第1章
第1話
(中牧東高等学校 非公式匿名掲示板より抜粋)
20×6年5月9日(月)
〉おはよう。今、ここに誰かいる?
〉いるよ。毎朝、うがあああって叫びたくなるよな。人生ってホントめんどくせ。
〉ガキのころは高校生って楽しそうって思ってたが、それほどでもないこの現実。
おまけに今年は受験だし。毎朝、胃が痛いんだがorz
〉いつもと変わらぬ日常に退屈しているそんなお前らにニュース速報!
今日、3年に転入生がくるとのこと。しかも超絶イケメンらしい。
〉もしかして、先週の金曜に校長室の近くで見た人かも?
確かに物凄いイケメンだった。
〉もっと詳しくプリーズ。
〉あれはもう滅多にお目にかかれないレベルかと。
私がリアルで見た男子の中では1番美形な気がする。
保護者っぽい人が一緒にいて、校長がその人を「ナガクラさん」って呼んでた。
〉イケメンだの、美形だのって……
こういう目撃話って話盛られていることが多いんだよな。
実物はそんなに大したことないような気がする。
ちょっとイケメンぐらいじゃね?
〉いや、本当に物凄いイケメンだったんだってば。
なんていうか、後光がさしていて拝みたくなるようなイケメンっていうか……
背も結構高かったような気もするし。170cm半ばぐらい?
うちのクラスに入るといいな。いや、入ってください(笑)
〉女って本当イケメン好きだよな。
顔がいいからって性格もいいとは限らないのに。
〉でも、なんか中途半端な気しないか?
4月の最初から編入ならまだしも、もう5月だし。
もしかして、訳ありの転入だったりして?
自分が通っている中牧東高校の裏サイトでこんなやりとりが繰り広げられているとは知らない我妻佐保は、枕元でけたたましく鳴る目覚まし時計を止め、軽く伸びをした。そして、ベッドから起き上がり、いつものように部屋の鏡に映る自分の顔をじっと見つめた。
鏡の中の自分は、皮膚が少しばかり青みがかっているように見えた。昨日も受験勉強のため、深夜1時過ぎまで机に向かっていたせいかもしれない。佐保は血色を取り戻すため、軽く自分の頬を数回叩いた。
制服に着替えた佐保は階下のダイニングへ向かう。
そこにはすでに珈琲の香りが漂っていた。
中央の磨き抜かれたテーブルには、スーツ姿で左手に珈琲を持ち、右手に新聞を広げている祖父の我妻誠人がいた。最近の誠人の髪には白いものがさらに増えてきてはいるが、西洋人のような彫りの深い顔立ちをし、還暦に近い現在もシャンと背筋を伸ばしているこの祖父を前にすると、佐保の背筋も自然に伸びてしまっていた。
「おはようございます」
「おはよう、佐保。優美香はまだ寝ているのか。いつもいつも、しょうのない奴だな」
佐保に挨拶を返した誠人は、階上を見上げて顔をしかめた。
キッチンから出てきた祖母・我妻美也も、誠人と同じく佐保の母・優美香のいる階上を見上げて、顔をしかめた。
「一体、いつになったら、優美香は母親らしくなるのかしらね」
溜息をついた美也がテーブルにサラダの皿を並べだした。
慌てて手伝おうとした佐保であったが「手伝いはいいから。早く食べてしまいなさい。学校に遅れるわよ」と促されてしまった。
椅子に座り、ホットミルクに入れた蜂蜜をスプーンでクルクルとかき混ぜ始めた佐保の耳に飛び込んできたのは、テレビからの流れてきた「昨年発生した少年少女の犯罪」という言葉だった。
やや早口にも思えるコメンテイターの声とともに、テレビ画面には次々と白いテロップが映し出されていく。
「路上強盗少年2人 男性撲殺」「仲間内でリンチ 少年1人死亡」「進路のことで口論 母親を刺殺」「つきまとい 同級生の家族殺害」「高校生 女性7人を暴行」と――
これらのなかには佐保がうっすらと覚えている事件もあった。
だが、自分が生きる日本という国で、自分とそう年の変わらない少年少女たちが起こした事件であるにも関わらず、全くの別次元で起こっているような妙な感覚を感じずにはいられなかった。
美也がリモコンを手にし、チャンネルを変える。
「朝から見るようなニュースじゃないわね」
「全くだ」と相槌を打った誠人は、佐保に向き直った。
「受験勉強はどんな調子だ? もっと上の大学は狙えないのか?」
「は、はい、今のままでいこうと思います。J大学の英文科が第1志望です」
キラリと光った誠人の目に、佐保は喉を詰まらせそうになりながらも、何とか即座に答えることができた。
「県内の大学じゃなくて、偏差値が見合っているなら、東京や大阪の大学を目指したっていいんだぞ。お前にその気はないのか?」
「家から通える大学に行きたいので……」
本音を言うと、佐保も県外の大学や1人暮らしに全く興味がないわけではなかった。それに、この祖父母は教育費に関しては糸目はつけないだろう、ということも佐保は充分に理解していた。
でも、佐保はいつものように、心の中で自分自身に言い聞かせる。
――私はこれ以上、望んじゃいけない。2人はこの家で何不自由なく母とともに私を育ててくれ、高校にも通わせてくれ、そのうえ大学にまで行ってもいいと言ってくれている。このことだけでも、私は感謝しなければならないんだ、と。
佐保は手の内のマグカップを両手でグッと握りしめた。
佐保が通う中牧東高等学校は、自宅から徒歩で通える距離にあり、なおかつ偏差値の面から見ても佐保の学力にまずまずの具合で合致していた。誰もが知る全国的に有名な高校であったり、県内でも屈指の進学校というわけではない。だが、この県内では「そこそこできる」といった評価が下される高校であった。佐保の母・優美香が中途退学した高校よりも偏差値が高く、合格した時は祖父母も喜んでくれていた。
佐保の所属する3年3組の教室の入り口からクラスメイトの深谷日香里が顔を覗かせた。
「ちょっと、誰か手伝って」
彼女は同じくクラスメイトの高川翼とともに、一組の机と椅子を教室に運び入れようとしていた。
「翼と一緒にいたら、谷辺先生につかまったの。佐保と荒武君の席の間に、この机と椅子を運ぶように言われてさ」
少しふくれっつらをした翼が、日香里の言葉を継ぐように続ける。
「転入生、来るんだって。まあ、それはいいんだけど。ああ、重いぃ……」
教室内は、途端に騒がしくなった。
「いきなり、転入生?」「男子? 女子?」「うちのクラスだったんだ」「超イケメンが来るよ」と、あちこちで声があがりはじめていた。
担任教師の谷辺千奈津が、ホームルームの始まりを告げるチャイムとともに教室にやってくると、まだ姿が見えない転入生の話に花を咲かせていたクラスメイトたちは散り散りに自分の席に戻っていった。
同じく席に着いた佐保が思うに、谷辺の年齢はおそらく30半ばぐらいだろう。いつもセンスのいい高そうな服を身に着けている彼女の髪や肌は、高校生の佐保の目から見てもお金がかかっていることが分かる。担当教科は国語、女子ソフトボール部の顧問、さっぱりとしているが優しさのある話し方をし、既婚者で小さい子供が一人いると聞いたことがある。
この谷辺千奈津は佐保にとって手が届きそうで届かない、身近にいる素敵な大人の女性であり、佐保は密かに憧れてもいた。
谷辺は、窓際の1番後ろの席に座る佐保と、間1列を挟んで座っている荒武洋治との間に、真新しい机と椅子が自分の指示通りに運び込まれていることを確認し、教卓に立った。
「おはようございます。今日からこのクラスに転入生が入ります。皆さん、分からないことは教えてあげてください」
谷辺は軽く息を吸い込み、教室内を一通り見回した後、入り口に向かって手招きをした。
転入生である少年が、入り口より姿を見せた。
その少年の姿に、教室内はシンと静まり返った。その理由は単に少年が転入生であるというだけではなかった。
少年は谷辺の隣に立ち、深々と頭を下げた。そして、顔を上げ、真っ直ぐに前を見た。
「矢追貴俊です。よろしくお願いします」
転入生――矢追貴俊は、素晴らしく整った繊細な顔立ちと伸びやかな肢体を持ち、理知的で清潔感にあふれた美少年であったのだ。
静まりかえっていたはずの教室のあちこちで、そして主に女子の間で、声には出さないうれしい悲鳴が上がりはじめる。
自分の方に視線を戻すためか、谷辺がわざとらしく咳払いをした。
「ええと、矢追くんの席はあそこね。荒武君と――」
荒武葉治が貴俊に向かって、笑顔で手を振った。
「――我妻さんの間ね」
谷辺が思い出したかのように、貴俊の顔を覗き込んだ。
「そうだ、1番後ろの席だけど、目が悪いとかないかしら?」
「大丈夫です」
貴俊は小さく頷いた。
この日、佐保とその友人4名が集まった放課後の喫茶店では、やはりあの転入生・矢追貴俊の話で持ち切りだった。
「かっこいいにも、程がある」「他のクラスからも見に来ていた子いたよねえ」「うちのクラスの男子どもとは、月とスッポンって感じだよね」「分かる。なんか王子様っぽい」と、口ぐちに貴俊の容姿を褒める言葉が佐保の前で飛び交っていた。
佐保は、この喫茶店に来るたびに頼んでいるキャラメルミルクを前に、友人たちの話に相槌を打っていた。
「でも、なんかコミュ障っぽくない?」と、篠口梨伊奈が言う。
「そうだよね、私なんか超高速で目、逸らされたし」
梨伊奈の隣にいる高川翼が、ストロベリージュースをストローでかき混ぜながらハハッと笑いを漏らす。
翼と同じく、佐保も今日、矢追貴俊に目を逸らされたことを思い出した。
貴俊は席に座る際、両隣の荒武と佐保に軽い会釈をした。
だが貴俊は佐保と目があった瞬間、視線をパッと逸らした。そして意地でも視線をからませないかのように、こわばった頬を佐保に見せたまま、じっと机に視線を落としていたのだ。
佐保は貴俊が目立たない自分だけでなく、女の子らしい外見で「可愛い」と評判の翼に対しても同様の態度をとっていたことに少し驚いた。
「男子とは普通に話していたけどね。お昼だって、荒武くん達と食べてたし」と深谷日香里が言った。
「もしかして、ホモなんじゃない?」梨伊奈の唇の端が上がる。
「あのルックスでホモっていうのは、それはそれで萌える気しない? 美少年の禁断の愛って奴」
翼の言葉に笑い声が上がる。
「でも、今朝は本当にビックリしたよ。いきなり、転入生とかさあ」
日香里が赤フレームの眼鏡を切れ長の目にかけ直しながら呟いた。
梨伊奈の目が輝き出し、言いたくてたまらなかったの、という風に切り出した。
「それがさあ、先週に学校に来てたの見た人いるって。やっぱ、急な転校っぽいよね……前の学校で何かあったのかな」
この梨伊奈のおしゃべりならびに噂好きは自他ともに認めるところであった。
「体調崩して入院してたとかじゃないの?……どう見ても、不良には見えないし」と翼。
「宇久井みたいな奴もいるじゃん」
日香里が反論するように言った。
隣の3年4組の宇久井大祐という男子生徒は、学内ではちょっとした有名人だった。いつも制服のブレザーをルーズに着こなし、数人の取り巻きを引き連れ大股で廊下を歩き、ガハハと笑い声をあげている騒々しい生徒であった。
彼は不良と言われて想像するテンプレートのような外見をしているが、試験の順位は高いほうから数えて学年から10番以内を下ったことは一度もなかった。
日香里はこの宇久井と1年生の時に同じクラスであり、「愛人顔」「SMの女王」などと、しつこくからかわれたらしく、今も宇久井を毛嫌いしていた。
佐保の傍らに座っている海内亜由子がスラリと伸びた長い脚を組みなおした。亜由子の爽やかなシャンプーの香りが佐保の鼻をくすぐる。
彼女は机の上のスマホを手に取り、佐保をチラリと見る。
「ねえ、佐保はあの人と何か話した?」
「ううん、一度も……でも、あんなにかっこいい人初めて見たかもしれない」
佐保自身、確かに矢追貴俊に見惚れはしたものの、どちらかというと荒武洋治のようなタイプが好みであった。
荒武はバレーボール部のエースアタッカーだけあって運動は大の得意のようだが、成績はきっと下から数えた方が早いだろう。時々、授業中に舟を漕いでるのも見る。でも朗らかで快活で誰とでもくったくなく話している。
今日だって、転入初日の矢追貴俊の緊張をほぐすためか、彼にいろいろと声をかけていた。佐保の荒武に対しての思いは恋心とまでは言えないが、ほのかに好意は抱いていた。
梨伊奈がニヤニヤしながら、佐保の肩をポンと叩いた。
「佐保って、好きな人とかいないの? もしかして、初恋もまだだったりする? 佐保のお母さんは早かったのにさ。もう、私らの年には佐保を産んでたんだし」
「いや、その……」
口ごもる佐保に梨伊奈は続ける。
「いいよね。若いお母さんで。うちのお母さんなんかただのおばさんだよ」
「うちのお母さんだって、おばさんだよ。それが普通だって」
追い打ちをかけるように亜由子が言った。
佐保は両手で手の内のグラスを握りしめた。グラスの水滴が冷えた指に押しつぶされる。
佐保の母・優美香が16才で妊娠し、高校中退の上、未婚のまま、17才で佐保を産んだこと。それは事実だった。佐保は父に抱かれたこともなければ、父の顔も名前すら知らない。知らないというようりも、今もなお、家族の誰にも聞けないままであった。
今、自分の目の前にいる梨伊奈のように、表面では羨ましがっているように装っていても、その水面下でチクチクと佐保の痛いところを刺してくるような人には時々出会う。梨伊奈に同調した亜由子も深く考えずに言葉を口にしたのだろう。
――2人の言ったことをそのまま受け止めて荒立てる必要なんてない。穏やかに波風立てずに学校生活を送ろう。今までだってずっと私はそうしてきたんだから……
平静を装うとしているも、曇り始めた佐保の表情に気づいた日香里がさりげなく話題を変えた。このなりゆきに困り顔をしていた翼も、日香里が提供した話題に積極的に乗っかる。この場には再び笑い声が戻ってきた。助け船を出してくれた日香里と目があった佐保は、「ありがとう」と口には出さずに彼女に向かってぎこちない微笑みを返した。
同時刻、我妻家のリビングでは、佐保の祖父・我妻誠人が1人の来客と向かい合っていた。
来客の名は、宵川斗紀夫。34才の彼は洗練された都会的な雰囲気と柔らかな物腰で、大抵の人間は第一印象で好感を持つに違いない男性であった。さらにその魅力にプラスとなるのは、彼が世間にも割と名の知れた作家であるということだ。
「お忙しいところ、申し訳ございませんでした。本格的な荷物の搬入は、明後日あたりになると思いますが、先に我妻様にご挨拶をと思いまして。これからも、お付き合いの程、よろしくお願いいたします」
「いえ、こちらこそ、何卒よろしくお願い申し上げます。隣に作家の先生が越してくることになるとは驚きましたよ」
彼らの話のタイミングを見計らい、美也が珈琲を入れ直し、静々と下がって行った。
斗紀夫はこの我妻夫婦の厳格で古風な雰囲気や彼らが作り出す表情は、夫婦というよりも男女の双子と言ってもいいほど、よく似ていると感じていた。それに、目の前の我妻誠人の眉間に時々、皺が寄り、一瞬険しい顔つきになることも斗紀夫は気になっていた。もしかしたら、この夫婦の実年齢は自分が思っているよりも、ずっと若いかもしれないとも。
――それに、この家には彼らの他にも家族がいるはずだ。それはおそらく若い娘だろうな……
斗紀夫の脳裏には、今日の昼間にこの家の前を通ったときに目にした、風にはためく淡いミントグリーンのワンピースが蘇ってくる。
斗紀夫の思考を家が読み取ったかのように、突如、リビングの扉が開いた。
「ご、ごめんなさい。お客様でしたの」
扉の向こうにいた女性が慌てて頭を下げると同時に、誠人が立ち上がった。
「これは失礼をいたしました。娘の優美香です」
突如現れた我妻誠人の娘である優美香に目が釘づけになっていた斗紀夫であったが、誠人の声に我に返り立ち上がった。そして、自身の右手を差し出した。
「宵川斗紀夫と申します。美しいお嬢様ですね」
優美香の白く柔らかな手が斗紀夫の手を握り返した。
我妻優美香は、成人していることは見てとれるが、白く透きとおるような肌、ピンク色の唇、そして声も仕草も少女のように愛らしかった。一目見たらなかなか忘れることのできない程の美人であり、しかも自分の好みに合致する女性を前にした斗紀夫の頬は自然とほころんでしまっていた。
「もしかして、作家の宵川斗紀夫先生ですか。娘の帰りが遅いもので、心配になってしまいまして」
優美香の言葉に斗紀夫はわずかに落胆した。子供がいるのか……いるようには見えないのに、といったことは表に出さないようにしつつ、斗紀夫は言葉を続けた。
「小さなお子さんをお持ちですと、心配でしょう」
「いいえ、娘は高校生なんです」
斗紀夫の驚いた表情を見て、誠人が眉間に皺を寄せ、優美香に一瞬厳しい視線を向けた。
「……そうですか。それでは僕はそろそろ失礼いたします。お嬢様のご主人にもご挨拶をしたいのですが、まだお仕事でしょうか」
口を開きかけた優美香を制し、誠人がきっぱりとした口調で答える。
「いないので、結構です。なに、一人娘なもんで、甘やかしてしまって……まだ孫の方がしっかりしているくらいでしてね」
なるほど、どの家にもやっぱりいろいろあるんだろうな、と斗紀夫は誠人の言葉を軽く流した。だが、その反面、この美人が産んだ娘とはどんな娘なのかということにも、彼は興味が湧いてきていた。案外、隔世遺伝で気難しそうな祖母にそっくりな娘なのかもしれないけれども。
「先生、失礼ですが、隣にはお1人で住まわれるのですか?」
斗紀夫は誠人に向き直り、答える。
「ええ、しばらくは1人で住む予定です」
斗紀夫の長年の恋人である相田千郷が、斗紀夫が中古の一軒家に引っ越すことを伝えると、「私もそこに住んじゃダメ?」とさりげなさを装いながら、何度も聞いてきていた。
斗紀夫は思う。
――千郷とのことはそろそろはっきりさせないとな。俺もあいつもこのままじゃいけないし……
――どうしよう、門限を過ぎてしまった……
息を切らしながら玄関の扉を開けた佐保であったが、見知らぬ男性とぶつかりそうになり、飛びあがるように身を引いた。
見知らぬ男性、と最初は思ったが、佐保は彼の顔を知っているような気がした。
この男の人、どこかで見たことがある――と、佐保が記憶の糸を手繰り寄せようとしていると、彼も佐保の顔をまじまじと見て、後ろに振り返った。
「優美香さん。娘さん、帰ってきましたよ」
真っ白な歯を見せ、彼は佐保に笑いかける。
「佐保ちゃんだね。僕は隣に越してきた宵川斗紀夫です。よろしくね」
「は、はい。よろしくお願いします」
裏返った声が出てしまったため、佐保の顔は赤くなる。
テレビや新聞で作家の宵川斗紀夫の姿を目にしていたことを佐保は思い出した。テレビで見るような有名人が至近距離にいる、という嬉しさと緊張感が全身に走るも、斗紀夫の肩越しに、猛烈に苦い顔をした祖父母に気づいた佐保は肩をすくめた。
「遅くなって、すいません」
斗紀夫が帰った後、玄関で仁王立ちをしている誠人と美也の前で、佐保は頭を下げた。
「こんな時間まで何をしていたの? 門限の6時はとっくに過ぎているわよ?」
ピリピリとした美也の声が突き刺さってくる。
「クラスの友達と喫茶店にいました。話が盛り上がって、遅くなりました……」
「男子生徒か?」と、誠人に間髪入れずに問われ、佐保は慌てて首を横に振る。
「いいえ、全員女の子です。女の子5人でいました。深谷さんや高川さんと……」
佐保は小学校からの友人であり、この家に何度も遊びにきたことがある日香里や翼の名前を出した。
誠人と美也は同時に溜息をついた。
「部活もしていないんだし、いつも7時までには帰ってきなさいって言ってるでしょ。遅くなるときだって、携帯も持たせているんだし、連絡ぐらいできるはずよ。何より、受験生なのよ。もっと時間を大切に使いなさい」
「そうだ。それに喫茶店でだらだらとしていて、おかしな奴に目でもつけられたら、どうするんだ。高校生らしい生活ができないというのなら、小遣いだって、考えないといけないな」
2人に叱責され小さくなっていく佐保を庇うように、優美香が間に割って入った。
「お父さんもお母さんも、佐保だって反省してるんだし、そろそろやめてあげてよ。いつもはちゃんと門限守っているんだし、たまには友達と息抜きだってしたいわよね。もうこの話はこれでおしまいにして、夕ご飯にしよう。お父さんも揃って食べることなんて、久しぶりじゃない」
優美香の言葉に2人は「全く」などとブツブツ言いながら、佐保に背を向け、家の中へと歩いて行き始めた。
優美香が佐保の手を握り、「ほら、佐保も行こう」と微笑む。その優美香の笑顔に、佐保の心はズキンと痛んだ。
祖父母はなんだかんだいって、自分たちの娘であり、自分たちの望みでこの世に生を受けた娘である優美香には甘いということを再認識した。
――その大切な娘が産んだ子供であるから、きっと私はこの家で面倒を見てもらえているのよね。私には、おじいさんやおばあさんが今もなお憎んでいるに違いない男の血も半分流れているんだから……
それは物心ついた時から分かっていたことであったが、こう目の当たりにするとやはり悲しいものであった。
隣を歩く優美香が佐保にそっと囁いた。
「ね、日香里ちゃんたちと喫茶店でどんな話題で盛り上がっていたの?」
「転入生の男の子のこと話してたの。その男の子って、ものすっごくカッコよくて芸能人級でね……」
佐保は矢追貴俊が見せていた、あのこわばった横顔を思い出す。
――そうだ、今日は本当にいろんなことがあったわ。あのやたら美形な転入生……矢追くんだったっけ? そして、先ほど会ったあの作家の先生……
現時点では、矢追貴俊も宵川斗紀夫も、佐保にとって単なるクラスメイトならびに隣人にカテゴライズされていた。
傍らを歩く優美香の柔らかな手を握り返し、リビングへと向かう佐保は想像すらしていなかった。これから先、自分の身に襲い掛かってくる様々な恐怖に、彼らも決して無関係ではなくなるということを――
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