第2章

第1話

(中牧東高等学校 非公式匿名掲示板より抜粋)

20×6年7月5日(火)

〉あの3組の転入生、もしかしたらヤバい奴かもしれん……


〉ヤバい奴ってどういことだよ? それより、今授業中だろ。


〉お前にそっくりその言葉返すわwww

 あの転入生Yって、前にX市の高校にいたみたいだ。

 そこで大事件起こしているっぽい。


〉もっと詳しくプリーズwktk


〉いや、正確にいうと、事件を起こした奴ではない。

 だが、起こるきっかけを作った奴なのには、ほぼ間違いなし。

 詳細については、「X市」「殺人」「長倉」で検索したら、すぐに出てくるぞ。


〉これって、当時、すげえ騒ぎになってた事件じゃん。

 この事件の男子生徒って、あの超イケメン転入生のことなのか? 

 被害者と名字が違うじゃねえか。


〉俺の記憶違いだったらスマソだけど、確か転入前日ぐらい? に、あの転入生の

 保護者らしき人が「ナガクラさん」って校長に呼ばれていたって書き込みがなか

 ったっけ?


〉ってことは、やっぱりあの事件の男子生徒……なのかなあ? 

 ちょっと怖くなってきたよ……


〉あの事件後、X市にいられなくなって、ここまで逃げてきたんだろうな。

 でも、逃げた先でもこうやって特定されるなんて、ネットって怖すぎ。


〉あなたたち、最低ですね。

 そんな事実かどうか分からないことをこんなところに書いたりするなんて。

 自分がその人の立場だったら、どう思います?  


〉つうか、ここにきている時点でお前も同類だろ。

 同じ穴の狢が偉そうに説教垂れるんじゃねえよ。



 7月7日。

 佐保は今日、18才の誕生日を迎えた。でも、昨日までの17才の自分と比べて、何かが変わったかというわけではない。今朝、自宅の鏡に映った顔も昨日の夜に見た顔と変わりがないように思えていた。

 いつもと同じように登校した佐保が席に着くと、日香里と翼がやってきた。2人の手にあるのは、可愛らしい包装紙に包まれた佐保への誕生日プレゼントであった。

「2人ともありがとう。2人の誕生日の時にもお祝いするね」

 彼女たちに笑顔でお礼を言う佐保の元に、梨伊奈と亜由子もやってきた。

「へえ、佐保って七夕生まれなんだ。冬生まれっぽいイメージあったけど」と、梨伊奈が言う。

「今日、誕生日だったんだ。おめでとう。私と梨伊奈は同じクラスになるの初めてじゃない。言ってくれたら、よかったのに」

「ほら、佐保ってあんまり自分のこと話さないじゃん」と、梨伊奈が亜由子に言った。

 梨伊奈のその言葉に、またしても佐保の心は少しささくれだった。

 日香里と翼は、佐保とは小学校からの付き合いであり、一緒に過ごした時間は、高校で知り合った梨伊奈や亜由子よりもずっと長いし、気心だって知れている。けれども、やっぱり梨伊奈の言うように、自分のことを話さずに自分から膜を張っているところがあると佐保は自覚した。おまけに、極度のマイナス思考であり、人見知りでもあるとも。

 佐保は、梨伊奈のおしゃべりで噂好きなところは苦手であったが、明るく自分から人の輪の中に入っていけることは、素直に羨ましいとは思っていた。

「ねえ、もしかして、佐保って彼氏いない歴と年齢、同じだったりする?」といきなり梨伊奈に聞かれた。

「うん、まあ、そうだけど……」

 梨伊奈のそのストレートな聞き方に、少しカチンとはきたが、佐保は正直に答えた。

「なんだ、私と同じだね。今は受験のことで頭がいっぱいだけど、20才までには、彼氏欲しいよね」

「え? 梨伊奈、彼氏いるんだと思ってた……」

「私、男友達は結構いるんだけど、なかなか女として見てもらえないんだよね……何がいけないんだろ?」と、梨伊奈は唇を尖らせた。

 佐保の隣にいた亜由子が「しゃべりすぎるからよ」と梨伊奈に聞こえないほどの声でぽそっと呟いた。

「ねえ、佐保。今日の夜はどうするの? おばさんとどこかに出かけたりする?」と翼が問う。

「家でのんびり過ごすよ。ママがケーキ作ってくれてるんだ」

「いいなあ。おばさんのケーキって超美味しいんだよね。佐保ン家って、お金持ちだし、おばさんは綺麗だし優しいし、うらやましすぎ」

「そうよね、私服だっていっつも可愛いもん」

 日香里が相槌を打った。

 彼女たちの言葉に、佐保はふと考えてしまった。

――今の私は家族の、主に祖父母の経済力という庇護のもとに暮らしている。だが、その庇護から飛び立つ時、私には何が残るんだろう、と。

 それに、佐保の私服にしたって、ほとんど母の優美香が選んで買ってきてくれたものだった。優美香とは服の趣味が一致しているので、一度も困ったことなどはない。服の趣味のみならず、優美香と意見の食い違いで激しい衝突をした記憶は、佐保が思い出せる限りなかった。負い目や疎外感を感じながらも、今日まで18年間暮らしてきたあの家のなかで、母親である優美香との相性が抜群に良かったのは、大きな幸運であったに違いない、と佐保は改めて思わずにはいられなかった。


 授業が終わり、母の待つ家へと急いでいた帰り道、佐保は見知らぬ少年に声をかけられ振り向いた。

「今からちょっと遊びにいきませんか?」

 長身で黒髪の少年。その少年は佐保と同じか少し上くらいの年齢に見えた。

 だが、彼は少年というより男と形容した方がしっくりくるような風貌をしていた。痩せ形ではあるが肩幅が広く、佐保とは20㎝以上の身長差があった。

 それに、彼が佐保の頭の上から見せている笑顔は、無理やり作ったものであるかのように、その奥にある瞳は全く笑っておらず、佐保の背筋がゾクリとした。

「すいません。今から家に帰りますんで」

 佐保はその長身の少年に頭を下げ、再び歩き出した。

 会ったばかりの男の人なんかと遊びになんて行けるわけがない、と早足で歩く佐保が路地に差し掛かった時、後ろから足音が追いかけてきた。

 ハッとした佐保が振り返ろうとした瞬間、口を塞がれ、路地に引きずりこまれた。

 佐保は先ほどの少年に背後から体を押さえ込まれていた。逃れようと必死でもがく佐保であったが、少年の力には全くかなわなかった。

 

――何、この人! 誘いを断ったから、怒ったの? 嫌だ! 怖い! 助けて! 誰か! 

 パニックを起こし、なおももがき続ける佐保の下腹部に少年は拳をくらわせた。鈍い痛みに低く呻き、気を失った佐保は少年の腕の中に倒れ込んだ。少年は佐保を抱きかかえたまま、携帯を取り出す。

「俺だ、計画変更だ。こっちまで車回せ」

 仲間を呼んだその少年――逢坂夏樹は自分の腕の中で気を失っている佐保を見て、大きな舌打ちをした。


「優美香。少しは落ち着きなさい」

 携帯を手にオロオロと家の中を動き回る優美香に、美也の声は届いてはいない。

 今日は佐保の誕生日だ。テーブルには好物ばかり並んでいる。ケーキだって焼けている。なのに、佐保はまだ帰ってこない。門限の6時はもう2時間も過ぎている。何より携帯が全く通じないのだ。

 優美香の耳に何度も繰り返されていたのは、携帯の不通を告げる虚しいアナウンスだけであった。

 家の玄関が開く音に、優美香は即座に駆けていく。だが玄関にいたのは、誠人だった。

「どうしたんだ。遅くなるから、先に佐保の誕生祝いを始めててくれって言ったろう」

 泣き出しそうな優美香と、こわばっている美也の顔を交互に見た誠人は異変を察した。

「何があったんだ?」

「佐保が帰ってこないのよ。連絡もないし、携帯も全く通じないの」

「まだ、8時を過ぎたところじゃないか」

 誠人は腕時計を指で掴み、目を細めた。最近、視力が弱くなっているのか、彼は時計の針を読み間違えることがたびたびあった。

「佐保の学校の友人には連絡したのか?」

「高川さんと深谷さんのところとあと仲のいい数人の友達に……でも、皆、佐保とは学校で別れたきりだって……」

 美也が優美香の肩に手を置き、諭す。

「とにかく、警察に連絡するのは、少し待ちましょう」

「そうだな。高校生が一晩ならまだしも、8時を過ぎて帰ってこないだけじゃ、警察だって動いてはくれないさ」

「お父さんたちはいつもは佐保にうるさいくらい門限を守らせているくせに。佐保にもしものことがあったら、どうするの? こんなに遅くなることなんて、今までなかったわ。しかも、今日はあの子の誕生日なのよ。なのに……」

 優美香は言葉を詰まらせた。

 長い睫に縁どられた彼女の美しい瞳からは今にも涙がこぼれそうになっている。

「誰もここでただ待っているだけとは言ってないだろう」と、誠人が鞄から車の鍵を取り出した。

「駅の方まで探しに行こう。もし、入れ違いで佐保が帰ってきたら、携帯に連絡をくれ」

 美也にそう言い残した誠人は、優美香を伴い、外へ戻って行った。



 その頃――

 櫓木正巳の目の前には、気を失った我妻佐保が横たわっていた。

 近くには連絡を取れないように叩き壊された佐保の携帯が転がっている。

 当初の計画では、夏樹が我妻佐保をナンパし、うまい具合に言いくるめて、この廃工場まで連れてくる予定だった。だが、彼女はナンパには乗らなかった。

 夏樹から連絡があり、照彦が兄から借りた車で、なぜか気を失っている佐保をここまで運んできた。無論、照彦は運転免許など持ってはいないが、兄や先輩たちの見様見真似で一通りの運転を今日のこの日までしてきているのだ。

 正巳は鼻を鳴らした。黴と埃の臭い。だが、それ以上に夏の夜の蒸し暑さと混じり合って正巳の嗅覚を刺激するのは、淀んだ水の臭いだ。

 この廃工場が、通称「沼工場」と呼ばれている所以は、工場のやや中心部に位置している直径3メートル弱ほどの正方形の窪みに溜まっている水が、塵や虫の死骸を浮かべ、不気味な沼を思わせるからであるだろう。何の目的でこの窪みが作られたのかは、分からない。窪みの底は全くうかがい知ることができないほど、水は濁りきっていた。この中に死体が沈んでいる、化け物が棲んでいると言われても納得できるほど気味の悪い色をしていた。

 正巳が視線を少し上にあげると、壁に天井まで続く梯のような足場が目に入ってくる。足場の塗装は惨めなほどに剥がれ落ちており、実際に脚をかけるとメキメキと音を立てそうなことが遠目にも分かった。

 いつから、この工場が打ち捨てられていたのか正巳は知らない。もしかしたら、正巳の生まれる前、それこそ昭和の時代からかもしれない。

 ここは駅からも繁華街からも遠く離れており、暴走族のたまり場にすらならないような場所であった。耳を澄ますと外を行きかう車の音とこの工場の裏を流れる川の流れだけがしっかりと聞こえてくる。近くに進学塾の看板が見えたが、塾に通うような連中はここに足を踏み入れようとは思わないだろう。

 

 今日のこの状況のはじまりは、照彦がネットで妙な依頼を見つけたことであった。その時は、直接の依頼内容――30万円で我妻佐保をこの工場に連れてくる――は書かれていなかったらしい。興味本位で「依頼者」と連絡をとった照彦から夏樹へと話が伝わり、正巳も誘われた。「依頼者」より、拉致は必ず複数でとの指示があったらしい。

 前金の10万円は、昨日3人がこの工場の下見をした際に、茶色い紙袋に入れられて、入り口の脇に置いてあった。そして、今日、実際に我妻佐保の拉致に成功した3人は、「依頼者」から前金の2倍である金額の20万がもらえるはずだった。

 だが、時刻はすでに9時40分だ。約束の時間を40分も過ぎたのに、一向に「依頼者」は現れない。

 夏樹も照彦も、イラついた表情を隠せなくなってきている。そのうえ、彼らの視線は制服から伸びている佐保のなめらかな白い脚に注がれていた。

「遅すぎるだろ」

 吐き捨てた夏樹が、気を失ったままの佐保に近づいていく。

 夏樹は口元に笑みを浮かべ、佐保の頬にかかっている一房の髪をかきあげた。そして、「起きろ」と、彼女の頬をペチペチと叩いた。

 

 薄汚れた廃工場。淀んだ水の臭い。目の前には見知らぬ3人の少年。

 正巳たちの前で、目をあけた佐保は「ヒッ」と悲鳴をあげ、後ずさった。彼女は自分の身に何か起こっているのか、即座には飲み込めないようではあった。

「俺たち、お前をここまで連れて来いって頼まれたんだよ。でも、約束の時間過ぎたのにそいつは現れやしねえ」

 夏樹の言葉に佐保は何かを言いたげに口をパクパクと動かしていたが、その瞳からはみるみるうちに涙が溢れだしていった。

「し、知りません。そんな人、知らないです……」

 すすり泣く佐保に、照彦がニヤニヤしながら、夏樹に便乗した。

「そいつ、お前のこと、相当恨んでるっぽいぞ。何やったんだよ?」

「何にせよ、そいつが現れないと俺たちは金をもらえない。困ってんだよ、俺らも」

 夏樹はいらついた表情で、近くに転がっている佐保の鞄を手にとった。教科書、ノート、ペンケース、ハンカチ、財布、ポーチ、包装紙に包まれた包みが2つ、汚れた床にぶちまけられていった。

「なんだ、たった2千円しか入ってねえのかよ。」

 財布を手にとり吐き捨てるように言った照彦が、苺柄のポーチに目を向けた。

「何かと思ったら、ナプキンかあ」

 ポーチの中の生理用品を確認した照彦がうれしそうに言う。夏樹も笑みをうかべた。佐保は座り込み俯いたまま、全身を震わせ、すすり泣いていた。


「なあ、この子は知らないって言ってるだろ。このまま、帰そう」

 正巳は泣き続けている佐保から目を逸らし、夏樹たちに向かって言った。だが、彼らは佐保の全身を舐めまわすように見ていた。そして、佐保のすすり泣く声がやけに正巳の耳に響いてきてもいた。

――当たり前か。この状況で普通でいられる女の子なんていないだろう。このままだと、この子はただですまなくなる。俺はこれ以上、やばい橋を渡りたくはない。

 そんな正巳の心の声を見透かしたかのように、夏樹が正巳に向き直り、クッと喉を鳴らした。

「お前さあ、こいつがここに連れてこられて、『依頼者』とただ話をするだけで終わりだと思っていたのか? どうやら、あてにしていた金ももらえそうにないし、俺らがこいつをヤっちゃっても変わりはないだろ」

 夏樹から発せられた「ヤる」という言葉に佐保は飛びあがった。悲鳴を上げ、逃げようとした佐保の両手首を、素早く彼女に飛びかかっていった夏樹が即座に掴んで地面に押し倒した。

「はなして! はなしてください!」

「……静かにしろよ」

 夏樹に乗りかかられた佐保は、ビクリと身を震わせ、顔をそむけたまま、唇を震わせ再びすすり泣き始めた。

「お前が『依頼者』と知り合いだろうが、そうでなかろうが、そんなこと俺らにはどうだっていいんだよ。ただ、お前をこのまま帰すわけにはいかん」

「そういうこったよ。早く犯しちゃおうぜ」

 照彦も佐保に向かって一歩を踏み出した。

「よせよ!」

 正巳が照彦の腕をつかむ。

「なんだよ? お前はさっきから一体何がしたいんだよ?」

 照彦は正巳を睨み付け、手を振りほどいた。夏樹の下にいる佐保と正巳の目が合う。

 佐保は「嫌よ、こんなの嫌よ。お願い助けて。お願い助けて。お願い助けて」と、自分を助けてくれるかもしれない唯一の希望である正巳に訴えかけるかのように、震えながら涙を流し、正巳に目で懇願していた。

 その彼女の上で彼女を押さえ込んでいる夏樹は「お前、俺たちの邪魔をするのか? お前にそんなことができるのか?」と正巳に言いたげな表情を浮かべ、フンと鼻を鳴らして、唇の端をわずかに上げた。

 正巳の中で幾人もの自分が口ぐちに何かを言っていた。「可哀想だ、助けよう」「助けてどうすんだ」「俺は夏樹と喧嘩して勝てるのか」「俺はこの子に酷いことはできない」「でもこいつらを押さえることはもっとできない」と――

 正巳は薄汚れた工場の地面に視線を落とした。そこには1匹の蝿の死骸が転がっていた。

「……俺は知らん……俺は関係ない……」

 正巳は佐保が「ヒッ」と喉を鳴らし、目をひんむいているのが分かった。

 だが、正巳は俯いたまま工場の出口へと駆けて行った。後ろから照彦の「あいつ、やっぱりヘタレだな」という声が聞こえた。

――駄目だ。もう駄目だ。できない。おれにはあいつらを止めることなんてできない。

 正巳の背中に、佐保の絶叫が突き刺さってきた。それから逃れるように外に出た正巳はその場にへたり込み、耳を塞いだ。

 だが、さらに聞こえてくる佐保の悲鳴は正巳の鼓膜だけではなく全身を延々と震わせるものであった……


 数十分後、静かになった工場の中に戻った正巳が見たのは、両脚を広げたまま打ち捨てられていた我妻佐保の姿だった。制服のブラウスやスカートは身に着けてはいたものの、近くには破かれた白い下着があった。そして、白い太腿の内側には血がついていた。

 正巳はその光景から目を背けた。

――俺は何もしちゃいない。俺は悪くない。俺は……

 ベルトを締め直した夏樹は、平然と煙草をふかし始めた。その傍らでは照彦が携帯をいじくっている。

「どこに電話してんだ?」

 夏樹が照彦に聞いた。

「いや、ダチにもやらせてやろうと思ってよ」

「好きにしろ」

 夏樹は口からフッと煙を吐き出した。

――照彦の奴、他にも人を呼ぶ気なのか? まさか、町沢たちを……! まずい! もしかしたら、10人近くここにやってくるかもしれない。そうしたら、この子は……!

「もう、やめろって!」

 正巳は照彦の携帯を取り上げようとした。

「うるせえな! インポは黙ってろよ!」

 照彦は正巳を睨んで突き飛ばした。よろけた正巳の視界に再び佐保の姿が映った。

 正巳は恐る恐る佐保に近づく。彼女はまばたきもせずに、宙を見ていた。だが、正巳が近づく足音に反応したかのように、かすかな悲鳴を発した。

「やりたいなら、お前もやりゃいいのに。久しぶりなんだろ?」

 正巳は夏樹の声には答えなかった。

「おーい、ナツ、ちょっと変われってよ」

「俺か? つうか、誰と話してんだよ?」

「町沢だよ。そこらへん電波悪ぃから、声聞こえづらいぞ」

 夏樹が照彦のところに歩いて行く。

 距離ができた。照彦から携帯を受け取った夏樹が何を話しているかも、正巳のいるところでははっきりとは聞こえないほどの距離が。 

 今だ、今しかない!と、正巳は素早く佐保の両腕をつかみ、強引に立たせた。そして、「逃げろ! 早く!」と背中を押した。正巳の手に弾かれたように佐保はよろけながらも出口に向かって走り出した。

「おいっ!」

「え……マジ?」

 逃げる佐保に気づき、真っ先に追いかけようとした夏樹の前に正巳は立ちふさがった。

「正巳、てめえ! 何やってんだよ! どけよ!」

「やばい! あの女、外に出たぞ!」

 後ろで照彦が叫んだ。正巳は、夏樹に胸倉をつかまれ、床に蹴飛ばされた。

「何で逃がした! あのまま、サツに駆け込まれたら、どうすんだよ!」

「余計なことすんじゃねえよ! 先輩に頼んでボコるぞ、コラ!」

 倒れ込んだ正巳の太腿に、照彦の蹴りが入った。

 床に転がったままの正巳を夏樹が冷たい目で睨み付けた。

「正義漢ぶんじゃねえよ! 何もできないくせによ!」

 すでにこの場から逃げようと走り出していた照彦が「ナツ、早く逃げようぜ!」と振り返った。

 夏樹は舌打ちし、照彦の後を追った。

 正巳1人だけとなった工場の中に外からの生温かい風が吹き込んできた。

 正巳は床に転がったまま、顔を覆い、呻き声を上げた。



 矢追貴俊が夕飯を手にコンビニを出た瞬間、生温かい風が彼の肌を撫で上げた。

 もうすぐ本格的な夏か、と貴俊は夜空を見上げた。

 彼が中牧東高校に転入してから、もうすぐ3カ月になる。今は転入してきたばかりの頃のように、貴俊が廊下を歩くだけで視線を感じることも少なくなっていた。

――大丈夫だ、ばれてはいない。

 貴俊の正面より年若い夫婦が歩いてきていた。母親の腕の中で赤ん坊がスヤスヤと寝息を立ている。夫婦はいとおしそうにその赤ん坊を見ていた。

 その光景に貴俊は唇を噛みしめ目を伏せた。彼らとすれ違った後、貴俊は恐る恐る自分の手を見た。

 

 真っ赤に濡れていた。流れたばかりの赤い血で濡れていた。あの日と同じように――

 磨き抜かれた床に飛び散っていた血。真っ白なシーツに染み込んでいた血。セーラー服にべっとりとついていた血。

 まるで幾枚もの写真を同時に見せられているかのように、貴俊の記憶は生々しく蘇ってくる。

――ごめんなさい。全部、僕のせいだ。あの日、僕が代わりに死ねばよかったんだ……

 全身に締め付けるがごとく走った苦しさに、ギュっと目を閉じた貴俊が再び目を開けた時、手は元に戻っていた。血などどこにもついてはいなかった。貴俊は唇を噛みしめた。

――僕はここまで逃げてきた。いや、逃げるしかなかったんだ。でも、まだ”あいつ”は……

 顔を上げた貴俊であったが、ふと道の向こうからやってくる人影に気づいた。

 その人影は歩いているというより、フラフラとよろめいていた。

――……あの人、どうかしたんだろうか? 女性、いや女の子か?  

 目をこらした貴俊は、彼女が自分が通っている学校の制服を着ていることに気づく。次の瞬間、少女はまるでプツリと糸が切れたかのように、地面に倒れ込んだ。

「大丈夫ですか!」

 貴俊は駆け寄りながら、携帯電話を取り出す。

 駆け付けた貴俊が倒れ込んだ少女の姿を見た瞬間、彼の手から携帯電話が滑り落ちた。

「……我妻さん?」

 クラスメイトの我妻佐保、彼女の身に何があったのか、いや彼女が何をされたのか、貴俊は一目で理解した。佐保の顔は涙でグシャグシャだった。制服のブラウスのボタンはちぎられ、その間から見える下着はずらされていた。

 そして、佐保はうつろな瞳で貴俊を見上げ、唇をわずかに震わせ、その場に失神した。

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