こわい神様2
老人は名をアンドレアフといった。
ケープ市の新聞記者である。彼が勤める会社はそこまで大きくないとはいえ、他にも支部があるようだった。本社を首都に置き、出来るだけ大きい都市には支部があるのだという。他の都市に比べればケープ市など小さい方だったが、神教官府の寄付によって支部が置かれたのだという。どうして神教官府が? というハンスの問いに、アンドレアフは苦笑しただけだった。どうやら色々とあったらしいということで、ハンスはそれ以上追求しないでおく。アンドレアフも元々は首都の記者だったが、ここに支社が出来る際に人事異動もあってこのケープ市へと来たのだという。
アンドレアフの言った通りに十七番地区へ赴き、ショパンズ家の元召し使いの家を訪ねた。嫌な顔をされるのではとハンスは危惧したが、元召し使いは一度家の中に戻り、少ししてから案外あっさりと招き入れた。警官ももういない。事情聴取が一通り終わったのだろう。家の中に入った途端にいい香りがするなと鼻をひくつかせると、召し使いだった女性がくすりと笑った。
「これはショパンズ家の花壇で栽培されていた花を香水にしたものです。奥様がとても気に入っておられたんですよ」
結構強い匂いだった。制服に染みついてしまうのではなかろうか。だとすれば明日、友人二人から何か言われかねないなと心の中で苦笑した。
目の前の女性は見た目もまだ若い。二十歳そこそこだろうか。ショパンズ家に努めてまだ間もないだろうに、その物腰は随分と落ち着いている。ついハンスも緊張してしまうほどの美人を前にして、アンドレアフは堂々としたものだった。
(こんな人を召し使いに……他に何人いたんだ?)
ショパンズ家というのがどれ程の家だったのか、初めて実感した瞬間だった。
「で、何をお訊きしたいのでしょう?」
「ああ、まぁ、発見したときの様子を話して頂くと嬉しいんですが。ねぇ、レテーナさん」
アンドレアフがメモ帳とペンを取り出して背中を丸めた。
「いやはは、どうしても人に話を聞くときは背中を丸めてしまうんだよ」
そして誰も訊ねてないことを喋った。
「私が発見したのは、今朝でした」
「今朝? クビにされたのに、朝から出掛けたんで?」
「ええ。クビにされても、私は奥様と、その……ぼっちゃまとは、とても仲が良い……良かったので」
赤の他人に主人と自分の関係を友人風に言うことに、少々の躊躇いがあるのだろう。二人から目を逸らしてレテーナはそんなことを言う。
「玄関からお呼び致しましても全く何も反応が無く、朝から出掛けているという習慣が無いことぐらい、さすがに知っていましたので……不振に思い、失礼ながら屋敷へ入りました」
「鍵は?」
「鍵、ですか」
「当然です。まさか鍵が掛かってなかったと?」
「……はい、掛かってませんでした」
「掛かってなかった? 随分と不用心だなぁ」
思わずハンスが呟く。レテーナがハンスを睨む。
「ご主人様方は決して不用心というわけではありません。確かに、そういったことは今まで私達がやってきましたが」
「ははは、そうですよねぇ。こら、余計な事は言わんでもいいんだ」
ハンスの頭を掴んでぐいぐい押しながら、無理に謝らせる。
「……俺が悪いのか……」
「まぁ、それはいいとして。それで、中に入っていったら、一家が自殺していたと?」
「……」
「どうしました?」
「全員ではなかったんです」
「は?」
「床に倒れていたのは、ご主人様と奥様、そしてご自分のお部屋にご息女のサーリーン様が倒れておりました。あの時の様子ははっきりと覚えています」
「……なんだって? 確か、ロハンという息子もいたはずだ」
「ええ。けど、おりませんでした」
──ロハンが生きている?
どういうことだろうとハンスは頭を回らせる。何か、とても危険なことなんじゃないかと思った。
「レテーナさん、貴女が召し使いを辞めた日は、一昨日ですか?」
「あ、はい」
今までアンドレアフだけが質問をしていたので、ハンスの問いは不意打ちだったのだろう。まるで条件反射のように返事が返ってきた。
「おぉい、ハンス君?」
アンドレアフの咎める声を無視して、そのまま続ける。
「それで、発見したのは今日なんですね?」
「ええ。昨日は突然の引っ越しだったために、荷物整理に追われてましたので。今朝です」
そこで引っかかる。──突然の引っ越し。
(この家の中、引っ越したばかりといった雰囲気じゃない)
ハンスは思ったが、そのこととは別のことを口にした。
「思い出すのも辛いでしょうが、発見したときのことを詳しく教えてくれませんか? そう、本当に今朝自殺したのか、とか」
アンドレアフの目が見開かれる。
「いえ、今朝ではありません」
「なんで断言できるんですか?」
「私達召し使いの内、一部はある程度の医療技術を学んでいいるんです。ショパンズ家の方に何かがあった場合、即座に適応の処置を行えるようにするためです。私はその一部に所属しておりましたから。ご主人様方が倒られているのを発見し、すぐに駆け寄って、失礼ながらもお身体を調べまして……。死後、一日以上経っているのは間違いがありません。サーリーン様に至っては……」
その時の様子を思い出し、顔を青くさせながらもその時の様子を語るレテーナは、見た目以上に芯の強い女性なのだろう。
「一日以上……」
つまり、昨日の時点でロハンは親が死んでいることを知っていたかもしれないのだ。だからこそあれほど狂った行為へ及んだ可能性もある。では何故一緒に心中しなかったのかという謎が浮かんできた。死ぬ勇気がなかったのか、あるいは。
「その制服、ロハン坊ちゃまと同じ学校ですね」
「ええ。神官学校のです」
「では、お坊ちゃまのことをよく?」
「……少しだけ会ったことがありますよ」
「そうですか……ご無事なら良いのですが」
彼女は知らないのだろう。ロハンが人を刺したことを。刺された人が死んだという事実も知らないはずだ。
「えっと、他にお話は?」
「あ、ああ……」
どちらに面食らったかはわからないが、唖然として口を開けていたアンドレアフは慌ててペンを持ち直した。
「身体を調べたっておっしゃいましたね? じゃあ、自殺だってことも、すぐにわかったんですかね?」
「あ……それなんですが」
口ごもるレテーナに、二人は首を傾げた。
「自殺かどうか、よくわからなかったんです」
「わからない?」
「はい。外傷がどこにも無かったんです。首を吊った痕とか、手首を切った痕とか、もしかしたら薬物じゃないかと思ったんですが、部屋に薬品がどこにもありませんでしたので」
「それは、死因がわからないってことじゃ?」
アンドレアフとレテーナの顔が引きつった。
自分自身でも何かとんでもないことを口走った気がした。特に何が、というわけではない。
『この町において決して思ってはならない、絶対なる恐怖が存在するからだ』
突如として頭の中に生まれた言葉は、ハンスの知らない『事実』であった。この町には人々が望んだ神がいる。絶対唯一である故に尊き存在の神。
「……あ」
汗が流れてきた。
どういうことだと、自分を問い詰める。何を言ったのか自分でもわからない。何がいけなかった。自分の知らない事がどうして頭に浮かんでくる。記憶のない知識は外から入らない限り思い出すことはない。それは当たり前ともいえる事実だ。ハンスは家の天井を見た。その先にある空を想像する。──この町は巨大な何かを見落としているのでは無かろうか。森羅万象全てを恐怖させる存在を忘れてしまっているのではなかろうか。
動揺こそ走り抜けたが、ハンスはそれに恐怖しようとは思わなかった。ただ、汗が噴き出してきた。今回はそれで勘弁してやると遠い何かに言われた気がした。
「と、とにかくだ」
アンドレアフはそそくさと立ち上がった。
「これで失礼します」
「え、ええ、こちらこそ何もお持て成しできずに申し訳ありませんでした」
二人の会話は、どこかぎこちなさがあった。
気が付けば陽も斜になっていた。
ハンスはそこで、鞄の重みを思い出し、はっとして中身を取り出した。
「どうしたんだい?」
アンドレアフが鞄の中を覗き込む。皺が多い顔に、さらに深い皺のような笑みを作る。
「ほほう、弁当か」
「ん~……」
正直な話、テースから受け取ったこの弁当のことをすっかり忘れていた。あれだけのことがあったのだ、忘れても仕方ないと自分を慰めてみても、やはり罪悪感が残る。
「食べていかないとあれかい、怒られるのかい?」
「たぶん、それは無いと思うけど……」
「じゃあ、食べられるようなら食べていけばいいさ。それで食べられないようなシロモンでも美味しかったって言やぁいいんだよ」
「嘘をつくのも、ね」
「ははは、そうか」
公園のベンチに座り、弁当箱を開ける。中身はサンドウィッチだった。十切れもある。
「まぁ、食べるかな」
「手伝おうか?」
「不味かったらよろしく」
「ああ、そりゃ無理そうだ。とても美味そうに見えるしな」
くっくっとアンドレアフが笑う。
三切れほど食べたところで、ハンスは弁当箱をアンドレアフに差し出した。
「なんだ、不味かったのか?」
「いや、すげぇ美味いですよ。まぁ、でも不味いかな」
「……ほう。まぁ、疲れているんだろう」
残りをぺろりと平らげ、アンドレアフは溜息をついた。
「かなり美味いじゃないか。残すなんてもったいない」
──逃げてどうするというのだ。
問いかけは自分自身に。しかしするりと抜けていく。答えるべき言葉が無いぐらいとうに理解していたからだ。
自分が刺した少年はあの後自力で外に出て行った。どこにいったかなど知りはしないが、あの狂気の色こそ覚えている。──自分はあれと同位置にまで堕ちてしまったに違いない。だからこそ苦悩し、逃げ出し、絶望に苛まれてしまっているのだ。これは神が与えたもうた罰に他ならない。偉大なる神は、地上にいる全ての人間を眺めておいでなのだ。そう、こんな矮小な自分にすらその目を届かせておられる――
夕日が間もなく西の果てに沈んでいく。
東の果ては闇に彩られ、揺らめく紅い太陽を追いかけるにつれ徐々に色を変えていく空はなんとも不気味だった。しかしその太陽ももうすぐ沈む。闇が訪れる──この町に。霧と共に訪れる真性の漆黒は町を覆いこみ、そしてその下に音もなく顕れる彼女を迎える舞台を作る。
コールは聞いたことがある。この町に伝わる話を。世界で最も尊き存在の話を。
遙か昔に戦争で苦しんだ人々が叶えて欲しい幾つもの願いから、神がたった一つを選び、実際に叶えたという話だ。ただのお伽噺であるが妙に印象に残っていた。
それをなぜ、今、思い出さなければならない。
裏路地に倒れ込んだところで、空へ向けていた視線を真正面に向けた。裏路地の先は闇しか無かった。光の届かない場所は、えてして隠れる場所としては最適である。
しばらくはここに隠れていよう。乞食のように身体を丸めていれば誰も自分を気にすることもないだろう。
――だがそうでもなかった。その存在はやはり決して見逃してはくれなかった。
「コールさん」
突如聞こえたその声に、悲鳴を上げそうになった。足音もない。気配もない。ただ声だけが聞こえてきた。
コールは伏せていた顔を上げ、その声の主を見る。
「こんにちは。ここにいたんですね」
美しいまでに空気の隙間を通る声。この路地にはまったく相応しくない。金色の長い髪は、この時間には決して流れるはずのない緩やかな風に流れ、双眸はどこか優しさに満ちていた。聖女の象徴である白服は時折り漆黒へ変色したような錯覚を見せた。静かな微笑みをたたえた少女はコールを見下ろし、言葉を現世へ──
「どうして、ここにいるんですか?」
どうしているのか。
「何がしたいんですか?」
何をすればいいのだろうか。
「貴方は、私に何を望みますか?」
──ぼくの、望み?
望みは一つしかないはずだ。
その望みを望みとして納得するには──そう、人にとって極端な終わりを認めるという残酷なことだった。
しかしそれは本当に残酷なことだろうか。人にとって物の価値観が違うように、誰かがそれを残酷だと声高に叫んだところで、自分自身にとって本当に残酷なことだと決められるだろうか。コールは自問する。では、自分にとって最も悲劇となることは一体何なのか。
「もうすぐです。私は私になります。その時、貴方は何を望んでいるのか口にすれば、私は貴方のもとに現れます」
彼女の肩にとまっていた小鳥がコールの前を飛んでいく。そのままあさってのほうへ跳び去っていった。
その鳥を目で追い、そしてふと少女へ視線を戻すと、その少女は姿を消していた。
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