死神少女3

 アンドレアフの読みとハンスの推理は実に的確だった。

 アンナの手をしっかりと掴み、レテーナが逃げた先はショパンズ家の屋敷だった。

 この闇の中で行ける場所があるとするならば、どこぞの民宿は慌てて逃げてきたせいで泊まるほどの金が無いのと闇雲に走って行ける場所となれば結局のところここしか無かったのだ。警察に駆け込むという考えも浮かんだが、どうしてもロハンを警察に突き出すのは躊躇われてしまった。だがこのままだと自分は良いとしても、この小さな子に被害が及ぶこととなる。激しい葛藤がレテーナを苛む。

 ショパンズ家の屋敷の裏手にある門は古く、しかもその周りは雑草で埋め尽くされていた。その門を強く押せば鍵が掛かっているのに関係なく開き、簡単に中へ入ることができる。ロハンと彼の妹がこっそり抜け出す穴として利用していたことを思い出し、少しだけ微笑んだ。レテーナ達もそこから忍び込み、なんとか朝までやりすごそうと校舎に近付く。ここの使用人を辞めてまだほんの数日ではあったが、それでも懐かしいことに変わりはない。


「レテーナさん。ここに来てどうするの?」

「どっかの部屋に隠れましょう……沢山あるし、もし誰かが屋敷に入ってきてもすぐにわかるわ。これだけ静かなんだから、音が澄んで聞こえるわ」

「でも、入ってこられたら、すぐにばれちゃうんじゃない?」

「さっきは慌てちゃったけど、大丈夫。あの人、そんなに身体は強くないから」

「ふぅん」

「今のあの人の身体は……」

「え?」

「なんでもないわ。行きましょう。まだ追いつかれるわけにはいかないから。一階は霧が濃くて、どうにも視界が悪すぎるわ」


 ヒンヤリとした白い廊下を歩く。これだけ暗いのに廊下の白がはっきりと浮き出しているのは驚愕に値した。初めて見る屋敷の中に色々と興味を示すアンナを無理矢理引っ張って、二階の部屋の扉を開く。

 書斎だった。彼女の主人であったショパンズ家当主が好んで使っていた一室である。高級な木材によって仕上げてある威風堂々とした机までアンナの手を掴んで引き寄せた。


「アンナちゃん、机の下にいてくれる?」

「うん」


 言われたとおりに机の下に潜る少女を確認したあと、レテーナは教室を出ようとした。


「どこいくの?」

「少しだけ一階にいって、薬品を取ってくるの。ご主人様が寝不足の際に服用されていた睡眠薬がそのままあれば……。それから廊下の様子を見るだけ。そこで大人しくしていてね」

「……わかった」


 アンナの前では強気でいるが、廊下へ出てみると心細さが思ったよりも大きいことを実感する。先が見えない廊下の先。いまだ足音一つしない屋敷の中。

 震える足に鞭を打ち、レテーナは猛然と闇の先を見据えた。

 ショパンズ家専用の医務室の中はさらに静かで、一見するとホラーじみている。しかし現実的に考えればそこにあるのはただ簡単な治療に使うだけの道具と長机だけで、怖れることはないのだ。月の明かりだけを頼りに棚から薬品を失敬し、アンナのいる教室へ急いで戻る。


「おかえり」


 アンナが少しだけ笑顔になって言う。レテーナは小さく「ごめんね」と呟き、薬品で濡らしたハンカチを、突如アンナの口に押しつけた。


「……!」


 手足を振り回しながら抵抗するが、そこは体格差を利用して少女を動けなくしている。しばしの間無理な体勢で押さえつけていたが、やがて少女からふっと力が抜けた。


「ごめんなさい。少しの間だけ、そこで寝ていてくださいね」


 アンナを仰向けにして、その身体に自分の上着をかける。

 ロハンがアンナを見つける前に、なんとしてもその暴走を止めなければならない。そもそも、今まで止めなかった自分が悪いのだ。そのツケが今になって回ってきた。


(そう、それだけ)


 主人と召し使いという関係は終わっているのに、それでも未練がましくその関係でいようとしたことがそもそもの間違いだったのだ。もう対等の間柄であって良いのだ。自分はとっくにその職を辞めたのだから。

 しばらくすると、小さな足音が空気を震わせた。びくんと肩が跳ねる。

 ゆっくりと音が近付き、窓からの月明かりでようやく人影が見え始めてくる頃になって、彼が先に呟いた。


「やはり、ここにいたのか。僕がここを畏れて近付かないとでも思っていたようだが、それは間違いだよ。ここは僕にとって祝福すべき場所さ。何しろ女神と出会った場所なんだからね」

「……ロハン」

「──やっと、名前で呼ぶようになったんだ」


 両手を広げて、まるで祝福するかのように彼はそう言ってみせた。


「やっと、僕をそう見てくれたことに、感謝する」

「なにを……」

「ところでレテーナ、あの女の子はどこにやったんだ?」


 言えるはずもない。ぐっと黙り込んでロハンを睨む。彼が居場所を知れば真っ先に手に持ったナイフで小さな少女の命を奪いに行くだろう。


「あの女の子は見てしまったんだ。君にはわからないだろうが、見ればわかる。あの、神を」

「……神?」


 先程から女神だの死神だのと、ロハンはおかしなことを口走っているのには気付いていたが、敢えて気にしないふりをしていた。しかし、ここに来てまでまだその単語を口にするなんていうのは、やはりおかしい。


「しかも僕ですら知らない名前を知っていた。あの子は僕よりも先に進んでしまったんだよ。──それじゃいけないんだ。僕が選ばれるには、僕より先に進んでしまった人間を排除しなければならない」

「排除って……殺すってことですか! ダメです、そんなことは!」

「レテーナ、今更なんだよ。僕はもうとっくに人殺しになってしまったんだ。だからもう子供の一人や二人、どうってことはない」

「違います、これ以上罪を重ねないことに意味があるんです!」

「意味なんてない。そう、どうせ僕は神によって天へ召される運命にあるんだから、殺しは罪にならないんだ。だとしたら、殺しをする神は何の罪に値する?」

「──殺しをする、神?」

「ああ、だから見ればわかる。大丈夫だ。どうせ僕が呼ぶ。──さぁ、その前にまずはあの女の子に会わせてくれ」

「まったく話についていけないのは、私の知識不足故かもしれないけど──それは、お断りします」


 ぴしゃりと告げ、女性としては高い背を伸ばし、綺麗な顔立ちの中に淡く凄惨とする眼がロハンの狂気に満ちた瞳へ改めて転じる。

 さすがのロハンもしばし言葉を失った。


「……なるほど、レテーナは本気なんだ。本気で、僕を裏切るつもりなんだ」

「裏切りません。私は、貴方を止めるだけです」

「それが裏切りだ。僕はもう後戻りできないというのに!」


 ポケットからハンカチに包まれたナイフを取り出して右手に持ち、その腕をだらんと垂らしながら、ゆっくりとレテーナに近付く。


「君がそういう態度を取るなら、僕は君を殺さなければならないんだ!」

「だったら!」


 苦悶に満ちた表情を作り、彼女は叫んだ。


「私は貴方に仕えていた者として、そしてロハンを大切に想う者として、本気で止めなければいけないって気付いたの!」

「何が気付いただ!」


 突如駆け出したロハンの足音は、この状況に比べていやに静かだった。

 心の中は妙に落ち着いている。ナイフを持った少年は確かに脅威だ。数秒後には殺されているかもしれない。だけど、今の叫びで恐怖は全て吹き飛んでいた。

 ──本当に、妙な気分だった。

 彼を止める方法は、彼の内に残っている良心に語りかけるしかなかった。今は奥深くに眠りこんだ、彼の中の人間性を目覚めさせる。それがおそらくはこの暴走を止める唯一の方法だろう。

 だからこそ、彼女は動かなかった。

 狂気が身体に取り憑いていたロハンの表情に困惑の色が混ざり始めた。

 ──どうしてだ、どうして動かない!

 あと数歩。それだけで、妹を殺したこの刃がレテーナの身体を貫くだろう。

 肉を引き裂き、血を滴らせ、そうして一人の命を無惨に終わらすのだ。


「……!」


 レテーナは両目を瞑る。


(きっと、痛いんでしょうね……ぼっちゃま)


 最期まで、仕えていられることに感謝した。

 あと三歩。二歩。──一歩。


「レテーナさん!」


 だが、彼女が死ぬことはなかった。

 あと一歩を踏み込もうとしたところで、横からの声にロハンが動きを止めたのだ。


「ダメ! 死んじゃダメ! レテーナさん!」

「アンナちゃん! どうして!」


 睡眠薬で寝させていたはずの少女が、レテーナの背後でふらふらと歩いていた。


「そこにいたか!」


 突如、ロハンが猛然と駆け出した。レテーナの脇をすり抜け、少女に詰め寄る。


「あっ!」


 レテーナはワンテンポ遅れて手を伸ばすが、当然、間に合わなかった。

 凶刃が振り上げられる。

 少女はまるで場違いな顔をして、事の顛末を目で追っていた。


「逃げて!」


 叫ぶが、手遅れだ。どう考えても間に合わない。


「だから、怖くないよ」


 そんなレテーナに、アンナは笑いかけたようだった。

 ナイフの尖端がアンナの胸を差し貫こうとしたまさにその時、突然ロハンが後方に跳ねた。

 いや、跳ねたのではない。

 蹴りを顔にくらい、吹き飛ばされたロハンの身体が一度床をバウンドし、転がる。手から離れたナイフがからからと廊下を転がっていった。


「いい加減にしろよ、クソ野郎」


 その声は、アンナの背後から聞こえた。


「お前のの勝手で人が殺されてたまるか。命ってのはな、一つしかないんだ。そのたった一つの命を、どうして自分の判断で奪うことができるんだ」


 蹴りのために伸ばした右足をひゅっと戻して、彼はそう言い放った。


「あなたは……まさか、ハンスさん?」


 レテーナが呟くと、ハンスは手を軽く挙げた。

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