望まない神様3
──今日も休みだった。
アンジェラは溜息をつく。昨日も今日もハンスは新刊学校に来なかった。授業中に居眠りこそすれど彼が二日連続も休むなんて信じられなかった彼女は気もそぞろに今日一日の授業を受けた。
その様子をそっと横から伺っていたオットーは、放課後に彼女の机まで来て心配そうに肩を叩いた。
「まぁ、気持ちがわからないわけじゃないけど」
「でも、それでも……」
顔を俯かせるアンジェラにオットーは肩をすくませてから、一つの提案をした。
「俺、ちょっとだけ用事を済ませてから帰る予定なんだけど、その後にあいつの家に行かないか?」
「え?」
「用事つっても、掃除だけどな」
笑いかけるオットーに、少しだけ驚きの表情を浮かべてからアンジェラはこくんと頷いた。暗い顔がみるみると変わっていく。
「まったく……生真面目なんだからな」
苦笑しつつ、オットーは用具を取り出して床を磨き始めた。アンジェラはオットーのところまでいって「ありがと」と礼を述べた後に掃除の邪魔をしないよう教室を出て行く。
オットーは頬を掻いた。
「まったく、ハンスも罪造りなヤツだ」
あんな女を悲しませるなんて、という呟きだけは胸の奥にしまっておく。ただ友人が悲しんでいるのを放っておけないだけだから、と。
(それでいいんだよ、俺は)
──とにかくさっさと掃除を済ませてハンスのところに行こう。気になっているのはなにもアンジェラだけじゃない。オットーだって今日一日、いや、昨日から気になって仕方なかったのだ。
「まぁ、珍しいよな」
この学校に通う生徒のほとんどはこのケープ市におけるどこぞの名家の子供である。その中で一般市民出のハンスはやはりクラスの中でも浮いていた。特にハンスはただの一般市民と違い、小さい頃から最近まで世界中を旅してきたというではないか。
だからこそその考え方と発言力、そして行動力は驚くべきものがあった。ケープ市、あるいはこの国の狭い範囲でしか物事を見てこなかった者達にはない特別な何かを彼は確実に持っていたのだ。
アンジェラが惹かれたのもわかる。彼女の中に構築されてきた世界において、ハンスという少年はおそらく初めて出会ったタイプだろう。学校の中では運動の天才とすら称されているオットーも、ハンスにだけは嫉妬すら覚えてしまうほどだった。
そう、天才である彼ですらハンスの持つ不思議な魅力に注目せざるをえなかったのだ。
「オットー、ゴミを捨ててきてくれないか?」
「ああ、いいよ」
友人から渡されたゴミ袋をつまみ、ゴミ処理場へ足を運んだ。
ゴミを指定の場所に置いてから、ふと何かが視界の端に入り込む。そちらへ目を遣ると、足が見えた。ぎょっとして一歩後ずさってから、別に足だけがあるわけでなく、その先にきちんと人の身体もあるのだと理解する。
(し、死んでない、よな……?)
ゆっくりと近付いて、その足の主の顔を覗き込む。背筋を冷たい何かが走り抜けていった。
神官学校の生徒である証の制服を着ている少年が、しかしその白い服の腹部を紅く染め、そこに倒れていた。
「本当に死んで──」
「……ぐっ」
その少年から声がした。ほっとしながら、オットーは声を掛ける。
「大丈夫か?」
意識を保たせるために揺さぶろうにも、どこを怪我しているかわからない状態なので迂闊に触れることもできない。とりあえず声だけ掛けてみて意識の確認をする。
「……ほうっといてくれ」
意識はある。意外としっかりした返答を聞いて見た目よりも怪我は浅いのだろうか、と赤く染まった腹部を一瞥した。
「気はあるみたいだな。放っておけるわけもないさ。今先生を呼んでくるから少しだけ待っててくれ」
「せ、せんせい……だと。ふざけるな、そんなもの呼ぶんじゃない!」
ふらふらしながら血まみれの少年は立ち上がった。
「お、おい」
足下がおぼつかない生徒に、オットーは手を伸ばそうとした。だがその手に一筋の閃がすり抜ける。
「──ッ」
一瞬、それがわからなかった。
眉をひそめた直後に来た鋭い痛みに、その正体を察する。鈍い光を放ちながら少年はナイフを向けてきた。
「先生なんて呼べば、お前を殺すぞッ」
「ぐっ……」
手を押さえながら、オットーは呻く。
「な、何をするんだ……」
自分の手を見る。手の平を切られてはいるが重傷というわけでもない。少々大げさに血こそ出るが、すぐに止血すればまったく問題ないだろう。むしろすぐに止血ができる場面かどうかが問題である。
「お前……、もしかしてオットー・エアハルトかよ。知ってるぞ、何しろここじゃ有名人だからな」
「そ、それは光栄だな……なんならサインもいるかい?」
軽口を叩きながら、少年から離れる。ふらりとしている少年を組み伏せるのはさほど難しくはないだろう。しかし彼の右手にはナイフが握られていた。
さすがに捨て身の攻撃を掛ける気はなかった。なんとかこの場から逃げ出し、教師の下へ転がり込むのが正解だろう。
しかし、と小さく首を振る。オットーは本気で神官を目指している身である。己の身がかわいくて神官など目指せるかと思い直した。逃げ出すのは容易い行為だ。だが、それで目の前の彼が救われるだろうか。
「君がどういう理由で切りつけてきたのかは知らないが、とりあえずそれを収めてくれないか」
よろけていた身体を持ち直し、すっくと立ち上がる。すると少年の背がオットーよりずいぶんと低いことがわかる。むしろオットーの背が平均よりずっと高いのだが。
「君もその制服からして、この学校の生徒だろう?」
「だからどうした?」
「なら、どうしてこんな事をする? 人を傷つけることに、意味なんてないじゃないか」
「……あ?」
「神が、見ておられるぞ」
「……」
少年が顔を俯かせたのを見ると、オットーは自分の言葉に確信が持てた。神の言葉は絶対だ。自分の教わる神の姿は人を傷つけず人を公平に眺め、そして全ての人々に温情と希望を与えてくださるのだ
「……くっ」
彼の――ロハン・ショパンズの口から音が漏れる。
「くっくっく」
「なにが、おかしい?」
「神は全てを見ておられる」
「その通りだ」──オットーは自信を持って発言した。「神は我々の全てを見てくださっているのだ」
「あっはっはっはっはっは!」
急に笑い出したせいで腹部に無理な力がかかったのだろう。腹を抱えながらも、なおロハンは声を張り上げた。
「その通りだ! いやまったくその通りだ! 神は見ておられるんだ。僕も、お前も、前に邪魔をしてきたハンスっていうヤツもだ!」
──ハンス!
「ハンスだって? まさか、ハンス・ハルトヴィッツか?」
「この学校のハンスっていえば、ぼくはそいつ以外知らないなぁ。あいつさえ邪魔しなけりゃ、僕自身があのクソ野郎を殺せたってのに」
「まさか……」
この間の傷害事件を起こした──障害から殺人になってしまった、あの事件の重要人ではないか。
「ハンスと知り合いなのか、君は?」
「知り合い?」
くっ、と嗤う。
「あいつも真実の神を信じない愚か者さ。──そしてお前もだ。神が何をしてくれるって? 温情? 優しさ? くっだらない。そんなもの神様はくださらないよ」
相手がナイフを持っていることも忘れ、かっとなったオットーはついに怒鳴っていた。
「神を侮辱する気か!」
「くっく、貴様等の云う神なら侮辱もするさ。見たんだよ、僕は。お前等カスとは違うんだよ。神はいる。見たこともない、どこぞの誰かが造り上げた神を崇めているお前等と僕の差がそこにあるんだ。わかるか、僕は神様を目の当たりにしたんだよ」
背筋に冷たい何かが走り抜けた。少年の云うことは何一つとして理解できなかったが──神を目の当たりにすることなど恐れ多くて誰にもできないはずだからだ──彼の精神が異常を来しているぐらい、簡単にわかった。
(とっくに普通じゃない)
そう判断してから、説得を諦め、その場を逃げることにした。ナイフを持っているとはいえあの出血だ。口調からすると見た目ほどの怪我ではないのだろうが、それでも運動で馴らしてきたこの足に彼が追いつけるとは思わなかった。
「くく、先生でも呼ぶか? 良いぜ。神に祝福されし僕を捕まえることなどできないんだからな」
その言葉を聞き流して、オットーは駆け出した。この場にいたらあのナイフに刺されてしまう予感がしたからだ。それに本能からくる危険信号が逃げろと命令していた。
説得できない悔しさに顔をしかめながら、オットーは踵を返して逃げ出した。
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