第2話

(中牧東高等学校 非公式匿名掲示板より抜粋)

20×6年7月13日(水)

〉俺、すげえこと聞いちゃったよ。うちの3年の奴が襲われたんだと。


〉マジでか? 襲われたのって、男? 女?  


〉そりゃあ、女に決まってんだろ。男襲って何になるんだよ。


〉世の中にはいろんな性癖の奴がいるから、念のために聞いただけだって。


〉お前は一体、どんな性癖を持っているんだよwww

 そんなことより、被害者についてkwsk  


〉いや、被害者が誰かは俺も知らない。人から聞いただけだし。


〉じゃあ、最初から書くなよ(怒)燃料投下したかっただけかい。


〉もしかしたら、そうじゃないかって思う子がいるんだけど……


〉誰? ヒントだけでいいから、教えてくれ。


〉ヒントは つ My wife


〉ヒントというより、もろ本名じゃねえか。

 最低だな、お前。一度死んでから、ここに来いよ。


〉死んだら、ここには二度と来れんだろwww

 というか、結局、誰? 同じ3年の女でも、名前知らない奴とか結構多いし。


〉あの3組の美形転入生の隣の席に座ってるあのおとなしそうな女子か。

 気の毒に…オ××コされちゃったんだ。


〉ずっと学校休んでるし、それに休む前の日、その子のお母さんから、

 「まだ、帰ってこない」って電話があったんだよ。

 しかも、その日、誕生日だったって。


〉うへえ、悲惨すぎ。誕生日にそんな目にあうなんて。一生忘れられないじゃん。


〉誕生日じゃなくても、忘れられんわwww

 というか、そんな詳しいことまで書くなよ。

 知ってるやつが見たら、一発でお前が誰かばれるぞ。頭悪すぎ。


〉同じ女でも平気でこういうこと書ける奴っているんだな……

 闇深すぎだろ。気分悪くなってきた……


〉私も本当に軽蔑する。でも、襲った犯人が捕まったのかすごく気になるよ。

 もし、犯人が野放しになったままだったら、安心して帰れないし。


〉私は聞かれたから、答えただけだっつうの。みんな知りたがっていたでしょ。

 それとブスは襲われないから、怖がる必要なんてないよ(笑)



 矢追貴俊は隣の我妻佐保の席に目をやった。

 佐保が学校に来なくなって、今日でちょうど1週間となる。佐保の友人である深谷日香里が歩いてきて、佐保が休んでいる間のノートのコピーを机の中に入れた。貴俊は昨日佐保と仲のいい高川翼が大きな瞳からポロポロと涙を流していたのを目撃した。いつもキャピキャピと話している篠口梨伊奈がやけに静かになっていた。クールな印象の海内亜由子も腹立たし気に携帯を鞄に放り込んでいた。

 それに貴俊は、教室のあちこちでヒソヒソと声をひそめた内緒話が交わされているような気がしていた。

――もしかしたら、あのことが噂になっているのだろうか?

 あの日、暴行されボロボロの状態となっていた佐保は貴俊の顔を見た瞬間、道端で失神した。佐保を抱き起そうにも、貴俊は絶対にそれをしてはいけなかった。

――僕は女の子に触っちゃいけない。触れてしまうと、また”あいつ”が……

 だが、目の前の佐保をこのままにはしてはおけない。これは、明らかに強姦されている。救急車と警察を呼ぶべきだと、貴俊が地面に落ちた携帯電話を拾い上げた時、車のクラクションが鳴らされた。

 その車の運転席から、男性(後に我妻佐保の隣人で作家の宵川斗紀夫だと分かった)が下りて、こちらに走ってきた。それを追うかのように助手席からはスーツ姿の女性も走り出てきた。その女性(宵川斗紀夫の恋人で千郷という名であるらしい)は、佐保を見て、真っ青になり慌てふためいていた。

「落ち着いて。この子は隣の家の子だ。まずは、ご家族のところに送ろう」

 斗紀夫の言葉にわずかに落ち着きを取り戻した千郷は、「車を回してくる」と斗紀夫から車の鍵を受け取り、駆けていった。

 斗紀夫は気を失った佐保を両腕で抱き上げ貴俊を見た。

「君は?」

「……僕は、我妻さんのクラスメイトの矢追です」

「君も車に乗って」

「え……」

「早く! 人が集まって大騒ぎになるといけない」

 

 それから、佐保の家に着いてからのことを思い出すと、貴俊は胸から喉にかけて、ヒリヒリし始め息苦しくなってきた。

 母というより姉に見えるほど若い彼女の母親が佐保を抱きしめて泣き叫んだ。祖母らしき女性は、唇を一文字に結び、2人を家の奥へと連れて行った。

 玄関に残っていた佐保の祖父・我妻誠人は、キッと貴俊に視線を向けて、彼の肩に掴みかかった。

 その時、斗紀夫が貴俊の前に庇い出た。

「我妻さん、落ち着いてください。この子はただ通りかかっただけです。佐保さんを連れまわしていたわけでも襲った犯人でもありません」

 誠人は貴俊の肩をガッと掴んだまま、斗紀夫に聞いた。

「それは確かかね?」

「ええ。僕がそこにいる彼女と車で話していた時、佐保さんがフラフラと歩いているのを目撃しました。そして、その先で佐保さんが倒れこんだんです。この子はそこに駆け付けただけです」

「本当かね?」

 誠人は千郷に鋭い視線の先を移す。

「……はい。本当のことです」

 千郷は誠人の剣幕に怯えたように、目を伏せて頷いた。斗紀夫が続ける。

「この子――矢追くんは佐保さんのクラスメイトとのことで……道端に人が集まって大騒ぎになるよりはと思って、矢追くんも車に乗ってもらったんです」

 貴俊の肩から誠人の手が離れた。

「……すまなかったな、君……もう遅いから家に帰りなさい。そうだ、タクシー代を……」

 誠人は使い込まれた分厚い長財布から、一万円札を数枚出し、貴俊に握らせようとした。

「いただけません」

 貴俊はきっぱりと言った。

 これはタクシー代というより、口止め料だということが彼には理解できた。

 誠人の目をしっかりと見て、「僕は絶対に誰にも言いません。絶対に――」と言う貴俊を斗紀夫が制した。

「我妻さん。彼は僕が送っていきます。それよりも、佐保さんと優美香さんを」

 佐保の母、優美香がパニックを起こして泣き叫ぶ声はまだ続いていた。

 先に玄関を出た貴俊には、誠人と斗紀夫のどちらの声が分からなかったが、「内密に」「将来に」と言っているのが聞こえた。

 

 斗紀夫の車の後部座席でとっくに冷めたコンビニ弁当を膝に置いたまま、貴俊は下を向いていた。

 運転席の斗紀夫も助手席に座っている千郷もずっと黙ったままだった。千郷が自宅マンション前で下りた後、車内は貴俊と斗紀夫の2人だけになった。

「矢追くんのマンションはもう少し先だね」

 ハンドルを握りしめたまま、斗紀夫が言った。

「あのね、矢追くん。今日のことだけど……」

「僕は誰にも言いません!」

 斗紀夫の言葉を遮るように、貴俊は大きな声を出していた。

「……分かってるよ」

 斗紀夫は前を向いたまま、ハンドルを握りなおした。

 貴俊は、「すいません」と頭を下げた。貴俊には対向車のライトに照らされた斗紀夫の手が赤く染め上げられているように見えた。

 それから彼らは一言も発することなく、貴俊のマンションの前まで来た。斗紀夫が運転席から貴俊の住むマンションを見上げた。

「あれ? ここって単身者用のマンションじゃ……1人暮らしなんだ?」

「はい。事情があって……」

 斗紀夫はダッシュボードから自分の名刺を取り出し、貴俊に手渡した。

「困ったことあったら、連絡して。携帯番号も書いてあるからさ。頼れる大人の存在は増えるほうがいいだろう?」

「……ありがとうございます」

 貴俊は頭を下げた。

「今日は君も災難だったね」


――災難か……

 貴俊は佐保の席にもう一度目をやった。

――我妻さんにとって災難の一言では表せないほどののショックを受けているだろう。でも、あの近辺は彼女の家とは全く逆方向になると……誰かと会っていたのだろうか? それとも行きずりの車に連れ込まれ、あの辺りに捨てられたのだろうか? それとも……

 貴俊の手は震え出した。

――まさかあいつが関係しているのか。いや、死んでいるに違いない人間が生きている人間の男をそそのかすなんて、不可能だ。それに彼女は隣の席に座ってはいるものの、親しく話をしたことなんて一度もない。ただのクラスメイトに過ぎない。確かに前に転びそうになった彼女の腕を手に取り、助けたことはあった。それだけだ。もし、僕が彼女に触れたことが原因であいつが彼女に危害を加えるなら――きっと、”前の時”みたいにその日のうちに危害を加えているだろう。

 貴俊はまだ震えている拳をギュっと握り込んだ。窓から見える晴れていたはずの青空はいつのまにか、濁った色に変わっていた。


 斗紀夫は我妻家の玄関のチャイムを鳴らした。彼の手には、「0707」と彫られた金色のキーホルダーの付いた鞄があった。

 玄関からは美也が顔を出した。彼女の目の下には濃い隈ができ、綺麗に染めらていた髪の所々に白髪が目立つほどになっていた。

 斗紀夫は玄関には入らず、その場で美也に佐保の鞄を手渡した。

「昨日、僕の恋人と一緒に探しに行ったんです。大体の場所の予測はつきましたので……」

「……ありがとうございます。あの子の鞄は一体、どこに……」

「M区の廃工場です。『沼工場』とか呼ばれている……他にも数か所探しに行ったのですが、僕の恋人が最初に見つけました。彼女は会社勤めなんで僕が代わりに届けにきたんです」

「……かわいそうに……」

 美也が苦し気な声を出した。

 斗紀夫は本当は破かれた下着も見つけていたがそれは伝えなかった。

「佐保さんのお友達からのプレゼントだと思われるものも鞄に入れておきました」

「あの日、あの子の18才の誕生日だったんですよ……」

「……あの、それでは、僕はこれで失礼いたします。」と、斗紀夫は頭を下げた。

 そっけないかもしれないが、ここから先は家族でもない他人が入っていい領域ではない、と斗紀夫は美也に背を向けた。

「宵川先生、ありがとうございます。こんなに親身になっていただいて……」

「いえ、隣人として放ってはおけなかっただけです。」

 斗紀夫は振り返って答えた。

――それは事実だ。俺は本当に佐保ちゃんのことを放っておけなかったんだ。

 自宅の書斎に戻った斗紀夫は、真っ先にパソコンの電源を入れた。

 佐保のこと以外にも彼には放っておけないことがあったのだ。貴俊を送り届けたマンションの前で、貴俊の形のいい鼻梁が行き交う車のヘッドライトに照らされていたことを思い出す。

――あの矢追くん……もしかしたら彼は……

 斗紀夫は冷蔵庫で冷やしていたビールを一口だけ飲み、キーボードを叩いた。

 検索結果が表示された画面からは一瞥しただけでも「殺人」「刺殺」「母親」等の言葉が目に飛び込んでくる。斗紀夫はサイトの1つにマウスのポインタを合わせた。



――あいつらにされたことの全てを覚えていたとしたら、私はもう生きていなかっただろう。ここにあいつらはいない。ここは家だ。安全な場所だ。あいつらがここまでやってくるわけがない。

 佐保は目を閉じた。途端にあの薄汚い場所へと引き戻された。

 あの背が高くて眼光の鋭い黒髪の少年、ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべていた金髪の少年。自分を押さえつける黒髪の少年の強い力と、金髪の少年がはやし立てる声。荒い息遣いと体を撫でまわす手、そして脚の間に走った痛み。

――私はあの2人に……!

 佐保は呻いた。どれくらいの間、呻き声をあげていたのか自分でも分からない。もしかしたら、自分で思っているより長かったかもしれないし、短かったかもしれない。

 佐保の声を聞き、駆け付けた優美香に苦しいほど強く抱きしめられた。佐保は優美香にしがみつく。

「佐保、もう、何も怖いことはないのよ。ママはここにいるからね。迎えに行けばよかった。ごめんね、守ってあげられなくて」

 優美香の涙が佐保の髪を濡らした。

――そんな、ママは悪くない。悪くなんてない。私があの時間、あの場所を通らなければ、声をかけられた時点ですぐに走って逃げていれば――私が何をしたっていうの。あの人たちに何もしていない。知らない人達なのに。誰かに頼まれた。確かそんなことを言っていたような気がする。でも、心当たりなんてない。自分が知らないだけで、誰かの恨みを買っていた? そうだ、私、どうやって家まで帰ってきたんだろう。

 佐保はしゃくりあげながら、バラバラになった記憶のピースを組み合わせようとした。

――確か少年のうちの1人が逃がしてくれた? 「逃げろ」といった声を聞いたような気がする。そして――その先で――そうだ、矢追くんだ。矢追くんに会ったんだ。知っている男の子に、見られた。あんな目にあった後を……!

 自分の姿を見た貴俊の驚いた表情を思い出した佐保は、「嫌だ、嫌だ」と優美香にさらに強くしがみついた。

 部屋に美也が入ってきた。手には佐保の鞄がある。

「宵川先生達が探して、届けてくださったの」

――そうだ、あいつらにお金も取られた。日香里たちがくれた誕生日プレゼントまで床にぶちまけられた。もしもの時に鞄に入れてた生理用品まで見られた。

 美也が言う。

「佐保。警察に行きましょう。このまま、泣き寝入りしていいの」

 優美花の胸元に顔を埋め、佐保は首をぶんぶんと振る。美也はなおも続けた。

「おじいさんも同じ考えよ。裁きを受けさせるべきだわ……それに犯人たちは別の女性にも同じようなことをするかもしれない」

 他の女性にも同じことを? そこまで考えていなかった。考えられなかった。

「犯人はどんな奴らだったの?」

「……若かった。多分私と同じくらいの年だと……」

 少年たちは全員互いにため口で話していた。兄弟にも見えなかった。おそらく彼らは年の近い友人同士だろうと。

 佐保が少年たちの顔を思い出そうとすると、忌まわしい記憶の果実を1枚1枚剥いているような恐怖を感じた。それを全て剥き終ってしまったら――きっと正気ではいられなくなる。

 佐保は優美香の腕からも離れ、布団にくるまった。

「お願いです! 思い出したくないんです! 1人にして……」

 優美香の手が頭を撫でるのを感じたが、それを振り払うようにして、佐保は布団に顔を押し付けた。


 同時刻、あの日、唯一輪姦に加わらず佐保を逃がした少年、櫓木正巳も布団にくるまり、呻き声を発していた。

 蒸し暑い部屋。正巳の全身は汗ばんでいる。だが、正巳は布団に潜り込まずにはいられなかった。

――あいつら、とうとうやってしまった。俺、本当にあの2人を止めることができなかったのだろうか? 本当にあの子を助けることはできなかったのか?

 夏樹と照彦、そして佐保の顔が正巳の周りをグルグルとまわっているようだった。その中の夏樹の瞳に射抜かれたように体を震わせた。

――そうだ、どのみち、止められなかった。俺はあの子を助けられなかった。あいつに、夏樹に逆らうことなんてできない。夏樹は同い年で小学校からの友達だ。でも、俺は心の底では夏樹を恐れていたんだ。俺たちの間には目には見えない暗黙の上下関係があるんだ。照彦がそれに気づいているかのように、時々、俺を馬鹿にしたような態度をとることがある。照彦は長いものに巻かれろといった太鼓持ちだ。いつも、その場所にいる1番強い者に乗っかる。あの時はそれに性欲が加わり、夏樹についたのだろう。

 あの日、家に戻ってきてから、正巳は一度も外に出ていなかった。携帯も電池が切れたまま、部屋に転がっている。お腹が鳴ったら、姉が買ってきている弁当を食すだけだ。家の外にには、夏樹や照彦が待ち構えているように思えていたからだ。

 正巳は思う。

――もしかしたら、夏樹たちだけではなく、他の仲間や先輩も引き連れているかもしれない。それよりも、あのことは犯罪だ。我妻佐保が警察に通報したのなら、警察が待ち構えている。いや、警察なら外で待たずにこの部屋に強引に押し入ってくるだろう。そして、この布団を引きはがして……

 瞬間、正巳の布団が勢いよくめくりあげられた。

「わっ」と叫び、飛びあがった正巳であったが、姉の麗子が不思議そうな顔をして目の前に立っていただけだった。

「どうかした? そんなにビックリしてさ。さっきから何度も読んでんのに、寝てるのかと思ったじゃん」

 香水の香り。麗子の化粧は隙なく完璧に、そして栗色の髪は高く結上げられている。いつもの出勤スタイルだ。麗子は正巳の頭をポンポンと軽く叩いた。

「私、これから同伴出勤だから。いつものお弁当買ってきてるからね」

「……もう、そんな時間なんだ……」

 ボソッと呟いた正巳を麗子はいぶかしげに見る。

「ねえ、なんかあったの? 最近なんか様子おかしいよ」

「……別に何でもねえよ……」

 そっぽを向いた正巳に、麗子は思う。

 弟の様子がおかしいのはちょうど1週間ぐらい前からだ。最初はただのよくある友人との喧嘩が原因かと思って、何も言わないでいたが、どうやらそうでもなさそうである。正巳は家からは一歩も出ず、部屋に閉じこもったまま、日に日に表情が暗くなっていっている。

「ねえ……」

「何でもないって、言ってるだろ!」

 麗子の言葉を遮り、正巳は立ち上がった。

「ちょっと、正巳。どこ行くのよ!」

「風呂だよ……それに何かあったとしても、姉ちゃんには関係ないことだよ!」

 あの日ことを自分の中にしまいこんだままでいたら、正巳は体の中から徐々に腐っていってしまう気がした。本当は全て麗子に話して、吐き出してしまいたかった。だが、そうすると、自分は直接、我妻佐保に何もしていないにしても、姉を悲しませ、軽蔑され、嫌われるだろう。たった1人の家族に嫌われるのは怖かった。 

――なぜ、俺はあんな計画に乗ってしまったんだろう?  

 正巳は暗い洗面所の冷たい床に座り込み、汗ばんだ髪をかきむしった。



 優美香の運転する車から降りた佐保は、大きく深呼吸した。

 朝の空は、青く澄み渡っていた。その下では幾人もの生徒が校門に吸い込まれていく――

――とうとう来た。私は昨日、学校に行く決心をした。だから、ここにいる。大丈夫だ。あの生徒の流れに乗ればいい。簡単なことだ。今までずっとそうしていたんだから。そうしたら、きっと前の日常に戻れる。前の私に戻れる。

「佐保、無理しないで。何かあったら、すぐに連絡するのよ」

「ありがとう。ママ」

 佐保は優美香に頷き、前に向かって一歩をを踏み出した。

 きちんと歩いていると体感できるから、ここにいることは夢ではない。でも、まるで夢の中にいるような気がした。まるで靄がかかっているような、心地よさなど微塵もない気持ちの悪い夢の中にいるような――

 目の焦点だって、合わせようとしているのに合わなかった。なのに、自分とすれ違っ生徒たちからの視線が自分に注がれているのが分かる。ヒソヒソと耳打ちもされているような気もした。

 定まらなかった佐保の目の焦点は、突如ある1点で止まる。

 廊下にいた貴俊と視線がかち合った。

 冷え切っていた自分の頬がカアッと熱くなっていくのを感じた。佐保は踵を返し、走り出した。

 

――駄目だ。やっぱり駄目だ。頑張って学校に来たけど、駄目だ。私は何も悪いことはしていない。恨まれる覚えなんてない。それに学校にあいつらはいない。だから、忘れよう。前を同じ生活を送るんだって、自分に言い聞かせて学校に来た。それに矢追くんが私に何もしてはいないのは理解している。彼は偶然あの場に居合わせてしまっただけだ。

 佐保は誰もいない校舎の影にしゃがみこんだ。

 何かスイッチが入ったかのように、全身の震えが止まらなかった。チャイムが鳴ったのを聞いたような気がする。でも、もう学校なんてどうでもよかった。

「助けて。迎えに来て」

 安全なところに帰りたかった。それは自分の家かもしれないし、世の中にこんな怖いことがあるとは知らなかった頃の自分かも知れなかった。

 背後の砂利を踏む音に佐保は飛びあがった。

「……走っていくの見えて……心配になって……保健室に行く? それともおばさんに迎えに来てもらう?」

 日香里だった。彼女の頬は引き攣り、赤いフレームの眼鏡越しのその目は潤んでいた。佐保は日香里の制服から伸びている手足が途方もなく、綺麗なものに見えた。


 優美香は、流れてくる涙を手の甲でぬぐいながら、車を走らせていた。

――昨日、娘が学校に行くと決心をした。あの子は強い子だ。だから、私も今日は娘の前では決して泣くまい。

 優美香はかつて佐保の父親である自分の恋人が、何も言わずにこの町を逃げるように去った時もこれほどまでに心をザックリとえぐられ、その傷口をじわじわと焼かれているような苦しみを感じることはなかった。

 優美香の妊娠が判明した時、父・誠人が母・美也に「お前、母親だろう? なぜ、気づかなかった!」と怒鳴っていた。美也が世界の終わりぐらいと思うぐらい絶望的な表情をして宙を見たまま、涙を流していた。優美香自身はもともと生理不順で、つわりもなどもなかったため、妊娠が分かったときにはすでに妊娠15週目に入っていた。

 結婚もしていない。それどころか、まだ制服に身を包んで学校に通っている身である。けれども、自分の体内にいる子供を中絶し、何もなかったかのように元の生活に戻ることなんて、できそうになかった。

 両親の隙を見て家を飛び出した優美香は、恋人の家を訪ねた。

 恋人は優美香が放課後によく訪れていた喫茶店の常連客であった。彼は28才の会社員だと言っていた。今思えば、会社員というのはおそらく嘘であっただろう。とても会社勤めをしているような風貌や話し方ではなかった。

 でも、優美香の初めての恋だった。最初は友人と喫茶店を訪れていたが、彼に会いたいがために優美香は1人で喫茶店に通うようになっていた。そして――今、優美香は身ごもっている。

 優美香から妊娠の話を聞かされた彼は動揺して「そんなこと知らない」と優美香の前で扉をバタンと閉めた。

 それから、優美香は自分がどうしていたのかは覚えていない。気が付いた時は、優美香は両親のいる家に戻っていた。後日、優美香は両親より、恋人が話し合いにも応じることもなく、この町から夜逃げのごとく姿を消したことを知らされた。

――私は彼を愛していた。でも、彼はそうじゃなかった。単に若くて世間知らずな高校生と遊びたかった。ただ、それだけだったのだろう。

 自分の胎内にいる子供は、まだ顔も分からなかった。自分を捨てた男の子供でもある。でも、どうしても子供に会いたかった。今のこの状況で「産む」という選択は、身勝手なことであるかもしれない。それに、子供は産んだら終わりというわけでもない。

 優美香の必死の懇願に、両親はついにしぶしぶながらも折れた。そうして、翌年の7月7日の明け方に、優美香は娘を産んだ。生まれてきた娘には「佐保」と名付けた。佐保が初めて自分の手をきゅっと握りしめてくれた時、優美香は自分を捨てた男への恨みや執着は吹き飛んだ。これは自分でも不思議なことだった。

――きっとあの人は私が佐保をこの世に産むための通過点にいた人に過ぎなかったんだ。大切な家族。大切な娘。その娘がどこの誰とも知らない男たちに――今一番苦しくつらい思いをしているのは佐保だ。こんな何もできない自分から生まれたとは思えないほど、真面目で努力家の娘だ。毎日夜遅くまで勉強していたのも知っている。今まで頑張ってきたことを無駄にしたくはないのだろう。あと半年ほどで卒業だ。学校に行くのなら、これから卒業までずっと送り迎えをしよう。警察に行くというのなら、一緒に行く。それはお父さんたちも同じ考えだ。あの子は言葉には出さないけど、きっと自分の誕生について、負い目を感じているのだろう。その負い目を作ったのは母である私自身だけども……あの子が生まれるまでいろいろとあったが、生まれた時は皆喜んだ。佐保が生まれ、成長していくのを見ていた父も母も本当に嬉しそうだった。それは今もこれからもずっと変わりないだろう。あの子は自分で思っている以上に、皆の大切な家族だ。これから先、どんなことがあっても――

 助手席に置いた鞄の中の携帯が着信を告げた。それは佐保からのものであった。

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