少年が見た神様2

 不規則な丘の連続は、その不協和音の割にはなだらかに続いており、その手前を緩やかに流れる川を反対側から包む緑は薄く、さらにその緑を森という深い緑が覆い隠さんばかりに周囲を埋め尽くしていた。しかし川の片側にしかない緑は寂しくもあり、無力でもあり、その片側にある様々な色の前に為す術もない。朝が近付き霧が払拭された川は、錯覚なのだろうが、乾いていた。

 彼は夜を川辺で過ごした。

 風を引いたのではなかろうかと思ったが、案外身体は頑丈だったようである。咳一つしない自身の身体に感謝しつつ、彼は立ち上がった。

 目覚めた。無事に目覚めることができた。まだ自分は死んでいない。感謝すべきなのか、あるいは逢うことが叶わなかったことを悲しむべきなのか、胸の奥を荒らし回る複雑な感情に揺れてしばし呆然としてしまう。しかしゆるゆると陽が昇る様をいつまでも見続けるわけにはいかない。


(そうだ、決めたんじゃないか)


 彼は決心していた。まずは神官とは名ばかりの連中が集まる場所へ行かねばならないが、その愚かな神官を目指す者達の姿を見て本物の神を出会った今の自分がどう思うのか、どうしてもそれが気になった。だからこそ神官学校という愚にも付かない学校へ行くのだ。

 ヤツラは神に選ばれていない。

 神に仕えているだと? 口先だけで人を惑わしているような詐欺師が、神に仕えているわけがないだろう。

 足踏みをして大地の感触を楽しむ。風を顔に受けて、頭の冴える冷たさを味わう。


(こういう自然の感触すら忘れたヤツラと僕が同類? そんなこと認められるわけがない。僕は違う、違う、違うんだ。そうだ、違うんだよ!)


 彼の心の中にはどこまでも高ぶる興奮と、愚かな奴等が今まで偽の神を語ってきたことに対する復讐心を楽しむ心しか残されていなかった。

 ロハンが立ち寄ったのはまずは自分達の召し使いだった者のところだった。名前をレテーナといい、よくできた召し使いだったことをはっきりと覚えている。よく自分の世話をしてくれたことは今でも感謝をしているほどだ。

 とりあえず朝方といえどケープ大通りさえ経由しなければ胸くそ悪い神官共に出会うこともない。さらには頭を下げるなんていう屈辱的な行為をする必要もない。小道を通ってレテーナの自宅に行き、扉を叩く。朝方だというのにレテーナはすぐに顔を出して、そして自分を見てみるみると目を開いて驚愕する。


「ぼ、ぼっちゃま。どうしたのですか?」

「少し、ご飯が食べられないかなと思って」

「え、お屋敷の方は……?」

「ああ。ちょっとね。僕だけ一人、こっそりと抜け出してきたんだ。お父様もお母様も僕が何一つできない子供だとまだ思っているからね。こうでもして一人でやっていけると証明しないと、一人前だって認めてくれない」

「ぼっちゃま、それは違いますよ。ぼっちゃまがまず為すべき事は、神官学校を卒業し、神官としての資格を得ることです。そうして初めて全ての人に認められ、大人への第一歩を踏み出すのです」

「レテーナ、それはわかっているさ。だけどね、それはあくまで誰にだってできることなんだよ。──だが、僕は違うんだ。僕はね、普通とは違うんだよ」

「ぼっちゃま?」

「それにレテーナ、君はまだ僕のことをぼっちゃまと呼ぶ。そろそろロハンでも良いんじゃないか? 君はもう、召し使いじゃないんだから」

「……」


 狼狽える彼女の双眸を楽しそうに見つめながら、ロハンは次のことを考えていた。とりあえずここに身を潜め、この家を中心に行動を起こそう。


「レテーナ、君は一人暮らしだったよね。少しの間、僕をこの家に泊めてくれないかい?」

「だ、だめです。それはいけません。ショパンズ様に知られたら、私は」

「大丈夫さ。お父様はなんとでもなる。それじゃあ、お邪魔するよ。なんなら僕が朝食を作ろうか?」

「い、いえ! そこまでさせるわけにはまいりません!……わかりました。少しの間だけなら……」

「ああ、ありがとうレテーナ」


 レテーナが案内するその後ろで、ロハンの顔は嗤っていた。


「君の朝食、楽しみにしているよ」


 ロハンがそう言うと、レテーナの頬がわずかに紅みを帯びた。


「そして、朝食の後に全ての事実を話してあげるから」




 レテーナの家で、一日食べていないだけなのにまるで数日ぶりとも思えるまともな食事を口にしてから、ロハンは学校へ向かった。幸い神官学校の制服は荷物の中に詰め込んであったので、通うぐらいなら問題は無かった。

 学校へ着いて階段を上る途中、彼は不意に倒れ込んだ

 慣れない野宿に死神を見たショックが重なったのだろう。それに昨夜散々殴られたのも効いている。元々体力に自信がある方ではないので、ロハンとしてもここで倒れるのは仕方がないと諦めた。ほんの少しだけ目をつぶり、睡眠を取る。まだ誰もこないはずだ。──少しだけ休めばすぐ歩けるようになる。

 だが、そんな期待を余所にそこへ一人の男子生徒が通りかかった。

 なぜこんな時間に、という思いと、しまった、という思いが錯誤する。


「どうしたんだ? 大丈夫か?」


 男子生徒が近寄って声を掛ける。ロハンはもたつく頭を動かし、男子生徒の態度があまり心配している風ではないことに気分を害した。──それがどうしたというのだ──。ロハンは眠気が酷い身体に鞭打って立ち上がり、この生徒から一刻も早く離れることにした。


「おいおい、何の挨拶も無しか」


 ウザイ。どうして声なんか掛けるんだ。


「なんだよ、イジメにでも遭ったのか?」


 黙れ。お前と話す暇なんかない。


「ちっとは返事してくれてもいいんじゃないか?」


 返事をするだけ無駄だ。この偽善者が。


「喋れないとか?」


 もう僕の耳に貴様の声を入れるな。


「……」


 男子生徒の声が途絶える。

 さらに声を掛けてきたそいつに向かって、ロハンは雑言を吐きながらその場を去った。

 ──去った後も、あの男子生徒の顔が頭の中をちらついた。そして、どこかで見覚えるのある生徒でもあった。


「そうだ、あいつは……」


 体育館裏の壁に身体を預け、ずるずると座り込みながらロハンは呟いた。


「陸上競技の天才、オットー・エアハルトと、天才ピアニスト、アンジェラ・アデナウアー……その二人の親友とかいう話だったな。そういえば、噂になっている……」


 あの二人の友人にしては特に秀でているものがないハンスは、ある意味で注目の的だった。アンジェラとオットーは学校の中でその名を知らぬ者はいないぐらいの有名人でありながら、何の変哲もない生徒がその二人と友人関係となれば、自然と噂にもなる。


「……なんで、そんなヤツが……」


 あの男を見た途端、嫌な予感がした。

 ──僕は神の祝福を受けた。その僕を見るあの目。

 あの男の瞳は、神を信じる下僕のそれとは違う。

 ──ただ一度見ただけだ。勘違いかもしれないだろう。

 だが理解した。あの男は神の名を出しても屈服することなどない。


「──だからどうした!」


 怒鳴り、そしてロハンは意識を失った。




 次に目を覚ました時は、彼の周りを数名の男女が囲んだ状態だった。


「おい、目を覚ましたぞ、こいつ」

「あはは。目を覚ましましたか」


 誰かが嫌みったらしい声を出し、それを数名が笑った。

 どうでもいい。ロハンの正直な感想だった。それよりも何時間寝ていたのかという方が気に掛かる。


「おい、お前、ショパンズだろ?」


 誰かがその名を呼んできた。

 さすがのロハンも顔を上げた。


「やっぱりそうか。こんなところで名家のぼっちゃんが何をしてらっしゃるんでしょうねぇ?」


 こういう連中はどんな場所にもいるものだ。学校の落ちこぼれと、どこかの教師がこぼしていた。その時のロハンは決してそうではないと心の中で反論したものだったが、今の彼がそう思うかどうかはまったくの別であった。落ちこぼれならばまだいいが、こいつらは恐らく自分の家が競争の末に落ちぶれさせた元名家の子供達じゃないかと、ロハンは察した。


「君みたいなのは正直困るんですよね。家だけで。成績も良くはない。運動だって得意ではない。ただ家のおかげで大きな態度をとっていただけだろう」


 泥人形のような、臭い声だ。聞きたくない。そんな声、耳に入れたくない。いつまで喋ってるんだ、そろそろ黙れ。その臭い口を閉じろ。


「……うるさい」


 呻く。


「腐った神官学校に寄生するウジ虫共が、よくほざく」

「なんだと!」


 誰かが胸ぐらを掴んできた。


「じゃあ、お前は知っているか? この町に舞い降りた神を知っているか? 神は何をお与えになさる? 神は何を我々に叶えてくれる? お前は知っているのか?」

「な、なんだこいつは……」

「この町にいる神様の名を教えてやるよ! それは、死神だ!」


 自分以外の人間の顔色に奇怪な変化が見て取れた。それだけ確認できると、ロハンは満足したように笑みを浮かべる。


「神はお前等を救わない! 神は、死を望む人間の前に顕れるのだ!」


 そこまで声を張り上げた途端に、いきなり殴られた。

 その後は為す術もなく殴られ蹴られ、制服がボロ雑巾のようになった頃に──ようやくロハンは思い出した。ポケットに忍ばせておいた銀色の小道具に、指先で触れる。


「いくら名家だからって、それ以上調子に乗らないほうが良いよ。どうせお前の家は、もう」


 最後に一発、蹴りを食らった時に──ロハンの頭の中で何かがプツリと切れた。


「え?」


 最後に男が発した声がロハンの耳にこびりついた。

 男に刺したナイフを引き抜き、続いて刺されたことが理解できずにぽかんと口を開けている生徒へ、もう一度ナイフを刺そうとした。

 だが、ナイフを持つ手を捻られ、関節を極められて、ロハンは取り押さえられてしまった。


「あッ!」


 彼をあっという間に押さえ込んでしまったのは、先ほど出会った生徒――ハンス・ハルトヴィッツだった。




 ──そこでロハンは目を覚ました。

 夢の中でつい数日前の事を思い出すなどどういう了見だと彼は毒づき、身体を起こした。昼間に学校でオットー・エアハルトに見つかってから、すぐにレテーナの家へ転がり込んで、今や自分の部屋と貸している一室のベットで寝てしまったのだ。


(腹が痛いな……)


 そこまで深くは無かったが、それでも刺されたところが痛む。二日前に刺された時以来、彼はろくに食事もしていないし睡眠もしていなかった。服すら取り替えていない。レテーナが心配して何度も食事と替えの服を持ってきたが、わずかに口をつけるだけに過ぎなかったし、服も面倒だったので取り替えることはなかった。


「くっ……」


 レテーナの適切な処置のおかげだろう、深くはなくとも腹部が刺された状態であれだけ歩き回れたことに感謝しなくてはならない。

 見ると、ベットの真横に置いてある椅子の上に食事が用意されていた。パン一枚と、お茶の入ったポットにカップ。小さな瓶には彼女が趣味で作ったジャムが詰め込まれていた。


「……」


 とりあえず食べようと思い立ち、彼はパンに手を伸ばす。ここ数日、不思議と食欲が湧かなかった。

 それでも、そのパンとジャムは美味しかった。

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