第2話
6月。雨上がりの匂いを含んだ風が佐保のいる体育館を吹き抜けていった。
昨日まで降り続いていた雨は、今日になってようやく止んだ。だが、グラウンドはまだたっぷりと水を含んでいるため、授業は体育館で行われていた。
体育館を半分に区切り、女子はバレーボール、男子はバスケットボールだ。体育の授業は、いつも2クラス合同で行われるため、人口密度はいつもの2倍近くになっている。活発で体育が得意な日香里や翼は張り切ってコートに出ているも、体育が大の苦手である佐保は自分がコートに出る時間がいつもより少なくなったので、少し安堵しながら体育館の角に亜由子とともに座っていた。
佐保の隣に座っている隣のクラスの2人の女生徒が男子の方を目くばせし、囁きあっていた。
「あの人、凄いよね。中間テストでいきなり学年4位って」
彼女たちが話しているのは、転入生の矢追貴俊のことであるだろう。
6月に入ってまもなく、中間試験が行われた。そして、つい昨日、1学年約320名のうち、上位50名の成績が廊下に貼り出された。矢追貴俊の名は4位に記されていた。これはクラスでは1位の成績であった。
このことより、矢追貴俊はその外見のみならず、ますますの注目を浴びることとなった。
佐保自身は、43位だった。入学以来、定期試験で上位50番内に入ることもあれば、入らないこともあったが、最近は安定している。毎晩の勉強の成果であるだろう。
――でも、もっと頑張らなきゃ……そうすれば、おじいさんもおばあさんも、もっと私のこと……
「矢追!」
顔を上げた佐保が見たのは、荒武からのパスを受けた貴俊がなめらかな動きでリングにシュートを決めた瞬間だった。
試合終了のホイッスルが鳴る。貴俊と荒武が手を上げて、叩きあっていた。どうやら、彼らのいたチームが勝ったらしい。割と背の高い部類に入る貴俊も、ガッチリとした荒武と並ぶとわずかに華奢に見えた。
隣にいた女生徒たちも今の瞬間を見ていたらしく、感嘆の声を漏らした。
「スポーツもできるんだ。おまけにあのルックス。本当にこんな人いるんだね」
「彼女がいるのか気になるなあ。いないとしても、すんごい競争率高そう」
「3組の子に聞いたけど、物凄い女嫌いって噂だよ。話しかけても、目も合わさず最低限のことだけ話して、そそくさと逃げるんだってさ。もしかしてモテすぎて、女が嫌になったのかな?」
体育が終わった後の掃除の時間、佐保はコンクリで整備された学校のゴミ捨て場を箒で掃いていた。
ふと、風が運んできた雨上がり独特の澄んだ空気に佐保は目を閉じた。
だが、その一瞬の心の静寂を破るかのように、騒々しい足音と声がこちらに近づいてきた。その中心にいるのは、制服のワイシャツの下に派手な色のTシャツをのぞかせている男子生徒――隣のクラスの宇久井だった。ズカズカと歩いてきた宇久井は派手な音を立てて、ごみ箱のものを焼却炉に放り込んだ。
「あの転入生、ちょっと目立ちすぎじゃね」
宇久井の声に周りの取り巻き達が「なんか、やな感じだよな」「すかしてんじゃねえって」賛同の声を上げた。
佐保は遠ざかっていく宇久井たちの後ろ姿に目をやりながら考えていた。
――宇久井くんはは今回の定期試験で8位だったはず。以前からこの学校にいる人に負けたのより、試験の直前に颯爽と現れた新参者に負けたということがよっぽど悔しかったのかな。先ほどの体育の時間といい、矢追くんのように人目を引く外見に生まれついた人って、いろいろと注目を浴びて好奇ややっかみの対象となりやすいに違いないわ。矢追くんは前の学校でも、黙って座っていたとしてもきっと目立つ存在だったんだろうな。
貴俊と転校初日に会釈を交わして以来、佐保も貴俊も一度も話をしたことはなかった。佐保がもともと男子生徒と仲良く話をするタイプでないというのも理由の1つであったが、貴俊が人を、主に女子生徒を頑ななまでに避けているのが気にかかっていた。
掃除を終えた佐保が校舎に入ろうとした時、隣にわずか数歩の距離に貴俊がいた。彼の鼻筋の通った横顔に見とれていた佐保は、次の瞬間、ぬかるみに足を滑らせ――
体の重心を大きく傾けた佐保に気づいた貴俊が慌てて手を伸ばしてきた。
2人の足元で大きく泥がはね――
貴俊が佐保の腕を掴んでいた。貴俊が助けてくれたため、どうやら、ぬかるみにダイブするのは、避けられたようだった。
佐保の紺の靴下には泥が付いていたが、それ以上に貴俊の制服のズボンの裾に盛大に泥がはねていた。
貴俊はハッとして、掴んでいた佐保の手を離した。そして、慌てて周りを見渡した。まるで何かに怯えているかのように。
「ご、ごめんなさい」
佐保はポケットからティッシュを取り出し、貴俊の足元にしゃがみこんで彼の制服についた泥を拭こうとした。
「僕に触るな!」
貴俊は声を荒げ、はじかれたように佐保から身を引いた。
だが、佐保の驚いた顔にハッとし、「……ごめん。僕は平気だから。気をつけなよ」と、俯いたまま逃げるように校舎の中に駆け込んでいった。
呆気にとられ、立ち尽くしていた佐保の元に翼がやってきた。
「どうしたの? 靴下泥ついてるよ」
「転びそうになっちゃって……矢追くんが助けてくれたんだけど、怒ったみたいで。ほんと、どんくさいな私……」
「気にしない、気にしない。あの人、女子にはいつもあんな態度じゃない」
翼が佐保の肩をポンと叩いた。
その日の夜、スタンドの明かりだけを便りに佐保は単語帳をめくっていた。時計の針は夜中の1時半を指しており、ページをめくるスピードは、段々と遅くなってきている。スタンドの明かりを消すと、わずかなカーテンの隙間から月明かりが差し込んでいた。佐保はベッドの中で手足を伸ばし、今日の貴俊との出来事を思い返す。
――矢追くんは私が転びそうになった時、手を伸ばして助けてくれた。でも、あの後の怯えた様子は一体なんだったんだろう? それに、矢追くんは荒武くんたちと談笑していても、その笑顔はぎこちなく引き攣っている。きっと心からは笑っていない。まるで、笑うことで罰を受けるかのような、苦し気な……いけない、いけない。いらない邪推をするよりも、明日、きちんと矢追くんにお礼を言おう。無視されるかもしれないけど、嫌がられるかもしれないけど。
溜息をついて、寝返りを打った佐保は、部屋の鏡の中にに妙なものを見た。
――え? 何、あれ!? 人!? 人がいる!
その妙なものは、人のシルエットをしていた。背丈は佐保より少し高いように思えたが、男か女の区別がつかないくらい、「そいつ」は体全体が妙に膨らんでいた。
「そいつ」に背を向けている佐保の全身に、『見てはいけない』との本能のシグナルがグルグルと回り出した。
震えている佐保の背中に向かって「そいつ」は、一歩を踏み出した。ベタリという足音とともに、床に水滴が滴り落ちた。何かが腐りかけている匂いとドブの匂いが混じり合って、佐保の鼻孔に届けられる。
わずかな時間だったのか、それとも数分たったのか分からない。だが、ついに佐保のベッドの縁まで「そいつ」はやってきた。腐臭に嘔吐をこらえている佐保の喉は急速に乾き、嫌なリズムで心臓は脈打ち、全身より汗とは違う何かが吹き出し続けていた。
「な……らく……にちか……くな……くなこ……いん……おん……らんお……な」
苦し気にかすれた声と、喉の奥で鳴っているようなヒュ―という声までも、佐保の耳は聞き取っていた。ついに「そいつ」は上から佐保の顔を覗き込もうと――
佐保の悲鳴を聞いた隣の部屋の優美香が、真っ先に駆け付けた。
べッドの中で震える佐保を優美香が抱きしめた。
「大丈夫? どうしたの? 怖い夢でも見たの? 」
優美香の腕の中で佐保は必死で呼吸を整えようとする。階段を駆け上がる音がし、手に野球のバッドを持った誠人と堅そうな置物を手にした美也も姿を見せた。美也は頭にカーラーを巻いたままであった。
「どうしたんだ! 何があった!」
「ひ、人が……! 人がいたんです!」
誠人は黙ったまま部屋の電気をつけ、窓に歩み寄る。
そして、「窓の鍵は閉まっているぞ」と呆れ顔で、佐保に振り返った。
「夢を見たのね」と美也も誠人と全く同じ表情をした。
「違います! 今のは夢なんかじゃない! 本当に人が……!」
佐保は床に視線見るも、そこには何も落ちてはいなかった。
先ほどまで嗅いでいたはずの腐臭もとうに消え、今は自分を抱きしめる優美香の甘い匂いしかしない。
「全く人騒がせな。明日は早いんだ」
「あなた、念のため、玄関も見てきましょうよ」
美也が誠人の腕にそっと手をかけた。部屋を出ていく祖父母の背中に向かって、「すいません」と佐保はうなだれた。
「ママ、本当に人がいたのよ。まるで……」
まるで……何と形容すればいいのだろう? まるで、水死体のような人間がいたんだと。実際に水死体をこの目で見たことはないし、そもそも死体がしゃべるわけがないと理解しているけれども、そうとしか佐保には形容できなかった。
優美香は黙って佐保を見つめたまま、優しく髪を撫でた。
「今日は一緒に寝よう」
2人が布団にもぐりこんだ時、優美香がポツリと言った。
「ねえ、今日、靴下どうしたの?」
「靴下?」
「学校から帰ってすぐ、靴下を洗っていたでしょう? どうしたのかなって思って」
――ママは心配してくれてるんだ。また子供の頃みたいに自分のことで私が何か言われたり、何かされたりしたんじゃないかって、そう思っているんだ。
「今日、ぬかるみに突っ込みそうになっただけよ。もう、高校生にもなって、いじめや嫌がらせするような人なんていないよ」
水面下でチクチクと刺してくる人はいるけどね、といった言葉を佐保は飲み込み、精一杯の笑顔で優美香に答えた。
「そう。それならよかった」
安心したように優美香は微笑む。
佐保はその顔を見て、自分の母ながらなんて可愛いんだろうと改めて感じずにはいられなかった。自分は優美香に似ているとは言われるし、自分でも少しだけそう思うも、優美香ほど美しくはないことを佐保は分かっていた。
やっぱり私はママの劣化版だ、と改めて痛感した。
「実はね、今日、転びそうになったとき、クラスの男の子が手を伸ばして助けてくれたの。それで、その子の制服の方にたくさん泥がついちゃって……」
「まあ、何でそれを黙っていたの? クリーニング代とか……」
「そうだよね。きちんとママに話すべきだったよね。明日、学校で声をかけてみる」
その時、またあの腐臭が戻ってきた気がして、佐保は思わず優美香に身を寄せた。
「どうかした? ビックリするじゃない。ママ、怖い話とか苦手なんだから。宵川先生の本だって、読むの怖いんだから」
佐保は、先月より隣人となった作家の宵川斗紀夫の名前も顔も知っていたが、実際に彼の作品を読んだことは一度もなかった。確かサスペンスやホラーを書く作家であり、佐保や優美香が好んで読む本とは真逆に位置していたためだ。
優美香はおだやかな表情で、佐保をじっと見つめていた。
「あのね、佐保。おじいちゃんもおばあちゃんも佐保の生活や進路のことについて、厳しく言うようだけど心配しているだけなのよ。2人とも愛情表現がそんなに得意じゃないから、佐保は誤解しているのかもしれないけど」
「……分かってるよ」
「ママがこんなだから、佐保だけは……って思ってるのよ」
佐保は「ごめんね」と小さく呟いた優美香の手を思わず握りしめた。優美香も佐保の手を握り返す。
そして、佐保は遠い昔の記憶を掘り起こし始めた。まだ、自分の出生について考えるということすら知らず、無条件に祖父母を慕っていた頃の記憶。それは佐保にとって、人生の一番最初の記憶でもあった。
その日の季節がいつであったのかも覚えていない。ただ、その時、佐保はクレヨンを手にしていた。
白い画用紙に、ママと私、そして、おじいちゃん、おばあちゃん。
絵を描き終った佐保は、誠人と美也にこの絵を見せるため、忍び足でそろそろ廊下を進んでいた。
――上手に描けたって、褒めてくれるかな?
だが、わずかに開いていたドアの隙間から佐保が見たのは、誠人と美也が向かいあって、深いため息をついている姿だった。物の道理もまだ碌に分からない幼児であった佐保でさえ、話しかけるのをためらうような雰囲気が漂っていた。
「次の日曜日は、部下の結婚式だ。ちょうど、家庭を持つのにいい年頃だしな」
「そういった話を聞くたび、優美香のことを考えてしまいますわ」
「佐保がいたんじゃ、優美香の結婚はこの先、難しいだろうな」
美也が大きく息を吐き出した。
「私たちは優美香を普通に、いや普通以上に大切に育てたつもりなのに、どうしてこんなことになってしまったんでしょう」
「私たちの育て方か、それとも優美香自身の生まれ持っていた性格なのか、どっちかは分からんが、先のことを考えられん馬鹿な娘だ。だが、それ以上にあの男のことを思い出すと、今でも頭の血管が切れそうになってくる!」
誠人が乱暴にグラスを置いた。中の液体が飛び散り、美也は無言でそれをふき取った。
「あの男、今どこで何をしているんだ! 優美香を妊娠させたまま、何の責任も、いや話し合いの場にすら出ず、逃げ出しおって……そもそも、30近い男が女子高校生に手を出すなど、れっきとした淫行じゃないか!」
美也もソファに腰をかけ宙を仰ぐ。
「私、優美香をこの家から出して、佐保とともに自活させようかと思ったことが何度もあるのですが……」
「高校中退で手に職もない娘が、子供1人抱えて生きていけるはずがない。ましてや、優美香みたいなぼーっとした考えの足らん馬鹿な娘が……」
「優美香と佐保の面倒は私たちが見ていくしかないですね。どんな娘であっても大切な娘であることには変わりないですもの」
佐保の記憶はそこでプッツリ途切れている。「インコウ」「ニンシン」の意味については、その当時は分からなかった。
時を重ねるうちに、自分が望まれて生を受けた子じゃないということだけは徐々に理解できるようになった。母である優美香は自分をたっぷりと愛してくれているし、一番の理解者であることは今も昔も変わらない。でも、祖父母は仕方なしに自分の面倒を見てくれているんだと――
佐保が自分の面倒を見てくれている祖父母に対してできるのは、自宅から通えるまずまずの偏差値の大学に現役で合格し、あとはまずまずのところに就職を決めてから、きっちり4年で大学を卒業することだった。すなわち世間の多数の人が乗っているレールに自分も乗って生きていくということだ。
佐保は体育は全く駄目だが、英語や国語は多少得意ではある。だが、それで将来、身を立てていけるほどの能力も情熱もないのは分かっていた。日本にあるたった1つの高校の中でさえ、佐保が出来うる限りの勉強しても追い抜くことのできない生徒が何人もいる。
――私はこのままこうして、自分の能力でできることを精一杯しながら、人生を淡々と過ごしていくのだろう。私は望まれて、この家に生まれてきた子じゃない。だから、神様も勇気や情熱を私に授けなかったのかもしれない。
佐保は、すでに規則正しい寝息を立てている優美香の手をもう一度強く握りしめた。
翌朝、廊下を歩く貴俊のズボンの裾には、泥の跡は見当たらなかった。
貴俊に追いついた佐保はおずおずと後ろから声をかける。
「おはよう、矢追くん。あの、昨日はごめんなさい。うちのマ……いや、お母さんがクリーニング代とか……」
「いや、泥はもう綺麗に落ちたから……」
振り返った貴俊は佐保と意地でも目を合わせまいとするかのように横に視線を逸らしたまま答えた。
――やっぱり怒っている……
佐保は「ごめんなさい」と頭を下げ、貴俊に背を向けた。
「我妻さん!」
急に貴俊に名前を呼ばれた佐保は、ビックリして振り返る。
「あの後、何かおかしなことなかった?」
「え? おかしなことって?」
佐保と貴俊の視線は初めて正面から交わっている。質問の意図が読み取れず困惑したままの佐保に、貴俊は「ごめん」と踵を返した。
自分の身に起こったおかしなことと言えば、夜中に見た水死体のようなものしか思い当たらない。あの時、家族全員を起こすほどの悲鳴をあげたものの、朝に目を覚ましたら単に怖い夢を見ていただけだったようにも佐保は思えていた。
「佐保、さっき矢追くんと何話していたの?」
いきなり後ろから梨伊奈に両肩をつかまれた。
くりくりとした梨伊奈の目は好奇心に満ちている。梨伊奈の質問をはぐらかしながら、佐保は小さくなっていく貴俊の後ろ姿に目をやっていた。
空が青さを日に日に増していく日の帰り道、佐保は1人の少年に病院までの道を尋ねられた。
その少年は大きなマスクをし、しきりに咳をしていた。佐保は少年のその咳の仕方に少しだけわざとらしさを感じたが、ここから一番近い病院の場所を簡単に説明する。
「ひどいようでしたらタクシーで行った方がいいと思いますよ。結構歩くと思いますんで」
「いや、金ないんで……無理っス」
少年は佐保に軽く頭を下げ、病院の方角に歩いて行った。
その少年に背を向け、再び歩き始めた佐保は、先ほどの少年が立ち止まってマスクを外し、佐保の後ろ姿をじっと見ていたことに全く気付いていなかった。
自宅に近づいた佐保は、隣人の宵川斗紀夫の家の前に1台の車が止まっていることに気づく。
運転席には艶やかな髪を肩まで伸ばした女性がいる。顔はよく見えない。
女性は身を乗り出し、外にいる斗紀夫に何か話をしている。そして2人は顔を近づけあい、唇を重ねた。
車が走り去った後、斗紀夫は佐保に気づき、頭に手をやった。
「おかえり、佐保ちゃん。恥ずかしいところ、見られちゃったなあ」
「こんにちは。宵川先生」
「君、いつもこれくらいの時間に帰ってくるの?」
頷く佐保。斗紀夫は佐保の鞄に光っているキーホルダーに目を止めた。
「そのキーホルダーの0707って、何の数字?」
「私の誕生日なんです」
優美香が作ってくれたキーホルダーだ。優美香は朝は苦手であったが、料理やハンドメイドなどは大の得意であり、日香里や翼にも羨ましがられていた。
「7月7日か。もうすぐだね」
初めて会った時と変わらない斗紀夫の穏やかな話し方を目の前にした佐保は、先生なら私が以前に見たあの水死体のようなもののことを聞いてくれるかもしれない、と話を切り出した。
「あの、先生。先生は人であるけど人ではないようなものって、見たことありますか?」
「人ではあるけど、人でないようなもの?」
「例えばですけど、死体?……が動いたり、しゃべったりするような……怖いお話を書かれているみたいなので……」
「うーん、その定義が良く分からないんだけど、死人が動くってこと? つまりはゾンビってこと?」
バカなことを聞いてしまったと恥ずかしくなった佐保は、顔を赤くし俯いた。
「イエスと答えておこうか」
斗紀夫の答えは思いがけないものだった。
「この世の中には想像もつかないような存在がいることもある。そう思っていた方が、小説を書くインスピレーションが研ぎ澄まされるしね。善人や心優しい人物だけ出てくるホラー小説なんて、つまらないしね。ゾっとするような化け物や人の皮を被った鬼畜が出てくるホラー小説を書いた方が、俺の小説は多くの人の手にとってもらえるからさ」
「変なこと聞いて、すいません」
佐保は赤い顔をしたまま、斗紀夫に向かって頭を下げた。
「俺も佐保ちゃんと同じ年頃には、いろいろと思い悩んでいたよ。でも、自分の中に溜め込まないようにしたほうがいいよ。ところでさ、ずっと聞きたかったことがあったんだけど……」
「?」
「お母さんって一体、いくつなの? 俺の目には20代前半にしか見えないんだけど。」
真剣な面持ちで優美香のことを問う斗紀夫に、佐保は思わずクスッと笑ってしまった。優美香が34才であることを伝えると、「同い年だったんだ」と斗紀夫は目を丸くしていた。
この日の夜の11時過ぎ、繁華街のファーストフードで3人の少年が肩を寄せ合い、声を潜めていた。
「前金で10万かよ」
「そうだ、実行したら、更に倍の20万もらえんだぜ」
「2人とも声でかいって」
3人の中で抜きん出た長身であり、整った大人びた面差しの黒髪の少年の名は逢坂夏樹。髪を金色に染めてはいるものの、一見中学生にも見えるような幼い顔立ちをした少年の名は桐田照彦。そして、肩を落とし下を向いていたままの少年が顔を上げた。彼の名は櫓木正巳。先ほどから暗い顔をしていたのは、この正巳ただ一人であった。
「2人ともやっぱりやめよう。やばいって」
照彦がイラついたように正巳の肩を軽くこづく。
「お前、ちょっとは空気読めって。俺らがこれに乗ろうって時によ」
照彦はテーブルの上に置かれたままの写真を手にとる。
「正巳、お前、近くでこの女見たんだろ。どうだった? 写真より可愛かった?」
照彦がニヤニヤ笑いながら聞く。正巳の腹からは、嫌悪に近いような感情が立ち上ってきた。
「……どうって、真面目そうな子だったよ。そんな、恨みを買うような子には見えなかった……それに、俺があの子に声をかけたのは、お前らとのジャンケンに負けたからだ。俺は正直お前らの話には乗りたくない」
夏樹が照彦の手から写真をとり、正巳を見た。
「こういう純情そうな女に限って、裏じゃ何やってるか分かんねえぞ。ま、そんなこと俺らにゃ関係ないけど」
「そうだ。俺らがすることはこの女を連れてきて、依頼者に引き渡すだけ。それだけで合計30万もらえる美味しいバイト」
ポテトを頬張りながら、照彦が言った。
正巳は照彦に対し、「お前はこのなかじゃ一番金持ってるだろ」と心の中で毒づく。
姉と2人暮らしの自分、父と2人暮らしの夏樹に比べ、両親とも揃い、兄2人は私立大学に通い、3階建ての一軒家に住んでいる照彦はおそらく本当に金に困ったことなどはないだろう。
「でも、おかしいとは思わないか。なんで、連れてくるだけで30万ももらえんだよ」
正巳の言葉に、夏樹がクッと笑った。
「確かにおかしいよな。でも俺らはこの女とは知り合いでも何でもねえし、金だけもらって後はトンズラすりゃいい。後のことなんて知らねえよ」
「そういう問題じゃ……」
「で、どうすんだよ、正巳。お前はやめるのか?」
夏樹の視線が突き刺さる。「やめるのか?」は、「もちろん、お前もやるよな」という意味だろう。小学校時代から夏樹は3人の中のリーダー格だった。
夏樹は運動神経がべらぼうに良く、目立つ外見をしていた。それだけの理由ではないが、正巳は夏樹に逆らえなかった。きっと夏樹の目に時々宿るあの冷たい光のせいだろう。一線を越えてしまったら、人でも刺し殺しかねないような怖さがあった。
「やめるか? 正巳?」
「……分かったよ。俺もやる」
正巳はしぶしぶ頷いた。先ほどから近くの席の女子大生風の2人組がこっちをチラチラと見ている。彼女たちのお目当てはきっと夏樹だろう。正巳には、グロスとポテトの油で光った彼女たちの唇がやけにいやらしく見えた。彼女たちはこっちのテーブルに声をかけてくるに違いない。そして、夏樹の気が向いたなら、しばらくの間一緒に時間を過ごすだろう。正巳か照彦のどちらかは、夏樹が選ばなかった方の女と同じことをするチャンスをもらえるかもしれない。
彼女たちの視線に気づき始めた夏樹と照彦の横で、正巳はテーブルの上に置きっぱなしになっていた写真を封筒に入れた。得体のしれないヌメヌメとした気持ち悪さがまとわりついてくる。ここから走り去りたい衝動が正巳の全身を駆け巡る。けれども、自分が夏樹に向かって頷いた以上、もう後戻りはできなかった。
写真には、今日の夕方に正巳が声をかけた少女が制服姿で映っていた。
被写体の少女は自分に向けられているレンズに気づいてはいない。明らかに隠し撮りされたものだ。
その裏面には、彼らが近いうちに拉致することになるその少女の名前が印字されてあった。我妻佐保と。
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