第3話

――なんだ、あの人? こっちに歩いてくるなんて、正気か?

 全身を照彦たちに押さえつけられ、下着までも脱がされそうになっている正巳のところに、その少年は向かってきている。

 少年は遠目に見ても非常に端正な顔立ちをしていたが、間近で見る少年のその美しさに照彦や町沢たちが少したじろいだのが正巳にも分かった。少年の頬はこわばってはいるものの、自分を真っ直ぐに睨み付けている町沢に向かって言った。

「何をしているんですか?」

 町沢がケッと笑い、指をまたポキッと鳴らした。

「何ってよぉ、見りゃ分かんだろ。裏切り者をシメてんだよ」

 少年は正巳に視線を移した。

――駄目だ。こいつらはあんたみたいな真面目そうな人の手に負える奴らじゃないんだ。早く逃げろ。逃げるのが一番いいんだ……

 だが、少年は黙って正巳に向かってすっと手を伸ばしてきた。そして、言った。

「行こう」

 思いもよらない少年の行動に困惑する正巳の前で、照彦が少年の手をバシッと叩いた。

「何だよ、お前! 引っ込んでろよ!」

 正巳の全身を押さえつけていた照彦たちの手が離れていく。そして、彼らは少年をグルリと取り囲んだ。ザッと少年に歩み寄った町沢が、少年の肩を掴みすごんだ。

「てめえぇ、俺らに勝てるとでも思ってんのか! こいつだけじゃなく、てめえのチンコも撮ってネットに流すぞ!」

「それよか正巳とホモらせてるとこ、撮った方が良くね?」と、照彦が茶々を入れる。

 少年は黙って町沢の顔をもう一度ゆっくりと見た。自分の剣幕に恐れることもなく、少年の落ち着き払ったその態度にイラついた町沢が、ついに少年の胸倉をガッと掴んだ。

「やる気か! ボッコボコにしてやっぞ!」

 その時だった。少年の体から、ビーという音が発せられた。そして、その音は段々と大きくなっていく――

――防犯ブザーか!

 正巳が音の正体を理解すると同時に、まばらではあったが離れた場所にいた通行人たちが足を止めて、怪訝な顔で正巳たちのいる方向を見ていた。その中には手に携帯電話を持っているように見える者や、こっちを指さしてヒソヒソと話をしている者もいた。

「……逃げた方がよくね?」

 照彦がポソッと町沢に向かって呟いた。町沢が少年の胸倉を掴んでいた手を離した。彼らは正巳たちに背を向け始める。

 だが、正巳が安堵したのも束の間、町沢が突如振り返り、「てめえ、覚えてろよ!」と少年の顔面にガツンと拳を叩きつけた。

 

 殴られた痛みに鼻を押さえた貴俊の手は、錆びた鉄のような匂いのする血に濡れていった。

 夏休み中ではあったが、希望者が参加できる補習があったため、貴俊は登校していた。その帰りに自分と同じ年頃の1人の少年が、髪を様々な色に染め、派手な服を着た6人の少年たちに取り囲まれ、服を脱がされていたのを目撃した。貴俊は彼らのうちの誰とも知り合いではないし、彼らが揉めている理由だって分からない。だが、はたから見ていたら、その光景は完全に「いじめ」であった。

 何も見なかったことにして彼らには関わらないという選択肢も、ほんの一瞬だけだが貴俊の頭の中によぎらないでもなかった。それに相手は6人もいた。ここから一番近い交番に走って連絡したとしても、駆け付けるまでに5分はかかるだろう。貴俊がポケットに忍ばせていた防犯ブザーを鳴らすことで、あの状況を打開できる可能性は低かった。でも、1人の人間を助けることのできる可能性がほんの少しでもあったのに何の行動もしなかった――そういった後悔を貴俊は絶対にしたくはなかった。


「鼻血、止まりましたか?」

 そう聞く正巳に貴俊は頷いた。貴俊の手持ちのポケットティッシュは鼻血を止めるために全て使ってしまったため、正巳は歩道沿いにある近くの公衆トイレよりトイレットペーパーを手で巻き取ってきて、貴俊に手渡した。

――俺も間が悪いけど、この人も相当間が悪いな。でも、この人が助けてくれなかったら、俺は絶対にあいつらに裸の写真撮られて、最悪の場合、ネットに流されてたかもしれない……そのうえ、通りすがりのこの人を巻き込んで怪我までさせてしまうなんて、ほんと俺って……

「あの、本当にありがとうございました」

 正巳は貴俊に向かって頭を下げた。

「いや……僕、殴り合いの喧嘩なんてしたことないから、あんな助け方しかできなかったけど……」

 鼻をトイレットペーパーで押さえたまま貴俊は、正巳に言った。

 そりゃそうだろうな、と正巳は思う。

――この人、見るからに真面目で優しそうだもんな。きっと、この人の今までの人生の中で、暴力や強姦に関わるようなことはなかったろうな。でも……それが道を行きかう大多数の人の普通なんだ。俺たちが異質なんだ。特に夏樹や照彦とはそれこそ小学生からの付き合いだけど、クラス替えや卒業等で離れようと思えば離れることができる機会はいくらでもあったのに。高校だって別だったんだし。

 正巳は高校2年生の夏休み前まで、偏差値45前後の共学の高校の普通科に席を置いていた。高校に通っていたころは、クラスにそれなりに親しい友人だっていた。でも、その友人とは今はもう完全に疎遠になってしまっていた。

――今日というこの日まであいつらと付き合いを続けるのを選んだのは俺自身だ。あいつら絶対また俺に何かしてくる……でも、自分の尻は自分でちゃんと拭くしかない。

 決意を決め、唇を噛んだ正巳は、貴俊が肩にかけている鞄の中から赤本の背表紙が覗いていることに気づいた。

――もしかして、この人、中牧東高校の3年生なのか。そういや、あの子も……

 我妻佐保が正巳の脳裏をスッと横切って行った。「聞いちゃいけない」と心の中でもう一人の自分が叫んでいたが、正巳は自分の口を閉じることができなかった。

「あの、えっと、3年生に我妻佐保って子、います?」

「……同じクラスですけど」

 貴俊の答えを聞いた正巳の口はますます止められなくなり、勝手に言葉が口から転がり出てくる。

「あ、あの、その子、今って学校来てます? 今、どんな感じですか?」

「……今は夏休みだから学校自体が休みなんで……でも、どうして、そんなことを?」

「いや、その、知ってる子だから、気になって……」

 貴俊の訝しがる視線を真っ直ぐに受けた正巳は、狼狽しながら答えた。

 駄目だ、これ以上聞いちゃ絶対に不審に思われる、と、正巳は貴俊に向かって頭を下げた。

「今日は本当にありがとうございました。それと、もうこのあたり絶対に通らない方がいいですよ。あいつら本当に何をするか、分かんないから……」

――今、この人が着ている制服でこの人が中牧東高校の生徒だというがあいつらに分かってしまった。それに、これだけ目立つ外見していたら、この人の名前だってすぐにバレてしまうだろう。今日は運よく、俺もこの人もあいつらから逃れることができた。でも、いつも正義が必ず勝つとは限らない。俺たちとこの人じゃ、生きる世界が違う。真面目に生きる人が関わっちゃいけない人間はやっぱりいるんだ。

 「待ってください!」と貴俊が自分に背中を向けた正巳を呼び止めたが、正巳は振り返らず彼の前から逃げるように走り去った。


 

 数日前に、自分の尻は自分で拭くと決意した正巳であったが、実際に夏樹から呼び出しをくらった今日は胃がキリキリと痛かった。

――とうとうこの日が来ちまった。なんとか、姉ちゃんに勘付かれないようにしなければ……

 正巳は麗子の部屋を覗き込んだ。

 麗子はTシャツとショートパンツ姿でベッドの上に寝転び、ファッション雑誌を読んでいた。ここ最近、麗子の外出は目に見えて減っていた。以前は彼氏の家に泊まるだの、友人と夜通し飲むなどの理由で正巳が夜に1人で留守番することもあったのに。

 正巳の視線に気づいた麗子が顔をあげる。

「あのさ、姉ちゃん。俺、今からちょっと出かけるからさ」

 麗子は枕元の携帯をつかみ、時刻を確認して言う。

「誰と会うの? いつ、帰るの?」

「そんなに遅くはならないからさ。友達に会うんだよ。その友達ってのは姉ちゃんの知らない奴。そいつが会おうってうるさくてさ。俺は別にどうでもいいんだけど……」

 やたら饒舌に話す正巳を見た麗子はため息をついた。

「……正巳、あんた、嘘ついてるでしょ。今から、逢坂くんと会うんでしょ」

 やはり姉には全て見透かされてしまっている。

 麗子はベッドからガバッと起き上がり、携帯と財布を鞄に詰め込んだ。

「私も一緒に行く!」

「姉ちゃん?」

「あんた、一体何に関わっているの? 私も一緒に行って、話をつけるわ!」

 日頃から化粧をしないと外に出れないと言っていた麗子がスッピンのまま、外に出ようとしている。さらに麗子はチェストの中から銀行の通帳とキャッシュカードまで取り出そうとしていた。

「止めてくれよ! 姉ちゃん! 俺にも一応、プライドってもんがあんだよ!」

 麗子が正巳に振り返った。

「何かあったら、姉ちゃんを連れてきて、姉ちゃんがいなきゃ何もできない情けないシスコン野郎だって思われたくないんだよ!」

「そんなこと……」

「姉ちゃんの言う通り、今から行くのは、夏樹ン家だよ。でも、家には夏樹の父さんだっているんだ。姉ちゃんが心配しているようなことにはならねえよ」


 1人で道を歩く正巳はまだ折れてもいない腕をさすっていた。

 正巳の話に麗子は一応納得はしてくれたようだった。ベッドにストンと腰を下ろした麗子は「絶対に早く帰ってくるのよ」と、正巳の目を見て言った。

――ごめん、姉ちゃん。でも、姉ちゃんは守らねえとな。

 正巳の胃はまたしても、キリキリと痛んだ。食欲だってあるはずもなく、何も入っていない胃が悲鳴をあげ続けていた。

――夏樹の家に行った後、俺はどこか別の場所に連れていかれる。そこには町沢や照彦たちが待ち構えている。いや、もしかしたら、照彦がしきりに存在をちらつかせていた怖い先輩もいるかもしれない。俺が受けるのは、裏切り者としての制裁だ。きっと数時間後には、散々に痛めつけられて地面に転がっているだろう。恥ずかしい写真だって、きっと撮られるだろう。この先には待ち構えているのは、最悪しかない。正直、怖い。怖すぎる。でも……そんな場所に姉ちゃんまで連れて行ったら、きっと姉ちゃんだって無事ですまない。あいつらは、何をするか分からない。それこそ……

 正巳には、あの沼工場での我妻佐保の姿が蘇ってきた。

――俺、姉ちゃんがあんな目にあうのは耐えられねえよ。俺は他人は見捨てても自分の家族だけは大切なんだな。最低だよな、本当に。あの子にだって、家族がいるはずなのに……


 正巳が夏樹の家の玄関のチャイムを押そうとした時、ちょうど夏樹の父親が顔を出した。

「あ、あの、お久しぶりです。櫓木です」

 夏樹の父親は、たどたどしく挨拶をした正巳の顔をじいっと見た。

「……ええと、同じ小学校だった櫓木くん?」

 日焼けした顔の目じりには数本の皺が刻まれた。正巳の目の前にいる夏樹の父親と夏樹は全く似ていなかった。おそらく夏樹は正巳が一度も会ったことのない、夏樹の母親に似ているのだろう。長身で細身な夏樹に比べ、父親は正巳と同じくらいの身長であるものの、ガッチリとした固太りの体格をしていた。

「高校は楽しいかい? あいつ、せっかく高校に入ったのに、たった半年で辞めちまってさ……」

「……僕も高校やめたんです。1年くらい前に」

「そうだったんだ……」

 苦笑いをした夏樹の父親に、正巳もまた苦笑いを返した。

「でも、櫓木くんがあいつの友達でいてくれるなら、安心だ」

 この父親も自分の息子と同じ年の俺にこういったことを吐露するぐらいだから、相当夏樹に手を焼いているのだろう、と正巳は感じずにはいられなかった。

 正巳は照彦や町沢たちのように髪も染めていないし、ピアスの穴もあけていなかった。正巳が自分の外見を飾ることにそれほど関心がなく、髪型も服装も癖のないものが多いので、それが偽りの安心感を夏樹の父親に与えているのかもしれなかった。

「夏樹! 櫓木くんが来てるぞ。父さん、これから仕事に行ってくるからな」

 父親はタクシードライバーをしていると夏樹が言っていたことを正巳は思い出した。

「うるせーよ! 早く行けって!」

 家の中から夏樹の声だけが聞こえた。

 父親の乗った車の音が遠ざかったころ、やっと夏樹が玄関まで出てきた。さっきまで寝ていたようなTシャツと短パン姿だ。夏樹は無言で部屋に入ってろと手で正巳に合図した。

 夏樹の部屋には入るのは久しぶりだった。正巳も人のことは言えないが、片付いているとは言えない部屋だった。ベッドには起き抜けのまま布団がまるめてあり、床にはマンガや雑誌が乱雑に積まれ、縮れた短い毛が数本落ちていた。正巳は思わずそれを避けた。

「あのハゲ、やっといなくなったな」

 自分の父親をハゲ呼ばわりする夏樹に、正巳はいささか不快になった。正巳は両親を数年前に事故で亡くしている。親が生きている、自分と同じ屋根の下にいるというだけで、正巳は夏樹が羨ましかったのだ。

 正巳は考える。もし、夏樹の父親が自分の息子が人様の娘を輪姦したことを知ったら、夏樹を顔の形が変わるまで殴りつけるんじゃないか、とも。

 夏樹の手には、炭酸飲料の缶が2つあった。夏樹はその1つを正巳に投げて渡した。

「どういうつもりだ」

「何が?」

 ドカッと腰を下ろした夏樹は炭酸飲料の蓋をプシュッと開けて、口を付けた。

「お前、あいつらと俺をボコるために呼んだんじゃないのか?」

 家に通され、冷たい飲物を渡され、向かい合って夏樹と話をしている今のこの状況は、正巳が先ほどまで幾通りもシュミレーションしていた未来の中にはなかったルートだ。

 夏樹は自分の携帯をいじり出し、人に聞かせるひとり言のごとく呟いた。

「こないだあったY市ペンションの殺人事件で行方不明だった女が無事発見されたってよ。この事件って、相当グロイよな。まさに皆殺しじゃねえか。犯人って一体、どんな奴なんだか……」

「……お前、そのことを話すために、俺をわざわざ呼んだんじゃないだろ?」

 正巳のその言葉に、夏樹は無言でテーブルの下から白い封筒を取り出し、正巳に手渡した。

 正巳が手にしたそれは何の変哲もないただの封筒だった。宛名面にはこの家の住所と夏樹の名前がフルネームで印字されている。正巳は中を確かめる。そこには、数枚の写真が入っていた。

「何だよ?! これ? 何でこんなものが? 一体、誰が撮ったんだよ?」 

 それは画質はかなり粗いが、夏樹たちが我妻佐保を輪姦している最中の写真だった。だが、これらの写真の焦点は佐保ではなく、夏樹たちに当てられていた。

「知るかよ、そんなこと。多分、あの場にカメラ仕込んどいたんだろ。俺の顔やチンコまでしっかり映ってるしよ。どこで俺の名前や住所を調べたんだか」

 夏樹が煙草を一本取り、火をつけた。そして、写真に目が釘づけになっている正巳に向かっていった。

「裏を見てみろよ」

 写真を裏返した正巳の目には、機械的に並ぶ文字が飛び込んできた。

『8月8日 夜10時 もう一度、沼工場に来ること 来ない場合はこの写真を本名とともにネットに流す』

――どういうことだ? この写真を撮ることが目的だったのか? 計画の実行者である夏樹たちを脅すことが目的だったのか?

 飲み干した缶を音を立ててテーブルに置いた夏樹は、写真を正巳の手から取り、ライターで火をつけた。

 さすがの夏樹も、画質は粗いとはいえこんな写真を名前とともにネットにばらまかれるのは嫌なのだろう。灰皿の中でそれらは異様な臭いと燃えあがっていった。 

「それとな……この写真も一緒に封筒に入っていたんだよ」

 夏樹が再びテーブルの下から出した写真を受け取った正巳は、瞬間「うわっ!! 」と叫び、それを放り投げた。正巳は放り投げた写真を恐る恐る手にとり、もう一度それを見た。

 写真の被写体は女性だった。おそらく20代半ばの成人女性であるだろう。茶色い土を背景に目を閉じて横たわっている、柔らかな髪の女性の横顔だけを見たら、美しいといえるかもしれない。けれども、白い衣類を身に着けているうつ伏せの女性の上半身、主に背中にはには血がべったりと染みを作っていた。彼女は死んでいるのだ。これは死体の写真だ。

 正巳は胃液と炭酸飲料が混じり合って喉元まで登ってきそうになり、口を押えた。

「本物か?」

「映画かなんかのシーンだろ。こんなもんで俺がビビるとでも思ってんのか」

「でも……」

 夏樹がライターを片手にその写真を正巳の手から取り上げようとしたが、正巳は背中にサッと隠した。

「お前、何、ふざけてんだよ。返せよ」

「夏樹、これは警察に届けよう」

「は?」

 夏樹は正巳を横目で睨んだ。

「なんで、サツに行かなきゃいけねえんだよ!」

「……ただ、こんな写真が家に届いたって、その封筒と一緒に届けるだけだって。こんな死体の写真を人に送り付けてくるなんて、明らかにヤバい奴だろ」

 夏樹と同じく我妻佐保の拉致に関係している正巳の家には、こんな呼び出しの手紙は届いてはいなかった。

――照彦のところに夏樹と同じ手紙が届いているかどうかは分からないけど、この送り主は夏樹を呼び出し、また何かをさせるつもりなのかもしれない。それか我妻佐保を輪姦したことに対して制裁を加える気か? もしかしたら、もう夏樹の手にも負えないことになる可能性がある……

 写真の送り主の顔も名前も分からないし、目的もまだはっきりしない。心当たりもなかった。ただ、そいつが写真を送り付けられた夏樹の反応を想像し、それを余裕綽々と楽しんでいる狂気だけは正巳にも伝わってきた。

「お前、何言ってんだ? こんなふざけたマネする奴、誰だろうがシメてやりゃいんだよ! サツなんて関係ねえよ!」

――確かに警察に行ったら、まずは心当たりについて聞かれるだろう。そして、追及されるうちに、我妻佐保の件もばれてしまうかもしれない。でも、夏樹には他にも叩かれたら出てくる埃がきっとがあるんだ。

「夏樹、お前、あの子のこと以外にも、他にも何かばれたらまずいことがあるんだろ?」

 正巳の問いに夏樹は答えず、煙草を口にくわえた。

 夏樹は警察と関わることを異常なまでに嫌がっている。それに数日前に会った照彦や町沢たちのあの態度。我妻佐保の件には関わっていない町沢が「口止め」と言葉を発したことを正巳は思い出す。

 正巳は夏樹たちが彼の知らないところで何をしているのか、正直もう関わりたくも知りたくもなかった。

「じゃあ、お前と照彦は今夜、もう一度、沼工場に行くんだな?」

「……照彦は行けねえよ」

「照彦に何かあったのか?」

「今、入院してんだって。なんか、ヤバいもん見たみたいでよ」

「ヤバいもんって何だよ?」

「幽霊だとよ。部屋の中にパンパンに膨れた水死体みたいな奴がボロボロのセーラー服着て現れて、照彦に近づいてきたんだってよ」

 照彦は幽霊の類が大の苦手だったことを正巳は思い出す。照彦が実際に何を見たのかは分からないが、きっと彼の精神がとても耐えきれないようなものを見たのだろう。

 ふと、正巳の背筋にスウッと冷たいものが走る。

「なあ……もしかして、あの子は、我妻佐保は自殺しちまったんじゃ……」

「あのなあ、お前、幽霊なんて、信じてんのかよ。それに、あの女ンとこの制服はセーラー服じゃなくて、ブレザーだったろ」

 苛立たし気に灰皿で煙草を揉み消した夏樹に、正巳が恐る恐る切り出す。

「照彦はどこの病院に入院してんだ?」

 夏樹が馬鹿を言うなというように手をヒラヒラと振る。

「あーダメダメ。俺らは照彦の親たちには嫌われてるしよ。会わせてくれっこねえよ。全部俺らのせいだって、俺らが照彦をそそのかしたってよ」

 夏樹は正巳が背中に隠していた死体の写真を強引に取り上げ、ライターで火をつけた。

「とにかく、今夜、このふざけた野郎との決着を着けるぞ。お前も一緒に来るよな?」

――夏樹、お前の「一緒に来るよな?」は、「一緒に来い」ということだろ。

 あの日の沼工場での時と同じように、今の正巳の中には幾人もの正巳がいた。「俺は何もしちゃいないのに」「もう知らねえよ、お前のことなんて」「でも、夏樹とは友達だろ」と口ぐちに言いあっていた。

 黙り込んだ正巳の前で灰皿の中の写真が、オレンジ色の炎に包まれて燃え尽きていった。

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