死神少女2
孤児院に残されたハンスが、ふと目にした物は聖堂に飾られた像だった。
女神の像。かつて神教官府が教えに背くとして撤去しようとしたところ、町の住民が大反対をして、結局は取り壊されずにここにあるものだ。深い染みやかつては輝いていた色褪せた素材の肌は年季を感じさせるに十分たるものだった。
女神の像に見下ろされていると窓から月が覗けた。薄らぼんやりと輝く丸い月。ああ、今日は満月だったなと呟いてから立ち上がる。意識的にやったのではないが、今までの格好はもしかしたら祈っているようだった。月光がハンスにも注がれる。今まで他の人達が味わってきたことのない経験を積んできたと自負しているハンスでさえここまで神聖な気持ちになるのは、おそらくこれが最初のことだった。
まだ夜は始まったばかりだ。
今日の夜に生まれたばかりの霧が、孤児院の窓や壁のわずかなヒビの隙間から潜り込んでいた。夜空には無数の星。地面にまで届かないその光を弱く弱く、それでもなお強そうに見栄を張りながら輝く星達。
世界はこんなにも美しいのに。
この闇の中で、生ははっきりと輝いているのに。
人は死を、望んだ。
叶えられた願いは具体的な形となった。
それは、一人の少女の運命を変えた。
いや、願いが少女を生み出したのか。
どちらにしろ人間の身勝手で傲慢な願い事に違いはなかった。
──この町には傲慢な神がいる。
なんてことはない。それは人間自身だったのだ。
この町にいた真実の神は、ひどく悲しげな顔をした少女に過ぎなかった。
「……だれ?」
小さな声がして、ハンスは驚いて顔を上げる。自分が発する音以外が耳に入るのはとても不思議だった。ここは孤児院だ。誰かがいるのが当たり前なのに、今だけは自分一人の世界だと勘違いしていたハンスは、苦い思いで声の主へ振り向いた。
三人の子供が手を取り合いながら、そして寒さに少しだけ身体を震わせながら喋りかけてきた。
「あ~、おにーちゃん。テースおねーちゃんと一緒にいた人だよね」
女の子が指さしてくる。ハンスは少しだけ笑みを作りながら「そうだよ」と返事をした。
「テースおねーちゃんはいないの? 今日、夜になったらトランプをするって約束してたんだ」
「えー、今日はわたしとおはなしするんだよ」
「約束してないだろー。おれは約束してたんだぜ!」
「うー」
何故だと、ハンスは心の中でテースに言わざるを得なかった。こんなにも純粋な子供達に囲まれながら、どうして君は命を狩るのだ。望まれたから? だから、狩るのか……。それが君と、君を囲む人達をどれだけ裏切っているか、知っているのか?
「ねぇ、そういえばアンナちゃんは?」
一人が、聖堂を見回した。
「うん。なんか、おやつの時間にはいなくなってたよ」
「……アンナが、いない?」
ハンスが怪訝そうに呟いた。
「今、アンナはいないのかい?」
「うん。ご飯の時にもいなかったの。セーラ様がけーさつに行くっていってたよ」
「……アンナがいない」
二日前の夜、最後に見たアンナの姿を思い出す。
何かにとても怯えてきっていた両目を、克明に思い出す。
あんな小さな子をここまで怯えさせるなんて──あの時はただ不可解にしか思えなかったが、今はどうだろうか。
最大の恐怖をその身で体験した者ならば、その小さな女の子が見た恐怖がわかるのではなかろうか。
「……まさか、あの時、アンナは……」
そう、アンナは見てしまったのだ。
死という最大の恐怖の象徴を。
「なんてことだ」
そして、アンナはいなくなった。
──これじゃまるで、コールと同じパターンじゃないか。
自分一人で落ち込んでいる暇は無かったのだ。
「あ、おにーちゃん!」
子供の一人が呼び止める。
「アンナとおねーちゃんを探してくるの?」
「ああ、そのつもりだよ」
テースの名を聞くと、胸が痛む。
「だったら、はやく見つけてきてね。約束があるんだから」
えっ、とハンスは今にも駆け出そうとした足を止める。
「おにーちゃんもやろー。トランプ。たのしいんだよ」
彼らはとても無邪気だった。
ハンスは幾分救われた気持ちになり、力強く頷く。
「ああ、二人とも絶対に連れて帰ってくる。約束だ」
そして、聖堂から外へ、道路へ出た途端に出会った顔はハンスの息を一瞬だけ止めるのに成功した。
「アンドレアフさん!」
「おお、ハンスくん、ここにいてくれたか。元気になってくれたようで嬉しいよ」
「どうしてここに?」
肩で息を切っているアンドレアフは右手を挙げて「少し待ってくれ、もう、歳なんだ……外も霧が濃くなってるし……」と言ってから、息を落ち着かせ、深呼吸をし、そうしてようやく喋りだした。
「スティーブという刑事から君に会うように言われたが、もちろんそれ以外にも理由はある」
「スティーブ? 誰ですか?」
「なに、知らんのか。知人みたいな言い方をしとったぞ」
誰だがまったく検討がつかない。自分を知る人間はそんなに多くないと思っていたが、アンジェラとオットーに付き合っている間に有名人となってしまったか。
「まぁそれよりもだ、体調はどうかね?」
「ええ、まぁ……」
少しだけ言葉を濁す。肉体的にも精神的にも良好とは言い難い。
「無理はせんことだ。先ずはゆっくり休むことだ」
「けど、そうも言ってられないんです」
「まったくだなぁ」
はぁ、とアンドレアフはため息をついた。
「君の家に行ったら出掛けたと聞いてな、孤児院だっていうからこっちに来たんだが……。それよりも、ここへレテーナ嬢は来ていないかね」
「え、なんでまた」
「とりあえず神官学校へ向かいながら話そうじゃないか」
なぜそこへ? という疑問を出そうとしたが、それよりも早くアンドレアフの足が動き、口が開いた。
「まぁ、記者としての勘も入るんだが、レテーナ嬢を覚えているだろう。彼女はおそらくロハンを庇っていた」
「庇っていた? つまり、その家にロハンがいたってことですか?」
「ああそうだ。わし達は最初、迂闊にもそれに気付かなかったんだが……まったく、タヌキだねぇ、あの嬢ちゃんは。それよりもまぁ、もしやと思ったわしは先ほどレテーナ嬢の家に行ったんだがね、彼女は家にいなかった。しかも荒らされた形跡があったんだよ」
「……まさか、ロハンが何かしたのか?」
「そうかもしれん。しかし、そうとも言い切れないが……。だが、ロハンが何かをしたとみるのが、最も可能性として高いだろうな」
「だけど、なんで神官学校を?」
「ロハンがレテーナをさらうか、安全な場所で始末するなら自宅か、あるいは別の場所か……。しかしロハンが屋敷に戻るとは思えない。あそこは彼にとって苦い思い出があるからなぁ。で、もしレテーナが逃げ切っているなら、真っ先にそこへ逃げていると踏んだんだ。今まで庇っていた男を警察に売り渡すような真似は、まぁ、せんだろう」
アンドレアフは手短に二人の関係を説明し、その上でもし今更警察へ引き渡すならば、とっくにそうしていてもおかしくはないという推論をたてた。それに警察へ逃げたのなら慌てることはないのだ。記者としてはいち早くスクープをモノに出来たかもしれないが、命の危機はとりあえず去ったことになるだろう。
「……なるほど。屋敷で無かった場合は?」
「調べて見たところ、彼女は神官学校の卒業生だ。逃げ場所とするにしても、もし孤児院やショパンズ家の屋敷で無かった場合、最も行きやすい神官学校じゃないかとわしは睨んでいる。この霧と闇だ、迂闊に妙な道へ逃げれば、もっと危険な目に遭う。だからこそ行き慣れている場所に限定するしかない。……しかし、ロハンが追うにしても同じことだろうな」
「……」
「そんで、わしは神官学校とは無縁の人間なので、その学校内の案内が欲しいと思っていたところなんだよ。さすがにわし一人だけならただの不法侵入だが、お前さんがいればなんとか言い訳程度のものは作れる」
「だから俺が──って、警察には?」
「連絡は入れた。だが、この霧だ。出動するには辛いだろうな。あてにはできん。どうだ、来てくれるか?」
「う……いや」
ハンスとしてもすぐにテースとアンナを探さなければならない。
「どうした、何かあるのか?」
「いや……実は、アンナも──」
そこで、ハンスはアンドレアフが手に持つ品物に気付いた。
「アンドレアフさん、それ?」
「ん? これか、レテーナ嬢の家にあったものだ。玄関に落ちていたので、つい気になって拾ったんだが……これがどうかしたのか?」
「そのネックレスは……」
聖母を模したネックレス。アンナの母親の形見だった。
「どうしてレテーナの家に……もしかして、アンナはレテーナと一緒ってことか?」
アンナは死神を見た。
どういう理由かはわからないが、そのアンナを家に連れて行ったレテーナは、偶然家にいたロハンにアンナを会わせてしまい、そうしてアンナが死神を見たと知ったロハンは──
まさか、という思いが強くなる。ここまで重なってしまうともはや偶然の一致とか言い難いのではないか。ならばそこで起こることは――一つだろう。
「……わかりました。俺も協力します。しかし、本当に神官学校かどうか怪しくはないですか」
「どういうことだ?」
「ロハンも同じ考えだっていうなら、逆にロハンが近付かない場所へ逃げ込むでしょう。なら、ショパンズ家の屋敷を探してみた方がいい。いい加減警官が立っているってことはないだろうし」
「それも一理あるな……」
「手分けしますか?」
「危険だろう」
「一刻を争います」
「なら、屋敷にかけてみようじゃないか。神官学校は神教官府の隣というだけあって、それなりの警備体制なのだろう。屋敷は警察がおらんとなるともぬけの空だ。それに広い屋敷だ、二人掛かりで探した方がよかろう」
「なら、俺が先に行きます」
「先にとは──」
「アンドレアフさんは警察にもう一度連絡を。俺の方が若いので」
「……未成年に危険なことはさせたくないなぁ」
「お願いします」
アンドレアフが制止しようとした矢先、ハンスは駈け出した。今日は比較的霧が薄く、満月の灯りが大地に届いていた。だからこそアンドレアフも孤児院まで来られたのだろう。
(とはいえ……)
今まで動いていなかった分、身体はなまっている。それに体力もない。この状態でショパンズ家まで走っていって何が出来るかあやしいところだったが、それでも無茶をしなければならないらしい。
(ロハンは死神を知っていた)
なら、次に死神が顕れるとするならば。
(ロハンのところだ)
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