第3話

 我妻優美香が搬送された病院から戻った斗紀夫は、部屋の明かりもつけずに自室に佇んでいた。

 斗紀夫は携帯を取り出した。携帯画面から発せられた光が、彼の端正な顔を闇の中にボゥッと浮かび上がらせた。眩しさに一瞬目を細めた斗紀夫であったが、すぐに彼の指は器用に携帯のアドレス帳を操作し始めた。

――もしかして、あれはお前がやったことなのか?

 スモークが貼られた黒い乗用車から、我妻母娘(おそらく狙いは我妻佐保だったろう)に向かって白い液体がかけられた。母・優美香が娘・佐保をかばい、2人は転倒した。転倒した際、優美香がブロック塀で頭を打ち、流血した。

 左のこめかみの少し上のあたりから血を流した優美香は真っ白な顔で意識を失っていた。佐保は気丈にも、すぐに携帯をポケットから取り出し、119番通報した。電話口の者に優美香の状況を説明していた佐保であったが、途中でしゃくりあげ、パニックを起こしかけていたため、斗紀夫が電話を代わって状況を説明をした。

 最愛の母が自分の呼びかけに応えない。

 佐保は泣きじゃくり、自分の服を引き裂き、手が血だらけになるのも構わず優美香から流れる血を必死に止めようとしていた。

 その佐保の姿を思い出した斗紀夫の胸が切なくうずいた。斗紀夫は腹の下を押さえ、椅子に腰を下ろした。

 斗紀夫の指は、やっと今から自分が電話をしなかればいけない人物を探し当てることができた。

 相田千郷。斗紀夫のかつての恋人だった女への電話。

――千郷、あれはお前がやったことなのか? お前はなぜ、彼女たちに洗濯のりなんてかけたんだ? 優美香さんは転倒した時、ブロック塀で頭を打って怪我をしたんだぞ……命には別条はなかったとはいえ、一緒にいた佐保ちゃんのショックは相当なものだ。千郷、お前は一体、何を考えているんだ? お前の”家族”にお前があんなことをしたって、話してもいいんだぞ?

 虚しく鳴り続けるコール音を聞いている斗紀夫の顔は、徐々に険しいものになっていった。


 

 佐保は時計を見た。佐保の隣を担任の谷辺が古文を朗読しながら、通り過ぎて行った。

 6時間目が始まるまでは、あと30分ほどある。だが、今日の6時間目は授業ではなく、宵川斗紀夫の講演会であった。

――ママが不審な車から私をかばって怪我をしたあの日……宵川先生は泣きじゃくって何もできなかった私に代わって、駆け付けた救急隊員の人たちにも状況を説明してくれた。そして、一緒に病院まで来てくれた。

 佐保は血の気のない真っ白な顔で倒れていた母・優美香の姿を思い出し、両腕を震わせてしまう。

――本当にママが無事で良かった。ママにもしものことがあったら……

 優美香は昨日頭に白い包帯を巻いたまま、退院してきた。後遺症は残らないが、怪我の様子を見るため、通院の必要があるとのことだった。搬送された病院で目を覚ました優美香は、真っ先に佐保の名を呼んだ。泣きながら自分にしがみつく佐保を優美香は強く抱きしめた。

 その次の日、佐保は学校を休み、優美香の側にずっとついていた。

「ママってとろいはずなのに、あの時だけは体がパッて動いたのよ。不思議ね」と、佐保と2人っきりになった時、優美香が病室でポツリと呟いていた。

 優美香が怪我をさせられてから、3日しかたっていない。そして、誠人と美也の怒りは相当なものだった。勿論のこと、警察が家にやってきた。佐保も事情聴取を受けたが、あの車のナンバーも何も見ていなかったことが悔しかった。

 おそらく、悪質な”悪戯”による傷害事件と捜査されるのだろう。あの車から佐保たちに向かってかけられたのは、ただの洗濯のりだった。近所の野次馬の一人がわざわざ家を訪れて、祖母の美也に『硫酸や塩酸じゃなくて良かったわね』と言っているのも佐保は聞いた。

 だが、佐保には洗濯のり――あの白濁した液体が何を意味しているのか自分には分かる気がしていた。

――『依頼者』の犯行なの? 7月の”あの日”のことを忘れさせないというメッセージ? あの車から液体をかけてきたのは女のような気がする……男だったら、自前の物をかけてくるはず……ついにあの『依頼者』は私の家族まで傷つけるなんて……

 佐保がギリと唇を噛みしめた時、チャイムが鳴った。

 教卓に戻った谷辺は、教科書を机の上に置き、教室内を見渡した。

「次は体育館での講演会だから、皆、体育館へ移動してください」

 谷辺の声にクラスメイトたちが、ぞろぞろと廊下へと移動していく。翼と梨伊奈はイケメン作家の宵川斗紀夫を生で見ることができると、朝からハイテンションだった。普段は男の人に歓声をあげることなどない日香里も、宵川斗紀夫の著作を何冊か持っているらしく、本物に会えることがうれしいみたいだった。亜由子は今日は体調不良のため欠席だった。佐保は、以前は滅多に学校を休まなかった亜由子が最近になってよく休むことを不思議に感じていた。だが、その理由が病欠などではなく、裏サイトへの書き込みという身から出た錆により、友人たちの間で疎外感を感じていたためであるということを佐保は分からなかったが。

 椅子に腰を下ろしたままの佐保に、廊下に向かっていた日香里が手招きした。椅子から腰を上げた佐保であったが、「深谷さんは先に行ってなさい。我妻さん、ちょっと……」と谷辺に呼び止められた。

 いつもと同じく身綺麗で、センスのいいスーツを身に着けている谷辺の右手には真新しい高級そうな時計が光っていた。

「我妻さん、すごく顔色悪いわよ。大丈夫なの?」

 先生は私のことを気にかけて見ていてくれていたんだ、と佐保は谷辺の言葉に、わずかにうれしくなってしまった。

「……いいえ、大したことありません」

「次は授業じゃないし、早退した方がいいんじゃないかしら? お母さん怪我したんだって?」

 佐保は自宅にいるはずの、痛々しい包帯を頭に巻いたままの優美香の姿を思い浮かべる。

「……帰ります」

 頷いた佐保に、谷辺は手元のファイルより素早く「早退届」を取り出し手渡した。

「はい。もう私の印鑑は押してあるから。帰る前にちゃんと事務室に提出するのよ」


 

 鞄を手に事務室を後にした佐保にも、体育館へと連なって歩いていく生徒の列が見えた。日香里と翼、梨伊奈、そして荒武と一緒に歩く貴俊の姿も見えた。彼女たちが歩いていく先には、生徒たちを誘導している谷辺の姿もあった。

 佐保は学校の正門へと向かう。

 全校生徒が体育館に集められた学校内は、今はまるで無人のように静まり返っていた。足を進める佐保には、正門が手を広げて、学校の外という危険な地帯に導くために、自分に向かって近づいてきているようにも思えてきていた。

――関係者以外が入ることのできない、この学校という安全地帯から出たら……

 佐保は足を止め、鞄から携帯を取り出した。

――ママに連絡を入れて、怖いけど1人で帰ろう。そして家に戻ったら、警察の人に連絡して全部話そう。あの7月7日に私の身に起こったことも、『依頼者』のことも……絶対に無関係であるはずがない。もっと早くにこうするべきだったんだ。ママまで傷つけられるなんて、このままでなんていさせやしない――!

 『依頼者』への怒りに燃え上がった佐保が、自宅に電話をかけようとしたその時、後ろでザリッと土を踏む音が聞こえた。

 ハッとした佐保が振り返ろうとするやいなや、彼女の鼻に強い刺激臭を含んだ布がグッと押し付けられた。細い腕が佐保の体を後ろから羽交い絞めにしていた。布から発せられる臭いと混じり合う、甘い果実のようなシャンプーの匂いがした。佐保の背中では自分を押さえてつけている人物の、その2つの丸い乳房の膨らみが押しつぶされていた。



 講演会を無事に終えた宵川斗紀夫が体育館から出る通路では、案の定、生徒たちが彼を待ち構えていた。男性教師が斗紀夫を先導しているため、走り寄って声をかける生徒などはいなかったが、多くの生徒――主に女子生徒が斗紀夫を見て、今にも嬌声をあげんばかりだった。

 キャピキャピとしながら斗紀夫を見ている女子生徒の中には、貴俊と同じクラスの高川翼と篠口梨伊奈もいた。彼女たちの近くにいる深谷日香里も頬を赤くし、彼女が普段はあまり見せないような柔らかな表情で斗紀夫に目を奪われているようだった。

 その光景を見ていた貴俊と斗紀夫の目が合った。

 斗紀夫は貴俊にだけ分かるように軽く微笑み、貴俊も斗紀夫に同様の微笑みを返し、軽く頭を下げ、その場を後にした。

 教室へと戻る貴俊の耳に、「写真じゃイマイチだったけど、本物は結構カッコいいじゃん」「お前、知らなかったのか、宵川斗紀夫って結構有名だろ」「万人受けする小説家じゃないよな。教育にあまり良くない作品書くし」「ま、本物見れてラッキー。他校の友達にメールしちゃお」「結婚してるのかな? 何才ぐらいなんだろ?」「講演会より自習の時間にして欲しかったよ。あの作家には全く興味ないもん」といった、生徒たちの声が次々に飛び込んできた。

 

 帰り支度を始めた貴俊は、荒武に後ろからポンと肩を叩かれた。

「俺たち、これから駅前のバーガーショップに行くんだけど、お前も来るか?」

 貴俊は首を横に振った。

「ごめん。僕は今日、ちょっと用事があるんだ」

「そうか。また、今度一緒に行こうぜ」

 残念そうな表情で軽く片手を上げた荒武に、貴俊も手を上げ返し、教室を出た。

 貴俊は思っていた。A子との出会いが自分の人生における最悪のものであるとしたなら、荒武や宵川斗紀夫との出会いはきっと最良のものであるに違いないということを。

――でも、あの事件が起こらなければ、僕がこの町に来て、2人と出会うことはなかった。2人とはもっと違った出会い方をしたかったな……

 大きく息をつき、鞄を肩にかけ直した貴俊は家路へと急ぐ。

 今日の夜は、貴俊の父・滋がY市より貴俊が1人で暮らすマンションに来ることになっていた。あの事件が起こらなければ、貴俊はずっと父と同じ屋根の下で暮らしているはずだった。もちろん、A子に殺された母と弟たちも。

 歩道を歩いていた貴俊は、クラクションの音に振り向いた。

 車の運転席から、斗紀夫が貴俊に向かって爽やかに手を振っていた。

「矢追くん、送っていくよ」

 遠慮する貴俊であったが、斗紀夫にやや強引に説き伏せられ、彼の車の助手席に腰を下ろすこととなった。

「先生、ありがとうございます」

「いいって。俺もちょうど、近くに用事があるんだからさ。矢追くんとこうして話すの2か月ぶりくらいかな。でも、ほんと、女子高生パワーって、すごいよね。圧倒されちゃったよ。こっちまで若返りそうな気がするよ」

 斗紀夫はハンドルを切りなおす。

「矢追くん、学校ではどんな感じ?」

「……やっぱり随分前から、ばれていたみたいです。一度、皆が見ている前でばらされたんですけど、表立って嫌がらせをしてくるような人はいないので……皆に腫物に触るように扱われてはいるとは思いますけど……それに、もうこれ以上、父に精神的にも経済的にも負担はかけたくないんで……」

 貴俊の言葉に斗紀夫は黙って頷いた。


 信号が赤に変わった時――

「どうかした?」と、斗紀夫は突如、後ろにガバッと振り返った貴俊に聞いた。

「いや、その、視線を感じて……」

――僕の気のせいか? いや、でも、今の気配は確かにA子の……

「この車の中には俺らしかいないよ」

「そうですよね、すみません」と、貴俊は俯いた。

 目の前の信号は青へと変わった。斗紀夫の車は再び車道の流れに乗って、走り出す。

「矢追くん……佐保ちゃんは今、どんな様子?」

 斗紀夫のいきなりのその問いに、貴俊は言葉に詰まった。

「……僕は我妻さんとはもともとそんなに親しいわけではないんで……」

 貴俊は教室での我妻佐保の様子を思い出す。2学期の当初にあった席替えで、佐保とは隣同士の席ではなくなった。それに、先ほど斗紀夫に答えた通り、貴俊と佐保とはもとからそんなに親しいわけではない。

 けれども、貴俊と佐保の視線が時に交差することがある。その時はすぐにどちらかがパッと目を逸らす。目を逸らした佐保の唇はわずかに震えているし、貴俊も苦い顔をしているのを自分でも分かっていた。佐保が自分の顔を見ることに苦痛を感じているということを貴俊は理解していた。

 それと同時に、貴俊には夏休みに会った少年たちのことも気にかかっていた。あの夏の日以来、”マサミ”と呼ばれていた少年にも、彼を取り囲み服を脱がしていた他の6人の少年たちにも会うことはなかった。

 自分の顔を殴りつけたピアスをした荒々しい少年の「裏切り者」という言葉。あのマサミという少年は、絶対に我妻佐保の身に起こったことを知っている、もしくは関わっているに違いないと、貴俊は思っていた。

 運転席の斗紀夫は目線を前に向けたまま、大きく息を吸い込み、話始めた。

「あのね、矢追くん。実はね、これから俺が用事があるのは、佐保ちゃんが襲われた沼工場なんだ……佐保ちゃんがあんな目にあう原因を作ったのは俺だからさ」

「先生?」

「まあ、一言で言うと、俺が佐保ちゃんのことを好きだと思い込んでいる女がいる、ってことだよ」

 貴俊の脳裏に、夏休みに斗紀夫の家の玄関を勢いよく開けた、涙に濡れた女性の顔が蘇ってきた。

――もしかして、宵川先生の恋人(今はそうか分からないが)の女性が男に依頼して、我妻さんを襲わせたということを宵川先生は言いたいのだろうか? それに、あの女性……なんだか、誰かに似ていたような気がするんだが……

 貴俊が口を開く。

「もしかして、夏休みに会ったあの女性が……でも女性が同じ女性を襲わせるなんて、そんなこと……」

「君はやっぱり頭の回転が速いね。でも、恋に狂った女は何をするか分からない……それも、君は分かっているだろう?」

 貴俊は黙り込んだ。現に、恋に狂った女に自分は家族を殺されていたからだ。

「ごめんね……今の言葉だけど、君を傷つける気はなかったんだ。ただね、この間、佐保ちゃんのお母さんが怪我をしたんだ」

 貴俊は、我妻佐保の家で一度だけ見た若く美しい彼女の母親のことも思い出す。

「状況を軽く説明すると、走る車の中から佐保ちゃんが白い液体をかけられそうになり、佐保ちゃんのお母さん……彼女は優美香さんって言うんだけど、優美香さんが佐保ちゃんをかばおうと覆いかぶさってさ……倒れこんでブロック塀に頭をぶつけたんだ。幸いにも命に別状はなかったけど」

 ハンドルを握り直し、再び大きく息を吐いた斗紀夫は続ける。

「かけられた液体は、ただの洗濯のりだったんだ……ただの愉快犯なのか、それとも何か別の目的があっての犯行なのかは分からない。警察も捜査に来たけど、すぐに犯人が捕まるとは限らないし。俺はあいつに……千郷にも何回も電話したんだけど、電話に出なくて……それにもうこれ以上、佐保ちゃんが傷つけられるのを見ると俺は……」

 斗紀夫の唇を噛みしめた切なげな横顔を貴俊は見つめた。

――まさか、宵川先生は我妻さんのことを……

「大の大人の男が高校生の君に頼み事をするなんて、情けないことだと分かっているけど、一緒に沼工場に来てくれないか? 事件の犯人は現場に戻ってくるって話を聞いたことがあるだろう。俺は沼工場の中を調べようと思う。あれから、数か月たっているし、何も出てこない可能性の方が高いとは思う。でも、何か証拠となるものを見つけた場合は、君の冷静な意見を聞きたいんだ。そんなに時間は取らせるつもりはないからさ」

 貴俊は考える。

――宵川先生は僕の意見を必要としている。でも、僕に何ができるのだろうか? それに仮にあの女性が我妻さんを男たちに襲わせた証拠となる何か見つけてしまった場合、僕が口を出してもいいことだろうか? でも、宵川先生は夏休み時間に忙しい時間を割いてまで僕の話を聞いてくれたんだ。僕を信じてくれたんだ。

 貴俊は斗紀夫に気づかれないように、そっと腕時計に目をやった。

――今日はお父さんが8時過ぎに僕の家に来る。それまでにまだ時間はある。

「分かりました。一緒に行きます」

 斗紀夫の申し出を了承した貴俊を乗せた車は、沼工場へと向かう道に入っていった。

「本当はね、俺は千郷がやったんじゃないって信じたいんだ。あいつとは、それなりにいい思い出もあるし、千郷の”家族”とも結構いい付き合い方ができていたと思うからね……」

 呻くように呟いた斗紀夫に返す言葉を、貴俊は見つけることができなかった。




 肌寒さに目をあけた佐保の前には、絶望の光景が広がっていた。

――ここは……ここは……あの場所だ……沼工場だわ!

 佐保にとっては、この沼工場は地獄と同じ意味を持つ場所だった。

 今、佐保の目の前にある光景は夢の中のものではなかった。虫の死骸までもが落ちている汚れた床の上に転がされていた佐保の口はガムテープでふさがれ、カラカラに乾いた喉からはくぐもった音しか出せない。両手は後ろ手に何かで縛られ、手首に痛いくらいそれがくいこんできている。そして何より、佐保の全身からドッと噴き出し続けている汗と震え、鼻孔に届けられる腐った水の臭いが、この光景が現実のものでしかないという証だった。

――どうして? 私は学校にいたはず……学校に……

 意識を失う直前に自分を押さえつけていた細い腕と背中に当たっていた丸い乳房の感触を思い出す。

――女だった。やっぱり『依頼者』は女だったんだ。私は『依頼者』にまたここまで連れて来られたんだ!

 佐保は勢いをつけて床からガバッと身を起こした。幸運なことに佐保の両脚は縛られてはいなかったのだ。佐保はよろけながらも、出口に向かって駆けだした。薄暗いこの沼工場の中、その出口だけはまるで別の世界ものであるかのように白く明るく浮かび上がって見えた。

 もつれる足で走る佐保であったが、後ろから死んだはずの逢坂夏樹と桐田照彦が現れて、再び彼らにつかまってしまうんじゃないかという恐怖も追いかけてきていた。

――外に、外にさえ、出ることができれば――!!

 だが、突如、その出口に見えた人影に佐保はビクリと飛びあがった。

 その場に凍りついたように一歩も動けなくなった佐保であったが、その人影が誰であるかが分かったため、全身を支配していた恐怖はじわじわと和らいでいきはじめた。

 その人影――そこにいた”彼女”は学校内で佐保を襲い、この沼工場まで連れてきた人物であるはずがなかったからだ。なぜなら、彼女はあの時、確かに……

 佐保は彼女が”ここ”にいる理由については検討がつかなかった。けれども、佐保が普段知っている彼女が、佐保に――いや佐保のような立場にいる者に危害を加えるなんてことはあり得ないことであるのだ。

 佐保は彼女に向かってモゴモゴと口を動かした。

 ホッとしたため、全身の力が抜け、佐保の目じりには涙がジワジワと滲み始めてもいた。

 けれども、彼女は黙ったまま、佐保に向かって歩いてきている。まるで能面のような表情で――

――え?

 佐保は強烈な違和感を感じると同時に、彼女の右手に握られている物に気づいた。

 出刃包丁。そう、銀色の鋭い光を発している出刃包丁が彼女のしなやかな手に握られていたのだ。

 佐保に近づいた彼女は、無言で、佐保の白く細い喉元にそれを突き付けた。

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