第2話

――あいつらが死んだ。

 櫓木正巳の姉・麗子が帰った後、佐保は自室のベッドに横たわり、じっと宙を見つめていた。

 心配する母の優美香を見て、佐保は心が痛んだが、「しばらく一人でいさせて」と部屋のドアを閉じた。

 佐保の心の中は妙に落ち着いていた。

 ただ、なんと形容すればいいのだろうか。彼女の心の傷口はパックリと開いたままであった。そこからは滲んでいた血は、今は止まっている。でも、カラカラに乾いた風がそこに吹きつけ、痛みを思い起こさせているような――

 そして奇妙なことに、佐保はもう一人の自分がいて、その傷口を撫でているかのような感覚を覚えていた。

――逢坂夏樹と桐田照彦が死んだ。

 まるで幾枚ものベールのように佐保をじっとりと包んでいた恐怖であり、羞恥であり、絶望であったものが、たった1枚だけ吹き付ける風に飛ばされていったような気がする。

 佐保は自分を襲った奴らがどこの誰かも知らなかった。今日、初めて櫓木麗子より名前を知った。彼らの死が佐保の心にもたらしたものは「安堵」だった。

 彼女自身、人が死んだことで安堵する感情が湧き上がってきたことに驚いてもいた。命は尊いものだということは、理解しているはずなのに。だが、彼女はどこか冷静にそんな「安堵」している自分を受け入れてしまっていた。


――でも、あの2人が死んでも、私の傷は一生消えやしない。加害者が死んだからって終わることじゃない。櫓木正巳についても、あの2人に比べたらマシなだけだ。あいつらと一緒にいた仲間であることには変わりない。それに彼のお姉さんも私に向かって土下座をした後も、自分の弟をかばおうとしていたのが分かった。家族を守りたいという気持ちは分かるけれど……

 佐保はゆっくりと目を閉じた。櫓木麗子から聞かされた話を頭の中で整理するために。

 

 8月8日。

 櫓木正巳は沼工場に組まれていた梯より転落した際、頭を打ち、救急搬送され、意識不明の状態が今も続いている。彼が”わざわざ”不安定な梯に登った理由は不明である。

 自らの意志で登ったのか、脅されて登ったのか、それとも何かから逃げようとして登ったのか?

 同日、逢坂夏樹は沼工場の前の道路に横たわっており、起き上がったところを進行車線と対向車線の車に連続で轢かれて死亡した。即死であった。櫓木麗子の話では、沼工場の中には逢坂夏樹の指紋だけがついたナイフが落ちていたらしい。

 また、あの日、櫓木正巳と逢坂夏樹が一緒に歩いていたとの目撃情報があったらしく、彼らが一緒に沼工場に向かっていたのは間違いがないと。

 櫓木正巳は逢坂夏樹の死の原因を知っているかもしれない。そして、逢坂夏樹は櫓木正巳の重体の原因を知っていたかもしれない。

 自殺と見られる逢坂夏樹の死の状況については、麗子は異を唱えていた。「逢坂くんは自殺なんてするタイプじゃない。真っ先に相手を叩きのめすことを考えるはずよ」とも。

 今日、佐保より「依頼者」の存在を知った麗子は「もしかしたら、正巳たちはその「依頼者」に、沼工場に呼び出された可能性がある」と口にしていた。8月8日の時点で、桐田照彦は病院に入院していたため、佐保の拉致にかかわった少年のなかで自由に動けたのは、正巳と夏樹だけであった。

 だが、その「依頼者」は男か女か、それとも単数か複数であるかは分からない。


 佐保は目をゆっくりとあけた。真夏とはいえ、外は薄暗くなりはじめていた。カーテンから差し込む、太陽が残そうとしているわずかな陽の光の中で、佐保が自分が歩んできた今までの人生を思い返そそうとした。

 正直「依頼者」に心当たりなんてあるはずがなかった。交友関係だって、同じ高校に通う女生徒が大半で、物凄く狭いはずだった。

――私が苦手だと思う人もいれば、きっと私のことを苦手だと思っている人もいるということは分かっているわ。出会った人全てに好感を抱く、もしくは抱かれるなんてことは、不可能なことよ。けれど、あんな完全に犯罪の領域である「拉致」まで人に依頼するなんて……

 佐保は自分の両腕をギュっと抱きしめた。

――まさか、私は自分が忘れているだけで、誰かに深い恨みの傷跡を残してしまっていたとでもいうの?「依頼者」が私のことを知っているということは間違いない。隠し撮りまでして、拉致を企てているから、それ相応の理由があるはずよ。それに「依頼者」はあの日、なぜ現れなかったのだろう? 現れることのできない、事情があった? それとも最初から現れないつもりだった? もし「依頼者」が最初から現れないつもりであったとしたら……

 佐保は自身が発した、短い悲鳴で目が覚めた。

 どうやら、考えながら眠っていたようであった。背中にびっしりと汗をかいていた。カーテンの隙間から部屋に差し込んでいる月の光はまるで夢のものであるかのように切なく霞んでいた。


 2学期が始まる前日。

 リビングのソファーに座る佐保の真向いには誠人と美也が座っていた。

「……2学期から学校に行くということか」

 誠人の言葉に佐保は頷いた。

 祖父母にも先日、櫓木正巳の姉・麗子がこの家に来たことを伝えた。

 佐保は長年暮らした家族であるとはいえ、異性である誠人に自分があった性被害について、話をするのは躊躇していたが、避けて通ることなどできなかった。

 佐保の隣にいる優美香が膝の上の佐保の手をギュっと握ってくれていた。

「加害者の名前だって分かった。死んでようが、入院してようが構わん。奴らの罪は消えない。世間なんて、気にしなくていい。好き勝手言うやつらだ。私たちが守ってやる」

 誠人の強い口調に、美也も同調し頷く。

「宵川先生だって、知り合いの弁護士の先生を紹介してくれるって言ってたわ。このままでいいとは思わないわ」

 佐保は顔を上げて、祖父母の瞳を真っ直ぐに見た。

「……私は今もあいつらを憎んでいるし、怖いし悔しい。記憶から消そうとしても消すことなど一生できやしない……理由は一言では説明できません……私を逃がしてくれた少年のお姉さんの憔悴した姿を見て、気の毒に思ったのも事実です」

 佐保は思う。

 あの「依頼者」の本当の狙いは、「私を少年たちに犯させることにあり、周囲からの好奇の目を向けさせることであった」という推理が自分の中で固まりつつあった。

 母の優美香にも祖父母にも「依頼者」の存在は話していなかった。

 佐保には悔しいことであったが、訴えるということは、その「依頼者」の思惑にはまってしまうことになると思った。それに訴えたとしても、拉致の実行役である加害者の少年2人は死亡し、唯一の生き残りである櫓木正巳はずっと意識が戻らないままだ。櫓木麗子の疲れ果てたあの表情、訴え出ることで彼女が心身の限界を迎えてしまうかもしれないと佐保は考えていた。

――でも、本当にそれだけが理由?

 佐保の中でもう一人の自分が囁く。

 本当は「依頼者」の存在を家族に話すことで、そんな拉致を企てられるような恨みや憎しみを買っていたということになり、必死で18年間培ってきたいい子の娘、もしくは孫娘の仮面にヒビが入ってしまうのだ。それに、佐保は訴え出るのはやっぱり怖かった。警察に根掘り葉掘り聞かれ、噂だって今以上に広まるのは確実であった。 

――私は結局、あれこれ理由をつけていても、これ以上、自分が傷つくのは怖いだけなのかも……

 あたたかくなめらかな優美香の手を握りなおした佐保の前で、誠人が声を荒げた。

「入院しているのだって、どうせ不良同士のくだらん諍いの結果だろう。奴らは自業自得だ! その家族にだって、同情の余地なんてあるものか!」

「……同情してもらおうと思っているだけですよ! 佐保の優しさに付け込んで、いやらしい! 同じ家に住んでいながら、弟が影で何をしているのか気づきもしないなんて!」

 誠人と美也の頬が怒りで紅潮しはじめていた。

 彼ら夫婦は、十数年前、同じ家に住んでいた自分の娘の優美香が妊娠していることが分かるまで、処女だと信じていたことは忘れているようであった。

 眉間に皺を寄せた誠人が、佐保の傍らの優美香に向き直った。

「それに優美香も優美香だ! お前が家にいながら、なぜ犯人の家族をみすみす家に帰すんだ! お前、馬鹿にも程があるだろ!」

「そうだわ! あなたはなんでいつもそうなのよ?!」

 ついに、彼らの怒りの矛先は優美香に向けられた。

「やめてください! 」

 佐保は優美香を庇った。

「私が今日まで話さなかったんです。あの少年の姉が死んだ2人の家族だったら、私だってすぐにママを呼びます。本当に悪いのはママでも少年の姉でもありません……このまま、一生家に閉じこもったまま、生きてはいけない。学校にしたって、このままだと卒業できません。今まで頑張ってきたことが無駄になってしまうのは嫌なんです……少しずつでも、元の生活に戻りたいんです」

 元の生活に戻りたいという佐保の願い。

 だが、完全に元通りになることなどないということは、佐保のみならず、この場にいる全員が分かっていた。

 佐保は優美香の手を握ったまま、誠人と美也に向かって頭を下げた。



(中牧東高等学校 非公式匿名掲示板より抜粋)

20×6年9月1日(木)

〉今日から2学期とか……時を止めることはできんのだな。

 でも、時間が止まったままの状態も気持ちが悪いよな。

 大学受験という人生最大の難関が手を広げて待ち構えたままって……


〉従兄の兄ちゃんが言ってたんだけどさ、大学受験はそんなにビビるほどのこと

 でもないらしいぞ。

 その時期を通り抜けたら終わりだとさ。

 むしろ、就職してからの方がきついらしい。不況、同期入社の奴との差、

 自分の社会人としての能力に苦しみ、リストラと隣り合わせ etc…


〉ずっとお小遣いもらえる子供の身分でいたいよね。

 体だけは大人でwww


〉大学卒業しても自分が本当にしたいことで生計立てていける奴なんて、

 ほんの一握りだよな。

 実は俺、ラノベ作家になりたかったりする。

 俺の書いたラノベがアニメになっている妄想を毎日しまくり。


〉こんなところに書き込むよりも、原稿用紙に向かって書けって。

 夢に向かって、書くことでしか、道は開けんだろ。


〉作家と言えば、なんか聞いたんだけど、10月に有名な作家が中牧東に

 講演に来てくれるらしい。


〉有名な作家って誰? 芥川賞作家? 直木賞作家?  


〉そんな有名人が来るわけないないwww

 今日、職員室での話を小耳にはさんだところでは、宵川斗紀夫が来るらしい。


〉誰? 知らんな。どんな本書いてんの?  


〉まずはググれ。ホラー作家だよ。読んだけど、結構キモ怖かった。

 でも、宵川斗紀夫ってうちの高校のOBでもないし、何でだろ。

 教師か生徒につてでもあったのか?  


〉それよりさ、Wが登校してきたのに、ビックリ!

 本人から2学期から学校に行くってメールあったんだけど、絶対土壇場になった

 ら、逃げると思ったのに……

 見かけによらずメンタル極太だったんだね。

 というか、W自身も楽しんだだけだったりしてwww


〉やめなよ。そういうの、セカンドレイプっていうんだよ。

 私もさっき、Wさん見たけど、学校に来れるようになって良かったじゃん。

 そもそもここで流れていた噂って事実かどうか分からないし、と言ってみる。


〉今日、廊下でのすれ違いざまにどうしてもWさんのおっぱいやお尻に目が

 いってしまった俺がいる……


〉おい、ここに性犯罪者予備軍がいるぞ。


〉キモイキモイキモイ


〉何かやらかす前に去勢したほうがいいんじゃない? サクッとさ。


〉いや、俺、今までWさんは結構可愛い子ぐらいにしか思ってなかったけど、

 なんかピー(自主規制)されたって噂聞いて、気になり始めた。

 俺、妙な性癖に目覚めちまったみたいだ。


〉↑あんた、Wの初彼氏になってあげれば?

 心身ともにどん底にいる女口説くのって、簡単かもよ?

 Wって、結構押しに弱いと思うし。

 自分に自信がない子だから、人から求められたら拒絶できないと思うよ。


〉お前、友達のふりして楽しんでねえか?

 もしかして、お前って、Rとか呼ばれているいっつもキャピキャピ喋っている

 あのうるさい女じゃね?  


〉それについては、ノーコメントwww


〉そもそも、Wさん、本当にレ●プされたのかな? 

 最初に言い出したの、誰だよ。


〉実は俺だったりする。

 あの沼工場の近くに、学習塾あるだろ。

 そこに行ってる俺の部活の2年の後輩が帰る時に、沼工場からうちの学校の制服

 を着た女が泣きながら走り出てくるのを見たってさ。

 その後、慌てて沼工場から2人の若い男が出てきたって。

 後輩は女の名前は知らなかったけど、2年では見たことのない顔だったし、雰囲

 気的に1年でもなさそうだったから、多分、3年の女だろうって言ってた。

 Wさんが長い間休んでいたから、被害者じゃないかって流れになったろ。


〉それって、もしかしたら、被害者はWさんじゃなかったかもしれないってこと?

 仮に襲われてたとしても寸でのところで逃げて最後までされてなかったのでは。

 それなのに、こんなところで推測で好き勝手書かれて気の毒すぎ。


〉ほんとだよな。

 夏休みにここに犯人じゃないかって人の名前も複数名上がっていたけど、間違い

 だったら、マジで名誉棄損だろ。


〉ここにいるもので、真実を知る者は誰もいない。

 ただ、自分に関係ないことだから、この匿名掲示板という安全地帯で書き込みを

 続けている。

 でも、自分が書き込んだことには責任が伴ってくるということを知れ。


〉↑説教うざい。帰れば?

 私、Wが犯されたことは間違いないと思う。

 夏休み前に学校に来た姿見て、思ったもん。

 「使用前」と「使用後」って、感じでさ。これは女の勘って奴。


〉「使用前」とか、下品過ぎ。

 お前本当に女かよ。そもそもなぜ、そんなにむきになるんだよ?!

  

〉私は、正直Wさんよりも、Yくんの方が気になる。

 芸能人以上かと思うほどの超絶イケメンだし、あの事件だって全国ニュースで

 報道されたほどの大事件だし。


〉気になるなら、本人に聞いてみろよ。

 「X市で起こったあの殺人事件の”男子生徒”ですか?」ってさ。


〉聞いて、正直に答える奴がいるかよ。

 しかし、あの事件の加害者であるA子って、まだ発見されていないんだよな。

 まあ、状況からして、死んでるのは確実だろうけど。


〉でも、ここで流れている噂が真実だったら気の毒すぎるよな>Yくん

 死んだ加害者は司法で裁かれることもないし、行き場のない悲しみや苦しみを

 抱えて、これから先ずっと生きていくなんてさ。



――私は昨日、学校に行くと決心をした。だから、私はここにいるんだ。私が自分で選んだことだ。

 学校に復帰した佐保であったが、想像していたとおり幾つもの視線が突き刺さってきた。それらの視線は佐保が想像していたよりも鋭く感じられ、佐保は目の周りの皮膚が震え始めたのが分かった。

 だが、グッと涙をこらえ、深く深呼吸をした。

 佐保が教室のドアを開けようとした時、大きな影とぶつかりそうになり、反射的に体を引いた。

「おっと、すまん」

 荒武だった。ただでさえ大柄な荒武であるが、佐保にはさらに荒武の体が大きく感じられ、頭の中でグワングワンと音がし始め、足元がふらつき震え出した。

 黙って突っ立ったまま、震える佐保を見た荒武が心配そうに言った。

「……おい、大丈夫か?」

 荒武の声に佐保は我に返る。

――しっかりするんだ、荒武くんがあいつらと同じ男であるというだけで怖がったら駄目だ。

 佐保は荒武に向かって頷いた。

 佐保自身、あんな目に合うまでは、荒武にわずかな好意も持っていた。けれども、今となっては荒武のみならず、男性に好意を持つなんてことは到底できそうになかった。

 自分の席に向かう佐保は、自分の隣の席で小さな参考書を開いている貴俊と目があった。

 貴俊の驚いた顔。だが、すぐに佐保と貴俊のどちらともなく、目を逸らした。

――これでいいんだ。矢追くんはたまたま、あの場に居合わせてしまっただけだ。宵川先生も彼は信用できるとおじいさんに言っていたみたい。私も無責任に噂を広めたのは、矢追くんではない気がする。それに、卒業まであと半年だ。


 登校してきた佐保の姿に真っ先に気づいた日香里が席までやってきた。

「おはよう。もう、大丈夫なの?」

「ありがとう。夏休みに翼と一緒に家に来てくれていたのに、会わなくてごめんね」

 またしても、喋るだけで頬が引き攣るのを感じたが、日香里にぎこちないながらも何とか笑みを返すことができた。机で髪を梳かしていた翼も、佐保に気づき椅子から立ち上がった。

「佐保、よかった」

 いつもより言葉少な翼であったが、本当にうれしそうな表情をしていた。

 亜由子の席に鞄は置いてあったが、彼女の姿は見えなかった。

 近くで他の女生徒と話して込んでいた梨伊奈が、佐保に気づいた。

「長いこと休んでいたね。もう平気なの?」

「うん、もう平気よ」と、日香里に返したのと同様の笑みを梨伊奈に返した。

 梨伊奈は、「あ、そうだそうだ」と言い、自分の机からクリアファイルを持ってきた。

「これ、佐保が休んでいた時のノートのコピーだよ」

「梨伊奈がこれ、してくれたの?」

「まあ白状すると、半分は日香里のきちんと整理されたノートで、後は私と翼のふわっとした感じのノートかな」

 佐保は梨伊奈が自分のために、ノートのコピーを取ってくれたことに驚いた。

 佐保から見た梨伊奈は、裏で画策するような陰湿さは感じられないけれど、噂好きでたまに人の心の痛いところをチクチクと突いてくるため、表面上は仲良くしても深い付き合いをしたい女の子ではなかった。

――確かに梨伊奈にはそういった一面があるだろう。でも、私も人になかなか心を開けないという一面がある。祖父母のことにしたってそうだ。ずっと私はママのおまけだと思っていた。でも、長年ママと一緒に私を育ててくれた祖父母に心を開いていなかったのは、私の方ではなかったのだろうか。私が勝手に私自身の存在を認められていないとそう思い込んで、周りの人を見ようとしていなかったんだ。

「やだ、泣くことないじゃない!」

 佐保の頬に流れる涙を見た梨伊奈が慌てる。

「ごめん、梨伊奈。本当にありがとう」

――泣かないって決めていたのに。やっぱり泣いてしまった……

 翼が佐保の肩を励ますように、ポンと叩いた。 

 佐保は涙で潤んだままの目で、教室の中を見わたした。

――この中に「依頼者」がいるかもしれない。

 だが、佐保はやはり「依頼者」に心当たりはなかった。

 けれども、学校には人がたくさんいるし、自分が一人だけになる可能性は極めて低いと佐保は思った。そして、学校内で襲われたり、危害を加えられるようなことはないに違いないとも。

――ここは恐怖と安心が表裏一体となった安全地帯だ。


 自宅という一番の安全地帯に帰った佐保は、自室の椅子の上で息をついた。

 学校に行くということ。あの被害にあう前までは、自分は普通にできていたことだった。

 全身に張りつめていた糸がブチブチとちぎれ、弾け飛んでしまったかのように、佐保は机に突っ伏した。そして、やはり涙が頬を伝っていく。

――怖かった。苦しかった。でも、私は学校に行くことができたんだ。

 今日の学校での出来事を思い返す。

 迎えてくれた友人たちと、その他の者たちからの好奇の視線。

 そして、佐保は担任教師の谷辺から声をかけられたことを思い出す。

 いつもどおり完璧にブロウされた髪と、皺ひとつない綺麗なスーツに身を包んでいた谷辺は、始業式が始まる前に佐保を呼び止めた。

「我妻さん、良かったわ。心配していたのよ」

「あの、先生、すいません。夏休みに家に来ていただいていたのに…」

 谷辺に向かって、佐保は慌てて頭を下げた。

「いいのよ。あともう少しで卒業なんだからね」

 佐保の顔を優しく見た谷辺の表情に、佐保は何か引っかかった。

 憐れみ。

 彼女の表情に見て取れたのは、形容するならそう言えるものだったかもしれない。

――もしかして、先生も私の身に何が起こったのかを知っているのかな?

 佐保はティッシュで涙をぬぐい、ノートパソコンのスイッチを入れた。

 そして、検索サイトに「性被害」「カウンセリング」の二語の検索ワードを打ち込んだ。佐保はしばらくの間、表示された検索結果をボーっと眺めていた。

 そっと目を閉じる。

 瞬間、忘れることのできない記憶が佐保のなかで生々しく再生される。

 もうこの世にはいないはずの逢坂夏樹と桐田照彦。逃げていく櫓木正巳の後ろ姿。そして、櫓木正巳の姉・麗子の涙でグシャグシャになった顔……

 佐保は自分が初体験に対して、夢を見ていたこともあったことを思い出す。いつか、本当に大好きな男性ができた時に、その男性の腕の中で……という甘い夢を。 でも、もうその夢を見ることはできそうになかった。佐保は男性との交際経験もないまま、処女を奪われたのだから。甘い夢は、恐怖と屈辱、そしてあの沼工場の腐臭に塗りつぶされてしまったのだから。


――私、これからどうなっちゃうのかな?

 心の底より、湧き上がったその問いは自分自身に対してのものか、それとも自分の運命を操っている者がいるとしたならその者に対しての問いかけであるかは、佐保自身にも分からなかった。

 ただ、これから先、佐保の身にまたしても恐怖が降りかかってくることについては、彼女は全く予想だにしていなかった。

 様々な糸が複雑に絡み合い、膨れ上がったそれは、崖を転がる大きな毬のごとく、彼女を狙っている。そして、彼女が知っている数人の人物の命も失われることも――

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