度は魔導士さんが大尉さんに尋ねる。しかし、大尉さんは今度は首をかしげて言った。
「それは、正直、分からない。サキュバスちゃんもそうだと思うけど、私達、神代の民は、代々、世界の均衡に目を配って、二つの紋章を…言葉は悪いけど、“管理”することが掟になってる。魔導協会の大きな目的は、それに尽きるはず。でも、あの宗家のオニババは、それ以上のことをやろうとしているみたいだった。その子を使って、ね」
大尉さんは、テーブルの上座に座っていた竜娘ちゃんをチラリと見やった。
全員の視線が、竜娘ちゃんに注がれる。
「なにか、聞いている?」
大尉さんの優しい声色の質問に、竜娘ちゃんは俯いて首を横に振った。
「いいえ…私は、ただあの塔に閉じ込められていただけで…そのようなことを言い渡されたりはしていません」
そう、それは、オアシスのほとりで聞いた。本を読め、くらいのことしか言われなかったんだよね…私はそんなことを思いながら竜娘ちゃんを見つめる。
ふと、私は、竜娘ちゃんの表情が、どこかいびつであることに気がついた。
緊張しているのかな、とも思ったけど、違う。
体に力が入っていて、とても安心しているようには見えないけど、でも、緊張じゃない。
あの顔は…悲しいんだ、きっと。何が悲しいのかは、よくわからないけど…
「竜族と人間族の間の子…魔族と人間の、平和の象徴になるかもしれなかった存在…」
ふと、お姉さんが呟くように言ってから、顔を上げた。
「あいつら、その子を“器”にあたしから紋章を二つとも奪うつもりだったのかもしれないな」
えっ?
勇者と、魔王の紋章を…?
「…それは、俺も考えていた」
お姉さんの言葉に、魔導士さんがそう言って頷いた。
「魔族と人間の血を引く子。しかもその半分の魔族の血は、竜族という魔界の中でも相当強力に自然の魔力を操れる一族のものだ。
紋章を受け継ぐことの出来る可能性は高い、と考えても不思議ではない、が…」
そこまで言った魔導士さんは、竜娘ちゃんを見やった。
しかし、そんな魔導士さんに、兵長さんが言う。
「ですが、いかに魔族とは言え、そう簡単に魔王の紋章を受け継ぐことができるとは思えません。何しろ、サキュバスさんでさえ、それを宿すことができませんでしたから」
確かに、東の城塞に人間軍が来る、となったときに、この城を守るひとつの案として、お姉さんがサキュバスさんに紋章を渡そうとしたことがあった。
でも、結局サキュバスさんはすごく苦しんで、それを受け取ることができなかったんだ。
「確かに、この紋章は相性だからな…力の強い弱いとか、人間だとか魔族だとか、そういうのは関係ないのかもしれない、か。現にあたしが両方を持ってるわけだし…」
「その見方も一つ、だな。もう一方で、俺は王都で、勇者の紋章を持つ子どもと戦った」
「えっ…?」
「な、なんだよ、それ…?」
魔導士さんの言葉に、お姉さんと十六号さんたちが色めきだった。
あの仮面の子のことだ。
やっぱりあれは、勇者の紋章だったの…?
「俺をあそこまで追い込んだんだ。少なくとも、生半可な呪印ではない。俺の記憶の中にある勇者の紋章とは幾分か古代文字の内容が異なってはいたが、それでもあれは、間違いなく勇者の紋章だった。
だが、それならなぜ、その紋章を竜娘に持たせなかったか、と言う疑問になる。やつらが彼女を器にするつもりなのであれば、まず真っ先にそのことを試すはずだ。他の混血児たちと同じように、な」
魔導士さんの言葉に、私は一瞬、胸を締め付けられたような、そんな感覚を覚えた。
同時に部屋の中が一瞬にして色めきだつ。
「…おい、魔導士…それ、どういうことだ…?」
お姉さんが恐る恐るそう尋ねる。すると魔導士さんは、素知らぬ顔でお姉さんを見やって言った。
「なんだ、知っていたわけではなかったのか。お前が砂漠の街で捕らえたオーク共は、魔導協会の息の掛かった連中だ。取引の内容までは知らないが、協会はオーク共に人間を襲わせ、孕ませ、生まれた子供を本部に運び込んでいた。そいつは少なくとも、お前が勇者の紋章を受け継ぐまでずいぶん長いこと行われていたはずだ。戦時中も戦後も、引き続きな。やつらは、オークと人間の混血児を勇者の器として利用としていた」
オークと、人間との混血…?
その言葉を聞いて、私は何か得体のしれないおぞましい感覚を覚えた。
背筋を虫が這い回っているような、むずがゆい不快感だ。
「…それが、あのオーク共だと言うのですか…!」
そう声を上げたのは誰でもない、黒豹の隊長さんだった。
「あの者どもは、人間と結託して人間の街を襲っていたと言うんですか!?」
「お前たちが捕らえたオーク達については情報だけで、実際に見たワケじゃないが、戦前の事情が変わっていなければ、そうなる」
「いったい、何のために…?」
魔導士さんの考えに、黒豹さんはそう唸る。
そんな黒豹さんとは対照的に、魔導士さんは乾いた声でサラリと言い放った。
「考えられるのは、素材の作成だ。魔王と勇者、二つの紋章を受け継ぐことの出来る素材、だ」
二つの紋章を受け継ぐことのできる素材…?
そ、それって、つまり…
魔導協会の人たちは、お姉さんの様に、勇者の紋章と魔王の紋章の二つを宿すことのできる誰かを探していた、ってことだ。
ま、待って…でも、それは…
「あいつらは、あたしの紋章二つを狙っている、ってことか…?」
「俺の考えでは、そうなる」
お姉さんの言葉に、魔導士さんは頷く。
その言葉にゴクリ、と、部屋に緊張とも恐怖とも知れない何かが漂って、私は喉を鳴らしてしまっていた。
「だが、それでもまだ疑問が残る。俺が戦ったあの勇者の紋章に力も形もよく似ていた呪印をその竜の子に宿さなかったのはなぜか?
受け継ぐことが出来なかったのか、あるいは、やはりあれは勇者の紋章とは本来的に何かが異なるものなのか…
可能性の高いのは後者、か。
オークと人間との混血児達の末路を考えれば、あそこで見た勇者の紋章を受け継ぐことが出来なかった竜娘が生きたままあの塔に捕らえられ、
救助に際してあの女が全力でそれを阻止しようとしてきた理由にはならない」
「混血児達の末路って…」
不意に、十七号くんが声をあげた。魔導士さんは彼にチラリと視線を送って、曖昧に首を傾げる。
言葉にしなくても、分かった。
きっとその子達もお姉さんが話してくれたように、紋章に合わないということが分かったとたんに、あそこから追い出されてしまったりしたんだ。
魔族と人間の血を引いている、竜娘ちゃんの様に、魔族の特徴も残している子が、人間の世界で生きて行けるわけはない。
たぶん…その子たちは、もう…
「いや、待て。もしかすると、あの仮面の子どもは…」
魔導士さんがふと思い出したように口にした。
仮面の子…魔導士さんが戦った勇者の紋章に似た呪印を付けていた子だ。
そうか、仮面…!
「あの子が、もしかしたらその混血の子…?」
私は思わずそう声をあげていた。それを聞いた魔導士さんがうなずいてくれる。
「可能性はあるな…あの仮面で魔族の特徴を隠していたのかも知れない。だが…あえてあの呪印を混血児に与えた意味はなんだ…?あれはそもそも人間が扱うのに向いた呪印だ。混血児ではなく、それこそ、俺たちのような“候補者”の中の選りすぐりに受け継がせた方がまだ適合する見込みがある。それを、なぜ…?」
魔導士さんはそんなことを言うなりグッと考え込んでしまった。
皆の視線が魔導士さんに集まって、胸を締め付けるような、口を重くするような時間が続く。
「か、仮に魔導協会が二つの紋章を手に入れたとして、その目的とはいかなるものなのでしょうか?」
そんな場の空気を無理やりに押し流すように、サキュバスさんがそう話を進めた。
うん、そうだ。
今は、そのことが大事だ。
「さぁてね…そりゃぁ、大陸の真ん中に人が超えられないほどの山脈を作り出せるくらいの力でしょ。一手に握ることが出来たら、それこそきっと、なんだって出来る。この大陸を統べて、支配者になることもね」
サキュバスさんの言葉を聞いた大尉さんがお姉さんを見つめて言った。
今のお姉さんにもその力がある。
でも、お姉さんはそんなことのために力を使わない。お姉さんは、魔族の平和も、人間の平和も考えているんだ。
「もしその二つの紋章が狙われているのなら、ことは魔族や人間の平和などと言ってはいられませんね」
そう意見したのは兵長さんだった。
「万が一にもその力が魔導協会の手に落ちれば、魔族の平和など望むべくもないでしょう。それに、先日話されていたように魔導協会が人間界すべての魔法陣を意のままに無効化することが出来得るとすれば我らに抵抗する術はない…大尉殿の話もあながち例えや冗談とも思えません」
兵長さんの言葉に、部屋がまた緊張に包まれる。
でも、そんな張りつめた空気を打ち破ったのはお姉さんのため息だった。
「まぁ、あいつらの手に落ちれば、な。でも、万が一にもそれはない。少なくとも、今その“なす術のない力”を持ってるのはあたしだ。あいつらがあたしを取り押さえる方法を持っているんなら、逆にこの力があいつらに渡ったとしたってそれを制御する方法がある、ってことだ。それについては、そんなに心配は要らないんじゃないかな」
た、確かに、お姉さんの言う通りかもしれない…
どんな方法を使ったって、お姉さんからあの力を奪い取ることなんて出来るとは思えない。魔法を勉強し始めた私でもそれくらいは分かる。
お姉さんの体に宿っている力は、とてつもないものだ。
もしかしたら、この大陸を二つに割ってしまうことだって出来るんじゃないか、って感じるくらい途方もなく大きな力。
そんなものを、どうやったって抑えるなんて出来ないと思う。
「だが、もしもということもある。用心しておく方が良い。ここの警備も、今のまま筒抜けにしておけば、付け入る隙を与えてるようなものだ」
「それでしたら、魔導士様。私にも、トロール様や羽根妖精様が頂いたような呪印を施していただけませんか?私はいつでも魔王様のすぐそばに侍り、御身をお守りいたします」
サキュバスさんはそう言って、まっすぐで力強い視線を魔導士さんに投げかけた。
それは、トロールさんや妖精さんが人間の姿に“戻った”ときとは全然違う、お姉さんのために、魔族のためにって、そう固い決意の表情のように、私には見えた。
「いいだろう。俺も周囲に警戒用の魔法陣を敷いておく。十六号、お前も手伝え。結界魔法は得意だろう?」
「あぁ、うん。任せてよ」
魔導士さんの声掛けに、十六号さんもキリッとした表情で答えた。
「警備、ということになると…先ほどまでの話ともかかわりが深いでしょうね」
兵長さんがそんな二人のやりとりを見つめながら言った。
「魔王軍の再編、か…」
その言葉に、魔導士さんが反応し
「どんな具合いだ?」
と話を促す。
そんな魔導士さんの質問に、お姉さんは黙って黒豹隊長に目をやった。
「はっ…。各地の士団長クラスの魔族に、各軍を率いて魔王城へ参じるよう念信を飛ばしてあります。東西南北、及び親衛軍の各士団長よりすでに返信を受けています。明日にでも各士団長と残存部隊がここに集結するはずです」
黒豹隊長さんが魔導士さんにそう説明した。
「規模はどれほどになりそうだ?」
「それはなんとも言えないな。特に東師団はあたし達が徹底的に叩いちゃったし…各地の自警団の連中も参加してくれるって話だけど、それでも総数で三千が良いところじゃないかと思ってる」
「三千、か…」
その数を魔導士さんは呟いて口に手を当てた。
少ない…
私は思った。だって、東の城塞に侵攻してきた人間の軍隊は五千人。それに加えて南の城塞にはもう五千人の兵隊が待機していたんだ。
もし戦いになったら、そんな大軍に勝てそうもないけど…
私はお姉さんをチラッと見やった。
そう、お姉さんは戦いを望まない。人間の軍隊と戦うのなら、お姉さん一人で十分だ。魔族の軍隊は、治安維持を大きな目的に再編させる、ってあのときのお姉さんはそう言っていた…
「三千のうち、千を国境警備、残りは五百ずつ四つに分けて、そのうち三つを北、南、西の各城塞を拠点に治安維持活動を任せるつもりだ。残り一隊は、あたし直下の親衛隊にする。この城の防衛だな」
「なるほど…戦闘となると厳しいが、各地に警戒網を張っておけるだけの人員は居る、か」
お姉さんの言葉に魔導士さんは手を口に当てて納得したようにうなずく。そんな魔導士さんの姿を見たお姉さんがクスっと笑い声を漏らした。
「あぁ、あんたはすっかり連隊長が板についたよな」
「どこかのバカが作戦なんて構いもしないで突っ込むからな。援護をするだけでも頭を使うんだ」
お姉さんはそんな皮肉を返されて、あの嬉しそうな表情で笑った。
ふと、私はテーブルについている人たちの顔を見やっていた。
最初は、私とお姉さんにトロールさん、妖精さんだけだったのに今はこうして、たくさんのお姉さんに力を貸してくれる人たちがいる。
魔族と人間が平和に暮らすための世界を作るために、力を合わせて行ける。
そんな光景が、私にはなんだか嬉しくもあり、ついこないだまで父さんと母さんが死んでしまってめそめそと泣いていた世界とは別のところのように感じられるようで、少し寂しくもあった。
でも、悪い気分ではなかった。
いつまでも泣いているわけにはいかない。これからはもっと大変かもしれないんだ。そのためには、私もしっかり自分の出来ることをしていかなくっちゃ…
「あの…お話を割っても構いませんか?」
そんなとき不意に控えめに声をあげたのは、竜娘ちゃんだった。
「あぁ、いいよ、遠慮しないで」
お姉さんがそんな竜娘ちゃんに優しく言う。
それは、先代の魔王様の死を聞かされてさっきまで涙していた竜娘ちゃんのことを思いやっているような、そんな柔らかい雰囲気だった。
「ありがとうございます」
竜娘ちゃんはそうお礼を言うと、頬の涙を拭いてサキュバスさんと大尉さんの顔を代わる代わる見つめて、聞いた。
「お二人は、“キソコウブン”、と呼ばれるものをご存知ですか?」
キソ…コウブン…?な、なんだろう、それ…?
私は聞き慣れない言葉に思わずお姉さんの顔を見やる。するとお姉さんもなんだそれ、って顔をして私を見ていた。
私もきっとお姉さんとおんなじ表情をしていたんだろう、私の顔を見たお姉さんは肩をすくめて小首をかしげ、それからサキュバスさん達に視線を送った。
私もお姉さんの見つめるその先を追う。
「キソコウブン…基礎の構文、ってことだよね?それはあたしは聞いたことないな…」
大尉さんがそう言って、サキュバスさんをみつめる。
サキュバスさんはしばらく考えるような素振りを見せてから、なんだか自信のなさそうな声色で答えた。
「その基礎構文と言うものかは分かりませんが、一族の古い伝承にある魔法陣のことかもしれませんね…」
「その伝承について教えていただけませんか?」
サキュバスさんの言葉に、竜娘ちゃんがさらに質問を重ねる。でもサキュバスさんは困ったような表情で
「本当に古い伝承で、真実かどうかも定かではありませんが…それはこの世界のどこかに描かれているもので、この世界を“この世界たらしめているもの”である、と、言う話です」
と竜娘ちゃんに答えた。
それを聞いた竜娘ちゃんはクッと押し黙って俯き、何かを考えているようなしぐさを見せる。そんあ様子の竜娘ちゃんにお姉さんが聞いた。
「なぁ、それ、なんのことなんだ?」
するとハッとして顔をあげた竜娘ちゃんは、さっきのサキュバスさんと同じように困った表情で
「いえ…私も、サキュバス様が仰ったことと同じことしか把握していないのです。基礎構文と言う、この世界を形作っている魔法の言葉が世界のどこかに刻まれていると言う伝説です。それも、古の勇者様より古い言い伝えだと思います」
「古の勇者より古い伝承…?どうしてそんなことが分かるんだ?」
竜娘ちゃんの言葉に、お姉さんがそう尋ねる。すると竜娘ちゃんは顔をあげて
「魔導協会で読んだ古い書物の一節にそのような記述があったのです」
と応える。
一瞬、暖炉の部屋に沈黙がやってきたけど、魔導士さんの言葉が勝にそれを打ち破った。
「世界創生の神話のようなものである可能性もあるな。実在するものというより、もっと何か、概念的なものだろう」
魔導士さんの言っていることはなんとなく分かった。
神様の話だろう。
この大陸は、神様が世界を作るときに土の付いた足で海を踏んだときにその土が剥がれ落ちて出来たんだ、なんてお話がある。
もちろん、そんなことを信じている人なんてそうはいない。
伝承とか伝説なんてものでもない、子どもに聞かせるような絵物語の一つに過ぎない…
きっと魔導士さんは、その基礎構文というのもそれと同じだ、とそう言っているんだろう。
それを聞いた竜娘ちゃんは、すこし残念そうな表情を浮かべながら
「そう、ですよね…」
と、それでも納得したように頷いた。
「まぁ、どうしても気になるんならさ」
そんな竜娘ちゃんにお姉さんが明るい口調で声を掛けた。
「この城の書庫にある文献を読んで見るといい。何か面白い物もあるかも知れないしな」
そう言ったお姉さんは、ニコッと笑って私を見た。
「例の、ボタンユリ、だっけ?あれを調べるのに書庫には行ったんだろう?後で連れてってくれないか?」
お姉さんのそんな頼みに、私はコクっと頷いて答えた。
「うん、あとで妖精さんと一緒に案内するよ」
するとお姉さんは満足そうに笑って
「頼むな」
と私に言い、それから皆の方に視線を戻して告げた。
「とにかく、明日には魔王軍が集結して再編の指示を出す。もしかしたら多少バタつくかも知れないから、適宜、協力してくれな」
「お任せ下さい。黒豹さんに指揮を摂っていただき、私がそれを補佐しましょう」
「その点は、万事打ち合わせ通りに」
「あたしも手伝うよ。あぁ、連隊長、体が大丈夫なら後でもう一度人間界に戻ってくれないかな?少尉とか、他の隊員もこっちに引っ張っちゃうからさ」
「いいだろう。その代わり、対価はもらうぞ?そうだな…確か魔界の植物でコチョウソウと言う花を見たことがある。その種を革袋一つだ。警戒用の魔法陣は強いておいてやる。その他に俺に用事があれば言いに来い。用向きがあるまで、俺は部屋で寝てるか、こいつらに手習いと修行をつけてるかしてるからな」
「私も、常に魔王様のそばに侍りましょう。何なりとお申し付けください」
兵長さんに黒豹隊長さん、大尉さんに魔導士さん、そしてサキュバスさんが口々にそう言う。私も、と思ったけど、さすがに軍隊のことなんて私にはわからない。
でも、ここにたくさんの人が集まって、もし親衛隊って言う人達が常駐するようになるんなら、必要なことがある。
「私は、畑をやって食べ物を作るね」
そう言ってあげたらお姉さんは嬉しそうに笑ってくれた。
「あはは、楽しそうなことになりそうだなぁ、魔族の軍隊か。言うこと聞かないやつがいたら俺が一発ぶん殴ってやらなきゃな」
私達の言葉に続いて、十七号くんがそんな声をあげる。でも、それを諌めるように十六号さんが言った。
「おいおい、それはアタシらの仕事じゃないって。むしろ、もっとやんなきゃいけないことがあるんだよ」
「えぇ?何がだよ?あ、感知用の魔法陣の話?」
十六号さんの言葉に十七号くんが首を傾げる。
それでも十六号さんは落ち着いた声色と落ち着いた表情で言った。
その言葉を聞いて、私も、きっとお姉さんも、心が穏やかなままではいられなかった。でも十六号さんの考えていることはきっと正しい。
これまで、お姉さんの味方だったはずのたくさんの人間軍がそうだったんだ。魔族の軍隊がそうじゃない、なんて言える保証はどこにもない。
「警戒用の魔法陣は半刻もあれば済むだろ。それのことじゃない。人間で勇者の十三号姉が魔王をやろうってんだ。もしものとき、大人しく言うことを聞かない連中が妙な真似しでかさないようにアタシらは竜娘ちゃんと幼女ちゃんをしっかり守ってやらなきゃなんないだろ?」
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