少年が見た神様5

 枯れ果てた大木は、命を終えると同時にその体躯を砂の山が子供の手によって崩されるかの如くぼろぼろと粉に形り、山となって役目を終えた。

 その役目は意味を変え、少女の中へと埋め込まれていく。心の臓を刻み込むその役目はまるで自身の恨みを生涯忘れぬよう、少女が今後紡ぎ上げていくだろう歴史に刻んでいるようだった。だから少女は決して忘れることなく、その役目を果たすことでしか存在を確立させる術を覚えなかった。そして、その術しか彼女が立つ世界には存在しえなかった。

 それは大木には無かった、大木から受け継がれし罪である。

 楽園への誘い手として、少女は黒い衣を身に纏う。大木の根は細長い柄となり、土と成り果てた大木の枝からは弧月のような刃が顕れた。月光が二つの美しく分離された姿を緩やかに紡いでいき、少女の細い体躯には似合わない巨大な鎌がその手に握られた。

 少女は罪を内なる心臓に刻み込まれ、その業と為すべき役割を外の大鎌に憑依させた。世界にたった一人の少女を夜空の星々は冷めた目で見下し、この星の頂点となるべき存在とされた少女は涙すら流さず星を見上げる。

 世界に唯一の存在を、もしこの世界に少女以外の有象無象がいるならば、なんて口を揃えて呼ぶだろうか。

 それを答えるのは星ではない。亡くなった大木ですらない。

 それを答えるのはまだ見ぬ他人である。自分を求める魂を狩る鎌と、その鎌の行為を罪として心臓に刻む込む役目を課せられた少女のことを、他人が決めつけるのだ。

 故に人々は、彼女を一つの名で呼んだ。

 いつしかその名は、彼女の真名となる。




(ここは教会だ)


 霧の中ですら、この孤児院はよく見えた。ただの孤児院にここまでの神々しさがあるとは思えず、中へ入るのにハンスは二の足を踏む。しかしこうして居るわけにもいかず、意を決して中へと入っていった。

 真っ直ぐに聖堂へと向かった。彼女は間違いなくそこにいるからだ。聖堂の巨大な扉を両手で開く。聖堂の中へ流れる霧が体力を奪っていったか、一瞬くらりと眩暈を起こすが、なんとか踏み止まり倒れるまではいかなかった。それでも耐えきれず壁に寄りかかる。

 聖堂の中は暗かったが、一カ所だけ祝福されているかの如く美しく透き通った幾重もの光が少女を敬愛していた。金色の髪と白い服がステンドグラスと通り抜けた月明かりによって美しく彩られていた。

 その少女は立ち上がらず、ハンスにも振り返らずに手を組み膝を折った状態のままで口を開いた。この世のモノとは思えぬ綺麗な声だった。


「こんにちは。こんな遅くに、わざわざすみません。出来れば忘れていてくれるよう、と願っていました」

「……テース」


 ハンスはその少女を見てすぐに名前を思い出した。この名前は決して忘れてはならない。彼女が自分で名乗った名前なのだから。


(どうして、俺はそう思うんだ)


 彼女に特別な想いがあるからか。

 しかし、何かが必死に訴えている。決してそれだけではないと。自らの中に封じ込まれている『記憶』が叫んでいる。彼女とはそんな単純な関係ではなく、もっと違う――本当の意味における繋がりがあるのだと。

 それが何なのか。失われた過去の記憶という封じられた箱の中に眠っているそれこそが、テースに関わることなのか。


(だとしたらテースと俺はもっと昔に出会っている……)


 七年以上前に。

 ずっと昔に。ずっとずっと、物心がついた頃から……?


「ハンスさん、少しだけお話しをしませんか?」

「ああ……」

「その前にどうぞ、腰を掛けてください」


 ふらつきながらも何とか椅子に座る。幾分か楽になった気がした。


「たわいもない世間話をしたかったんです」

「それは、良いことだな……」

「そうですか。ええ、そうですね。私はハンスさんとお話しがしたかったんです。最後になるだろう、貴方との会話を楽しんでみたかったんです」

「ちょっとまて、最後ってどういう意味だよ。俺はいつだって君と話していたい。嘘じゃない、会話が終われば全てが終わるなんて、そんな戯れ言なんて言ってくれるなよな」

「冗談が得意だったら、と何度も思いました。けど、私が得意になっていくのは自分と人を誤魔化す方法だけなんです」

「それはまた、世の中を上手く渡っていけそうだな」

「人の世の中ならばきっと大成功するかもしれませんね」


 瞬間、言葉を失うが、すぐさま笑って応えた。


「はは、まったくだ」

「だから、今回は得意技を使わないで話したかったんです」

「そうか……」


 ハンスは軽く笑った。するとテースからも小さな笑い声が聞こえてきて、それがとても嬉しかった。


「でもそれじゃ、まるで俺と話してきた今までのことは全て偽りだったってことになるぜ」

「違います」


 笑い声が一転し、鋭くも切実な声へと変わる。


「私は、ハンスさんと話す時だけはいつも自分を出そうとしていました。シロの私が嘘偽りの存在だとしても、かつての私を貴方が思い出してくれるようにと思ったんです」

「かつての、テース……?」

「思い出してくれれば、あの時の私を見て怯えずに手を伸ばしてくれた貴方なら、もしかしたらと」

「もしかしたら、俺は」


 ハンスも自然と両手を握っていた。


「俺は、七年前、あの時の」

「遅かったんです。もう私は七年前に戻れない。この心臓は罪を刻まれ原型を残さない。罪深き私は、もう戻れない」

「まだ、俺にはわからないことがある。けどテース、時間は戻せないけれど、きっと俺は過去を取り戻せる」

「その言葉を、もっと早く聞きたかった」


 少女は立ち上がった。


「でも貴方は、私を知らない」

「テース?」

「本当の私を貴方は知らない」

「それはどういう」


 意味だ、と口を開きかけたところで止まる。


「甘えるようで嫌なのですが、私はきっと、あなたの温もりが欲しかっただけなの。もしかしたら私を覚えていてくれる唯一の貴方に甘えそうになっていただけかもしれない。それでも私は――」


 少女はそう言いながら両手をステンドグラスへ向けて差し上げた。


「ハンスさん、これから起こること、しっかり見ていてください」

「起こること?」


 ステンドグラスから差し込む光の先にあるのは、まだ顔を出して間もない満月だった。降り注ぐその光を、少女は全身で浴びていた。


「テース?」


 少女の名を呟く。


「貴方に、全ての真実をお見せします」


 ──この町には、古くから伝わるお話があります。


「貴方が出会った事件のことも含めて、全てです」


 ──昔々、この土地よりずっと北に住んでいた人々がおりました。その人々はとっても信仰心が強く、神様がいると信じておりました。


「人が望む者。この町に存在する唯一の神」


 ──心身共に疲労した身体を癒しにきた人達は、しかし教会で祈りを捧げれば捧げるほど、絶望感に苛まれるのでした。


「何年も前の時」


 ──もう疲れて疲れてどうしようもなくなった彼らが、最後の希望を胸に教会へ行き、神様にお願い事をするのです。


「あなただけは望まなかったけれど」


 ──お祈りでは、神様は何も叶えてくれないから。だから願うことにしたんです。


「それでも」


 ──神はそんな人々を長い間ずっと見守っておられました。そうして、哀れな人々の為、たった一つだけ願いを叶えることにしたんです。


「世界が生み出した死を司る神の名を、お教えします」


 ──人々が最も望んだこと、それは──


「それは、死神です」


 ハンスの中で記憶が甦っていく。

 コールが死んだあの夜、大鎌を持った少女がいた。

 あの時コールは死神と叫んでいた。望んでいると言っていた。

 そして、その前にロハンも唯一の神を見たと叫んでいた。

 コールが死んだあの夜、自分が見た少女の顔が今になって思い出されてしまう。記憶が甦る。忘れていたドリスの事。出会ってまもなく、やはり記憶の棚から誰かの手によって引っ張り出された部分がするりと戻る。その部分の主であるベルホルト・ブランドはどこに消えていったのだろう。


(まさか──)


 信じられないという思いに押し潰されそうになる。


「テース……テースは」


 七年前、七人の子供、一つの部屋。その中にいた一番下の女の子。その女の子だけが大人の男に話しかけていた。その女の子だけがそこで特別扱いをされていた。事実、その女の子だけが全てを悟り、全てを識り、大人達にいつも問い掛けていた。

 少女はその時何と言ったか。

 その時少女は、こう言ったのだ──世界はいつ救われるの?


(思い出した……)


 不幸なことにハンスは思い出してしまった。


「きっと、ハンスさんが私をそう呼ぶのも、これが最後になると思います」

 ハンスには泣いているように見える悲しい笑顔を浮かべながら、彼女はまるで捧げるように両手を広げた。


 ──奇跡が起こる。


 少女の白い服にグラディーションがかかり、そうして白から夜の闇より深い黒へ変色していった。数秒で変化したと思われた途端、まるで喪服のような黒になったと同時に、その少女から笑みが消え去る。常に微笑んでいた少女から、一切の感情が失われていった。人間から神へ、究極の変化を遂げた瞬間。


 そして彼女は口ずさむ。

 朗々と謳う。


 すると、空間に巨大な鎌が生まれ、少女はそれを右手で握った。まるで重力などないかのように巨大な鎌を持つ少女はとても不可思議な魅力に包まれていた。


「……あ、あ」


 我が目で見てもなお信じられない面持ちのまま、ハンスはただ何も言えずに呻きともとれる音を腹の奥から発するだけだった。(それでも思い出してくる)夢の中の大木。触れるだけで崩れさせた少女と、目の前にいる少女。(塞き止められていた記憶が溢れてくる)まるで同じではないか。全く同じではないか。


「ハンスさん。ごめんなさい。──ごめんなさい」


 テースだった者が謝る。

 死神の黒と、神官学校の制服の白。まるで相容れない対でありながらも、二人は互いに真正面だった。


「貴方ならこの運命を変えてくれるのではないかと、期待していました。この町に住んでいて、神を信じてない貴方なら、と。でも結局無駄で、私はどうしようもなく、絶対的に……望まれた死神だったんです。多くの人から望まれて、望まれたことしかできない神様だったんです。でも、そんな私でも、夢を、見ていたかった」


(全てを、思い出した)


「世界で最も望まれて世界で最も罪深い私は、所詮人形にも等しい存在なのに疲れたんです。何年も、何年も、こんなことをしてると疲れてくるんです。だけど、私にはこれしかないんです」


 不思議なことに、少女は笑った。


「テース」


(七年前に何が行われ、七年前、一人の女の子が一体どうしてしまったのか……俺は、俺はあの時)


「まだ、テースと呼んでくれるんですね」


 二日前とは違う。死神には違い無かったが、目の前に立つ少女は年相応の女の子ではないのか。

 今はどこにも恐怖が無かった。

 だからこそハンスは目の前の存在がテースなのだとはっきり認識できるのだ。コールの時とは違う。今目の前にいるのは、間違いなくテースなのだ。

 しかし、死神だという宣言を否定することは可能か。


(出来ない、けど)


 けど、この真実を素直に認めることも出来ない。


「なんでだよ、やめればいいじゃないか……どうして続けるんだよ。どうして望まれたからって、そんなことしなけりゃならないんだよ」


 わかっていた。死神なのだ、この少女は。止められるわけがない。

 それでもハンスは口に出さずにはいられなかった。


「私はね、ハンスさん、望まれたからこうしていられるんです。望まれなかったら、テースなんていう人間はこの世界にいなかったことになるんです」

「……」

「人を好きになれたら解放されるんじゃないかって思ってしまったんです。だから」


 ──だから、ハンスさんに近付いた。


 ドクン、と心臓が高鳴る。

 月の明かりだけが唯一の光源である聖堂は、どこまでも淡い光の中で儚い神秘に包まれていた。


「──あ」


 その時、窓の外から一羽の黒い雀が飛んで入り込み、死神の肩に留まる。


「行こう、ファイリー。今日もまた、死を求める人がいるから」

「……だ、だめだ……」

「ハンスさん」


 通り過ぎる寸前、テースは立ち止まり、言い切った。


「次に死神を見たときは、今度こそ貴方の命を奪う時です。たった今私が自らに科した罰は、二度と貴方に会わないことなんです。──さようなら」


 ハンスは動けなかった。

 死神がその場からいなくなるまで、ハンスは一歩たりとも、指一本痙攣させることすら、できなかったのだ。

 死神は教会の入り口、さらに闇が濃くなっていく先へ姿を消し、気配すらも消し、そうして夜の町へ飛び立っていった。

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