第3話:魔王の侍女と救世の勇者
「へい、おまちどう」
どうどう、っと言って馬…なのか、牛なのか分からない生き物を人魔族だというおじさんが手綱を引いて止めた。
馬車の振動も収まって、ようやく目的地についたようだった。
「ありがとうな」
お姉さんが人魔のおじさんにそうお礼を言っている。
「なに、ちょうど通り道だったしな。しかし、こんなところに何の用だよ?ここは元は魔王城だぜ?」
「今でも魔王城さ」
「そりゃぁそうだがよ。魔王様はもう亡くなって、今は魔王様の重臣だったサキュバスの女がいるだけだってのに」
「あぁ…サキュバスの治世はどうだ?」
「ん?まぁ、各一族も人間に攻め込まれて大打撃だしなぁ。混乱しきりだが、けが人の治療と食料の配分なんかを一手に手配してると聴いてる」
「なるほど。役目はきちんと果たしている、ってわけだな」
「役目?」
「あぁ、まぁこっちの話しさ」
「そうかい」
「世話になったな」
「なに。楽しい旅路で良かったよ」
私はまだ話をしているお姉さんに促されて馬車を降りた。妖精さんもパタパタと私の肩に腰を下ろす。
そのあとからお姉さんが降りてきて、御者の人魔のおじさんに小さな布袋を押し付けた。
「おいおい、勘弁してくれ。そんなつもりで送ってやったんじゃねえや」
「そう言うなって。これくらいのことしかしてやれないからさ」
「要らねえって言ってんだよ。そんな金あるなら、そっちのチビに飯でも食わせてやれ。最近じゃ、麦の価格もバカに上がってやがるしよ」
「だったら、なおさらだ。あたしが持ってても使うことは多分ないし」
お姉さんはそう言って、グッと左腕をまくって見せた。もちろんそこにあるのは、あの魔王の紋章。
それを見るや、人魔のおじさんは顔色を真っ青に変えて馬車から飛び降り、お姉さんの前にひれ伏した。
「ごごごご、ご無礼、お許しを…!」
「あー、いいっていいって。とにかく、ほら、その、あれだ。よ、余は、その…感謝しておる。受け取るが良い」
「はっ…ははー!」
人魔のおじさんは深々と頭を下げながら両手を差し出したのでお姉さんはその手のひらの上に革袋をおいて上げていた。
地面にひれ伏したままだったおじさんをお姉さんが引っ張り起こして御者台に乗せ、馬車が走り去るのを三人で見送った。
馬車が道の彼方に消えてから、私は少し先に悠然と建っている魔王城って言うのを見上げた。空は快晴で、真っ青な中に、お城の塔が何本も伸びている。
魔王城、なんていうからどんなおどろおどろしいお城なのかと思っていたけど、外から見る限りではなんの変哲もなさそうなお城だ。もちろん、お城なんて数えるくらいしかみたことはないし、それも私が知っているのは王都のお城じゃなくって、住んでいた村を管轄してた貴族様のお城だけど。
それに、魔界っていうのも、もっと暗くってどんよりしててあっちこっちに魔物がいるんだとばっかり思っていたけど、空はまぶしいくらいに晴れているし魔物も見たけど、別に足が何本もある大きな蜘蛛とか、目玉が飛び出たゾンビ犬とかがいるわけでもない。
村の傍の山で見たちょっと大きいネズミとか、大きなネコとか、ウサギみたいにオドオドしてるクマとかそんな感じ。正直、ここに来るまでに見た魔物より、さっきの馬車を引いていた、馬と牛の間みたいな生き物の方がよっぽど目新しいくらいだった。
山越えもそれほど苦労はしなかった。
それというのも、森から山へ入って、少し登ったところには祠があって、その祠の地下には魔法陣の描かれた小さな部屋があった。それは、お姉さんが旅をしたときに一緒だったっていう魔道士さんが作った祠で、魔界と人間界を行き来するための転移魔法の魔法陣らしかった。
転移魔法っていうのは、どこへでも自由に移動できるわけじゃなくって、行く先にも魔法陣が必要らしい。だから、もしある場所に行きたくてもそこへ一度は足を向けて、自分が行くための印として魔法陣を描き残して来る必要があるんだそうだ。
魔王城に魔法陣は描いて来なかったの、と聞いたら、お姉さんはすこしバツが悪そうに
「実は、魔王とのことで頭がごちゃごちゃしてて、描いてくるの忘れちゃったんだよね」
なんて言って笑ってた。
どうやら、旅をしてたのもあながちお姉さんの気持ちの整理のためだけってことでもなさそうだった。
まぁ、それはともかく、私たちはようやく目的地にたどり着いた。
「いやぁ、それほど長いことこなかったわけじゃないけど…なんだか懐かしい気がするよ」
お姉さんは私と並んでお城を見上げる。
「お姉さんが話してたサキュバスのお姉さんは元気かな?」
「さぁ、どうだろうな…魔王をさみしがって、泣いてなきゃいいけど…」
そう言ったお姉さんの顔を見上げると、なんだか緊張したようにこわばっているのが分かった。
そうだったね。
お姉さん、もしかしたらこれからサキュバスさんを斬らなきゃ行けないかもしれないんだ。
もしサキュバスさんがそうして欲しいって言ったら、私もお姉さんに協力して説得してみるつもりではいる。でも、それでもサキュバスさんが気持ちを変えてくれなかったとしたら、お姉さんは約束を果たさないと行けない…
そうならないといいな。
そんなことを思って、私はまだ顔も知らないサキュバスさんに心の中でお願いした。これ以上、お姉さんに悲しい顔をさせないで、って。
「さぁて、早く行って休もう。さすがに今夜はゆっくり眠りたい」
「まままま魔王様!わ、私もお城に入ってよいですか?」
「あぁ?今更なんだよ。入るどころか住むための部屋を用意させるって」
「そ、それなら人間ちゃんと同じ部屋がいいです!」
「はは、分かった分かった。夜までに準備してもらえるように頼んでおくよ」
妖精さんとそんな話をし終えてから、お姉さんが私の肩をポン、と叩いた。
「さて、行こう。あ、もうマント脱いでもいいからな」
「うん!」
私は、魔界に入ってからずっと目深にかぶっていたマントのフードを取った。
人間の子どもがこんなところをうろついてると、手を出してくる魔族がいるかもしれないから、ってお姉さんは言っていた。一瞬、そんなひどいことを、って思ったけど、例えばもし、私の住んでた村に魔族の子どもが入り込んできたとしたら…やっぱり私は怖いって思うだろうな、なんて考えたりもした。なにより、変に騒ぎになったりするのは避けたかった。私はいいけど、きっとそうなったらお姉さんが悲しい顔をしちゃうだろうな、ってそう思っていたから。
そんなお姉さんも、魔界に入ってからはほんの少しだけ魔力を使って、サキュバスさんに彫られたっていう、魔王の紋章とは違う呪印であの悪魔みたいな姿に変身している。
最初、少しの間は怖く感じたけど、すぐにいつものお姉さんと全然変わっていないことに安心して、この姿のお姉さんにもすっかり慣れた。
サキュバスさんもこんな感じなのかな?
そんなことを思いながら、私たちはお城への道を歩いた。
程なくして正面の大きな門の前にたどり着く。金属の両開きのドアが付けられた城門は、トロールさんが頭を下げなくても通れてしまうんじゃないかって思うくらい大きい。
そんなドアをお姉さんがガンガンとノックする。
そんなことしても、誰かが開けてくれるとは思えないけど…
そう思って私はお城を見上げる。
こんな大きなお城なのにすごく静かなことに、私は気がついた。
周りに街があるわけでもないし、中に誰かがいる気配もない。お城なら普通、警備の兵隊さんがいたりとか、メイドさんがいたりとか、そういうものだと思うんだけど、少なくとも声や物音は聞こえないし、門の上に見える窓の中にも人影はない。
そんなお城の様子に、私はうっすらと気味の悪さを感じ始めてしまった。今のとこは、魔王城って言うより、廃城か幽霊のお城って感じがしないでもない。
そう思ったら、ひとりでにブルっと体が震えた。
「あー、参ったな…呼び鈴とかないのかな、これ?前の時はこの門、魔法で爆破して突入したけど、今はもう自分の家だからやりたくないしなぁ」
お姉さんが腕組みをして考え始める。
「お姉さん、その翼で飛んだりできないの?」
「さぁ…この体になってまだちょっとしか経ってないからなぁ。飛ぶだけならまぁ、魔力を使えばできないこともないだろうけど…」
「魔王様、私が偵察行ってくるですよ!」
「あぁ、羽妖精ちゃん、大丈夫。考えはあるんだ」
パタパタと飛び立ちそうになった妖精さんを引き止めたお姉さんは、腰に提げていた剣を抜いた。
その剣を、大きな両開きの門戸の隙間に差し込んで何かを確かめている。
「ん、やっぱり閂掛かってるな。ふんぬっ!」
お姉さんはそう掛け声を漏らして全身に力を込め、その剣を上にお仕上げた。
途端、門の向こうでゴトン、と大きな重い何かが落ちる音が聞こえる。
「おぉし、外れた!」
お姉さんはそう言うなり扉の片方に手を掛けて思い切り引っ張る。
すると、ゴゴゴゴと言う音を響かせて、金属の門戸が開いた。
門をくぐってみて少し驚いた。そこには一面、青々とした芝生が茂っていて、向こうの方には綺麗な花畑のようなものが見える。そびえるお城の建物は石造りで外壁には蔦が絡まっていたりすることもなく、白く輝いているようにみえた。
お姉さんが門を閉め、大木みたいに大きな閂をかけ直す。ふと見ると、門戸の両側にはお姉さんの二倍くらいの背丈の石像が二体、のっそりと鎮座していた。
鎧を着た、角の生えている大男の石像は、ジッと私たちを見据えている。
「さて…正面の入口が開いてるといいけど…」
お姉さんがそう言ってお城の方を振り返ったとき、私は声をあげて驚いてしまった。
門戸の両脇の石像の首が動いて、手に持っていた金属の棍棒のようなものを私たちめがけて振り上げたからだった。
「おぉ?」
お姉さんがそう言ってパッと私を抱きとめてくれる。
「おおおおお姉さん!」
「あはは、大丈夫。こいつらはゴーレムだ」
お姉さんはそう言うと、左の袖をぐいっとまくって石像に見せつける。
「あたしはこの城の主だ。あんた達のご主人様はどこにいるんだ?」
お姉さんの紋章を見た石像の動きが止まり、スっと腕を下ろすとそのままその場に膝まづいた。
「ゴ、ゴーレム、って、確か…」
「ん?あぁ、魔力を使って作った人形のことだよ。石だったり、木だったり、鎧だったりいろいろだけど」
「こ、これは、サキュバスさんが作った、ってこと?」
「うん、たぶんね」
お姉さんはそう言って私の頭を撫でながら
「サキュバスのところに案内してくれないか?」
とゴーレムたちに声を掛けた。
すると、左手にいたゴーレムが、音もなくスっと腕を上げて、私たちの後ろを指し示した。
私はゴーレムに注意を払いながら恐る恐る振り返ってみる。
そこには、頭から角を生やし、背中にお姉さんと同じ黒いコウモリのような翼を背負った綺麗な女の人が立っていた。
「お帰りなさいませ、勇者様」
「…ただいま。約束通り、戻ってきた」
この人がサキュバスさん、なんだね。
魔王の姿になったお姉さんと違って、肌は透き通るような白だ。
魔王お姉さんの肌の色は、暗い肌の人間よりももっと暗い、黒炭のような色をしているけど、このサキュバスさんは、私の肌の色に似ている。ううん、私なんかよりももっと白いかもしれない。絹みたいにきれいな色。
「お連れ様は?」
サキュバスさんは、不思議そうな瞳で私を見つめてお姉さんに聞く。
「旅の途中で会ったんだ。彼女が、私に答えをくれた」
お姉さんの言葉に、サキュバスさんはキョトンとした顔をしたけど
「な、少しゆっくりくつろげる部屋ってあるかな?もう三日は野営してて、そろそろ体が痛くって」
と言ったお姉さんに視線を戻す。
「話は、そのあとでゆっくりさせてくれると助かる」
「かしこまりました。ご案内致します」
サキュバスさんは、たおやかにお姉さんと私に一礼すると、私たちを先導してお城の中に入った。
私とお姉さん、妖精さんもそのあとに続いてお城へと入る。
お城の中も、想像していた魔王城とは全然違った。
まるで普通。壁に掛かっている絵やなんかは魔族の人の肖像画みたいな物もあるけど、不気味な鎧とか、怖い石像とか、ドクロの飾り物とか、そういうものは全然ない。赤い絨毯が奥へと伸びていて、壁掛けの花瓶にはたくさんのお花が活けてある。入口のちょうど真上にあるステンドグラスから暖かな光が差し込んでいて、ホールのようなその部屋を明るく照らし出している。ふわっと香ってくるのは、お香かなにかの匂いだろうか。
「キレイになったな」
「はい。あの日は、戦争のせいでずいぶん荒れていましたからね」
お姉さんの言葉に、サキュバスさんは穏やかな口調でそう答える。
お姉さんはそれを聞いて、やっぱり少しだけ、悲しそうな顔をした。
ホールを抜けた先の階段を上がると廊下があって、さらにその奥へと案内される。突き当たりのドアをサキュバスさんが開けた。そのとたん、まばゆい光が私たちを包み込んだ。
そこは、大きな窓のある部屋だった。
ベッドみたいなソファーに暖炉、大きなローテーブルが置いてあって、その上にも白い花瓶にお花が活けてある。窓から入ってくる光のせいか、部屋の中は暖かくて、どこか気持ちをホッとさせてくれた。
「おかけになってお待ちください。今、お茶をお持ちしますね」
サキュバスさんはそう言って部屋を出て行った。
それを見送ったお姉さんはふぅ、と大きなため息をつきながら、ドスンとベッドみたいなソファーに腰を下ろした。
私もそれに習って、ちょっと控えめにソファーに腰掛ける。お姉さんはそんな私を知ってか知らずか、
「んんーー!」
なんて声を出して大きく伸びをしてから、ドサッとソファーに横たわった。
「この部屋、気持ちいいなぁ」
お姉さんはなんだか甘ったるい声でそんなことを言っている。
うん、でも確かに気持ちいい。あったかで、ふわふわのソファーがあって…まるでお姉さんと一緒のシュラフで眠るときみたいな気持ちになる。
そんなことをしていたら、パタン、とドアが閉まる音がして、サキュバスさんが部屋に戻ってきた。手にはティーセットの乗ったトレイを抱えている。
「あー、悪いな」
「いえ。物資は殆どを民の救済に回しておりますので、質素なものしかございませんが」
「あぁ、うん。いいよ、贅沢するつもりはない。パンと少しの肉と野菜に、ゆっくり眠れる寝床があればそれで十分すぎるくらいだ」
お姉さんの言葉を聞いているのかどうなのか、サキュバスさんはカップを私とお姉さんの前において、それから、妖精さん用らしいおもちゃみたいに小さなカップのおいてくれて、それぞれにお茶を入れてくれる。かすかに湯気を立ち上らせているカップの中身は、きれいな黄金色をしていた。
お姉さんはなんの疑問もなくそれをカップを口に運んでググッと煽る。
「これって、あれか、えっと魔界の葉っぱで…」
「よくご存じなんですね。はい、カミツレという葉に、少しばかりミカンの干皮を混ぜてあります。お疲れを取ってお心を休ませる効能のあるお茶でございます」
「なるほどなぁ。向こうじゃ、紅茶か緑っぽい渋いのしかないから、こう言うのは香りだけでもなんだか落ち着く気がするよ」
お姉さんはそんなことを言いながら、残りのお茶もグビグビっと飲み干した。
サキュバスさんを疑っているわけじゃないけど…ま、魔界のお茶、か…人間が飲んで、こう、錯乱しちゃったりしないかな?大丈夫かな?
きっとそんな不安が顔に出ていたんだと思う。そう考えていたらお姉さんが笑って
「大丈夫。人間界でもたまに飲んでるやついるよ。でも、紅茶やなんかの葉っぱとは違ってあんまり買い手がないから栽培されてないだけだ」
と教えてくれる。
そ、そうなんだ…じゃぁ、大丈夫そう、かな?
私はそう思ってカップに口をつけた。
暖かで、苦い中にほのかにオレンジの香りと甘みが広がってくる。不思議な感じのお茶だけど…なんだか、ホッと出来る気がして好きだな、これ。
またそんな気持ちが顔に出ていたのか、今度はサキュバスさんが控えめに笑って
「気に入っていただけだようで、安心いたしました」
と私に向かって言ってきた。
私も
「美味しいです。ありがとうございます」
とお礼をしたら、サキュバスさんは穏やかな笑顔の返事をしてくれた。
「本当なら早めに状況を聞きたいところなんだけど…もう少し、休んでからでもいいかな?」
お姉さんは私をチラリとみやってからそう言った。
私を心配してくれてるのかな?確かに疲れてはいるけど…私、大丈夫だよ?
そう言おうと思ったら、お姉さんの話を聞いたサキュバスさんが口を開いた。
「…そうですね。では、お話は夕食が済んでからにいたしましょう」
「ああ、うん、そうだな。そうしよう。そういえば、あんた、手伝いはいないのか?他の従者だっていただろうに」
「いえ、今は私と私の力で作ったゴーレムだけです。あの戦争で家族の行方がわからなくなった従者達も大勢おります。 勝手ながら、彼らには一度里に戻り、各々の家族や大切な者たちを探すことを許しました」
「そっか…まぁ、その方が良いだろう。あたしがいればこの城に防衛機能なんていらないし、身の回りの世話くらいなら自分たちでも出来るしな」
お姉さんはそう言ってニコッと笑う。
「はい」
そんなお姉さんにサキュバスさんも笑顔で答えた。
「それでは、お夕食の準備をしてまいります」
「あぁ、手伝おうか?」
「いいえ。どうかお休みになられていてください」
サキュバスさんは立ち上がり掛けたお姉さんをそう言って押しとどめると、またおしとやかに一礼して、部屋から出て行った。
それからしばらくその部屋で休んでいると、サキュバスさんがワゴンに載せた食事を運んできてくれた。
お城だし食べきれないほどの豪華な食事だったらどうしよう、なんて心配したけど、サキュバスさんが運んできてくれたのはごくごく普通のシチューにサラダに、フワフワしたパンのようなものだった。
それからサキュバスさんも一緒になって食事をした。
お姉さんと私で、サキュバスさんにこれまでの旅の話をしてあげる。サキュバスさんは、ニコニコな笑顔で私たちの話をずっと聞いていてくれた。
食事が済むと私たちはそのままサキュバスさんの操るゴーレムさんの案内でお城の中のお風呂へと向かった。
お風呂はまるで公衆浴場みたいに大きくて、思わず声を上げて驚いたらその声がくわんくわんと反響するくらいだ。のんびりとお風呂につかって、先にお姉さんがあがって行ったので私もそこそこで切り上げた。
身支度を済ませていたらサキュバスさんがやってきて、ベッドルームに案内してくれる、と声をかけてきた。私は優しい笑顔で笑うサキュバスさんを疑うことなく着いて行って、これまた大きなベッドのある部屋へと案内された。
そこには私より少しだけ先にお風呂から上がったお姉さんと妖精さんがいて、お姉さんは寝間着らしいダボダボの絹の服を着て、窓からボーッと外を眺めていた。妖精さんもその肩にちょこんと座り込んで、一緒になって星空を見上げている。
パタン、とドアがしまる音がすると、お姉さんはハッとした様子で私とサキュバスさんを振り返った。
「あぁ、ずいぶんとゆっくりだったんだな」
お姉さんそう言うと、サッとカーテンを閉める窓から離れてドサッとベッドに身を投げた。
それから自分のとなりをボンボンと叩いて
「ほら、一緒に寝ようよ」
と誘ってくる。
その言葉に、私はふっと胸にずっとあった緊張感がほぐれていくのを感じた。
こんな広いお城の見知らぬ部屋で一人で寝るのはちょっと怖いなって、そう思っていたから。
私は素直にベッドに飛び込むとそのままお姉さんの胸元に体を刷りよらせて引っ付く。お姉さんのふわりとした温もりと優しい香りが私を包んでくれる。
やっぱり母さんのことをふt思い出してしまって少しだけ切なくて、私はお姉さんの体にしがみつくように寝間着の胸元をキュッと掴む。お姉さんはそんな私に腕を回して、ギュッと抱き締めてくれた。
そんなお姉さんの温もりに包まれた私は、ほどなくしてうとうとと心地よい眠りの中へと落ちていく。
そんなとき、ふとお姉さんの体が離れる気配がした。
どうしたの、お姉さん。お手洗い?
そう思っても微睡みの中にいた私は声をかけることもなくお姉さんが代わりに置いてくれた枕にしがみつく。
「待たせたな」
お姉さんの声がした。
「いいえ。まずは、帰ってきて頂けたこと、嬉しく思います」
サキュバスさんの声も聞こえる。
あぁ、そっか…二人はお話をしなきゃいけないんだったね…
大変…私も一緒にサキュバスさんを説得しないと…
二人の言葉を聞いた私はそう思って起きようと思うけど、体も眠気も言うことを聞かない。ふわふわとまるで体に力が入らず、意識もはっきりしてこない。
眠いし疲れてはいたけど、こんな眠気は始めてだ。もしかして、お姉さんに魔法をかけられたのかな?確か、トロールさんに助けてもらったときも、矢を抜くときに睡眠の魔法をかけたって言ってた。これがそうなのかな…?
「あたしは、答えを見つけたよ。あたしは魔王をやる。魔族と人間とが、分け隔てなく平和を享受出来る未来を探したい。全部、あの子とあの子を助けたトロールが教えてくれた。あたし達はきっと、同じ世界に生きて行ける。争いはあるかも知れない。でも、それだけじゃない世界を、あたしは見つけなきゃいけない。あの子やトロールが、その身を持ってあたしに教えてくれたから」
「そうですか…」
「あんたは、どうするか考えは決まったのか?」
「正直に申しあげれば、今日の今日まで迷って居りました」
「そっか…」
「ですが、皆さんを見て、私も心を決めさせていただきましたよ」
ぼんやりとする視界の中で、お姉さんはゆっくりと方膝を付いてその場に跪いた。
「勇者様…どうか、剣をお取りください」
「…うん、分かった」
サキュバスさんに言われて、お姉さんは枕元にまとめて置いていた荷物から剣を手に取るとシャキンと音をさせて鞘から引き抜いた。
うそ…ダメ…ダメだよ、お姉さん…!目の前で起こっている出来事なのか夢の中の出来事なのかもわからない。でも、そんなのダメだよ、お姉さん…やめて…!
私はそうは思うけど、声がでない。体も動かない。
そんな中、お姉さんはサキュバスさんの肩口に剣を当てがった。
お姉さん…!
やっと、呻き声だけが口に出る。でもお姉さんは、こっちを見向きもしない。
でも次の瞬間、お姉さんは不思議なことをした。
剣の腹でサキュバスさんの右肩をポンっと叩いて、今度は剣を左肩に置いてまたポンっと叩く。それからお姉さんは剣を自分の顔の前にまっすぐに立てて掲げると、そのままシュンと一振り剣で空気を斬って、最初と同じようにシャキンと剣の刃を響かせながら鞘に戻した。
「私は、あなたを新たな主として忠誠を誓います。勇者様…いえ、新たな魔王様」
「ありがとう…あの子達と同じようにそばにあって、どうかあたしを支えてくれ」
「はい、仰せのままに」
サキュバスさんはそう言って深々と頭を下げる、ややあってすっくと立ち上がった。
「…良いものですね…」
「そうだな…あたしにはこれまで誰も居なかった」
「私には、魔王様しかいらっしゃいませんでした」
「先代のように、もうあんたを一人残すようなことはしないと誓うよ」
「はい。私も魔王様がお一人で苦しまぬよう、いつ何時でもお側に侍りましょう」
ランプの薄暗い明かりの中で、サキュバスさんがにっこりと笑うのが見えた。
お姉さんはこっちに背中を向けているから分からないけど、きっと嬉しいときの顔をしているに違いない。
でも、良かった…最初はびっくりしたけど、あれは忠誠を誓うって儀式だったんだね。絵物語の中で、騎士が君主にああして剣で肩を叩く場面を見たことがある。サキュバスさんは侍女として、お姉さんの手伝いをするって決めてくれたんだ。
きっとお姉さん、嬉しいだろうな。お姉さんは一人じゃないよ。私も妖精さんもトロールさんもサキュバスさんも、お姉さんのそばにいてお姉さんの友達で、味方でいるから…ね…
そんなことを思いながら私は、胸の内側に沸いてきた安心感に包まれるように、そのまま深い眠りに付いていた。
***
「人間ちゃん、人間ちゃん。起きて 」
翌朝、私はそう呼ぶ声とともに、頬っぺたにペチペチ何かが当たるような感じで目を覚ました。
目を開けるとそこには私の顔を覗き込んでいる妖精さんの姿があった。
「ふわぁ…おはよう、妖精さん」
大きく出てしまったあくびを納めてから挨拶をすると、妖精さんはパタパタと羽ばたいて
「おはよう!」
と返してくれる。
私は体を起こしてぐっと伸びをしてから部屋を見渡す。
大きな窓に掛かっていたカーテンは開かれ、眩しいばかりに朝陽が差し込んで来ている。
昨日の夜はランプの明かりだけでよく見えなかったけど、私の眠っていた部屋はあちこちに貴重そうな調度品が置かれ、立派なじゅうたんに、大きな暖炉もある。
まるでお姫様の部屋みたいだ、と思ってからここが魔王城だった事を思いだし、やっぱりなんだか想像と違いすぎてなんだか笑ってしまった。
「人間ちゃん、魔王様がご飯だって言ってたよ」
妖精さんがそう言って私の着ていた絹の寝間着を引っ張る。
「うん、わかった」
そう返事をしてベッドの際まで這いつくばっていると、ふわりと何かが香ってくる。なんだろう、何かを焼いている芳ばしくっていい匂い。
昨日の夜はサキュバスさんが夕食を振る舞ってくれたけど、朝ご飯の準備もしてくれたのかな?
私はそんな期待を胸に、用意されていた薄手の肩掛けを羽織って妖精さんと一緒に部屋を出た。
いい匂いはその先の廊下にもいっぱいに立ち込めていてワクワクする気持ちがいっそう強くなる。私は廊下を、その匂いに導かれるみたいに歩いて食堂にたどり着いた。
「あ、起きたな!おはよう!」
ドアを開けたらお皿を両手に持ったお姉さんがいて、私と妖精さんを見て明るく挨拶をしてくれる。
「おはよう、お姉さん」
「おはようです、魔王様!」
私と妖精さんの挨拶を聞きながらテーブルにお皿を並べたお姉さんは
「ほら、今準備してるから座ってて」
と私たちに席を進めてくれる。
「魔王様!ここにあったお皿ご存知ないですか?」
急にそう声がして、食堂にワゴンを押したサキュバスさんが入って来た。
「あぁ、もうならべちゃったよ」
お姉さんが言うとサキュバスさんは少し困った顔をして
「昨晩、主従の誓いを立てたではありませんか。お気遣いなど無用です」
と言い返す。でも、お姉さんはヘラヘラっと笑って
「いやぁ、働かざる者食うべからず、って育ての親に叩き込まれて来たからさ。自分の食事の準備くらい手伝わないと、バチが当たっちゃうよ」
なんて言う。
そんなお姉さんの言葉を聞いて、私はハッとした。そうだ、私もお手伝いしなきゃ!
「サキュバスさん、私もするよ!」
私はそう言って、困り顔のサキュバスさんが押していたワゴンからパンのバケットを掴んでテーブルに並べる。
「あぁ、もうっ」
サキュバスさんはもっと困った顔をしたけど、でも、やってもらってばっかりじゃなんだか窮屈だもんね。
「サキュバスさん、私は魔王様じゃないから気にしないでください!」
私がそう言ったら、サキュバスさんはなんだかちょっと諦めたような顔をして
「結構ですと申しておりますのに」
なんて言って、私に続いてワゴンにまとわりついていた妖精さんにスプーンやフォークの入った小さなバケットを手渡した。
そうやって食事の準備を整えた私たちは、四人で揃って食卓について、サキュバスさんの作ってくれた朝食を食べる。
洞窟や砂漠の街で、トロールさんと妖精さんとお姉さんと食事をしたときも楽しかったけど、サキュバスさんと一緒もなんだか楽しくってついつい、おしゃべりしながらになってちょっとお行儀が悪くなってしまっていた。
食事を終えて、私たちはサキュバスさんが淹れてくれたお茶を飲んでいた。昨日とは違う葉っぱで、また不思議な風味のお茶だったけど、どうしてか私はこの手の魔界原産のお茶が口にあうらしい。飲むと口からお腹まですっきりするような感覚のする、そんなお茶だ。
「それで、こっちはどんな様子だ?」
カップを煽ってから、お姉さんがサキュバスさんにそう尋ねる。
「はい…目下のところ、各地で混乱が続いています。人間軍の侵攻路にあたる東部地域は戦争によって狩り場や森が荒らされ、食料の確保が難しい状態です。このため、この北部、南部へ避難民が急増し、そこでも人口過多による食料の不足が著しい状況が現在のもっとも懸念される問題です。この食料不足による各部族間の摩擦も日に日に増加しています。私のゴーレムを使って魔王様管轄の地域より集めた食料を優先的に当該地域に送っていますが、それでも不十分なのが現状です」
サキュバスさんの言葉にお姉さんはうーんとうなって言った。
「食料か…まず優先してかからなけりゃならない問題だな」
「はい。また、治安の悪化も深刻です。各部族の自警団は活動しておりますが、食うに困って盗みや強奪を行う者の報告があとをたちません。西部地域に残存していた魔王軍を投入して治安維持に当たらせていますが、なにぶん、広範囲に渡っており手に余る状態です。北部地域、南部地ともに人間軍による攻撃で魔王軍そのものが壊滅状態にあることから鑑みても、治安維持のために至急、兵員なり治安維持組織の増員が必要と思われます」
「治安維持、か…」
「最後に、駐屯している人間軍による影響です。人間軍は、北部地域、南部地域、西部地域にそれぞれ五千人規模の駐留軍団がおかれています。特に北部地域に展開している人間軍はかなり粗暴で、北部地域から民間魔族が避難せざるを得ない一因となっているようです。東部、南部でも同様の事件の報告はあがって来ておりますが、特に南部からの報告は治安維持のためにやむなく武力行使を行う場合がほとんどです」
「ってことは、まずは北部への対応が必要、か…」
「おおむね、この三点が現在もっとも憂慮されている問題です」
「分かった…。まずは食料問題についてだ。魔族は畑を作ったりはしないんだったっけな?」
「そうですね、あまり盛んではありません。妖精族の一部が薬草の類を栽培していたり人魔族が麦を作っていたりしますが、ほとんどの部族は人間の様に農耕の術を持っていません」
「ゆくゆくは身につけておいた方がいいだろうなぁ。ただ、今からやるとなると、すぐに食料問題解決の糸口にはならない…それとは別に、目先のことをなんとかしないと」
空になったお姉さんのカップに、サキュバスさんがお代わりを注ぐ。しばらく口に手を当てて考えていたお姉さんは、顔をあげて私を見やった。
「なぁ、あんた、魔族たちに畑教えてやってくんないかな?」
「は、畑を?」
お姉さんが急にそう言ってきたので、私は驚いてそう返してしまう。
「うん、そう。喰うに困ってるやつらを魔王城管轄の土地に呼び込んで、ここの資源を使って生活をしてもらいながら、畑を教えるんだ」
「しかし、それだけでは魔界全域の食料問題を即解決するには…」
「うん、もう一方で、あたしが駐屯軍へ行って撤退させてくる。おそらく、人間が消費してる分の資源はかなりあるだろう。それを魔族が享受できるようにすれば、多少は改善出来ると思うんだ。本当は居住区を整理したりもしたいけど、そいつはもう少しあとかな」
お姉さんは腕を組み、難しい顔をしながら続ける。
「それと、魔界全土に魔王復帰の報を行き渡らせよう。治安の方はそれで少し落ち着くんじゃないかな?」
それを聞いたサキュバスさんが、すこしだけ表情を曇らせた。
「それですと、いたずらに人間界を刺激するのではないでしょうか?」
「可能性は、あるよな。でも、これでも勇者だ。あっちの王族や貴族に、軍属から魔導協会、それに官僚達にも顔が効く。人間が魔界を食い物にするつもりならぶっ叩くし、ただ単に魔族側からの復讐を恐れてるだけなら、あたしがちゃんと統治するように伝えるさ」
「…あくまでも、『勇者』個人がこの魔界を牛耳り、この世界の王の役割を担われる、と?」
「うん、まぁ、そんなとこ」
お姉さんの言葉に、サキュバスさんがさらに顔をしかめた。それは、いつもお姉さんが見せる、あの悲しげな表情だった。
「『勇者』とは、人間界の希望ではないのですか?魔界を我がものにしその王として君臨するようなことをして、人間たちは…裏切られた、と考えないのですか?」
「考えるだろう、な…」
サキュバスさんに言われて、お姉さんも悲しげに笑った。でも、お姉さんは俯かなかった。
「でも…仕方ない。先代との約束だし、数え切れない程の魔族を斬ったあたしがいうのもなんだけど、魔族にだって家族があって、平和を願う者達がいるのをあたしは知ってる。そういうやつらを無視するようなことは、あたしにはできない。先代も、あたしのそういうところを知って、こんなことを託したんだと思う」
お姉さんは、それから私の顔を見て、次に妖精さん、最後にサキュバスさんを見て、ニコっと笑って言った。
「それに…あんたたちは、一緒にいてくれるだろう?」
それを聞いて、サキュバスさんの顔がギュッと歪むのが分かった。
私も、きっと同じ顔をしていたに違いない。
お姉さんは、覚悟を決めてるんだ。
いつだかに私に言った。
『あたしは、勇者でも魔王でも、人間でも魔族でもない、化け物になったんだ』
って。それはきっとどれほど辛くて、どれほど寂しくて悲しいことか、想像するだけで、胸が痛くなる。
でも、お姉さんはそう在る覚悟を決めてるんだ。
だから、そんなお姉さんに、私は言ったんだ。
『お姉さんは、お姉さん。怖くないよ。一緒にいてあげられるよ』
って。
剣術や魔法のことなんてよくわからないし、戦争のことなんてもっとよくわからないけど、でも、お姉さんがとてつもない力を持っていることだけは私にもわかる。
魔王の紋章は、自然の力を扱うもの。勇者の紋章は、自分の力を増幅させるもの。
二つを持っているお姉さんは、魔王の紋章で得た自然の力を、勇者の紋章で増幅させることが出来る、ってことだ。
自然が持つ力を増幅させて操れる…たぶん、その力を使えばお姉さんにできないことなんてほとんどないだろう。
そんなお姉さんが、ただ一つ恐れていること…それは、一人になってしまうってことだ。そしてそんなことにならないように、って、そうお願いしているんだ。
トロールさんのことがあってから、砂漠の街でも伝えてあげたはずなのに、お姉さんはまだそのことが心配で怖いんだ。
そう思い至った私はやっぱり胸がギュッと苦しくなる。
いてもたってもいられなくなって、椅子から飛び降りてお姉さんの膝によじ登ってその体にギュッとしがみついた。
「一緒にいるよ。約束するよ、お姉さん」
そう伝えたら、お姉さんが優しく私を抱きしめてくれる。
「うん。ありがとな」
そう優しい声が聞こえてきて、お姉さんが私の頭にゴシゴシと頬っぺたを押し付けてきた。
「ふふ…では、しばらくお待ちくださいね。後片付けを終えたら出立の準備のお手伝いをいたしますから」
サキュバスさんの、少しだけ安心したような声も聞こえる。
そうだよ、お姉さん。
安心してね。
お姉さんがいなかったら、私、あの日、偽物の勇者達にひどいことされてから殺されてただろうし、オーク達にだって何をされたか、想像もしたくない。
お姉さんはそんなところから私を助け出してくれた。
私はお姉さん無しでは、きっと生きていられなかったんだ。
ここにこうしていられるのは、お姉さんのおかげ。
私は、その恩をお姉さんに返したい。
だから、ね、お姉さん。お姉さんが世界中の嫌われ者になったって、私たちはお姉さんの味方だよ。
私は胸の中で、お姉さんのためにそう祈って、わざと明るくお姉さんの顔を見て言った。
「そうと決まれば私、畑頑張るよ!麦とお芋ならちゃんと知ってるから大丈夫!」
「ほんとか?あはは!じゃぁ、よろしく頼むよ!」
お姉さんはそう言って、ニコッととびっきりの笑顔で私に笑って見せてくれた。
***
食後のお茶を終えてから少しして、私は妖精さんとサキュバスさんと一緒に、魔王城から北にあるっていう魔族の城砦都市へお姉さんが転移魔法で出かけるのを見送った。
お姉さんは夕方には帰ってくるから、なんて笑っていたので、私は少しだけ安心してお姉さんに手を振った。
お姉さんの今日の仕事は、向かった先の城砦都市に駐屯している人間の軍隊を説得して撤退させることらしい。
話を聞くだけで、そう簡単なことじゃないってのはわかる。
だけどお姉さんは「それでもやらなきゃ」って笑って言っていた。
その笑顔に悲しさはなく、どこか凛々しい雰囲気がしていて私も背筋が伸びるような感じがした。
私も、任せられたことをしっかりやらないと!
そう意気込んで、お姉さんを見送ってすぐに私はサキュバスさんにお願いして魔王城の外へと出て来ていた。
妖精さんはお姉さんに頼まれて、風の魔法っていう遠くの仲間と話をする魔法で、魔王城に新しい魔王が立ったってことを魔界中に知らせている。そんなわけで、私をサキュバスさんの二人だけ、だ。
サキュバスさんは角さえなければ人間とほとんど変わらない出で立ちをしていて、とてもきれいな人だ。しかも優しくっておしとやかで、すごくいろんなことに気が回る。たった一晩だけど、私はすっかりサキュバスさんに信頼を寄せていた。
「いかがでしょうか?」
魔王城から持ってきた小さなスコップで地面を掘り返していた私に、サキュバスさんがそう尋ねてくる。
「あ、はい。このあたりは砂利が多いですね…」
「砂利が多いといけないのですか?」
「うーん、すぐに畑にはできないかな。土はベタベタしてて畑には向いてそうですけど…特にお芋とかをやろうとすると、砂利はない方がいいんです」
私は言うと、サキュバスさんはなんだか感心したような表情で私の隣にしゃがみこんで、落ちていた木の棒で地面をつつく。
やっぱりそこからも小さな石が土に紛れてボロボロと出てきた。
「これは…魔王城建築のときに使われたものだと思います。この白い石は、人間界と魔界を分かっているあの山脈から切り出されたものです」
サキュバスさんは砂利の中の小さなつぶをつまみあげてそういう。
なるほど、そっか…だとすると、このあたり一帯の土は全部こんな感じかな?
「…魔王城には、四つの門があるのですが…私たちが出てきた門は南門。そこは、吐き出しの門、と呼ばれています」
「吐き出しの門?」
「はい。魔王城の建築自体は、私が生まれる前の出来事なので詳しくは存じませんが、そう呼ばれるのはなんでも、廃材などを運び出すのに使っていた門であるからとうかがったことがあります」
「そっか…だとしたら、南門じゃない方向のところは砂利が少ないかもしれないですね」
「そうですね…北は砂利とは違いますが、人間軍との戦いでまだ少し荒れていますので畑にはしたくありませんね…石材は東から運ばれて来たという話ですし、残すは西側でしょうか」
サキュバスさんは立ち上がってお城の西を指差す。
「行ってみましょう」
「そうですね」
私はサキュバスさんとそう言葉を交わして西の方へと足をすすめる。
サクサクと、雑草がまばらに生えている地面を踏み歩く。土はまぁ、人がたくさんいれば作るのは簡単だ。
でも、問題は水だよな…魔王城って畑で遣えるような井戸とかあるのかな?
ここに来る途中に川は見なかったから、水を引いてくるのは難しいと思うし…そのあたりのことも、サキュバスさんに聞いておいた方が良さそうだな。
そう思ってサキュバスさんに声をかけようと彼女を見上げたとき、サキュバスさんの方から私に話しかけてきた。
「その…畑と、花を育てるのと、では何か違いがあるのでしょうか?」
「え?お花?」
「はい。魔王城の庭園に花を植えているのですが、なかなかうまく育ってくれず、苦労しているのです」
サキュバスさんの言葉に、私は思い出した。
確かに、魔王城の中庭には花壇があって、色とりどりの花が咲いていた。
お城の中にもいたるところに花が活けてあったけど、あれはサキュバスさんがやっていたんだね。
「基本的なことはあんまり違いはないと思いますけど…あのお花はサキュバスさんが?」
「はい。この地で命を落とした者たちへの弔いのために」
その言葉に、私はふと、先代の魔王って人の話を思い出していた。
「先代の魔王様とかですか?」
私がそう聞いたら、サキュバスさんは一瞬、涙を流し出してしまいそうな表情をした。
ま、まずいこと聞いちゃったかな…
「ご、ごめんなさい…なんか、いけないことを聞いちゃったみたいで…」
「…いえ、お気遣い無く。そうですね、先代の魔王様のためです。先代の魔王様は、花がお好きで…あの花壇ももともとは先代様が作ったものなんですよ」
サキュバスさんは、気を取り直してそう私に教えてくれる。
先代の魔王様、お花が好きだったんだ…昨日までの私だったら、魔王なんて人がお花なんて、って思っていたかもしれない。
でも、あのお城に一晩泊まってみて分かった。
あのお城に住んでいた人は、晴れている暖かな日が好きで、きれいな星空を眺めたり、色とりどりのお花を見たり、たぶん、風の香りを楽しんだり、芝生に寝転んでお昼寝したり、そんなことが好きな人だったんだろうなって思った。
それは私たち人間と変わらない。
平和で、心穏やかな時間を大事にしたいって気持ちがある人だったんだ…
どうして人間は、そんな人と戦争をしなくちゃいけなかったんだろう?
そんな疑問が、ふっと私の頭の中に浮かんできた。だけど、すぐに私はそれを頭から追い払う。今はそのことじゃない。
畑ができるかどうかを考えないと。
「そのことは良いとして…それじゃぁ、あとで花壇の花のことも教えていただけませんか?」
「はい、分かりました。花壇はお花がたくさんの方がいいですもんね」
サキュバスさんの言葉にそう返事をしてあげて、それから直ぐに
「畑の話に戻りますけど…魔王城に井戸ってありますか?」
と聞いてみる。
「えぇ、ございますよ。このあたりは東の山脈の地下水が豊富ですから」
「そうなんですか!良かった…それなら、あとは土さえ良ければ畑はできそうです」
サキュバスさんの言葉に私は胸をなでおろす。そんな私を見て、サキュバスさんは笑った。
「そうですか。なによりです」
それから私たちは城の西側の土地へとたどり着いた。
スコップで少し掘ってみると、そこからは焦げ茶色のベタベタしたいい土が出てくる。砂利も少ないし、耕せば十分に畑になりそうな感じだった。
それをサキュバスさんに伝えると、彼女はなんだか嬉しそうに笑って
「それでは、すぐにでもゴーレム達に命じて準備を整えましょう」
なんて言った。
それならまずは区画を決めておかないといけない。
ただ畑を広げるんじゃダメで、きちんと区分けして管理しないと排水とかそういうことも気にしなくちゃね。
私はそのことをサキュバスさんに伝えて、持ってきていた麻のロープで地面にわかりやすく区画を作る作業を始めた。
とりあえずはここに住む人たちの分の畑ってことだから、私のいた村程の面積くらいあれば済むはず。
そう思って、百歩の幅ので八つの畑にする区画を作った。
排水路や作業路のことも考えなきゃいけなくって、父さんと母さんに教えてもらったことを思い出しながらやっていたらなんだか切なくなったけど、私は涙をこらえて作業に励んだ。
日が傾きかけたころには作業が終わり、私はサキュバスさんと雑草の茂っているところに腰を下ろしてサキュバスさんが持ってきてくれていたお茶を飲んでいた。
「では、この縄の中をゴーレム達に掘り起こさせればよろしいのですね?」
「はい。それであとはどこからか種芋を少し持ってくれば大丈夫だと思います」
「芋の類は、西にある山地に自生していますから、そこから掘り起こすことになりますか…」
「それでもいいですけど、そうするとその土地の魔族さん達が困っちゃうんじゃないですか?」
「確かにその心配はございます」
「ですよね…そのあたりはお姉さんと相談した方が良いと思うので、後回しにしておきます」
そんなことを話しながら、私は縄を張った地面を見渡す。
ここが一面、お芋畑になったら…ふふ、なんだか嬉しい気分になりそうだ。
そんなとき、すこし冷たい空気が私の肌に触れた。もう夕方になる。気温も下がってきているみたいだ。
私は作業の前に脱いでいたマントを羽織りなおす。すると、サキュバスさんが私を不思議そうに見た。
「どうされたのですか?」
「あ、その、少し寒いな、と思って。サキュバスさんは平気なんですか?」
「ええ、私たちは寒さや暑さは…」
「あ、そっか、魔法だ」
私は旅の途中でお姉さんや妖精さんがやっていたっていう、あの魔法のことを思い出した。
お姉さん、魔法を教えてくれるって言ったけど、忙しくなりそうで言い出しにくいな…
そんなことを思って私はふとサキュバスさんに聞いてみた。
「あの、サキュバスさん。サキュバスさんは、魔法を教えたりすることってできますか?」
「魔法を、ですか?」
サキュバスさんが不思議そうに首をかしげる。
「はい。私、ここに来るまでいろいろとあって…自分の身を守る程度でいいから魔法が使えたらなって思って」
そう言うとサキュバスさんはなんだか納得した様子で
「そうでしたか。魔族式の魔法で良ければ、ご指南させていただくことはできますよ。人間様がその力をお使いになれるかどうかはわかりませんが…」
と言いながら、すぐそばに生えていた三つ葉を一本引き抜いて私に手渡してきた。
「それをお持ちになっていてください」
私は言われるがままにそれを手に持つ。するとサキュバスさんが私の肩に手を置いて、小さく何かをつぶやいた。
すると、サキュバスさんの手が置かれている肩がふんわりと暖かくなるのを感じた。それが腕に伝わり、そして三つ葉を持っている手へと流れるように広がっていく。指先までその暖かな感じが伝わって行った瞬間、握っていた三つ葉が目に見える早さでぐんぐんと伸び始めた。
「わっ…!わわわ!!」
私は驚いて思わずそう声をあげてしまった。
これが魔法なの?
そうか、魔族の魔法は自然の力を使うんだった…そう考えればこんなこともやれる、ってことだ。
やがてサキュバスさんは私の肩から手を離した。それからフフっと笑って
「これが魔族式の魔法です。私の魔力をきちんと伝えられるようですし、人間様には才能がお有りなのかもしれませんね」
と言ってくれる。
良かった、それなら練習すれば魔法を使えるようになるかもしれない、ってことだね。
私は嬉しくなって思わずサキュバスさんの顔を見やる。
「お仕事の合間にご指南いたしますね」
「はい!お願いします!」
私はサキュバスさんの言葉に、そう明るく返事をした。
と、不意に、サキュバスさんが笑顔をすこし収めて
「人間様、その肩掛けに、魔具の類をお持ちですか?」
と聞いてきた。
「マ、マグ?」
「はい、魔力を伝えるための道具のことです」
このポーチの中に、そんなの入ってたかな?
砂漠の街で騎士長さんに買ってもらったダガーと、傷薬と、あとはトロールさんの石が入っているだけだけど…もしかしてダガーがそうなのかな?
私はそう思ってポーチからダガーを取り出して
「これですか?」
とサキュバスさんに手渡す。でも、それを手にとったサキュバスさんは首を振った。
「これではありませんね…」
ってことは…傷薬ってわけでもないし…トロールさんの石の魔力のこと、かな?
「こっちですか?」
私は、トロールさんの石を丁寧に革袋から出してサキュバスさんに見せた。
サキュバスさんは、私の手の上の石に触れると、ハッとした表情をしてみせる。
「こ、これは…」
「これ、トロールさんなんです。私が悪い人たちに襲われたところを助けてくれて、こんな姿になっちゃって…」
私はあの日のことをサキュバスさんに説明する。するとサキュバスさんはなんだかお姉さんみたいな、どこか嬉しそうな表情を見せて
「そうでしたか…同じ魔族が、先代様が目指したことを成したのですね…なんて誇らしいことでしょう」
なんてつぶやくように言った。
先代の魔王さん…城にお花を植えたり、人間と戦争がしたくなかったり、お姉さんに魔王の力を託したり…本当に、優しい人だったんだな…
私は、サキュバスさんの言葉からそんなことを感じ取っていた。
でも、それもつかの間、サキュバスさんがいきなり
「その石は、城の花壇に埋めて差し上げなくてはいけませんね」
なんてことを言い出した。
「サ、サキュバスさん!トロールさんは死んじゃったんじゃないんです!埋葬とかしなくていいんですよ!」
私は驚いてそう声をあげてしまう。でも、それを聞いたサキュバスさんは優しい笑顔を見せて言った。
「いいえ。トロール族は大地の妖精です。土に埋め、大地の力の中に預ければ魔力の回復が早まります。今触った感じですと、二晩も寝かせて差し上げれば姿を取り戻されると思いますよ」
え…?
ほ、ホントに!?
トロールさん、そんなに早く元に戻れるの!?
「ほ、本当ですか!?」
私は思わず、サキュバスさんに詰め寄っていた。サキュバスさんはそんな私に、相変わらずの優しい笑顔で
「ええ。ご安心ください」
と言ってくれる。
そっか…良かった…!私、ちゃんとトロールさんにお礼が言える!
それがわかったら私はなんだか無性に嬉しくなって、気がつけば立ち上がってサキュバスさんの手を引いていた。
「サキュバスさん、お城に戻りましょう!花壇の話と、トロールさんを寝かせてあげないと!」
そんな私にサキュバスさんはしとやかに応じてくれて、二人してお城へと戻った。
西門へ着くと、中から大きな音がしてゴゴゴと金属の扉が開く。
ゴーレム達が扉を開けてくれたみたい。
門の中に入るとサキュバスさんが何をいうでもなくゴーレム達はまたゴゴゴと低い音をさせて金属の扉を閉めた。
花壇は、東門の方だったよね…!早く…早くサキュバスさん!
私はいつのまにか飛び跳ねるような胸のうちの気持ちを抑えきれずに、自分もウサギみたいに跳ねるようにしてサキュバスさんの手を引いていた。
南門の前を通って東門へと回る。夕焼けに赤く染まった花壇が見えてきた。
あそこにトロールさんの石を寝かせてあげれば…トロールさん、きっと!
そう思って花壇に駆け出そうになった私の足が、急に止まった。
私の目に、見慣れない何かが映ったからだった。
それは、お城の通用口のところにうずくまっているようにして動かない、誰か、だった。
夕焼けに染まっているその誰かは、夕焼けの色じゃない、赤く黒っぽい、何かで全身がくすんでいる。
「魔王様…」
サキュバスさんが、そう掠れた声で言った。
あ、あれ、お姉さん、なの…?
あの色…あれって…あれって、も、もしかして、血…?
そのことに私が気がついたとき、サキュバスさんの声を聞いたのかお姉さんは顔をあげた。
その顔にも、べっとりと血がこべりついている。
お姉さん…もしかして、ケガを!?
とたんに胸がギュッと締め付けられるように痛くなって私は思わず声を上げていた。
「お姉さん!」
「来るな!」
駆け寄ろうと足を踏み出した私を、お姉さんが鋭い叫び声で怒鳴りつけてきた。ビクン、と体が跳ねて、足が止まる。
―――怖い
正直、そう感じてしまった。
お姉さんに怒鳴られたのは初めてだったから、っていうのもある。でもそれ以上、私はあんなお姉さん、見たことがなかった。
あんな目をしたお姉さんを、私は知らなかった。
まるで…まるで…絵物語に出てくる幽霊みたいに、気持ちの色のない目をしていた。
「魔王様、おケガを…?」
サキュバスさんが、か細い声でお姉さんにそう尋ねる。
お姉さんは、力なく首を横に振って
「いや…大丈夫。全部返り血だ」
と低い声で言った。それから
「大きい声出してすまない」
と、血だらけの顔で私に謝ってくる。でも、私が言葉を失っている間にお姉さんは続けた。
「ごめん、今日はあんたとは一緒に寝れないや」
そ、それ、どういうこと?
お姉さん、なにがあったの!?
訳がわからず私が言葉を探していると、サキュバスさんが口を開いた。
「…すぐに、湯浴みの準備をさせましょう」
「すまない…」
サキュバスさんの言葉に、小さな声でそう言ったお姉さんをよく見れば、両腕で自分の体を抱いて小刻みに震えていた。
お姉さん…お姉さん、いったい、なにがあったの?
私、大丈夫だから、お願い、話をして!
ただの一言、そんな言葉が口から出ずに、私はサキュバスさんに連れられてお城の中に入っていくお姉さんをただただそこで見ているだけしかできなかった。
***
その晩、私は昨日お姉さんと一緒に眠った寝室で窓際に座っていた。妖精さんも黙ったまま、私の肩に腰かけている。
窓の外には満点の星。だけど私は、星を眺めているわけではなかった。
あれから私は、トロールさんの石を花壇に埋めてすぐにお姉さんとサキュバスさんの後を追った。
でもお姉さんは浴室に入ったっきり、ゴーレム達にその入り口を守らせて、長いこと出てこなかった。
その間に私と妖精さんとで夕食を食べて、お姉さんが上がった後のお風呂に入って、こうして寝室に戻ってきた。
だけど、とてもじゃないけど眠れる気分なんかじゃない。
お姉さんにはずっとサキュバスさんが一緒に付いているみたいだから変なことはしないだろうけど、でも、それでも私はお姉さんが心配だった。
私だってバカじゃない。お姉さんは北の街で戦いに巻き込まれたんだろう。
お姉さんのことだ、怪我した誰かを助けようとして、でもそれができなかったとかそういうことなんじゃないかなって、そう感じていた。
だから、あんな呆然とした表情をしていたにちがいない。
本当なら一緒にいて慰めることはできなくても、いつもみたいに抱きついてあげることくらいしてあげたかった。
でも、お姉さんは頑なに私を避けて、顔を見ようともしてくれなかった。
きっと、それだけ大変なことだったんだろう。
そう思うと、私はどうしたって胸の中がジクジクと痛んだ。
お姉さん、大丈夫…?お姉さん、心配なんてしなくていいんだよ。私は、お姉さんが優しいのを知ってる。誰かと繋がっていたくって、それでも怖かったり、不安だったりしてそれがでいないのもしってるよ。でも、だから、安心感してほしい。私はお姉さんのそんなところも全部まとめて受け入れられるから…だから、お姉さん…負けないで…
「…お姉さん…」
そんなことを考えていたら、私はふと、そう口に出していた。
「人間ちゃん…」
妖精さんがそう言って、私の頭を小さな手で撫でてくれる。と、ついでその手が私の頬に触れた。
「魔王様は、きっと大丈夫…だから、泣かないで…」
そう言われて私はふと自分の頬に手を当てた。濡れてる…私、いつの間にか泣いてたんだ…
「今夜はもう横になろう?魔王様には明日、ちゃんとお話をすればいいよ」
妖精さんがそう言ってくれる。
うん…そう、そうだよね。きっとお姉さんは私には話してくれる。
たぶん私は、お姉さんの心の準備が出来るまで待っていた方がいいんだ。
そう自分の気持ちに言い聞かせて、私は窓際の椅子から立ち上がってベッドへと身を投げた。
妖精さんも、そばにあったテーブルに用意されてる専用の小さなベッドにパタパタと飛んでいって布団をかぶった。
「おやすみ、妖精さん」
「うん、おやすみ、人間ちゃん」
私たちはそう言葉を交わしてベッドに潜り込み毛布と布団をかぶって目を閉じた。
寝ようと思って、なるべく頭のなかをからにしようと思うけど、あとからあとあらお姉さんのことが頭に浮かんできて、目をつぶっていても頭の中でぐるぐると考えが巡り続けていた。
そんなとき、ギィッとドアを開ける音がして、部屋に一筋の光が差し込んでくる。体を起こしてみるとそこには、少し疲れた顔をしたサキュバスさんが立っていた。
「まだ、起きていらっしゃったんですね」
サキュバスさんそう言って私の眠っていたベッドまでやってくると、ギシッと音を立てて腰かけた。
「お姉さん、どうなりました?」
私は恐る恐そう聞いてみる。するサキュバスさんは静かにため息をついて
「私の催眠魔法でおやすみになられましたよ」
と教えてくれた。
良かった…お姉さんはちゃんと休めているんだね…でも、それにしても…
「サキュバスさん、お姉さんに何があったんですか?」
私はその事が気になってサキュバスさんにそう尋ねていた。
でも、サキュバスさんは宙を見据えてから
「お話しない方が良いのかもしれません」
と静かな声で言った。
言いにくいこと、なんだな…
サキュバスさんの言葉だけで私は分かった。
それでも、何でも、私は聞きたい。聞かないといけないんだ。
「サキュバスさん…教えてください…お姉さんの助けになりたんです」
私はサキュバスさんの目をじっと見てそう伝えた。
サキュバスさんはそれを聞いてまた、しばらく考えるような表情を見せてから
「わかりました…ですが、心して聞いてくださいね」
と私に念を押してくる。
私はコクっとうなずいた。
それを見たサキュバスさんは、ゆっくりとした口調で話始めた。
「魔王様は転移魔法で北の城塞都市に駐留する人間軍の司令官にわたりをつけて面会がかなったそうです。魔王様は撤収を要請しましたが聞き入れられず、それでも説得を続けました。話し合いは平行線をたどり、解決は難しいと感じられたとき、人間の司令官が言ったそうです。『魔族のような連中と馴れ合う気もなければ、赦すつもりもない』、と。そして司令官はあろうことか、その場にいた、恐らく召し使いとしてつれて来られてた獣人族の子どもの首を刎ねたそうです」
「ま、魔族の子どもの首を?!」
私はあまりのことに言葉を失った。
でもサキュバスさんは、たぶん私を驚かせないようになだろうけど、落ち着いた、静かな声でいった。
「魔王様は、感情に任せてその司令官とそばにいた警護の人間を斬り捨てられたそうです」
に…に…人間、を…?
「はい。その者だけではなく駆けつけてきた近衛部隊も、騎士団も、お気持ちに飲まれて斬り伏せたそうです。総数五千は下らない北の城塞の人間軍が即座に退却を始めたとのお話でしたので…おそらく、十人や二十人では下りませんでしょう。もしかすると五百か、それ以上は…」
サキュバスさんはそこまで言って、またふぅとため息をついた。
私は頭に重い衝撃を受けたような感じがした。
お姉さんが…人間を殺したの…?あんなに、あんなにたくさんの血を浴びるくらいの人間を…あの優しいお姉さんが…?
信じられない、って最初の一瞬はそう思った。
でも、あのときのお姉さんの様子を見ていた私にとっては、どうしてもそれが間違いないことだと思えてしまっていた。
だからお姉さんは、あんな目をしていたんだ。まるで幽霊みたいな、もぬけの殻っていうか、意思のない、ただ呆然とした…ううん、絶望を目の当たりのして、それに抵抗する意思を失ったような瞳を…
お姉さんはいつだって私を守ってくれた。トロールさんや妖精さんに、砂漠の街でさらわれた人たちや、憲兵団の人たちも、あの偽物の勇者達だって騎士団に引き渡したって言ってたし、オーク達ですら粛清するだけで無闇に命まで取ろうなんてしていなかったお姉さんが…
きっと、お姉さん自身が一番したくないことをしてしまったんだ。それも、取り返しのつかないことを、とりかえしのつかない規模で…
「サキュバスさん…!どうしよう…お姉さん…お姉さんが苦しんでる…!」
私は敬語も忘れてサキュバスさんにそう言ってすがり付いていた。そんな私を、サキュバスさんは穏やかで、すこし悲しそうな目で見つめて
「そうですね…私も、胸が痛む思いです…」
と、私の髪を撫で付ける。
どうしよう、どうしたらいいの…?私、お姉さんを励ましてあげる言葉も、慰めてあげる方法もわからないよ…
お姉さんが苦しんでいるって言うのに、私…私…
「魔王様は、今朝の食事の席でおっしゃいました。私たちは一緒にいてくれるんだろ?って」
サキュバスさんが不意にポツリとそう言ってたので、私は思わずサキュバスさんを見上げた。
「もしかすると人間様、妖精様やトロール様は、魔王様の救いなのかも知れませんね…」
私には、サキュバスさんが言っている意味がわからなかった。
私たちが、救い?どういうこと?
そう思っていたら、サキュバスさんはクスっと笑顔を見せて私の目をのぞきこんだ。
「どうしたら良いのか、は、私にもまだわかりません…ですが、それを共に考えていくことが、私たちの役目なのかも知れません」
一緒に考える…?なにを…?
サキュバスさんにそう聞き返そうと思ったとき、突然に体の力が抜けて全身が重くなるのを感じた。
意識が急に遠くなってぼんやりと心地良い眠気に包まれる。これって、催眠魔法…?
「今晩はゆっくりお休みください。明日、ご一緒に考えましょう。魔王様を助け、支えるための方法を…」
そんな声が聞こえてきて、私の意識はまどろみの中にうずもれていった。
声が聞こえる…喚き声だ。
誰かが、叫んでいる。
誰か?ううん、違う。
ひとりだけじゃない。大勢の人達が怒号に似た声で何かを言っている。
なに?どうしたの?何があったの?
私はそう思って窓の外を覗いた。
そこには、鎧や剣、槍で身を固めたたくさんの人間たちが城の外に詰めかけている光景が広がっていた。
「来たか」
そう声がして、私は思わず振り向いた。
そこには、スラリと背が高くて、ガタイの良い、頭にピンと立った角か、犬の耳のようなものを生やした男の人が立っていた。
ドカン、という大きな音がした。
再び窓の外に目を下ろす。
するとそこには、門の扉を突き破ったんだろう、一人だけ鮮やかな色のついた人が立っていた。
女の人だ。
他の人は白黒で色なんてないのに、その女の人だけが輝いているように見える。
私は、その女の人を知っていた。
あれ…お姉さん?
「共に来るか?」
大きな男の人はそう言って、羽織っていた黒いマントを翻して言った。
そのときになって、私は気がついた。男の人の胸には、一輪の小さなお花が差してあった。
あれ、庭の花壇に咲いていたお花だ…。
男の人は、私に背を向けてツカツカとドアの方へと歩いていく。
ドアのすぐ脇には、角を生やした女の人がいる。
あれ…サキュバスさん…?
「はい、仰せのままに」
サキュバスさんがしとやかに頷いてそう答える。二人はそうして、揃って部屋から出て行った。
あの男の人…も、もしかして、魔王?
お姉さんに倒されたっていう、魔王さん?
いけない、魔王さん、お姉さんと戦うつもりなんだ…!
待ってよ、二人が戦うことなんてないんだ…お姉さん、魔王さんは優しい人なんだよ。戦争なんてきっとホントはしたくないって思ってる。戦わなくったって、お姉さんが話せばきっと分かる…だって、お姉さんも同じくらい優しくて強いんだから…だから!
私はそう思って部屋から飛び出して魔王さんとサキュバスさんのあとを追う。
なぜだかわからないけど、私には二人がどこへ向かったのかが分かった。
廊下を走って、これまでに入ったことのなかった城の上の階にある大きな扉を開け放つ。
そこには、剣を胸に突き立てられている魔王さんと、その剣を握るお姉さんの姿があった。
「魔王…!」
お姉さんの目は、怒りと、憎しみと、絶望に満ちていた。
「お姉さん!」
私はそう叫んでお姉さんの体にまとわりつく。
「ダメ!」
お姉さんの体を魔王さんから引き離そうと引っ張ると、私は何か強い力を全身に受けて宙を舞っていた。
ドサリと体が床に落ちて、見上げるとすぐそこにお姉さんがいて、魔王さんに剣を突き立てていたときのままの目で私を見下ろしていた。
その傍らに、サキュバスさんが血まみれで倒れている。
動かない…サキュバスさんを…斬ったの…?お姉さんが…?
私はそのことに気がついて、全身が凍った。
声も出ない。体も動かない。
なんで?どうして?お姉さん…どうしてこんなことをするの!?
背筋を貫くような寒気が私からすべての自由を奪う。
そんな私を見下ろしながらお姉さんは握っていたその剣を高々と振り上げた。
―――怖い…怖い…怖いよう!
私は自分の体をギュッと抱きしめて身を縮める。
お姉さんが剣を振り下ろして来て、体にめり込む嫌な感触が走った。
「お姉さん!」
私は、自分の声にハッとして目を覚ました。
慌ててベッドから飛び出して窓から外を眺める。
そこには、人影なんて一つもない。見下ろす門の両側にゴーレムの石像が置いてあるだけ。門戸もどっしりと外壁にはまったままだ。
ゆ、夢…だったんだ…
私はそのことに気がついて、知らずに荒くなっていた呼吸を整え、大きくため息をついた。
「に、人間ちゃん、大丈夫?」
不意にそう声が聞こえたので振り返ると、妖精さんが驚いた表情をして私を見ていた。
「あぁ、うん…怖い夢見ちゃった…」
私は窓際を離れ、ベッドに腰掛けて妖精さんにそう伝える。すると妖精さんはパタパタと私の胸もとに飛んできてギュッと私にへばりついてくる。
「大丈夫。夢だったんなら怖くない、怖くない」
妖精さんがそう言いながら私のほっぺたに小さな頭をゴシゴシと押し付けてくるから、なんだか安心してふふっと笑ってしまった。
「ありがと、妖精さん。お着替えして、サキュバスさんのお手伝いに行こうよ」
私は妖精さんにお礼を言って、そう提案してみる。妖精さんも私が大丈夫だっていうのがわかったみたいで
「うん」
と明るく返事をしてくれた。
部屋を出てすぐのところにいたゴーレムにお城の台所を聞いてそこに行ってみたけど、もうサキュバスさんの姿はなかった。
料理を作ったあとがあったから、またあの大きな窓の部屋にいるかもしれない。
そう思って廊下を進み、食事を取る大きな窓とソファーのある部屋のドアを開ける。
そこには思った通り、サキュバスさんの姿があった。
サキュバスさんは、テーブルにお皿を並べている。そのテーブルに、お姉さんは座っていた。
とたんに、私は全身が固まってしまうような感覚になる。
夢の中のことを思い出して、怖いのが少しだけど、それから強い緊張が湧き上がって来た。
でも、そんな私を見て、お姉さんは柔らかい笑顔を見せてくれた。
「あぁ、おはよう」
お姉さんのそんな表情と優しい声色が、私の体と心を溶かしてくれるような、そんな気がした。
「おはよう、お姉さん」
私はお姉さんにそう返す。
「羽妖精ちゃん、ありがとな。一緒にいてやってくれて」
「人間ちゃんとは友達だから当然ですよ、魔王様!」
妖精さんとお姉さんのそんなやりとりを聞きながら、私はテーブルについた。
今日は、魔界のパン…えっと、麦麩、って言ったっけ…それとサラダに、燻した何かのお肉…ハムじゃないみたいだけど…なんだろう?わからないや。
そんなことを思いながらサキュバスさんが用意してくれていたバスケットの中からナイフとフォークを取り出していると、
ガタリ、とお姉さんが椅子を引いて立ち上がった。
「んー、うまかった」
お姉さんはそんなことを言って大きく伸びをする。
それから、私のところにつかつかと歩いてくると、いつもみたいに私の頭をクシャクシャっと撫でる。
「一緒に食べたかったんだけど、悪い。今日は南の人間軍の駐屯地に行かなきゃいけないんだ」
「あ、えと…ううん、大丈夫だけど…」
私が言葉に困っていたら、お姉さんは曖昧に笑って
「また夕方には戻る」
と言い、私から手を離し、私に背を向けて部屋から出て行った。
パッと話した感じでは、いつものお姉さんと何も変わらない。
優しくって、柔らかな感じだったけど、私は気がついていた。
お姉さんは、私の頭を撫でる前に、いつもはしていない剣を握るときに使う革手袋をつけていた。それに、どことなく私を遠ざけるような感じもした。
あんな夢を見たからって、私はお姉さんが怖いだなんて思わない。血だらけのお姉さんを見たからって、お姉さんが怖い人になってしまっただなんて思わない。お姉さんもきっとそれは分かってくれていると思う。
でも、それなのにお姉さんがあんななのはどうしてだろう…?
昨日と同じように、ギュッと胸が締め付けられる。
「あの手が、血で汚れていることを自覚されてしまわれたのでしょう」
不意にサキュバスさんがそう言った。
それは、昨日の話のこと?
「人間を斬ったから…?」
私が聞くとサキュバスさんはクッとうつむき加減で言った。
「いいえ…おそらく昨日の出来事はきっかけに過ぎません…魔王様、いえ、かつての“勇者”は、昨日手に掛けた人間の数以上の魔族を殺して来たのです。そのことに気がつかれてしまわれて…苦しんで居られるのだと思います」
そっか…
お姉さんは勇者として、戦争で人間の軍を率いて数々の戦場で戦ってきたんだ。
勇者の力を見た私には分かる。
あの力があれば、並みの兵隊なんて相手にもならない。それがたとえ魔族だったとしても、きっとおんなじだ。
お姉さんは、今は守らなきゃいけないって思っているものを、これまで自分の手でさんざんに傷つけて来たんだ。
「人間様」
サキュバスさんが私を呼んだ。
「私は…とんでもない従者なのかもしれません」
「えっ…?」
「私は、魔王様が苦しんでいることに胸を痛めている反面、どこか嬉しいのです」
サキュバスさんは、笑みとも、泣き顔とも取れそうな不思議な表情で私を見た。
「私は魔王様の苦しみが、魔王様が真に私たち魔族のことを守らねばならないと感じていてくださっている証拠だと、そう思えるのです」
お姉さんの苦しみが、証拠?…そうか。
お姉さんは、昨日人間を手にかけてしまって、気がついたんだ。
自分は人間も守りたいって思ってる。
同時に、魔族も守らなきゃって思ってる。
最初は、自分と同じだった人間を斬ってしまった罪悪感があったのかもしれない。でも、それならこれまで斬った魔族たちも同じだったんだ、ってことに気がついてしまったんだ。
だからきっとお姉さんは、戦争のときのことにまで罪悪感を感じるようになって、苦しんでいるに違いない。
サキュバスさんが嬉しい、って思う部分があるっていうのは、つまり、お姉さんが戦争のときのことに罪を感じてしまう程に、本当に心から魔族も助けたいって思っているからなんだ。
それはきっと、サキュバスさんにとっては嬉しいことだろう。
でも、お姉さんが苦しんでいる姿を見るのはサキュバスさんも辛いんだ。
そんな二つの気持ちが心の中にあるときって、誰かに話したくなるのは、なんとなく分かる。
「そんなことないです。私も、お姉さんがサキュバスさんやトロールさんに、妖精さんたちを大事にして欲しいって思いますし…大事なのは、お姉さんの苦しいのをどうにかして私たちが和らげてあげることなんじゃないかって、そう思います」
私がそう言うと、サキュバスさんの顔がみるみるうちに安心したような笑顔に変わった。
それに私もホッとしていると、サキュバスさんがクスっと笑い声をあげて言った。
「魔王様が仰っていた、人間様たちが答えをくれたというのは真実でしたのですね。人間様。あなた様はとても聡明で、お優しく、不思議な魅力のある方ですね」
急にそんなことを言われたものだから、私はなんだか恥ずかしくなって思わずうつむいてしまった。
でも、そんなことはともかく…お姉さんが苦しんでいるんだ。
私とサキュバスさんが明るくしてあげて、すこしでもお姉さんがホッと出来るようにしてあげないといけない。それに、昨日の夜にサキュバスさんとした話。
私たちは、お姉さんのそばにいる者として考えてあげないといけないんだ。
人間と魔族が仲良くなる方法とか、お姉さんが苦しくなくなる方法を…
「サキュバスさん、食事が終わったら、また一緒に外に行きましょう。畑をしながら一緒に考えなきゃ、お姉さんの助けになれるようなことを」
私は食事もそっちのけでサキュバスさんの目をジッと見てそう言った。
それを聞いたサキュバスさんはなぜだか本当に嬉しそうな表情で、短くてしとやかで、それでいて、なんだか少し子どもみたいに丸い声色で
「はい」
と頷いてくれた。
***
それから私とサキュバスさんは食事の片付けを済ませて、二体のゴーレムを連れてお城を出た。今日は妖精さんも一緒だ。
昨日、区画を区切っておいた畑は、夜の内にゴーレム達が一面に耕してくれていて、すっかり良い状態になっている。
でも、これだけだとまだダメだ。畝を作って、お芋を植える準備をしないとね。
私はその事をサキュバスさんに説明した。
するとサキュバスさんはゴーレム達によくわからない言葉で何かを伝える。それを聞いたゴーレム達はずしずしと畑の中に入って行って、畝を作る作業を開始した。
ゴーレムを動かすのも魔法、なんだよね。私もこんなことが出来たらいいなぁ。
「サキュバスさん、ゴーレムを動かす魔法って難しいんですか?」
私たちは三つ葉の生えた場所に藁を編んで作った敷物をしいてゴーレムの作業を眺めているだけだったので、そんな話をサキュバスさんにしてみる。
「そうですね…物体使役の魔法はかなり複雑な術式が必要です」
やっぱりそうだよね…
「お姉さん達が、寒かったり暑かったりしなくなる魔法が基礎だって言ってたんですけど、それなら私にも出来ますか?」
「どうでしょうね…確かに基本的なところではありますが…少し試してみましょう」
私の言葉にサキュバスさんはそう言うと、昨日と同じように三つ葉を一本プチっと抜き取った。
「これを手にお乗せください」
私は言われるがままに、三つ葉を手のひらに乗せる。
「ではまず…その三つ葉を浮かせるところから始めましょう」
う、う、浮かせる?!そんなことができるものなの!?
私は思わぬことそう驚いてしまう。
「そんなこと、出来るんですか…?」
「防御魔法の基本は、自らの体を自然の力で覆うことにあります。力には大きく分けて光と風と土と水がございますが、暑さ寒さを防ぐには、光の力か風の力が良いと思います」
「私達羽妖精の一族は風と光の魔法が得意なんだよ!」
私とサキュバスさんとの話に、妖精さんがそう言ってパタパタと胸を張っている。
そっか、光の力でオーク達に拐われたときも姿を消したり出来たんだね。
私はそんなことに納得したけど、でも一方でそんな力をどうやって扱うのかなんて想像すら出来ない。
「サキュバスさん、ごめんなさい、どんな風にやれば良いんですか?」
「そうですね…まずは、風の力の練習を致します。風と言うのは空気の流れ。すなわち、風の力とは空気を操る力です」
サキュバスさんはそう言うと、指先で宙にくるっと円を書くようなしぐさを見せた。
すると、私の手のひらの上にあった三つ葉が風を受けたようにくるりと一回転する。
「す、すごい!」
「ふふふ。基礎の基礎ですから、この程度なら感覚さえ掴むことが出来ればきっとすぐに出来るようになると思いますよ」
思わず声をあげてしまった私に、サキュバスさんはそう言って優しく笑ってくれた。
それから私はゴーレム達が畑を作っているのを見ながら、サキュバスさんと妖精さんに魔法の授業をしてもらった。
でも、手のひらの上に置いた三つ葉は一向に動く気配を見せなかった。
私の肩に手を置いて魔力の流れを感じてくれたサキュバスさんによれば、自然の力を操るための魔力はきちんと動いているって話だ。それでも三つ葉が動かないのは、たぶん自然の力をうまくつかめていないせいだろうって、サキュバスさんは私に教えてくれた。
あとはとにかく、コツをつかむまで練習あるのみ、だって。
練習はある程度で切り上げて、そこからはお姉さんについて話した。でも結論だけで言うと、良い方法はこれっぽっちも浮かんでなんて来なかった。
私たちにできることって、なんだろう?
お姉さんの帰ってくる魔王城を守ること、お姉さんが安心できるこの場所を失くさないこと以外にできないような、そんな気がしてしまった。
日が傾いてきたのでゴーレム達の作業を終えさせ、私達は西門の方へと戻る道を歩く。
私達を守るように、ゴーレム達が重そうな体でのしのしと地面を踏みしめていた。
このゴーレム達は、サキュバスさんの魔法なんだよね…あれ、でも昼間言っていた四つのうちの、どの魔法なんだろう?
「あの、サキュバスさん。ゴーレム達は土の魔法で動いてるんですか?」
私の言葉に、サキュバスさんはそう言えば、って顔をした。
「使役魔法は、特別なのですよ…これは、限られた一族にしか使えない…魔界の、謂わば神官のような一族の秘伝なのです」
「神官…?魔界にも神様がいるんですか?」
そう尋ねた私に答えてくれたのは妖精さんだった。
「魔界の神様は、人間の信じている神様とは違うんだよ!魔族にとっての神様って言うのは、自然そのものの事を言うんだ」
「自然、そのもの?」
「はい。自然を守り、命を育み与えてくれるたくさんの神々です。もっとも、信仰の文化だけで、神々が本当に存在していると考えているわけではありませんが」
「命を…」
「そうです。神官達の術は、命を操るものです。もちろん、死した者を生かすことなど出来ません…しかし、仮初めの意思を宿らせることはできます 禁術の類いではありますが…例えばこのゴーレム達のように、死した体を使役することも可能です。そのようなものを呼ぶ言葉が人間界にはありましたね…えぇと、たしか…」
サキュバスさんの言葉に、私はゴクリと喉を鳴らしてしまった。
「そ、その、それって…ゾンビ、ってこと?」
「あぁ、そうそう、その呼び名です。私達にしてみれば、ゴーレムの範疇なのですけどね」
私の背筋に一瞬走った悪寒を知ってか知らずか、サキュバスさんはいつものしとやかな笑顔でそう言い、続ける。
「命の力は扱いが難しいのです…もっとも、回復魔法はその一種ではありますが、これはまた少し別の扱いになりますね。怪我を治したり、昨日お見せした三つ葉を伸ばした魔法は生体の活性力を促すもので、命の力そのものを扱うと言うより、魔力を使って個体に直接働きかけます。そのため、広域に作用させることは難しいのですけどね。使役魔法の場合は、使役対象が損壊すればすぐにとけてしまう上、思い通りに使役するためには一体ずつ、慎重に術式を施さねばなりません。効率や労力を考えると、あまり使いどころがないと言うのが本当のところなのです」
ふ、ふぅん…なんだか途中からよくわからなかったけど…と、とにかく、難しいんだね…。
でも、じゃぁ、それを使えるサキュバスさんは神官の一族ってことなんだよね?
「もしかしてサキュバスさんって、魔界でもけっこう偉い人…だったりするんですか?」
私が聞いたらサキュバスさんは少し可笑しそうに笑って
「そうですね…私個人が偉いかどうかと言う問題を除けば、サキュバス一族は魔界でも古くから続く伝統ある一族ではありますね。サキュバスと言う魔族の事をご存知ですか?」
と私に聞き返してくる。
サキュバスって、夢に出てくる、なんて話は聞いたことあるけど…具体的にどんななのかはよくわからない。私はそう思って首を横に振る。
するとサキュバスさんはまたクスッと笑って言った。
「サキュバス族は人間界では淫魔とも夢魔とも言われ、人の精力を奪うと言われているようですが…あながち間違えではございません。私達は確かに魔力を使って活性力を奪うことも出来ますし、反対に与えることも出来ます。人間界で言われるインキュバスも私達のことです。命の力を扱う一族として、私達には性別などはありません。母なる者として宿すことも父なる者として宿らせることも出来てしまうわけです…人間様にとってだけでなく、魔族にとってもこれは大変奇妙で不気味な事実であることでしょう」
またちょっと難しかったけど…要するに、サキュバス一族って言うのは、男の人でも女の人でもあるってことだよね?
私はサキュバスさんの話を理解してふと、サキュバスさんを見上げていた。
きれいで透けるような白い肌。赤とも茶色とも取れない髪の色。頭に生えているちょこんとした角。絵物語に出てくる「悪魔」っていうもののようなサキュバスさんの出で立ちだけど、私はもうひとつ、別のことを考えていた。
「悪魔」と「天使」は、大昔は同じ存在だった、って話のことだ。確か、天使にも男と女がないんだって聞いたことがある。
もしかしたら、天使っていうのは最初の勇者様が大陸を二つに分けたときに、人間界にいたサキュバスさん達の一族のことだったんじゃないかな?
もしそうだったとしたら、おかしな話だよね。山のこっち側にいたから聖なる天使で、山の向こう側にいるから悪魔だの、淫魔だのって呼ばれちゃうなんて。そもそもは同じだったかも知れないのに…
そんなことを考えていたら、サキュバスさんが不思議そうな表情で私の顔を覗き込んで来た。
「あ、い、いえ…なんでもないです!」
私が慌ててそう返すと、サキュバスさんは首をかしげて、でも笑ってくれた。
魔王城に戻った私たちは、花壇に埋めたトロールさんの石の様子を見た。サキュバスさんの話だと、あと一晩もすればいいんじゃないかってことだ。
それを聞いた私は、やっぱり心からホッと安心するような心持ちになった。
それから私は妖精さんとサキュバスさんと一緒に台所に行って、夕食の準備を始めた。
そろそろお姉さんが戻ってくるはずだし…正直、不安だった。
また血だらけで帰ってきたらどうしよう、って思いが頭から離れなかった。
鳥肉と野菜を煮込んだスープと魔王城の庭になっていた真っ赤で赤い果物を切り終える。この果物、人間界では見たことがない。
サキュバスさんはリンゴって呼んでた。少しだけかじってみたら、人間界で言うところのアップルの実と同じ感じだ。
でも魔王城のこのリンゴはアップルよりも一回り以上大きくて、きれいな赤の実。人間界のアップルは大人の拳より小さいくらいで、緑と赤の中間の色をしてた。
あとは魔界のパン、麦麩が焼け上がるのを待つだけ。
私は香ばしい匂いを嗅ぎながら、胸の中の不安を一生懸命ごまかそうとしていると、突然バタン、と音がした。
見ると、台所のドアを開けたお姉さんが立っていた。
「魔王様!おかえりです!」
お帰りなさいませ、魔王様」
「お姉さん!」
妖精さんとサキュバスさんの挨拶の返事を待たないで私はそう叫んで弾かれたみたいに駆け出してお姉さんに飛びついた。
「おっと!あはは、ただいま。良い匂いだな!あたし、腹減っちゃったよ!」
お姉さんは私を抱き留めながら、そんなことを言って笑ってる。
その顔を覗き込んでみると、お姉さんは穏やかな笑顔を浮かべていた。
良かった…今日は、ひどいことにはならなかったんだね…よかった、お姉さん…
そんな私の気持ちを感じてくれたのかどうか、お姉さんは私を見つめ返してきて、ゴシゴシと頭を撫でまわしてくれる。
革の手袋はつけたまま、だったけど。
「もう食べれそうかな?」
「うん、パンが焼きあがれば」
「そっか、なら、あたしは着替えを済ませてくるよ。食堂に運ぶ準備しておいて」
「分かった!」
私はとにかく元気にそう返事をしてお姉さんの腕から飛び降りた。
「では、人間様、お願いいたします。私は魔王様の御召し替えに着いて参ります」
「えぇ?着替えくらい一人で出来るって!子どもじゃないんだぞ!」
「そう仰らないでくださいませ。主の遣えるのが従者たる者の役目にございます。ささ、行きましょう」
「あぁ、もう!わかったって!」
サキュバスさん連れられて、お姉さんが台所を出て行った。その後姿を見送ってから私の肩に、妖精さんが降りてくる。
「さ!準備しよう準備!」
妖精さんの明るくて、うれしそうな声が聞こえてくる。お姉さんが元気に帰ってきてくれて、私と同じように妖精さんもうれしかったんだなってそう感じて
私もなんだかますますうれしくなった。
「うん!お姉さんにいっぱい食べてもらわないと!」
私は妖精さんにそう返事をした。
***
夕食を取りながら、私たちはお姉さんから今日の話を聞いた。
お姉さんは、南の城砦都市に向かった。
そこでは、昨日の北の城砦都市での出来事が既に伝わっていて、厳重な警戒態勢に入っていたらしい。
そのため、お姉さんは今日は一日情報収集にあたっていて、南の城砦都市の司令官と会うことができなかったようだった。
私はそれを聞いて、ホッと胸をなでおろした。
うまくいかなかったとはいえ、またお姉さんが傷つくようなことがなくて良かった。
ただ、だからといってお姉さんのやらなければいけないことが変わるわけでもない。お姉さんは明日も南の城砦都市へ行って、撤退の勧告をするつもりでいる。
それを止めることはできない。魔界にいる人間の軍隊が、魔族たちの生活を苦しめているのは本当だろう。それを黙って見ていることなんて、お姉さんにできるはずがない。
お姉さんは…約束をしたから…
夕食を終えて、私はサキュバスさんに言われて早めにお風呂に入った。
私が上がる頃にお姉さんが代わりに入ってきて、すこし残念だったけど、お姉さんは私に
「今日は一緒に寝ような」
って言ってくれた。
一緒に寝てくれるってことも嬉しかったけど、そう言えるお姉さんが、昨日のことを乗り越えようって思っているんだ、っていうのがわかったことが嬉しかった。
寝室に戻って、寝る前の身支度を整えていると、コンコン、とドアをノックする音が聞こえて、サキュバスさんが部屋に入ってきた。
「あ、サキュバスさん」
「人間様、今少し、お時間をいただいてよろしいでしょうか?」
サキュバスさんは、たおやかに私なんかに向かって一礼をしてそんなことを聞いてくる。
「え、あっ…い、いいですけど…どうしたんですか?」
戸惑う私に、サキュバスさんはニコっと微笑んで言った。
「魔王様のことで、ご相談が」
「お姉さんのこと?」
「はい…できたら、明日の出立前に、魔王様にお願いしていただきたい次第がございます」
サキュバスさんは、私の目の前まで歩み寄ってきてそう話を始める。
「お姉さんに、お願い、ですか?どんなことを?」
私が聞くと、サキュバスさんは相変わらずの優しい笑顔で言った。
「一緒に、南の城砦都市へ連れて行って欲しい、と」
「わ、私が一緒に、ですか!?」
「はい」
「私も一緒に行くよ!」
急にそんな声が聞こえて、どこからか妖精さんが姿を現した。
「ど、どういうことですか?」
ワケがわからずそう聞いたら、サキュバスさんは、少しだけ表情を険しくした。
「魔王様は、明日、ことがうまく運ばねば、強硬手段に踏み切るおそれがあります…それは、魔王様の御身をさらに追い詰めるようなことになると思えてならないのです」
「強硬手段?」
「はい…御召替えの最中に仰っておられました。魔族を数え切れないほど殺して来た自分が、今更人間を斬ることをためらうのもおかしな話だな、と」
それを聞いて、私はお風呂場で聞いたお姉さんの言葉を思い出した。
今日は一緒に寝てくれるって、お姉さんはそう言った。
私はお姉さんが昨日のことを乗り越えようとしているんだな、なんて思ったけど…もしかしたら、違うのかもしれない。
お姉さんは、何かを諦めようとしているんじゃないのかな…?
人間であることを諦めようとしてるの…?それとも、命を救うことを諦めるの?違う、違う気がする…でも、サキュバスさんの話を聞いてしまったら、
さっきお風呂場で言われた言葉は、乗り越えようだなんて前向きな言葉じゃなくって、まるでヤケになっている言葉に思えてしまう。
ううん、実際に、そうなのかもしれない。
「魔王様の魔族へのお気遣いは大変嬉しく思います…ですが、力を振りかざせば先代様の二の舞となりましょう。
そうでなくても…昨日のようなことを魔王様が繰り返せば…魔王様ご自身が、何か大切なものを失われてしまいそうで…」
サキュバスさんはそこまで言うとうつむいた。
サキュバスさんも、私と同じことを感じているんだってことが伝わってきた。
お姉さんは、魔族のことを考えて、魔族を助けるために、何か自分の大事な物を諦めようとしているんだ…そんなのは…違うんじゃないかな…
たとえ世界が平和になっても、お姉さんが笑顔になれないのなら…私は、そんな平和を望みたくなんてない。
でも、でも…
「で、でも、私が一緒に行っても、足でまといにしかなりませんよ…!?一緒に行くなら、サキュバスさんの方が…!」
私はこれまでのことを思い出してそう言っていた。
トロールさんは私を守るために大怪我をして石になってしまった。
オークに捕らわれて騎士長さんは身を挺して私を守ろうとしてくれたし、助けに来てくれたお姉さんに迷惑をかけてしまったし
私は、自分の力で戦うことも逃げることもできない…
「いいえ、私はこの城を守る必要がございますし、魔族の私がお供したとしても問題がこじれるばかりかと思います。それに、人間様に魔王様を手助けしていただこうと考えているわけでもありません。ですが、魔王様は人間様とご一緒なら、無茶なことをされないと私は信じています」
サキュバスさんは、私の目をジッと見て言った。
「あなた様は、魔王様の大切な道しるべ…。魔王様はあなた様と共にあれば、大切なものをなくさずに済むと、そう信じています」
お姉さんの、大切なもの…
私と一緒にいれば失くさない、大切なもの…?
私はふと、それが何か、と思考を巡らせていた。
でも、その答えが見つかるよりも先に、サキュバスさんが私に聞いてきた。
「いかがでしょう…?私の代わりに、魔王様と共に向かってはいただけませんか?」
「人間ちゃん、大丈夫!私も一緒に行って、人間ちゃんを守るからね!もしものときは姿を消せる魔法で隠れればいいし、私が一緒に行けば、サキュバス様と交信して助けに来てもらえるから!」
サキュバスさんの言葉に、妖精さんがそう言って続ける。
お姉さんの大切なもの、ってなんだろう、まだわからないけど…でも、私が着いていくことでそれを守れるのなら、私はお姉さんと一緒に行く。
だってそれは、いつもお姉さんに守られてばかりの私が、やっとお姉さんのためにしてあげられる小さな“何か”かもしれないんだ。
私は、サキュバスさんの目を見つめ返して頷いた。とたんに、サキュバスさんが顔をほころばせて、しとやかにお辞儀をする。
「ありがとうございます。どうか、魔王様をよろしくお願いしますね」
***
草の生えていない土道の両側に、木で作られた質素な家々が並んでいる。道を行き交う魔族の姿はまばらで、みんな急ぎ足。
まるで何かに怯えているような、そんな感じがする。城塞都市、って話だったけど、とてもそんなに栄えているようには見えない。
確かに、この村とも町とも言えない集落の真ん中には石造りの大きな建物があって、お城と言えなくもないけれど、人間界にある城塞都市は、街そのものが大きな石壁に囲まれているお城や砦と街が一体になったような作りになっていたはずだ。
「陰気なところだろう?」
お姉さんが私の顔色をうかがうようにして言ってくる。
私は、魔界の悪口を言っちゃいけないような気がして、じゃぁ、なんて答えよう、と口をつぐんでしまった。
それを見たお姉さんは苦笑いを浮かべて
「でも、これでも多少はマシなんだ。一昨日妖精ちゃんが念波網を使って魔界全土に魔王復活の知らせてくれてる。人間の支配から脱する希望がない訳じゃないって、それくらいには思ってくれているはずだ」
「…だけど、それにしてもみんな元気ないです」
お姉さんの言葉に、妖精さんが暗い顔をしてそう言う。
私も妖精さんと同じことを思った。
希望があるかもしれないって思ってはいるのかもしれないけど、そう簡単に今の暮らしが変わるはずもないって感じてしまっているようにも見える。
それを想像すると、なんだか胸がクッと詰まるような思いがした。
朝食のあと、私はサキュバスさんとの約束通り、ここ、魔王城から南にある城塞都市に転移魔法で飛ぼうとしていたお姉さんに旅の準備を万端に整えてしがみつき、連れて行ってとお願いした。
もちろん、お姉さんはいい顔をしなかった。でも、それでも私はお姉さんが心配だから着いて行くって言い張った。
サキュバスさんはもちろん一緒にお姉さんを説得してくれたし、妖精さんも何かあったらすぐにあの消える魔法で私と一緒に姿を消して隠れられる、ってお姉さんに言ってくれた。
お姉さんがいれば、たとえ千人の兵隊さんを相手にしたって私を必ず守ってくれるって信じてるけど、でもまぁ、それでも私の心配をしてくれちゃうのが、お姉さんって人なんだ。
結局お姉さんは私達三人の説得に折れてくれて、こうして一緒に転移魔法でここにやって来た。お姉さんは私に
「あたしの言うことは絶対に守れよ、いいな」
って何度も念を押してきた。私はそれには素直に頷いた。
その通りにしておかないと、お姉さんを心配させちゃうし、何より今回はとびきり危険だから、ね。
危険…私はその言葉が頭をよぎって、なんとなくフードを深くかぶり直した。
お姉さんはあの悪魔の姿に変身していて、私は今は妖精さんの光の幻術魔法で頭に獣人族のように猫のような三角の耳がついている風に見えている。
でも、それ以外は人間の姿のままだし、光の幻術魔法を見破れるような人に出くわしたら、たちまちバレてしまうかも知れないからね。とにかく、気を付けておくに越したことはないんだ。
「お姉さん、どうやって砦に入るつもりなの?」
私は今日の作戦をお姉さんに聞いてみる。
するとお姉さんは首を傾げて少し考えるような仕草を見せてから言った。
「今考えてるのは、二つ。一つは砦の衛門を守ってる兵士をぶっ飛ばして乗り込む方法。もう一つは、妖精ちゃんの光魔法であたしたちの姿を消してもらって忍び込む方法…」
兵士さんを倒す…って、殺しちゃうんだとは思わないけど…でも、警戒してるって言ってたし、たくさんいたりしたら、さすがにバレたり騒ぎになったりするかもしれない…それなら、妖精さんの魔法で…
そう思って、私は妖精さんを見やる。すると妖精さんは、なんだかちょっと困ったような顔をした。
「難しいか?」
「頑張れば出来ないこともないと思うです…でも、あの魔法は光を魔力で曲げる魔法なので、けっこう疲れるですよ。人間ちゃんと私だけなら長持ちしますけど、魔王様は体が大きいのでその分魔力がたくさん必要で、もしかしたら、途中で力を使い切っちゃうかも知れないです」
確かにあの魔法、とっておきって妖精さん言ってたもんね。きっとあの三つ葉をくるっと回すのなんかよりももっと難しい魔法なんだろう。
それを聞いたお姉さんは、腕組みをしてうーん、と唸った。
「門を潜り抜けて、どこかに隠れるまでは姿を消しておきたいよな…でも、長持ちしないんだったらそれもあんまり確実じゃない、か…逃げ場のない砦の中なんかで囲まれたら、斬り拓くしか方法がなくなっちゃうもんな。それだと、司令官に話が出来なくなっちゃう。出来るなら、司令官の目の前にパッと現れるようなことが出来たら理想なんだけど…」
確かに難しいね…妖精さんを疲れさせちゃったらもしものときに姿を消せなくて困っちゃうだろうし…何かいい方法がないかな…
「魔王様、また私があれを描くのはダメですか?」
そんなとき、不意に妖精さんが言った。それを聞いたお姉さんの表情が、ハッとしてみるみる明るくなる。
「あぁ、なるほど、そうか!それがいい!あそこ、あのバルコニーのところに派手な旗が翻ってるだろ?あそこが司令官の部屋だ。あのバルコニーに描いてくれればひとっとびだ!」
描く…あ、そうか!転移魔法用の魔方陣だ!
「術式は覚えてるか?」
「大丈夫です、私覚えるの得意です!」
「よし…じゃぁ、バルコニーがよく見える位置まで行こう!」
「はい!」
お姉さんと妖精さんの話し合いはまとまったようだ。
私達はそのまま、バルコニーを真上に見上げられる場所を探して寂れた家々たちの間を歩く。
そう言えば、転移魔法っていうのもサキュバスさんが言っていた土とか光とかとは種類が違うような気がする。
使うためには魔方陣が必要だし、4つの種類のどれにも当てはまらない。
「ねぇ、お姉さん。転移魔法っていうのは、どういう魔方なの?光とか風とかとは違うよね?」
私はふと気になったそんな疑問をお姉さんにぶつけてみる。
するとお姉さんはあー、なんて声をあげながら
「光とか風とかは、魔族式の魔法のことなんだよ。前にも言ったけど、人間は自然の力をうまく扱えるわけじゃない。魔方陣を使うか呪印を使って自分の力を増幅させるのが一般的なんだ。転移魔法ってのはその中でも一番複雑で強力な部類で、あたしも難しいことはわからないけど教えられたときの話じゃ、空間を繋げる魔法、ってことらしい」
と説明してくれる。
クウカン、っていうのが良く分からないけど…とにかく難しい魔法だっていうのはなんとなく分かった。
私が変な顔でもしていたのか、お姉さんはそんな私を見て苦笑いを浮かべていた。
やがて私達はバルコニーを真上に見上げる集落の一角にたどり着いた。真っ赤な下地に、金色のビラビラと派手な模様の刺繍がされた旗が風に揺られている。
「じゃぁ、妖精ちゃん、頼む」
「はいです!」
お姉さんの言葉に、妖精さんは言うが早いかパッと姿を消した。
見えないけど、あのバルコニーまで一気に飛んで行ったんだろう。
私は見えないって分かりながらも妖精さんの姿を探すように、バルコニーを見上げる。そんなとき、ポンっと頭の上にお姉さんの手が乗った。
「お姉さん?」
「ありがとな、着いてきてくれて」
思わず見上げたお姉さんは、少しだけなんだか嬉しそうな顔をして私を見ていた。
「うん、当然!私だってお姉さんを守ってあげたいし、それに私もサキュバスさんと約束したからね!」
「はは、そんなことだろうとは思ったよ」
お姉さんはそんな風に笑いながら私の頭をごしごし撫でた。するとお姉さんが撫でた辺りから、何か暖かいものが肌に触れて広がっていく感じがする。
これ…何かの魔法?
「お、お姉さん…これ、魔法?」
「あぁ、うん。サキュバスに教えてもらった風の結界魔法。物理干渉力が大きくて、人間相手にするならこいつが一番らしい」
「ブツリカンショウ…リョク?」
「あ、んー、と、剣とか弓とかを防げる、ってことだ」
なるほど、さすがお姉さん。
私に危険が少なくなるようにしてくれたってことだよね。それにサキュバスさんに聞いただけで魔族の魔法を使えちゃうなんてすごい。
私が感心していたら、パッと目の前に妖精さんが姿を現した。
「魔王様、済みましたですよ!部屋に人はいなかったです!」
妖精さんがパタパタ羽を羽ばたかせながらそう胸を張って言った。
「よし…!じゃぁ、行くぞ。つかまれ」
お姉さんはそう言って私に手を伸ばしてくれる。私はその手をギュッと握った。妖精さんもお姉さんの肩にへばりつく。
ふと、私はお姉さんの手袋をしていない手が、微かに濡れていることに気がついた。
手に、汗をかいているみたい…手に汗を書くのは緊張しているときや驚いたときだ。
…お姉さん、緊張しているんだね…大丈夫だよ、お姉さん。私が着いてるし、もしものときは、私が許してあげるから兵隊さんが死なない程度にドッカーンってやっちゃって良いからね。だから安心して、ね。
私は伝わるわけはないのに、そう思いながらお姉さんの手を力を込めて握り直した。
「ありがと」
不意にそう言う声が聞こえて見上げたら、お姉さんが嬉しそうに笑っていた。
次の瞬間、目の前がパッと明るくなって、急に強めの風が吹いて来た。私達はバルコニーの上にいた。
目の前には大きな吐き出し窓があって、中には立派なじゅうたんに大きな木の机が置いてある。人の姿はない。
お姉さんは妖精さんがバルコニーに描いた魔方陣に小さく手を振る。魔方陣がぼんやり光って、霧のように空中に消えた。
「さて…行くぞ」
お姉さんは一度だけ小さく深呼吸をして言った。
私も急に胸が詰まるように感じて大きく息を吸い込み吐き出す。
それを待ってくれたお姉さんが窓に手をかけた。ギシっと音がして、吐き出し窓が手前開かれる。
お姉さんが先頭になって、私達は司令官の部屋へと足を踏み入れた。いつの間にか私の肩にしがみついていた妖精さんが、私のマントをギュッと握っている。
部屋の中は思っていたよりも質素だった。窓から見えたじゅうたんと机以外には、なんの調度品も置かれていない。
壁にかかっている額に、たぶん、魔界のものだと思う地図が入っているだけ。
立派な刀剣が飾ってあったりとか、そういう感じだと思っていたけれどどうもそうではなかったみたいだ。
「誰もいない、か。妖精ちゃんの話の通りだな」
お姉さんが私を、じゃなくって、私の肩の妖精さんを振り替えってそう言う。
妖精さんは緊張した様子で、黙ったコクっと頷くだけだった。
「昨日調べた感じだと、もうじき軍義を終えてここに戻って来るはずだ…」
お姉さんはそう言いながら、腰のベルトに通していた革の手袋をはめた。同時に、お姉さんの体からあの霧のようなものが立ち上って、背中に生えていた羽が消え、半分だけ黒かった皮膚が元の色へと戻っていく。
「お姉さん、その姿のまま司令官と話すの?」
私は、少し驚いてそう聞いた。
だって、その勇者の姿で人間と話して撤退の説得をするとなれば裏切り者だって当然思われる。それは、お姉さんにとっては辛いことのはずなのに…
私のそんな心配をよそに、お姉さんは言った。
「魔族の姿で話せば、いたずらに魔族への敵愾心を煽っちゃうからな…それは、望むところじゃない。気は進まないけど…敵意は、あたし個人に向けてくれた方が都合が良いんだ…」
お姉さんはそれからチラッと私を見て、微かに笑った。それはあの、悲しい笑顔なんかじゃなかった。
「一緒に居てくれるんだろ?」
「…う、うん!何があっても、私はお姉さんの味方だよ!」
私はお姉さんにちゃんと伝わるように、って、お姉さんの目をまっすぐに見つめて言った。
「あたしが何人、人を斬っても、人間の敵になったとしても?」
お姉さんはまるで何かを確かめるようにさらにそう聞いてくる。私は頷いて答えた。
「うん…たとえ人間が…ううん、魔族も。世界中の人達がお姉さんの敵になったとしても、私達はお姉さんを一人になんてしないよ。絶対に」
私の言葉を聞いたお姉さんは、なんだかハッとしたような顔をして私を見つめた。
あ、あれ、私、何か変なこと言ったかな?本当にそう思っているから言ったまでだけど…なにか間違えた…?
「ま、魔王様!私も人間ちゃんと同じに思っているですよ!」
妖精さんも小さな体でそう声をあげる。
それを聞いたお姉さんは、急に表情を緩めて私をギュッと抱き締めて来た。
「本当に…ありがとうな。あたし、あんた達が大好きだよ…」
震える声で、お姉さんは言った。
ぎゅうぎゅうに抱き締められて顔は見えないしちょっと苦しかったけど、でも、なんだか安心した気持ちが沸き上がってきた。お姉さんには、ちゃんと伝わったなって、そう感じられたからかな?
そんなとき、どこからかカツカツという音が聞こえ始めた。
これ…足音…?だ、誰か、来る!
「お姉さん!」
私は小声でお姉さんによびかけた。
お姉さんもすぐに足音に気づいたみたいで、私を放してドアの方に目を向けた。
「妖精ちゃん。一瞬だけ、姿を消せるか?」
「少しの間だけなら、たぶん平気です!」
「よし、やってくれ」
「はい!」
お姉さんの合図に妖精さんが返事をした次の瞬間、目の前がチラチラっとするような感じがしてすぐそばで私の肩に手を置いていたお姉さんの姿が消えた。
肩に手が置いてある感覚はあるから同じ体制ですぐそこにいるんだろうけど…まるで一人になってしまったみたいで急に少し不安になる。
肩の妖精さんも見えないんだよね…
ふとそう思って妖精さんの方を見たら、妖精さんだけではなく私の肩すら見えなかった。それに気がついて私は自分の全身に目を落とす。腕も体もそこにはない。まるで目玉だけが宙に浮いているような、そんな変な感じだ。
「魔王様、人間ちゃんから手を放すと術が解けちゃうので気を付けて!」
「あぁ、分かった。あたしが言うまで頑張ってくれ」
何もないところから声も聞こえる。
本当に変な感じ…不思議…
コツコツと言う足音は次第に近付いて来て、やがて部屋のドアのすぐ前まで来て止まった。ガチャリと音がしてノブが動き、ギィッとドアが開く。
姿を現したのは、貴族様みたいな軍服に身を包んだ怖い顔をしたおじさんとおじさんよりも少し若い男の人。
おじさんの方は胸にたくさんの勲章のようなものをつけている。
あの人が、司令官…?
おじさんは後ろ手にバタンとドアを閉めて、そのままコツコツと部屋の中を横断すると大きな机に備え付けてあったふかふかそうなイスにドカッと腰をおろして大きくため息をつく。
若い男の人は手に持っていた紙の束をおじさんの座った机の上に置く。間違いない、あのおじさんの方の人が司令官だ…。
そう思ったとき、お姉さんが体を動かす気配がした。
すると突然、おじさん達が入って来たドアがピシピシっと音を立てて氷に覆われた。
「な、なんだ!?」
「…!敵襲…!?」
二人は私以上に驚いて辺りを見回している。そんな中、お姉さんの声が聞こえた。
「妖精ちゃん、ありがとう。もういいよ」
「はいです」
妖精さんの声とともに、また目の前がチラチラっとして、お姉さんがパッと姿を現した。
肩には妖精さんもいるし、私の体もちゃんと見える。
この魔法、やっぱりすごいな…
そんなことに感心していたら、私の背中を貫くような怒鳴り声が部屋に響いた。
「き、貴様、何者か?!どこからか現れた?!」
ビクッと体が震えて、私が声の方を見ると、若い方の人が私達を怖い顔で睨み付け、腰に差してある剣に手をかけて半身に構えている。
まるで、全身を何か大きな板きれでバシンと叩かれたみたいに感じるほどの気迫に、私は思わずお姉さんの服の裾をギュッと握っていた。
「厳重警戒で入れてもらえなかったんで、忍び込ませてもらった。司令官殿、まずは非礼を詫びよう」
お姉さんは服を握った私の手をさらにギュッと握ってくれながら、落ち着いた様子でそう言った。
それを聞いた司令官さんがギシっと音を立ててイスから立ち上がり、しげしげと私達を見つめる。私達を観察した司令官さんは重々しく口を開いた。
「…君は、どこかで見た顔だな」
「おそらく、第一次魔族侵攻に係る王都西部要塞都市の防衛作戦で」
司令官さんの言葉に、お姉さんがそう言う。すると司令官さんが少し驚いたような表情を見せた。
「…救世の、勇者…」
「ゆ、勇者様…!?」
若い男の人も驚いたような声をあげて警戒した様子を緩め、剣から手を放した。恐ろしい気迫もすっと消え失せて、迫って来るような圧迫感から解き放たれた私は思わずため息をついていた。
「今日は、少し相談があってここへ伺った」
お姉さんはそんな二人にさらに落ち着いた様子で語りかける。司令官さんは、また少し黙ってから口を開いた。
「…ふむ、聞こう。少し待ってくれ。今、飲み物でも入れさせる」
その言葉に、お姉さんはコクりと険しい表情で頷いて返した。
***
「で、終戦とともに行方をくらました勇者殿のご用向きは?」
司令官のおじさんはお茶をすすりながらお姉さんにそう聞いた。
私もお姉さんも妖精さんも部屋の隅にあったワゴンの上のポットで若い男の人にお茶を振る舞われたけど、あまり飲む気にはなれなかった。
毒が入ってるだなんて思わない。でも、なんだか気を付けなければいけないような気がして、自然にそうしていた。
妖精さんは人間用の大きなカップで出されちゃったから、飲みたくても飲めない、って感じだ。
「一昨日の、北の城塞都市の件は聞いていますか?」
お姉さんの言葉に、司令官さんはコクっと頷いた。
「人間に姿を変えた強大な力を持つ魔族一匹に、部隊が半壊。撤退を余儀なくされた…と言う話だ。魔族の連中の間には魔王復活の流言が飛び交っているとも聞く。件の被害状況を考えると、たった一人で五千人、一個師団相手に立ち回りを見せられるような存在は、魔王か、勇者殿くらいしかいないだろう」
司令官さんはふうとため息ををつき、お姉さんに聞いた。
「勇者殿は、敵の正体をご存じで?」
司令官さんの言葉に、お姉さんは小さく頷く。
それを見た司令官さんはふと、顎を引いてお姉さんを見据えた。
ビリビリするような圧迫感がする。司令官さんは明らかにお姉さんに対して警戒感を持っているようだった。
「そうか…!勇者様は我らを守るためにここへ…!」
若い男の人が表情を明るくして言ったけど、その言葉はなんだか部屋に場違いに響いて静けさが際立つ。
少ししてお姉さんが単調な声色で言った。
「端的に言う。駐留部隊を撤収させてほしい」
「えっ…」
お姉さんの言葉に、若い男の人が絶句する。
司令官さんは…かえって落ち着いたようで、さっきまでの警戒感を少し緩めたようなそんな感じがした。
「人間に化けた魔族は、黒炭のように黒い肌とコウモリのような翼、牛の角を生やしていると聞いた」
司令官さんはお姉さんに、何かを確かめるようにそう聞く。
私はお姉さんがどう答えるのか、と思って、お姉さんをチラッと見やった。
お姉さんは体からあの霧を立ち上らせていた。みるみる内にお姉さんの左半身が黒く染まり、翼と角が現れる。
「ままままま魔族!」
ガタンっとイスを倒して、若い男の人が立ち上がって剣を引き抜いた。
私は混み上がる恐怖と緊張感に耐えようと、ギュッと拳をにぎりしめる。
だけどそんなとき、司令官さんが乾いた声で言った。
「大尉、剣を納めろ。北部駐留部隊の二の舞をここで演じるつもりか?」
「しっ、しかし、司令!」
「納めろ、と言っている。この者は戦いをしに来たのではない。今日はあくまでも交渉だ。そうでなければ、端からこの城塞もろとも我らは瓦礫と化していただろう」
司令官さんの言葉に、大尉と呼ばれた若い男の人は、戸惑いながら剣を鞘に戻し、イスに腰かけようとしてドタン、と床に転んだ。
どうやら、イスが倒れたことに気がついていなかったらしい。また静かさが引き立って、私の心臓の音が部屋に響いてしまうんじゃないかってそう感じるくらいだった。
「…部下がすまぬな」
司令官さんは、肩をすくめてそう謝る。
お姉さんはまた黙ってコクっと頷いてそれに答えた。
「それで…貴公は何者だ?」
司令官さんは話を元に戻す。
お姉さんは落ち着いた様子で、両腕の袖を捲ってテーブルの上にかざした。
青い勇者の紋章と赤い魔王の紋章が両方の腕に浮き上がる。それを見た司令官さんはさすがに驚いたようで小さくうめき声を上げた。
「あたしは…かつて勇者だった者。でも、魔王が絶命する刹那、あたしに魔王の力を受け渡して、あたしに魔族の安寧を託した。あたしはもう、人間でも魔族でもない。勇者でも魔王でもない」
「…あるいは、世界を統べる王となるか、はたまた神の名でも語るおつもりか?」
お姉さんの言葉に、司令官さんがそう尋ねる。
お姉さんは司令官さんを見据えたまま首を横に振った。
「この力を見せつけようとは思わない。力を支配に使うつもりもない。だけど、あたしは世界を変えたいと思ってる。人間にも魔族にも、平和で穏やかな世界となるように。そのためには、魔族の生活を圧迫するこの駐留部隊は問題だ。だから、撤収を要請する」
司令官さんはそれを聞いてふむ、と唸った。
また、沈黙…司令官さんは口元に手を当て、何かを考えるような仕草を見せてから、ややあって口を開いた。
「…もし、人間と魔族、両者の平和を願っているとして、一つ、納得がいかないことがある。なぜ北部駐留部隊を攻撃した?撤退に応じなかった見せしめのつもりか?」
司令官さんは突き刺さるような視線でお姉さんにそう聞いた。
私はとっさにお姉さんを見やった。だってそれは…お姉さんにとって、辛い出来事なんだ。
出来れば…触れてほしくなんてない。考えてもほしくなんてない。辛いって思いながら思い出して欲しくなんてないんだ。
お姉さんはゴクリと喉を鳴らして、大きく深呼吸をした。ほんの微かに、お姉さんの肩が震えているのが、そばにいた私には分かった。
「北部駐留部隊の司令官は確かに、交渉には応じなかった…。そう簡単に撤退の選択が取りうることはないって、あたしにも分かってた。だから、そこは全然問題はなかったんだ。ゆっくりと時間を掛けて話し合えばいいって、そう思ってた。でも、あの司令官はあんたとは違った。召し使いか、奴隷のようにこきつかっていた魔族の…この子ほどの小さな獣人の男の子の首をあたしの前で刎ねて言った。『魔族を許せるわけがない』、って。正直に言う。あたしはそれで我を忘れた。気が付けば、目の前の血の海に、無数の人間が横たわっていた…」
お姉さんはそこまで話して、ギュッと拳を握った。ワナワナと全身が震え始めている。
私は思わず、お姉さんの腕にすがり付くようにへばりついて、その手をギュッと握ってあげた。お姉さんは私の手を握り返して来る。
「…そうか。ならば、その撤退要請に応じなくとも、貴公は我らに手出しはしないと、そう言うことかな?」
司令官さんは相変わらず、お姉さんの表情を読みながらそう聞く。
司令官さんの言葉に、お姉さんは嫌悪と絶望の入り交じった表情のまま、口元を引き吊らせて言った。
「…そっち次第、だ。あたしの手はもう、血で汚れてる。もう千人をこの場で斬り捨てる覚悟はとうに決めた。穏便にことを進めてくれることを期待する」
ガタン、と音を立てて大尉が立ち上がった。
「裏切り者め…!我らを恫喝するつもりか!勇者は、我らの希望ではなかったのか!?あまつさえ人々の希望を背負い、共に戦い苦しんだ我らに刃を向けるとは!」
大尉がお姉さんを怒鳴り付けた。
お姉さんはカッと目を見開いて大尉を睨み付ける。そして、聞いたこともない大きな声で叫んでいた。
「あんたなんかに何が分かる!一緒に戦った?!希望を背負った?!違う…あたしは、そうするしかなかっただけだ!勇者だと希望を背負わされ、民や兵を守るためなんて理由で前線を飛び回り殺戮を強制された!あんた達は…あたしがそう言う風にしか生きられないのをいいことに、すべてをあたしに押し付けて来ただけじゃないのか!」
「お、お、お姉さん…!」
私は握っていたお姉さんの手を引っ張った。
落ち着いてよお姉さん…!ここで暴れたらまた…また…!
そんなとき、ガタンと音がして司令官さんが立ち上がった。司令官さんはため息を混じりに拳を握ると、素早く振りかぶって大尉の顔をしたたかに殴り付けた。
不意討ちを食らった大尉は床に転げて動かなくなってしまう。
き、気絶しちゃったの…?
「…黙っていろと言うのがわからんか、バカめ」
司令官さんは大尉を殴った拳を解き、フルフルと振りながら
「重ね重ね、部下がすまない。今後はきちんと教育しておくから、今日のところは大目に見ていただきたい」
私もお姉さんも呆気に取られて、二人してコクコクと頷いていた。
司令官さんはガタンとイスに座り直すと、ふう、とため息をついて言った。
「北部駐留部隊の件もある。同じ状況になった以上、被害が出る前に撤退するのが得策だろう。部下を無駄死にさせるわけにもいかないのでな」
「…そ、それじゃぁ!」
司令官さんの言葉に私は思わずそう声をあげてしまっていた。
「撤収準備をさせて二日後にはここを出よう。それでよろしいかな?」
「あ、あぁ、分かった」
お姉さんの返事を聞いた司令官さんは、ふん、と一息鼻から息を吐いてイスに体をもたせかけた。
私も、話がまとまったことに安心して胸を撫で下ろし、お姉さんが落ち着いているのを確認してから肩の妖精さんを見やる。
妖精さんも私を見ていて、目が合ってどちらからともなく笑ってしまった。
「あぁ、勇者殿…そう呼んで構わないか?」
「うん、それでいい…。何か?」
不意に司令官さんが口を開いた。お姉さんは首をかしげて司令官さんにそう聞き返す。すると司令官さんは口元に手を当てて話し始めた。
「王都西部要塞の街のことを覚えているかな?」
「ああ。ひどい状況だった…」
「北部駐留部隊の司令官の男は、あの街の出身でな…。妻と子供が、あの街にいた」
それを聞いたお姉さんは一瞬にして体を固くした。だけど、司令官さんはさらに話を続ける。
「知っての通り、要塞に続く中央通りは魔族軍の攻撃によって壊滅。門前で迎え撃とうとした前衛部隊の落ち度もあるが…とにかく城下は火に包まれ、生存者は要塞に収容された。すべての戸を閉め籠城したが、時すでに遅く包囲されて脱出もままならない包囲戦となった。状況を打開しようとした騎兵部隊が裏口から包囲網の破壊を図るべく出撃したものの、壊滅。魔族の攻撃により要塞も穴だらけで、火の手が上がった。もはや、全滅も時間の問題、そう誰しもが思ったときにまるで風のごとく現れたのが、勇者殿と共の方々と、王下騎士団の面々だった。あなたがたは包囲網を打ち破り、退路を確保してくれた。我々はそれを使って無事に要塞から脱出し、王都へと逃げることができた…。だが、あの男の家族はそもそも、生存者を受け入れた要塞には逃げてくることができなかったんだ。外郭壁が破られ城下に突入してきた魔族軍と街の防衛部隊との戦闘に巻き込まれ、すでに亡くなっていた」
「………」
お姉さんは、いつの間にかうつむいてギュッと手を握り締め、唇を噛み締めていた。
私にも、その意味は分かった。
これは、この話は…きっと、とても辛くて、とても悲しくて、残酷な話なんだ…
「勇者殿よ。俺は軍人だ。命令があれば敵を殺す。戦場に出れば殺されることは覚悟している。それが俺たちに課せられた役割だからだそれ以上でもそれ以下でもない。故に、俺は戦場に私情を持ち込もうとは思わない。だが、あの男のようなやつらはいくらでもいる。魔族達の進行は、俺たち人間に少なからざる損害を与えた。田畑も、街も、人の命も、無数に失われた。魔族にとってもそれが同じであることは理解している。大切に想う者の命を奪われて冷静でいられる者は少ない。勇者殿、獣人の子が首を刎ねられたあなたが激昂し北部駐留部隊を屠ったのと同じように、怒りに満ちた者達がこの世界には大勢いる。世界を変えたいと願うあなたがどんな理想を描いているかはわからないが、必ずあなたはその怒りと向き合わなければならなくなる。その怒りそのものと戦わなければならない日が来る。あなたに、それができるのか?」
想像はしていたけど、それは、あまりにも重い質問だった。
私にそう感じられるくらいだ。お姉さんには、もっともっと重くのしかかっているに違いない。
人間と魔族はこれまでに何度となく戦争をしてきた。
その度にたくさんの人が死んで、きっとたくさんの恨みや憎しみの気持ちが積み重なってきているっていうのは分かる。私だって、それを身近に感じてきた。
絵物語に出てくる魔族の話はたいてい、悪い魔族が人間に悪さをしてそれを勇者様や騎士様がやっつける。夜ふかしをしていると、魔族が拐いに来るぞ、なんて脅かされることもあった。
それだけじゃない。
あの日、私を狙ってやってきた偽の勇者達がトロールさんに浴びせた言葉の数々もそう。砂漠の街に磔にされていた獣人さんに投げつけられた言葉もそう。
あれが、人間と魔族との間にある感情なんだ。
そしてそれはきっと、私たちの生活の中にひっそりと、でも確かに根を下ろしている。“魔族は悪”、“人間の生活を脅かす者”として人々の間に語り継がれている。
大昔からの戦いの記憶や記録じゃなくて、人々の中に、感情として残っているんだ。
それは、とても強力で残酷なもの。
幾多の戦争を起こしたきっかけでもあって、お姉さんが、あの優しいお姉さんが飲み込まれ、我を忘れて目の前の人間を斬り捨ててしまうほどに、だ。
司令官さんは、お姉さんが何をしようとしているかを知っているワケじゃない、ってそう言った。
でも、司令官さんの言葉は、間違っていない。
私たちはきっと、遅かれ早かれ、人間と魔族、どっちの心の中にも存在するその“憎しみ”って感情と戦わなきゃいけなくなる。
私はそこのことに気づかされて言葉を失くしていた。お姉さんを励ますことも、心配することさえ忘れていた。
分からない、分からないけど、それは形のない、得体のしれない不安だった。すぐそこにいるような、ずっと遠くにいるようなそんな感覚のする不安。言葉で言い表すことも、どんなものかって感じることさえできないもの。でも、確かにそこにある。
私はその存在にいつの間にか体を震わせていた。
そう、それと戦う、ってことは、つまり、人間や魔族の生活そのものと戦うってことなんだ。
そんなこと想像もできない。
だって…あまりに身近なことすぎるから。
悪い魔族もいればいい魔族もいる。悪い人間もいればいい人間もいる。
口でいうのは簡単だ。でも、じゃぁ、それを皆に知ってもらって、これまでの戦いの中で積み上げられてきた憎しみを消すことなんてできるんだろうか?
それはきっと、悪者に立ち向かうために人間と魔族が力を合わせる寝物語を作って聴かせるほど簡単なことじゃない。
私達の生活や常識や、そういう生きるために必要な基本的なものを一度全部打ち壊す必要があるんだ。
そんなこと…そんなこと、本当にできるの?
そう考えていたとき、私の手にギュッと外から力がこもった。
ハッとして顔を上げると、大尉さんに罵声を浴びせられて怒りを爆発させそうになっていたお姉さんを止めようと思って握っていた手を、
お姉さんがきつく握り返してくれていた。
「できるかどうかは、分からない。でも、このままじゃいけないと思う。このまま戦いを繰り返せば、いずれどちらかが滅びる。だから、そうじゃない道を探す。何があっても、たとえ、世界中があたしを裏切り者だと断罪し、後ろ指を刺されるようなことになったとしても…」
そう言ったお姉さんの手に、さらに力がギュッとこもった。
そう。そうだ私たちは、それでもやらなきゃいけない。
だって、たとえそれが魔族でも、人間でも、辛いって思っているのを見るのはその人達と同じくらいに辛いから。
苦しいって感じている人たちを放ってなんておけないから…。
私は、お姉さんの手をギュッと握り返す。どうしてか、そうしてみたら、胸の中にふわりと暖かな風が吹くような気がして、むくむくと強い気持ちが蘇って来た。
そうだよ、お姉さん。まだ数は少ないかもしれない。でも、きっと探せば同じように考えてくれる人たちがたくさんいるはずなんだ。
砂漠の街の兵長さんに獣人の黒豹さんもそうだった。この司令官さんだって、魔族の肩を持とうとしてるお姉さんをけっして責めたりなんてしなかった。
それに、誰だって辛いのも悲しいのもできたら避けたいってそう感じるに決まってる。そこだけを考えれば、きっと魔族も人間もない。
仲良くはできなくたって、協力は出来るかもしれない。
そう、そんな世界になったら…お姉さんは、どんな顔をして笑ってくれるんだろう?
私はそんなことを思ってお姉さんの顔を見上げていた。
「なるほど…。道半ば、ということか」
司令官さんはそう言って、またふぅっと息を吐く。
お姉さんは、表情を引き締めたまま、司令官さんに乾いた声で伝えた。
「では、二日後の朝に撤退を見届けに来る。それまで、この城下に手の者を忍ばせる。街の魔族たちに手を出すようなら、すぐにでも討って出るから、そのつもりで」
「任務外の殺生はごめんこうむるが…まぁ、せいぜい部下どもがバカをやらないように引き締めて掛かろう。こいつのようなのもいないとも限らんのでね」
お姉さんの言葉に司令官さんはそう言って、床でノビている大尉を顎でしゃくって言った。
「よろしく頼む。では、今日はこれで」
お姉さんは私にチラっと視線を送りながらそう言って立ち上がった。私も慌ててイスから降りて、お姉さんに着いていく。
「あぁ、そうだ」
テーブルから離れ、バルコニーの方へと歩いていた私たちを司令官さんが呼び止めてきた。
「なにか?」
お姉さんは少し警戒した様子で司令官さんを振り返る。すると司令官さんは、初めて微かな笑みを浮かべて私たちに言った。
「この扉…帰る前に溶かして行ってくれんか。これじゃぁ、撤退準備の指示を出したくても伝令を伝えられん」
そんな司令官さんの言葉を聞いたお姉さんも、安心したのか、あの優しい笑顔でクスっと笑って言った。
「あぁ、すまない。忘れてたよ」
***
「そうでしたか…」
サキュバスさんがお茶の入ったカップをテーブルに置いて、呟くようにそう言い押し黙った。
「まぁでも、南部の連中は撤退してくれるはずだ。あとはあたしら主導して各地の自警団を再建して、同時に魔王軍の再興も呼び掛けよう。平時は畑をやってもらいながら訓練。有事の際には侵略に対抗するためとか、魔界全土の治安維持に当たるようにする」
お姉さんはあっけらかんといった様子で、食後のお茶菓子に、とサキュバスさんが出してくれた果物を頬張っている。
「魔王様、かっこ良かったですよ!」
妖精さんも果物を抱えるようにしてかじりながらそんな事を言っていた。
私たちはあれからすぐに、お姉さんの転移魔法で魔王城に戻って来た。戻ったのはお昼前。
サキュバスさんは私達が早くに戻ったことにすごく驚いていたけど、ことがうまく運んだってお姉さんに説明されるととって嬉しそうにしていた。
それから、お城のソファーの部屋へ向かう途中の廊下で私はこっそりサキュバスさんお礼を言われた。
私はなんだかそれが照れ臭くって、知らず知らずのうちに笑顔で誤魔化してしまったけど。
お昼を食べながら簡単に話し合いの経緯をサキュバスさんに説明して、お昼を終えてからは私がお姉さんにお願いして勇者のお姉さんがあまり顔を知られていない田舎の町まで転移魔法で連れていってもらった。
目的は、畑に植える種芋を手にいれること。やっぱり、森から掘り出したんじゃ、他の魔族の人たちに申し訳ないからね。
種芋をいっぱい仕入れて魔王城に戻って来たのはもう夕方で、サキュバスさんの用意してくれた夕食を食べながら、
午前中の話をさらに詳しく説明したりをして、今、だ。
「それにしても…やはり、難しい問題に立ち向かわなくてはならないのですね」
サキュバスさんが少しくぐもった表情でそう言う。それを聞いたお姉さんも腕組みをしてうなった。
「うん…事は、国としての機能や制度や、そんなことを整備するだけじゃダメそうだ。もっとも、魔界の方はそれをやっておかないとジリ貧だからやるけどさ」
魔族と人間との対立の根深さは、きっと戦争を経験してきたお姉さんやサキュバスさんの方が私なんかよりももっとよく知っているはずだ。
だからこそ、余計に難しい問題だっていうのは身にしみてわかってしまうんだろう。
「魔王様やサキュバス様は戦争を知っているですよね?」
不意に妖精さんが二人にそんなことを聞いた。
「ええ、存じております」
「あたしもまぁ、最前線で戦い続けてたからなぁ」
「じゃぁ、戦争がどうして起こってしまったのかも知ってるですか?」
戦争が、どうして始まったのか…?
そういえば、私、それを知らない。
確か、二年くらい続いた、って話だったと思うけど…始まったのは私が八つの頃で、そもそも住んでいた村は戦争なんかとはほとんど関わりのない王都から離れた小さな村だったし、そりゃぁ、まぁ、兵隊さん達のための食料を徴発されちゃってはいたけど、それがどうして始まってどう終わったのかなんて話は聞いたことがなかった。
それに、もしかしたらそれを知っておくことは…
「お姉さん、サキュバスさん。それ、私も知りたいです。もしかしたら、“憎しみ”が始まった元を知れば、解決する方法が見つかるかもしれませんし」
私がそう言うと、二人は顔を見合わせてから私に視線を戻して、どちらからともなく頷いてくれた。
「ことの発端は、とある一人の女性が魔族に誘拐された、ってこと、かな」
お姉さんが口元に手を当てて、昔のことを思い出すようにポツリポツリと語り始めた。
「あたしの聞いた話だと、人買いに売られたある村の女性が、魔族の手にわたり、魔界で良いようにされていたらしい。その人を助け出すために、王下騎士団の精鋭部隊が魔界に潜入してその女性の居場所を突き止めた。しかし、いざ救い出す、って段になったときにヘマをして魔族側に潜入が露見し、戦闘になった。騎士団の連中は果敢に戦い、魔族の追っ手を振り切るために、街に火を放ったと聞く。でも、それが魔族の連中にとっては戦争行為だったんだろう。結果的に、魔族側が兵を挙げるきっかけになった…あとはもう、知っての通りだよ。魔族は三度、人間界に大規模な軍勢を送り出してきた。
第一次侵攻は砂漠の街の陽動部隊に対応している間に王都西部要塞が陥落したものの、あたしらが出張って撃退。
第二次侵攻はあの砂漠の街が主戦場になったけど、憲兵団の厚い防御と砂漠という気候に耐え切れなかった魔族軍が撤退。
第三次侵攻は、西部要塞が再侵攻を受けて陥落。そこを拠点に、砂漠の街と王都外郭要塞に迫ってきた魔族軍との戦闘が激化。
あたしと仲間で西部要塞を再度奪回して補給路を絶てたことで魔族軍は戦闘の継続が難しくなって引き上げた。
そこからは、人間軍の反攻になった。
一度目の挙兵で転移魔法陣を確保し、二度目の挙兵ではそいつを使って一気に魔王城へと迫って、あたしがここへ来た…」
お姉さんはそれからチラっとサキュバスさんの顔を見やった。
サキュバスさんは、なんだか懐かしい人を見るみたいな表情で、お姉さんを見つめ返し曖昧に笑う。
お姉さんはそんなサキュバスさんに肩をすくめて見せてから私に向き直って
「まあ、大雑把には、こんなところかな」
と首をかしげて言う。それからまたサキュバスさんに視線を向けて
「なにか補足があれば」
とサキュバスさんに話を促した。
すると、サキュバスさんは少しの間、黙ったままうつむいていたけれど、ややあって、何かを決心したような瞳で私とお姉さんを代わる代わる見つめて口を開いた。
「十年ほど前でしたか…現在の北部城塞のある街に、人間族が売られている、と、噂が流れたことがございました。
私はその当時はまだ師匠の元で、魔法と歴史学についてを学んでいたのです。その北部城塞の街で」
え…?そ、それって、つまり…サキュバスさんは、その人間の奴隷がいた街に住んでいた、ってこと?
もしかして、サキュバスさんは人間の軍隊がその奴隷を助けるためにやってきたときの戦闘に巻き込まれたの…?
そんなことが頭をよぎって、突然胸が苦しくなる。
だけどサキュバスさんはそんな私の気持ちを知ってか知らずか話を続ける。
「私の産みの母はサキュバス族の中でも一般的な血筋でしたが、種たる母はいにしえのサキュバス家の末裔と言われ、一族内でも上位の地位を持つ人でした。それゆえ私は、その娘として北部の街に住むとある年老いた鋼竜族の術師の弟子として勉学に励んでおりました」
「ちょ、待って!産みの母ってのは分かるけど、種たる母ってのはなんだ?」
「あぁ、サキュバス族に性別はないのです。皆一様に私のような姿形をし、子を孕むことも、種を与えることも出来る、そう言って種族なのですよ」
「…そ、そうなんだ…驚いたな…」
「お話を続けても?」
「あ、あ、う、うん。ごめん、頼むよ」
お姉さんはサキュバスさんに言われてなんだか慌ててそう返し、サキュバスさんの話を促す。
「えぇと、そうですね。その日も、私は師匠の元で魔法の教練に精を出していました。そんな折、師匠にお使えしていた従者の方が、街で見た“人間族”の話をされました。それを聞いた師匠は、たいそう興味を惹かれたようで、直ぐに私と私と共にを伴ってお屋敷を発たれます。煙るような雨の降る、少し憂鬱な日のことでした…」
サキュバスさんはそう言って、どこか遠くに視線を投げた。
それは、サキュバスさんにとって遠い日の記憶だったのかもしれない。
「サキュバスさん…その頃に、なにかあったんですか?」
私はそんなサキュバスさんの様子が気になって、そう訪ねていた。でもサキュバスさんは曖昧に笑って
「はい…ただ、そのことは今は瑣末なことです…とにかく、私はその先で捕らわれていた人間族を見ました。そして、その奴隷は当時の魔王様に街の守護を任されていた、とある竜族の若者が買い入れたのです。彼にしてみれば、最初は興味本位だったのでございましょう。しかし、それまでの奴隷生活によって傷ついていた人間の女にとって、彼の元での生活は安心できるものであったようです…やがて彼女は、笑顔を取り戻し、彼の側用人として献身的に遣えることになります」
「ま、待ってくれ!その女性は…奴隷として魔界にいたんじゃないのか!?」
サキュバスさんの言葉にお姉さんが声をあげた。
私だって、同じことを思った。さっきのお姉さんの話では、人間軍が、奴隷になっていたその女の人を助けに行った、って…
だから、魔界でひどい目にあってたんだって、そう思っていたのに…
「…はい。最初は、そうであったのでございましょう。ですが、竜族の若者は…彼女をそうは扱いませんでした。明るさを取り戻した彼女は、まるで太陽の様に周囲の魔族たちを照らすようになりました。あれが本当の彼女の姿だったのでしょう。明るく、人懐っこく、聡明で、捌けていて、誰の懐にでも入り込んで笑顔を紡ぎ出すような、そんな方でした。そして、街にたどり着いてから一年もしないうちに、彼女は竜族の彼との子をお産みになりました」
「魔族と、人間との、子…?」
確か、砂漠の街でお姉さんが言ってた。
人間と、魔族の間には子どもを作ることができるんだ、って。
でも、それを聞いた兵長さんは言ってた。
“そんなことが受け入れられる世界ではない”って…
「そ、それから、どうなったんですか!?その女の人は?その二人の子供は!?」
気がつけば私はそんなことを尋ねていた。
サキュバスさんが、コクリと頷いて話を続ける。
「生まれた子が、3歳になる頃でした。代替わりしたばかりの先代魔王様が街へ視察に参られ、その女性と子どもと共に私も魔王様への謁見がかないました。そこで魔王様が仰った言葉を私は今でも思えています。“その子は、平和の象徴となるかもしれない”と」
「平和の象徴…」
「あの男らしい言葉だな、まったく…」
お姉さんは、苦笑いを浮かべてそう言った。でも、その目はどこか嬉しそうにもみえた。
「しかし…魔王様の言葉に反して、二人の存在は平和ではなく、争いを生み出すことになってしまいました。彼女が魔界へ来てから、七年目の年。私は、謁見を機会に魔王様に心酔し、この魔王城へ遣えるようになっておりましたが、そんな魔王城に、北の街に人間軍が潜入し破壊工作を行っている、という報が入りました。魔王様は私とごく僅かな手勢を連れて、すぐに北の街へと向かいました。そこで見たのは、火の手に包まれる街の光景。そして、命尽き果てようとしていた若き竜族の男でした。彼は、その身を以て子を守りましたが…残念なことに、彼女は人間に連れ去られてしまったのです」
サキュバスさんはそう言ってうつむいた。お姉さんは、黙ってそれを聞いている。
「残念なことに…その一件で、彼女が築いた魔族の人間に対する価値観は崩壊しました。中には、彼女が奴隷として連れてこられたということ自体が、人間が魔界へ侵攻する口実を作るための工作だったのでは、などと言う者まで出る始末でした。先代様は、なんとかその流言を止めようとしましたが及ばず、やがて魔界全土に人間との開戦を求める声が高まったのです。古来より我らの中に積み重なってきた“憎しみ”という感情は、いっときの静寂程度で覆せるものではなかった…魔王様の先ほどのお話を聞いて、そう感じます。そして時を同じくして、人間界の王より書簡が届き、彼女の誘拐の件での宣戦がなされたことが、決定打となりました。先代様はそこで、平和な世界を夢見ることではなく、魔族の生存を選ぶより他に選ぶ道を失ってしまわれたのです」
「あの男にとって…それが、どれだけ苦しい決断だったか…」
お姉さんがそう言って唇を噛み締める。
「それからは、魔王様のお話になった通りです…」
ハラリ、とサキュバスさんの目から一筋の涙がこぼれた。
私は、まるで何かに押しつぶされるような感覚に襲われていた。
だって…だって、最初から最後まで、誰も戦争なんて望んでいなかったのに。魔族の人が憎しみを持って人間との戦争を叫んだのだって、好きでそうしたわけじゃない。
自分たちの仲間がひどい目に合わされたから、そんなことになっちゃったんだ。
その女の人を助けに来た人間の兵隊さん達だって、ただただ、捕らわれている彼女を助けたい一心で魔界にやってきたんだと思う。
奴隷なんて人間の世界では認められていないし、憲兵さんや魔導協会の治安班に見つかれば、直ぐに捕まって禁固刑は免れないはず。
もし、誰が悪い、なんて話をしたら、女の人をさらって魔界に連れてきた人たちだけど…でも、女の人はもしかしたら魔界での生活は幸せだったのかもしれないとも思う。
魔族の人達と仲良くして…子どもまで産んで…
子ども…あ、あれ、そ、そういえば…
「ね、ねぇ!サキュバスさん!」
私は、ハッとして大声になってしまいながら、サキュバスさんの方を向いて聞いた。
「その…『平和の象徴』って言われた子は、そのあとどうなったの!?」
そういえば、話が戦争のことに移ってから、その子のことが出てこなかった。
今でもどこかで生きているの?
それとも、戦いに巻き込まれて、もう…?
私の質問に、サキュバスさんは気持ちを整えるように深呼吸をするとコクリと頷いて口を開いた。
「その子は…魔界全土で人間への“憎しみ”が高まるに連れ、先代様の仰った『平和の象徴』としてではなく、『戦争の引き金』として扱われるようになりました。彼女は、北部の街の戦火のあと、街の人々に街を追われ、行く先々で汚れた存在だ、と罵られ、疎まれておりました。そんな彼女が、その後どうなったかは、私は存じ上げません…だた…」
サキュバスさんはふと、私の目をジッと見て、柔らかな笑顔を見せて言った。
「風の噂で、祠守を任とする大地の妖精の一族の若者が彼女を庇い、彼女を連れてどこかに姿を消した、と聞いています」
祠守の、大地の妖精の一族…?
ま、待って…だ、だ、大地の妖精って、その、だから、つまり…
「詳しい話は、ご本人に聞くのが一番かと思うのですが、いかがでしょうか…?」
サキュバスさんは、そう言ってふっと、部屋のドアの方を振り返った。
私もそっちに目をやるとそこには、薄く開けた扉の隙間に見知らぬ魔族が立っていた。
背は、お姉さんと私の中間くらい。
全身に、ゴツゴツとした灰色の皮膚が浮き出ているその姿は、まるで石の鎧を着ているようだ。
でも、私にはそれが誰だか分からないなんてことはなかった。
「…ト、ト、ト…トロールさん!」
私はイスから飛び跳ねるようにして床にころげると、そのままトロールさんの小さくて硬い体にしがみついていた。
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