少年が見た神様1

     ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 空間があった。

 記憶にある病室は一面が白い部屋なので、灰色の壁に囲まれたここは病室ではない。もちろん自分の部屋でもない。どこだかわからない。──いや、違う。ここには鉄格子があった。手の届かない高さに小さな窓もあった。

 ここは牢獄だ。

 牢獄の中で何かをすることも叶わず、彼は物思いに耽っていた。

 彼は先ず、樹を想像した。樹の物語を考えた。

 四十メートルを超す巨躯。動物が決して敵わないその長大なる存在感と生命力。しかしその樹は、その巨躯に比べれば百五十年程度と随分短命である。太く短い生命ならば背が高い意味もなく、だが、樹は悠々として依然そこにあることを望んだ。樹は己が本来長寿であることを自覚しているからこそ、その永き時を生きるに値する威厳を備えることを願ったのだろう。果たして願いは叶えられたのだが、しかし樹はまたも己が運命を悟っているかのように、ただただ静かに根元で眠る小さき者を見守っていた。

 その木の根に横たわった少女は黒い礼装をしており、悲しげな瞳は過去一枚だけ螺旋を描いて落ちた葉を拾い上げていた。その樹は意地として己の葉を散らせることはなかったが、少女が望んだぶんだけ、その確固たる意志を弱めたのだ。それが一枚。

 自分の胸へ着いた葉を指で掴み、眼前に持ってきてから、やはり胸の上に戻す。樹は語らない。少女も語らない。互いに求めることを知らず、そして意思疎通の術も無く、淡々と静閑だけを守り通した。少女はその葉に何を思い描いたのかを想像することすら大樹にはできやしないだろう。そして少女もまた自分が本当に彼の葉を望んだのかどうかすらわからない。自分の望みがわからなくなっていた。

 樹齢百四十九年。

 間もなくして滅びる樹の前で少女は静かに目を瞑った。しばし寝ている間だけ樹と魂を同化させられないかと呟いたのを、確かに樹は聞いていた。

 数日間、少女は眠る。

 そうして、樹齢百五十年になる。

 今まで青々としてた樹の葉々は一様に紅く変貌し、自らの寿命がここまでだと、初めて少女に意志を伝えた。

 目を覚ました少女は立ち上がった。悲しげに樹を見上げてその幹に自らの手を当てた。下を見やれば青い葉が少女の足下に落ちており、片方の手で拾い上げてみた。するとその葉は途端に紅く変わり、土と化した。

 はっとして樹を見る。

 四十メートルもの巨躯が、徐々に崩壊していく。

 まるで、彼女が触れてしまったからこうなったのだと言わんばかりに樹は巨大な土の塊となった。

 おそらく、その少女は知っていたのだろう。

 自らが触れた時、それはこの樹の寿命が訪れた時だった。

 ──少女は、つまりそういう役目だったのだ。


     ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 ロハンが死神を見たのは、一家心中が行われようとしたまさにその寸前だった。

 ショパンズ家が経営する会社が倒産し、経済的にどうしようもなくなって未来が閉ざされてしまったから、両親は死という逃亡を思いついた。それは自分たちの子供を巻き込んでの自殺だ。幼い妹は意味がわからないまま殺された。次は自分だ。両親はロハンを探していた。すでに全員解雇した頼りになるはずの召し使いが屋敷にいるはずもなく、かといって両親に見つからず屋敷を抜け出す方法は難しい気がした。外まで逃げれば霧と闇に紛れてしまうことも可能だろうが、屋敷の中は煌々と照らす洋燈によって昼間のように明るい。力ずくで組み伏せて逃げ出すといった手段も無いことは無いが、二人の両目を見てしまった時からその考えは毛頭浮かばなかった。

 死を覚悟した人間は、普通に生きようとする者を圧倒する。ロハンはこの時、腕力などではなく精神力で完全に屈してしまっていた。


 召し使い専用として使われていた部屋の、安っぽいクローゼットの中に身を潜める。もう十六歳にもなったのにどうして逃げなければならないんだという思いと、明らかに殺されるとわかっている恐怖が彼を混乱の穴へ蹴り落とそうとしていた。しかしそれもまた正常な心のままならば仕方がないだろう。

 クローゼットという脆い隠し部屋の中で、彼は声を出さずにずっと息を潜めていた。父親はとうとう愛用の猟銃まで持ち出し、母親は必死に息子の名前を叫んでいた。追いつめられた。見つかれば命はない。自分を殺した後に両親は自殺するだろう。そうして神の下へ召されるのだ。神の元へ召されるのは本来歓びなのかもしれないが、今のロハンは到底そんな気分になれなかった。


 ──どうして、どうしてこうなってしまったんだ。


 今にも飛び出して二人に掴みかかりたかった。心の限りに叫んで叫んで、そして改心してほしかった。


「ああ、仕方ない。ロハンは……きっとあとから追いかけてくるに違いないさ」

「そうね、あなた……」


 突然、彼らはそんなことを語り出した。

 ぞっとしてクローゼットの隙間から二人を覗き見ると、二人は共に神へ祈っているところだった。

 唐突に、全ての空気が入れ替わった。

 何がなんだかわからずに、ロハンは全身が震え始めるのを自覚した。


『何かが来た』


 それだけはわかったのだが、それ以上は頭が錯乱してはっきりとしない。ただ、この世に生を受けてから今まで感じたことのない空気が屋敷の中に充満していく。

 絶対的な恐怖。どうしようもない絶望。触れれば魂が消滅しそうなほどの殺意。


 そうして、二人は喜びながら──事切れていた。


 彼の両親の魂を狩り取った者の神々しい姿は、彼の精神をどこまでも魅了した。死を司る神はクローゼットにいるロハンを一瞥し、そうして鎌を振るってきた。

 小さな悲鳴を上げ、ロハンは身体を硬直させた。クローゼットをすり抜けて鎌の尖端が彼の心臓に触れるか触れないかといったところで止まっていたからだ。まるでクローゼットなどそこに存在しないかの様である。鎌の尖端が皮膚と骨を貫いた状態のままで、声が聞こえてきた。


「貴方は」


 彼女は囁く。


「近々、私を望むことになるでしょう。だからここでは何もしません。しかし、貴方が一度でも私を望めば、すぐにその望みを叶えてあげます。──今はまだ、はやい」


 黒き姿の神の言葉は、ロハンの心を揺さぶった。


「あ……」


 だが、身体は震えている。

 震えているということは眼前の神に恐怖しているということだ。それは死神を望む者のすることではない。神を尊ぶべき彼は、彼女を迎えるべく心から歓迎しなければならないのだ。


 ──それ以上は語る口を持たずに、死神は立ち去った。


 ロハンは一人残された後、両親の死体を呆然と眺めながら──悲しみも怒りも沸いてこないことに疑問すら持たず──妹の部屋へ行った。


 妹はベットの上で寝ているようだった。しかし、彼女の傍で紅く染まったナイフと、彼女の首下を見ればわかるように、それはもう人の睡眠とは異なった少女の永眠である。

 薬を飲まされた後に殺害され、とうに冷たくなっている妹の身体を抱きしめた後にそのナイフを拾い、そして彼は屋敷を出る決心をした。


 二度とここには戻ってこない。


 本物の神はもうここには現れない。教会が語る姿を見せない神とは違う、この世界に唯一絶対の神を見てしまった少年の心は――気付けば激しく変貌を遂げていた。それだけの衝撃を彼に与えたのだ。今まで信じていたモノと者を根底からひっくり返され、一瞬とはいえ本当の真実に触れてしまったのだから。

 自分もあの神を求めることにしようと心から誓ったのだった。




 慌てて荷物をまとめ、自分の家だった屋敷を抜け出したロハンは、とにかくどうしようもない焦燥感と高揚感が混じり合うざらざらした感情を自分でも抑えられずに、ただ何かから逃げるように町のうねるような路地を走り抜けていった。途中、柄の悪い連中にぶつかり捕まって、散々に殴られたあと、痛む足を引きずって町はずれの河原まで行った。河原から見上げた空はとっくに暗くなっていた。暗闇に浮かぶ星を見ようとしてもうっすらとした霧が邪魔をして望むだけの星など見えるはずがなかったが、それでもロハンは懸命に星を探した。

 空に浮かぶ星は、どうして空なんかにいるのだろう。

 ずきんと、足が痛んだ。


 ──ああ、なるほど。


 すぐに星の気持ちが理解できた。あの星々は空に浮かんでいるからこそ地上を見下ろし、そうして人々の全てをその目で観察しているのだ。そうだ、第三者の目から見ればこんなところに来ようなどと誰が思うだろうか。お伽噺に出てくる戦争の場面に、どうして実際に行ってみようと思えるだろう。地上は辛いことが多い。──証拠は、この足だ。

 世界はこんなにも無情で、救いがない。神は地上の人々全てに公平な幸せをお与えになっているという。ならばどうしてこの足はこんなにも痛むのだ。


 殺された妹。殺した両親。自分の手に握られたナイフ。

 他に残されたものは何もない。

 彼はどこにも行く場所がない。

 空をもう一度だけ見上げる。大宇宙──神がおわすその空と同列の星々に答えを求めるのは滑稽だ。星は星。人は人。そして神は神。


 死神。


 ぞくりと、背筋が凍り付いた。

 伝説にある神の救い。人々が求めた願いは生でも欲望でも幸せでも無い。あるいは、それら全てを統合した故に辿り着いた、ある意味当然ともいえる結論。

 人々は生の終着点にして全ての終わりを望んだのだ。

 そう、どうして望んだのか。

 死が全ての終わりならば、そここそ苦痛も苦痛を増長させるわずか一時の幸せをも無と化しつつ、そして何も感じなくなる場所に他ならないからだ。

 世界は苦痛に満ちている。人々は自ら苦痛──暴力や殺し──を、自ら幸せ──家庭の温かさ──を生み出しながら後悔していく生き物だ。ロハンが生まれるよりはるか昔、人は後悔しつつ、それでも生きていくことを選んだ結果が今の世の中なのだ。


 しかしそれが過った道だと気付いた頃にはとうに手遅れだったのだ。

 その道を元に戻すためには、人は天へ祈る他に無かったのだ。祈りは望みへ、そしてその望みを神は叶えることにした。自ら過った道を歩む人間を哀れんで、だ。

 神自らが、地上へ舞い降りた。


「そうだ、ぼくは」


 煌めく星の光が自分の足下まで届かないことが悲しかった。霧に閉ざされていたから届かなかった。けど、今は。


「僕は、その神を見てしまったのだ。見たんだ、僕は!」


 ──僕は、神様から選ばれた人種なのだ!

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