少年が見た神様3

 夕方頃になると、アンナは途端に震えだした。

 小さな少女の身に刻まれた途方もない恐怖に困惑していた。ただ話を聞かされただけなのに、自分を覗き込んでいたあの目は人間のそれではなかった。ただ冷たく、暗く、沈むような目を、アンナは畏れた。その目の持ち主と一緒に暮らしていた恐怖、その目の持ち主が自分に触れた恐怖。身体が凍るようで、凍った先から死んでしまいそうだ。

 そう、死ぬ前にここから逃げなければならない。

 日毎襲い来る恐怖は小さな少女には酷だ。とうとうアンナは追われるように孤児院を飛び出し、道を走っていった。あわよくば誰かと会えるかもしれない。そんな小さな希望を胸に抱いていたが、それはあまりにも小さい希望なのでそうそう叶えられることもないだろうことぐらいわかっていた。自分を引き取るらしい、顔を知らない夫婦の事なんて頼りにならないのはアンナだって理解できる。それでも小さな何かでもすがりつかなければその恐怖に押し殺されてしまう気がしていた。


 それだけは嫌だった。

 絶対に死にたくはなかった。


 ──どこをどう走ったのかわからない。

 気が付くと、来たことのない場所に迷い込んでしまっていた。住宅街が並んでいるということは、とりあえず危険な場所ではないだろう。

 走るのを止めて歩いていると、とある家に目が留まった。

 孤児院で暮らしているアンナは、一軒家──家族というものに特別な思いがある。あの屋根の下で暮らしている家族を想像するだけで時間が潰れていった。もうじき孤児院から連れ出される予定が急遽変更となったのを知ったのは、つい昨日だ。どうしてそうなったのか詳しくは説明してもらえなかったし、セーラ様もまた口を噤んでばかりでどうしようもない。アンナにはわからない大人の事情がそこにあったのだろうか。名前は、確か──


「……あら?」


 家を見上げてぼぅっとしていると、いきなりその家から女性が顔を出し、不思議そうにこちらを見ていた。アンナはびっくりして、身体が固まってしまう。


「どうしたの?」


 玄関からこちらに歩いてきて、優しく声を掛けてきた。


「迷子かしら? おうちはどこ? 送っていってあげようか?」

「……いやっ!」


 優しい女性だというのはわかったし、親切心で声をかけてきてくれたことも嬉しかった。だが、あの孤児院に帰るのだけは嫌だった。


「かえりたくない!」


 そう大声を上げると、彼女はとても困った顔をしてから「じゃあ」と声を出してきた。


「ちょっとだけ、私の家でお茶でもしましょうか」


 さすがにこれは予想外だった。

 アンナはしばし呆然として、女性の言葉を頭の中で反芻する。霧が出てきたのだから本当は孤児院に戻らなければいけないのだが、とても戻ろうという気は起きないし、戻るぐらいなら野宿を選んでしまいそうだった。


「……うん」


 少しだけ照れくさそうに、アンナは頷いた。心の中に染み入る暖かさは、少女の恐怖を多少和らげた。

 ──レテーナは微笑んでから、少女を家の中へ案内した。




 着替えは持ってきた。

 今日は午前中だけだったとはいえ、時間も後半を過ぎてしばしの時が経過して霧が出てきていた。この時間帯になると家から出ようとする街の人はほとんどいなくなる。ケープ市に他の街のような遅くまでやっている酒場が無いのは夜に人が出歩かないからであり、その原因を作っている霧は毎日休むことなく誰に頼まれたわけでもない労働に勤しんだ。

 だからペーターもこんな時間に扉を叩く不審者を警戒し、ゆっくりと戸を開けたのだ。けど、すぐに目を丸くする。

 明日分の着替えを入れたバッグを背負ったアンジェラがそこにいた。急な来訪者を追い返すのが自分の役目だと信じ切っていたペーターだったが、さすがに昨日の今日泊まったお姉さんを追い返す気は無かったらしい。それに背後で「今日も泊まっていくのー!」と、昨晩寝るまでお喋りを堪能したリカが嬉しそうに万歳をしていた。


 学校が終了した後に一度自宅まで戻り、今日も友達の家に泊まって勉強会をするわ、結構捗ったからきっと今度のテストも好成績を収められるわ、と両親を説得してハンスの面倒を見に来たのだが、やはり呵責の念にとらわれてしまった。わかっていたことだが自分に嘘は似合わないし、とてもしたいとは思えない行為だ。本来ならば習い事も幾つかあるし、特にピアノだけは欠かさず毎日練習をしてきたのだ。いざ自主的に休んでしまうととても不安になる。この間に腕が落ちないだろうか。他のライバル達はこの瞬間も練習し、自身の腕を磨いているというのに。


「はぁ……」


 ハンスの弟妹に気付かれないようにため息をついて、家に上がらせてもらう。一度来ている家なので迷わず二階にあるハンスの部屋の前まで行った。

 扉を叩こうとして、軽く握った手が止まる。

 アンジェラは躊躇した。この先にいるのはアンジェラがよく知るハンスではない。だからこそ躊躇ってしまう。

 風一つ無い、子供二人の足音だけがアンジェラの耳に入ってくる。扉の向こうからは何も聞こえない。気配を感じられる武道の達人か何かならば、あるいはオットーならこの壁一枚隔てた向こう側に人がいるかどうかわかったかもしれない。けど、アンジェラはわからない。この先に本当にハンスがいるのか。居たとしても、それは本当にハンスか。アンジェラが知っている、学校でいつも会うあの明るくもどこか頼もしいハンス・ハルトヴィッツか。


「ハンス……」


 ここで立ち尽くしていても結果が変わるわけではない。

 意を決して扉を二回叩く。予想はしていたが、物音一つすらしなかった。


「入るね?」


 ゆっくりと扉を開く。

 空気すら微動だにしない部屋の中、学校へ行く前に見たハンスと、今のハンスが重なった。何一つとして変わらず、もし変化したのがあるとするならば傾いた太陽から差し込む紅い斜陽によって寂しさを増した部屋の雰囲気だろうか。

 ハンスは窓の外を見ていた。

 窓の外には何があるのだろうか。

 しかしそこには見慣れた光景しかないはずだ。隣の家の庭に、有無を言わさず聳える木と、目下に広がる霧の世界。

 それは毎日訪れる景色。変わることのない世界と、変わりようがない、つまりは不変だ。この街は霧の世界にあり、我々は霧の住人である。


(学校が教えてくださる主の言葉に、こんなのあったな)


 この世界に住む人々は、誰もが変わらぬ一つの真実を飼っている。


(飼っている……私とハンスは、何を飼ってるんだろう)


 アンジェラは時折思うことがある。ハンスはどうして必要以上に人と付き合おうとしないのだろうと。ハンスが自分に気のないことは知っている。知りつつもこうして世話を焼くのは、おそらく下心があってのことだろう。


(それは、穢れていることなのに)


 そういった欲は棄てなければならない。だが、棄てきれない。


(私はきっと、本当の神には会えないわ)


 そんな気がした。教科書越しの神には会えるが、この目でその姿を拝むことはないだろう。


(だけど私の真実があるというなら、それはハンスへの──)


 何が出来るわけでもない。ただ、ハンスの傍にいるだけだ。

 それだけでハンスが変われば良いのだろうが、きっとそれはない。


「一生このままだったら、いくらなんでも耐えられない、かな」


 毎日ここへ来るというのはさすがに無理だろうし、いつしか全く来なくなるかもしれない。今はまだずっとハンスの傍に居たいという気持ちこそ強いが、未来は誰にもわからず、そして気持ちとは変化していくものだ。


「──大丈夫ですよ」


 第三者の声にアンジェラは声には出さず悲鳴を上げた。


「あなたは……」


 白い聖女がそこにいた。

 唯一の出入り口である扉を立ち塞ぐようにそこに居て、そしてアンジェラを微笑みながら見つめている少女は、なるほど聖女と見間違えてしまうだろう。だが神教官府にも、ましてや学校にも彼女がいたという記憶はない。彼女ぐらいの年齢ならば学校に居てもおかしくないし、その物腰はアンジェラと同じ上流階級の女子を想像させる。

 社交辞令として行われる社交界で彼女の姿を見かけたことはない。様々な社交界に何度も出席しているので、ケープ市のみならず他の都市や市から来た同年代の女子ならばほとんど見ているといった自負があった。


「テースさん……」

「アンジェラさんはハンスさんをとても大切に想っているのですね」

「え?」


 少女はゆっくりと歩き出した。彼女が纏う白い服は一歩遅れるようにして揺れ動く。


「アンジェラさんなら、もしかしたらハンスさんに声が届くかもしれません」

「私の、声が?」

「彼はただ、声が聞きたいだけかもしれません。それは人間の声なんです。様々な葛藤を抱きながら、それでも前へ進もうとする人間の力強い声が必要なんです。……アンジェラさん、貴女はとても優しい心を持っています」


 部屋が段々と暗くなっていく。聖女の服も徐々に黒くなっていくようだ。

 アンジェラは自分の服を見下ろして、さほど色が変わっていないことに驚いた。錯覚だろうか。立っている場所によって、色の見え方まで変わるというのか。


「もう一度、ハンスさんに語りかけてみませんか?」


 何度もしてきたことを、もう一度やれとテースは言ってきた。窓から漏れる僅かな光は月光であり、それは二人が二人の顔を満足に確認するには少々足りない光量でもあった。


「そうすれば、彼は目覚めます」

「……」


 テースという少女がどうしてここまで確信を持って言えるのか疑問は尽きないが。


「やります」


 現状においてそれしか手はないのだから、それ以上の選択肢があるだろうか。何度もやってきたのだから今更語りかけることに躊躇う必要はない。

 アンジェラはそっとハンスの手を握った。



     ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 パキンという音。

 牢獄が開かれた。どうして開かれたのだろうと疑問符を浮かべていると、牢獄の先、見えない道から声が聞こえた。頭の中をくすぐるような声だった。彼はいてもたってもいられなくなり、その声に向かって歩き出した。

 声に導かれた先に辿り着いた彼は、ようやく世界を思い出した。

 ──こんなに光溢れる世界を、どうして忘れていたのだろう。



     ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 眩しいと思っていた世界は、不思議と今まで見ていた情景だった。

 何時間も、いや、感覚的には何日間も同じ場所を飽きもせずに眺めていたような疲労感に声も出せない。驚きもなく、関心もない。ただ知っているだけの景色と、空気と匂い。そして弱々しい蝋燭の灯りは三年前に部屋まで引かれた灯りの電気代を節約するためか。陰の強い手を見てみれば色白く、それは右手も同様だった。おそらくは顔も蒼白に違いない。


「あ」


 左側からか、これもまた聞き覚えのある呟きだった。

 振り返ってみる。するとそこには見覚えのある少女が二人、こちらを見ていた。一人は目に涙をたたえ、もう一人は薄く微笑んでいた。

 ──微笑んでいるにも関わらず、笑っていないように思えた。


「ハンス……!」


 不意に抱きつかれ、混乱する。どうして彼女がここにいるのかが理解できない。それと彼女も。二人の純白の少女が自分を心配していたというのは察したが、果たしてどうしてそういう状況になったのかまで頭が回らなかった。


「うっ、うっ……」


 胸の中で泣いている少女を引き剥がすわけにもいかず、ハンスは目でもう一人の少女──テースへと視線を向ける。

 それがどういう質問かと的確に読んだ少女は、やはり的確に答えを返してくる。


「あなたはあの夜から何日間も我を失っていたんです」

「……あの夜」


 意識を無くしていたという実感がじわりと心臓の真下からその頭をもたげてきた。


「俺は……」


 ──霧が啼いていた夜だった。

 裏通り、文字通り人っ子一人いない暗闇の中に外れた余所者として身を埋める一人の男と、それを発見した自分。男を放っておくわけにもいかず、自分はその男に話しかけた。すると男は叫び出し、神を召還する言葉を吐き、そして本当に召還した。

 神を、召還した。

 ハンスは心の底から恐怖した。あの夜の恐怖。何が起こったのかわからない、ただ人智などという小さな枠には決して収まらない存在が、確かにあの場にいた。同じ空気を共有し、そしてハンスは飲まれた。

 その程度しか覚えていない。

 あの夜のことは、その程度しか記憶にないのだ。


「それではハンスさん」


 テースはそっとハンスに手を伸ばした。


「もう少し、お休みなさい」


 夢魔の囁きにも似た声色だった。


「そして、何もかも、忘れてください」


 そして、本当に、何もかもを忘れさせる言葉だった。




「誰だ?」


 居間へ案内され、椅子に座り、テーブルに用意されたクッキーを食べていると、突然そんな声がした。レテーナが少々困り顔でアンナの背に手を回す。


「この子が迷子だというので……」

「……レテーナらしいな。まあいいさ。それよりも後でまた出掛ける。警察と例の新聞記者はてきとうにあしらっといてくれ」

「……はい。あの、ぼっちゃま……」

「なんだ?」

「……いえ、なんでもありません。お気を付けていってらっしゃいませ」

「ああ、できるだけな」


 ぶっきらぼうに答えるロハンを心配げな眼差しで見るレテーナに、アンナはぽんと手を叩いた。


「わかったー」

「え?」

「ふたりはどーせーしてるんでしょ!」


 口から食べていたお菓子を吹き出そうになり、レテーナは咳き込んだ。


「けほ……けほ、な……そ、そんな……そうだけど、そんな恐れ多い! わ、わたしはぼっちゃまに仕えているだけの、ただの召し使いなのよ」

「ふーん。そんなふうには見えないよ。うん、このぐらいどーどーとしてれば、ハンスさんももっとシンミツになれるんだけどなー」


 ──部屋を去ろうとしたロハンの足が止まる。


「ハンスさんも、なんだかしゃきっとしているようでそうでもない所があるんだよ。昨日は来なかったけど……なんでだろう。テースおねえちゃんが──あ……」

「……どうしたの?」

「あ……ぅぁ……」


 カタカタと、アンナが震えだした。


「は……」


 明らかに様子がおかしい少女に、レテーナはお茶を差し出した。


「怖いの? とりあえず暖かいものを飲みましょう。ね?」

「死神が……」


 まるで、爆発したように飛び出し──

 ロハンがアンナの両肩を掴んでいた。

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