第2話
「いつかこうなるんじゃないかって、思ってた」
放課後の教室で、梨伊奈が日香里と翼に向かって言った。
「この学校に裏サイトなんて、そんなのあったんだ」と、翼がポカンとした表情になった。梨伊奈は話を続ける。
「普通の検索ではなかなか出てこないらしいよ。その裏サイトのURLを知っている人に教えてもらってアクセスできるんだってさ」
「じゃあ、亜由子はその裏サイトに書き込みをしていたから、生徒指導室に呼ばれたってこと?」
「うん。結構、エグイ書き込みしてたみたい。親まで呼ばれるとか、悲惨すぎ……他にも何人か呼ばれたってさ。うまいこと逃げきれた人もいるみたいだけど」
「亜由子って普段はクールな感じなのに、メールとかだと凄い饒舌だし、二面性あるって思ってはいたけど、ショック……」
消え入りそうな小さな声を出した翼と同じことを梨伊奈も感じてはいた。
梨伊奈から見た海内亜由子は、いつも柑橘系のシャンプーのいい匂いをさせ、あっさりめの顔立ちとすらりとした長い手足の持ち主であり、一見クールでさっぱりとした性格のイメージを抱かせる女生徒であった。けれども話をする時に彼女は梨伊奈の顔よりも携帯の画面を見ていることの方が多かったし、送られてくるメールにいたっても「それこそ口で友達に直接言えばすむことじゃん」という内容を細かく(時には過去のことをほじくりだしてまで)送ってきていた。
2人の話を黙ってじっと聞いていた日香里が梨伊奈に問う。
「梨伊奈、亜由子って何を書いてたの? 矢追くんのこと、それとも佐保のこと?」
「うーんと、えーと、そのどっちもらしいよ。こないだ、廊下で矢追くんと宇久井が揉めたじゃん。その光景を見てた人が……噂だと男子生徒らしいけど、良心の呵責に耐えきれず、今、裏サイトで起こっていることを先生に自首しに来たって。まあ、自首って言い方は語弊があるかもしれないけどさ」
その男子生徒は先日の廊下での騒ぎにより、目の前で矢追貴俊という1人の生身の人間が傷ついているところを見た。そしてさらに、裏サイトでその騒ぎを面白おかしく茶化すような書き込みを見て、彼の心は耐えきれなかったようであるとのことだった。
その男子生徒の告発により、教師が中牧東高校の裏サイトを確認した。そして、書き込み内容のなかで海内亜由子が書き込んだものだとはっきりと分かるものがあったのだろう。もしかしたら、そういったことを調べる専門家に依頼したのかもしれないが……
「……亜由子、佐保のこと、メールで回してくるだけでなく、裏サイトにまで書いてたんだね。一度、釘を刺しておいたのに」
日香里が辛そうに唇を噛んだ。
梨伊奈は思い出す。
それは、夏休み前、佐保が学校を休み始めて1週間後ぐらいの時だった。
亜由子から梨伊奈たち3人にメールが送られてきた。その内容は、佐保がレイプされ、ショックで学校を休んでいるというものだった。メールの最後には、「人から聞いただけだから、本当かどうか確証はないけど」との一文が添えられていた。
そのメールを読んだ日香里は、「こんなひどい噂でしかないものを回さないで。佐保の気持ちも考えて」と、亜由子に怒った。翼は佐保の身に起こったかもしれないことのショックで泣き出した。そして、梨伊奈もその日ばかりはおしゃべりする元気がなかった。梨伊奈は性犯罪にあったことなどはないが、それがどれだけ女性の心と体を傷つけるかは、想像したら分かることであった。佐保のことをいつもの話の種にすることなどは、彼女はとてもできなかった。
日香里に怒られた亜由子はその場で皆に謝った。だが、その後、苛立たし気にブツクサ言いながら、自分の携帯を鞄の中に放り込んでいたのを梨伊奈は見た。
――亜由子はあの後、数か月にわたって裏サイトへの書き込みを続けていたんだ。
梨伊奈自身は、ネットにちまちまと書き込みをするよりも、目の前にいる相手と身振り手振りを加えて、直接話をすることの方が好きだった。「梨伊奈と話をするのは楽しい」と言われたこともあれば、「うるさいよ、いつまで喋ってるの」と言われたこともあったが。
梨伊奈が今いる女子グループのなかで、一番気兼ねなく話せるというか話のテンポが合うのは翼で、鋭い突っ込み役(たまにキツイ時もあるが)は日香里で、主に亜由子と佐保が聞き役であった。
――佐保……
梨伊奈は、佐保がかつて見せていた少しはにかんだような笑顔を思い出す。
――確かに私と佐保の距離感は、翼たちとは違ってる。でも、佐保とは今ぐらいの距離感でちょうどいいのかもしれない。それに、佐保は裏表のない、いい子だって私も分かっているし。
日香里や翼とも、佐保の身に起こったかもしれないことについては、何も聞かなかったことにして、今までと同じように接しようという意見でまとまっていた。それが本当に佐保が望んでいることかどうか分からないし、正しいことであるかも分からないけれど。
沈んだ表情をする日香里と翼を見ながら、梨伊奈はもう1つ発生した問題について考えた。それは、これから卒業までわずかな期間ではあるが、亜由子が自分たちのグループにいることを望むのか、そして果たして自分たちはそれを受け入れられるか、ということだ。
日香里も翼も陰湿なところはないから、亜由子を露骨に仲間外れにしたり、シカトしたり、他の女子を先導しての悶着を起こしたりなどといったことは絶対にしないと梨伊奈は思う。もちろん、梨伊奈自身だってそんなことをする気は全くない。
――でも、今回のことで私たちと亜由子との間に大きな溝ができてしまった。その溝は今まで通りの付き合いを続けていくことで、徐々に埋まっていくような溝ではないよ。時が埋めることのできる溝もあれば、そうでない溝もあるんだよね……
それに、別のクラスの友人(この友人は裏サイトは閲覧していただけで書き込みは一切していないと梨伊奈に言い張っていた)の話では、亜由子が書き込んだとみられる自分や日香里、翼の悪口らしきものもあったとのことだった。容姿や行動を亜由子に馬鹿にされていたらしい。でも、梨伊奈はそのことを日香里や翼に伝える気はなかった。
けれども、亜由子が自分たちの悪口を掲示板に書き込むほど嫌っていたのにも関わらず、表面は仲のいい友人のふりを何か月も続けていたということ――亜由子に隠されていたもう一つの顔、彼女自身も決して人には好んで見せたくなかったであろう顔がちらつき、その気持ち悪さが喉のあたりにモヤモヤと広がってくる気がして、梨伊奈は思わず喉を押えて呻いていた。
風呂上りの貴俊は、まだ水気を含んだ自身の髪を薄地のタオルでゴシゴシとふいた。必要最低限の家電と1人分の生活用品だけが揃ったマンションの自室を貴俊は見渡す。簡素な机の上には、1枚の写真が入ったフォトフレームが飾られている。貴俊はそれをスッと手に取った。
貴俊がかつて家族全員で住んでいた家の前で撮ったその写真には、家族全員が欠けることなく映っていた。写真の中の貴俊は真新しい学ランを着ていた。この写真を撮ったのは、貴俊があのX市の高校に入学した直後だった。
――確か、僕が高校に入学した時に、お母さんが『記念に撮ろう』って言ったんだよな……
貴俊の記憶の歯車が悲しい音を立てながら、回りだす。
――お父さんがカメラマンとして皆の写真を撮ろうとしたけど、ちょうど家から出てきた隣のおばさんが気を利かせてくれて、皆で映った写真を撮ってくれたんだ。光洋が『僕もお兄ちゃんと同じコーコーに行く』って言いだして、そしたらお母さんが『じゃあ、光洋が合格した時にもみんなで撮ろうね』って言って……撮影が終わった途端、和則がおっきなくしゃみをして、お母さんが慌てて……
春の優しい風と光に彩られているはずの思い出だった。
この思い出の中に帰ることができるなら、と貴俊の鼻の奥がツンとし始めた。目頭を押さえた貴俊は、自分に重く架せられた目に見える十字架である、そのフォトフレームを静かに机の上に置いた。
そして、貴俊は廊下での宇久井との騒ぎの翌日のことを思い返す。
あの騒ぎの翌日、貴俊が教室に足を踏み入れると、一瞬にしてシンと静まりかえった。それは貴俊の転入初日と全く同じ状況であったが、その静寂の理由は全く異なっているのを彼は理解していた。教室にいる誰もがピタッと口を止め、貴俊を見ていた。けれども、貴俊と目が合うと誰もが気まずそうにその視線をそらした。
貴俊は唇を噛みしめ、今日一日だけでもこの状況に耐えようと決意した。だが、その日の放課後、貴俊は担任教師の谷辺千奈津に呼び出された。
谷辺と話をするために空き教室に行くまでの間、生徒指導の教師と話をしている宇久井を見た。
宇久井は半分べそをかいていた。そして、「先生、俺、裏サイト見てただけだって。何も書いてねえよ」と、自分より背の低いまるっこい体格の男性教師に必死に弁解をしていた。男性教師の「お前なあ。そもそも、なんだ、そのだらしない格好は……」という声も、貴俊のところまで聞こえてきた。
空き教室で貴俊を待っていた谷辺に、宇久井との件を貴俊に聞いたのち、転入してから今日まで、何か(主に対人関係で)困ったことはないかということを聞かれた。
貴俊は宇久井とのことは、自分の感情は伝えずに、ありのままの事実を答えた。あの日の廊下には大勢の見物人がいたわけだし、わざわざ自分が傷ついたことを谷辺にアピールする必要はないと思ったからであった。そして、その他のことにも、言葉を選んで無難な受け答えをして、空き教室を静かに後にした。鞄を取りに教室に戻る貴俊は、同じクラスの海内亜由子が俯いたまま、保護者(おそらく母親だろう)と生徒指導室に入るのも目撃した。
中牧東高校の裏サイトの存在も、貴俊もこの時期になって初めて知った。きっと自分の事件も、そして――もしかしたら、あの我妻佐保の件もそこに無責任に書き込まれ、広まっていたのかもしれないとも推測した。
そして、さらに数日後、学校側の素早い対応により、裏サイトが閉鎖されたことを貴俊は知ることとなった。
数日たった今も、転入当時と同じくように、貴俊が廊下を歩くたび、他のクラスの生徒たちからの視線を感じ、ヒソヒソと噂話をされているのも感じていた。だが、あの事件について直接表立って、いろいろと聞いて来たり、言ってくる者は誰1人としていなかった。彼の机の中やロッカーに事件の新聞記事や目線の入った自分の写真が入っていることもなかったのだ。
2クラス合同の体育の時間に顔を合わせる宇久井もその取り巻きも、貴俊と目が合うと、(もしかしたら、宇久井はべそをかいているところを貴俊に見られたからかもしれないが)苦い顔をして、彼から顔をそむけるだけだった。
荒武をはじめとするクラスメイトの男子たちとも、わずかなぎこちなさを感じるものの、彼らは事件には一切触れることのなく、以前と同じように貴俊に接しようとし、また貴俊もそれに応えようとしていた。
――今のこの社会では、逃げても逃げても人の噂が追いかけてこない場所なんてなんだろう。そして、逃げた先でもその傷痕を掘り起こしてくる人もいるんだ。でも、そうでない人だっている。この町で出会った人達は、きっとそうでない人の方が多かったんだ。
貴俊は宵川斗紀夫のことも思い出す。
――宵川先生は、夏休みの仕事で多忙のなか、それに恋人の女性と取り込んでいたにも関わらず僕の話を聞いてくれた。
夏休みのあの日以来、貴俊は斗紀夫には会っていなかった。だが、メールでの近況報告なるやり取りは数度行っていた。
斗紀夫は貴俊にとって、父と同じく信頼できる大人の1人となっていた。貴俊は携帯を手にした。斗紀夫に学校であったことを伝えたいという衝動に駆られたが、彼は携帯を静かに机の上に置いた。
――先生もお忙しいだろうし、こんなことでメールするなんて迷惑かもしれない。それに先生はもうすぐ僕の高校に講演に来てくれる。その時に会うことができるんだ。
貴俊は立ち上がり、窓へと向かった。窓の外には、10月の夜空が広がっている。シャッとカーテンをあけると、黒と灰色を混ぜ合わせたような色の空に、ゴーゴーと吹く風の音が聞こえてきた。
――今、僕は女の子を避け続けている。けれでも、あのA子が今の僕のこの状況に納得しているわけがない。あいつはそう簡単に僕をあきらめたりしないだろう。今は息を潜めているけど、あいつは絶対に僕の前に姿を現すはずだ……その時が来たら、僕は……!
貴俊は唇を結び、窓ガラスに映っている自身の顔を見た。貴俊は水面に映っている自分の顔を見ているような奇妙な感覚に陥った。ただ、その水は綺麗な清らかな水では決してない。暗く冷たく淀みきった、黄泉の国の音が聞こえる水の中に自分の顔が映っているかのように、貴俊は思えていた。
佐保は自宅の玄関先で、母の優美香とともに担任教師の谷辺を見送った。
夏休み前より、佐保の成績が急激に下降線を描いている。
それが今日、谷辺が佐保の家を訪れた第一の理由だった。
学校内だけでも、上の中から上の下ぐらいにいた佐保の成績は、中の下から下の上にガクンと下がってしまっていた。夏休み明けの模試の結果もその下降線を如実に描いたものであった。
卒業が難しいほどの状況ではない、でも大学の志望ランクは落としたほうがいい、と佐保が予測していた通りのことを谷辺は話したのだ。
成績についての話が一旦終わった後、谷辺は別の話題を切り出した。これこそが今日、彼女が佐保の家まで訪れた第二の理由であると同時に最大の理由であったのだと佐保は感じずにはいられなかった。
「何か悩んでいることとかない? 例えば友達関係とか、自分の周りにおかしな人がいて勉強に集中できないとか?」
柔らかい口調でそう問う谷辺に、佐保は心の内は何も話さずあたりさわりのないような答えをした。
――谷辺先生に言えるわけがない。夏休み前、不良少年3人に拉致され、そのうちの2人に輪姦された。その不良少年2人の死(表向きは自殺だが不審な状況ではある)に安堵した。結局、警察に行くことができなかった。唯一生き残っている少年・櫓木正巳の容態と彼のお姉さん・櫓木麗子さんのことが気にかかっている。性犯罪の恐怖と苦しみがフラッシュバックし、クラスの男子生徒もちょっと怖くて体が固まってしまう。矢追くん(でも彼が私に何もしていないのはちゃんと分かっている。ただ、直後ともいえる姿を彼に見られてしまった)には特に。そして、矢追くんの本当の名は「長倉貴俊」で、昨年X市で起こった同級生の女子生徒による一家殺害事件の被害者であった。被害者であるにも関わらず、彼はここまで逃げてこなければいけなかった。その心情を思うと矢追くんの事件には何の関係もない私の胸だって痛み出してくる。学校の裏サイトが閉鎖されたってことを、先日梨伊奈から聞いた。きっと私のことも矢追くんのこともその裏サイトに書かれていたのかもしれない。だから、好奇の視線を強く感じていたかも。でも、私についてどんなことに書かれていたのか、気になるけどその詳細を知ってしまったら、今以上に人間不信になるかもしれない。だからもう何も考えないようにしている。私自身は仲のいい友達とはわりかしうまくやれているけど、亜由子の様子が少しおかしい。亜由子は私たちと目を合わせないことが多くなったが、私たちの機嫌をとるかのようにやたら饒舌にしゃべりかけているような気がする。日香里や翼も、みんな普通には話をするけど、目に見えない線のようなものが引かれてしまった気がする。ここ数か月で、私も私の周りも全く別の世界に変わってしまった。
いろんなことが佐保の胸中で積み重なりあい、膨らみ切っていた。
だが、その膨らみにさらに重苦しく絡んだ糸のようにまとわりついているのは、不可解な2つの存在だった。
――私の拉致を少年たちに依頼した『依頼者』の正体はいまだに分からないまま……『依頼者』の本当に目的はやはり「私を少年たちに犯させることにあり、周囲からの好奇の目を向けさせること」だったはず。事実、私が襲われたあの日以来、『依頼者』が何かを私にけしかけてくることはないんだもの……『依頼者』は私が今も苦しんでいることを喜んでいる気がする。でも、私には何もできない。いや、人を使って拉致や輪姦をけしかけるような人は怖い。そして、もう一つの怖い存在はA子よ。事件概要をネットで呼んだだけだけど、矢追くんに対する異常な執着が分かる。あれは「愛」なんかじゃ決してないと思う。矢追くんの家族を殺した加害者である彼女は、普通に考えてきっともう生きてはいない。でも、私が二度にわたり見たのはただの夢だったの? それとも……
玄関先で、佐保は優美香とともに谷辺を見送った。
「ごめんね。先生にまで家に来てもらうことになるなんて……」
佐保は俯いたまま、優美香に向かって呟くように言った。
「いいのよ。ママは佐保がここにいるだけでいいの」
佐保にかけられたのは、いつもとなんら変わらぬ優美香の優しい声だった。佐保自身、優美香に勉強しろとうるさく言われたことがなく、単に外で遊ぶことが苦手だっただけかもしれないが自然に机に向かうことの多い子供だった。
祖父の誠人は国立大学を、祖母の美也は名門女子大学をそれぞれ優秀な成績で卒業していた。娘の優美香が高校中退し、最終学歴が中卒となったため、優美香に対する期待はそのまま佐保に移っていた。祖父母とは対照的に、母の優美香はのんびりとし、学校の成績よりも毎日明るく楽しく過ごすことに重きを置いていた。
けれども、いい成績をとって帰ると「佐保の頭はママじゃなくて、おじいちゃんとおばあちゃんに似たのね」と優美香はうれしそうに言っていた。
私はもう、ママも、おじいさんもおばあさんも喜ばせることはできないのかもしれない、という思いがザアッと佐保の中をかすめていった。
「あら、谷辺先生、どうかされたのかしら?」
カップとソーサーを洗っていた優美香が、キッチンの窓より外の様子を見て驚いたような声をあげた。
佐保は駆け寄り、優美香の隣から外の様子をうかがう。谷辺と隣人の宵川斗紀夫が、佐保の家のブロック塀の前で何やら話をしている。彼女たちの顔は険しいものであった。何やら揉めているようであるのは、一目瞭然である。
「もしかして、谷辺先生が車を停めていたから、宵川先生に注意されているのかしら?」
優美香が心配そうに呟いた。
だが、佐保には違うように思えた。何か揉めているということは明らかだが、谷辺が何かを言い、それに対して斗紀夫が露骨にうんざりした顔をしている。
佐保は優美香とともに玄関へと向かう。家の外に出た佐保たちが見たのは、先ほどと同じく懇願するかのように斗紀夫に何かを訴えかけている谷辺と、眉間に皺をよせて谷辺から顔をそむけている斗紀夫だった。佐保はあんな顔をしている谷辺と斗紀夫を見るのは初めてであった。
「あの……先生方、どうかされました?」
優美香がおずおずと声をかけると、斗紀夫の顔は瞬時に、いつものにこやかな顔に切り替わった。
「いいえ、優美香さん。僕、今月の22日に佐保ちゃんの高校に講演に行くんで、そのことで谷辺先生と話をしていたんですよ」
「そうなんです。ここで偶然、宵川先生にお会いしたので、ご挨拶をと思いまして……」
そう言った谷辺の頬は引き攣り、少し紅潮していた。
――今のは何だったんだろう? 先生たちは確かに揉めていたように見えたのに……
谷辺と斗紀夫の2人で示し合わせたような取り繕いに佐保は不安を抱いた。
赤みがさした頬のままの谷辺は、「それでは失礼いたします」と優美香に頭を下げて、車の運転席へと体を滑らせた。
段々と小さくなっていく谷辺の車を見ていた佐保は、斗紀夫に声をかけられる。
「久しぶりだね。佐保ちゃん」
「……あ、はい……」
佐保は斗紀夫の顔をまっすぐに見ることができずに俯いてしまった。足元からガクガクと震え始めているのも分かる。
――宵川先生はあの日の私を知っているんだ!
そう思うと、佐保は小さな子供のように優美香の後ろに隠れてしまわずにはいられなかった。
そんな佐保の様子を見た優美香が困った顔で、「ごめんなさい、先生」と斗紀夫に向かって言った。
「いいんですよ」
斗紀夫は優しい口調であったが、そのなかに寂しさが少し混じっていることが佐保にも分かり、胸がズキンと痛んだ。斗紀夫が場の空気を切り替えるかのように、明るい声で優美香に問う。
「優美香さん、僕、差し入れで有名店のシュークリームをいただいたんですけど、佐保ちゃんとご一緒にいかがですか? 僕は甘いものは少し苦手で。確か女性は甘いもの好きな人が多いんですよね?」
確かに斗紀夫の言う通り、佐保も優美香も甘いものが好きだった。
「すぐに家の冷蔵庫から取ってきますから、ここで待っていてくださいね」と、斗紀夫は家の中に戻っていった。
斗紀夫の家の玄関のドアがパタンとしまる音を聞いた佐保は優美香の後ろに隠れたまま「ママ、ごめんね」と呟いた。
――宵川先生は私を助けてくれた人なのに……挨拶すらきちんとできないなんて……
振り返った優美香は、何も言わずに佐保の両肩に優しく手を置いた。
シュークリームの箱を片手に玄関のドアをあけた斗紀夫は、外で自分を待っている佐保と優美香を見て思う。
――佐保ちゃん、前に比べて顔色は少し悪いけど、無事に学校に行ってるみたいだ。やっぱり家族が佐保ちゃんにとって一番の支えなんだ……
微笑むような場面ではないが、斗紀夫はつい微笑んでしまっていた。
だが、佐保たちのところに足を進める斗紀夫は、自分の視界に入った不審なものに気づく。
優美香が顔を向け、佐保が背を向けている方向。そこにはスモークが貼られた黒い普通乗用車――緩やかな速度で走るその車の運転席の窓からは、黒い手袋をした手が突き出ていた。そして、その手には何か白いものが握られている。
あれは……と斗紀夫が目をこらした瞬間、その車は急速に速度を上げたのだ!
「危ない!」
斗紀夫が叫んだ。その斗紀夫の声に優美香が自分たちに向かってくる車の存在にハッと気づいた。
だが、もう車は彼女たちからわずか数メートルのところまで迫りきっていた。運転席から伸びている細い腕は、その白い何かをまるで佐保の背中に向かって叩きつけるように――
「佐保!!」
優美香が即座に佐保を抱き寄せ覆いかぶさったと同時に、その白い何かは彼女たちに向かって盛大にぶちまけられた。佐保と優美香はなぎたおされるように、勢いよく家のブロック塀へと激突した。
車の運転席から、黒い手袋をした腕が引っ込んだ。そして、白い煙をブォンと吐き出したその車は、さらに速度を上げて走り去っていった。
佐保の悲痛な叫び声に、急いで駆け付けた斗紀夫が見たのは、頭から血を流し意識を失っている我妻優美香だった。彼女の衣服には水っぽい白濁した液体が飛び散っている。そして、彼女たちの近くにはその液体が残留した紙コップが1個転がっていた。
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