第3話

(中牧東高等学校 非公式匿名掲示板より抜粋)

20×6年7月22日(木)

〉これから終業式ってうざすぎ。早く終わんねえかな。


〉激しく同意。でも、家にも帰りたくねえ。絶対頭おかしいわ、あのババア。

 なんで模試の結果ぐらいで、あんなにヒステリックになるんだよ。

 自分は高卒なのに、なんで子供には「勉強しろ」「いい大学行け」って、

 ガミガミ言うんだか……


〉親心ってやつじゃねえの?

 俺んとこなんか、「自宅から通える授業料の安い国立にしか行かせられない」

 って、親に謝られたよ……

 貧乏だし、おまけに偏差値の低い顔面に産みやがって、マジでしばくぞ。

 

〉顔面偏差値と言えば……あの美形転入生のYくん、期末は3位だったな。

 水泳もかなりうまかったし。

 家が金持ちがどうかは知らんが、ハイスペックすぎるだろ。


〉Yが前にいたかもしれないX市の高校の偏差値って75なんだよな。

 偏差値60そこそこのうちの高校の試験なんて、ちょろいもんだろ。


〉でもYくんって、本当にあの事件の「男子生徒」なの?  

 あんな事件にあったら、勉強なんて手につかなくなると思うんだけど。

 涼しい顔でベスト10に入ったり、自分が原因で起きたあの事件のことを

 何とも思ってないんじゃないかって、ちょっとゾっとするよ。


〉いや、10以上も偏差値が低いうちの高校に転入してきているってことは、

 学力だって相当下がってると思うよ。

 それに女子とはあんまり話さないというか、話しかけるとピュッと逃げるし、

 あの事件がトラウマになってるんだろうね。


〉そういやさ、レイ×プされたって噂になっているWさんって、今日までずっと

 学校を休んでるよね。トラウマで、家の外に出るのが怖いのかな? 


〉おい、伏字になってないぞ。絶対にわざとだろ。


〉私、2・3日前に廊下でWさん見たよ。でも、すぐ帰ったみたいだけど。

 なんて言えばいいのか、顔に色がなくて、紙みたいな感じで、表情やばかった。


〉私も見たけど、顔に殴られた痕もなかったし、単なる体調不良じゃない?

 噂が本当なら学校来れないよ。私なら絶対無理。


〉本当に噂って怖いよな。

 言っちゃいけないってことに限ってすぐに広まるし、無関係な奴らにこんなとこ

 であれこれ推測されて。


〉関係なくなんかない。

 下校中に襲われたんでしょ。犯人捕まらないと安心できないよ。


〉ブスがまた来た。

 ストライクゾーンの外にいる奴に限って、自意識過剰というこの……


〉何? 私、ここに書き込んだの初めてなんだけど?  

 性犯罪者って顔なんか関係なく狙うんでしょ。女だったら、誰だって怖いよ。


〉でも、Wさんは結構可愛くないか? 

 パッと目立つタイプじゃないけど、可愛いって言ってる奴いたよ。

 華奢でお嬢様っぽいし、性格も優しそうな気ィする。


〉お嬢様ってほどでもないと思う。せいぜい地方の小金持ちレベル。

 それにWって、人から嫌われるのが嫌なのか、表面はいい子っぽく取り繕ってい

 るけど、本当に心を開いている人とそうでない人への態度が違うんだよね。

 心の底では何考えてるんだか。


〉気心の知れた人とそうでない人への態度違うの当たり前じゃね?

 クラスメイト全員が仲良しで、同じ距離感なんてことあり得ないし。

 お前、単にWさんが嫌いなだけだろ。もしかして、お前が犯人?  


〉私は女だっつうの。 バカじゃない!?


〉Wさんとよく一緒にいるT川さんってかなり可愛くないか。

 ミス中牧東高校を決めるコンテストがあったら、俺、絶対に1票入れるわ。


〉T川も大したことない。

 口開けてぼーっとしてるところなんてダッチワイフぽいし。

 おまけに女の前でもぶりっ子するしさ。時々無性にイラついてる。


〉ちょ、ダッチワイフってwww

 俺はWさんのお母さんの可愛さに衝撃を受けた。


〉私もWさんのお母さん中学校の授業参観で見たことある。

 「超美人ママがいる」って、皆ざわついてた。

 それに信じられないくらい若かったよ。


〉確か17才で出産したんでしょ。うちの母親から聞いた。

 案外、Wさんも裏では遊んでたりして。

 単に顔見知りと揉めてヤられただけだったりして。


〉実は俺、犯人たちに心あたりあるんだが……


〉「犯人たち」って、ことは複数? 3P? 4P? 

 もっと詳しくプリーズwktk


〉同じ中学だった奴が「ダチと中牧東の女を拉致してヤッた」って、自慢してた。


〉拉致られるとか隙ありすぎ。

 確かにWって、体育の時とかギャグかと思うほど、どんくさいしwww

 「なんでそこでそういう動きすんだよ」って突っ込み待ってるかってぐらいwww


〉男でもいきなり数人に襲い掛かられちゃ逃げるのきついだろ。

 隙があるとかじゃなくね?  


〉犯人たちの名前分かってるなら、お前、まずは警察に通報しろよ。

 ちなみにどんな奴ら?


〉中学の時からヤバいことしてそうな奴らだよ。あいつら束になると怖すぎ。

 これ以上書くと、絶対に今度は俺の身が危なくなるから、警察とかマジ勘弁。



 スクール水着を身に着けた佐保は、プールサイドで体育座りをしていた。太陽の光を受けたプールの水面はキラキラと輝いていた。きっと今から水泳の授業が始まるに違いなかった。

 ゆらりと立ち上がった佐保がプールに足を入れようとすると、梨伊奈がニコニコと笑いながらやってきた。

「ねえ、佐保。水に入って大丈夫なの?」

「どういうこと?」

「レイプされて、妊娠して、中絶したって噂聞いたからさ」

 唇の端を上げたまま、梨伊奈は去って行った。

――噂って何? 一体、どんな噂が流れているの? 私は妊娠なんかしてなかったのに。

 腕をブルブルと震わせていた佐保のところに、次は日香里がやってきた。

「佐保、無理しちゃだめよ。自分の苦しみから目を逸らしちゃだめ」

――無理って何? 苦しみから目をそらさないと私が生きていけないのに。私は前の私に戻りたい。ただ、それだけなの。

 輝くプールの水面から翼が顔を出し、手を伸ばした。

「佐保、私たちと一緒に泳ごうよ。こっちにおいでよ」

――駄目だよ。一緒には泳げない。あなたたちに私の気持ちなんて、分からないよ。

 佐保は後ろから肩を叩かれ、振り返る。そこには亜由子がいた。亜由子は何も言わずにニッコリと笑って、佐保をプールに突き飛ばした。

 友達に突き飛ばされたというショックは不思議となかった。普段は25メートルも泳げるかどうか怪しいのに、佐保はまるでプールの中を魚のように泳いでいた。

――うるさいうるさい。みんな放っておいて。私の苦しみは私にしか分からない。あんな怖い目にあって、それどころか、何も知らない人たちに好奇の目で見られて、噂されているなんて……!

 プールの中で青く見える水は徐々にピンク色へと変化していった。

――あたたかい。そうだ、きっとここはママのおなかの中だ。私はママのおなかの中に戻ることができたんだ。ずっとここにいよう。そうすればきっと、もうあんな目には……

 だが、佐保はこの水のなかに、自分の他にもう1人誰かがいることに気づいた。

 矢追貴俊だった。何も身に着けていない貴俊が自分と同じ水の中にいたのだ。幸いに彼の下半身には黒い靄がかかってはいたが――

 逃げようとした佐保であったが、強い力で足首を掴まれた。だが、掴んだのは貴俊ではなかった。 

 佐保の足首を掴んでいるのは、ブヨブヨに膨らんだ手だった。

 その手の主がゆっくりと顔を上げていく――

 頭にべったりとへばりついている黒いまばらな髪の毛。白に青と緑が混ざったような顔の皮膚の色。

 「そいつ」は、いつかの夜に佐保の部屋に現れた、あの―― 

 全身が鳥肌だった佐保は「そいつ」の手から逃れようと必死でもがく。だが、足首をしっかりとつかまれており、逃れることはできなかった。

 なおももがき続ける佐保の耳に、「そいつ」のゾっとするような声が響いてきた。

「長倉くんに近づくな、この淫乱女」


 「そいつ」の声を聞いた瞬間、佐保は夢から現実へと戻ることができた。

 ベッドの上で散々に乱れた息を整える。夢の中で掴まれていた足首を恐る恐る確認する佐保であったが、そこは濡れてもなく手の痕もついてはいなかった。

――夢だったんだ。そうだよ、あの早退した日以来、学校には一度も行ってない。水泳の授業なんて、受けているわけがない。運動音痴な私があんなに早く泳げるわけもない。それに「長倉」という知り合いは私にはいないんだから。

 

 佐保は1階へと下りていく。リビングのソファーでは優美香がうたたねをしていた。佐保が襲われたあの夜以来、ゲッソリと痩せてしまった優美香の目の下には、濃いクマが浮かび上がっていた。

 佐保は優美香を起こさないように、「ごめんね」とそっと呟いた。

――勇気を出してもう一度外へ行ってみよう。このまま、一生この家に閉じこもったまま、生きていくことなんてできない。学校だって、戻りたい。学校を卒業したい。あの18才の誕生日は、私の人生で1番最悪な日だったんだ。もうこれから先の人生で、あのこと以上に、最悪なことは起こらないと信じるんだ。

「近くのコンビニまで行ってきます。すぐに戻ります。佐保」と、佐保は優美香が眠っているソファーの前のテーブルにメモを残し、玄関へと向かった。

――コンビニはすぐ近くだ。それに今が太陽が1番高く上がっている時間帯だ。自分のために強くなることができないのなら、母のために家族のために強くなろう。



 コンビニのレジにいた若い男性店員は、佐保の顔も見ずに「いらっしゃいませぇ」と声を発した。

――大丈夫だった。1人で外に出れた。私はここまで来れたんだ。 

 暑さと緊張のため、喉が渇いていた佐保は、飲料水のコーナーへと足を向ける。

 だが、佐保の向かう先には、5、6人の少年がたむろしていた。蘇った恐怖に貫かれた佐保はハッとして、金縛りにあったようにその場に立ち止ってしまった。佐保の気配に気づいたのか、少年たちのなかで頭1つ分ほど飛びぬけた長身の少年が佐保のいる方向にクルッと振り向いた。

 「!」

 その長身で黒髪の少年も佐保の顔を思い出したのか、クッと笑い、側で他の少年たちと話し込んでいる金髪の少年の腕をつついた。

 金髪の少年も振り向く。少年たちの視線は一気に佐保に集まった。

「誰? 知り合い? 可愛いじゃん」

 髪をジェルで立たせ、両耳に輪っかのようなピアスを付けた少年が佐保を見て、言った。金髪の少年がニヤニヤしながら、彼にボソボソと耳打ちをする。

「え? あれがこの前ヤッた女?」

 彼の声に男性店員も顔を上げて佐保を見た。

 その場から逃げ出す佐保の背中に「おい、逃げるぞ!」「俺らにもやらせろって!」と少年たちの野次と笑い声が投げつけられた。



 蛇口をひねる。水は勢いよく流れ、手のコップから溢れた。

 正巳はそれに構わずコップに口づける。生ぬるい水にカルキの臭い。やはり飲みほすことができず、流しにそのまま吐き出した。窓の向こうには晴れた青空が見ええていた。

 突如鳴らされた玄関のチャイムが静寂を破った。

 正巳は物音を立てないようにそろりそろりと玄関へと向かう。 

――外にいるのは警察か? もし警察だったら、どうする? 押入れに隠れ、このまま居留守を使うか? それともとりあえず財布だけ持って窓から逃げるか? ここは2階だ。飛び降りても、大怪我はしないだろう。

 正巳はドアスコープより恐る恐る訪問者の姿を確認する。夏樹だ。我妻佐保の一件以来、正巳は夏樹とは一切連絡を取っていなかった。正巳は玄関を開けるべきか否か迷う。

「おい! 正巳! いるんだろ!」

 夏樹が拳で玄関ドアを叩いた。正巳が返事をする前に、さらに強く「正巳!」とガンガンと叩き始めた。

「近所迷惑だろ……静かにしろって」

 正巳が玄関を開けるなり、夏樹はスニーカーを乱暴に脱ぎ捨て、ズカズカと正巳の部屋に上がり込んできた。

「姉ちゃんは? 今日はキャバか?」

「……帰れよ」

「あン?」

「俺はもうお前らとは縁を切りたい。帰れよ」

 正巳の顔をまじまじと見ていた夏樹が、クッと笑った。

「お前、もしかしてあの女のこと、まだ気にしてんのか?」

「俺はもうお前らにはついていけない。勝手にやってろよ。」

 夏樹は、目も合わさず言葉を吐き捨てる正巳を全く意に返さず、平然としていた。そして、正巳の反応を楽しむかのように言った。

「そういや今日あの女に会ったぜ」

「え?」

「コンビニで照彦や町沢たちといた時に、偶然あの女が来たんだよ。俺らの顔見て、ガクガクしながら逃げてってさ」

 夏樹はまた喉をクッと鳴らす。

 正巳は、夏樹の癖ともいえるこの笑い方が妙に腹立った。

「何がおかしいんだよ!」

「別に」

「お前、あの子に酷いことをしたとか、思わないのか?」

「……殺したわけじゃないし、セーフだろ。サツにもチクられてねえみたいだし、もう忘れようぜ」

「何がセーフだよ。もし、自分が同じ目にあったらとか、思わないのか?」

「俺は男だし、そんな目にあうわけないだろ。まあ、ヤってる最中に『ママ、助けて!』って、叫ばれた時はさすがに萎えたけどな」

「お前!!」

 正巳は夏樹の胸倉をつかみ、下から睨みつけた。

「お前は最低だ」

 黙って正巳の顔を見下ろしていた夏樹が、プッと吹き出した。

「なあ、正巳。お前が1番最低じゃね? そんなこと言うんだったら、俺らをボコってあの女助けりゃよかったのに。お前、逃げただろ。結局、助けなかったろ?」

 正巳の頬がカッと熱くなり、夏樹の胸倉をつかむ手にも力が入った。

「お前、最初は俺らの計画に乗っておきながら、土壇場になって1人逃げやがってよ。何が『俺は関係ない』だよ。計画に乗った時点でお前も関係大有りだっての。1人だけ罪の軽い安全な身分かよ!この裏切り者が!」

 夏樹も正巳の胸倉をつかみ、正巳を睨み返した。正巳は気づく。夏樹の瞳に時々宿る、あの冷たい光が宿り始めていることに――

 けれども、今日の正巳は引くことができなかった。彼らのどちらが先に手を離して、相手の顔に一撃をくらわせるか、緊迫した空気は一瞬で部屋を満たした。

 だが、それを破ったのは、玄関からの聞こえた麗子の「ただいまあ」という声だった。

「正巳、今、誰か来てるの?」

 麗子は玄関に脱ぎ捨てられた大きなスニーカーに気づいたらしい。両手でガサガサと音を立てていたスーパーの袋を台所に置いた麗子は、ヒョイと正巳の部屋を覗いた。

「あんたたち、何やってんの!」

 驚いた麗子に、夏樹が正巳の胸倉から手を振り払い、舌打ちをした。「逢坂くん!」と麗子が呼んだが、彼は麗子の肩を押しのけるようにして、出て行った。 

「どうしたのよ? 一体? 何があったのよ?」

 正巳は腕を下に下ろしたまま、麗子から目を逸らした。

「……ただの喧嘩だよ」

「そんなわけないでしょ。ちゃんと言って。原因は何なの?」

 麗子は正巳の肩をつかみ、自分の方を向かせた。

「……なあ、姉ちゃん。友達って一体なんなんだろうな……俺、分かんねえよ……」

 正巳はかすれた声で、困惑したままの麗子に答えた。



 今日の3時に宵川斗紀夫の家には1人の来客の予定があった。だから、彼は今、自分の目の前にいる招かざる客を何とかしなければいけない。

 短期の取材旅行のため家を開けていた斗紀夫の帰宅を待ち伏せていた「元」恋人の相田千郷は、唇を結んだままソファーに座っている。少し前に、別れ話を持ち出したときは、泣きわめいて手がつけられなかった。だが、彼女は今は静かに自分の膝の上に視線を落としている。

 千郷から最初に出てくる言葉は、斗紀夫には予測がついていた。

「別れるなんて、絶対に嫌」

 斗紀夫の予測は一文字一句正確に的中した。千郷はまだ下を向いたままだ。

 服装はシンプルな白いノースリーブとベージュの膝丈スカート。ノースリーブから出ている腕は32才という年齢のわりに引き締まっており、一見、地味に見えるこの服装も、時計やアクセサリーでセンス良く見せている。年相応には見えるし、誰もが認める美人というわけではない。だが、大多数の人間が千郷を見た時、社会で仕事をしている1人の魅力的な女性と見るに違いなかった。

――千郷は、俺にしか相手にされないという女では決してない。なのに、なぜ、こんなに俺に執着するのだろうか?

「お前にはもっといい人が現れるよ」

 千郷はバッと顔を上げた。

「もっといい人って何? 私はあなたが好きなのよ!」

「……千郷、大人の終わり方をしよう」

「大人の終わり方ってなんのなの?」

 ついに千郷は顔を覆ってすすり泣き始めた。

「……恋愛は、両方の気持ちが通じ合って、成立するものだろう?」

 斗紀夫の言葉に千郷の泣き声はぴたっと止まった。

「私のことを愛していないと?」

 黙ったままでいる斗紀夫の態度を肯定ととった千郷は、矢継ぎ早にまくしたてた。

「誰? 誰なのよ、あんたの新しい女って? もしかして、隣の家のシングルマザー?」

「……そんなわけないだろ」

「もしかして、隣のあの高校生のこと、好きなんじゃないの? あの夜以来、なんだかあんたの様子おかしいもの」

「……あのさ、千郷。自分の知っている女の子、それも俺に会うたびにきちんと挨拶をしてくれるような女の子があんなことになって、何も思わないわけないだろう」

 千郷が弾かれたように立ち上がり、斗紀夫にしがみついた。

「お願い。お願いよ。もう一度だけ、私を……」

 斗紀夫の鼻のあたりに、千郷の頭があった。千郷のシャンプーの香りが鼻をくすぐる。それは車の中で、ベッドの中で、何度も斗紀夫が嗅いだ匂いだった。

 その時、斗紀夫に助け船を出すかのように、玄関のチャイムが鳴った。

「お客様だ。悪いけど、今日は帰ってくれ」

「新しい女が来たんでしょ!どんな女か見てやるわよ!」

 玄関へと走っていく千郷の荒々しい足音を聞きながら、斗紀夫は深い溜息をついた。

――こんな女だとは思わなかった。綺麗な思い出までも台無しになってしまうじゃないか。

 千郷は勢いよく玄関を開けたらしいが、何も聞こえてこなかった。おそらく、千郷も来客も呆気にとられてるといったところだろうと斗紀夫は思った。

 斗紀夫はソファーに置きっぱなしの千郷のバッグを持ち、玄関へと向かった。

「千郷、忘れ物だよ」

 そして、立ち尽くしている千郷の耳元で囁いた。

「高校生の男の子の前で、みっともないところなんて、見せたくないだろ」

 

 貴俊が腰かけているソファには、まだぬくもりが残っていた。先ほど、玄関に飛び出てきた女性の目は赤く、頬には流れ落ちる途中の涙があった。

――あの女性は確か、あの夜、宵川先生と一緒にいた千郷という女性だ。

 貴俊は、つい先ほど、「我妻」と表札がかかった家の前を通った。

――学校が夏休みに入る前に一度だけ、我妻さんは登校してきていた。でも、すぐに早退してしまった。もしかしたら、僕の顔を見たからかもしれないな。

 貴俊の前に、飲物がコースターとともに置かれた。

「ありがとうございます」と頭を下げた貴俊に、斗紀夫が言う。

「烏龍茶だよ。冷蔵庫にある飲物は、ビールか烏龍茶なかったからね」

 冷房の効いた部屋。このテーブルの上は片付いていたものの、棚の上には本が積み重なっていた。

 貴俊は中学生時代に1冊だけ、宵川斗紀夫の本を読んだことがあった。確か、殺人鬼の幽霊が主人公に憑依し連続殺人事件(被害者は皆若い女性だったはず)を起こすというストーリーだった。話のテンポが良かったため、貴俊は一晩で読んでしまった。確かオチは、殺人鬼は幽霊などでなく、主人公が抑えていたもう1人の自分だった――ように記憶していた。

「で、矢追くん。話って何?」

 斗紀夫が向かい側のソファに腰を下ろし、優し気に問う。

「お忙しいところ、すいません。あの………先生は幽霊って信じますか?」

「幽霊?」

 斗紀夫は眉を潜めた。

「学校で何かブームでも、起こってるの? 佐保ちゃんにも前に同じことを聞かれたよ。いや、佐保ちゃんに聞かれたのはゾンビだったか……」

「我妻さんが?」

――やっぱり、そうだったのか。”あいつ”は彼女のところにも、現れていたんだ。

「まあ、話としては面白いだろうね。死してなお、強い情念をもった者が生きた者の前に現れるなんて……」

 貴俊は俯く。しばらくの間、沈黙が続いた。先に口を開いたのは、斗紀夫だった。

「君は見たのかい? その幽霊を?」

「……ずっと気配を感じているんです。僕のことをまだあきらめてはいない。……我妻さんのところにもきっと現れたんだ」

「佐保ちゃんのところに? それはなぜ?」

「僕が転入してきてまだ間もないころ、学校で彼女が転びそうになったことがあったんです。その時、腕をつかんで、その……体に触れて助ける形になってしまって……」

「よく分からないけど、佐保ちゃんがあんな目にあったのは、もしかして、その幽霊とやらが関係しているの? 佐保ちゃん、学校に行けなくなってるみたいだね。やっぱり、いろいろ噂になってるんだろうね。かわいそうに」

「僕は誰にも喋ったりしてません!」

 貴俊の頬は痛いくらい引き攣っていた。そして、絞り出すように言葉を続けた。

「……僕は自分で身をもって、経験しているんです。それこそ、口から出たことでも、ネットに書かれたことでも、嘘でも真実でもなんでも広がっていくってことを……」

 貴俊は額に手をあて、呼吸を整えようとした。落ち着け、落ち着くんだ、と。

 再び、2人の間に沈黙が続いた。それを破ったのは、またしても斗紀夫だった。

「矢追くん……君は去年、X市で起こった、同級生による一家殺害事件の被害者だね」

 貴俊はびっくりして顔を上げる。

――知っていたんだ。この人も。ネットであの事件を、そして殺された僕の家族の名前を検索したりしたんだ。だから、知ってるんだ。逃げても逃げても逃げられやしないんだ。

「……ネットから知ったんですか?」

 貴俊は自分でも抑揚のない声で話していることが分かった。

「……関係者からね、顔が割と広いもんだから」

「……すいません」

 膝の上で固く握りしめた貴俊の手の甲に涙の粒が落ちていく。

 貴俊のすすり泣きはやがて嗚咽へと変わった。

「俺でいいなら、話を聞くよ」

 止めることのできない涙を手の甲でぬぐった貴俊は、ゆっくりと口を開き始めた。

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