こわい神様4

 ケープ市の霧が予想以上に濃くなっていた。

 夜の闇は完全に視界を閉ざすために、その前にさっさと帰ろうと近くの食料店に転がり込む。その時になって元々弱々しかった蝋燭の火が消えた。


「なんだ、子供がこんな時間に買い物かね。もう店を閉める時間だぞ、なぁハンス」


 店主がそう言い、ハンスは苦笑する。夜になると歩くのも困難になる霧が発生するこのケープ市ではその前に店じまいを行うのが常識だった。いくらこの霧と共に暮らしてきた人達でも月の灯りですらなかなか通さない霧となれば早々外を歩けるものではない。霧が発生する時、それはケープ市が静かに眠りへと就く時間なのだ。

 簡単に食べられる物を数点買い込んだ。帰り途中で食べられるようにだ。腹が空いて空いて仕方がなく、どちらにしろ帰りまで待っていられない気がしたのだ。


「蝋燭の火も消えてしまったじゃないか。ほら、付けてやるからこっち来な」


 店の中を照らしているランプから火を分けてもらい、感謝を述べてから外に出る。蝋燭を器用に持ち、食べ歩きしながら歩いていくと、右手側に古ぼけた教会が現れた。

 本当に突然現れたわけではない。だが日も沈んできた今の時間、家と家の隅、東の空から音もなく出しゃばってきた暗がりの中でははっきりと見えなかったためにそう思えただけだ。


「あ」


 教会の門に、見覚えのある顔があった。

 小さな身体を丸めて、震えている。放っておくわけにもいかずに傍まで寄って声を掛けた。


「アンナ……だったっけ。どうしたんだ、ここで?」

「う……ぅ……」


 近寄ってみると、その少女が泣いていることがわかった。言葉を失い足を止めてしまう。しかしすぐに思い直してアンナの頭を撫でてやった。どこか妹と重なる部分があったからだろう、その撫で方はハンスからしてもごく自然に行われたと思う。


「どうした、何があったんだ? テースはどうした?」


 まさかあのテースが、こんな小さな子供――アンナが泣いていることに気付かないだろうか。少々考えられない気がしてならなかった。確かにまだ知り合って間も無いが、あのテースという少女はどこか『隙が無い』

 誰かが困っていたらふと現れて優しく手を差し延べてくれるような、そんな雰囲気の持ち主だったからだ。


「…………」

「うわっ!」


 突然、アンナが抱きついてきた。あらんばかりの力でハンスの両腕を握る。そこで初めて気が付いた。

 アンナの震え方は尋常ではない。

 痙攣を起こしているのではないかと思えるような震え、耳に喧しい上と下の歯がぶつかる音。

 何かがあったのだ。こんな小さな女の子をここまで怯えさせる何かが、この教会の中であったのだ。

 薄暗闇に浮かぶ古い教会。今は孤児院だが、その存在感はやはり大きく――空気が変わってしまえば、そこはどこか不気味な気配を漂わせていた。あそこには人がいるはずなのに、酷く酷く静かだ。じわりと滲む汗を拭うこともせず、ハンスはゆっくりと口を開いた。


「何があったのか、話せるか?」

「……」


 しばらく抱きしめてやると、少しは落ち着いてきたみたいだった。少女はこくりと頷く。


「……が……」

「……え? それは、テースのことか?」

「……探して……」


 探す、という単語が何を意味しているのかを短時間だけ熟考する。


「それは……テースに何かがあったってことか?」

「……」


 それきりアンナは黙ってしまう。怯えていたと思えば、顔から表情が消えた。訳が分からず途方に暮れていると、そこへ声が掛けられた


「あら、ハンスさん。それに、アンナ……こんなところにいたんですか」

「セーラ様」


 この孤児院の主、セーラだった。


「どうしたのです?」

「いや、俺にも何がなんだか、さっぱり」


 セーラがアンナへ目を遣ると、はっとして息を飲む音がした。アンナが無表情なのに驚いたのだろうかとハンスが訝しんでいると、アンナはふらふらと孤児院へ戻っていった。


「……」

「これは……」


 セーラの顔には全く余裕がない。前に会ったときとはまるで別人のような表情を貼り付けている。


「セーラ様、テースは?」


 ハンスの問いに、セーラは首を横に振った。


「わかりません。夜中になると、たまにいなくなるみたいなんですが……彼女については、私もよく知らないのです」

「知らない?」

「ええ。──ハンスさん、まことに申し訳ないのですが……」

「……テース、探してきます」

「申し訳ありません。あの娘は、住民登録も何もしていないから、警察の手を煩わせるわけにはいきませんの」

(なんだって?)


 どういうことか問い詰めたかったが、ぐっと堪える。

 今はアンナの頼み事を聞く方が先だ。テースを見つけてから色々と話を聞こう。それに彼自身もテースがどこにいったのか気になっている。

 あの少女が──まだこんな小さい女の子をこれ程までに怯えさせる理由など、想像もできない。テースは一体何をしたというのか、あるいは何かを知っているということなのか。


「くそっ」


 昼間入るなと言ったのに店に入ったあの強引な性格は、ともすれば危険な材料である。夜の町は何が起こるかわからないからこそ、特に注意しなければならないのに。彼女はそれらを無視して自分の信じたことに対して突き進んでしまうのではないか。


「三年前、テースがこの教会へ来たのです。手伝わせてくれって、懇願されて。そうね、あの子は自分のことを喋りません。今になって思えば何かこの町に目的があって来たのかもしれません」


 よくもまぁそこまで素性のしれない人間をと思わなくもなかったが、それがセーラと、そしてここがケープ市唯一の孤児院たる理由なのだろうと、ハンスはため息を吐くしかなかった。


「わかりました。とりあえず孤児院で待っていてください。俺が連れてきますんで」

「お願いします。私も手伝えることがあれば良いのですが、あの子の変わりようも気になるので……」

「こんな夜に女の子一人だけってのは危険過ぎますから」

「それに、ハンスさんじゃないと多分あの子は見つけられません」

「……俺でないと?」

「よろしくお願いします」


 それ以上は話す気などないようだ。

 セーラが頭を下げたのを背中越しに気配で感じつつも、振り返ることなくハンスは駆け出した。

 ──絶対におかしいぞ、これは。

 世界を旅してきた最中なら一日に何度も奇妙な事が起こるなんてざらではあったが、この町はそういう場所ではない。数年間住んでいればそのぐらいはわかる。昨日のロハンから続き昼間のコールの失踪、ショパンズ家の一家心中が発見され、そしてテースまでもが何かを起こした。

(起こす?)

 ケープ大通りに出る。太陽さえ出ていれば壮観とも言える広い通りも、霧と闇に全貌を包まれ視界が悪く、あまつさえ服越しの空気はやたら重かった。蝋燭で先を照らし、それでいて全身で気配を感じながら歩いていく。見える範囲は狭い。音も、気配も、感じられる全ての感覚を利用しなければならない。しかし闇はハンスの五感全てをその暗い淵へ飲み込もうとする。だからこそ夜ともなれば人々は家の中に隠れ、決して外へ出ようとはしない。旅の感覚を思い出して少し懐かしくなる。父親に連れ出され歩かされたあの頃の勘は鈍っていないだろうか。


 ――だが、テースは出た。経験を積んだ自分ですら当時の感覚を思い出さなければならない霧の夜の中へ、とてもそんな経験を積んでいるとは思えない少女がだ。

 一瞬、屋根の上に昇ればいいのではと思う。この霧は普通の霧に比べて重いらしく、二階建ての屋根の上ぐらいの高さになれば信じられないぐらい霧が薄くなる。

 だからこそ満月に近い今の月明かりだけは濃い霧の中においてさえかろうじて足下まで届くのだ。今はそれが助かる。もし今日が仮に三日月だとしたら、とてもじゃないが歩けるものではない。かといって蝋燭の灯が無ければどうしようもないことに違いはないのだが。ケープ市は夜中になると霧に包まれ誰も外を歩こうとしないせいか、大通りにすら街灯というものがない。通常、此程の街に成長したのならばメインとなる通りに灯りぐらいは設置するものだが、これもケープ市の特徴といえるだろう。


 ハンスは足を止めた。

 左を見る。そこから何か、得体の知れない空気が流れてきている。錯覚だろうと首を振るが、心はその先を見たがっていた。そこは裏通り。ケープ市の表通りで生きる人間達にとっては決して近づくべき場所ではないところだ。


(何が、ある?)


 表通りを走ってテースを探すべきだ。


(テースは……ここにいる……)


 何の確信もない。ただ、ハンスは直感でそう思っただけに過ぎなかった。それでも思考は止まらない。


(彼女は表通りを堂々と歩く人間ではない。彼女は闇の中でも昼と同じく歩ける。彼女は)


 七体の像。中心に女神。その両脇に三体ずつの兄弟。一つの儀式に七人の犠牲者。男は「選ばれし七人だ」と大仰に口ずさみ誰かが「成功だ」と喜んでいた。しかしその直後、その場は。


「……わぁぁッ!」


 瞬間叫ぶ。思い出してはならない過去のことが湧き水のように脳裏に甦ってくる。これ以上の悲鳴はなんとか抑えたものの、心の奥から湧き出るこの何かをハンスは止められなかった。


「今のは……なんだ……なんの、記憶、だ……?」


 失われてしまった七年前の記憶だろうか。


「なんで今……なんで今思い出そうとしているんだ……? なぜだ、わからない、なんだ……何が起きてる……俺は……どうして……?」


(闇が……)


 霧の闇と同質の異形をハンスは知っている。


(この町の闇が……)


 決して思い出してはならない闇を、ハンスは知っている。


(だけど、何故だ)


 全てを思い出せるわけではなく、ただその一端、幼い頃に味わった途方もない闇という曖昧模糊な何かだけがどんどんと湧き出ては流れていった。一瞬なのに溢れ出る奇怪。


「なにか、いる……」


 そこの先には、何者かがいる。

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