第4話
「静かにしておいてね、我妻さん」
”彼女”が発した言葉が、佐保の中でもう一度繰り返される。
――シズカニシテオイテネ、ワガツマサン。
現実のものとは思えない言葉の、その冷たい響き。
だが、その言葉を発し、佐保の喉元に出刃包丁を突き付けているのは、自分の担任教師の谷辺千奈津なのだ。
――なぜ、どうして……なぜ、先生が私を……だって、先生はあの時……
佐保が学校内で何者かに襲われるほんの少し前、谷辺は体育館前で宵川斗紀夫の講演会に出席する生徒たちを誘導していた。その後もそのまま講演会に自らも出席したはずであるはずなのに。
――あの時、私を襲ったのは先生ではなく、また別の人物だったということなの?
佐保の足元がガクガクと震え出し、胃液が逆流してきそうになった。その場でぐらついた佐保の腕を谷辺が慌てて掴んだ。
谷辺は佐保を支えるようにして、その場に腰を下ろさせた。直前まで刃物を突き付けていたにもかかわらず、優しさを感じさせる谷辺に佐保はまたしても困惑してしまう。
「あなたには本当に悪いと思ってるわ。でも、私たちにはこうするしかないのよ」
そう言った谷辺は佐保ではなく、どこか遠いところを見ていた。
――「私たち」? やっぱり谷辺先生の共犯がいるんだ。まさか『依頼者』は谷辺先生たちだったの? どうして、そんな……
佐保には谷辺が自分に対してこのようなことをする心当たりなどあるはずもなかった。教師と生徒。それ以上でもそれ以下でもないのだ。
佐保の全身より汗ではない何かが吹き出し、心臓がさらにドッドッと脈打ち始めた。頭の芯もクラクラし、今にも気を失ってしまいそうだった。
だが、佐保はよろけながらも、再び立ち上がった。
そんな佐保に気づいた谷辺は黙ったまま、再び佐保の喉元にズイッと出刃包丁を突き付けた。だが、佐保は目じりに涙をためたまま、まっすぐに谷辺の瞳を見た。
――お願いです。先生、こんなことはやめてください。どんな理由があるのか私には分かりません。でも先生は私だけじゃなく、生徒に向かってそんな刃物を突き付けたりできる人じゃないって、私は先生を信じています。
佐保の心の懇願が谷辺に伝わったかどうかは分からなかった。でも、佐保のその眼差しを受けた谷辺は悲しそうに口元を歪ませた。
その時、沼工場の入り口より話し声が近づいてきた。
そして、2つの人影がそこから現れたのだ。
斗紀夫とともに沼工場に足を踏み入れた貴俊は、自分の目が真実を映しているということをすぐには信じることができなかった。
口をガムテープでふさがれ、おそらく後ろ手に拘束されているであろうクラスメイトの我妻佐保と、その我妻佐保の喉元に出刃包丁を突き付けている担任教師の谷辺千奈津がそこにいた。
――どういうことなんだ! なんで、我妻さんと谷辺先生がここにいるんだ? 谷辺先生がなんで、包丁を我妻さんに突き付けているんだ?!
谷辺の手にある出刃包丁が光を反射したかのように、光を見せた。それは貴俊にとって忌まわしく悲しいあの日の記憶を思い起こさせるものであった。
「佐保ちゃん!」
真っ先に佐保の元に走り出した斗紀夫の声に、我に返った貴俊は彼の後を追った。
「動かないで! そこにいて!」
谷辺が佐保の喉元にある出刃包丁を握りなおし、再び彼女に突き付けた。
「私は本気よ! もう後戻りできないのよ!」
「千奈津さん、しっかりしてくださいよ。 あなた教師じゃないですか! 佐保ちゃんはあなたのクラスの教え子じゃないですか!」
「私はそこから動くなって言ってるのよ! 私は本気よ、この子を刺すわよ? 自分のせいで人が死ぬのは嫌でしょう?」
「……もしかして、千奈津さん、あなた千郷にそそのかされたんじゃ……お金が目的なんでしょう! あなたの借金はあなた自身が作ったものじゃないですか! 佐保ちゃんには何の関係もない……」
「ちょっと! 生徒の前でそんなこと言うのやめてよ!」
谷辺が慌てて、唾を飛ばすかのような勢いで声を荒げ、斗紀夫の言葉を遮った。
――どういうこと? 谷辺先生が借金? それに宵川先生は谷辺先生のことを「千奈津さん」と呼んでいる。やっぱり2人は前から知り合いだったということなの?
斗紀夫が谷辺にキッと刺すような視線を向けたまま言った。
「千奈津さん! あいつは、千郷は一体、今どこにいるんです? 今していることはあなた一人がやっていることでないでしょう?!」
谷辺の唇の端がほんのわずかに上がった。
それは、工場の入り口より、相田千郷が姿を見せたからだった。斗紀夫も貴俊も千郷の気配に気づき、ガバッと振り向いた。
斗紀夫の「千郷、やっぱりお前が……」と怒りを含んだ声を出した。
佐保は姿を見せた女――すなわち相田千郷のフルネームも知らなかったし、顔もはっきりとは覚えてはいなかった。だが、こっちに歩いてくる千郷の頬はこけ、その全身は水気を吸い取られたかのようにゲッソリとやつれていた。なのに彼女のその瞳だけは獲物である佐保を狙う猛禽類のように爛々と輝きを失っていなかった。
千郷はぐるりと首を回すかのような動作をして、斗紀夫を見た。
「ねえ、斗紀夫、なんであんたがここにいるの? もしかして、私がすることを知っていたの? 私のことを分かっていてくれていたの?」
「なっ、何を言ってるんだ、お前は?! これは犯罪じゃないか! 自分たちが何をしているのか、分かっているのか?」
千郷は斗紀夫の問いには答えず、彼の傍らにいる貴俊にごくゆっくりと視線を移した。
「……ふーん、その子って、確かX市で起こった事件の……あんたって自分の好みに合致するなら、男でもいいんだ?」
「千郷……きちんと、話をしよう……」
そう言った斗紀夫が千郷に歩み出た時、谷辺が「動かないで!」と声を張り上げた。谷辺は自分のすぐ側に用意していたガムテープを汚れた床から素早く拾い上げ、千郷に向かって投げた。
千郷はそれをパシッとうまくキャッチし、斗紀夫に視線を戻した。虚ろであるも、輝いている瞳のまま、千郷は続けた。
「今から、あんたたちも縛り上げるから、大人しくしておいてね……逃げようとしたら、どうなるか分かっている? あんたの大好きな佐保ちゃんの喉から、真っ赤な血が噴き出すわよ」
千郷は自らが発した恐ろしい言葉に茶目っ気を含ませるかのように、語尾を上げた。
その千郷の言葉に谷辺は、佐保の肩を片手でグッと押さえ、佐保の喉まで後数ミリといえるところまで出刃包丁の刃先をグッと進ませた。
「何を言っているんだ! 俺が佐保ちゃんを好きだなんて……」
慌てた斗紀夫の言葉に、千郷は急にスイッチが入ったかのようにピリピリとした声で喚きだした。
「私、全部、分かっているのよ! あなた、この子のこと好きなんでしょ! 高校生に欲情するなんてね、この変態!」
斗紀夫は一瞬言葉につまったが、すぐに首を振った。
「誤解だ! おかしなこと言うのはやめろ! 第一、佐保ちゃんは長年付き合っていたお前とは性格も外見も全く違うタイプじゃないか!」
そして、斗紀夫は佐保の喉元に包丁を突き付けているままの谷辺に振り向いた。
「千奈津さん、あなたまで何やってるんですか? 千郷を止めてくださいよ! あなた、千郷の姉でしょう? 家族じゃないですか! 家族が罪を犯そうとしてるのを止めるどころか、加担するなんて……」
――姉? あの千郷という女性と谷辺先生は姉妹だったの?
佐保の肩を押さえている谷辺の手が、わずかではあるが震え始めていた。
谷辺千奈津の妹である相田千郷が宵川斗紀夫に別れを告げられたのは、今年の夏の始めであった。
「愛情がなくなった」と、千郷は斗紀夫にそう言われた。その言葉を千郷は次のように解釈した。
――愛情がなくなったんじゃない。私が受け取るはずだった愛情をそっくりそのまま誰かが持っていってしまったんだ……
千郷は斗紀夫に別れを告げられてからというもの、食欲も減退し、生理も不規則となり、夜も涙を流し続けて眠れなくなってしまった。
意を決し、ある夏の日に、精一杯身ぎれいにして斗紀夫の家を訪れ、”もう一度抱いてほしい”と懇願するように彼に抱き付いたにも関わらず、来客があると冷たくあしらわれてしまった。斗紀夫との体の相性は良かったと思うが、もう、この体でも繋ぎ止めることはできないのだと、はっきり思い知った。
心身のバランスをより激しく崩してしまった千郷は、会社員であったものの、仕事に身が入らず、遅刻や無断欠勤が増え、職務怠慢を理由に大学卒業以来勤めていた職場を解雇されるまでの事態となってしまった。仕事を失ったということは大きな痛手ではあったが、自分にとって斗紀夫の存在がどれほど大きかったのか、また必要不可欠な存在であったのかを、千郷は改めて実感した。
――必ず、斗紀夫の愛を取り返してみせる。
決意した千郷が最初にしようとしたことは、自分から斗紀夫の愛を盗んだ犯人を見つけることだった。
斗紀夫は美形と形容しても、決して過大ではないルックスであったため、女性のファンもかなりの数いた。中には千郷とそう年の変わらない30前後の地味な顔をした女が胸の谷間をギュっと寄せた写真をファンレターに同封してくることだってあった。熱烈な女性ファン以外にも、斗紀夫の日常の様々なカテゴリーにおいて、千郷がその疑いの眼差しを向けなければいけない女がいた。
自分以外の元彼女、女友達、元同級生、付き合いのある女流作家、夜の街の女……
――でも、もしかしたら、隣の家のシングルマザーかもしれない。
斗紀夫の隣人である我妻優美香に思い当たった。
我妻優美香は、信じられないくらい若く見えるが、実の娘が高校生であるため、おそらく斗紀夫や自分とは年が近いだろうと千郷は予測を付けた。何より、斗紀夫が「あんな人、めったにいない」と優美香の美貌を千郷の前でも褒めていたことがあったからだ。斗紀夫は時々、千郷の前で他の女性を褒めることがあった。こっちをチラリと見ながら、まるで千郷に嫉妬させたいかのように。
優美香は頭はそれほど良くないのが見ていても分かったが、大変な美貌に恵まれ、あくせく働く必要のないほど裕福な家で暮らしている。彼女は満員電車に揺られたことも、客に頭を下げたことだってないだろう。ずっと実家で実の両親と暮らしているから千郷の姉のように嫁姑関係のストレスもなし、独身であるから恋愛も自由、子供はそこそこの進学校に通っている器量のいい女の子が1人。未成年で妊娠し、高校中退の上、未婚の母となったことで社会が設定しているレールから下りたようでも、レールに乗っている人間よりも数段恵まれた人生を送っている女であった。
――私とは全く違うあんなぬくぬくと暮らしている女が斗紀夫の新しい女……
千郷は自分のこの推理を確定させるために、もう一度、斗紀夫の著作を隅から隅まで読み込んだ。これは1番の読者であり、やがて妻になる者の務めでもあると思っていた。交際期間中には斗紀夫から感想や助言を求められることはなかったが、彼と復縁し、彼の妻となればきっと違うはずと千郷は信じていた。
読み終わった後、千郷は自分の推理が間違っていたことに気づいた。それは斗紀夫が書いた小説のヒロインのポジションに当たる人物の大半が皆同じタイプであったからだ。
色白で年相応の成熟具合、出産経験はなく、処女もしくは男性経験少なめ、性格は大人しく控えめであり、複雑な家庭環境で育ち、そして作中起こる事件や事故に巻き込まれ、さらなる苦難を味わい、悲しみ怯え、それでも生きていこうとするヒロイン――
千郷がそのヒロインを実像化しようとすると、我妻優美香の娘である我妻佐保となった。
そして、千郷は分かってしまった。斗紀夫がそのヒロインを”どのように”愛しているのかも。決して、自分には向けられることのない熱い思いを、そのヒロインに彼は抱いているのかも――
千郷は姉である谷辺千奈津にも斗紀夫との関係が破綻したことを伝えた。
2人の関係の破綻に、谷辺千奈津も大きなショックを受けた。
谷辺は数年前より、消費者金融で借金を重ね、現在800万円にも膨れ上がっていた。借金を重ねるに至った理由は、教師という仕事のストレスならびに、子供の教育方針が姑と行き違っており、諍いが絶えなかったことだった。
谷辺の家の近くに住んでいる姑は、何かしら理由を付けて頻繁に家を訪れては、育児と仕事でクタクタになった谷辺に諍いの種を投げつけてくる。自分の妻と母親の諍いをすぐ近くに見ているはずの夫も親身になってくれず、夫は谷辺にもまだ小さい子供にも無関心のようだった。同じ屋根の下で暮らしているのに、自分の話を聞いてくれる者が誰もいないという寂しさが彼女を買い物依存症に駆り立てた。
ブランド物の高価な服、化粧品、時計、そして高級エステ……
彼女の心の中で冷たい風が吹くたび、借入額も増えていった。
――こんな借金地獄からは抜け出したい。私は夫選びには失敗した。でも子供は誰よりも愛してるし、この子のいない人生なんて私には考えられない。
谷辺は教師という職業を辞め、離婚し今の家を出て、子供と2人で遠い町で暮らそうかと考えたこともあった。けれども、教師を辞めると借金を返すための仕事がなくなってしまう。新たな仕事だって、すぐに見つかるとは限らない。高齢で年金暮らしの両親だって頼ることなどできない。宝くじにでも当たらない限り、このまま自転車操業を繰り返していくしか方法がなかったのだ。
もし、自己破産したり、夫に借金がばれたら姑も加勢し、確実に離婚となる。離婚は望むところであるが、こちらに重責があると、たった1人の大切な子供と引き離され、二度と会えないことになるかもしれない。
谷辺と妹の恋人である宵川斗紀夫は、千郷を交えてたまに酒を飲む関係であった。人当りがよく、話も機知に富んでいるが、必要以上に馴れ馴れしいわけでもなく線の引いた付き合い方のできる斗紀夫に、谷辺は男性としてではないものの、好感を抱いていた。
谷辺が斗紀夫に恥を忍んで現在の借金地獄の状況を打ち明けたところ、「何やってるんですか、千奈津さん」と呆れたように言われた。けれども、酒の席ではあるも、自分が千郷と結婚し谷辺とも他人の関係ではなくなったら、借金の返済を援助してもいいといったニュアンスの言葉を斗紀夫の口から聞くことができた。
だが、今年の夏、斗紀夫と千郷の交際に亀裂が入ってしまった。千郷から連絡をもらった谷辺は、千郷のマンションを訪れ、本や化粧品で散らかった暗い部屋で泣きじゃくる千郷の話を聞いただけであったが、2人の仲がもとに戻るとは到底思えなかった。
千郷の肩をさすり慰めていた谷辺は、千郷の震える口からある計画を聞かされた。
自分の妹がこんなことを考えていたなんて――と、全身に戦慄が走った谷辺であったが、千郷の計画に乗ったなら、自分が今抱えている問題”だけ”はどうにかすることはできる、この地獄から這い上がることはできると――自らの心の天秤が教育者として、また人間として決して傾いてはいけない方に傾いていった。
千郷は恋敵である佐保の死を望み、谷辺はお金を望んでいた。
我妻佐保の家は裕福であった。谷辺は夏休みに佐保の家を2回訪れた谷辺は、家の規模・内装・調度品から推測し、我妻家は自分の借金返済のための金が充分に眠っている家だと確信した。1人娘もしくは、たった1人の孫のためなら、あの家の者は金など出し惜しみしないだろうとも。
我妻佐保を拉致し、家に身代金を要求し、谷辺が金を手に入れてから、千郷が佐保を殺害するという計画が進められていった。
谷辺自身、佐保には個人的な恨みなどはあるわけなかった。佐保については、人の顔色を終始気にして言うべきことをきちんと言えない印象もあったが、大人しく成績も優秀な方で、何の問題もない生徒であった。
おそらく卒業したら、数年で忘れるようなそれほど印象に残らない生徒でもあったと思うが、この悪魔の計画を実行することで我妻佐保は谷辺にとって一生忘れられない生徒となってしまうであろう。
つい先日、佐保の成績の下降にかこつけて、もう一度だけ我妻家を訪れた。その際、やや言葉につまりながらも自分に向かって一生懸命に話そうとする佐保の姿に谷辺の心は痛んだ。
谷辺は今年の7月に佐保の身に起こったことも千郷から聞いて知っていた。
――この子はあんな酷い目にあったにもかかわらず、学校に復帰し、強く懸命に毎日を生きようとしている。私はこの子にさらに酷いことをこれからするんだ。この子は卒業式を迎えることだってできない。直接手を下すのは千郷だけども、私がこの子の人生を断ち切ってしまう人間の一人であることには変わりない。そんなことはやっぱりしたくない。
佐保の家から出た直後、谷辺は偶然、隣家から出てきた斗紀夫に会った。
自分たちの犯行を食い止めることのできる最後の砦として、谷辺は斗紀夫に千郷との復縁を懇願した。
だが、斗紀夫は眉間に皺を寄せて、「いい加減にしてくださいよ、しつこいですね」と、谷辺から顔を背け続けるばかりだった。
――もう、終わりだ。私は千郷の計画に乗るしかない……
そして、もう一つ、計画が進められる要因となったことがあった。
これは谷辺も予測してなかったことだが、千郷が我妻佐保に向かって、悪夢の出来事を思い出させるために、走る車から洗濯のり(精液に見立てたつもりだったらしい)をかけたことだ。だが、その時、我妻優美香が佐保をかばい、怪我をした。そのうえ、斗紀夫が我妻佐保とともに我妻優美香が搬送される病院にまで付いていったらしい。
すでに警察沙汰になってしまったほどの勝手な千郷の行動を問い詰める谷辺であったが、千郷は「嫌がらせでもしたら、すっきりして元の私に戻れるかと思ったけど、駄目だよ、戻れやしない」と力のない瞳で谷辺を見ただけだった。
実行日となる今日、10月22日。
朝、千郷は谷辺の車のトランクに隠れて、部外者は入ることのできない中牧東高等学校の校舎内に潜入した。なお、屈辱的ではあったが、この時に排泄のことも考え紙おむつを千郷は着用していた。
6時間目にあたる時間は、体育館で全校生徒を集めての宵川斗紀夫の講演会が行われる。
直前の5時間目には、佐保は谷辺の古典の授業を受けている。
谷辺が授業終了後、佐保に声をかけ、早退を促す。これは千郷にとっても、谷辺にとっても、事件の第1段階における賭けであった。もし、佐保が早退せずにそのまま、宵川斗紀夫の講演会に出席していたら、人気の少ない校舎内で佐保を気絶させ、谷辺のトランクに隠すという計画は倒れ、また新たな拉致計画を練り直さなければいけない。そのうえ、佐保が拉致された時間に講演会に出席していたという谷辺の鉄壁のアリバイも崩れてしまう。
だが、千郷たちは最初の賭けに勝った。千郷は校門直前で佐保をクロロホルムで気絶させ、自身が隠れていた谷辺のトランクまで引きずっていき、蓋をしめた。
そして、自身はまるでコウモリのように黒い布をかぶり、谷辺の車の後部座席下に横たわって息を潜めていた。
後は勤務を終えた谷辺が、車を沼工場まで走らせるだけであった。人が好んで立ち入ることのない、佐保自身の悲劇の舞台でもある沼工場に佐保を監禁する。そして、身代金を要求する。要求する相手は佐保の母である我妻優美香だ。あの母親なら、頭もそう回ることなく、きっと自分たちの想定内の行動をとるはずだ、とも推測していた。
しかし、予想外のことが起こってしまった。
千郷と谷辺が意識を失っている佐保を沼工場まで運び、谷辺が脅迫電話の準備をし、千郷が車を近場の駐車場に止め直してくるならび、アリバイ作りのため近くのコンビニを訪れ、紙おむつからパンティーにはき替えてくる間、斗紀夫が矢追貴俊とともにこの工場までやってきたのだ。
彼らがなぜ今日に限って沼工場にやってきたのかは分からない。
さらに、決して言い訳できないような状況を彼らに見られてしまった。でも、千郷はわずかな嬉しさも感じていた。
――斗紀夫は私がしようとしていることを分かってくれていたんだ。やっぱり私と斗紀夫はつながっていたんだ。
千郷が自分に向ける狂った笑みに、斗紀夫はたじろいだ。
「……あのさ、千郷、俺が悪かったよ……お前の望む通りにするよ。だから、佐保ちゃんと矢追くんは家に帰してやってくれ。この2人は俺たちとのことに何の関係もないだろう?」
千郷を刺激しないように抑えた口調で説得しようとしている斗紀夫に、千郷はゆっくりと首を横に振った。
「駄目よ。もう引き返せない。あんたもこの子たちも、このまま解放なんてできないわよ。私は今無職だけど、こんなことが外に漏れたら姉さんだって懲戒解雇は確実だしね。私たちは、社会的にはもうおしまい」
つい先ほどまで喚くように喋っていた千郷は、何かを達観したかのように穏やかな口調になっていた。千郷は貴俊に視線を移す。
「あんたって、本当にこういう子が好きよねえ」
「……何が言いたい?」
わずかに狼狽した斗紀夫の声に千郷は答えず、まるで踊るように両手を広げ、沼工場を見渡した。
「逃げたきゃ逃げれば? 男の足に女は追いつけないからね。でも、あんたたちどっちがか逃げたら、あの子を殺すわよ」
千郷は佐保をチラリと見た。佐保の喉元の出刃包丁がきらりと光り、それを持っている谷辺がゴクと唾を飲み込んだ。
「ねえ、確か名字は……矢追……くんだっけ? そのポケットから見えてるのなあに?」
優しい口調のまま、千郷は貴俊にツカツカと歩み寄り、貴俊のズボンの前ポケットより出ている紐を取り出した。
「ふうん、防犯ブザーか……男のくせになんでこんなもん持ってんだか……」
千郷は貴俊から取り上げた防犯ブザーを放り投げた。それは工場のやや中心部に位置している直径3メートル弱ほどの正方形の窪みに消えた。
その窪みを満たしている塵と虫の死骸を浮かべている濁った水がポチャンと音を立てる。
千郷は自身のポケットより、折り畳みナイフを取り出した。
それを貴俊の喉仏に近づけながら、千郷は言った。
「矢追くん、あなたには直接の恨みはないから、見逃すことを考えてあげてもいいわよ。でも、それには条件があるわ……今から、あなたは我妻佐保を犯しなさい。あの子にもう一度、地獄を味あわせてやって。生きるよりも死んだ方がいいと思えるような地獄をね」
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