名も無い神様4
雑貨屋は閉まっていた。
呆然と『CLOSED』の文字を見る。店もカーテンがしっかりと閉まっていた。本当に誰もいない様子だ。
「……閉まってるね」
ぼそりとアンジェラが呟いた。とりあえず頷きながら戸を押してみる。
重い音を立て、戸が開く。
二人は目を見合わせた。
「な、なんか怖いね、入ってみるの?」
「……」
何か理由があって閉まっているだけに過ぎない。そうに違いない。
しかし、妙に引っかかる臭いだった。
「なんか、覚えがあるっていうか、妙な臭いだ」
心から忌み嫌う鉄分の臭い。以前、何度かこういった匂いを嗅いだことがある。そしてそういう時に限って大体が目も当てられない惨劇になっていることを俄に思い出していく。
「……まさか!」
ハンスは中へ飛び込むようにして入り込んだ。命が失われていく匂いと同じものが部屋の中を充満している。アンジェラはまだ気付いていないが、ハンスは焦る気持ちをそのままにそこを目の当たりにしてしまった。
そして、完全に言葉を失った。
店内は無惨にも荒らされ、床や壁に朱色の――人間の血液がこびり付いていた。
「きゃ──」
後から入ってきたアンジェラの口を慌てて押さえる。そんな凄惨な世界とは無縁だった彼女でも何かが起きたことを察してしまうには十分な光景だった。
「まてまて、いきなり悲鳴を上げるな。落ち着け、な?」
涙目になりながらもコクコクと頷くアンジェラにため息をついて、ゆっくりと口から手を離す。
「ま、悲鳴を上げたくなる気持ちもわかるけど」
「こ、これって……なに、どうしたの?」
「さぁ……わからないけど、コールさんは一体──」
ゴトリ、という音がした。店の奥、自分の家として使用している廊下の先からである。ハンスの中で警告音が鳴る。まさかとは思うが、コールさんは殺されたんじゃないだろうかという嫌な予感がした。そしてその犯人はまだこの中にいるのだ。だとしたらコールさんの死体は? 犯人は一体誰だ?
──そして、アンジェラがいるこの状況で、どう動いたらいい?
自然とアンジェラを背後に庇うかっこうとなる。しかし、あまり考えているわけにもいかない。犯人がいて、なおかつこちらまで殺そうという凶悪な人間なら、悠長に考え事などさせてくれないだろう。
「入り口のほうにいてくれ。奥を見てくる」
「け、警察に報せたほうが……」
「ああ、そうか……そうだね。じゃあそうしてくれる?」
そう言うと、不意にアンジェラの両眼が不安そうにハンスへ向けられた。
「いやです。私もついていきます」
「おいおい……」
そのまま外に飛び出して警察にまで走ってくれたほうがハンスとしても楽なのだが、アンジェラの瞳に強い意思が秘められているのを見てしまう。
「だって、ハンスに何かあったら……」
もしかしたらこの先で誰かが死んでいるかもしれない、そして殺しているかもしれない。その中にハンスを一人だけ残し、自分だけが逃げるように警察署へ走るなど彼女の中では到底許されないことなのだろう。
さらに、ゴトリ、と音が鳴る。ハンスはアンジェラを左手で後ろに下がらせ、自分は前に出る。
「……は、ハンスくん、か……?」
ぎょっとして目を見張る。
「コールさん……か?」
「け、警察は?」
「警察?」
「警察は、ここに来ているのか?」
酷く怯えた声だった。
「何があったんだ、一体。それにこの血は……なんだ?」
「ああ……」
コールは両手で顔を覆った。その手は薄暗い部屋の中だからこそはっきりとしなかったが、ハンスはすぐに理解し、戦慄する。乾き、変色した血でその手が汚れていた。
「ぼ、ぼくは……ぼくは……人を、人を……!」
「人を、なんだって?」
「人を、刺してしまったんだ……ッ」
「──ッ」
「ぼくは、とうとう人を殺してしまったんだ!」
「ひっ──」
またも悲鳴を上げかけたアンジェラの口に手を当て、ハンスは真っ直ぐに、そして信じられない面持ちでコールを見た。店内の隅にしゃがみこんでコールは僅かに震えていた。
「仕方ないじゃないか、あいつはドリスを殺したんだ。殺したんだよ……ぼくをすら殺そうとしていた。だから、だから、仕方ないじゃないか! 正当防衛だろう、ねぇ、そうだろう?」
錯乱している。自分が何を言っているのか、半分以上は理解していないだろう。それでも自分を弁護しているところにハンスは顔をしかめた。
「なんとか言ってくれよ……ぼくは、何もしてないだろう?」
血だらけの店内。紅く染まった店主の両手。彼は誰を刺したのか。
それよりも気になることがあった。
「コールさん……今のあんたは錯乱してるから、はっきりと喋れないかもしれないけど」
ハンスはコールに視線をあわせるべく膝をついて座った。
「あんた今、ドリスさんが殺されたって言わなかった?」
「……」
引きつったような、あるいは平常心を保つ限界すれすれのところにいる人間の顔をしているコールは、己の両手を天へ捧げるようにゆっくりと上げていった。
「……ドリスは、死んだんだ……」
「何を──」
「殺されたんだよ、だから神の元に召された。召されたんだ」
「……人が死んだら」
(何も無くなるんだ。神に召されるとか、そんなこと)
「ドリスは神の元へ召される運命にあったんだよ!」
コールの怒鳴り声に、ハンスは押し黙ざるをえなかった。後ろでアンジェラがハンスの肩を掴んでくる。意外に強いこの力は、少女のどこに隠されていたのだろう。
「じゃなけりゃ、彼女は救われないじゃないか!」
まったくその通りだ、その意見には諸手を挙げて賛成したい──心からそう思う事など無かった。胸の奥に暗い憐憫しか浮かんではこない。人が死ねば全て無に帰る。残るのは思い出だけだ。神の元に召される? 誰がそれを証明したのだろう。
ハンスはあくまで胸の内だけでそう呟くが、今の彼の心情を察すれば神だけにすがりたくなるのも仕方がない。そして、曖昧な神という存在を少しでも確実なものとする為に誰かに同意を求めるのももっともだといえた。だがそれに同意していいものかどうかまで、ハンスには判断が付かない。否定するのは楽だ。肯定するのも楽だ。その後の結果がどうなろうとも。
結局のところ、無言になるか曖昧に答えるかのどちらかしか残されていない。だからハンスはコールから目を離し、アンジェラに向き直った。
「あのさ、アンジェラ。警察に連絡してくれないか」
「え、ええ……わかったわ」
「警察……だって!」
驚愕の声を発したのはコールである。ハンスの胸ぐらを掴み上げ、さらに大声を張り上げた。
「なんでだ! ぼくは何も悪い事していない! していないぞ! どうして警察なんて呼ぶんだ……ッ」
「いい加減にしてくださいッ」
静かに、かつハンスは怒りを込めた。
「ドリスさんは殺されたんだろう。そして、あんたも人を刺した。もうあんた一人の問題じゃないんだよ」
「ね、ねぇ……ハンス」
今まで見せた事のない一面を見せるハンスに、恐る恐るアンジェラが問い掛けてきた。
「その、刺された人は一体どこにいったの……?」
「……え」
そういえばそうだ。どこにもいない。
コールの言う通りに刺されたというならば、そうそう動けるものではない。瀕死の重傷か、死か。どちらにしろ自ら歩き、店を出て、無事でいるわけがないのだ。
「……コールさん、刺した人ってのは、どこに?」
「知らないよ……そんな、あいつはドリスを殺した奴だぞ。どうしてぼくが、ぼくが……!」
(駄目だな、これは)
完全に錯乱状態になっているコールに、まともな話を聞けるわけがなかった。仕方ないだろう。奥さんが殺され、そして人を殺そうとした(あるいは殺した)のだ。平然といられるほうがどこか気が違っている。
「すみません、警察の者ですが」
突如戸の向こうから聞こえた声に、三人は目を合わせた。
「お話を伺いたく思いまして。おりますか?」
「警察だ」
「け、警察……!」
明らかにコールの声が引きつった。
「や、やめてくれ、ぼくは、ぼくは……!」
「……」
怯えるコールの姿に、ハンスは少しの間考えた。
「アンジェラ、コールさんを奥へ」
「え?」
「警察は俺がなんとかするから」
ハンスは二人を奥へ下がらせてから、戸を開く。二人の警官が少々驚いた顔をした後に、平然を装って神官学校の生徒に問いかけてきた。
「君は、神官学校の生徒だね?」
「ええ。そうです」
「なんでこの店に?」
「文房具を買いに来ました」
「……クローゼットの文字が見えなかったのかな?」
「いえ、ここの主人とは知り合いなんです。昨日渡された試供品の感想を言おうと思い、勝手に中へ入りました」
「ははぁ。試供品ねぇ。それはなんだね」
「インクです。授業には必需品でしょう?」
鞄からそのインクを取り出してみせる。
「ああ、それと、ここにコールさんはいませんでした。もしかしたら出掛けているのかもしれませんね」
「鍵を掛けないでかい? ずいぶんと不用心だな」
「クローゼットって書いてあれば鍵が掛かっていると思って安心したんじゃないですか? ところでどうしてここに?」
「……ふむ」
二人の警官が目配せする。ハンスは心の中で舌打ちした。そう簡単には信じてくれないようだ。
「少し、店の中を見せてくれないかな?」
「いや、あの……コールさんの許可が無いと、それは難しいんじゃないですか」
「そのコールさんが、本当に出掛けているならな」
(完全に疑われている)
汗が出てきた。中を見られればもう終わりだ。コールは捕まってしまうだろう。──どうして庇うのだろう、俺は。
コールを庇う意味など無い。もし庇ってしまったことが警察に知られ、あまつさえ学校にも知られてしまえば事だ。あくまでコールが人を殺したという前提での話ではあるが、今のコールの状態と店の状況は彼が何かしらの事件に関わったという動かざる証拠となるだろう。焦りが生まれてきた。自分はとても馬鹿なことをしているのではないか、という焦りだった。
それよりも、とハンスはさらに思考を巡らす。どうして自分達が通報していないのに、警察がここまで疑ってくるのか。既に誰かが通報した後なのか、それとも全くの別件なのか。普段のコールなら何かしら事件を起こすような人柄ではないことを、ハンスはよく知っていた。
では何故警察がここにいる?
「あら、ハンスさん」
その時、名前を呼ぶ声がした。
「テース」
いつもの笑みを浮かべながら、テースがそこにいた。
「どうしたんですか?」
「ああ、なんだか警察の人が……ね」
「あら」
三人を見回したあと、テースはぺこりとお辞儀をした。
「わざわざのご足労お疲れ様です。どの様な用件でコールさんのご自宅に?」
「あ、ああ」
(でた、この独自のペース)
呆気にとられる警官を横目にしながら、ハンスはこっそりと呟いた。このペースはどこか逆らえないものがある。
「私如きが耳にしましたところで何かお力になれることがあるとは思えませんが、よろしければ聞かせていただけないでしょうか?」
「いや、何でもないんだよ。ははは」
一人の警官がテースの笑みに照れていると、もう一人が「このアホ」と肘で脇腹をごついた。
「コール氏に会いにきたんだ。君はコール氏を知らないかね?」
「コールさんですか」
「だから、いませんよ」
少々ぶっきらぼうにハンスが応える。だが警官はさりげなく無視し、テースに応えさせようとした。
「ハンスさんがいないと仰るなら、そうでしょう」
しかしテースの返答はいとも簡単であった。
「この方はそう嘘をつく人じゃありません。私が保証致します。私が保証したところで、どこまで効果があるかわかりませんが」
それでも笑みを浮かべつつ、テースは続ける。
「きっと、セーラ様も保証してくださいます」
「せ、セーラ様……!」
警官二人の間に動揺が走った。この町においてセーラの名前は特殊である。その名を聞いて感謝する者こそ多いが、場合によっては軽蔑する者もいる。この場合は前者であった。
片方の警察が「おい、あの服装……」と隣の警官に囁くと、もう片方も何かに気付いた様子だった。
「セーラ様縁の方でしたか。それは申し訳ありませんでした」
敬礼をし、謝罪する警官二人に、テースは「気にしないでください」と言った。
「では、我々は失礼致します」
「ショパンズ家のほうもありますからね……」
(ショパンズ?)
その姓──ショパンズといえばロハンの家である。学校で殺傷事件を起こした張本人の名前がなぜここで出てくるのか。
「馬鹿、余計なことは言わなくていい」
後輩の頭をはたきながら警官はテースに頭を下げ、そして二人共この場をあとにした。
テースはハンスへ向き直る。
「それで、コールさんは中で何をしてるんです?」
「やっぱりわかってたんだ」
苦笑しながら、ハンスはどうしようかと迷った。事情を説明するだけならば問題ないが、さすがに店内に入れることはできないだろう。アンジェラはこの際仕方ないとしても、血まみれの部屋など衝撃が大きすぎる。
「なんつーか……まぁ、かいつまんで話すと──」
簡単に説明すると、テースは少しだけ何かを考えた振りをし、そして店の中に入ろうとした。ハンスが慌てて止める。
「待った。中はだいぶ……なんつーか、そう、猟奇的になってるぞ」
「でも、放っておくのも気が引けるので」
「仕方ないだろ。君が行って何かできるっていうの?」
「そんなことはわかりません。でも、放っておけませんから」
「しかし」
「何かをすることは勇気がいることです。ハンスさんがここまで私を止めているということは、きっと大変なことが起こっているのでしょう。私の決意は勇気ないものに見えますか?」
「……」
意地になった少女を止める方法もなく、ハンスは唸りながら戸を開く。先に入り、後からついてくる少女の表情を伺っていると、少女は店内をただの無表情で一望しただけだった。
──ゾクリ
どういうわけか寒気を感じ、ハンスは身を強ばらせる。
(なんだ、今のは……)
まさか、という思いが強かった。自分の後ろにいる小柄な少女が背筋を凍らせたのだろうか。
(いや、まさかな……)
「テース、血とか踏まずに奥まで行こう」
「はい」
店内の奥、カウンターのさらに向こう側の廊下に一歩踏み込むと、ハンスはひゃっくりをしたように息を止めた。
「アンジェラ!」
壁にもたれかかって意識を失っている同級生に駆け寄り、その身体を抱え上げる。
「アンジェラ、大丈夫か?」
「ハンスさん、揺すらないで、ゆっくりと身体を横に」
「……あ、ああ。わかってる」
テースに言われなくてもその程度はわかっている。だが、色々と起こり過ぎて平常心が乱れていた。
(ああもう、俺ってガキだ)
認めざるを得ない。他より大人だったつもりだが、この状況下において彼はまだ子供である。ハンスは知っている。何も出来ないのが子供だ。何かしようとしても為し得ることが無理なのに気付かないのが未熟という証左なのだ。だから自分の立場を危うくすることを知りながらコールを庇ってしまったのだろう。実際、テースが来なければ危険だったのだ。
テースはどうなんだろう。おそらく同じ歳であろうテースは、こういう状況でも冷静でいられるだろうか。――少なくとも自分よりかは冷静に判断を下しているようであり、ハンスはますます自分が情けなく思えて仕方なかった。
「とりあえず、怪我はないようです。それでも気絶しているので一度医者に診せたほうが良いですね」
「うん……だな。すまないテース。落ち着いたつもりでも動揺してたみたいだ」
「いえ、仕方ありません。こんな状況では」
ここまで会話ができるだけでも大したものです、とテースはそう言葉を続けた。
「……やっぱり、アンジェラを気絶させたのはコールさんか」
「……」
コールの姿が無い。アンジェラだけになったところで、隙を見て気絶させ、逃げ出したのだろう。そうじゃなくともアンジェラでは大の男に抗うだけの力はない。
それに逃げ出してから少々時間も経っていることだろう。追いかけるにしても今更追いつけるとは到底思えなかったし、アンジェラを放っておくわけにもいかなかった。
「まったく……なんでこんなことに」
ぼやいていても仕方ない。それはわかりきっている。だがハンスはぼやかずにはいられなかった。結果としてアンジェラを一人にさせてしまい、こうして彼女を危険に晒したのだから。
「アンジェラを医者のところに連れてくか」
「今の時間じゃ結構目立ちますね」
「しかたないな。背負っていくよ。まさかここに医者を呼ぶわけにもいかないし」
「そうですね」
アンジェラを背負っていく自分を想像して顔を弛ませると、テースもやや緊張を解したようだ。二人で目を合わせると、段々と気分が軽くなっていった。
呆れた、とハンスは自分を馬鹿にする。
背後には血まみれになった部屋がある。誰の血かもわからない、ねっとりとした液体だ。通常、こういったものは目にすることはない。
こんな状況でよくもまぁ気楽になれるもんだと。
──きっと、隣にテースがいるからだ。
ハンスはそう思わずにいられなかった。
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