少年が見た神様4

 信じられない言葉を聞いた。それは自分一人だけが知っている事実であり真実だった筈だ。それなのに、その自分以外の人間が口から音を発したのだ。


「死神だと!」


 だからこそ叫んでしまう。言葉が止まらない。驚愕に見開かれた眼に映ったのはこちらを呆然と見上げている小さな少女だ。


「ぼっちゃまッ?」

「今、死神といったんだな!」


 余りにも強い力で揺さぶるため、アンナの頭が振り回された。


「お前も死神を見たのか!」


 ここに、自分だけだと思っていた祝福者がいたのだ。

 そんなこと有り得るのだろうか、とロハンは思う。いつの時代でも啓示を受ける者は一人しかいないのではなかろうか。──僕は選ばれた者ではないのか。

 それに、アンナはロハンがどうしても気に掛かる名前を口にしていた。


「それに、ハンスだと……ヤツが、どうしてヤツが!」

「あ、あ」


 服越しからでもわかった。少女は小刻みに震えている。歳上の男に脅されることから来る震えではなく、それ以上――ここまでの恐怖を与える存在がそうそういるはずもない。間違いなく、この少女は死神を目撃したのだ。


「そうか、死神を見た、か……」


 世界で唯一の尊き神。


「そうか……なら、お前は生かしておくわけには……いかないな」


 神に選ばれし者は一人でいい。複数である必要はまったくない。自分こそが彼女を知る唯一の存在であるべきなのだ。

 ポケットに入っているそれを取り出し、ナイフを包んでいたその布を取る。元は白かった布は紅く染まっていたのだが、もう茶色く変色していた。しかしいくら変色していようが見紛う筈も無く、レテーナの目に入ったことだろう。

 それは一体……誰の血なのだろう。

 レテーナが悲鳴を上げた。


「ああ、レテーナ、ここで起こることは黙っていてくれ」

「そ、そんな……」

「君は僕の大切な人だ。君も僕のことを大切だと想っているだろう? なら、僕のために黙っていてくれないか。今まで通り、ね」

「怖くないよ」


 ロハンと、ロハンの持つナイフをその双眸の中におさめながら、少女は淡々と呟いた。


「あの時に比べたら、おにいちゃんはぜんぜん怖くない。なんだか、子供っぽい」

「……なるほど、死神の前では僕の殺意など児戯にも等しいってわけだ。なら──なおさら生かしてはおけないな」


 はっとして自分を取り戻したレテーナが慌てて叫ぶ。


「いけません、ぼっちゃま!」

「レテーナ、僕の味方は君だけだと思っていたんだがな」

「そうです! 私は……私は!」

「なら、僕のやることを見過ごしてくれ」


 アンナの首を掴む。少女はロハンのその手首を両手で握ったが、とくに抵抗する素振りはみせなかった。

 ナイフが高々と持ち上げられ、それが振り下ろされた。


「ダメ! ロハン!」


 レテーナがアンナを庇う。その際に彼女の肩をナイフがかすめた。


「あうっ……」


 少女を抱き締めたままレテーナは地面へ強かに身体を打ち据える。


「レテーナ! どうして!」


 一番驚いていたのはロハンだった。レテーナはそんなロハンを強く睨んでから、アンナの手を引いて自分の家から逃げ出した。


「なぜだ、レテーナ」


 呆然と、二人の逃げる様を眺める。

 少しの間そうしていたが、やがて、彼の心の中で黒い炎が頭をもたげてきた。ドス黒く、汚れた感情が。


「そうか、レテーナ、お前も所詮は……あいつらと一緒、か……」


 ナイフを握りなおし、ロハンは二人を追うことにした。




 とうとう外は暗闇に包まれようとしていた。

 その時、ふと目を覚ましたハンスは続けて身体を起こす。すると身体中から音が鳴った。


「つっ」


 傷む身体を、それでも何とか黙らせつつ立ち上がる。


「さっき、誰かが来た」


 そう、誰かが来ていた。二人、来ていたのだ。

 誰だったろうか。顔がぼんやりとして思い出せない。金髪の少女。

 一人はよく知っている顔だ。アンジェラだった。

 なら何故もう一人の顔がよく思い出せないのか。夜の霧よりも濃い靄がその顔を隠してしまっている。見えないこともそうだったが、ハンスは顔をしかめていた。何かがどうしようもなく不快だった。

 静かに沈む記憶の底へ手が届くのならば躊躇わずに自らの手を深淵へと伸ばそう。だが、そんなものは現実に存在せず、あるとすれば頭の奥底に留まっているものであり、その頭の中へ手を伸ばすなんて不可能だ。それが苛立ちの原因なのだが、しかしハンスは無理矢理それ以外にも自分を不快にする何かがあると思い込もうとした。思い出せないことが胸の奥につかえる原因そのものだとしたら、顔のない少女が全ての元凶に繋がってしまうことを畏れたのだ。

 それは決してしてはいけない行為である。


「あわなきゃ……」


 傷むのは頭か、身体か。


「それでも行かなきゃ」


 着替えようとして、目に入ったのは神官学校指定の制服だった。

 上手く動かない身体はまるで借り物のようだったが、それでもなんとか制服を着る。

 頭ははっきりとしないし、足はふらつき、心までもが苛立っている。なんていう状態だ。こんな状態が今まであっただろうか。階段を降りている途中、リカが階下から心配そうに見上げてきていた。瞬間「ああ……誰だっけ?」と問おうとし、かろうじて飲み込んだ。自分の妹に一体何を言おうとした。それは血の繋がった兄弟として決して言ってはならない、禁断の言葉だ。冗談でもなく本気でそんなことを言おうとしていたなどと、自分の事ながらハンスは信じられない思いだった。その罪深さを心は解し、額にびっしりと汗をへばりつかせた。


「これは……」


 不快感の主は自分の中に潜んでいる。にたりと笑って戸惑う少年を見下しているのだ。かつてこんなことがあった。何年も前、もう記憶も定かではない遙か昔だ。小さかったハンスが経験した、幼い頃の思い出。しかしその思い出はとうに頭から失われてしまったはずなのだ。それは今の両親と出会う前の僅かな思い出だ。何故今頃思い出す。どうして無かったはずの記憶が枯れた井戸の底から少しだけ溢れたのだ。

 記憶がなくとも覚えている奇妙な感覚が、弱っているハンスを無遠慮に襲う。


「ああ、そうか」


 その原因を、ハンスは指先に引っかけた。


「それは、自分でなくそうとした記憶だったんだ」


 しかしなくせなかった記憶でもある。


「どうして、なくせなかったんだろう」


 扉を押して台所へ出ると、廊下と台所の温度差にたじろいでしまう。廊下もつくづく寒かったのだが、台所は普段からハンスしか立たないせいか、誰もいない空間が寂しがったかのようにその場所を冷え切らせていた。震えながらその周囲を見回すと三人分の食器が並べられている。綺麗に洗われているようだったが、ハンスには食器を洗った記憶がなかった。そうなると弟と妹が洗ったということだろう。


「あ、それアンジェラおねえちゃんがあらったんだよ」


 リカがハンスの横からひょこりと頭を出して、そう言ってきた。


「アンジェラが……」


「昨日も来てたの。今日もさっきまでいたの」

「そうか、アンジェラがね……」


 苦笑したくなった。これから学校でどんな顔をして会えばいいのかわからなくなったからだ。


「ついさっき出て行ったと言ってたな」

「うん」

「もう一人、誰かいなかった?」

「え、いたよ」

「美人だった! けっこーな美人だったぞ!」


 突然大声で叫んだ弟に、耳を押さえながら振り向いた。鼻を鳴らしながら仁王立ちする弟に訊いてみる。


「誰だ?」

「おぼえてないの?」

「いや……」


 そうだ、覚えている。


「彼女は、どこに?」

「家へかえってったの」

「家……家って……彼女に家はない……それは、孤児院か。シャングリラ孤児院のこと、か……」

「わかんない」

「そうか……ペーター」


 弟を招き寄せてからかがみ込んで、その肩を掴む。


「家の留守は任せたからな。リカを泣かすなよ」

「え、なにいってんだい。おれがいつリカを泣かせたんだよ!」

「はは、お前はお兄ちゃんだもんな。絶対に泣かせないよな」

「ふん、ちょっとテチガイで泣かせちゃったけど……」


「じゃぁ、」ハンスは手に軽く力を入れて、笑ってみせながら「今度からはこうやって笑顔を咲かせるんだ」


 ペーターの肩から手を離し、立ち上がる。


「それじゃ、行ってくるから」

「ハーにぃ」


 今にも泣きそうな顔で、リカが名前を呼んでくる。


「大丈夫。そんなに長くはかからないから、安心して待っているんだぞ」

「……うん」


 年の離れた弟妹はとても素直に頷いてくれた。

 その期待には応えなければいけないと決心しつつ、ハンスは玄関へ目を遣った。

 この家を出てそこへ向かえば、帰ってこられない気がする。その闇と霧の先に何が待っているのか、今のハンスにはわからなかったが、その予感は正しかった。

 ハンスは玄関を開いた。

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