第4話:救世の勇者と仲間達
なんだか喉が痛い。
喉どころか、こめかみとか顔中の筋肉も痛い。
私はトロールさんに抱きついてさんざんに泣き喚きながらトロールさんが無事なことを喜んで、お礼を叫んで、それからは…うん、とにかく弾けてしまいそうな気分に任せて、とにかく泣き続けた。
「無事でなにより、だ」
お姉さんが、やっと泣き止んだ私に変わって、トロールさんに言う。
「その姿を見るに、魔力による凝縮も可能になっているようですね」
サキュバスさんもそんなことを言っている。
そんな二人に、トロールさんは頭を下げた。
「まぁ、こっちきて座れよ。あんた、本当にその半人半魔の子をどこかに隠したのか?」
お姉さんがそう言いながらトロールさんに席をすすめる。
トロールさんは頷いて小さな体でイスによじ登った。
私も、さっきのイスに戻ってトロールさんの話を聞く体制を作る。
トロールさんは、さっきまでの私たちの話したことをわかっていたようで、ゆっくりモゴモゴとした声色で話し始めた。
「オイハ…アノ日、森ノ中デ、赤イ髪ノ魔族ト会ッタ。両腕ニ竜族ノ鱗ヲ持ッテイルノニ、人間ト同ジ顔ヲシタ、不思議ナ魔族ダッタ。ソノ魔族ヲ、オイハ自分ノ集落ニ連レテ行ッタ。村ノ者モ彼女ヲ迎エテクレタ。ダケド、ソノ子ハ何日モ何モ食ベテナクテ、腹空カセテイテ、オイハ森デ猪ヲ獲ッテ食ワシタ。
食イ終ワッテカラ、子ドモハ人間界ニ行キタイト、オイニ言ッテキタ」
「人間界に…?も、もしかして…」
お姉さんが、声をあげる。
それを聞いたトロールさんは、また頷いて話をすすめた。
「母ヲ助ケタイ、ト、ソノ子ドモハ言ッタ。ソンナ事ハ無理ダト、オイハ言ッタ。ダケド、子ドモハ聞キ入レナイ。ソレドコロカ、一枚ノ手紙ヲ、オイニ見セタ。ソコニハ、コウ書カレテアッタ。『コノ者ノ手助ケヲシテ欲シイ』。差出人ハ、先代ノ魔王様ダッタ」
「まさか…!先代様のご指示だったと言うのですか!?」
サキュバスさんの言葉にトロールさんは頷いた。
「魔王様ハ、彼女ヲ母親ノモトニ帰ソウトシテタ。父ヲ失ッタ彼女ハ魔界デハ除ケ者。デモ、彼女ハ腕サエ出サナケレバ、人間ト見タ目ハ同ジダッタ。魔界ハダメデモ、人間界ナラ生キテイケルカモ知レナイ。ソレニ、人間界ニハ、母モイタ…。オイハ、仲間ガ協力シテクレテ、転移魔法陣ヲ使ッテ、彼女ト人間界ニ行ッタ。オイハ、石ニ姿ヲ戻シテ、彼女ガ母ヲ探スノヲ手伝ッタ。デモ…アル時、立チ寄ッタ小サナ町デ、彼女ヲ黒イマントヲ羽織ッタ一団ガ取リ囲ンダ。ソイツラハ、素材ガ何トカ、ト言ッテ、彼女ヲ捉エ何処カヘ、連レテ行ッテシマッタ…」
そこまで話したトロールさんは、私が見てもわかるほどに、体を震わせた。
「オイハ…オイハ、逃ゲタ…戦ウ事ガ怖クテ、オイ、逃ゲタ…魔王様モ、彼女ヲオイニ任セテクレタ仲間モ、彼女モ、オイハ、裏切ッタ…」
その言葉は、あの夜、トロールさんがお姉さんに言った言葉だった。
あのときは…私のことだと思っていたけど…もしかしたら、トロールさんは大きな傷を負って、魔力を失って朦朧として、そのときの幻を見ていたのかもしれない。
トロールさんは、もしかしたら、ずっとそのことを背負っていたの?
私を助けてくれたのも、そのときのことを思い出したから…?
「トロール…」
妖精さんがつぶやくようにそう言って、トロールさんのそばへと羽ばたいてその肩をさする。
私も、お姉さんもサキュバスさんも、理由はそれぞれあるんだろうけど、とにかく一様に言葉をなくしてしまっていた。
だけど、私は考えていた。
その子は、その後どうなったんだろう?
殺されちゃったのかな?
それともまだどこかで生きているの?
もし…もし、生きているのんだとしたら、私、その子を助けてあげたい…そのお母さんって人も探して、会わせてあげたい…
お父さんが死んで、お母さんとも離れ離れになったままなんて…そんなの、絶対に悲しいしさみしい。
放っておいちゃいけない…だって、私は、それがどれだけ悲しいことか、少し分かる気がするから…
「お姉さん、私、その子を探したい」
私はお姉さんにそう言った。
「その子、生きているんなら助けてあげたい。その子も、私と同じで家族を奪われて、それまで同じ街に住んでいた人達からも嫌われちゃったんでしょ?
それって、私と同じ。私にはお姉さんが来てくれたから短いあいだで住んだ。でも、その子はまだひとりで悲しい思いをしているかもしれない。私、そんな子を放っておけないよ」
「し、しかし…彼女は人間に連れ去られたのですよ?その後、彼女が魔族の血を引いていると知れれば、無事でいるとも思えません…」
私の言葉にサキュバスさんが少し戸惑った様子で言う。
でも、それを聞いたお姉さんは静かに首を横に振った。
「トロール。その子を拐った、ってのは、黒いマントの集団だったんだな?」
「ソウ」
「そのマントに、こんな紋章の入った帯留めがついていなかったか?」
お姉さんはそう言うと、勇者の紋章を光らせて、その一部を指差して見せた。
「ソ、ソレハ…」
「付いてたのか?どうなんだ?」
「ツ、ツイテタ…」
「やっぱりそうか…」
お姉さんは紋章を消して、ふうとため息を付いた。それから、詰まるような声色で言った。
「…恐らく、魔導協会の連中だ」
「まどう、きょうかい?」
サキュバスさんがお姉さんの言葉をなぞる。
「ああ。人間界は、民を治める王と、貴族や民からなる王政審議会、そして魔導協会の三つの組織からなってる。王は国を治めるための政策を決めて、実行する。王政審議会は、法律を決めたり制度を作ったりするんだ。そして魔導協会は法の番人。法律を侵した者を処罰したりするんだ。その一部に魔法も含まれる。魔導協会は法律関係を守る傍らで、魔法の研究に勤しんでいるところだ。あたしの勇者の紋章の管理もそこでやってた」
「そ、そんな人間たちが、どうして彼女を?」
サキュバスさんがまたお姉さんに聞く。
サキュバスさんの様子はいつの間にかまるで自分の妹か何かが巻き込まれているような感じになっていて、どこかすがるようにお姉さんを見つめている。
「魔族と人間の血を引く、半人半魔の存在がいるとしたら…あいつらの考えそうなことだ」
半分が人間で、半分が魔族…?
私はその言葉を聞いてハッとした。
そ、それってもしかして…
「それ、お姉さんと、一緒…?」
私の言葉に、お姉さんはコクリと頷いた。
「あいつら、もしかしたら…その子を使っていにしえの勇者を再現しようとしたのかもしれない…両方の紋章をその子に与えて」
「…自らの息の掛かった者に、世界を統べさせようと…?」
サキュバスさんが全身を固くしてお姉さんに聞く。
「息の掛かった、ってのはたぶんその通りだと思う。世界を統べる意思があるかどうかは分からないけど…」
サキュバスさんの言葉にそう返事をしたお姉さんは、少しだけ明るい顔をして私を見た。
「だから、もしあいつらがあの子の出自を知って拐ったのなら生きていると思う。まともな環境にいるとは思えないけど…」
まともな環境にいないかもしれないけれど、生きている…私は、それを聞いて微かにめまいを覚えた。私は、知ってる。
人が、辛い環境に追い込まれたときに思うこと。
“いっそ、死にたい”。
父さんと母さんが死んだとき、私もそう思った。
明日からどう生きていったらいいかもわからないで、寂しくて、どうして私は一緒に死んじゃわなかったんだろうって、なんどもそう思った。
その子は…そんな環境で今も生活しているかも知れない、ってこと…?
「お、お姉さん…その子がどこにいるのか、って、分かる?」
「あ、うーん、多分、王都。あそこには、魔導協会が作った施設があってさ。戦争孤児や何かがそこに移されてくる、って話だ」
私の質問に、お姉さんは表情を曇らせて答えた。王都…そこにいるんだね、その子が…!
「お姉さん!」
私は、お姉さんに向かって声をあげた。
自分を奮い立たせたかったからだ。
お姉さんは、魔界を作り直す仕事がある。
サキュバスさんはその手伝いをしなきゃいけない。
トロールさんも妖精さんも、人間界に行けば、たちまち捕まってしまう。
その子を助け出せるとしたら、それは、私しかいない。
「王都に送って!その子、私が助けてくる!」
「はぁ!?」
私の言葉に、お姉さんはイスから飛び上がりながらそんな声をあげた。
「だって、お姉さんもサキュバスさんも魔界のために仕事をしなきゃならないんでしょ?それなら代わりに私が行って、助け出してくる。人間の世界のことなら、もしかしたら私にもどうにか出来るかもしれない!」
「ダメだ!相手が悪すぎる…そこいらの人拐いでも危なっかしいあんたにそんなことさせられない。魔導協会の、特に魔法を研究しているやつらは危険なんだ。もし捕まったら、何かの魔法の実験台にされてもおかしくはないんだぞ?」
「じゃぁ、その子を放っておくの!?前の魔王さんが言った通り、その子は私たちと同じなんだよ?お姉さんと同じ、魔族でも人間でもない子で…ううん、人間でも魔族でもある子なんだ!そんな子を、私、放っておけないよ。その子はきっと辛くて寂しいって思ってる。魔王になったお姉さんが感じてたみたいに、自分には仲間も助けてくれる人もいない、って、そう感じてるかもしれないんだよ!?」
私は気持ちをわかってもらいたくって、思わず大声になってしまいながらお姉さんにそう伝える。
お姉さんは、一瞬、表情をくぐもらせたけどすぐに
「ダメだ…あんたを行かせるわけには行かない!」
と首を横に振った。
確かに、お姉さんが反対するのは当然だと思う。
私は、弱いし、まだ子ども。
魔導協会ってのがどんなところなのか、どんな人たちがいるのかも分からない。もし、その子を連れて帰ろうとしているのがバレたら、たちまち捕まってしまうだろう。
でも、じゃぁ、知らんぷりして何もせずにいるだなんて、私には出来ないよ…!
「魔王様…私からも、伏してお願いいたします…こちらの事は、私に出来ることあらば何なりと取り仕切りいたしますので…彼女を、助け出していただけないでしょうか…?」
不意に、サキュバスさんがそう言って、テーブルに手をついてお姉さんに頭を垂れた。
それを見たお姉さんは、くっと喉を鳴らして動揺している。
「魔王様!私の魔法を使えば、見つからずに人探しできるですよ!」
さらに妖精さんがそう口を挟む。
「お姉さん、お願い!せめて、無事かどうかを確かめるだけでも良いから!」
私は、もう一度お姉さんにそうお願いする。
サキュバスさんが言うように、もしお姉さんが一緒に来てくれるんなら、必ずうまくいくはずだ。
魔界の事は、少しの間サキュバスさんにお願いして、一週間でもその子を探す時間が取れれば、その子に、必ず助けに来てあげる、って伝えることができれば…
「魔王サマ。オイカラモ、オ願イスル。今度ハ、オイモ戦ウ」
トロールさんも、お姉さんにそう言う。
私たちは揃って、お姉さんに視線を向けていた。
そんなお姉さんは、私たちひとりひとりの顔を見ると、ややあって大きくため息を吐いて言った。
「戦って勝てる相手じゃない。あいつらは勇者の紋章を管理できる魔法技術を持っている連中だ。あたしが知らないだけで、もしかしたら勇者の紋章を無力化する技術を開発しているかもしれないし、あたしが規格外だとしても、強力な術者でさえ、数人掛りで封印魔法でも使われれば魔法を封じられる。やるんなら、それなりの準備と覚悟が必要だ…」
お姉さんは、私達の目を見つめ返してきた。
「どんなことが起こるかわからなくても、私、その子を放っておけない」
私はお姉さんに伝えた。
「先代様の希望は、私達の希望となるやもしれません」
サキュバスさんもそう言う。
「オイハ、モウ一度、役目ヲ果タス」
トロールさんも、小さな体でお姉さんに訴えた。
「えっと…えっと、私は…私も、頑張るですよ!」
最後に妖精さんがすこし困りながら言う。
そんな妖精さんの言葉を聞いたお姉さんは、ちょっと気が抜けた様な表情でクスっと笑った。
「…分かったよ、あたしの負けだ。こっちでやらなきゃいけないことを整理して、サキュバスに引き継ぐ。その間に、向こうの情報を探ってくれる奴がいないか、考えておくよ。乗り込んでいって片っ端からぶっ壊すわけにいかないからな」
「お姉さん!!」
私は思わずイスから飛び降りてお姉さんに飛びついていた。
「お姉さん、ありがとう!」
私は精一杯の心を込めてお礼をいい、お姉さんにギュッと抱きつく。
そんな私の体をお姉さんは優しくなでてくれた。
「まったく…あんた達の頼みとあっちゃ、断りづらいったらないよ」
そんな私の耳にお姉さんの、ちょっと嬉しそうな声が聞こえてきていた。
***
バタン、と音がして、お姉さんが濡れた髪をタオルで吹きながら寝室に入ってきた。
私は、サキュバスさんに魔法の授業をしてもらっているところだった。
「魔王様、お帰りなさいませ」
「あぁ、邪魔して悪い。続けて続けて」
お姉さんはそんなことを言いながら、私とサキュバスさんの様子を見つつ、サキュバスさんがお風呂の前に持ってきてくれていたお茶をカップに入れてグビグビと煽る。
「では、最初から、ゆっくりと」
「はい…」
私はそんなお姉さんの様子を意識からはじき出して、目の前の水の入ったガラスコップに集中する。
触れていないガラスの中の水の温度を手のひらで感じ取り、質感を感じ取る。
サラサラとした水の感触を手のひらに意識したまま、中の水だけを動かすようにコップの周りで手のひらをクイっと動かす。
すると、ユラリ、とコップの中の水面が揺れた。
もう少し…集中して…呼吸をする感じで水の温度と手触りを吸い込んで、動かす…動かす…動かす…
ユラリ、ユラリ、と水面が揺れる。
やがて水面の揺らめきは微かな流れになり、コップの中で水がゆっくりと渦を巻いて回転を始めた。
「お…おぉっ!」
不意にそんな声が耳元のすぐ近くで聞こえたものだから、びっくりしてしまった私は
「ひっ!」
なんて声をあげて肩をすくめてしまった。
「あ…ごめん」
振り返ると私の肩ごしにお姉さんが顔を突き出していた。
「もう!お姉さん!びっくりしてやめちゃったじゃない!」
私はせっかく感じがわかって来ていたのに、と思ってそうお姉さんを非難してぷっと頬を膨らませる。
「あー、だからごめんって!まさかこんなに早く基礎をこなすようになるとは思ってなくてさ」
お姉さんはバツが悪そうにそんなことを言って苦笑いを浮かべた。
「ですが、よく出来ていらっしゃいましたよ。これなら、近いうちに保護魔法程度は成功するかもしれませんね」
「ホントですか?」
サキュバスさんがそう言ってくれたので、私は嬉しくなってついついベッドの上で飛び跳ねてしまう。
とたん、ガンっと言う鈍い音と共にスネに痛みが走った。いけない、はしゃぎすぎてテーブルに脚をぶつけちゃった。
そう思った瞬間、私はテーブルの上のコップが倒れるのを見た。
こぼれる!
だけど。
コップはまるで見えない何かに押し戻される様に、ふわりとテーブルに収まって、中の水をゆらゆらと揺らした。
「あっぶな」
そう言ったのは、お姉さんだった。
お姉さんは、いつの間にか軽く掲げていた手の指先をちょいちょいっと動かして見せる。
今のは…サキュバスさんが三つ葉を動かしたときと同じ…?
「今のは、風の魔法?」
「あぁ、そうそう。風の魔法は、空気を操るんだ。ほら、あの山で偽勇者達をぶっ叩いたのもこの魔法。密度をギュッと上げて、高速でぶつけてやれば石飛礫なんかよりも強烈なんだ」
お姉さんは私の質問にそう答えながら、さらにヒョイヒョイっと指先を動かす。
すると、どうだろう。
コップの中に入っていた水が全部、ふわりと宙に浮かび上がった。
「そ、それは…水の魔法?」
「いや、これも風。水の魔法は、水や氷を“飛ばす”事は出来ても“浮かせる”ことはできないんだ」
お姉さんはそう言いながらまたチョイチョイっと指を動かすと、宙に浮いた水を顔の前まで運んで、まるでそれを食べるみたいにして口に入れてゴクリと飲み込んだ。
「あー!まだ練習しようと思ったのに!」
私がそう言ったら、お姉さんはクスっと笑って
「夜ふかししないでもう寝ようよ」
なんて言いながら私に圧し掛かってきた。
お姉さん相手に抵抗なんてできるはずもなく、ううん、そもそも抵抗する気もないけれど、とにかく私はお姉さんにされるがまま、ベッドに横たわってお姉さんの腕枕に頭を載せていた。
「そうですね、今日はもうお休みになられてください」
サキュバスさんが柔らかく笑ってスクっとイスから立ち上がる。
「サキュバスもさ、一緒に寝ないか?ベッド広いし」
「いいえ、遠慮いたします」
「なんでだよ?イヤか?」
「とんでもございません。ですが、私は朝早く起きて食事の準備をしなければなりませんので、お二人にご迷惑を掛けてしまいます」
「だからさぁ、それも一緒にやるって。タダ飯食らいは罪なんだぞ?」
「その分、魔界の…いえ、世界のために働いて頂いているではありませんか」
サキュバスさんの言葉に、お姉さんは次の言葉を告げなくなる。
お姉さんの気持ちもわかるし、サキュバスさんが一緒ならお姉さんと三人でもっといろんなおしゃべりをしながら眠れるのに、って思うけど
でも、サキュバスさんにはサキュバスさんのやらなきゃいけないことがあるのも分かる。
「お姉さん、今はサキュバスさんの言う通りだよ。お城の兵隊さんや他の従者さんが戻ってきたら、もう一回お願いしてみようよ」
「ちぇっ、しょうがない。それまで我慢だなぁ」
私がそう言ってあげたらお姉さんは少しだけ不満そうな表情を見せてからすぐに笑顔に戻って
「んじゃ、おやすみ」
とサキュバスさんに言う。
「はい、おやすみなさいませ。魔王様」
「おやすみ、サキュバスさん、お姉さん」
私も、サキュバスさんとお姉さんにそう挨拶をして目を閉じた。
するっと布の擦れる音がして、お姉さんが布団をかけてくれる。
トストスと、サキュバスさんの靴がフカフカの絨毯に沈む音も聞こえる。
窓の外からは、虫の鳴き声。
穏やかで、暖かな、幸せな夜…
「――――!」
「――――! ―――!」
ん…?
なに、今の…?
私は、静寂の中に聞こえるいつもとは違う音に気がついて、目を開けた。
お姉さんもそれに気がついているようで、体を起こし聞き耳を立てるようにしてジッとしている。
「声、ですか?」
サキュバスさんが訝しげにそういう。
「そうらしい…妖精ちゃん、まだ起きてるか?」
「はいです!」
お姉さんの声に、壁際の棚の上に置かれた小さなベッドから妖精さんがパタタっと飛んでくる。
「そばに居て、もしものときは姿を隠してやってくれ」
お姉さんはそう言って私の頭にポンっと手を載せる。
何があったんだろう?よくわからないけど、お姉さんとサキュバスさんが少し緊張しているのがわかって、私も体が硬くなった。
「ゴーレムに対応させます」
「あぁ、頼む」
サキュバスさんの言葉にそう返事をしながらベッドから降りたお姉さんはパパっと瞬く間に寝巻きを脱ぎ捨てて明日の朝着替えるために置いてあった鎧下を着込み、ズボンに脚を通してブーツも履く。
剣のベルトを腰に回して、ふぅ、と静かに深呼吸をしてからゆっくりと窓の方へと近づいていた。
妖精さんが私の肩にとまって、私の服をギュッと握るのが伝わってくる。
そ、そういえば、トロールさんが…!
私は、隣の部屋で眠っているはずのトロールさんのことを思い出した。
お、起こしに行ったほうが良いかな…?あ、で、でも、トロールさんは昼間眠っていて夜は起きてるはずだよね…?
こ、この声、トロールさん、ってわけじゃないよね?
そんなことを考えていた私の耳に、サキュバスさんの声が聞こえてきた。
「人間です」
「なんだって?」
その言葉に、お姉さんが声をあげた。
「ゴーレムは、そう判断しているようです」
「数は…?」
「各門のゴーレムに様子を見させていますが、どうやら東門にひとりだけのようです。もっとも、気配を消しているのだとすればゴーレムで探知するのは難しいので、確かではありませんが…」
それを聞いたお姉さんは、東門が見える窓の方へと移動していく。
私も、下の様子が気になって、お姉さんの脇へと向かって外を覗いた。
「危ないよ、下がってな」
「危なかったらすぐ逃げるよ」
心配はさせたくないから、そうとだけ伝えて窓の下に視線を送る。
東の庭が見える。月明かりに照らされて、芝生が輝いていて、綺麗な景色。
前の魔王さんは、こんな景色も楽しんでいたに違いない。
「魔王様…門の外の者は、勇者様、と声を上げているようです」
「勇者…?あたしがここにいる、ってことを知っているのか?」
「そのようです」
それを聞いたお姉さんは、うーん、とうなって口元に手を当てる。
お姉さんを知っている人はきっとたくさんいる。なんてったって勇者様だから。
でも、そんな勇者様が魔王城にいるってことを知っている人は、そんなに多くはないはずだ。
「も、もしかして、南の城塞にいた人の誰か、かな?」
私はふと、昼間のことを思い出してお姉さんに聞いてみる。
お姉さんは首をかしげながら
「可能性は、ある…」
と静かな声でいい、ややあって部屋の方を振り返り、サキュバスさんに言った。
「門を開けてくれ」
「よろしいのですか?」
「相手が分からないことには、判断の仕様がない。けど、もし敵だったらあたしがここから離れるのは愚策だ。仮に敵なら、ここで一緒にいれば、何が来ようが守ることはできる」
それを聞いたサキュバスさんは、コクっと頷いた。
ガコン、と窓の外から物音がする。
外に視線を戻すと、門の両脇のゴーレムが、門の閂を外していたところだった。
ギギギ、と金属の軋む音が聞こえて、門が微かに開かれる。
その隙間から、ゆっくりと、何かを警戒している様子で、人影が入ってきた。
ひとりだけ。
暗いし、マントをかぶっていて誰かをうかがい知ることはできない。
不意に、その人物はその場から飛び退いた。同時に、何かが月明かりを反射してキラリと光る。
「剣を持ってる」
あれ、剣?
じゃ、じゃぁ、お姉さんを狙ってきた、敵!?
私は思わず、両手をギュッと握り締める。
「ゴーレムに制圧させますか?」
サキュバスさんが、冷たい口調でそう尋ねた。
「いや…待て。ゴーレムに驚いただけみたいだ」
お姉さんはそう返事をする。
確かに、下にいる人物は剣を抜いたみたいだったけど、自分からゴーレムに斬りかかったりはしていない。静かに、ゴーレムと対峙しているように見える。
「他の門の様子は?」
「今のところ、異常はないようです」
「よし…今度こそ、下がってろ」
お姉さんはそう言うと私をずいっと後ろに押しやって、窓の鍵を開けて開け放った。
「何者だ!?」
お姉さんがそう怒鳴り声をあげる。
そんなお姉さんに、下にいる人らしい声が帰って来た。
「…!勇者様!」
その声に、私は聞き覚えがあった。
力強くて、でも透き通っていて綺麗な、女の人の声。
私は、パッとお姉さんに飛びついて、脇の下から顔を捻じ入れて外を見やった。
窓の下の人物は、羽織っていたマントのフードを脱いだ。暗闇に、ブロンドの髪が浮かび上がる。
あの姿、間違いない!
「…兵長!あんた、なんだってこんなところに!?」
お姉さんが驚いた声をあげる。
そう。窓の下にいたのは、砂漠の街の憲兵団にいた、あの兵長さんだった。
「勇者様、こんな夜中に申し訳ありません!至急に付き、ご容赦願います!」
兵長さんは、焦った様子でそう叫ぶ。
「何事だ?」
そう声を掛けたお姉さんに、兵長さんはきっと本当に急いでここまできたんだろう、肩で息をしながら言った。
「魔界北部の城塞が魔王によって奪回されたとの報を聞き、王都騎士団を中心とした即応部隊が行動開始!すでに我が街に駐留し、明日にも魔界への侵攻が始まります!」
***
お姉さんさんが、さっき消したばかりのランプに灯をともした。パッと部屋が暖かな橙色の光に包まれる。
そんな中で、兵長さんは肩で息をしながらじゅうたんの上にうずくまっていた。
本当に急いで来てくれたんだろう。あちこち泥だらけで、汗まみれで、砂漠の街で会った兵長さんのあの凛々しさは見る影もない。
そんな兵長さんの背を、お姉さんが優しく撫でた。
「息を吸え…ゆっくり、ゆっくりだ…」
お姉さんの声かけに、兵長さんはゼイゼイと息を切らしながら頷いている。
パタン、と静かな音がして、サキュバスさんが部屋へと戻ってきた。その手にはトレイを抱えていて、お水の瓶にお茶のセットと、それから夕飯に食べたお芋を潰して焼いた魔界のパンと、それから干し肉にあのリンゴって果物も乗っている。
「ありがとう」
お姉さんのお礼にサキュバスさんは淑やかに頷くと、トレイをテーブルに置き、瓶からコップにお水を移して兵長さんの傍らにしゃがみこむ。
「お水です、召し上がれますか?」
サキュバスさんの声に顔を上げた兵長さんは、コップを受けとると大きく息をついてから口に付けて一気に飲み干した。
でも、足りなかったみたいでコップをサキュバスさんに返しながら
「も、申し訳ない…もう一杯、頂けないだろうか…?」
と頼んでいた。
サキュバスさんが入れたおかわりをまた一気に飲み干した兵長さんは、ようやく少し呼吸が整いはじめる。
お姉さんも私もサキュバスさんも、兵長さんの様子を落ち着くのをじっと黙って待っていた。
やがて、ふぅ、ふぅ、はぁ、と何度か深呼吸を繰り返した兵長さんがようやく顔を上げて私たちを見た。
「勇者様、このような時間にお伺いしてしまい、申し訳ありません」
「急いで来てくれたんだろう?感謝してる。それで、状況は?」
謝った兵長さんを嗜めたお姉さんは、さっき窓のところで言っていた話の続きを促す。兵長さんはコクりと頷いて口を開いた。
「一昨日未明、狼狽した魔導士が我が街へと現れました。彼は、魔王がよみがえった、北部城塞が壊滅の危機だ、と我々に訴えました。その報は団長の指示で、すぐに転移魔法で王都へと知らせられました」
そこまで話した兵長さんは、急にゲホゲホとむせむせかえった。
お姉さんに背を撫でられ、咳を納めてサキュバスさんが差し出した三杯目のお水を一口飲んでから、兵長さんは続ける。
「…その報が届いた段階で、彼…黒豹さんを捕らえるよう、私に命令が来ました。しかし、そのようなこと、出来るはずもなく、私は彼とともに街を出、あの森へと身を隠しました。ですが、その晩、即応部隊とおぼしき軍勢が、戦略転移法陣で我が街へに集結。私達は、密かに街へと戻り、情報を仕入れました。それによれば、即応部隊は、夜明けには魔界へ侵入する…とのこと」
兵長さんは言い終えるなり、がっくりとうなだれた。
「申し訳ありません…私にもっと力があれば、あるいは止めることができたかもしれないのに…!」
そう絞り出すように口にした兵長さんは、じゅうたんの上でギュッと拳を握る。
「黒豹は、無事なのか?」
「…はい。今は、先の魔界侵攻で使用した戦略転移法陣を見張っています。動きがあれば、これで連絡を付けると」
お姉さんの言葉に、兵長さんは懐から拳よりも一回り小さい石ころを取り出した。そこには、何かの模様が描かれている。あれは…魔方陣…?
「念信をやり取りするための法術か…」
念信…それって妖精さんがやってた、遠くにいる仲間に何かを伝えるための魔法だよね…?
お姉さんは、その石をギュッと握りしめながら、兵長さんの肩を叩いた。
「兵長、知らせてくれてありがとう。すぐに対策を考えなきゃな…とりあえずあんたは、ここで食事をしてその後で汗でも流してくれ。その様子じゃ、夜も寝ないで走ったんだろう?」
「し、しかし、勇者様…!」
声をあげて立ち上がろうとした兵長さんを、お姉さんが押し戻す。
「一刻だけでいいから、とにかく休め。そんな状態で居られても、気を使っちゃってかえってやりづらい」
「……はい…分かりました…」
兵長さんの言葉を聞くと、お姉さんは満足そうに立ち上がって、妖精さんを見やった。
「なぁ、妖精ちゃん。この魔方陣が繋がってる先と話を出来たりするかな?」
石を見せながら、お姉さんは妖精さんに尋ねる。妖精さんは石ころを覗き込むと、真剣な表情で頷いて
「出来るですよ」
と緊張した口調で返事をする。それを聞いたお姉さんは苦笑いで
「良かった。後で頼む」
と頭を振りつつ言った。それから今度は私に視線を送って来る。
「あんたは、兵長についてやっててくれ。食事の世話と、あと、風呂にも案内してやって。あたしはサキュバス達と暖炉の部屋に居るから、終わったら兵長と一緒に来てくれよ」
「うん、分かった」
私も妖精さんと同じようにお腹に力を入れて答えた。
人間の軍隊が攻めてくる…もしかしたら、また戦争が始まっちゃうかもしれない。それも今度は、あの村にいたときとは違う。
人間の軍隊はお姉さんの敵としてきっとこの魔王城を目指してやってくる。お姉さんのそばにいれば、必ず戦争の真っ只中に巻き込まれることになるんだ…
正直に言えば、怖い。でも、私は逃げたいとは微かにも思わなかった。戦争が、戦いが起こるんなら、私は誰よりもお姉さんのそばにいてあげなくちゃいけないから…
それが一番安全だし…それに、もしお姉さんがまた、人間と戦わなくっちゃいけなくなったときに、私は、お姉さんと一緒に血を浴びるつもりで居る。
そんな場所でこそ、お姉さんを一人になんて出来ないんだ。
お姉さんに、お姉さん一人にこれ以上辛い思いをさせちゃいけないんだ…
「じゃぁ、頼む。兵長、一刻だ、しっかり休めよ」
私の返事を聞いたお姉さんは、厳しい顔つきをしてサキュバスさんと視線を合わせると、私と兵長さんに背を向けてトストスとじゅうたんの上をドアの方へと歩いて行く。
そんなときだった。
「勇者様…!」
兵長さんが、お姉さんを呼び止めた。
「どうした?」
お姉さんは足を止め、不思議そうに兵長さんに振り返る。そんなお姉さんに兵長さんは、すがるような表情できいた。
「勇者様…魔界の北部城塞駐留部隊は攻撃したのは…勇者様なのですか?」
まるで、胸をダガーで刺されたんじゃないか、って思うくらいの重くて鋭い痛みが走った。あの日のお姉さんの姿が、私の脳裏のありありと思い浮かぶ。
その話は…お姉さんが…!
私は、お姉さんの顔をみやった。
お姉さんは、今にも泣きだしそうな顔をして、じっと、兵長さんを見ていた。
「あぁ…あたしだ。あたしがやった…」
「なぜ…そのようなことを…?」
「言い訳は、しない…我を忘れて、気がついたときには、血まみれだった」
お姉さんはそう言って俯いた。兵長さんは、信じられない、って様子で、お姉さんを見つめている。
なにか…なにか言わなくっちゃ…で、でも、何を?獣人の子どもが殺されたこと…?だけど、お姉さんが黙っているのにそんなことを私から話してもいいの…?
そう戸惑っていると、顔つきを変えた兵長さんが口を開いた。
「勇者様…」
その表情は、まるで、何かを振り切るような、覚悟を決めたように、私には見えた。
「黒豹さんと、夫婦になれば良いと仰った勇者様はまだ、あなたの中にいるのですか?」
それを聞いたお姉さんは、兵長さんに向き直って言った。
「あたしは、今でもそう思ってる。兵長、あたしはあのときのまま、なに一つ、変わってないよ」
「そう…そうです、よね…」
お姉さんの言葉に、兵長さんはホッと息を吐き、じゅうたんの上にひれ伏した。
「勇者様、微かでも疑念を抱いたこと、お許しください…」
「うん…信じてくれて、良かった…」
お姉さんは静かに深呼吸をして、また、私達に背を向けた。一歩踏み出したお姉さんを兵長さんがまた呼び止める。
「勇者様…あなたを信じ、この身をお預け致します…どうか、如何様にもお使いください」
それを聞いたお姉さんは、兵長さんをチラっとだけ見て、言った。
「ありがとう、兵長。なら、命令だ…その子の指示に従って、一刻半、休息を取れ。それが終わったら、きっちり役目を与えよう」
「はっ…で、でもあの、半刻延びてますが…」
「二刻にしようか?なんなら、一晩寝かせてやりたい気分なんだ…と、とにかく命令だからな!ちゃんと守れよ!」
お姉さんはそう言い残すと、サキュバスさんを従えて部屋から出ていった。
少しの間、兵長さんは呆然と、私は、安堵の気持ちで、身動きが取れなかった。
でもややあって立ち上がった兵長さんに促されて、兵長さんが軽鎧を脱ぐ間に、私は食事の支度を始めた。
私はなんだか暖かい気持ちで少しだけ胸が膨らんでいた。
命令だからな、なんて言って出ていったお姉さんの頬が涙で光っていたのが、たぶん見間違えじゃないって、そう思えていたから、ね。
***
カタンと小さな音がして、脱衣場から兵長さんが出てきた。
サキュバスさんが用意してくれた絹の織物を羽織って、両腕にはお風呂に入る前に着ていた軽鎧と鎧下の服を抱えている。さすがに剣は絹の織物の上から腰に巻いた鞘に収まってはいるけれど。
「すまない。ずっと待っていてくれたのか?」
兵長さんは私にそう尋ねてくる。
「はい。でも、妖精さんとおしゃべりしていたからすぐでしたよ」
私は肩に止まっている妖精さんと目と目を合わせてから兵長さんのそう言ってあげた。
確かにそれほど長い時間待っていたわけではないし、妖精さんと話していたことも本当だ。
でも、楽しくおしゃべりしていたってわけではない。ずっと、お姉さんのことを話していた。
戦争になったらどうすればお姉さんの心を守れるのか…妖精さんも私も、そのことで頭が一杯だった。
妖精さんもそうだって聞いたときには、私は一人で悩んでいたんじゃないんだって思えて嬉しかったけど、だからといって肝心のお姉さんを守る良い方法が思い浮かぶわけではなかった。
結局のところ、私も妖精さんもお姉さんのそばを離れない、なんていう、ぼんやりとしたことをお互いに考えているんだってことが確認できたくらいだ。
「そうか。それなら良かった」
兵長さんは私と妖精さんの小さな思いやりの嘘を受け止めてくれて柔らかな表情でそう言ってくれた。
でも、次の瞬間にはすぐに厳しい目付きに戻って
「では、勇者様のところに頼む」
と私達に言ってきた。まだ一刻半にはなっていないけど…
でも、きっと早く行って話をしたいんだろうっていうのは分かったから、私は黙って頷いて、座っていたイスからピョンっと飛び降りた。
お風呂場を出て、点々と灯ったランプに照らされた薄暗い廊下を、暖炉の部屋まで歩く。不思議なことに、こんな夜中でもお城には怖さを感じなかった。
階段を上がって出た別の廊下を進んでいると不意に兵長さんが言った。
「妙なものだな…ここが、魔王城…」
振り返ると兵長さんは珍しげにキョロキョロと辺りに視線を走らせている。
私が見つめているのに気付いた兵長さんは首を傾げて
「もっと、罠があったり恐ろしい彫像でもあるものかと思っていたが…」
なんて言う。本当にそう思う。私だって最初にここへ来たときはそう思ったし、今も暗い廊下なのに全然怖くなんてない。
夜の街や、初めて行った宿屋さんの廊下の方がもっとずっと歩きたくなんてないと思う。
「先代の魔王さんって人が嫌ったんだと思います、そう言うの。私は会ったことはないし、話でも少しだけしか聞いたことがないんですけど、たぶん、お花とか星空とか、草の緑とか、そう言うものが好きな人だったんじゃないかなって思ってます」
私がそう言うと、兵長さんは何だか感心したようでまた辺りをキョロキョロと見回しては、
「言葉だけでは信じがたいが…しかし、この中にいると確かにそう感じるところは疑いようもないな。湯浴みを頂戴したあの浴室も、心休まる作りだった」
兵長さんの言葉に私は頷く。お風呂場は湯船もお姉さんが足を伸ばして広げても大丈夫なくらい大きい上に、壁や床には白いきれいな板石が敷き詰められていて、
数少ないランプの明かりが反射するのでそれだけでも気持ちがホッとするような部屋になる。
それだけじゃなく、サキュバスさんが育てたお花が飾ってあったり、湯船に薬草が浮いていたり、お香が炊かれていることもあった。
きっと、サキュバスさんがその日ごとに手を加えてくれているんだろう。
サキュバスさんの心遣いはお風呂だけじゃない、お姉さんや私達の使うところもそうでないところも隅々に優しい心配りがされているのを私は知っていた。お姉さんの心を守るためには、私もサキュバスさんの心遣いを身に付けておく必要があるかもしれない。
そんなことを話ながら歩いて、私達はお姉さんとサキュバスさんの待つ暖炉の部屋に到着した。
コンコンとドアをノックしてからノブに手を掛けて押し開ける。
部屋にはお姉さんとサキュバスさんに、トロールさんもいた。
「早かったな。休めたか?」
お姉さんの言葉に、兵長さんは深々と頭を下げて
「お心遣い、痛み入ります」
とお礼を言う。でも、それを聞くつもりがあるのかないのか恥ずかしいのか、お姉さんは
「まぁ、座って。お茶でも飲みながら作戦会議だ」
と兵長さんを招き入れた。
当然、私も部屋に入って行ってテーブルについたら、お姉さんが怪訝な顔をして
「あんたは寝てて良いんだぞ?」
なんて私に言ってきた。
正直に言えば、眠くないかと言われたら眠いし戦争とか戦いのことなんて難しくって分かる気もしない。
でも、私はお姉さんに言ってやった。
「一緒にいるのが私の仕事だよ!」
「そうです、私もいるですよ!」
私の言葉に妖精さんも続く。するとお姉さんは嬉しそうに笑ってくれて
「ありがとう…でも、眠くなったら無理するなよ。子どものうちから夜更かしなんて良くないからな」
なんて言って私達を気づかってくれた。
「さて…兵長。続きを話そう。人間軍はどの程度の数を揃えてる?」
お姉さんは大きなソファーに私と兵長さんを促しながらそう言った。
「はい。数は恐らく即応部隊五千と、魔界に駐留しているうちの残る東部城塞と南部城塞のそれぞれ五千ずつが合流すると思われます」
「しめて一万五千…相当な数ですね。そんな規模の兵をたった二日で準備出来るものなのですか?」
ソファーに座った私と兵長さんに、サキュバスさんがそんなことを言いながらお茶を出してくれる。兵長さんはそれを受け取ってサキュバスさんに会釈をしていた。
「仮に、もしあたしが攻めた北部城塞から誰かが転移魔法を使って人間界に避難していたとしたら、あり得ない話じゃない。即応部隊ってのは言わば常備軍だ。戦争後も解体されずにいた電撃戦用の部隊。運用は、戦略転移法陣って言う巨大な転移魔法の魔方陣を使って、移動先に魔法陣があればそこに即時展開することが出来る。魔導協会の高位の術者が百人ばかり同行しているからな。問題は、残ってた東部城塞の駐留部隊と、今日説得に成功したと思った南部城塞の部隊だ。南部城塞のあの司令官、この挙兵を知ってたからあたしの撤退勧告に応じる振りをしたんだろう。食えないやつだよ」
お姉さんそう言って歯噛みをした。
私もそれを聞いて何だか悔しい気持ちになった。あの司令官の人、部下の大尉って人の暴言を許さなかったり、お姉さんの話をちゃんと聞いてくれたり、
いい人だと思ったのに…全部お芝居だった、って言うんでしょ?そんなの、ずるい!
「では、その部隊は魔界の北、戦争で最初に人間軍が魔界にやって来た際と同じ場所に展開する、と?」
「いや…あのときとは状況が違う…恐らく、やつらが集結するのは…東部城塞。あそこに戦略転移法陣が描かれていると思って間違いないと思う」
「東部城塞!?ここから一日半しか離れておりません!」
お姉さんの分析に、サキュバスさんが珍しくそう声を大きくした。
「勇者様。魔界の…魔族の軍備は、如何ほどに?」
「軍はない。いや、あるにはあるんだっけ?」
「はい。ですが、戦争で無事だった部隊2000程は現在各地で治安維持に当たっていて、とても対応出来るとは思いません…」
「まぁ、そっちの方が重要だもんな。戦力なんて、あたしひとりだ」
お姉さんが宙を見据えてそう言う。悲しい表情だ。でも、きっとお姉さんがやれば、人数なんて関係ない。
それは人間や魔族がどれ程集まったところで、この地面に穴を開けることは出来ないのと同じ。お姉さんの力は…お姉さんは今はもう、自然そのもの。
いや、自然が持ってる以上の力を扱うことが出来るんだ…本当はお姉さんは使いたくないんだろうし、私も使って欲しくないとは思うけど…
「問題は、南部城塞がどう動くか、だ」
お姉さんは視線を兵長さんとサキュバスさんに戻して言った。
「南部城塞の部隊が本隊と合流するつもりなのか、それともここを本隊と挟撃するつもりなのかでこっちの出方が変わる。もし合流して攻め込んでくるようならまとめて相手をすればいいけど、もし挟撃してくるとなると、少し困ったことになる」
「こちらの戦力は、ほぼ、魔王様お一人…」
サキュバスさんが呟くように言った言葉を聞いて、お姉さんはコクリと頷いた。
「何も、サキュバスや兵長の力を信じていないワケじゃない。でも、普通に考えて、サキュバス、兵長、トロールの三人で五千からなる南部城塞駐留部隊を相手取るのは難しいと思う。戦場が二箇所に分かれるようなことになると、その分、危険が大きい」
「…二面作戦になると…」
「多分な」
今度は小さな声で言った兵長さんの言葉に、お姉さんは頷く。
「素直に考えれば東門と南門の二箇所への攻撃になるだろうけど、こっちの戦力を分散するのが目的なら東西の門を抑える可能性もある」
どんなに数がいたって、お姉さんがその気になれば敵じゃないってのは分かる。でも、そのお姉さんは一人しかいない。
あっちとこっちとで戦うのはきっと簡単なことじゃないだろう。
もっとなにか、違う方法を考えた方がいい気がする。
そう思って難しい話で少し眠くなり始めていた頭を動かす。
みんなも黙って難しい顔をしている中で、私もお茶をチビチビ飲みながら私なりに考えていたら、ふと、あの日のことがふっと頭に浮かんできた
「転移魔法はダメなの?」
私は、オークの集落でお姉さんが転移魔法を使って憲兵団の人達を呼び出したのを思い出してそう聞いてみる。
でも、お姉さんは力なく首を横に振った。
「あたしの転移魔法は強制転送魔法とは違うんだ。入り口と出口に必ず魔法陣が要る。魔法陣さえ描ければ出来ないことじゃないけど、一万五千なんて数を送れるほどの戦略転移法陣を人間界に描いて来たことはない…あたしと一緒に魔王城を目指した仲間の魔導士なら、強制転送魔法の魔法陣くらい知ってるだろうけど、あいつ行方不明だし…」
そう言えば、お姉さんが転移魔法を使うときは必ず出てくるところにも魔法陣が必要だって話は覚えている。
その都度、妖精さんが描いているのを見ていたし…だとしたらやっぱりダメ、か…
私はまた、グッと胸を押し込まれるような気持ちになる。
「魔王様…もし仮に、勇者の紋章のみで一万の人間軍と戦うことになったとしたら、勝つことは可能でしょうか?」
一瞬の沈黙を破って、サキュバスさんが口を開いた。
「どうだろう…勇者の紋章だけだと、ギリギリの戦いになるかも知れない。どうしてだ?」
お姉さんがサキュバスさんにそう聞くと、サキュバスさんはグッと息を飲んでから言った。
「魔王の紋章を…私に移すことが出来れば、私が南部からの部隊の迎撃を仰せつかることができるやも、と…」
サキュバスが、魔王の紋章を!?
私は驚いて声をあげることも出来なかった。
お姉さんも驚いたみたいで、サキュバスさんをじっと見つめている。
「もちろん、魔王様に反旗を翻そうなどとは考えておりません。
しかし、それが出来ればもしかするとうまく事を運べるかもしれません」
サキュバスさんはお姉さんをまっすぐに見つめて言った。
サキュバスさんが、魔王の紋章を譲ってもらったからと言ってお姉さんと戦うなんてことは考えられない。サキュバスさんは、私にお姉さんを一緒に支えようってそう言ってくれたんだ。
お姉さんの魔王の紋章を貸して欲しいって言うのは、私がお姉さんの苦しみを一緒に感じようとしているのと同じこと。
お姉さんの苦しみの半分を受け止めて、お姉さんの負担を軽くしたいって、そう思っているからに違いない。
お姉さんは、黙ってイスをたつと、サキュバスさんの側まで近づく。サキュバスさんも険しい表情で席を立ち、床に跪いてお姉さんを迎えた。
「もし合わなければ、かなり苦しいぞ」
お姉さんがサキュバスさんの差し出した手を握りそう言う。サキュバスさんはコクっと黙って頷いた。
お姉さんは目を瞑り、ふう、っと深く息を吐く。サキュバスさんの手を握っていた左腕が赤く輝き始めた。
紋章の形がはっきりと浮かび上がり、輝きがさらに強さを増して行く。そんなときだった。
「あっ…かはっ!」
部屋に苦悶する呻き声が響いた。サキュバスさんが、跪きながら胸に手を当て、表情を歪めている。
「サキュバスさん!」
私が叫んでイスから飛び降りたのと、お姉さんの腕から光が消えたのとがほとんど同時だった。
サキュバスさんが床に崩れ落ちそうになったところを、お姉さんが抱き止めて優しく仰向けに支える。
駆け寄った私が見たのは、顔いっぱいに汗をかき、あんな一瞬の出来事だったのにげっそりと疲れた表情になったサキュバスさんだった。
「…ダメ、だったのですね…」
「あぁ…皮肉なもんだな。人間のあたしには適合して、先代の魔王のそばにずっと使えてたあんたには合わないなんて…」
「いいえ…器、というものはそのようなものでございましょう…」
サキュバスさんは辛そうな顔に微かに笑みを浮かべて言った。そんなサキュバスさんの額の汗をお姉さんが指先で拭う。
「水です」
不意に声がして顔を上げたら、優しい顔でサキュバスさんにコップを差し出す兵長さんの姿があった。
サキュバスさんはまた弱々しい笑顔を浮かべるとコップを受け取りゆっくりと何度が口を付けて、ふうと息を吐いた。
「人間が皆、人間様や兵長様のようであったら、先代様も、魔王様も、そのような顔をすることもありませんでしたでしょうに…私を斬らずに生きることを選ばせてくださったあなた様が…同胞たる人間を手に掛けるようなこともなかったでしょうに…」
突然、サキュバスさんの目から大粒の涙がこぼれた。涙は、あとからあとから溢れ出て来て止まらない。
「どうして私達はこうなってしまうのでしょうか…どうして、望みもしない戦いなどに身を投じねばならないのでしょうか…」
サキュバスさんの言葉に、私はハッとした。
そうか…きっと、先代の魔王さんも、今日のように戦わないで済む方法を考えていたんだ。
お花と星と緑が好きだったんだろう先代の魔王さんだって、きっと戦い以外のことをしようとしたんだ。
だけど、結局は戦う他になかった…だから、戦争が起こっちゃったんだ。
サキュバスさんは、きっとその時のことを思い出してしまったんだろう。
たぶん、今もそれと同じなんだ。
サキュバスさんも、お姉さんも、たぶん、兵長さんもわかっているんだと思う。
一番確実で、一番効果のある方法は、お姉さんが力を使って人間の軍隊を押し返すことなんだ、って…
それがわかったら、私まで胸が苦しくなって涙が溢れて来そうになった。
「…やれることは最後までやろう。あたしは、そのときまでは諦めないぞ…」
お姉さんは優しい声色でそう言うと、サキュバスさんの頬の涙を拭った。
それから顔をあげて、私に、妖精さんに、トロールさん、兵長さんの顔を順番に見つめた。
「今から東部城塞へ行って、夜が明ける前に主力を城塞から撤退させよう。でも、もし手間取って南部城塞の部隊がこの城を目掛けて進軍して来たときに、あんた達をここに残したままには出来ない。だから、一緒に着いて来てくれないか…?最後の最後まで説得をして、例えそれがダメで本隊と戦うことになっても、人間を斬らなきゃいけなくなっても、必ずあたしが守るから」
お姉さんの目には、悲壮な覚悟が見えた。
お姉さんは、もしものときはやるつもりだ。魔界から人間を追い出すために…ううん、それだけじゃない。
戦いが起こっても起こらなくても、きっと魔族でも人間でもないお姉さん個人が、人間の軍隊からの憎しみを一手に引き受けるつもりなんだ。南部城塞であの司令官に言ったように…
そんなの…お姉さん一人に押し付けるわけにはいかない。その気持ちだけは、私だって心に決めているんだ。
そう思って私はお姉さんの目をじっと見据えて、黙って頷いてみせた。
***
それからすぐに、私達は出立の準備を整えた。
私は、魔王城に来るまでにお姉さんが揃えてくれたマントに、サキュバスさんが用意してくれた革のベルトを腰に巻いてダガーを通した。
お姉さんも鎖帷子に肩当てと胸当ての着いた簡素な鎧に腰にはいつもの剣、兵長さんも軽鎧に身を包み引き締まった表情をしている。
サキュバスさんもマントを羽織っていて、杖の先に刃が付いた短い槍のような物を携えている。
妖精さんも小さな体に合う小さなマント姿。トロールさんだけは、これまでの姿のままだ。
「トロールさん、その姿でいいの?大きくなっておかなくて…」
私がそう聞いてみたらトロールさんはコクりと頷いて
「オイハ、マダ魔力ガ戻ッテナイ。コノ姿ガ、一番」
と教えてくれた。
そっか、あの大きな体になるためには魔力を使わなきゃいけないってお姉さんが言ってたっけ。石から戻ったトロールさんには、まだそれが出来ないんだな。
そんなことに納得していたら、お姉さんが私達に向かって言った。
「みんな…ありがとう。ここから先は、あたしがなんとか頑張ってみる。もしものときは…サキュバス、みんなを守るために、結界を頼む。あたしが教えた術式なら、魔力攻撃だろうが物理攻撃だろうが、しばらくは無力化できるはずだ」
「承知しております。魔王様も、決して無理はなさらないでくださいね」
「あぁ…分かってる…もし、説得がうまく行かないようなら、遠慮はしない…全力で行く」
サキュバスさんの言葉にそう言って頷いたお姉さんは私達に手を差し出した。その手をサキュバスさんが握り、さらに兵長さんも手を添える。
私は胸に込み上げた緊張感をお姉さんを助けるんだって気持ちで押さえつけて手を伸ばす。
妖精さんはいつも通りに私の肩に、トロールさんは私のマントを握った。
「行くぞ」
そう静かに口にしたお姉さんは、色んな思いを振り払うように目をつぶった。その刹那、パッ辺りが明るく光った。
冷たい風の肌触り。火が燃える匂い。目の前には、昼間見た南部城塞の門に良く似た石造りの城壁があった。
「な、な、な、何者だ?!」
「ま、魔族!?」
城壁に開いた門の両脇に居た兵隊さん二人が、そう言って私達に槍をつき出して来る。
お姉さんはそんな二人を一瞥すると、サッと腕を払った。
パキンっと鋭い音がして、槍の刃先が弾けるように折れて飛んでいく。
「責任者に会わせてくれ」
お姉さんは短く、低く、落ち着いた声色で言った。だけど、その声は二人の兵隊さんを威圧するには十分だった。
二人は声にならない悲鳴をあげると、一人はその場に腰を抜かして崩れ落ち、もう一人は開け放たれた門の中へと逃げ出して行った。
もう、あとには引けない…胸が押し潰されそうな緊張感を振り払いながら、私は辺りを見回す。城壁の中だけじゃない。
城壁から延びている土の道の両脇にはたくさんのテントが立ち並んでいる。たぶん、あれも兵隊さん達のものなんだろう…
想像はしていたけれど、その数の多さに、私は緊張が高まって来るのを押さえきれない。テントの間を何人もの兵隊さんが行き来している。
その人達だけでも数えきれないほどなのに、城塞の中やあのテントの中で休んでる人達だってきっといるはずだ。
あのとき、私達を取り囲んだオークなんかとは比べ物にならないくらいの規模…それが全部、私達に向かってきたら…
お姉さんの力を信じていないんじゃない。これほどたくさんの人とお姉さんが戦うとなったら…きっと、辺り一面、血の海になるだろう…
不意に、ガーンガーンガーン、と鉄か何かを打ち鳴らす音が聞こえだした。
こ、この音は…?!
少し驚いて、私はそばにいた兵長さんのマントを握ってしまう。
それに気付いた兵長さんは優しく私の頭を撫でて
「戦の鐘の音だ。三回は、非常召集の合図…どうやら、司令官クラスの人間には話が届いたようですね」
とお姉さんに話を振る。お姉さんも頷いて
「あぁ…さすが即応部隊。伝達が早いな…緊急事態への対応は見事だ」
なんて、険しい表情をみせた。
「サキュバス、結界を。ここから先は、いつ何をされるか分からない。背後から毒矢で射るくらいのことはやれる連中だ」
私はお姉さんの言葉に思わず後ろのテントの方を振り返った。
するとテントから武器を携えた兵隊さん達が次々と出てきて、それぞれの場所に集合を始めていた。
あんなに…あんなにたくさん…。
「王下騎士団、武器を持て!」
「法術隊は厳戒体制!城塞へ防御陣を張ってください!」
「全軍へ伝達、西門前に侵入者!」
ドヨドヨと門の中が騒がしくなる。でも、お姉さんは動かない。ただじっと、何かを待っているようだった。
私も、サキュバスさんも兵長さんもそんなお姉さんを見てか、じっとして次に起こることを待っている。
でも、私は正直、緊張が恐怖に変わりつつあった。お姉さんの力が信じられないなんてことじゃない。
だけど、私達を敵と決め付けている人達がこんなに大勢で私達に武器を向けてくる…こんな状況、戦いを知らない私にとっては、恐ろしいと感じないわけはなかった。
思わず私は、今度はサキュバスさんのマントを握ってしまう。
すると、サキュバスさんがそれに気づいて、私にすっと手を伸ばして来た。私はすがるような心持ちでその手を握る。
ふと、サキュバスさんの手が微かに汗ばんでいるのが分かった。サキュバスさんも、緊張しているんだ。
ペタンと、また兵長さんの手が頭に降りてくる。
「サキュバス殿。魔方陣もなしに結界が張れるのですか?」
「はい、兵長様。結界魔法は風魔法の基本にして真髄。すでに周囲五歩ほどに何重も大気層を展開してございます」
「なるほど…素晴らしいお力ですね」
兵長さんはそう言いながらも地面を踏み直し、周囲に気を配っている。兵長さんからも緊張が伝わってくる。
妖精さんが私の肩にギュッと捕まって来る。妖精さんは私よりもずっと恐いって感じるだろう…
唯一、トロールさんだけからはそんな様子は伝わって来ないけど…でも、トロールさんだって戦いが怖かったって言っていた。
こんなにたくさんの敵になるかも知れない人達に囲まれているんだ。どんな人でも…きっとお姉さんだって怖くないはずはない。
でも…だからこそ私達は慌ててはいけないんだ。私達にはお姉さんがいる。
私達は力ではお姉さんに頼るしかないけど、お姉さんだって私達に頼ってくれているんだ。
だから、お姉さんがここに立っている限り私達もお姉さんを支えてあげなきゃいけない。壊さしてなんかに負けているときじゃないんだ…!
「各隊、重装!近接戦闘準備!」
「王下騎士団は後衛の司令部警護に回れ!」
「二番から四番軽騎隊!各隊へ伝令急げ!」
「即応第一中隊!副司令と参謀長の傍に!身を賭してお守りせよ!」
城壁の中の様子がにわかに慌ただしくなる。
松明が何本も灯り、武骨な鎧に身を包んだ一団が近付いて来るのが分かった。
どの人も剣や槍を携え、私達を威圧するようにガシャガシャと金属を擦らせる音をさせている。
その鎧の兵隊さん達の真ん中に、二人、他の人達とは違う目立った軍装をした人の姿があった。
一人は、細かな装飾が施された、夜の暗闇にも映える銀色の輝く鎧を着こんだ男の人。もう一人は、軽鎧を身につけて、身の丈ほどの弓を背負った女の人。
二人の姿を見たお姉さんが呻いた。
「剣士に…弓士…」
お姉さんは明らかに同様していた。どうしたのか聞こうとも思ったけど、お姉さんの様子に言葉が出ず、私は兵長さんを見上げた。
すると、兵長さんもグッと気持ちを押し込めるような表情で二人を見やっている。
でも、兵長さんは私の視線に気がついてくれて、私が聞きたかったことを感じ取ってくれたようで、静かな声で教えてくれた。
「勇者様の、かつての仲間だ。人間界防衛、魔界遠征、魔王城攻略…どんな戦場でも、あの二人は、常に勇者様のそばに在った…」
お姉さんの、昔の仲間…?
私はそれを聞いて、ポッと胸に微かな安心が灯るのを感じた。
お姉さんと一緒に戦って来た人達なんだ…それなら、お姉さんの言葉が届くかも知れない。お姉さんの気持ちが伝わるかもしれない…!
二人と、二人を守るために重装備をした兵隊さん達が、私達から十歩くらいのところで足を止めた。息が詰まる沈黙で、緊張感が戻ってくる。
不意に、弓士さんが口を開いた。
「なんのつもりですか…勇者様」
その声色は、戸惑いと、そして緊張に満ちていた。
「…単刀直入に言う。兵を引かせて欲しい」
お姉さんが言うと、弓士さん達がにわかに警戒感を強めたのが感じられた。
待って…お姉さんの話を、ちゃんと聞いて…!
「やはり、北部城塞を襲い、南部城塞に現れ撤退勧告をしたのはあんたで間違いないようだな」
今度は剣士さんが口にした。剣士さんの口調は刺々しい。まるでお姉さんを責めるような、そんな感じだ。
「あぁ…間違いない」
「一体何故…?まさか、魔族に肩入れするつもりなのですか!?」
「勇者よ、我らが魔族の蛮行によって受けた被害を忘れたわけではあるまい!?」
お姉さんの返事に、弓士さんが声を荒げてそう言う。さらに剣士さんもお姉さんにそう言葉を返した。
お姉さんは手をギュッと握り体を震わせながら、
「分かってる…なにもあたしは、人間を裏切るわけじゃない…だけど、一方的に魔族を弾圧して、魔族の生活や命を人間の勝手で奪い取って良いはずもない。そう思ってる」
と振り絞るようにして言う。
だけど、剣士さんも弓士さんも、そんなお姉さんの気持ちも知らないで、さらにお姉さんに言葉を浴びせかけた。
「人間世界を襲った魔族の生活などにどれほどの重みがあるのか!」
「勇者様、よもや王都西部要塞や砂漠の交易都市での戦いをお忘れになってなどいませんか!?彼の戦闘でどれ程の人命と財産が奪われたか!」
分かってない…この人達は分かってないんだ。
お姉さんが、それを知っていてなお、人間と魔族、両方の幸せを願っているってことが…その事で、どれだけ苦しんでいるか…!
私は二人の言葉を聞いて急に気持ちが熱くなっていた。
気がついたら私は、二人に負けない大声で言っていた。
「そんなのは分かってるよ!でも、魔族だって同じくらいひどい目にあってるんだよ!いつまでもその事を引きずって、戦争を繰り返していたら何も変わらない、何も進まないでしょ?!確かに戦争は在ったかもしれない。でも、じゃぁ、誰がいつ、どう終わらせるの!?魔族か人間の、どちらかが全滅するまでやるつもりなの!?魔族にだって、子どもがいる。戦えない女の人だっている。人間は、そう言う魔族の人達もみんな殺すって言うの!?」
「我等は、魔族を滅ぼそうなどとは思っていません。しかし、野蛮な者達は制圧し、力を以て制御していかねばならないこともあるんです。子どものあなたには分からないでしょうが…」
弓士さんが私を困った様子で言いくるめようとして来る。でも、その言葉にお姉さんが言い返した。
「それなら、あたしが全力をもって人間軍を打破し、魔族による人間世界の統治を行ったとしても文句はないんだろうな?」
「勇者…我等を裏切る気か!?」
「裏切りだと思うならそれでもいい。でも、答えろ。魔族に支配を強いることを認めると言うのなら、逆に人間が魔族に支配されることになっても致し方ないと、そう言うことか?」
「我等が魔族に屈することなどあり得ない!もう一度魔族が攻め混んで来るのなら、命果てるまで戦うのみだ!」
「それなら、ここであたしがあんた達を斬り伏せて追い返したとしても、文句はないな?」
「やはり…魔族側に着くと言うのか!」
「勇者様…目を覚ましてください!魔族の侵攻で命を奪われ、苦しめられていた人々に誰よりも心を痛めていたのは勇者様ではありませんか!」
剣士さんと弓士さんが、口々に言う。
ダメ…ダメだ。話が全く噛み合ってない。見ている世界が違いすぎる…
弓士さんも剣士さんも、魔族が敵だって、そうとしか考えられていない。人間と魔族、それぞれの立場に視点を変えることすら出来ないんだ…
このままじゃ、このままじゃ話し合っていてもきりがないよ…何とかしないと…なにか、なにか言葉を…!
「それなら…魔族がどうとかはもう考えなくていい。あたしとあんた達との話にしよう…北部城塞のやつらは、あたしが斬った。それは、あたしの理想にあいつらが挑んで来たからだ。ここでも同じだ。あたしは一個人として、あんた達の行動を許せないと思ってる。だから、この先へ進みたいんならあたしが相手になる。それでもここを押し通るか?北部城塞のやつらの敵討ちで、あたしの首を持って帰るか…?」
お姉さんの言葉に、剣士さんと弓士さんがたじろいだ。
お姉さんの言葉は寂しくて悲しいけど、魔族相手に戦うわけではなく、戦争の中を一緒に掻い潜って来たお姉さん個人と戦うと考えさせることが出来るのかもしれない…
例えそれを言うことが、人間の希望であるお姉さんが人間を裏切った、ってことになったとしても…
「勇者様…どうしてそこまで…?」
「あたしは…もう見たくないんだ…。血と肉塊に染まった大地も、家族を喪って泣くやつも、街を焼き尽くす火も、抵抗も出来ずに殺されて行くやつも…」
ギリっと、お姉さんは拳を握って、絞り出すような声色で言った。そう、それはお姉さんの本当の気持ちのはずだ。そしてきっと、その心は人間の軍だって同じはずなんだ。みんな守るために戦って、守ろうと思って傷付いて来たはずなんだ…人間だって…魔族だって、それと同じなんだよ…。
だけど、そんなお姉さんの言葉に返ってきたのは、剣士さんの冷めた口調の質問だった。
「ではなぜ、北部城塞の部隊を攻撃したのだ…?報告によれば、地獄絵図だったと言うが…?」
「そ、それは…!」
私はまた、声を上げていた。とにかく、必死に。
「人間の司令官が、魔族子どもを殺したからって…!だから、お姉さんは怒って…それで!」
「あの戦争で人間の子どもが犠牲になっていないとでも言うのか?もしそれが理由なのだとしたら、我等は魔族の民を力で捩じ伏せるくらいやさしいことだろう?再び戦争が起こらぬようにしようと言うのだ。皆殺しにしようと言うわけではない」
剣士さんは私に言い、そしてお姉さんを睨み付けた。
「勇者よ…俺はいささか貴様を買い被っていたようだ。魔族などという蛮族に肩入れし、同胞を手にかけ、どの口で幸せなどとほざくか!我等が魔族から受けた痛みを教訓とし、二度と同じことが起こらぬようにしたいと願うこの挙兵を邪魔するのであれば、その首を切り落として王都へ持ち帰る!」
「その方法が間違ってるんだ!力で無理やり押さえつけたところに平和なんてない…!少なくとも…北部城塞の司令官がやったことは道理から外れてる!あれを正当化しようってのか!?」
「それは貴様も同じことだ!たった一人の魔族の子どもの死によって、貴様がどれだけの人間を斬り殺した!?」
剣士さんがいよいよ声を荒げた。お姉さんは歯を食いしばって黙ってしまう。
「なぜ…なぜ、分かろうともしない!」
不意に傍らに居た兵長さんが吠えた。
「あなた方は、三年にも渡る戦争の間、勇者様と共に在って戦ってきたのではなかったか!?勇者様と同じものを見て、それをどう感じて来たのかも見てきたのではないか!?それなのになぜ分からない!?勇者様はただ、種族などという物を越えて勇者たり得ることを望んでおられるだけではないか!勇者はいつから人間だけの希望となった!?いにしえの勇者は、人間と魔族、それぞれが争うことなく生きていくことを願って大陸を二つに別かったのだ!今の勇者様は、それと同じ!いや、それ以上だと私は信じる!争いなど望んでいない…肌の色でも、姿形でも、文化の違いでもない…己が目で、目の前の者の心内を見ろと言っている!」
兵長さんの言葉は、一瞬、辺りに沈黙を生んだ。
「あなたは…交易都市の憲兵団にいた…」
「弓士様、剣士様…私は今ここで魔族すべての心内を理解して欲しいなどとは申しません。ですが、勇者様は共に死地を駆けた戦友ではありませんか。どうか…勇者様のお言葉に耳を傾けてはもらえませんか…」
兵長さんは、今度はトーンを落として弓士さんにそう言い、頭を下げる。
また辺りが一瞬、沈黙に包まれた。だけど、それもまたほんの短い時間だった。
「裏切り者の言葉など、信じられん。勇者…いや、かつて勇者だった者の言葉も、兵長、貴公の言葉であってもな」
剣士さんの乾いた声が響いた。その声色は、私には絶望の音にも聞こえるようだった。
「歩兵隊、剣を抜け!槍兵隊構え!」
「し、しかし、剣士!」
「惑うな弓士!やつは駐留部隊を半壊させている!ここで消しておかねば、後々の災厄になりかねん!」
「…っ!ど、弩兵隊、装填!法術隊は支援のために防衛魔法を発動!」
剣士さんと、その勢いに押された弓士さんが声高らかに叫んだ。とたんに、辺りを囲んでいた兵隊さん達がガシャガシャと金属音をさせ始める。
背後に居たテントを使っていた兵隊さん達も私達を取り囲んでいた。
もう、見渡す限り、兵隊さんだらけ…這い出る隙間もないくらいに…
「くっ…なんて浅はかな…!」
兵長さんがそう憎々しげに言いながら、腰に差していた剣を引き抜いた。
もう、ダメなのかな…戦わなきゃいけないのかな…?あんなに、あんなに悲しんでいたお姉さんに、また人間を殺させなきゃいけないの…?
どうして…どうして…?
私ですらそう思っていたのに、お姉さんが兵長さんに叫んだ。
「兵長、剣を戻せ…!戦いに来たんじゃない!一度やっちゃったら、取り返しがつかなくなる…!」
お姉さんは泣いていた。ボロボロに涙を溢して…だけど、それでもまだ、諦めようとはしていなかった。
「弩兵隊、放て!」
不意に、弓士さんがそう怒鳴った。
その瞬間暗闇から無数の光る何かが私達目掛けて飛んでくるのが見える。
「伏セロ!」
トロールさんの声が聞こえたと思ったら、私は足下から引っ張り倒されるようにして地面に転げていた。
パタパタパタ、っと音がして、地面に何かがたくさん落ちてくる。それは鉄製の矢だった。それが地面を埋め尽くすほどに散らばっている。
ふと、顔をあげると、サキュバスさんが片手を振り上げていた。
その指先がかすかに歪んで見える。か、風の結界ってやつ?
私達にはさらに矢が射かけられているけれど、そのすべてが私達の周囲五歩くらいのところまで飛んできては、まるで柔らかい布団に木の棒を投げ当てたみたいに勢いを失って地面へと落ちていく。
「結界魔法か!?えぇい、槍兵隊!一点突破して突き破れ!」
「待て…やめろ…!話を…話を聞いてくれ!」
剣士さんの言葉に、お姉さんがそんな金切り声をあげる。
そんなお姉さんの声に答えたのは、サキュバスさんだった。
「魔王様…ありがとうございます…ですが、もう結構です…。魔族のことよりも、私達のことよりも…私は、これ以上魔王様が傷つけられる様を黙って見ては居られません…。言い付けを守れぬこと、どうかお許しください」
サキュバスさんの表情には、悲しみと悔しさが満ちていた。
「サキュバス殿、付き合いますよ…お一人でこの数は骨が折れましょう」
「兵長様…えぇ、参りましょう…!」
兵長さんが、サキュバスさんと言葉を交わして剣を閃かせた。
「やめろ…!やめろ!サキュバス、兵長!」
お姉さんが涙を溢して叫んだ。
私にはもう、どうすることも出来なかった。戦いを止めることも、人間の軍隊を説得する言葉もない。もう、どうしようもないの…?
また戦いが起こって、お姉さんも人間の兵隊さん達も、サキュバスさんも兵長さんも傷ついちゃうの…?どうして…?
これが怒りなの?南部城塞の司令官さんが言っていた怒りって、こんなにどうしようもないものだったなんて…
人を、魔族を、まるで悪魔に変えてしまうみたいな感情…こんなのを、どうやって止めたらいいの…?
そんなことで頭がいっぱいになった私は、思わずお姉さんに飛び付いていた。自分でもよく分からない。
怖かったわけじゃない。きっと、お姉さんを守らなきゃ、って、一人にしちゃいけないって、ずっとずっとそう思って来たから、体が勝手に動いたんだと思う。
「頼む…二人共!やめてくれ…っ!?」
サキュバスさんと兵長さんを止めようと声を張り上げたお姉さんの言葉が詰まったように聞こえた。
何?お姉さん…どうしたの…?
「なに、これ…口笛!?どこから聞こえるの…!?」
耳元で妖精さんが言った。
口笛…?口笛が聞こえるの…?それを聞いて私は、つられるように耳を済ませる。
聞こえる…口笛だ…この旋律、知ってる…。子守唄だ。私が眠るときに、母さんがいつも歌ってくれてた子守唄。
おやすみなさい、かわいいややこ
あなたは母の宝物
泣くではないよ、かわいいややこ
あなたは母の腕の中
そら、おやすみなさい、楽しい遊びはまた明日
そう、あの歌だ…どうして…こんな状況で誰がこの歌を!?
「人間ちゃん!上見て!」
妖精さんが叫ぶ声につられて、私はお姉さんの胸元の埋めていた顔を起こして空を見上げていた。
そこには、何かが「いた」。
闇空に、松明の光を浴びてぼんやりと輪郭だけが浮かび上がっている。口笛の音が、さらに大きく響き始めた。
口笛の音だけど、口笛だけでこんなに大きな音なんて出るはずがない。これは…魔法か何か…?
私はふと辺りを見回す。剣士さんも弓士さんも兵隊さん達も、サキュバスさんに兵長さん、トロールさんもみんな一様に戸惑った様子で動きを止め、夜空を見上げている。
みんなの注意が自分に向いたことを確かめたように「それ」がゆっくりと動き出した。その動きは、まるで階段を下りてくるようだった。
でも、空中に階段があるわけない。でも、いくら見たところで、それは見えない螺旋階段を下りてくる姿そのものだった。
やがて、その姿がはっきりと見え始める。闇夜に紛れ込みそうな黒いマントを羽織り、フードを被っているのか顔は見えない。
肩に何か大きな物を担いでいるようだけど…あ、あれって…ひ、ひ、ひ、人!?
そのマントの人物は、明らかに人の形をした何かを担いでいる。
しかも担がれている人形の何かは、ぐったりとしている様子で…その、まるで、死体のようだった。
「あ、あ、あ、あ、あれ、何?誰…?し、死の神様…?」
妖精さんが震えた声で言う。
ゾクッと、背筋を悪寒が走って、私はあわてて首を振る。
そんなのがいるはずなんてない…
そういうのは、絵本の中だけの話だ。いるはずなんてない…いるはずなんてない…!
しかし、それでもその人は見えない螺旋階段を下ってきて、やがて、私達の目の前にストっと降り立った。
死神と言われたら、そうとしか思えない漆黒のマントをはためかせながら、その人は肩に背負っていた死体のような人の体をドサッと地面におろした。
私は、その顔を知っていた。
「くっ、黒豹さん!」
私が悲鳴を上げるよりも早く、兵長さんがそう叫んで地面に投げられた黒豹の隊長さんに駆け寄った。
「黒豹さん…黒豹さん、しっかり!」
「うっ…くっ…」
「黒豹さん!」
兵長さんが体を揺すると、黒豹隊長は呻き声を漏らした。
良かった…死んじゃってるのかと思った…
だけど、どうして黒豹隊長を?この人も…人間軍の人なの…?
そう思って、私は黒いマントを警戒しつつ睨み付ける。そんなとき、ふと、声が聞こえた。
「ジュウニゴウ…!」
お姉さんの声だった。
ジュ、ジュウニゴウ…って、何?名前…?
そんなことを考えていると、口笛の音が止んだ。
黒マントがお姉さんと私に体を向けてきて、そのフードを取る。
そこには、男の人の顔があった。年頃はお姉さんと同じくらいか、少し上に見える。兵長さんの髪より少し暗いブロンドの髪に無表情な…その、えっと…すごく、カッコいい顔立ち、だ。
「その名で呼ぶな、と言ったろう」
男は無表情でお姉さんにそう文句を言い、無造作に、乱暴にお姉さんの肩を掴んだ。
「魔王様!」
「勇者様!」
あぁ、まずい!
サキュバスさんと兵長さんが叫び、お姉さんが攻撃される、と思った私が腰のダガーに手を伸ばしたとき、
その男は、お姉さんの肩を捕まえていたのとは反対の手で、涙に濡れていたお姉さんの頬を拭った。
私がそうだったんだから、きっとサキュバスさんも兵長さんも同じで呆然としちゃっているだろう。
「泣き止んだか、お嬢さん」
男はそう言ってお姉さんの目を無表情でじっと見据えた。
それから思い出したように黒豹隊長に頭を振って
「ありゃぁ、お前の手駒か?」
とお姉さんに聞く。お姉さんは呆然としながら、それでも
「て、手駒って言うな…あたしの、部下…ううん、仲間だ」
と訂正する。男は、それを聞いてもなお無表情で
「そうか、ならもう少し手加減しておくんだったな。やつらに利用されるのがしゃくで戦争のときに描いた戦術転移法陣を消してたら後ろから襲われてもんで、思わず特大のやつをぶっぱなしちまった」
なんて言っている。
も、もしかしてこの人って…!
「魔導士!お前、今までどこに!?この遠征のための召集が行ったはずだろう!」
剣士さんが言った。
やっぱり、そうなんだね…この人が、お姉さんの仲間だった魔導士さんなんだ…もしかして、ずっとこの状況を見ていたの…?
お姉さんの敵なの…?そうじゃないの…?
「魔王様!」
不意にサキュバスさんが怒鳴って私がしがみついていたお姉さんと魔導士さんとの間に割って入って来る。
同時に兵長さんが魔導士さんの首筋に剣の切っ先をあてがった。
「こつらは?」
魔導士さんは、そんなことを気にも止めずにお姉さんに確認する。
お姉さんは私をギュッと抱き締めて、まるでその場に崩れるようにして座り込んでから言った。
「二人とも、あたしの大事な仲間だ。サキュバス兵長、やめてやってくれ。頼む」
お姉さんも言葉に、兵長さんが恐る恐る剣を下げる。サキュバスさんも、魔導士に向けていた手のひらをゆっくりと引いて下ろした。
「魔導士!勇者様を取り押さえます、力を貸してください!」
弓士さんが間隙を縫って叫び声を上げた。
それを聞いた魔導士さんは、弓士さんを鋭い視線で睨み付けた。
「一月しか食えない額の金と安っぽい勲章ひとつで三年も戦争をやらせるような雇い主、こっちが願い下げだ」
そう言い放った魔導士さんは、マントを翻らせてお姉さんと私に向き直った。
「おい。俺を雇う気はあるか?」
や、雇う…?お金がいるの…?魔王城、お金あるのかな…?お城は豪華だけど…宝物やなんかは見たことがない…で、でも!もし、お姉さんの仲間になってくれるなら…
「報酬は?」
お姉さんが、私をキュッと抱き締めて聞く。
見上げたところにあったお姉さんの表情は、まるで、離ればなれになっていた家族に再会できたような、安心と嬉しさに溢れているように私にはみえた。
「そうだな…住む部屋と朝昼晩三食を七人分だ。契約期間中、ずっとな」
それを聞いたお姉さんの笑い声が聞こえた。
「ついでに、間食と昼寝の時間もつけてやるよ」
え…?ご、ご飯と寝る部屋と…おやつに昼寝…?契約って、お金とか地位とかそう言うことじゃないの…?それだけでお姉さんの味方をしてくれるの…?
「さすが。一国の王ともなると羽振りが違う」
魔導士さんはそう言うと、二本指を立てて空へと掲げた。
その刹那、夜空がパパパッと輝いた。
か、雷…!?魔導士さんは雷を操るような魔法が使えるの!?
「さて…雇用主さん。どうする?揃って感電死でも、半殺しでも、お好きに指示してくれ」
また、空がピカピカっと光る。
私はそのときになって気が付いた。真っ暗な夜空に巨大な魔法陣が描かれていた。
「そんな…大気中にあんな強大な魔法陣を…!?」
サキュバスさんが空を見上げて絶句している。魔法を使えるサキュバスさんから見ても、あれはやっぱり普通じゃないんだ…
「全員向こうに送り返せ」
お姉さんは静かな声で言った。
そうだ…!お姉さん言ってた。魔導士さんなら送る先に魔法陣の要らない転移魔法が使えるって…!
「馬鹿言うな。強制転送は個別式だ。いくら俺でも、ここにいる半分も送れば力が枯れる」
「あたしが出力になってやる、良いからやれ!サキュバス、頼む!」
魔導士さんの言葉に、お姉さんはそうサキュバスさんに私を押し付けて立ち上がると、魔導士さんの肩に後ろから手を置いた。
袖を伸ばしたままのお姉さんの両腕から、青と赤の光が漏れ始め、その明るさが次第に強くなっていく。
「あぁ…なんだこいつは?いい気分だ…!」
魔導士さんはそう呟くと、やおら二本指を立てた腕を高く掲げて見せた。
「ま、まずい!総力攻撃!急げ!」
剣士さんが辺りに怒鳴った。雷の出現に戸惑っていた兵隊さん達がそれぞれの武器を取り直し、私達目掛けて迫って来る。
「来るか!?」
それに反応した兵長さんが剣を構える。そんな兵長さんに、お姉さんの代わりに私を抱き締めてくれていたサキュバスさんが叫んだ。
「兵長様!大丈夫です!そばを離れないで!」
そう言うや否や、サキュバスさんの体から暖かい何かが伝わって来る。
これ…魔力の感じ?サキュバスさん、魔法を?!
そう思った瞬間、私達の周囲を砂ぼこりを巻き上げる程の突風が吹き荒れ、まるで壁のように私達を囲い込んだ。
それこそ、向こう側が見えなくなるくらいの風の勢いだ。こんな中に飛び込んだら、たちまち吹き飛ばされてしまいそうなくらい…
「へぇ、生身にしてはずいぶんと強力だな」
「良いからさっさとやれ!」
のんきな魔導士さんの言葉に、お姉さんが怒鳴った。
「わかったよ。雇用主様」
魔導士さんは気だるそうな声色で返事をすると、今度は囁くように小さな声で言った。
「消えろ、クズ共」
空に伸ばしていた指を、魔導士さんがクっと折り曲げた。
その瞬間、辺り一帯が目を開けていられないほどに輝いた。
思わずつぶった目を開けるとそこには、あれだけ居た見渡すほどの兵隊さんの姿がどこにもなかった。剣士さんも、弓士さんの姿もない。
まるで今までのことがウソだったみたいに、誰も、何もいなくなった。
「ふぅ…」
そう息を吐く声が聞こえて振り返ると、お姉さんが膝から崩れ落ちて地面にへたりこんでいた。
「お姉さん!」
私はサキュバスさんの腕から離れてお姉さんに飛びつく。お姉さんは、疲れきった表情だったけど、私を受け止めて優しく抱きしめてくれた。
「ちゃんと送り返せたのか?」
お姉さんが私の頭をゴシゴシと撫でながら魔導士さんにそう聞く。
「さて、どうだろうな。慌てて描いた即席の魔法陣だから、座標も適当だ。石壁の間か、地面の中か、空中の高いところにでも出ていなけりゃぁ無事だろ」
「もしそうだったら、悲惨だな」
魔導士さんの言葉に、お姉さんはヘヘヘっと嬉しそうに笑った。
その笑顔は、私が今まで見てきたどんな笑顔とも違った。そう、まるで子どもみたいに、無邪気で、元気な笑顔だ。
もしかして、この魔導士さんは、お姉さんにとってすごく特別な人なのかな?その…恋人とか、そういう人なんじゃないのかな…?
私はそんなことを思ってお姉さんの顔を覗き込んでみる。
するとお姉さんはクスっと私にも笑顔を見せてくれて
「あとで話す。今はとにかく、城へ帰ろう」
と言って、またクシャっと頭を撫でてくれた。
「あっ」
不意に、妖精さんがそう声を漏らすのが聞こえた。
肩にしがみついていた妖精さんを見やると、何かを指差している。私は妖精さんの指の先に視線を向けた。
そこには、あの大陸を半分に割るようにしてそびえている山脈から、一筋の光が溢れている景色だった。
「日の出、か」
お姉さんの優しい声が聞こえてくる。
山脈から覗いた朝日が、私たちを明るく照らし出してくれる。
「オ、オイ、眩シイノ、ダメダ!」
トロールさんがそんなことを言って、私のマントに潜り込んできたので、私は思わず声をあげて笑ってしまった。
そんな私につられたのか、お姉さんも、妖精さんも、兵長さんもサキュバスさんも、なんだか楽しそうに笑い出す。
笑いながら、私は全身の力が抜けていくような、そんな感じを覚えた。
きっと、他のみんなもおんなじことを感じているんだろう。
どんなことだって、笑って力を抜きたい気分なんだ。
ひとしきり笑ってようやく収まったころには、サキュバスさんも兵長さんも、地面にへたりこんで、脚を投げ出していた。
何が終わったわけでもない。きっと、人間の軍隊はきっとまたやってくるだろう。
でも、それでも。
私たちはこのひと時の時間を堪能したかった。
「さて…それじゃぁ、俺はあいつらを連れて来るから部屋の準備をしておいてくれよ」
ただひとり、立ったままだった魔導士さんがお姉さんにそう言う。
それを聞いたお姉さんはサキュバスさんを見やった。
サキュバスさんも、すっかり安心した表情でコクン、と頷く。
「すぐに準備させる。そうだな…ついでに朝飯でも食いたい気分だな」
お姉さんがそう言うと、魔導士さんは無表情で言った。
「そうだな。そいつも忘れずに用意しておいてくれよ、ジュウサンゴウ」
魔導士さんの言葉に、お姉さんはクスクスっと笑ってから応えた。
「その名で呼ぶなってば」
***
それから私達は、魔導士さんがどこかへ転移魔法で消えていくのを見送り、魔王城には戻らずに一旦お姉さんの転移魔法で南部城塞へと向かった。
南部城塞では兵隊さん達が移動する仕度を万端に整えて、城塞の外に整列しているところだった。
司令官さんを見つけたお姉さんが、東部城塞の事を話して昨日の約束通り人間界へ帰るよう伝えると司令官さんは含み笑いをしながら
「再侵攻の話など聞いていない。もとより、撤退するつもりだが?」
なんてうそぶいた。
それを聞いたお姉さんもすまし顔で
「そうだよな?魔王城に攻め込もうだなんて考えないよな」
と言い返していた。
そんなやり取りを聞いていた私は、やっぱりこの司令官さんになんだか安心できた。
信用する、というのとは違うけれど…何て言うか、この人は軍人さんで、兵隊で、戦争を仕事にしている人だけど、少なくとも怒りの感情に支配されていない人だって感じられたからだと思う。理性的で、冷静だった。
南部城塞から兵隊さんが引き上げるのを見届けて、私達はようやく、魔王城へと帰りついた。
一晩中起きていたのと、度重なる緊張とですっかりヘトヘトになってしまっていたけれど、それでも私はサキュバスさんの朝食の準備を手伝った。
南部城塞から戻る少し前、お姉さんが魔導士さんから念信って言うのを受け取って、準備があるから朝食は済ませて来ると言っている、と教えてくれた。
だから朝は兵長さんの分を増やすだけで済んだからそれほど大変でもなかった。
魔導士さんは七人分、って言ってたけど、誰か家族でもいるんだろうか?それとも一人で七人分を食べるのかな?魔法をたくさん使うと疲れると前にお姉さんが言っていたから、あんなに強力な魔法を使う魔導士さんは普通の人より多く食べないといけないのかも知れないけど…それにしても七人分は多すぎるよね…どういうことなんだろう?あとでお姉さんに聞いてみよう。
そんなことを考えている間に準備を終えて、食堂に運んだ。
トロールさんは明るいのがダメで眠ってしまったようだったので、お姉さんに私にサキュバスさんと兵長さんと妖精さんだ。
黒豹さんは、まだ眠っていると兵長さんが言っていた。
心配したけれど、お姉さんが回復魔法を使ってくれたらしいから、目が覚めれば大丈夫って話だ。
全員無事だし、なにはともあれ…とにかく目の前の戦争は回避出来たからよかったよね、うん。
「ふわぁ…それにしても、さすがに眠いな…食べ終わったら一眠りしたいところだけど、部屋の準備もしないと行けないしなぁ」
お姉さんがだらしなくテーブルに肘をついて、ズズズっとスープを飲みながらそんなことを言う。
もう、お姉さんってばお行儀悪いよ?
「魔王様はお休みになられていてください。準備なら私が済ませて置きます」
サキュバスさんが、さも当然、という様子で言うとお姉さんはまた大きなあくびをしてから
「いやぁ、でもいろいろ力仕事になるだろうし…兵長と黒豹の部屋も用意しなきゃいけないだろ?」
と兵長さんに話を振る。だけど、兵長さんは兵長さんでしれっとしていて
「お気遣いなど無用です。私は客ではなく、この魔王城に遣える者になったつもりでいます。必要なことは自分で行うのが筋でしょう」
と、遠回しにお姉さんに休めと言わんばかりだ。
「兵長様は、私の私室の隣をお使いください。私とは別の侍女が使っていた部屋ですので、調度品の類いも一式揃ってございますし」
「それはありがたい」
サキュバスさんと兵長さんが笑顔を交わしながらそんなやり取りをしている。
「魔導士様は、そうですね…魔王様達のお部屋の下ではいかがでしょう?」
サキュバスさんは今度はその笑顔をお姉さんに向けて聞いた。
「あー、どうかな…ちょっと狭い気がする。出来れば二部屋用意してややりたいんだ」
二部屋?魔導士さんだけで二部屋なんてどうしてだろう?魔法の実験室とか、そういうのが必要なんだろうか?
そんなことを考えていた私は、ふと、さっきの疑問を思い出した。そう、魔導士さんが言っていた、食事は七人分必要ってやつだ。
食事は七人分で、二部屋ある方がいい、ってことは…
「魔導士様は…お連れ様がいらっしゃるのですか…?」
私が導き出したのと同じ答えを、サキュバスさんが口にした。
お姉さんはそれを聞いて、コクっとうなずいてみせた。それから私の方を見て
「説明する、って言ったもんな」
と言って笑うと、一口だけお茶を飲んでふうと息を吐いた。
「王都にある魔導協会本部の敷地内には、通称“選別所”って呼ばれてる場所がある。表向きは協会独自の孤児院の一部署なんだけど、孤児院なら王立のも、貴族の連中が私財を使って運営しているのがある。そう言うのに比べると、なんでやってるのか分からないくらい小さな規模の孤児院だ。あたしも、あいつもそこにいた」
魔導協会の、孤児院…
魔界から人間界へ行って、そこで捕らえられたっていう、あの竜族と人間との子どもがいるかもしれないって話していたところの事だ。
お姉さんも、そこにいたの…?
「勇者候補十三号。それがあそこでのあたしの呼び名だった。あいつは十二号。あの施設は、大陸中から勇者の紋章の器となる人間を探し出すことが目的だったんだ。親に施設へ送られてきたやつもいたし、あたしみたいに親が死んじゃって、他の孤児院に引き取られる前の調査で素質を見抜かれ連れて来られたやつもいた。そして、毎日戦闘の訓練と魔法の修練、それに勉強もさせられた。戦術とかそういうことのね。それで、数えで16歳になったやつから試されるんだ。勇者の紋章が封印されてる剣を握らされて、紋章を受け継ぐ器かどうかを、ね」
そう言ったお姉さんは宙を見据えて、あの悲しい表情を見せた。
「勇者、ってのは、血統じゃないんだ。もちろん、古の勇者の血を引いてるって一族は未だに王下貴族の一角として残ってる。でも、その血筋の人間がみんな勇者の名を継げるワケじゃない。この勇者の紋章は、人を選ぶ。
あたしは小さい頃、王都からずっと東にあった小さな村に住んでた。ある日さ、大火事が起こって、村のほとんどが焼けちゃったんだ。あたしは奇跡的に、なんでか生きてた。父親も母親も妹も、みんな死んじゃったってのに。火を消しに来てくれた魔導協会と王下騎士団に保護されて、あたしは王都に連れて行かれて孤児院に入ったんだ。
勇者候補十三号。あたしはそう名付けられて、勉強や武術、魔法の訓練をさせられた。もちろん、あたしだけじゃない。知っている限りでも勇者候補は五号から二十号までいた。四号より前の奴らは知らないけど…どうなったのか、はなんとなく知ってる。
あたしたちは、勇者の器としての素質を見出されてそこにいた。でも、勇者になれないやつ達に用はない。四号より若い番号のやつらは…勇者の紋章を引き継ぐことができずに、あそこを追い出されたんだと思う。実際に、あたしより若い番号のやつらはほとんどがそうなった。
あたしはそれが怖かった。親がいるやつらはいい。でも、あたしは違った。自分が勇者になれずに一人になって捨てられるのか、って…ずっとそう思ってた。勇者になれなければ捨てられる。自分より前の連中が勇者になっても、そのあとのやつらは同じように捨てられる。みんなで一緒に生活していたはずなのに、あたしたちはみんなひとりきりだった。
あたし達は自分以外の誰も信用できず、ただひたすらに自分自身が器であるってことだけを信じて、訓練に励んだ。
だって、勇者じゃなければ捨てられるんだ。そこに居たって一人きりのはずなのに、それでもあたしたちは捨てられることが怖かったんだ。一人で、どう生きて行っていいかも分からないところへ放り出されることを想像したら、どうしようもなく怖かった」
お姉さんは、そこまで話してブルっと体を震わせた。
「結局あたしは、勇者の紋章に適合した。でも…あたしが勇者の紋章を受け継いじゃったばかりに、あたしのあとの連中はいらない子になって、施設から追い出された。あたしの前にいた子たちもみんなだ…あたしは、他の勇者候補のやつらを犠牲にして生きた。それが…あたしの最初の罪、だったのかも知れない」
お姉さんはそう言って、クッと息を飲んでうつむいた。辛さをこらえているような、そんな感じだった。
「あたしは、怖いんだ。ずっと一人だったから。自分が一人だって知ってしまうのが怖い。一人になるのが怖い。失敗したら、周りから誰かがいなくなるかもしれない。自分が正しいことをしても、周りから誰かがいなくなるかもしれない。
だから、あんた達が一緒にいてくれるって言ってくれて嬉しかった。でも、同時にあんた達を失うかもしれないって思うと、あたし怖くて…仲間を犠牲にして生き残って、数えきれないほどの魔族を屠って、人間さえ斬ったこの血で汚れた手で、あんた達に触れていいのかって。こんな情けないみっともない姿を見せて、あんた達がどんな顔するのかって。それが、ずっと怖かった…ううん、今も怖い…どうしようもなく、怖いよ」
お姉さんはそう言って震える手を握りしめ全身をひどく震わせた。
でも、お姉さんはなんとか自分で気持ちを立て直して、話を続ける。
「そんな施設で、だったけど、一人だけ、変な奴がいた。それが、勇者候補十二号。あいつだ。あいつは、自分が勇者の器にはなれないってことをなんでか知ってたみたいだった。
そのせいか、あいつだけは周囲に優しかった。無表情のクセに、訓練でやりすぎてブッ倒れたあたしを看病してくれたのも、魔法をうまく操るコツを教えてくれたのもあいつだった。
誰も信用出来ない施設で、あいつだけは、どこか違う印象を与えてくれてた。あいつは、自分が紋章を受け継げないことを確認されて施設から追い出された。
でも、あたしが勇者の紋章を引き継いでしばらくして戦争が始まったとき、勇者一行の一人として名乗り出て来たのが今の魔導士だ。全身に命を削るほどの無数の魔法陣を彫り込んで、さ。
そこで、あたしはあいつに聞かされたんだ。
あたしからあとの、十四号から二十号までの勇者候補だった子供たちを、あいつが保護して育ててるんだ、って。その子供達の生活のために、魔導協会や軍部と取引をして、金をせしめる代わりにあたしの仲間になってくれた」
お姉さんは、お茶をグイっと飲み干してから、ふう、と深呼吸をしてさらに話を続ける。
「あいつは、子供達を助けてたんだ。それは、あたしにとっては…まるで、あたしの罪をあいつが雪いでくれたみたいな、そんな気がした。
あいつ、基本的に人間なんて信用してない。だからいつだって無表情だし、契約でしか物事を決めない。
でも、あたし達にだけは違った。たぶん、同じ境遇を生きてきた仲間だって、そう思ってくれているんだと思う。あたしも、もちろんそう思う。あいつは…あたしの恩人で…面倒を見てくれた、兄さんみたいなもんだな」
お姉さんはそこまで言うと、私を見やって、嬉しそうな、でもどこか寂しそうでもある表情でいった。
「だから、あいつが7人分の食事を摂るワケじゃない。あいつの他に6人、同じ勇者候補だった子供たちがいるんだ」
私は、なんにも答えられなかった。
お姉さんが…そんな人生を送ってきたなんて思ってもいなかった。
勇者様っていうのがどうやって選ばれるのか私は知らなかったけど、きっと貴族とかそういう人がなるんだって思ってた。
それなのに、お姉さんは私と同じで小さい頃の家族を失って、その上、そんなところに入れられて、ほとんど誰も頼ることもできずに生きてきたんだ。
もし私が、父さんと母さんが死んじゃったあとにトロールさんと出会うこともできず、そんな場所へ連れて行かれたらどんな風になってしまっただろう?
想像するしかないけれど…でも、きっとお姉さんの様になんていられない。
きっと、世界も、世の中にも絶望してしまう。誰かのことなんて思いやる余裕なんてきっとない。自分がどうなるか、ってことを考えるだけで精一杯だろう。
それなのに、お姉さんはそうじゃなかった。魔導士さんっていう支えがあったからかもしれないけど、お姉さんはそうはならなかったんだ…
「なるほど…それで七人ですか。納得いたしました」
不意にサキュバスさんが言った。その表情は、なんだか柔らかくて見ているだけで気持ちが温かくなる様な笑顔。
「でしたら、魔王様のお力をお借りするべきでしょうね…食事を終えたら、どうかお力添えをいただけますか?」
「そのような事であるなら、私も自分の事ばかりとは行きませんね。サキュバス殿、お手伝いいたします」
兵長さんも、どうしてか、穏やかな笑顔で言った。
「あぁ…サキュバスも、兵長も、ありがとう」
お姉さんは、改まって二人にそうお礼を言って頭を下げた。
私は、そのときになって気がついた。
そうか…お姉さんは、魔導士さんを兄ちゃんみたいだ、って言っていた。
あの人は、無表情で、契約がなんとか、なんて言う人だけど、お姉さんにとっては支えで、何があっても味方でいてくれる人なんだ。
それこそ、いつもキリっとしていて、私たちを守るために一生懸命な顔をしているお姉さんが、あんな子どもみたいに笑える相手。
サキュバスさんも兵長さんも、きっとそれが嬉しいんだ。
私達だけじゃない、他にもお姉さんが頼れる人がいることと、お姉さんが嬉しそうにしていることが…
そう思ったら、私ものんびりなんてしてはいられない。なんたって、お姉さんの大事な人達だもんね!ここに来てくつろいでもらえるように、私も準備を手伝わないと!
「お姉さん、私も手伝うよ!」
「私も、頑張るです!」
私と妖精さんはお姉さんにそう言った。お姉さんは、昔の話をしていたときの寂しい表情はどこへやらで、すっかり嬉しそうな表情を私に向けて
「あぁ!ありがとな!よろしく頼むよ!」
って、言ってくれた。
***
「あー、お姉さん!右!もう少し右!」
「え、右ってどっちだ?こっちか?」
「あ、ごめん逆!お姉さんから見て左!」
「魔王様、もっと下げないと天井にぶつかるです!」
「えぇっ!?こ、こうか?」
「もっとです!あと、羽妖精一人分!」
「えぇぇ!?んくっ…この体勢、きっつい…!」
お姉さんがたった一人で大きなベッドを担いで、部屋の前で中腰になりながらずりずりと摺り足で中へと慎重に進んでいく。
ここはいつも私達が寝ている部屋のちょうど真下にある。部屋の形は似ているけど、私とお姉さんが眠っている部屋に比べると少し狭い。
お姉さんと私と妖精さんはこの部屋に四つ目のベッドを運び込んでいる最中だ。
「兵長様、そのままお下がりください」
「はい。サキュバス殿、そちらは平気ですか?」
「このくらい、何てことはありませんよ」
隣の部屋ではサキュバスさんと兵長さんが私達と同じようにベッド運んでいる声が聞こえる。あっちは滞りなくやれているみたい。
それに比べて…
ガンッ!
「わぁー!お姉さん!だからそっちじゃないって!」
「うえぇ?こ、こっちか?」
ガコンッ!
「あぁっ!魔王様、また天蓋が引っ掛かってるです!」
「なにぃ!?くっ…ふぬぅ…!…っ!わっ!」
大きな天蓋付きのベッドを中腰で抱えて後ろ向きに進んでいたお姉さんは、均整を取り損ねたようで脚をもつれさせてドテっと床に転がった。
「わっ!ふんぬっ!」
とたんに、万が一のためにと風魔法でベッドを支えていた妖精さんが呻き声をあげる。
「痛たた…」
お姉さんはのっそりと起き上がりながらぶつけたらしいお尻を撫でている。そんなお姉さんに、妖精の叫び声が飛んだ。
「ま、魔王様っ!重いです…も、もう落ちちゃいますぅ!」
妖精さんは関係あるのかないのか分からないけど羽をパタパタと目まぐるしく動かしながら、苦しそうな表情で目をつぶり両手を光らせて魔法を発動させている。
「ご、ごめん!」
お姉さんは慌ててベッドに飛び付くとまた中腰になってベッドを支え、慎重に部屋の中に運び込んでとりあえず、とその場に置いてふぅ、とため息を吐く。
…サキュバスさんと兵長さん達に比べて、こっちはもう、ドタバタだ。
でも、運び込まなきゃいけないのはこのベッドで最後。タンスなんかは備え付けの大きい物があったから手間が省けた。
「ふぃー、ここで良いよな」
ベッドの配置を終えたお姉さんがため息とともに言う。
「うん、いいと思う」
私が言ったら、お姉さんは安心したようで満足そうな笑顔を見せてくれた。
あとはシーツと毛布を用意しないとね…
そう言えば、魔界では毛布の他に鶏さんの羽が詰まった掛け物がある。私もいつもの部屋で使っているけれど、ふわふわで暖かくて快適なんだ。
あれも準備してあげられたらきっとみんな喜ぶだろうけど…もしかしたら上等な品物なのかもしれないし、サキュバスさんに聞いてみないといけないかな。
そんなことを思っていたらコンコンっとドアをノックして、サキュバスさんと兵長さんが部屋に入ってきた。
二人はシーツや毛布を両腕に山のように抱えている。
「皆様、お疲れ様です」
兵長さんがそう声を掛けてくれる。
「こちらもお済みになっていらっしゃいましたか。寝具の準備が終わりましたら、お茶を淹れて休憩にいたしましょう」
サキュバスさんもそう言ってくれる。
「あぁ、それなら、こっちはあたし達でやっておくから、休憩の準備を頼むよ。一息ついて、昼寝でもしたい気分だ」
「うん、そうだね!サキュバスさん、お願いします!ベッドメイクなら私もできるし!」
お姉さんの言葉に、私もそう声をあげた。
何しろ、私も昨日の夜からずっと眠ってない。もちろんみんなだって同じだ。
私は、眠いって感じはしないけど、体中がだるくって疲れているように感じている。
お姉さんや兵長さんは体力ありそうだけど、サキュバスさんは細身だし、妖精さんなんかは目の下に隈ができている。
魔導士さんたちが来る準備が済んだら、今日のところはゆっくり休んでおいた方が良いと思うんだ。
「ふふ、分かりました。それでは、お願いいたしますね」
私たちの言葉にサキュバスさんが笑ってそう言い、駆け寄った私にシーツと毛布の山を預けてくれて、お姉さんに一礼すると部屋から出て行った。
「さて!パパっとやってお茶して昼寝だ!」
サキュバスさんの後ろ姿を見送ったお姉さんが、言うが早いか私の腕からシーツを取って手早くベッドに敷き始める。
私と妖精さん、兵長さんもそれを手伝って手早く準備を終えた。
部屋を出て暖炉の部屋に向かうと、そこにはすでにサキュバスさんがいつも入れてくれるオレンジお茶の香りがふんわりと漂っていた。
「んー、いい匂いだ!」
お姉さんがそんな声をあげる。
お茶を入れて、テーブルに並べてくれているサキュバスさんが
「皆様、整ってございます。どうぞお休みくださいませ」
と私たちに笑顔を見せてくれた。
ソファーに腰を下ろした私たちに、サキュバスさんは焼いたお茶菓子まで出してくれる。お姉さんはそれを早々にかじってお茶をすすり始めたけれど、私がサキュバスさんの配膳が終わるのを待ってからにした。
「お気遣い、ありがとうございます」
なんにも言わなかったのに、サキュバスさんがお菓子を配り終えると私にそんなことを言ってソファーに座り、促すように私を見ながらティーカップを手にして口を付けた。
「これは…!」
兵長さんが声をあげたので見やると、なんだか驚いた表情でティーカップを見つめている。
そっか、兵長さんはこのお茶、初めてだったね。
「カミツレ、と言う種の葉と、ミカンの干皮を煎じたものを淹出したお茶です。お口に合いましたでしょうか?」
「はい、香りも味も、ホッとしますね」
兵長さんの返事を聞いたサキュバスさんがニコッと笑った。
「ううっ!はぁー!なんだか急に疲れが来たなぁ」
お姉さんがそんなことを言いながらドサッとソファーに身を横たえた。
確かに、お茶を飲んで気持ちが緩んで、体が重くなってくるように感じる。そりゃぁ、昨日の夜は一睡もしていないし、当然かもしれない。
お茶を飲み終えて、すっかり体の力が抜けてしまった私も、控えめにソファーに横になる。
ふかふかのソファーも、大きな窓から差し込んでくる日差しも暖かで、心地良い。
いつの間にか目頭が重くなって、ついつい目を閉じてしまっていたとき、どこからか聞き覚えのない声がした。
「うおー!すげー!」
「ホントにお城だ!」
「王様いるの?お姫様はー!?」
今の声…子どもの声だ。
私は、ハッとして身を起こす。
するといつのまにかお姉さんも体を起こしていて、ソファーから飛び上がって窓の方まで小走りに駆けていくと、バタン、と大きな窓を開けてテラスへと躍り出た。
「おぉーい!」
お姉さんが下に向かってそう叫びながら手を振った。
「あ!十三姉ちゃん!」
「おねーちゃーん!」
窓の外から、わいわいとそんな歓声が上がっている。
私と妖精さんに、兵長さんもソファーから窓辺に行って外を眺めた。
そこには、黒いマントを羽織った魔導士さんと、こっちに向かって手を振っている子供たちが六人いる。
背の高い男の子に、その子より少し年下に見える女の子。それから私と同じくらいの男の子と女の子に、まだ五歳くらいの女の子が二人だ。
魔導士さんも子供達も、それぞれ背中に大きな荷物を背負っている。
まるで遠くから旅をしてきた様な荷物だけど、きっと魔導士さんの転移魔法で来たんだろう。
「サキュバス。ゴーレムに門を開けさせてくれ」
お姉さんが、一番最後に窓のところまでやってきたサキュバスさんに言った。するとサキュバスさんは、ニコっと笑顔を見せて
「かしこまりました。お出迎えは、私が参りましょう」
と柔らかな声色で返事をした。
***
「さって、それじゃぁ、紹介しなきゃな…」
それからしばらくして、私たちはまた暖炉のある部屋にいた。
魔導士さん達を部屋に案内して、荷物を置いてもらってからサキュバスさんに連れられて七人もこの部屋に来ている。
魔導士さんはシレっとした表情でくつろいでいるけど、子供達はみんなそわそわとして緊張しているみたい。
実は、私もすこし緊張していた。
だって、同じ子供だし…大人相手だとそうでもないんだけど、子供同士っていうのは、その、いろいろと難しいこともあるから、ね。
「まずは、彼女。この城の一切を取り仕切ってくれてるサキュバスだ」
お姉さんがサキュバスさんを七人に紹介する。魔導士さんは昨日の夜に会ったから知っているだろうけど、子供たちは初めてだ。
でも、みんなはサキュバスさんを見るや、礼儀正しくお辞儀をした。
サキュバスさんは角も生えているし、背中には翼もあるんだけど、それを怖がる様子もない。
「お困りのことがありましたら、なんでもお申し付けくださいね」
サキュバスさんも笑顔でそう頭を垂れる。
「次に、彼女が兵長。元は西部交易都市の憲兵団にいた」
お姉さんが、今度は兵長さんを紹介すると、子ども達から感嘆する声があがった。
「憲兵団の人なんだ!」
「かっこいい!」
「ケンペイダンってなに?美味しいの?」
「私も、ここに今日からここにご厄介になったばかりだ。よろしく頼む」
そんな子どもたちに、兵長さんも優しく言った。子どもたちはまた、礼儀正しくお辞儀をする。
「それから、この子が…あたしの、恩人。それから、その友達の羽妖精だ」
お姉さんは、そう言って私の頭をガシガシっと撫でながら私と妖精さんを皆に紹介してくれる。
私が皆に向かってお辞儀をしたら、みんなもお辞儀を返してくれた。
「じゃぁ、今度はあんた達だな。魔導士はもう知ってるから、あとは上から順番に行くか」
お姉さんはそう言って、一番背の高い男の子の肩をポンっと叩いた。
「こいつは、十四号。頭がよくって、頼りになる」
そう言われた十四号さんは、なんだか恥ずかしそうに、暗い色をした髪をぼりぼりと掻いて
「そのよろしくお願いします」
と挨拶をした。
顔つきも穏やかで、優しそうなお兄ちゃん、って感じだ。
「んで、次が十六号」
次にお姉さんが指したのは、明るい茶色の長い髪を後ろで束ねている、十四号さんより少し年下位の女の子。
「口の効き方を知らないやつだけど、まぁ、勘弁してやって。度胸だけは、あたし以上だ。な?」
「十三姉ちゃんに口の効き方とか言われたくないよ!」
そう文句を言いながらも、十六号さんは笑って
「なるべく丁寧にしゃべるんで、えと、よろしくお願いします」
と慣れない感じの敬語で私たちに言った。
この人は、お姉さんに似て元気いっぱいって感じの人だ。仲良くなっておしゃべりできるようになったら楽しそう。
「あと、この二人が十七号と十八号」
今度はお姉さんは、私と同じくらいの男の子と女の子の頭を撫でて紹介する。
「じゅ、十七号です、よ、よろしく」
男の子の方が、たどたどしくそう言う。なんだか、一番緊張しているみたい。怖がりさんなのかな?
「十八号です」
もうひとり、女の子の方は、落ち着いた静かな口調でそう言った。
「十八号は、この中でも一番優秀だな」
お姉さんがそんなことを言いながら、もう一度十八号ちゃんの頭を撫でると、彼女はほんの少しだけ嬉しそうな顔をして頬を赤らめた。
「あたしも!」
「ねーちゃん!」
我慢しきれなくなったのか、一番小さい二人がそんなお姉さんの足元に絡みついた。
「あーはいはい、お待たせ。この二人が十九号と二十号。双子の姉妹らしい。十九号は食いしん坊、二十号は甘ったれなんだ。な?」
「うん、あたし美味しいの好き!」
「あ、甘ったれじゃないもん!」
お姉さんの言葉の通り、確かに二人はそっくりな顔に同じような金髪で、緑の瞳をしている。二人とも、お人形さんのようで可愛らしい。
「これが、あたしと魔導協会にいたやつらだ」
最後にお姉さんがそう言って改めてみんなを手のひらで指して言った。
みんないい人そうで、ひとまずは安心した。
十七号くんと十八号ちゃんとは歳も近そうだし、仲良くできるといいな…
あれ?
なんてことを考えていたら、ふと、私は気がついた。
お姉さんが紹介してくれた六人の中に十五号さんがいなかった。
でも、確かお姉さんの話では、十四号さんから二十号ちゃんまでを魔導士さんが引き取ったってことになっているはずだから、一人だけそうしていないなんてこともないだろう。
私は、そのことを聞こうと思って、お姉さんに声を掛けようと思ったけど、寸前のところで思いとどまった。
なんとなく、悪い予感がしたからだった。
その予感は、残念だけどあたっていた。
私たちはそれからしばらくおしゃべりしていたけれど、流石に私もお姉さんも眠くなってきてしまった。
サキュバスさんと兵長さんが、私たちに休むように言ってくれて、お姉さんはしばらくは「大丈夫」って言い張っていたけど、私の添い寝をしてあげて欲しい、とかなんとかと言いくるめられて、結局一緒にいつもの寝室へと戻ってきた。
カーテンを引いて部屋を暗くして、私とお姉さんはベッドに、妖精さんも壁に突き出た棚の上の自分のベッドに入った。
ふかふかの布団と、お姉さんのぬくもりがとたんに私のまぶたを重くする。
だけど私は眠気をこらえて、さっき聞かなかった十五号さんのことをお姉さんに聞いてみた。
「ねぇ、お姉さん…どうして、十五号さんはいないの?」
私のその言葉を聞いて、お姉さんがは私に回していた腕に、少しだけ力を込めたのが分かった。
「…戦争中、っていうのは、兵隊が前線に出るだろう…?そうすると、国内、特に地方の小さな街なんかでは、治安が悪くなることがあるんだ」
クシャっと、お姉さんが私の頭に頬ずりをしてくる。
「魔導士が屋敷…って言っても、小さな家だったけど、そいつを構えた街もそうだったんだ。ある晩、街に人買いの連中が入り込んで、あいつの家を襲った。七人いた子どもたちの中でも、飛び抜けて力があって、頭もよくって、勇敢だった十五号が、他の連中が逃げる時間を稼ぐために戦ったらしい。逃げ延びたあいつらからの念信を受け取った魔導士とあたしが転移魔法で向かったときには、家は跡形もなく燃え尽きてて、そこに、十五号の遺体だけが転がってた」
やっぱり、とは思ったけど、でも、それ以上にショックだった。
村にいる頃には聞いたこともなかったけど、人間界にそれほどたくさんの「人買い」なんて人達がいることも、十五号さんが、その人たちに殺されてしまった、なんてことも…
だって、その魔導協会ってところにいた子供たちの多くは家族を亡くしたりしていた子達なんだ。それだけだって辛いはずなのに、助けてもらったその先で、そんな人たちに襲われて死んじゃうなんて…そんなの、そんなのって、ひどすぎる…
私は胸が苦しくなって、お姉さんの着ていたシャツの胸ぐりをギュッと握っていた。お姉さんが、そんな私の背中を優しく撫でてくれる。
私は、そんな気持ちをなんとか整えながら、お姉さんに聞いた。
「その人買いの人たちは、どうしたの?」
「ん。あたしと魔導士で見つけ出して、王下憲兵団に引き渡した。捕まえるとき、魔導士のやつが殺さないように抑えるのが大変だったんだ」
お姉さんは、つとめてなんでもないよ、って感じでそう言った。
でも、私の心はお姉さんの様に穏やかなままを保ってなんていられなかった。
「そんな人たちが、どうしているの?人間って、どうしてそんなことをするの…?」
私は胸の内に湧いた理不尽とも思える感情を、そのままお姉さんにぶつけてしまっていた。
お姉さんは、低くて、落ち着いた声で言った。
「あたしにも、分からないよ」
ふと見上げたお姉さんは、あの悲しい顔をして私を見ていた。
そうだよね…そんなことが簡単にわかったら、私たちはこんなに苦労なんてしていないかもしれない。
人間と魔族とのあいだの憎しみも、もしかしたら同じところから湧き出ているようにも思える。
いったい…いったい、それはどこで、何が原因なんだろう…?
どうすれば止めることができるんだろう?
そんなことを考えていたら、柔らかい何かが額に触れた。
その何か、は、チュッと音を立てて私の額から離れる。それは、お姉さんの唇だった。
「ありがとう…あんたは、本当にあたしの恩人だ。その答えも、必ず見つけよう…それはきっと、あたし達が目指すものに必要なことだ」
お姉さんはそう言いながら、穏やかな表情で私の髪を撫でてくれる。
それを聞いて、私は少しハッとした。お姉さんも、私と同じことを思ったんだ。
“それはどこから、どうして湧いてくるのか”、って。
お姉さんはそれから、また少しきつく私を抱きしめて、言い聞かせるように囁いた。
「でも、今は少し休もう…ちゃんと眠ってちゃんと食べるのも、それと同じくらい、必要なことなんだからな」
***
明くる日の朝。私は、キッチンから魔導士さん達の部屋へ行く廊下を歩いていた。
あれから私は夕方ごろに一度目を覚まして、みんなと一緒に食事を摂ってからまたしばらくして眠りこけてしまった。
次に目が覚めたときには、もううっすら朝日が昇っている寝室のベッドの上だった。
お姉さんを起こさないようにベッドから這い出た私は、身支度を済ませて寝室を出た。
たぶん、サキュバスさんが朝ごはんのしているはずだと思ったからだ。
私の予想通り、キッチンに顔を出したらそこには、すこし眠そうな表情をしたサキュバスさんが朝ごはんのスープの仕込みをしているところだった。
「お手伝いします」
そう言った私に最初は遠慮している感じだったサキュバスさんだったけれど、私がずうずうしくあれこれとやり始めたらすぐにあきらめてくれたみたいだった。
そうして一緒に朝ご飯の準備を終えて、サキュバスさんがそれをワゴンで食堂に運んでいる間に、私は魔導士さん達を呼びに出ていた。
廊下を進んで階段を降りる。さらにその先の廊下をまっすぐと進んで突き当りを左へ曲がる。
魔王城は、階によって建物の中の構造が全く違っている。廊下の向きや長さ、部屋の数や広さも違う。
ここへ来て少ししてサキュバスさんにそのことを聞いてみたら、それは侵入者が上の階に簡単に近づけないように、あえてそうなっていると言っていた。
確かに、ここに住むのは魔界の王様。戦争とかそういうときのことを考えなくても、王様の身を守るためには必要なことだろう。
廊下を進んで行った先にある二つのドア。そこが魔導士さん達の部屋だ。私はその一つをコンコンと控えめにノックする。
すると中から
「はーい、ちょっと待って!」
と元気の良い声が聞こえた。
これはきっと、明るくて元気な十六号さんだ。
ほどなくして、ギイっとドアが開く。そこには、絹の厚手のパジャマに身を包んだ十八号ちゃんがいた。
「おはよう」
十八号ちゃんは静かな声で私にそう挨拶をしてくれる。
「おはよう!」
私もなるだけ笑顔でそう返事をしてから
「朝ご飯の準備ができたから、食堂に来てね」
と伝える。すると部屋の中から歓声が聞こえた。
「わー!ご飯!?」
と、すぐに十九号ちゃんを肩車した十六号さんがドアのところにやって来た。
「あぁ、ありがとな!よーし、みんな着替えろ!寝間着のまんまのやつは、十三姉ちゃんに怒られるぞ!」
十六号さんは私にそう言うと、振り返って部屋の中に声をかけた。
「十六姉ちゃん!お着替え手伝って!」
「あーん?自分で出来るところまでやってみなよ、二十号」
「だってあたしボタンわかんないもぉん!」
「私が手伝うわ。ほら、二十号、自分の服を出して」
部屋の奥から聞こえた二十号ちゃんの声を聴いて、十八号ちゃんは私の顔を見て苦笑いを浮かべてからそう言いつつ部屋の中へと戻っていった。
なんだか、みんな仲良しそうで、楽しそうでうらやましいな…
そんなことを思いながら私はドアを閉めて、隣の部屋をノックする。
するとすぐに、中から着替えを済ませた十四号のお兄さんが顔を出した。
「あ、あの!朝ごはんができたので、食堂に来てください!」
私は少しだけ緊張してそう言った。
すると十四号のお兄さんはあぁ、と声を上げて笑い
「ありがとう。すぐに行くよ。何か手伝うことあるかな?」
と聞いてくれる。やっぱり、この人は優しい人なんだなぁ。
「いいえ、大丈夫です。私とサキュバスさんで準備しましたから!」
私がそう答えたら、十四号のお兄さんは
「そう。ありがとう。すぐに行くよ」
と穏やかな笑顔で笑ってくれた。
なんだか、それだけで頬っぺたが熱くなるようなそんな感じがして、お兄さんの顔が見れなくなり俯いたまま
「ま、待ってますね」
なんてかすれた声の返事になってしまった。
パタン、とドアが閉まって、その向こうで
「おーい、十二兄ちゃん、ご飯だって!ほら、十七号も起きなよ。いつまでも寝てちゃダメだぞ」
なんて言っているのが聞こえる。
村にはあれくらいの年ごろの男の人はいなかったから…うん、なんだか、恥ずかしいな…
私はそんなことを思いつつ、熱くなった頬っぺたを冷ますために少しだけゆっくり廊下を戻って食堂に向かう。
食堂のドアを開けるとそこではサキュバスさんが兵長さんとお姉さんと一緒に配膳をしているところだった。
「あぁ、おはよ」
お姉さんが私に声を掛けてくれる。
「おはよう、お姉さん」
私もそう返事をしながら食堂に入って配膳を手伝う。
そうしていたら、バタン、と食堂のドアが開く音がした。魔導士さん達がもう来たのかと思って振り返ると、そこには黒豹隊長さんが居た。
「黒豹さん…!」
「あぁ、黒豹。もういいのか?」
兵長さんが息を飲むような声を上げ、お姉さんがそんなあっけらかんとした口調で黒豹さんに聞く。
「魔王様…事の顛末はトロール殿より伺いました。この黒豹、何一つお役に立てず、あまつさえ不始末まで犯すありさまで言い訳のしようもございません」
黒豹さんはそう言うや否や、その場に跪いてお姉さんに頭を下げた。
そんな様子をお姉さんはポカーンとした表情で見つめている。
「黒豹様、どうか頭をお上げください」
そう言ったのは、サキュバスさんだった。それを聞いて、お姉さんがハッとする。
「そ、そうだぞ、黒豹。あんたは無事にあの街から逃げ延びて来れただけで大したもんだ!」
「それは、兵長殿の手引きあってのこと…魔界に戻ってよりあと、あの魔法陣を利用されることさえなければ、魔王様のお手を煩わすことなど…」
お姉さんの言葉に、黒豹さんはさらに深々と頭を下げて言った。
ま、魔法陣、って…それ、違うやつのことじゃない…?
確か、魔導士さんが、人間の軍隊に利用されるのがイヤだからと言って、戦争の時に描いたっていう魔法陣を消している時に、黒豹さんが襲い掛かって、それで…
私が昨日の話を思い出していると、黒豹さんの背後にあったドアが開いて、魔導士さん達が姿を現した。
「あぁ、おはよう、あんた達」
お姉さんがそう声をかけたので、黒豹さんは顔を上げて魔導士さん達に道を開けようとして、体を固めた。
黒豹さんは、その鋭い瞳で魔導士さんを見つめている。
「き、き、貴様!なぜこのような場所に!?」
金縛りが解けたようにその場から半歩飛びのいた黒豹さんが叫んだ。
ちょっと…!も、もしかして黒豹さん…魔導士さんのこと聞かされてないの!?
こ、こ、これ、まずいんじゃない!?
「お、おい、黒豹!待て!」
お姉さんがそう叫んだけど、臨戦態勢に入っていた黒豹さんは止まらなかった。
音もなく床を蹴った黒豹さんは、目にもとまらぬ速さで魔導士さんに飛びかかる。
「ちょ!なんだあんた!」
十六号さんが慌ててそう叫び、片手をふわりと振り上げた。次の瞬間、黒豹さんの目の前に壁の様に魔法陣があらわれた。
その魔法陣に、黒豹さんはまるで本当に壁にぶつかる様にして突っ込み、動きを止める。
「ぬぅ!?」
黒豹さんの苦しげな声が漏れる。
「十二兄ちゃんに手出しはさせない!」
「このやろう!俺たちが相手だ!」
そう言ったのは、十七号くんと十八号ちゃんだった。
十七号くんは魔法陣の壁に阻まれた黒豹さんに飛びかかった。
黒豹さんを足止めしていた魔法陣がふっと消えて、そこを通り抜けた十七号くんが黒豹さんの厚い胸板を蹴り付ける。
「ぐふっ!」
そう苦しそうな声を漏らして体勢を崩した黒豹さんに、十八号ちゃんが両腕を突き出した。
「吹っ飛べ!」
その声に呼応するように、黒豹さんの目の前に再び魔法陣が姿を現した。
次の瞬間、窓も空いていない部屋の中に強烈な風が吹き荒れて黒豹さんはなにか重い物でもぶつけられたかのように後ろに吹き飛ばされた。
黒豹さんは床をごろごろと転がりドシンと壁に当たって、ぐったりと伸びてしまった。
「く、黒豹さん!」
兵長さんが悲鳴をあげて黒豹さんに駆け寄る。
私は、どうしたら良いかわからずに、ただあわあわとしてお姉さんを見た。
そんなお姉さんは、なんだか苦笑いを浮かべながら、私を見つめ返して肩をくすめた。
***
「度重なる失礼、お詫びいたす」
黒豹さんがそう言ってテーブルに頭をこすり付けた。
「まさか、あの魔法陣を浄化する目的であの場におられたとは…」
頭をさげたまま申し開きをしている黒豹さんに魔導士さんが無表情で言った。
「まぁ、俺は身を守っただけだから気にはしていない。謝罪は俺ではなく驚かせた子ども達にしてくれ」
魔導士さんが手の平で指したその先には、まるで今すぐにでも獲物に飛びかかろうとしているオオカミみたいにガルルっと鋭い目をして黒豹さんを睨み付けている十七号くんと十八号ちゃんの姿がある。
「まぁまぁ、二人とも」
「クロネコのおっちゃんも謝ってるし、ゆるしてやれって」
そんな二人を十四号のお兄さんと十六号さんがなだめている。
二十号ちゃんはいつのまにやらお姉さんの膝の上。
十九号ちゃんは食後のお茶用のお菓子をパクパクと嬉しそうに食べていて関係ないって顔をしていた。
「クロネコではなく、黒豹であるが…。と、とにかく、申し訳なかった。それにしても、子どもながら見事な術式であったな」
黒豹さんはそう言って顔をあげ、にこやかにそう二人に声をかける。
急に褒められた二人は、まるで牙を抜かれたように、とたんにヘラヘラっとした笑顔で照れはじめた。
「い、いや、俺はさ、ほら、体術には自信があるだけだからな」
「…私も、まだまだ十二兄ちゃんにはかなわない」
そんな二人の表情を見て、黒豹さんもなんだか少し安心したようで、ほっと胸を撫で下ろしていた。
「確かに、子どもとは思えない速度と威力の術式でしたね。勇者候補と言うのは、これほどのものであるとは…」
サキュバスさんが感心した様子で言う。するとお姉さんがため息交じりに
「まぁ、きつかったもんなぁ、あそこの訓練は。十九号と二十号はまだ訓練が始まる前だったから非力だけど、十八号なんかはやっとそれなりに言葉がしゃべれるようになった頃から、魔法の修練をさせられてたし」
と十八号ちゃんの顔を見て言う。
「英才教育、とでも言うのですかね。まるで言葉を発するように魔法を操っていますし」
兵長さんも感嘆してそんなことを口にした。
十八号ちゃんはすっかり照れてしまって、両手を頬に当ててニマニマと緩んだ笑いを浮かべている。
「こいつらにかかれば、並の兵隊が百人いようがあっという間に蹴散らせる。あそこを出てからも、俺が修練を引き継いでいるのもあるがな」
そんな十八号ちゃんの様子を知ってか知らずか、魔導士さんが相変わらずの無表情でそう言った。
でも、すごいな…私はまだ、自然の魔力をなんとかつかむので精一杯だけど、同い年くらいの十七号くんに十八号ちゃんでさえ、あんな強力な魔法が使えるんだ…
もしかして、私もみんなに教えてもらえれば、もう少しうまく魔法を使えるようになるのかな?
そんなことを考えていて、私はふと、何かに引っかかった。
百人の兵隊でも、蹴散らせる…それはすごいことだけど…待って。
昨日のお昼寝のときに、お姉さんに聞いた話…
十五号さん、って人は、人買いに殺されちゃったんだ、ってそう言ってた。
でも、十五号さんは子ども達の中でもとびっきりに強かったんだ、とも言っていた。
その強さがどれくらいかはわからないけど、少なくとも今の十八号ちゃんや十七号くんと同じくらいの力があったことは間違いないと思う。
百人の兵隊でも追い返せるほどの力を持った人が殺された…
相手は人買いだったんでしょ…?人買いっていうのは、そんなにたくさんの人たちの集まりなの?
それとも、十八号ちゃんみたいな人が敵わないくらいに強い人たちだっていうの…?
そりゃぁ、世の中には強い魔法を使える人や、目にも留まらないほどの速さで剣を振ったり、見えないほどの遠くから弓で敵を射ることもできる人だっている。
だけど、そんな人がそれほど多いとは思えない。
お姉さんと初めて会ったときに私やトロールさんを襲って来たあの偽勇者の人たちだって、今、十八号ちゃんや十六号さんが使ったほどの魔法は操っていなかった。
あのときに見た魔法は、人の拳くらいの火球を飛ばすだけのもの…いや、それがどれだけの難易度かなんて私にはわからないけど…
でも、今みたいに黒豹さんの前に見えない壁を作ったり、風のような力で吹き飛ばした魔法の方が一層強力に見えた。
いったい、十五号さんを殺した人買いって人たちは何者なの…?
「さて…それじゃぁ、あたしは仕事に戻らないとな」
そんなことを考えていたら、お姉さんがカップに入ったお茶を飲み干して言った。
「本日はどうされるのですか?」
「うん。とりあえず、魔界全土の統治機能の回復を急いだ方がいいと思う。今回みたいに、人間軍が攻め入って来たときに、連絡網だけでも確立しておけば、対応が早くなる。毎度毎度、兵長みたいに知らせてくれる仲間がいるわけじゃないだろうしな」
お姉さんがそう言って腕を組む。
「まずは、この城の機能を回復させて…魔王軍の再編もしなきゃならない。各地の生活状況に関する情報も欲しいな…」
そう言ってから、お姉さんは思い出したように私を見て言った。
「すまない…まずはこっちの体制を組んでおかないと、“あの子”を助けに行くのは危険だと思う。魔界の中心に位置するこの城を人間軍に抑えられたら、それこそここに人間軍のほとんどを投入してくる。奪い返すために、あたしはそいつを相手取ることになるだろう…でも、そうなったらもう、人間と魔族の融和なんて言ってられない。それだけの人間を手に掛けたら、もう、後戻りなんて出来なくなる。それこそ、戦争以上の惨劇になっちゃうからな…」
あの子…そう、昨日のことで、私もすっかり意識からこぼれ落としてしまっていた。
竜族と人間の間に生まれた、子。
私達は、その子を助けに行こうって、そう言っていたはずなんだ。
「いたしかたありませんね…」
そう声を漏らしたのは、サキュバスさんだった。
サキュバスさんは、私以上に竜族の子を助けてあげたかったはず…悔しいし、辛いんだろう。
「うん…わかってる」
私もお姉さんにそう返事をしてうなずいた。
だけど、私の頭の中には十五号さんのことや竜族の子のことが渦巻いて、とてもじゃないけど、穏やかではいられなかった。
どうして子どもが巻き込まれなきゃいけないんだろう?
私達は、戦いなんて望んでいないのに。
幸せでいたいって、きっと誰もが思っているはずなのに…どうしてなんだろう?
いったい、どうしてなんだろう…?
そんな思いが、胸の内に沸いては消えて行った。
***
「うん。これなら良いと思います」
「そうですか、なによりです」
「へぇ、ずいぶんとまぁ、手広くやったんだね」
「ゴーレム、って言ったっけ。その魔法、教えてもらえないですか?」
「ふふ、生命魔法はかなり難解でございますし、禁術の類もございますので、そう簡単にお教えするわけには行かないのです」
「そっかぁ、ちょっと残念です」
「そりゃぁそうだよ。そんな魔法、魔法陣を作ったってできそうもないし、たぶん、特別なんだろ」
「さて、じゃぁ、一昨日お姉さんと一緒に仕入れたこの種芋を植えますよ」
「おし、任せとけ」
「おう、やろうやろう」
「ゴーレムたち、人間様の指示に従いなさい」
私の掛け声で、みんながそれぞれそんな反応をしてくれる。
ゴーレム達が抱えてきた麻の袋から、私たちはそれぞれ種芋を取り出して準備に取り掛かった。
朝食のあとの会議を終えて、私はサキュバスさんと十六号お姉さんと十七号くんと四人でゴーレムを4体も従えて、お城の西側の畑へと来ていた。
本当はサキュバスさんと二人のハズだったけれど、会議のあと、出かけようとしていた私たちに十六号さんが声をかけてくれて、おもしろそうだと一緒についてきてくれた。
昨晩、あんな騒ぎがあったけど、夜通しゴーレム達が耕してくれていたおかげで、荒れ果てた土地だった一帯はすっかり「畑」へと姿を変えている。
サラサラの土だけど、水を加えると適度にまとまって固まるくらいの土だ。これなら、お芋を育てるには持ってこい。
種芋を植えて三月もすれば、きっといっぱいのお芋になるはずだ。
「これ、このまま植えていいの?」
「はい。手の平の深さくらいまで掘り返して、そこに埋めてください。浅すぎると鳥や野生の動物に荒らされちゃったりするので。あ、でも、盛土は優しく」
「そっか。せっかくの食物を鳥なんかに食べられたら大変だ」
「うん。でも、あんまり深すぎると目が出にくくなって育たないから、それも気をつけてね」
「あんまりまとまって埋めないほうがいいんだよな?」
「あ、はい。半歩くらいあいだを開ける感じで」
「うし、分かった!」
十六号さんと十七号くんにそんな説明をしながら、私もお芋を植えはじめる。
サキュバスさんも、自分で作業をしながら、チラチラとゴーレムたちの作業を見張っている。午前中にこの植え付けを終えておけば、午後はサキュバスさんはお姉さんの方にいけるはず。
今は、お姉さんは兵長さんと一緒に魔王軍の再編と連絡体制のために、どんな方法がいいかを話し合っているころだろう。
戦争のことは、サキュバスさんよりも兵長さんの方が詳しい。
ただ、魔界のことを細かに知っているのはサキュバスさんだ。
ある程度の案をお姉さん達がねったら、それをあとでサキュバスさんに説明して魔界でもうまく運用できるようにさらに改良する手はずだ、とお姉さんが話していた。
正直、私はそんなことの役には立てない。でも、そんな私にお姉さんが、
「畑の方は頼むな」
なんて言ってくれたから、張り切らないわけにはいかない。
私だって、出来ることをできる限りやって、みんなや魔界の役にたたないと。
「あーこれさ、分業の方が手早くないか?」
「確かに!十六姉ちゃん、穴掘ってよ。俺、芋入れて埋めてくからさ」
「よし、任せろ!」
そんな言葉を交わしたかと思うと、十七号くんからシャベルを受け取った十六号さんが、自分の持っていたのと合わせて二本を両手に持って、
「うりゃ!うりゃ!うりゃぁ!」
と、おかしな掛け声を上げながらまるで剣術でもやっているみたいに中腰でシャベルを交互に地面に突きたて、穴を掘っていく。
その穴に、十七号くんが次々と芋を投げ入れては優しく盛土をして行った。
むむむ、あの方法は確かに早そうだな…
「あ、なぁ!そういえばさ!」
黙々と、ものすごい勢いで穴を掘り続けてもう二十歩ほども遠くに行ってしまっていた十六号さんが大きな声で私達に叫んできた。
「はい、なんですかー!?」
私がも声を張り上げて聞き返すと、十六号さんはまた大きな声で言った。
「さっき十三の姉ちゃんが言ってた竜の子、って誰なんだぁ!?」
その質問で、私はギクリと体が固まってしまうのを感じた。
それから、まるでギシギシと音が鳴るんじゃないかって首を動かしてサキュバスさんを振り返る。
サキュバスさんも、沈痛な面持ちで唇をかんだ。
「ど、どうしたの、二人とも…?」
私達の様子に、十七号くんが戸惑っている。遠くに居た十六号さんにも様子が伝わったみたいで、二本のシャベルを振り振りしながら私達のところに戻って来た。
「ごめん、なんか聞いちゃマズイことだったかな…?」
十六号さんは申し訳さそうな表情で私達の顔色を伺う。
私は、サキュバスさんをもう一度見つめた。
このことは、話を直接知っているわけじゃない私には詳しい説明ができない。話すのならサキュバスさんに任せた方がいいとは思うけど…
サキュバスさんは、しばらくは辛そうな表情でうつむいていたけど、それから少しして、ふぅっと息を吐き、何かを決心した様子で顔を上げた。
「私がまだ、十六号さんくらいの歳の頃の古いお話ですが、聞いていただけますか?」
十六号さんも十七号くんも、サキュバスさんの真剣な表情に黙って頷いた。
それから私達はとりあえずゴーレム達に作業を任せて、木陰に座ってサキュバスさんが用意してくれていた水筒とカップのセットでお茶の準備をした。
私と十六号さん、十七号くんとでサキュバスさんを囲って陣取る。
「さて…人間様には、以前お話いたしましたが…そうですね、ではまずは人買いに売られて魔界へと流れて来た女性のことからですね」
サキュバスさんは、お姉さんの様に悲しい表情をしながら、そう口を開いた。
サキュバスさんから話されたのは、一昨日の夜、兵長さんが来る前に、私やお姉さんに聞かせてくれた話だった。
人間の女の人が人買いに魔界まで売られてきて、魔族の街の竜族の名家の人が買った話。その竜族の人は女性を奴隷としてではなく、一人の意志ある存在として扱ったこと。
そして二人の間に恋頃こが芽生えて、人間族と竜族の血を引く子どもが生まれたこと。
でも、その女の人を「助ける」ために人間界から来た人達が魔族の街を焼き払い、夫の竜族は殺されて、女の人は人間界に連れて行かれてしまい、
半分人間の血を引く竜娘ちゃんが、魔界で迫害されて、先代魔王様に助けられた話も、竜娘ちゃんが頼ったトロールさんと人間界にお母さんを探しに行き、そこで黒マントの、魔導協会って人たちに拐われてしまったことも話した。
この話を聞くのは二度目なのに、最初の時以上に胸が締め付けられる。
ひとしきり話を聞いた十六号さんが、ギュッと拳を握ったのを、私は見逃さなかった。
「あの場所に…その子が連れて行かれた、っての?」
十六号さんが、絞り出すような声色で言う。
「魔王様…十三号様のお話では、きっとそうだろう、と」
サキュバスさんがそう言って頷いた。
「…あんなところ、子どものいる場所じゃない!すぐに助けに行こう!」
声を上げたのは、十七号くんだった。
「で、ですが!魔王様は今は魔界の方が優先だと…!」
「十三姉ちゃんの手を煩わせるまでもないよ!十二号の兄ちゃんに、十七号と十八号で殴り込みを掛ければ…!」
「十六姉ちゃん、そんなことしなくたってあの施設の中に転移魔法で入ってって、連れ出せば良い!」
「そうだな…よし、それなら、すぐにでも戻って相談しよう!」
「おう!」
二人はそう言うが早いか立ち上がった。
「お、お待ちください!」
そんな二人を慌ててサキュバスさんが止める。
「魔導協会という場所は、皆さんにとっては辛い過去のある場所ではないのですか…?それに、話を聞くに、得体の知れない集団であるように思います。早急に判断するのは危険です」
私は、サキュバスさんの言葉に、ふと、胸が苦しくなった。
サキュバスさんが竜娘ちゃんを助けたいって、誰よりも強く思っているはず。でも、そうは言っても、サキュバスさんは十六号さん達のことも心配なんだ。
それは…私も同じだ。竜娘ちゃんを助けてあげなきゃ行けないと思うけれど、それでもし、みんなに何か大変なことが起こったら…そう思うと、私も気持ちが落ち着かなくなる。
だけど、十六号さんが言った。
「確かに、進んで戻りたい場所じゃないけど…でも、あそこに大切な人が残されてる、って言うんなら、その方が放っておけない」
それに続いて、十七号くんも真剣な表情でサキュバスさんを見て
「うん。俺たちはあそこには詳しいし、十二号兄ちゃんに頼めば絶対に大丈夫」
と力強く頷く。
サキュバスさんは、二人の言葉を聞いてまた、ギュッと唇を噛み締めてうつむいた。
サキュバスさんにとって、きっと二人の気持ちは何にも代え難いくらいに嬉しいことだと思う。
私がそうしたい、って思うくらいなんだ。サキュバスさんがそうじゃないはずがない。
でも…でも、本当にそれで良いのかな…?
短い沈黙が、私たちのあいだに流れる。
私は、そんな重苦しい空気に耐えられずに、とっさに声を上げていた。
「と、とにかく…そういうことは、まずは、お姉さんに相談しないと!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます