望まない神様1

 改めて思い直す必要もないが、この家は臭かった。

 アンドレアフは顔を顰める。煙草と酒だけならば彼とてよく摂取しているものだからそこまでの拒否反応こそ無いが、その中に黴臭さと湿気、そして何かが焦げた臭いが混じれば鼻の穴も閉じたくなる。しかも周囲を三階建ての建物に囲まれてしまっているせいか、日当たりも最悪だった。一週間どころか一日いただけで根を上げそうだ。それでも記者として招かれた以上、アンドレアフは仕事をこなすしかない。偶にはこういうのも良かろうと出来るだけプラス思考に切り替える。これで上等なネタが入れば結果オーライだ。


 目の前の男は一体何を食べたらここまで自分の脂肪を増やせるのかと問いたくなるような体格に、元々そんなに生えないだろう顎髭は剃っていないせいかみっともなくバラバラに伸びて、とても真っ当に働いている種類の人間とは思えない。出不精な生活があんな身体を作り上げたのか、あるいはああいう性格だからこうもだらしなくなったのか。アンドレアフは自分の腹を指先で摘む。考えてみれば他人事ではない。

 黄色い歯を通り越して黄土色の前歯を惜しみなく見せつけながら、ウーヴェ・クルマンは口を開いた。


「俺たちはなぁ、見たんだよ。なぁ?」


 口からも異様な臭いがした。酒は飲んだ後も胃で発酵するもんかね、と半ば本気で考えながらもアンドレアフは手帳とペンを胸ポケットから取り出す。


「ええそうよぉ。私達は見たのよぉ!」


 女房とやらも目の前の旦那に『お似合い』な女だった。それがファッションだとでも言いたいのか、分厚いネグリジェにしか見えない特注の服に、図太い腰に垂れた脇腹は立っているせいか一際顕著に表現されているとしか思えず、アンドレアフは極力女を見ないように務める。──こんな二人を交互に見ていたらうっかり口を滑らせちまいそうだ。


「あなた方クルマン夫妻が当日の夜、つまりショパンズの一家が自殺した当夜、あの豪勢な家の傍で口論をしていたんでしたよね。その辺のことを詳しく知りたいんですが」


「そうそう!」男は嬉しそうに手を叩き「とぉぉっておきの話だ。ただし、もったいねぇから質問は三つまでな。あっと、今のはカウントされないから安心してくれ」


「は?」

「俺が声ぇ掛けたのはあんただけじゃないんでね。出来るだけとっておきの情報を俺から引き出す質問したほうがいいぜぇ? ぶひゃひゃひゃひゃ」

(……最低だな)


 人が死んだ事件を食い物にしている自分が言うことではないが、とアンドレアフは頭の中でぼやいた。それでも人の死を笑うことは今まで一度だってしたことはない。


「それじゃ訊くが、あんた方がショパンズ家で言い争っていた、あー、有り体に言えば夫婦ゲンカですな。夫婦ゲンカをしていたのは何時から何時までで?」

「そんなもん覚えているかよぉ!」

「あーら、これで一個消費ねぇ」


 ぶひゃひゃひゃ、と夫婦で笑いあう。


「それで、次は?」

「……夫婦ゲンカをしていた際、確かー、灯りが消えたって言ってましたよねぇ。その灯りは全部消えたらしいんですが、その後に何か変わったことには気付きませんでした?」

「変わったこと、ねぇ?」


 ウーヴェは首を捻る。何かを思い出そうとしているようでもあり、結局は何も考えていないように思えるのは穿った見方なんだろうかとアンドレアフも首を捻りたくなった。


「いやー、なーんもなかったように思えるけどなー」

「そうですか」


 アンドレアフは立ち上がる。


「んじゃ、今日はこの辺で。いやいや、ご協力ありがとうございました」

「あれ、まだ一個残ってるぜ?」

「それは後にとっておきましょう」


 本当は今すぐここを逃げ出したいというのが本音だった。


「そーかいそーかい、またまた頼りにしてくれよ」

「……なんか思い出したらまたお伺いしますよ」

「思い出したっていえばぁ」


 女の方が突然高い声を上げる。


「これ、ちょーだい」


 女は人差し指と親指で○を作った。それの意味するところが何か、わからないわけじゃない。余りにも馬鹿馬鹿しくアンドレアフは呆れるほかなかった。


「あんだけの情報じゃ、ねぇ。こっちも仕事なんで」

「おいおい、そりゃーないぜぇ。少なくともさー、俺たちがいた時間は外に出た奴がいない……あ」


 男の表情がぴたりと止まる。


「あ、そういや、いたな」

「いた?」

「何がいたのさ、あんた?」


 男の顔から笑みが消える。何かを思い出すのに集中し始めたようだ。


「いやさ、窓の電気が消えたじゃないか、なんか不自然な消え方だっただろ? だからよ、俺たちもケンカやめたじゃないか」

「そうよねぇ、なんか不気味っちゃーなかったからねぇ」

「そんときよ、門から誰か出て行かなかったか?」

「え、そう? ちょっとぉやめてよー。幽霊とかいうんじゃないだろーねぇ?」

「子供……男か、ガキが一人、玄関から出てって走っていったんだ」

「子供、だと?」


 アンドレアフの顔が引き締まる。


「その子供は白い服じゃあなかったかね?」

「え、あー、ん~、言われてみれば白かったなぁ。ありゃまるで神官学校の制服みたいだったな」

「……神官学校の制服、ねぇ」


 今の情報をさっと手帳に書き込む。


「ご協力ありがとうございました。何かありましたら是非とも私のところに」


 そうしてテーブルの上に紙幣を二枚置く。


「へっへ、悪いねぇ」

「良い情報をお持ちだったのでね」


 そう言い残しアンドレアフは嫌な臭いのする家を出た。




 その家を振り返ると、見た目はそんなに悪くなかった。

 二階建ての白い家。屋根は赤く、窓の縁は黒い。普通窓の縁に使われる木材にペンキを塗るなんてことはしないのだが、そういった普通とは違う何かはささやかでありながらちょっと目を引く奇抜な発想でもある。

 ろくな職に就いてないということだったが、それでも一軒家が買えるものなのか。それとも以前はきちんと職を持っていたのか。クルマン夫妻も考えてみれば不思議な家庭ではあるが、このケープ市には時折変な経歴を持つ人間がいる。謎を秘めているのは何もクルマン夫妻だけではないのだ。


(……調べれば大体わかるがな)


 しかし無闇に調べることもない。必要があれば勝手に調べることだし、そもそも今回の記事に結びつかなければまったく意味がないのだ。

 その家から目を離し、前を向いたところで、家の前で同じく家を見上げている男がいた。比較的若いが、そこからにじみ出す空気は一般人のそれとは違う。記者として様々な人間にインタビューをしてきたアンドレアフの経験が告げた。あれは警察の人間だ。


「どうも、こんにちは」


 となれば好奇心が刺激されるのも仕方ないと、アンドレアフは早速声を掛けた。クルマン夫妻の家を見上げていたとなれば、ウーヴェが言っていた他に声を掛けたという人間の一人かもしれない。

 もしこの男が刑事ならば、上手くやりさえすれば面白い情報が引き出せないだろうか。守秘義務をきちんと守っていても質問によって微細に変わる表情を読みとれれば儲け物である。見ればまだ若い。熟年の刑事に比べその辺は比較的やりやすいだろう。


「私、こういう者なんですがね」


 名刺を差し出すと、男はちらりと一瞥しただけですぐに視線を外した。


「ちょいとね、お尋ねしたいんですが。ここへは何の用で?」

「……」

(話す気は無しか)


 警察が仕事としてこの家に来ているのなら、記者と対話することもないだろう。軽く追い払われるか無視されるかのどちらかだ。しかし名乗っておかないと後々厄介な事になる場合も多い。ことこの街において身分はきちんと証明しておいたほうがいいのだ。

 男は真剣な顔でその家を見上げている。

 一体何をその目で見、その頭で考えているのか。アンドレアフは沈黙を守る若い刑事に少しだけ興味を持った。別に不思議なことじゃない。だが、直感ではあるが、目の前の刑事はもしかしたらそこらの刑事とは違うのではないか、という予感だ。


「ふぅ」


 男は息を吐く。


「この家はセンス悪いな」


 予想外の発言だった。




 自分の机に無造作に置かれていた新聞を広げる。

 アンドレアフは自分の書いた記事を読み直して、ついため息をついてしまった。

 間違った事を書いたつもりは毛頭無いのだが、どこかこう、違和感を拭いきれずにいる。見落としている何かを見つけられずにやきもちしているのだ。正体なんてわからないが、長年記者として生きてきた者の持つ直感がそう語っていた。


(つってもなぁ)


 ──昨日の朝に発見されたコール氏の死因は不明。一応公式発表では自殺ということになっているが、警察の動きは明らかに自殺のそれではない。

 警察も勘付いているのだ。ただの自殺ではないことに。


(そりゃぁ、俺だって同じさ。けどなぁ)


 会社に用意された自分の机に座りながら、周りの社員に目を配る。誰も彼も忙しそうにバタバタしている。そんな中、のんびりと椅子に座る自分がどうにも場違いだった。


「……こりゃ、特ダネでも探しにいくかな」


 わざと聞こえるように、そう言い残す。

 外に出てみると、陽射しが目に染みてきた。


「こーんなお天道様の下で、どうして殺人なんか起きるかねぇ」


 世の中にはびこる理不尽である。火の付いていない煙草を加えつつ、そう呟いた。


「まずは、だ」


 コールの死因はここ最近起きたある事件と酷似している部分がある。


(そう、ショパンズ家だ)


 ショパンズ一家が自殺した時の死因も、突き詰めればまだ解明されていない。コールの死因もだ。それもやはり警察の動向を見れば一目瞭然であった。そしてもう一つの共通点、これが最も重要なのだが──


(足掻いた形跡はどこにもない)


 仮に自殺ではなく殺人だとすれば、被害者がまったく抵抗することもなく殺されるだろうか。しかしショパンズ家夫婦もコールもまったくその痕が無いのだ。まるで自らが死を望み、それを叶えてもらったかのような。


(……それはないだろう)


 自ら死を望むなんていうことはまったくないと言い切れやしない。だが、それでも彼は否定した。

 アンドレアフは胸ポケットから一枚のメモ用紙を取り出した。そこには住所が書いてある。

 その住所に住む主は、偶然その場に居合わせたあの夫婦とは違う、正真正銘今回の事件の第一発見者であった。




「はぁ、見つけたときは驚きました」


 その男がそう呟くのを、スティーブは簡単にメモへ書き込んでいた。

 第一発見者は目の前の男だ。うだつの上がらないとはよくいったものだが、そのまま言葉が当て嵌まるぱっとしない男である。年齢は三十二、まだ結婚せず独身のままであり、数年ほど前地元に創設された会社へ二年前に入社している。その前の経歴を調べたところ、職を転々としていたようだ。


(独り者だから成せることもある、か)


 幾つも職を渡り歩いてきたことを悪いとはいわない。それでも新しく職が見つかるのは、おそらくそれだけの経験があるのではなかろうか。スティーブは煙草に手を伸ばしてから、止める。ここは喫煙か禁煙かを聞くのも妙な話だと思ったからだ。──それに玄関で吸う物でもないだろう。すぐさま室内へ案内され、紅茶を用意される。


「神官様方へ挨拶するためにケープ大通りまで行ったんですけどね。最初は乞食が寝てるだけかと思ったんですよ」


 すでに死体となっていたコールの第一発見者である男の家の中に案内され、スティーブは普段から守っている無表情のまま、男の話を聞いていた。表情は極力表に出さない方が良い。その方が、相手の感情や脚色を出来るだけ少なく──ノイズのない情報が手に入るからだと、スティーブは経験でそう学んでいた。


「なんていうか……昨日、発見した時に思ったんですけど、その」

「どうしました?」


 口ごもる男に、スティーブはそうやって先を促す。


「こういうのって、死者にたいしてとても失礼な気がするんですけど」


 男はそこで茶に口を付け喉を潤してから、続きを口にした。


「人って、あんな顔で死ねるんですねぇ」

「あんな顔?」


 首を傾げたくなるスティーブに、男は自分でも奇妙なことを口走っているのを自覚しているのだろう、苦虫を噛み潰したような表情で言った。


「こう、恍惚とした顔をしておりました」

(恍惚?)


 引っかかる。何かの事件と似てはいないか。


「ええ。本当に、最上の望みを叶えてもらったような、そんな顔でしたよ。ケープ大通りのすぐ側であんな死に方をしているなんて」


 思い出したしまったのか、男は目元を覆った。


「ケープ大通りは、あんな良い通りなのに、ねぇ……」

「そうですか、ケープ大通りの」

「もうすぐ行くと裏路地だったんで。さすがにそこじゃ、いつ死体が発見されるかなんてわからないでしょう? こんな私が発見できたのは、大通りだったからですよ。……まぁ、嬉しくないけど」

「お気持ちはわかります。誰だって死体なんか見たくはないものです。──それで、他にお気づきの点はありませんか?」

「うーん、ないなぁ。そんなもんでした」

「そうですか」


 これ以上何か話を聞けるかと黙考し、その上でどうやらもう情報は無いだろうという結論に達した。そもそもコール自身、過去を洗ってみても陰の部分がない。通り魔に殺されたにしては身体のどこにも外傷はないし、突発的な死、つまり心臓麻痺か何かではないか、という検察の結果もあった。


(恍惚な表情……気になるな)


 ただの心臓発作という結論の中、それだけが違っている。

 コールはそれまで何も無く実に平凡な人生を歩んできた。美人の妻がおり、どうやら孤児院からまもなく子供を引き取る予定だったらしい。それを楽しみにしていると近所に語っていたという証言すらある。


(死ぬ……いや、自殺する要素がどこにもない、か)


 以上から自殺ではないと言い切りたいが、しかし──


(あの日だけは、違っていた)


 コールの妻であるドリスが通り魔によって脇腹を刺された。幸いすぐに発見され病院へ運ばれ一命は取り留めたが、その日にコールは死んでいる。

 自分の妻が通り魔に刺された日にコールは死んでいるのだ。しかもその日は二人の結婚記念日であり、それ故の衝撃は相当なものだろう。


(ならばショック死?)


 妻が死んだと勘違いしてショック死した、というのもまたおかしい。もしそうならば恍惚とした表情で亡くなるなんて考えられるのか。喜ぶべき記念日を一転してどん底へと叩き込んだ偽情報を信じた男が、果たしてプラスと言える感情を顔に出しながら死ぬだろうか。

 ──ならば……。

 スティーブは黙り込む。ならばこれは第三者による何かしらの意志が働いてはいないか。その正体が何なのかはわからないが、そう、最近だ、つい最近似たようなことが──


「刑事さん」


 男は神妙な顔でスティーブを呼んだので、黙ったまま顔を上げる。

 何事か思案した後に、彼は訊いてきた。


「人ってのは、喜んで死ねるもんですかね?」

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