こわい神様5

「……」


 行くべきか否か、躊躇う。このまま一歩踏み出せば別世界へと迷い込み、二度とここへは戻ってこられないような気がした。それこそ気のせいだと言い聞かせたところで取り越し苦労に過ぎない。もう半分は確信しているのだ──そこに何かがいる、と。

 そうだ、テースを探さなければならない。

 その闇の先はケープ市でも裏の住民が住む場所だ。

 そんな道をあのテースが歩くなんて普段なら到底考えられないことだったが、今のハンスは無理矢理そう思い込もうとした。……そもそも夜中のケープ市を歩くこと自体、非常識なのだ。この上どんな常識はずれの出来事があろうと、おかしくないのではないか?


(思い込む? 違う、これは確信だ。俺は何故か確信しているんだ。利湯は分からない。だけど彼女は俺達の常識なんて全く通じない何かだって、俺は『知っている』んだ……なぜ? どうしてだ? 俺は何でそんなことを知っているんだ?)


 ケープ大通りから裏道に入る。裏路地は非常に危険ではあるが、それでもくまなく探さなければ見つかるはずもない。ハンスは唾を飲み込んだ。そう、躊躇っている場合じゃないんだ!

 今度こそ月明かりは役に立たなくなる。足に何かがぶつかっても、それが何なのか判別ができなかった。だからといって悠長に灯を近づけ確認している暇はない。そう、余裕はどこにも無いのだ。(──どの余裕がない。時間? 心? それとも他の何か?)

 基本的にこの町の道路は行政官府の管理にあり、その整備は逐一行われているために綺麗であった。ただしこういった治外法権にも等しい裏路地ともなれば話は別である。行政官府といえど、本格的に取り締まろうと決起して乗り出さない限り、闇に息づいた裏通りの住人が住むここへ手を出す事はない。そこを通るというのがどれほど危険な行為か、それだけでも窺い知れた。

 そんな路地を走っている間、ハンスは違和感を覚える。――静か過ぎる。霧の発生している時間帯なのだから誰も外にいないということも考えたが、それでも余所者である自分がこうして足を踏み入れているのだ。後ろめたい彼らからすれば異物は警戒すべき存在だ。それが子供だろうが大人だろうが関係は無い。


(誰も……いない?)


 妙だ。

 警察の手も届かないからこそ、そこに息づく者がいる。いくら今が闇で見えないからとはいえ、さすがに足音はする。ハンスといえど足音を完全に殺すことは出来なかった。

 そうだ、ハンスみたいな少年がここにいるのは、ある意味において格好の餌食であるはずだ。今は神官学校の制服だって着ていないのだから、ハンスが神教官府が経営する学校の生徒だというのもわからないはずである。だが、誰もが息を潜め、気配を殺している。──いや。


(いない、ここには誰も……いない!)


 不気味さがさらに増加した。

 その時だった。ハンスは走っていた足を止めた。

 ここに来て初めて人の気配がしたからだ。おそらくは一人だろう。ゆっくりと近づき、蝋燭を向ける。ぼぅと浮かび上がったのはよく知っている顔だった。


「コールさん!」


 叫んでから、壁にもたれてぐったりと腰を下ろしているコールに駆け寄った。


「……あ」


 上の空といった感じでハンスを見上げてくる。いや、その先にある夜空を見上げていたのかもしれない。どちらにしろ普段の状態からは到底かけ離れていた。


「大丈夫ですか? つーか、こんなところにいたのか……どうやって、ここまで」


 表通りからもまた結構距離がある。この状態のコールが無事にここまで来れたのは奇蹟に近い。もしかしたら有り金の全てをはぎ取られた後なのかもしれないが。


「……ハンス君」

「喋れるみたいですね」

「神は、おられるのだよ」

「……は?」

「神は、今この瞬間、我々の側におられるんだよ」

「なにをいって」

「妻が殺され人を殺して、警察に追われて未来も何もなくなったぼくに残された希望はなんだ!」


 コールを起こそうと伸ばしていた手を止めた。驚いた顔のまま、コールの怒声を聞く。


「今日は結婚記念日だった! だが、厄災が来た……いや、来たと思っていた。けど、違ったんだ。違ったんだよ。ぼくは気付いたんだ。さっき、彼女がぼくの前に来てくれたときに、はっきりと気付いたんだ。ああ、ああ、今なら言える。今なら──」

「やめてくださいよッ」


 さすがに苛々してきた。ハンスはぶっきらぼうに言い返す。


「あんたが何を希望としているかなんて知らないが、少なくとも俺には関係ない。現実的に考えることを辞めたようにしか思えない。いちいち付き合ってられるか。とりあえず見つけてしまったものは仕方ないですし、ここから連れ出しますから、さっさとテース探しに俺を戻させてください」

「……可哀想になぁ、わからないなんて」

「え?」

「人が最も望むこと、それはなんだか知っているのか?」


 ハンスはあっさりと答えた。


「喜びだよ。人間の感情は喜怒哀楽に分かれる。その中の喜びを最上の望みとして心の中に持っているんだ」


 それは旅をしてきた者の経験だ。食事を取る。幸せに眠る。仲間と共に宴を催し笑い会う。どれもこれも喜びであり、それが幸せに繋がっていると実感したものだった。

 しかしコールは馬鹿にするように――いや、哀れむように笑みを向けてくる。


「人が最も望むもの。それは、死という解放なんだ」


 ──人が望んだものは『死』という希望です


「……あ?」


 その途端、ハンスは全身が麻痺した。


(な……ッ)


 身体中の金縛りはそれこそ強力で、数秒もの間ハンスを強く縛り上げた。それからふっと途切れ、地面に手を着く。汗がどっと噴き出し息が上がった。まるで長距離を走らされたかのような疲労感が襲ってくる。


「ああ! そこにいらっしゃるんですね!」


 両手を空に向け、何かを迎え入れようとするコールの姿は殉教者そのものであった。空を見る。何もいなかった。

 いや、何かが飛んでいた。


(鳥……? 殉教者だって? 神がいるってのか? バカバカしい……!)


 ──この町には傲慢で怠惰で人のことなど考えないどうしようもない神がいるんだ。だけど神なんてものは人の妄想でしかない。そんなもの、俺は信じない。


「ぼくは貴女を求めます。この世に残る意味を失ってしまったぼくに必要なのは、貴女です。望みを告げようと思います。ぼくは」


 コールの顔はとても晴れていた。覚悟をした顔でも、決意をした顔でもない。本当に心から救われることを望む顔であった。


(望んでいる?)


 理由は自分でもわからない。そのコールの顔を見てしまったハンスは叫ぶ。


「ダメだ、コールさん!」

「ぼくは死にたいのです!」


 そしてコールは告げた。

 目の前を一羽の小鳥が飛び去っていく。

 ──小鳥? 黒い、小鳥?

 ドクン、というのはハンスの心臓の音。

 コールが見ているその先には、闇しかないはずだった。

 そう、ハンスの背後に何者かがいた。


 ──顕れてしまった。


 人々が望んだ存在を、コールは呼んでしまったのだ。

 圧倒的な存在感が、ハンスの服を通り越し、その背中に突き刺さった。ハンスは動けなかった。全身から汗が流れ、手足が震え、歯は鳴り、顔は引きつっていた。

 その存在感を一言で現すならば、恐怖。絶対なる恐怖である。人などが放つ殺気など児戯にも満たない恐怖があった。どの地上の生物ですら及ばない殺気と恐怖は、ハンスの心を砕こうとなお強烈に放たれている。その『少女』は強烈な気を周囲に叩きつけているのだ。


(ち、がう……その殺気は、俺に向けられていない……)


 そうだとしても、ハンスは死を確信していた。理由はわからない。だが、逆らってはならない存在が確かにいるのだ。

 その少女は、ゆっくりと近付いてきた。

 どうして少女だとわかったのか、今のハンスに考える余裕はない。ただ、泣きそうになるのを必死に堪えているだけだ。


「今一度問います」


 静かな、どこまでも静かな声がした。


「貴方は私を求めますか?」


 真後ろにいる。自分など気にもかけていないだろうが、それでも真後ろにいるという恐怖に絶叫しそうだった。しかしそれすらも許すことのない殺気がハンスを無理矢理押しとどめている。

 振り返るな。振り返れば命の保証はない。生きたいだろう? まだ死にたくはないだろう? ならば振り返るな。その存在を見るな。目を瞑れ。瞑想しろ。瞑想しながら何も考えるな。そうすればただの現象として通り過ぎる。


「はい」


 ──コールの返答は、まったくもって躊躇いがない。


「あ……」


 ハンスは、その眼を開いた。

 自分の前に、その少女はいた。


(あ……あ、そう、か……)


 一目で、コールの言いたいことが全てわかった気がする。余りにも唐突に彼女を理解した。

 夜の闇に包まれながらもなお一層際だつ黒い存在。長い金色の髪。光など無いのに鈍く反射する十字架のネックレス。

 しかしその何よりも特徴的なのは、小柄な少女の体格に似合わない巨大な鎌だった。いざその鎌が振るわれれば誰が逃げられるというのだろう。──どこまでも鋭利に、どこまでも静寂を保つ、彼女だけが持つその鎌は死を望む哀れな男を見下ろしていた。


(そうだ、彼女は……)


 ──少女は『死神』と人に呼ばれている。


 それこそ涙を流しそうになった。恐怖と殺気と、そしてもう一つの感情が頭の中で入り混じる。


「ああ……はやく、救いをお与えください……」


 コールは死神に抱きつかんばかりに両手を伸ばす。


「わかりました」


 死神は鎌を振り上げた。


「では、いつかまたお会いしましょう」


 持ち上げられる鎌。ハンスははっとした。叫ぼうとしても喉が動かない。口だけが空しく魚のように開くだけだ。


(やめろ、やめてくれ!)


 だが。

 鎌は、男の胸に突き刺さる。まるで空気のようにするりとその尖端が肉体を貫いた。服を破ることもなく、肉を斬ることもない。たた、魂だけを狩り獲る鎌なのだ。この世にある物質を傷つけることなど、この鎌には意味がない。そしてその意味を持たない。

 そう、それが死神だった。

 人に望まれた神。人の望みを叶える神。漆黒の闇よりも深い黒に彩られた世界で唯一の尊き存在。どうして人が抗えようか。自らが望んだ神に逆らう術などありはしない。むしろ、人はその神を受け入れてしまう。


(ざけんな!)


 ハンスは心の中で自分と世界を叱咤した。そんな馬鹿なことがあってたまるか。人々が死を望んだだと。だから逆らえないだと。では、どうして人は生きている?

 コールは喜びの表情を顔に張り付かせたまま、その魂を狩られた。血の一滴すら流れてはいない。

 ハンスは死神に掴みかかろうとしたが、本能がその行動を留める。もしそんなことをすれば己の命が危険だからだ。相手は人間じゃない。──人ではない。


 ──人間だ!


 理性で必死に叫ぶ。それが恐怖からくるただのやけっぱちでしかないことなどわかっている。それでも叫ぶ。だがわかっている。常軌を逸した相手を理解している。人間ではない。人間はここまで強烈な存在ではない。人間は互いにふれあうことができる。目の前の存在は、触れれば魂が壊される。触れるだけで魂を壊してしまう相手を人は自分たちと同じ人間と呼べるだろうか。否、人間はそれを人と呼ばず。

 コールから鎌を引き抜いた死神は、左手を持ち上げた。その手の甲に黒い小鳥が留まる。

 コールは恍惚とした表情のまま、もう死んでいた。今から蘇生法を試しても無駄だろう。彼は触れてしまったのだ。魂が壊されたのだ。


「今夜のことは忘れなさい」


 こちらに顔を向けることもなく、死神は囁いた。


「それが貴方のためだから」


 死神が振り返ろうとした。ハンスは咄嗟に顔を伏せる。

 見てはならないのだ。その顔を。

 だが、とハンスはその本能を黙らせようとした。こいつはコールを殺した。殺したのだ。


「そうよ、私の姿を見てはならないの。貴方みたいな人は知ってはいけない。今日だけは見遁します。だから、ここで起きたことは全て忘れ、今生を穏やかに過ごしなさい」


 そうしなければ。


(そうしなければ──)


 ──今度は、貴方が狩られる番です。


「──ッ」


 ハンスは顔を上げた。

 視界が足下さえ届くことのない霧の闇から前方の空間へ移る。

 そこには。

 死神が視線を向けていた。


「──あ」


 彼は、死神の顔を見てしまった。



     ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「ドリスさん」


 病室で名前が呼ばれ、ドリスは振り向いた。

 数個の果物を入れた籠を持って、扉の前にテースが立っていた。窓を開けているおかげで清涼な風が病室を流れて彼女の美しい金色の髪をすっと撫でた。彼女の立っている場所は今自分がいる場所より影が強いというのに、なんでそんなにも明るいのだろう。陽射しよりも強い輝きをその胸の奥に秘めているというのだろうか、とドリスは呆然とそんなことを考えた。

 テースが不思議そうに目をしばたたかせるので、ドリスははっと我に返って慌てて取り繕う。


「おはよう、テースちゃん。といっても、もうお昼ね」


 心なしか青白い顔のまま、ドリスは挨拶をした。


「おはようございます。大丈夫ですか?」

「ええ。もう心配ないって、お医者様が。──ところで、今日は早かったんじゃない?」

「なにがでしょう?」

「普段はお昼を回った頃に来るから、今日は随分と早いわねと思って。あら、その果物、私に?」

「早めに果物を買わないと、良いのはすぐに無くなってしまいますから。今日は美味しい果物を持ってこようって決めていたんです」

「ありがとう。本当に、ありがとうね」


 不意に、ドリスから涙が流れた。

 今朝の新聞に書いてあったことを読んだのだ。テースはそれを知っていたから果物を持ってきたのだろう。

 ドリスはテースのその行動に涙を誘われた。


「……あの人は、あの人が……どうして、こんなことに」


 新聞の中で彼女の夫は自殺したと書いてあった。


「私が死んだって、早とちりしたのかしら……。どうして……なんで……なんでこうなっちゃったのよぉ……!」


 嗚咽だけが唯一の音となった白い部屋で、テースは静かにカーテンを閉めた。


「ドリスさん、引き取るといっていた子のことですが、どうするつもりですか?」

「……わからないわ」


 子供の話が出てきて、ドリスは泣くのを止めようと顔を上げた。それでもまだうっすらと涙が溢れてきている。


「私一人で子供を育てられるのか……正直、わからないわ。でも、あの人と約束したことだし……それに、あの子が納得してくれるかどうか。セーラ様と相談しなければならないし」

「セーラ様、でいいんですね?」

「ええ、そうね……」

「そうですか。ゆっくり考えてください。まだもう少し、時間はあるのですから」


 テースはそう言って病室を出る。出たところで足を止めた。


「でも」


 白い少女は顔を伏せて呟く。小さく小さく、呟いた。


「アンナはきっと行かないと思います」


 その透明な声は風の抵抗など受けることなく、


「貴方達は、一度としてアンナのところへ会いに来てくれなかったので」


 その呟きは何者もの抵抗を受けなかったので、かろうじてドリスの耳へ届いていた。




──死神少女・Zwei


.....To be continued.

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