第3章

第1話

 矢追貴俊。彼の本当の名は、長倉貴俊である。彼が現在、中牧東高校で名乗っている「矢追」という名字は母親の旧姓であった。

 20×5年4月。X県X市。当時、貴俊が通っていた高校の廊下には、うららかな春の光が差し込んでいた。

「長倉くん」

 後ろから声をかけられた貴俊は振り返った。そこにいたのは、シャンプーのCMに出れそうなくらい艶々としたストレートのロングヘアと、クッキリとした二重瞼が印象的な木村麻央という名の女生徒であった。

「はい、これ。安部先生からよ。取りに来いって言っていたのに、忘れてたんだって?」

 貴俊は木村から化学教室に忘れていたノートを手渡された。最近、注意力がひどく散漫であることを貴俊は感じていた。だが、集中しようにもできなかった、なぜなら――

 目の前にいる木村も貴俊がどんな問題を抱えているのか知っているのだろう。いや、知っているのはきっと木村だけではない。

「元気だしなよ、ね」と、木村は彼を元気づけるように肩をポンと叩いた。

 

 貴俊と木村はただのクラスメイトだ。木村が貴俊の肩を軽く叩いたのだって深い意味はなかったし、貴俊だって何とも思ってはいなかった。だが、この時の彼らを見ていた1人の女生徒がいたのだ。この女生徒の名前を仮にA子とする。A子は封が開けられていないペットボトルを握りしめたまま、ギリリと唇を噛んだ。

 そして、彼女は貴俊と別れた木村の後を追う。


 階段に差し掛かった木村は後ろに人の気配を感じ、振り返った。

「何?」

 木村は怪訝な顔で自分の背後にいたA子に問う。A子は返事の代わりに、持っていたペットボトルを木村の顔に振り下ろした。鈍い音。木村は鼻を押さえて、床に倒れこんだ。

 泣き叫びながら必死で顔を庇う木村と、馬乗りになりなお彼女の顔を殴りつけるA子。彼女たちの近くにいた女生徒があげた悲鳴が教室に戻った貴俊のところにまで届いた。

 まさか――、と貴俊は教室を飛び出し、騒ぎのする方に走った。貴俊が人だかりをかき分け辿り着いたそこには、数人の男子生徒に取り押さえられ喚きながら暴れ続けるA子と、鼻血を出し床でぐったりしている木村がいた。そして、血のついたペットボトルも転がっていた。

「なんだ、何があったんだ!」

 いかつい風貌の男性教師が駆け付けた。

 彼は喚き続けるA子の尋常でない様子と顔を血だらけにした木村を見て、更に焦り、声を荒げた。

「どうしたんだ! 原因は何なんだ!」

 うっかり男性教師と目が合ってしまった女生徒がおずおずと答える。

「さ、さっき、木村さんが長倉くんと話をしていたから……それでだと思います」

 その場の全員の視線が貴俊に集まった。


 つきまとい。ストーカー。愛情の押し付け。どういった言葉で表現すればいいだろう。 

 貴俊は、数か月前より同級生であるA子から好意を寄せられていた。貴俊に好意を寄せる女の子はA子が初めてではなかった。まだ異性と付き合う気になっていない貴俊がきちんと断りをいれると、大抵の少女は納得してくれた。あからさまに貴俊を避け二度と話しかけてこなくなったこともあれば、以前と変わらぬ同級生・先輩・後輩に戻ることもあり、またすぐに違う男子生徒と腕を組んで歩いていた少女もいた。

 だが、A子はどれとも違っていた。断っても断っても、貴俊に迫り寄ってくる。まるで、自分の思いを受け入れない貴俊に非があるかのように――

 学校でもA子が貴俊に異常なまでに執着していることを知らない者は日に日に少なくなっていた。木村の件の前にも、A子は問題を起こし、親とともに生徒指導室に呼び出されていたところであった。

 貴俊の小学校時代からの同級生であり、今も同じ高校に通う真田理咲子という女生徒の家に押しかけ、卒業文集と卒業アルバムを強奪したとのことだ。真田の母親が学校に連絡を入れ、A子は呼び出された。真田の元に戻ってきたそれらは、貴俊のところだけ切り取られていた。A子曰く、「捨てた」とのことであったが、おそらく嘘であるだろう。

 貴俊は思う。A子の中で、A子にだけ都合のいい、自分の姿が作り上げられていっているのではないかと。A子が好きなのは、A子が作り上げた長倉貴俊であり、いまここにいる自分ではない。それにA子とは現実に何かあったわけではなかった。同じクラスになったこともないし、親しく話をしたこともない。貴俊自身、自分は多少目立つ外見をしていることは自覚していたものの、大して知りもしない人間を外見だけで好きになれるなんて不思議であった。

 

 そして、ついにあの事件が起こった4月24日――

 貴俊が校門から出た時に「長倉」と呼びながら2人の男子生徒が走ってきた。

そのうちの1人が励ますように貴俊の肩を叩いた。

「いい加減に元気出せよ。お前のせいじゃないって」

 1週間以上前に担架で運ばれていった木村はあの後入院し、まだ学校に戻ってきてはいなかった。貴俊は母とともにお見舞いに行ったが、木村の両親に拒絶された。当のA子は木村に怪我をさせたことにより、現在も停学中だった。

「本当、あいつマジでおかしいよな……」

「もう、退学になるだろ。木村の件の他にも、真田の家に押しかけたり、男子便所に入ってきたりしてたんだし」

 そうだ。いつだったか、貴俊が男子便所で用を足していた時、A子が入ってきて、貴俊の手元を覗き込もうとしたこともあった。

「でも、ほんと、お前、彼女とかいなくてよかったな。いたら、あいつに何されていたか、分かんねえぞ」

 男子生徒は自分の言葉に自分で頷き、続けた。

「お前とちょっと話した木村にさえ、ああだもんな。木村、鼻の骨が折れていたらしいぜ。せっかく美人だったのに……」

「おい」ともう1人の男子生徒が腕で小突いたため、彼は慌てて「ごめん」とうなだれた。

「いいんだ。僕自身に何かしてくるならまだしも、何の関係もない木村さんまで……」

 貴俊は強く肩を叩かれた。

「お前が悪くないのはみんな分かってるからさ。そう落ち込むなよ」

「そうだって。多分あいつ、もうすぐ学校からいなくなるだろうしさ」

 貴俊は彼らに力なく微笑みを返すことしかできなかった。

 彼らと別れ、1人で歩いていた貴俊は、今度は「貴俊」と名前を呼ばれた。

 貴俊は父・滋がこの時間にこの場所にいることに驚いた。いつもは貴俊が学校に行くのと同じ時間に出社し、帰宅は夜の9時を過ぎるはずなのに。

「今日はなんとか残業を切り上げることができたんだ。一緒に帰ろうか」

 貴俊の横に並んだ滋は貴俊の顔を覗き込んだ。

「貴俊、お母さんから聞いたよ。学校でいろいろあったらしいな」


 長倉滋には妻と3人の息子がいた。妻の芳美、長男で高校2年生の貴俊、次男で5才の光洋、三男で2才の和則だ。まだ次男と三男は小さいため、妻の芳美は専業主婦だ。1歳年下の芳美とは大学時代に知り合い、芳美が大学を卒業した1年後に結婚し、さらにその1年後に貴俊が生まれた。しばらくは3人家族であったが、貴俊が生まれて11年後に次男の光洋を授かった。この時は、口の悪い友人にからかわれたものだったが、さらに3年後に三男の和則も生まれ、5人家族となった。

 芳美とは恋人時代のように男と女というよりは、父親と母親になっているが、彼らの仲は順調であった。持家もあり、同年代の男性に比べると収入も多いほうであるが、息子全員を大学卒業させるまで、しっかり稼がなきゃならない。自他ともに認める仕事人間である滋は、時々土日さえ出勤していた。

「今日はお父さんが男同士いろいろと話を聞いてやるよ」

「ありがとう。お父さん」

 貴俊が滋に微笑みを返した。だが、その表情はぎこちないものだった。

 滋は学ランに身を包んだ息子の横顔を見ながら、今さらながらに思う。自分の子にしては出来過ぎた子だと。容姿もそうだが、幼いころより聞き分けがよく、親が何も言わなくても机に向かって勉強をするような子供だった。大抵のことはそつなくこなせ、現在通う県下で1、2を争う進学校でも、上の中から上の下ほどの成績を保っている。また、自分が知らないだけで妻が対応していたのかもしれないが反抗期や思春期特有の荒れも滋自身の時と比べると穏やかすぎるぐらいだった。だが、その反面、優しすぎるともいえる性格であり、競争意識や負けん気が薄いようにも感じていた。貴俊の趣味の水泳にしたって人と競っていい成績を残すというよりは、ストレス解消もしくは自分が好きでのんびりと泳いでいるのだろう、と。

 肩を並べて歩く滋と貴俊の前に、夕暮れが広がっていた。それは茜色というよりは、肉色に近いような生々しい色であった。3匹のカラスが鳴きながら、その中を横切っていった。

「気持ちの悪い空だね」

 貴俊の言葉に滋は頷いた。滋は生まれてからずっと、このX市で暮らしているも、こんな気味の悪い空を見たのは初めてであった。

 滋と貴俊は、家の近くの橋に差し掛かる。橋の下の、流れの早い川として有名なこの川の河川敷では「X市 市民団体」とゼッケンを付けた十数人のボランティア団体がごみ袋を手にしていた。


 その頃――

 貴俊の母・長倉芳美は取り込んだ洗濯物をたたんでいた。傍らのベビーベッドでは、和則がスヤスヤと寝息を立てている。

 そこにおもちゃのロボットを手にした光洋がパタパタとやってきた。彼が手にしているロボットは、幼児向の教育番組で人気を博しているキャラクターだ。先月の光洋の誕生日プレゼントであり、彼の今一番お気に入りのおもちゃだ。

「ママ、お兄ちゃん、もうすぐ帰ってくる?」

 幼稚園の年長となり、様々なものに興味を持ちだした光洋は、小学校に入ったら、兄の貴俊と同じスイミングスクールに通いたいとしきりにせがむようになっていた。

 芳美は壁にかかっている時計を見て、優しく言う。

「もうすぐ帰ってくるわね」

「遊んでくれるかなあ?」

「そうね。でも、お兄ちゃんの勉強の邪魔をしちゃだめよ」

 昼間、夫の滋より「今日は早く帰れそうだ」との連絡があった。

 やっぱり滋も心配なのだろう。貴俊のことを好きな同級生の少女が、別の同級生の女の子に怪我をさせた。貴俊に非はないとのことであったが、芳美は先日、貴俊を連れ怪我をさせられた女の子のお見舞いに行った。だが、相当立腹している彼女のご両親に「娘がお宅の息子に会うのを怖がっている」と拒否された。そして、少女は貴俊の同級生である真田理咲子の家にも押しかけてきたとのことであった。芳美と真田の母親はPTA活動等で割と親しかったが、小学校時代からおかっぱ頭と眼鏡がトレードマークで真面目一徹といった理咲子と貴俊は、性別が違うこともあり、そう親しいわけではないのに。

 貴俊が女の子に好意を寄せられるのは、芳美が知る限り初めてではない。バレンタインデーや5月の貴俊の誕生日に、女の子がこの家を訪ねてくることは貴俊の小学生時代からあったことだ。今の時代は女の子の方が積極的なのね、と思っていた芳美であったが、今回のことは明らかに常軌を逸している。

 芳美が重い息を吐き出し、たたみ終えた洗濯物を箪笥にしまおうと腰を上げた時、玄関のチャイムが鳴った。

 夫の滋や息子の貴俊には鍵を持たせている。チャイムを鳴らすはずがない。芳美はこの時間にチャイムを鳴らしそうな人物を思い浮かべる。

「隣のおばさんかしら?」

「僕が出てくるよ!」

「ママもすぐに行くからね」

 光洋がロボットを手にしたまま、うれしそうにパタパタと玄関に駆けていった。

 芳美が箪笥の引き出しを開けた時、玄関より「ママあ!」と光洋の絶叫が聞こえた!

 慌てて部屋を飛び出した芳美が見たのは、玄関に立ち尽くしているセーラー服の少女とその足元で首から血を噴き出して倒れている光洋だった。

「光洋!」

 芳美は光洋に駆け寄り、彼の首から吹き出す血を手で必死に止めようとした。芳美が身に着けている薄手の白いニットもみるみるうちに彼の血で染まっていく。小さな光洋の体が芳美の腕の中でビクビクと痙攣した。

 突如、少女が笑い声をあげた。おかしくておかしくてたまらないというように。

――なんで、笑っていられるの? 一体誰なの? 光洋に何をしたの?  

 長いストレートの黒髪の少女が身に着けている制服は、貴俊の通う高校の女子の制服だった。 

――まさか、この子が――!

 少女の手が血を滴らせている包丁を握っていることに気づいた芳美は光洋を抱きかかえ、廊下を駆けだした。

――ごめんね、光洋。ママが1人にしたからだよね。すぐに救急車を呼ぶからね。絶対に死んじゃ駄目!!

 芳美の眼前に和則のいる部屋のドアが迫った。

 だが、ドアまであと数歩のところで、芳美の背中に経験したことのない鋭い痛みが走った。

 芳美の口からはぐっと詰まったような音が漏れた。芳美が最初の痛みに声を発する間もなく、背中の別の箇所に次の痛みが走った。そして、その次の、そしてまた――

 芳美は光洋を抱きかかえたまま、廊下に倒れ伏した。


 家の中で起こった殺戮を察したのか、ベビーベッドの中の和則が泣き出した。

 光洋と芳美の血が滴り落ちている包丁を握りなおした少女は、母を呼ぶ幼子の声が聞こえる扉へと一歩を踏み出した。

 

 滋とともに家の玄関についた貴俊は、鞄から鍵を取り出す。母は防犯のため、いつも玄関の鍵はきちんと閉めていた。だが、鍵を差し込みながら、貴俊は違和感を感じた。

――鍵が開いている?

 わずかに開いた玄関。家の中はシーンと静まり返っていた。いつもなら聞こえてくるはずの光洋の笑い声も和則の泣き声もしない。そして、何か床が黒いもので汚れていた。

――綺麗好きのお母さんがこんな汚れをそのままにしておくはずが……いや、これは――血だ! 

 どす黒く見えたそれは、真っ赤な血であった。

「お父さん!」

 貴俊は背後の滋を振り返った。滋が貴俊を押しのけるように前に出た。

 おびただしい血が玄関に飛び散っている。光洋のお気に入りのロボットも転がっていた。飛び散っている血は廊下へと続いていた。その先に――

「芳美!」

「お母さん!」

 白い服の背中が真っ赤に染まっている芳美の腕の中には、血だらけの光洋もいた。

「……何があったんだよ!……なんでだよ!」

 彼女たちのの瞳は薄く開いていた。けれども生者である貴俊からの問いに、死者である彼女たちが答えることはできなかった。

 貴俊の手には、血がベッタリとついてきた。

――これは僕のお母さんの血なのか? 光洋の血なのか? 2人は死んでしまったんだ! いや、殺されたんだ! 

 貴俊の喉が鳴り、呼吸が乱れ始めた。

「和則! どこだ、和則!」

 滋は和則のベビーベッドのある部屋に向かった。そこに足を踏み入れた滋の絶叫が響いた。

「和則!」

 貴俊も駆け付けた。わずかな望みもむなしく、ベビーベッドの中に広がる血の海にも、痛々しいほど小さな和則が転がされていた。

「ひ、酷い……」

 貴俊は崩れ落ちた。口を押さえる。今にも叫び出しそうだった。滋も口を押え、叫ぶのを必死でこらえていた。

――殺された! みんな殺されたんだ! 

 次の瞬間、貴俊は滋に襟首を掴まれ、後ろに引っ張られた。

「逃げろ! 貴俊!」

 3人を殺めた殺人者は、まだこの家の中にいたのだ。

 艶のないストレートのロングヘアを振り乱し、自身のものでない血が染み込んだセーラー服を着た少女が包丁を手に喚きながら滋に向かっていた。

 A子だ。A子が滋に向かって包丁を振りかざすも、16才の少女と成人男性の力の差は歴然としていた。包丁は音を立てて、床に落ちる。A子は両腕を押さえつける滋に向かって、目を剥き出し、獣のような咆哮を上げた。

 直後、滋の体が背後の壁に叩きつけられた。頭を押さえ床で呻く滋に駆け寄る貴俊。滋の額からは血がつたっていた。

――何だったんだ、今のは?!

 A子はなおも奇声を発し続け、玄関へと逃げていった。

 外からは「きゃあっ」という悲鳴が聞こえた。

「……貴俊、お父さんはいいから、早く警察を呼ぶんだ」

 頷いた貴俊は、携帯電話を手に、母と弟の死体を横切った。外では隣人の主婦が

A子の姿に腰を抜かしたのか、自身の玄関先でへたり込んでいた。

 貴俊はA子を追った。歯をくいしばり、流れる涙をぬぐおうともせず、体中から湧き上がる憎しみの炎に突き動かされるように―― 


 ほんの数分前まで貴俊が滋と歩いていた橋の欄干の上をA子は歩いていた。

 橋の下では、まだ清掃中だったボランティア団体が「命を大切に」「警察を」等、口ぐちにA子に向かって叫んでいた。

 あんな惨たらしい殺戮の後にも関わらず、血だらけのセーラー服で鼻歌を歌っていたA子は、貴俊の姿を認めると嬉しそうに笑った。まるで、この世界に貴俊と自分しかいないかというように。

 その笑顔に貴俊は鳥肌だった。

「……なぜだ。なぜ、僕の家族を殺したんだ?!」

 またしてもA子は嬉しそうに、ウフフと笑った。

「……長倉くんが大切にしているものだからよ。小学校の卒業文集に書いてたでしょ。大切なものがなくなれば、私がそこに入ることができるわ」

――何を言っているんだ? 狂ってる!こいつは狂ってるんだ!

 A子は欄干の上まるで貴俊を迎え入れるかのように、両手を広げた。

「私”たち”、神様からプレゼントをもらったの。選ばれたのよ。一生、長倉くんを愛していくわ。それに、長倉くんに触れる女は絶対に許さないわよ」

 ニタリと笑ったA子は体の重心を後ろに傾けた。

 吹き抜けた風に血で赤く染まったA子のセーラー服がはためいた。

 手を伸ばした貴俊の目の前で、A子は川の流れの中に吸い込まれていった。

 

 貴俊はその後駆け付けた警察官より唇から血が出ていることを指摘された。

 清潔な生活感と笑い声にあふれていた我が家は、凄惨な殺人事件の現場となり、黄色いテープがはりめぐらされ、警察や鑑識の制服に身を包んだ見知らぬ大人たちが大勢出入りした。

 加害者であるA子が貴俊に恋心を抱いていたのは、学校でも何人もの生徒や教師が知っていたことだ。そして、貴俊は警察にA子がネット上に残していた日記も見せられた。そこには貴俊のことばかりつづられ、夢も現実も全て自分にとって都合のよく捻じ曲げて飾り付けられていた。それに貴俊は吐き気をもよおさずにはいられなかった。

 だが、なぜA子は自宅より調理用の包丁を持ち出し、貴俊の家族を狙ったのか?

 それは貴俊の証言やA子が残していたウェブ上の日記から考察するに、A子が真田より取り上げた小学校の卒業文集の中で、貴俊が光洋が生まれた時のことについて書いていたからであると推測された。

 学校が休みであったあの日、滋とともに病院の待合室にいた貴俊は、光洋がこの世に生まれて初めて上げた産声を聞いた。10年以上、一人っ子であった貴俊は、自分に弟ができたことがとてもうれしかった。これからもずっと家族を大切にしていこう―と、確かそんなことを書いていた。

――『大切なものがなくなれば、私がそこに入ることができるわ』――

 A子の言葉が貴俊の脳裏にゾっとする響きで蘇ってきた。 

――僕のせいだ。僕のせいでお母さんたちはあんな殺され方をしたんだ……  

 母は背中を9か所も刺されていた。光洋は喉元を掻き切られ、和則は心臓を一突きされ絶命していた。

 磨き抜かれた床に飛び散っていた血。真っ白なシーツに染み込んでいた血。貴俊は母や弟たちの生前の笑顔を思い浮かべようとしても、無残に生を断ち切られた彼女たちの死に顔が真っ先に浮かび上がってきた。

 

 さらに事件は全国ネットで報道された。父と貴俊は葬式の時でさえ、3人を静かに送り出すこともできなかった。貴俊と滋は家じゅうの雨戸を閉めきり、3人の遺影が並ぶ部屋の中で、新聞や週刊誌の記者たちに息をひそめていた。家族を殺された被害者であるにも関わらず、全国の何も知らない者たちからの憶測が真実であるかのように、彼らに襲い掛かってきた。

 A子がネット上に残した明らかに常軌を逸していると思われるブログを鵜呑みにして、A子は貴俊の子を妊娠しており情緒不安定になって犯行に及んだとA子をかばう者もいた。なかには、滋とA子は愛人関係で、A子と一緒になるために妻と子供をA子に殺させたというような荒唐無稽な噂もあった。また、親切なふりをして、どういう噂が流れているかを教えてくれる自称・理解者もいた。

 貴俊が学校に戻ったとき、彼を迎えた多くは同情の眼差しであったように思う。

 だが、「学校の名を汚すな」「受験に失敗したら恨んでやる」と言った文書もロッカーに入っていた。学校に復帰してきてきた木村は、貴俊を見るなり怯えて逃げて行った。真田はA子に取り上げられた自分の卒業文集が事件のきっかけであったと報道されて以来、ずっと学校を休んでいた。登下校の時も、貴俊が全く知らない者たちが、ヒソヒソと肩を寄せ合い耳打ちしあっていた。

 様々なことが重なりあった末、貴俊と滋は、家族の思い出がたくさん詰まった住み慣れた家を引っ越さざるを得なくなった。

 夏の終わり、雨戸を閉めきった暗い部屋の中で、貴俊と滋は3人の位牌の前で抱き合って泣いた。




「それから父と2人で隣の県に移りました。父の会社はこの事件に同情的であったため、支社への配属が許可されたんです」

 貴俊が息をついた。

「君はどうしてたの?」と斗紀夫が問う。

「僕はそこの男子校に編入し、今年の5月に中牧東高校に編入するまではそこに籍を置いていました……」

 膝の上で固く握りしめられた貴俊の拳が震えている。

「……そこでも、母の旧姓を名乗っていたので、最初の半年ぐらいはごく普通の転入生として受け入れられていたと思います。でも、あの事件の男子生徒だって周りに分かってしまって……」

「そこにいられなくなったんだね?」

 貴俊は頷いた。

「その男子校の生徒全員が僕に嫌がらせをしてきたわけではありません。一部の生徒だとは思います……ある時なんかネットで拾った僕の写真が靴箱に入っているときだってありました」

「……酷い話だね。被害者側がこうして苦しむなんて」

 貴俊自身はネットに自分のことを書いたり、写真を載せたりしたことはなかった。だが、彼を知っている者がニュースで報道されたあの事件の当事者と知り合いであることを世間にアピールしたいばかりににネットに流したのだろう。貴俊の写真はかろうじて目線は入っていた。ただ、一度ネットという海に漂流したものを回収するなど不可能である。

 無論、加害者であるA子の写真は目線も入らず、今現在も本名とともにネットに上がっている。それどころか、A子の両親の職業や推定年収、自宅写真なども流れていたらしい。事件後、A子の両親は貴俊たちがX市を去るよりも前に、行方をくらませていた。

「父と話し合った結果、父だけそこの社員寮に入り、僕はここまで逃げてきました」

「……逃げてきたか。自分に火の粉の降りかからない安全な場所でなら、好き勝手なことを言う人はいるからね」

 貴俊はずっと自分の拳に視線を落としたままだ。斗紀夫が問う。

「矢追くん、この県には何かゆかりがあったの?」

「母の弟である叔父がU市で結婚して暮らしています」

 U市はここから市を1つはさんでいるも、貴俊が中牧東高校に通うことのできない距離ではなかった。

「その叔父さんのところで一緒に暮らすって話はなかったの?」

「……最初はそのような話になっていました。叔父も叔父の家族たちも僕を受け入れてくれると。でも……」

「でも、何?」

「……僕は感じるんです。A子の気配を……もうA子は生きてはいないと思います。でも、まだ僕を……僕が女性に触れてしまうことがあれば、きっとまた女性の方に危害を加えるに違いない。今度は叔母さんや従妹が……」

 背に9回も刃を受けて殺された母や、鼻の骨が折れるほど殴られた木村。それに我妻佐保の前にもA子は現れたのだろう。

――『一生、長倉くんを愛していくわ。それに、長倉くんに触れる女は絶対に許さないわよ』――

 あの生々しい肉のような色の夕焼けを背後に、貴俊の目の前で川に身を投げたA子は、事件から1年以上たった現在も発見されないままだった。

 それは、今もなお彼女はどこかで貴俊のことを――

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