思い出せないと彼女は云った1


     ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 なんか知らんけど人間って奴ぁ面白い生き物だよなぁ。


 ただ生きるってだけであれこれ悩んだりどうだこうだと。下手すると今日食う物ですら悩んじまうんだぜ。ほら、今夜のお夜食は何にしますー? ていうのさ。まったく俺っちには理解できたもんじゃねーぜ。鬱陶しくも身体に巻き付かせる毛皮にすらこだわるんだからな。ま、あの服っていうの? 他の雀にゃ理解できねぇかもしれないが、俺っちは真摯な黒い天才雀だからな。ま、人間のオサレってのはなんとなくわかる気がするんだよ。人間として群れて生きて行くにゃその見た目が重要なんだっていうことぐらいだがな。


 じゃらじゃら鬱陶しい金属モンを身体のあちこちに付けまくったり、やたらと踵が高くなる履き物履いたり、無駄に頭をでかくする帽子被ったりと、まぁ、見ているだけでも飽きないもんだ。少なくとも俺っちが野生で生きていた頃はこんな生き物は他にいなかった。ま、自前で色々装飾してる奴らは居たけどな。そいつらと人間の違いってーのはよ、生まれつきか後付かってことだ。人間の、あれだ……なんつったけかな、そうだそうそう、個性っつーんだ、それは全部後付のもんだろ。思想とか目的とか、下手すると生きる意味すら後付だ。そう、生きる意味を求めるっていうのがちょいと俺っちにも難しいところでよ、生きるのになんで理由が必要なんだ? 死ぬのが嫌だから生きるなんて当たり前過ぎてあくびがでらぁ。そう考えるのも馬鹿らしいっちゅーもんだぜ。



 生きる理由と死ぬ理由。



 人間ってのはホント変な生き物だ。何かが欲しいとか手に入れる為には何でもするっていうほうがまだ理解できるね。喩えを食い物にすりゃ良いだけなんだから。


 だからよ、なんで生きるのに理由を求めるんだい?

 なんで死ぬのに理由を求めるんだい?

 んでよ、どうして死ぬことが希望なんだい?


 人間だって俺っち達雀と同じで、たかが生き物だろう。生き物なんだったら生きたいし生きようとするのが当然なんだからよ、死のうとするなよ。そりゃぁよ、虫とかの世界じゃてめーの生んだガキに食われる親ってのもあるけどよ、そういうんじゃねーだろ? そもそもが死ぬことなんて本能じゃねーんだろ?

 ま、言ってもしゃーねぇことだけどな。

 そんな俺っちの人間観察はまだ続くぜ。なんだかんだいって人間ってのはおもしれぇからよ。目が離せないんだ。


 ──さぁ。


 今夜もまた、死にたいと願う愚かで楽しい人間がいるみたいだぜ。

 俺っちは彼女の肩に乗る。

 彼女は漆黒の衣を身に纏い、巨大な鎌を片手に持って。

 深い霧に怯えて家へ引きこもるその頭上を音もなく、しかし美しく、そして誰にも気付かれず。


 まん丸いお月様が浮かぶ空を、駆け抜けていくのさ。




     ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




 三年前の事件を偶に思い出す。


 ダイムラー氏はその日、友人の家で「死にたい」と漏らした。昔からの友人であるその男は、ダイムラー氏の一言に驚きつつも、彼を励ました。ダイムラー氏のことを知る男からすれば、彼がそこまでネガティブになっている事実は驚愕に値する。普段なら男の方が彼に励まされるぐらいだからだ。それほどまでにダイムラー氏は活発であり、彼の職場で働く仲間を羨ましいとさえ思う時が男にはある。一緒に魚釣りをすれば一番最初に大物を釣ってやると粋がり、ジョギングに出れば彼から勝負をふっかけてくる。随分歳を重ね、深くなった顔の皺を互いに誇りとし、これからどれだけ増やせるかと勝負をしている真っ最中でもあった。


 そんな彼が「死にたい」とぼやくのだ。


 彼がその男の前以外でまさか死にたいなどと口を滑らすとは到底思えない。一番の友人である男の前だからこそダイムラー氏は弱気になったのだろう。

 まさか事業が失敗したのだろうか。

 ダイムラー氏の会社は彼個人が一から作り上げたものだ。数年、数十年かけ、じっくりと大きくしていき、今やケープ市の誇る企業にまで成長を遂げた。その会社が潰れたなど少なくとも今朝の新聞には載っていなかったはずだが……。

 男はどうしてそんなことを思うのか理由を尋ねたが、ダイムラー氏はただただ黙って首を振るばかりだった。

 霧が出るからと、酒もそこそこに男はダイムラー氏を帰すために玄関まで送った。

 しかし男は今日一日ダイムラー氏の表情が曇っていたことが気になり、霧が晴れた翌日の朝になったら早速顔を見に行ってやろうと思った。

 霧が出てきたケープ大通りを行くダイムラー氏。それがダイムラー氏の生きている姿を見た、最後の瞬間だった。


 翌日、彼は死体で見つかることとなる。




 情報操作さえされていなければここで正しいはずだ。


 白い建造物は果たしていつから建てられたものだろうか。構造そのものは調べ上げてあるものの、その実歴史までは調べていなかった。必要もないと割り切ったのだが、いざ目の前にしてみるとやや気になってしまう。しかも今は深夜だ。深い霧は人を嫌っているのか、視界をこれでもかとばかりに奪っていく。可視領域がほとんどない建物の周囲、いや、周囲だけではなく、ケープ市全域が夜になると霧に覆われる。霧が最も深い時などは満月の光さえ足下に差し込むことがない。その場合は人間を集めて建物を取り囲むなどとてもやってられないだろう。それだけで行方不明者が出そうだ。


 行方不明者どころか誰一人帰らぬ人にならぬよう、とりあえず祈っておく。名も知らぬ神に祈ったところで、さてどの程度の効果があるだろうかと皮肉に思いながら自分の隣をぴったりついてくる部下に指先で合図をした。喋るのだけは厳禁だ。いくら霧が深かろうが、決して音までは吸い込んでくれない。足音ですら細心の注意を払わなければらないのだ。こういうのは軍隊が保有する特殊部隊辺りか、あるいは都市伝説と化している裏の顔を持つとされる巡回神父が得意そうだ。幸運なことに建物を囲む人間の須くがそういう特殊な職に就いているものの、建物の中にいる人間達は(特殊とはいえるが)暗殺や殲滅、あるいは戦争を得意とする職ではないだろう。


 かといってただの人間というわけでもない。あれらはケープ市の人間に害をなすと判断されたからこそ、こうして自分達はこの建物を取り囲み、機を窺っているのだ。先手必勝とはよくいったもので、何事も奇襲というのは成功率を高める要因となる。害をなす人間相手に遠慮など無用であり、そういう躊躇いは失敗を招く。


(害虫ならば撃てるか)


 拳銃はいつでも取り出せるか。あるいは手に持っていた方が良いか。もしかしたら撃つかもしれないし、撃たないかもしれない。なら、持っていた方が良いだろう。相手の警戒心を解いて交渉しようなどといったシーンでもないのだ。

 建物は元々白色だ。しかしどうしてこの黒い闇の中で白を保っていられるのだろう。神教官府の連中よろしく白い建物が夜中にすらその存在感を顕わにしているところなど、彼は考えたくもなかった。今は暗い、闇の中だ。その場にいる人間を尽く飲み込む闇というだけでも十分不快にさせてくれるのだから、これ以上の負担は勘弁してほしいところだった。

 とはいえ冷や汗一滴すらも搔くことはない。心臓も至って一定のリズムを保って鼓動している。心は冷静で、頭も回る。寝不足ということもない。自分の中では最も高い成功率を叩き出せる状態だ。最高の確率で失敗するようなら結局何をやっても失敗するのだ。だから失敗などしない。今の自分は最高だ。


 この場にいる全員がそうであることを祈り、周囲に合図を出す。

 一斉に灯りが点けられた。


 建物の周囲だけ、まるで昼と見まごうばかりの光量に包まれる。全ての入り口と窓に人員を配置し、突入部隊は灯りと共に建物へ雪崩れ込む。実に手慣れた動きだ。地元警察との差をまざまざと見せつけられる。クリア、という声は数秒で一階を制圧したことを意味する。続いて二階を制圧し、三階へと突入するのだろう。これだけの人数とプロが揃っているのだ、追い詰められているネズミは窮鼠猫を噛むにも到らず、その手首に冷たい手錠をかけられることだろう。


「ここまでやって駄目なら」


 突入部隊に続きながら、彼は毒づいた。


「全て無駄だったんだろうよ」


 その呟きごと、夜の深い霧は吸い込んでいってしまったのか──その夜、スティーブは大手柄を得ることになる。




 犯罪者というのは何故犯罪を起こすのか。

 誰かが演説でそんなことを語っていたのを思い出した。目覚めのコーヒーの苦味がどうでもいいことを思い出させるのか、それとも頭がまだ寝惚けているのか。散らかったままの本を片付ける気力が起きないし、そもそも今日は非番である。

 適当に見繕って借りたこの部屋にはもう何年住んでいるだろう。引っ越してきてからここまで、ただがむしゃらに犯罪と向き合ってきた気がする。さすがに長年の付き合いなのだから部屋ぐらい片付けてもいいだろうと思わなくもないが、やはりそういった方面に身体が動いてくれそうもないと、スティーブは肩を回した。今のままの状態が続くのならば、まだまだこの町に居残ることになるだろう。そうなればこの部屋との付き合いもまた伸びるのだ。

 テーブルの上にカップを置き、傍にあった紙の束を掴み、広げてみた。数日前の新聞だった。一面に書かれている記事の一つか二つは口添えしたり手を貸したりしたことのある事件だ。さしたる興味もないが、それでも文字を追っていくと、ある一カ所で視線の歩みがぴたりと止まった。


「あの事件」


 思わず目を引き寄せられる。

 このケープ市に訪れた巡回神父が撲殺された事件だ。神父が殺されたとなり、とかく宗教には敏感なケープ市の連中は騒いだものだった。この事件にはスティーブも刑事として関わっていた。撲殺されたのは現場から見て間違いなさそうだったが、しかし不可解な事件でもあった。


 神父の名はベルホルト・ブランド。


 念の為経歴を洗ってみたのだが、ある時点を境にぴたりと彼の人生の軌跡が辿れなくなっていた。


(いや、辿れてはいた)


 年齢は二十一、このケープ市より首都に比較的近い都市の生まれで、義務教育後に教会本部へと入団している。入団後はその目覚ましい才能を以て数年で神父の地位を確立し、国中へ教えを広める巡回神父として歩き回っていた。

 たった、これだけ調べられた。

 不可解なのは親の名前が判らなかったことと、入団へのきっかけ、そもそも義務教育中の経歴が一切合切影も形もなくこの世から消えていたことだ。ベルホルト・ブランドという男が巡回神父なら、どうして第二の教会本部とも呼ばれている神教官府があるこのケープ市へ訪れる必要があった。教えを広める必要などここにはないはずだ。巡回神父などの人間は地方のあまり教育機関に恵まれていないところへ訪れて子供達に勉強を教えるというが、それも今回に限り論外だった。首都程ではないがケープ市の教育機関はこの国の中でもかなり発達しているほうである。


 彼はこのケープ市へ来てから、まず最初に神教官府へ立ち寄った。とはいえそれも受付までで、内部へ入ろうとはしなかった。それもまた不自然だ。神父ならば現地の責任者と挨拶していくものではないのか。逆に行政官府側へと立ち寄って市長と挨拶をしたというのも妙な話だ。何故わざわざそこへ立ち寄る必要があったのか。


(巡回神父……やはり、教会の暗殺集団と考えるべきか)


 ただの都市伝説ではあるが、考えれば考えるほどただの噂話に現実的な色が塗られていく。同僚や部下が話しているのを耳にしたときはただセピア色をした、次の日には頭の中から消えていそうな話だったものが、実はそれこそが真実ではないのか、と。

 しかしそれはそれで不自然だ。もし暗殺集団の一員だとするならば、あの男は誰を殺しに来たというのだ。まさかあの男を殺すためだけにケープ市まで足を運んだなどと──


「……いかんな」


 今日は非番だ。休める日にどうして頭を使わなくてはならない。

 それよりも今朝の新聞でも買いに行こうと、スティーブはコートを羽織る。今の時期、朝の時間帯は随分と冷え込んでいるからコートは必須だといえる。


(頭を使うのは、仕事の事じゃない)


 もっと他のことだ。やるべきことがあるのだから。

 家を出るときに念のためにポストを確認してみると、宛先も何もない、しかも手紙の用紙ですらない一枚の紙切れが入っていた。それを取り出して読んでみる。


「これは」


 休日でも、結局は仕事絡みになってしまうのか。




 休日とはいえ、世間では平日だ。

 閑散とした公園に行くと、あまり使われることのない公園の椅子が珍しくもその役目を果たしている最中だった。確かに覚えている、と呟きながらスティーブは椅子に座っている痩せた男のところへ歩いていった。

 一体何日間風呂に入っていないのだろう。浮浪者とさして変わらないように見えるのは、まさにそれ同然の生活を送っているからか。晴れた陽射しの明るい公園には不釣り合いな、茶色いコートの男は新聞紙を広げて、決して顔を見せないようにしている。しかし、スティーブに気づくと新聞の脇から一度だけこちらに視線を遣り、それから真っ直ぐ新聞の先を見据え直した。何があるのかと気になりそちらを見るが、ただ誰もいない広場だけがあり、別段気になる物は見当たらない。


「フォルカー・ビーレルか」


 名前を言うと、男はやや驚いた顔で振り向いた。


「名前は書いてなかった筈だが」


 新聞を下げ、顔を顕わにする。髭も剃っていない顔と痩けた頬はそれなりに迫力があった。


「公園で待っている。二週間前の事件のことについて、か。ミュラーの死亡についてお前が興味を持つのはわかるがな」


 ミュラーという男がいた。不倫をした挙げ句に自分の妻を自殺させた男。その妻とさらに不倫をしていたのが目の前のフォルカーだ。妻は旦那への当てつけのつもりで不倫という行為を行っていたのだが、夫は自分が不倫をしているという意識すら最初はなかったという。

 しかし、妻が死亡した『翌日』に、夫もまた死ぬこととなる。原因不明の死だった。急に心臓が止まっただろうという見解だったが、それで何故男の顔が穏やかだったのだろう。あの死に顔はまるでショパンズ夫婦と同じだったのだ。


(妻のほうもまた、同じ表情だったな)


 共通しているのは二点。決して苦しんだ顔をして死んだわけではないのと、原因不明の死だ。それが立て続けに三件も起きている。


「あの人を殺した犯人を捜している」


 唐突に、フォルカーは話し始めた。


「復讐か?」


「そういうつもりはない。ただ、俺は見た。信じてもらえるかは別だがな」

「話してくれないことには判断しようにも無理だろう。生憎今の俺は休日を楽しむ一般人でね。刑事のつもりはない」

「その割には随分と」


 フォルカーはコートの下を見透かすように、隈の出来た顔でじっと睨む。


「警戒しているじゃないか」

「不振人物に出会ってのうのうとしていられるほど、お人好しになったつもりもない」

「……そうか」


 一度周囲を警戒し、誰も近くを通っていないことを確認してから男は口を開く。


「彼女が死んだあの夜、いや、彼女が死ぬ直前、直後の瞬間を見た」

「見た? 自殺を、か?」


 それならば考えてみたことだ。彼は第一発見者であり、その場にもいた人物だ。この男が殺した可能性だって拭い切れていないのに今更そんなことを言ってくるのはどういったことだろう。最も怪しい人物なのに逮捕出来ない理由としては、その看護婦であったミュラーの妻の死因が特定できてないのと、確たる証拠が挙がってないからに過ぎない。


「自殺……違う、彼女は殺されたんだ」


 そこでその男に対して、スティーブは違和感を覚えた。


「彼女が死ぬ瞬間を見た」


(死ぬ瞬間、だと?)


「殺された……というには、余りにも」


 フォルカーは両膝の上で両手を握る。僅かだが、震えているようにも見えた。


「余りにも、美しすぎた」


 目を見開く。


(その言葉は)


 求めてやまなかった言葉だ。


「刑事さんは、信じるか?」


 彼が何を見て、そして何を信じてしまったのか。

 元々信心深い人間が集まっている街だ、当然思いこみで自分は見たと勘違いする場合が無いとも言い切れない。それは錯覚だ。勘違いだ。お前は何も見ていない。スティーブの頭の中で一瞬そんな文章が浮かんだが、彼は自分の意志ですぐに消した。しかし男が本当に自分の望む答えを口にしてくれるかどうか、それは結論が出るまで疑って掛からなければならない。


「神様の、存在を」


 信心深き人間が集まるこの地にて、信心深い人間がそう尋ねてくることがどれ程のことか。


「その神様を俺が見たと言ったら、あんたは、信じてくれるか?」


 ──だから警察には相談できず、こうして俺個人になるのを狙っていた? だが、何故俺だ?

 その疑問は決して口にせず、スティーブは無言のままだった。


「全て、死神が起こしたことだと言ったら、あんたら行政官府の人間は信じてくれるか? 神教官府じゃない、あんた達だ。神教官府じゃ駄目なんだ。あそこは違う神を奉っている。違いすぎて、あの教えを信じられない……!」


 フォルカーの言葉には力が隠っていた。本人は冷静なつもりでも、そうはなっていない。

 死神を見たなんていうのは通常なら戯れ言と笑って終わりにするだろう。だが、仮に死神という括りではなく、何かしらの今まで誰も認識したことがないような現象が起きているというのならどうだろうか。

 笑いながら死んでいった人達。自殺する道具や、そもそも自殺をしたという痕跡すら残さずこの世を去った者もいる。彼らが全てその『まだ誰も知らない方法』で殺されたなら、原因が特定出来ないのも一理あるとスティーブは考えた。


(七年前の……あの日のように……)


「刑事さん、俺は彼女が死んでその数日後にミュラーさんも死んだと聞いて、絶望したんだ」

「なんだと?」


 絶望した、深く反省している、神教官府の教える神は間違っている、等はまだこの男が信心深い故の思いこみや勘違い、思想の違いといった理由で説明がつく。

 だが、ミュラーの死についてフォルカーとスティーブに違いがあった。それは無視できない違いだ。無視できないというよりも、あり得ない違いだった。


「数日後? 違う、あの男は翌日に死んでいるぞ。鑑識もしたし、確認もした。実際俺が解剖したわけじゃないが、証拠はある」


「なんだって。そんな、いや、それはない。俺は彼が死ぬ前日に会っているんだ!」


「そんな馬鹿な。では翌日に自殺したというミュラーは何者だ。同じ人間が二人もいるはずがない。確かに新聞で正式に発表されてないかもしれないが、しかし」


 しかし、翌日に死亡などという事実はあり得ない。


「新聞に載っていたんだ。そう載っていた!」


 すぅと身体が冷えていく。予想外の事態が連続して起こり続ける不気味さはスティーブから徐々に冷静さという名のコインを一枚一枚掠め取っていく。死体は動かない。死体は喋らない。死ねば土に還って終わるだけだ。信心深いこのケープ市においては死者がどう扱われ、死後どうなるのかなどわからないが、少なくとも「死んだら終わり」であり、もし死者が動くようなことになれば、もうそれは人間の常識を遙かに超えた事態だ。そんなホラーな事件が起こったなどと記された資料を警察の資料室で見掛けた、という記憶などスティーブにはなかった。そんな馬鹿げた資料があれば同期の間で都市伝説として語られていてもおかしくはない。


「翌日の新聞に、ミュラーの死について書かれた記事はなかった、か」


 その事件に関していえばスティーブは担当外だった。ただ奇妙だから少し手伝ってくれと言われ、現場にも入ったし、自殺した女の顔も拝見した。その死に顔が穏やかだったので、スティーブはずっと引っ掛かっているのだ。今思えばミュラーについても色々と確認をすべきだった。


(数日後に死んだミュラーの情報など、俺は知らない)


 警察内部で外へ漏れてはならない情報は当然だが、ただの一刑事にすら事情を話さない事件は政治絡みということになる。しかし、今回の場合は新聞に載っているという奇妙な事件だ。その時の新聞を確認しなかったのはスティーブの手落ちなのだが、警察内部で噂にもならない不気味さに戦慄する。


「新聞は、コンラッドのじいさんから買ったのか」

「え、ああ、あの人からだが」

「まさか、な」


 コンラッドが渡す新聞に細工をする理由が思い浮かばないし、スティーブとしてもコンラッドには何度か世話になっている。出来るなら疑いたくはないが。


「確かに俺はミュラーさんには直接会っていない。だけど──」

「いや、待て」


 先を続けようとしたフォルカーを黙らせる。


「とりあえず歩こうか」

「え?」

「黙ってついてきてくれないか。なに、すぐに済む」


 すぐに済む。

 スティーブの言葉に嘘はなかった。




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