第5章
第1話
夜の11時。
優美香は佐保の部屋のドアを軽くノックした。だが、返事はない。
「佐保? 入るわよ」
小声で囁いた優美香は音を立てないようにそうっと部屋のドアを開ける。
部屋は明るいままであった。佐保はパジャマ姿でベッドに横たわっていた。
優美香は、足音を立てないように佐保の枕元へと行く。そして、優美香は静かに寝息を立てている愛娘の頭を優しく撫でた。
痩せてしまった娘。笑顔が少なくなった娘。
あの夜のことを思い出すと、優美香は今でも息苦しくなってくる。もうこの世にはいない犯人たちに対しての憎しみが、ジリジリと身を焦がすかのごとく蘇り続けてくる。それ以上に娘を助けられなかったという苦しみが優美香に重くのしかかってもきていた。
――佐保が恐怖の最中にあったあの日、私たちは学校の周りや駅など、沼工場から遠く離れた場所ばかりを探していた。あの日に時間を巻き戻すことができるのなら、まっすぐに沼工場に行って、例え犯人たちを殺してだって、佐保を――私の子供を絶対に助けるわ……
愛娘を襲った犯人。それはいわゆる不良少年たちだった。
当たり前のことではあるが、優美香が制服に身を包んでいた時代にも、そういったカテゴリーに属する少年たちは存在していた。当時も優美香は自分が他人にどう見られているかなど、あまり気にしない少女であったため、近隣の学校にまで自分が「可愛い」と噂が流れていたことになかなか気づかなかった。優美香の帰り道に、数人の少年がバイクで待ち伏せていることが何回も続いたことで、やっと自分が「狙われている」という身の危険を感じたのだ。
優美香のクラスメイトの中にはいわゆる「ワルい男」が好きだったり、いろんな意味で一目置かれている彼らと付き合うことで自分のステータスを上げたいなんていった思惑で、自ら彼らに近づいていく少女もいた。だが、優美香は彼らのような少年には憧れよりも恐怖を感じる少女であったため、徹底して(時には父親が追い払ってくれてもいた)彼らを避け続けていた。
いつも複数で群れて行動している不良少年たち、といった図が優美香の中で再生される。あの日、佐保に唯一危害を加えなかった1人の少年・櫓木正巳は、おそらくその図のなかでパシリのような位置にいた少年だったのだろうとも思う。優美香にとって櫓木正巳は、憎い犯人の1人でもあり、それと同時に複雑な思いを抱かせる少年でもあった。
――暴行が終わった後であったとはいえ、彼が佐保を逃がしてくれなかったとしたら……
優美香の背筋が震える。
――死んだあの2人の少年が仲間を呼んでいたかもしれない。それか沼工場からどこか別の場所に連れていかれ、長時間監禁されていたかもしれない。その監禁の延長で、歯止めがきかなくなった少年たちが佐保を死にいたらしめるような結果になっていたかもしれない。そもそも、あの場にいたのが櫓木正巳ではなくて、別の少年であったとしたら……女の子を乱暴することを何とも思わない2人の少年と同じ種類の少年であったとしたら……
様々な「もしも」が優美香の震え続ける全身から、あふれ出していた。佐保が今自分の側に確かにいるということを確認するかのように、優美香はもう一度佐保の頭を撫でた。佐保は自分の頭を撫でる手に気が付いたのか、わずかに口元を動かした。優美香はそのまま佐保を抱きしめたかったが、立ち上がり、窓に向かった。
鍵がきちんとかかっていることを確認し、カーテンを閉め直した。窓の外に吹いている風は、秋の始まりの風の音を立てていた。部屋にかかっている佐保の制服も、つい先日冬服に変わったばかりであった。
佐保は2学期の初日に登校して以来、1日も学校を休んではいなかった。無論、登下校はずっと優美香が車で送り迎えをしている。数日前まで、佐保は優美香のベッドで一緒に寝ていたが、1人で眠れるようになりたいと現在は自分の部屋に戻って眠るようになっていた。けれども、佐保は電気を消して眠ることができなくなっていた。
「目を覚ました時、明るいとホッとするの。眠る前にいつも思うんだ。もし、目を開けた時、時間が巻き戻されて、私はあの沼工場にまだいるままじゃないかって。あの2人はもう死んだのに。死んだ人間に襲われたりなんかしないのに」
数日前、同じベッドで眠る佐保から聞いた言葉に、優美香の胸がまたしても痛みだす。
結局、警察には行っていない。性犯罪のカウンセリングもすすめ、佐保も自分で少し調べていたみたいではあったが、その扉を叩くことはなかった。
――被害者が訴え出ることのない性犯罪はきっと他にもあるのだろう。それに今の世の中にはたくさんの救済の手が差し伸べられている。でも、その手を自ら取るとはそう簡単なことではないのかもしれない。私が佐保の苦しみを分かろうとしても、そのすべてを分かってやることができないのかもしれない。それなら、私たち家族が佐保を守り、支えていくしかない。でも、私もお父さんもお母さんも、この世に生を受けた順番からいくと、佐保より先に死んでしまうのは確実だ。佐保がたった1人でこの家に残されたとしたら……
優美香は佐保の寝顔を見ながら願った。
――いつか、佐保の家族となってくれる男性と巡り会えますように。あの少年たちのような男でもなく、私を捨てた男(佐保にとっては父となるが)のような男でもなく……互いに信頼しあえ、佐保のことを大切にしてくれる男性と……
悲しく微笑みを浮かべた優美香は、明るいままの佐保の部屋を後にした。
5時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り、英語の辞書を廊下のロッカーにしまおうと立ち上がった佐保であったが、数人の男子生徒が連れだって廊下に向かっているのを見て、椅子にストンと腰を下ろしてしまった。
――怖い。
さすがに悲鳴をあげて逃げ出したりはしないものの、男性(主に少年)に近くに来られるとどうしても体が硬直してしまう。
あの日から、もうすぐ3か月になる。でも、何年も経ってしまったかのようだった。以前の自分があの沼工場に打ち捨てられたままであるような感覚を佐保は覚えていた。
そして、佐保は櫓木正巳の容態も気がかりではあった。
あの夏休みの日以来、彼の姉の櫓木麗子が佐保の家を尋ねてくることはなかった。櫓木正巳が今、どんな状態にあるのか、佐保も佐保の家族も知らなかった。それに、奇跡的に目覚めた正巳が麗子に連れられ自分に向かって頭を下げたとしたら許せるか、と誰かに問われたとしたら、佐保はきっと首を横に振るに違いなかった。
廊下へと出た佐保はもう1つ思うことがあった。
登校を再開し始めた当初に自分に突き刺さってきた多くの視線を感じることが日に日に少なくなっているということ。
――私はもともと目立たないし、それに私が思っているほど人は私のことなんか気にしちゃいない。もしかしたら、噂が広まってしまっているかもしれないというのは、私の考えすぎだったのかも。それとも、何か他に噂の火種があって、みんなそっちに目がいっているのかな? そういえば、確かこの学校にも裏サイトがあるって噂、聞いたことあったけど……
考えながらロッカーに向かっていた佐保は、突如、廊下に響いた「お前、どこ見てんだ!」という怒声に飛びあがり、手のにあった英語の辞書を床に落としそうになった。
シーンと水を打ったように静まりかえった廊下の中心にいるのは、隣のクラスの宇久井だった。
制服のブレザーを着崩し、下にわざと見えるように派手なシャツを身に着けている宇久井の周りには、いつものように取り巻きたちがいた。
その彼らの前でビックリして体を硬直させているのは、佐保と同じクラスの千野剛健である。「剛健」という名にあわず、色白で背が低く小太りの体型の男子生徒であった。彼もどうやら佐保と同じく運動が大の苦手らしく、体育の持久走の時など赤い顔でフーフー言いながら、走っているのが佐保の記憶にもあった。
宇久井の手には缶ジュースが握られており、彼の手にはその中身が盛大にかかっていた。
「お前がぶつかったせいで、こぼれちまったじゃねえか! デブが! お前、目まで脂肪なんじゃねえのか?」
宇久井は自分の瞼をおどけたようにポンポンと叩いた。
取り巻きからワハハと笑い声があがった。周りから注目を浴びている千野は白い耳まで真っ赤にして、小刻みに震えているのが佐保にも分かった。
千野は俯いたまま、絞り出すような声で「……ご、ごめん」と呟く。
佐保の後ろにいた2人の男子生徒が「あいつ、またやってるぞ」「ほっとけよ、ストレス解消だろ」と小声で言い、平然と教室の中に戻って行った。
「どうしてくれんだ?」
宇久井が千野にズイッと迫る。千野はビクリとして、後ずさった。
「そのくらいにしておけよ。謝ってるじゃないか」
貴俊であった。貴俊が宇久井たちにスッと歩み出た。ちょうど貴俊の後ろにいた荒武が彼を止めようと手を伸ばしていた。
その貴俊に宇久井は驚いた表情を見せたが、すぐにそれは消えた。そして、次に宇久井はいやらしい笑いを口元に浮かべた。
「おい、誰かと思ったら、長倉くんじゃないか」
貴俊の顔色が一瞬でサアッと青くなった。
「え、どういうこと?」「あいつ、矢追って名前じゃないの」というヒソヒソ声が周りからあがった。宇久井は廊下にいて自分たちを見ているギャラリーたちを見回し、得意げに声を張り上げたのだ。
「お前、X市の高校でもモテたんだってなあ。お前が原因で、殺人事件まで起こす女がいたんだもんなあ」
廊下はさらにシーンと静まりかえった。
だが、静まった一瞬の後、あちこちでザワザワと声があがりはじめる。
「なんなんだよ、殺人って」「もしかして、あの事件じゃない、ほら、お母さんとちっちゃい子たちが……」「あの噂、マジだったんだ」「やだ、怖い……」とざわつき出した。
そして、皆、貴俊と宇久井を見ていた。
貴俊は青ざめた顔のまま、宇久井をまっすぐに睨み付けている。
その彼の表情に少しひるんだように見えた宇久井であったが、口元に笑みを浮かべ直し、続けた。
「ばれてんだよ。いつまでも、普通の転入生のふりしてんじゃねえよ」
「宇久井!!」
荒武だった。宇久井を諌め、貴俊の前に庇い出た荒武は、後ろ手で貴俊の拳を押さえていた。
宇久井は、荒武から視線を逸らす。
「いや、あのさ、俺だって、そいつが首突っ込んでこなかったら、バラすつもりなんてなかったんだよ。関係ねえのに、首突っ込んでこられたら、腹立つだろ」
しどろもどろとなった宇久井に、彼らの近くにいた日香里が呆れ顔で言った。
「もうやめなよ。大体、今、千野くんにぶつかったのだって、あんたが前を見ずに歩いていたからでしょ」
日香里の言葉に顔を赤くした宇久井は「お前は黙ってろよ!」とそっぽを向き、取り巻きとともに教室に入って行った。
「あいつ、男の荒武には何も言わないんだな」とギャラリーの中の男子生徒が呟くのが佐保にも聞こえた。
宇久井たちは教室へと戻っていったが、廊下には重い息苦しさが広がったままであった。
「あの、ありがと……」
千野がおずおずと貴俊に礼を言った。だが、貴俊は荒い息を押さえるように、下を向き、拳を震わせ続けていた。彼自身もその震えを止めることができかったのだ。荒武がその貴俊の両肩に手を置き、「落ち着け」と諌める声が、廊下に呆然と立ち尽くす佐保のところまで聞こえてきた。
(中牧東高等学校 非公式匿名掲示板より抜粋)
20×6年10月4日(火)
〉今日、とうとうUの奴がやっちまったな。まさか、こんな展開になるとは……
〉えっ? 何かあったんですか? 何をやっちまったんですか?
〉勉強だけはできるジャイアンことUが、5時間目後の休み時間に皆が見ている
前で、YがあのX市の一家殺害事件の被害者だってことをばらしちまった。
やっぱり、Y追T俊=N倉T俊 で確定だった。
〉今日、そんなことがあったんだ。俺も見たかったな。
もっと詳しくプリーズwktk
〉事件の概要は以下の通りwww
Uと白子豚がぶつかる
→ Uが白子豚にいちゃもん
→ Y(いやN倉と書くべきか?)が止めに入る
→ 止めにはいったYにムカついたUが事件のことをばらす
→ 脳筋バレーが止めに入る
→ さらに近くにいた女に痛いところ突かれたUがすごすごと退却
〉白子豚に脳筋バレーって、あだ名の付け方に悪意ありすぎ。
まあ、言われてみたら頷けるあだ名ではあるけどwww
でも、確かUって、最後に止めに入ったF谷さんのこと好きだったって噂、
前に聞いたことあるよ。だから余計に痛かったんじゃない?
Uって、1年の時とかF谷さんにしつこくちょっかいかけてたし、
好きな子をいじめて気を引くタイプなんだろうね。
〉自分からわざわざ嫌われるようなことをするとか、
高校生にもなってバカじゃねえの? >U
〉あのバレー部の人が止めに入らなきゃ、今頃絶対に暴力沙汰の大騒ぎになってた
ような気がするよ。あのバレー部の人って、男気のあるいい人だね。
〉でも、俺は1発殴らせてやった方が良かったと思うけどな。
あんなこと言われたままだったら、余計苦しいだろ。
〉ネットで事件の概要とか読んできたんだけど、被害者が本当に気の毒すぎる。
Yくんの2人の弟さんなんか、一体何のために生まれてきたんだろうな……
〉もしかして、殺されたYくんのお母さん(40)って、後妻?
弟たちとやけに年齢離れてないか?
〉お母さんは実の母かと。
写真で見る限り、美魔女とかじゃなくて、上品そうな普通のおばさんって
感じだけど、口元とかYくんにやっぱり似てるし。
というよりA子って怖すぎ。思い込み激しすぎ、粘着質過ぎ。
挙句の果てに家族を殺害とか、最凶のストーカー女じゃん。
〉でも、A子にも相当何か積もり積もったものがあったんじゃない?
それなりの理由がなきゃ、殺人にまで発展することなんてことあり得ないと
思うし、やましいことがなきゃ被害者が逃げたりなんてすることもないかと。
〉地元で有名な美形少年がさえない女の子を弄んで性欲処理に使っていたとか?
〉ネットのログに残っているA子の日記には、妊娠してるって記述があるよね。
A子の死体が発見されないままだから、妊娠が嘘か本当かはっきりしないんだ。
〉あのさあ、お前らって一体どういう思考回路してたら、あんなイカれたA子の
日記を信じることできるんだよ?
日記の時系列とかも狂ってるし、いろいろと突っ込みどころ満載すぎるだろ。
〉私もA子はサイコだと思う。
A子に出会ってしまったこと自体がYくんにとって不運だったというか。
日記も単なる妄想ダイアリーでしょ。
〉そもそも、Yくんってなんか童貞な気しない?
転入当時とかもみんなYくんに騒いでいたけど、正統派過ぎて私はあんまり
雄を感じなかったな。私にとっては、観賞用の男子ってとこかも。
〉何だよ、雄とか、観賞用とか…キモいぞ、お前↑
そもそも、お前なんてYくんの眼中にもないと思うぞ( ´,_ゝ`)プッ
〉高校生で童貞って普通じゃないか。俺なんか女の手も握ったことないし(泣)
俺がこの世で一番親しい異性は母ちゃんというこの現実orz
〉普通かどうかは周りの環境だろ。ヤンキーとかは経験するの早そうだよな。
しかし、こういった事件って、加害者が男で被害者が女ってイメージあったん
だけど、あの事件に関しては逆なんだな。
〉性がからむ事件だから、余計いろんな憶測が飛び交ってしまって、
YくんはX市にいられなくなったんだと思う。
〉加害者のA子って、事件の前にも同級生女子(この女子は超美人との噂)の顔面
殴って怪我させたり、他の女子の家に押しかけて卒業文集を奪ったって情報もあ
る。
卒業文集を奪われた女子は学校に居づらくなって転校したらしい。この子らも殺
されてはいないけど、人生狂わされた被害者には違いない。
〉あの事件の原因となった男子生徒って、どんだけイケメンなんだよって思ってた
けど、Yくんだったら納得だわ。
美しいが故にって女だけにあてはまるわけじゃないんだな。
殺された母親も息子を美しすぎるほどに産んでしまったのが、運のつき。
〉A子のネット上の日記、読み終わったんだけど狂気を感じる。
というか、狂気しか感じない。
エロ小説みたいになっているところもあるし。キモすぎてヌけないけどwww
「Nくんの肩に触れたドヤ顔の淫乱女に天罰」とか「性欲があるのは、男だけじ
ゃないの、女にもあるのよ」とか「夢の中でプレゼントをもらったの。私たちは
選ばれた特別な人間なの」って……
〉A子は写真で見る限り、顔のつくり自体は美人でもブスでもないけど、表情
(特に目)が完全にイっちゃってるよね。
文学系の賞で表彰される常連だったり、Yくんと同じく県下一の進学校に合格
する学力があるぐらいだから、頭だって相当いいはずなのに。
〉小さいころからたくさんの習い事もしてたらしいよ >A子
一人っ子らしいし、Yくんに狂ってしまうまでは両親にとって自慢の娘だった
のかも。A子の両親の写真や元勤務先は、今もネットに残ってるね。
まあ、教育が悪かったのかもしれんが、親までさらされるとは……
〉まあ、加害者側ならまだしも、被害者のYくんの写真までネットに流されている
ことの方がどうかと思うぞ。
でも、芸能人の元友人とか同級生とかでも、週刊誌にベラベラ喋ったり、平気で
写真売る奴とかいるもんな。
〉いや、私も写真売っちゃうwww
だって、私のことじゃないし。他人のことだし。
やたらリーダーぶるキツネ顔(いつも自分が正しいなんて思うなよ、ウザいんだ
よ)、グロステカテカの勘違いぶりっ子(声も胸も作ってるんじゃね? あとパ
ンチラし過ぎ)、話すとき目をかっぴらく移動式人間スピーカー(公害レベル、
時々口にありったけの消しゴムを突っ込みたくなる)、根暗でドンくさい悲劇の
ヒロイン気取り(ウジウジしてりゃ誰が手を差し伸べて助けてくれるって思って
る甘ったれ、でも襲われた時には王子様なんて来なかったねw)とかの写真なら
絶対に売っちゃうwww
〉なんでそんなボロクソに言える奴らと友達なんだよ?
もしかして1人になるのが怖いのか? だから、一緒にいるんだろ。
〉私があんなつまんない奴らと一緒にいてやってるだけだっつうの。
それよか、Yが明日学校にくるかどうか、ここにいる奴らで賭けしない?
〉Yくんが加害者なら同じ学校にいるの怖いけど、被害者だしもうやめようよ。
今日の廊下での騒ぎの件だって、最初は見て見ぬふりをしている傍観者がほとん
どだったのにかばおうとしてたんだし。Yくんの性格が悪いようには思えない。
〉偽善者は黙ってろ。せっかく身近で大事件の関係者を見れたって言うのに。
〉みんなごめん、俺ここで起こっていることにもうこれ以上耐えられそうにない。
〉↑こいつ、何言ってんの? 誰か通訳してwww
佐保もX市で起こった一家殺害事件については覚えていた。
TVのニュースで殺された母親と2人の小さな男の子の写真を見たことが記憶に残っている。
――自分と同じ年の女子生徒が、恋心をいただいていた同級生の男子生徒の家族3人を殺害した。殺害後、女子生徒は少年や大勢の人が見ている前で川に身を投げた。
佐保が思い出せるのは、ここまであった。
事件についての詳細やその後どうなったのかなんて知らなかったし、調べることもなかった。時間の流れとともにいつの間にか、薄れていった事件の1つであった。
佐保は、自室のノートパソコンの画面に表示されている『X市同級生一家殺害事件』の文字をクリックした。
そのサイトに入った佐保の目に飛び込んできたのは、加害者であるA子の写真だった。
A子の写真には目線は入っていなかった。どうやら中学校の卒業アルバムであるらしい。白黒であるということを差し引いても、髪の毛はごわごわとしていた。彼女のギュっと結ばれた唇の周りには皺がより、吹き出物がいくつかできていた。
事件が起こった20×5年4月24日。
学校で同級生女子に怪我を負わせるという問題を起こしたA子は停学中であった。A子の両親はその日2人とも仕事であり、1人で自宅謹慎をしていたA子は、男子生徒が帰宅する直前に、自宅の家庭用包丁を手に男子生徒の自宅へと向かった。そして、在宅中だった男子生徒の母親と2人の幼い弟を殺害した。
帰宅した男子生徒と彼の父親が変わり果てた、家族3人の遺体を発見する。
殺害後も家に潜んでいたA子は、男子生徒と父親の隙をついて逃げ出し、追いかけた男子生徒の目の前で川に身を投げた。
――A子はいまだ発見されていない。生存の可能性は極めて低いと思われる。
最後に記載されていたこの一文を読んだ時、佐保の心臓は嫌な音を立て始めた。
――春の終わりぐらいの頃、学校で転びそうになった私を矢追くんが助けてくれた。その日の夜に、私の部屋に現れたのは? それに、いつかの夏の日の夢のなか、私の足首をつかんだのは? 黒い髪の毛がまばらに残り、それが白に青と緑が混じったような色のふやけた頭皮にベッタリとへばりついていた水死体のような……そして顔をあげて……
「長倉くんに近づくな、この淫乱女」
あの夢の中で聞いたゾっとする声が佐保の耳に蘇ってきた。
――矢追くんの本当の名字は「長倉」だった。まさか、私が見たのは、この事件の加害者であったA子ってことなの? でも、A子はもう死んでいるはず……
佐保は思わず、自身の両腕を抱きしめた。急激に部屋の温度が下がっていっているかのようだった。
――でも、私が見たのはやっぱりA子の幽霊なの? A子は死んでもまだ矢追くんにつきまとっているの?
佐保はゴクリと唾を飲み込み、もう一度A子の写真を見る。A子の顔をじっと見ていると、パソコンの画面の中からA子がゆらりと出てきそうな気がして、佐保は慌ててページを下にスクロールした。
その途中には何枚かの写真があった。
「事件の現場となった長倉滋さん(41)宅」といった貴俊の家の外観を映したものと、そして――
「殺害された長倉芳美さん(40)、光洋ちゃん(5)、和則ちゃん(2)」と、殺された貴俊の母親と2人の弟が花壇を背景に撮った写真があった。
ロボットのキャラクターがプリントされたトレーナーを着た元気そうな男の子がバンザイをするようなポーズで満面の笑みを見せていた。そして、その傍らでは腕の中にプクプクとした赤ちゃんを抱いた、ほっそりとした母親が優しく微笑んでいた。
佐保は生前の彼女たちに会ったことは一度もない。でも、その写真は彼女たちが確かにこの世に生を受け、佐保と同じ時代を生きていたということの証にも思え、佐保の胸も痛んだ。
そのうえ、ページの一番下には貴俊の写真までもがあった。
写真の中の貴俊には目線も入っているし、全体的に少しぼかしてあるのも分かる。でも、実際の貴俊を知っている者が見れば、すぐに貴俊だって分かる写真であった。
貴俊は学ラン姿で数人の少年と肩を並べ、綺麗に並んだ歯を見せて笑っていた。
――矢追くんはこんな風に笑っていたんだ。笑うことができていたんだ。彼は身勝手なストーカーに大切な家族を殺され、癒えることのない悲しみや苦しみを抱えたうえに、きっと周囲の無関係な人間にまでも傷つけられ、ここまで逃げてくるしかなかったんだ。でも、今日のことみたいに、逃げてきた先でも……
佐保は、なぜ貴俊が女子生徒をあんなに避けていたのか、の答えに行き着いた気がした。
――もしかして矢追くんはA子に怯えていたのかもしれない……女の子が自分と関わることで、女の子の方がA子に危害を加えられると思って……
貴俊のその心情を察し、苦しくなった佐保はノートパソコンの電源を落とした。プツンという小さな音の後、真っ黒となったディスプレイには佐保の顔がぼんやりと映されているだけであった。
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