名も無い神様3


 顔を上げて前を見上げると新聞屋がいた。

 そういえばまだ朝刊を読んでいなかったと、テースは新聞屋のコンラッドに金を払い、受け取った朝刊に目を通した。ケープ大通りは様々な商人がおり、もちろん多様な露店も開かれている。新聞屋もその一つであり、個人経営のものから大手会社の新聞など一介の新聞屋が扱うにしては種類も豊富で、その中身もニュースからご近所の噂、主観的な意見からどこまでも第三者視点の意見など、それぞれ個性的な内容はある意味下手な小説を読むよりもずっと面白い。新聞コレクターと呼ばれるほど新聞を集めている人もいるらしいという話も聞くぐらいだった。


 その新聞屋、コンラッドとは前々から知り合いだ。会えば挨拶をして軽い会話もする。これも毎日行っていることだ。元々テースがコンラッドを知っていたのだが、三年前に会ったとき向こうはすっかり忘れていたようだった。名を名乗り、改めて挨拶をしたら思い出した様子ではあったが。

 それ以来、彼は決してテースの事を忘れない。

 コンラッドは通常神官達がケープ大通りを通っていく前に新聞を捌く。彼らが通り過ぎた後だと、職場へ向かう人達で慌ただしくなり、ゆっくりと場所も引けないからだ。それが過ぎた後、もう一度こうしてのんびりと場所を出して新聞を売る。朝は現役で働く大人達へ、昼は現役を引退した人達へ。今は昼に近い時間帯なので、コンラッドも眠そうに欠伸をした。


「それじゃあな、テースちゃん」

「ええ、コンラッドさんもお気をつけて」


 コンラッドの顔に影が残っているようだった。普段より明るくはない。


「──そうだ、そういえば」


「どうしましたか?」


 声を掛けてきたその老人に、テースはゆっくりと振り返った。


「……あ、いや、なんでもない」


 顎をさすって、コンラッドは苦笑いを浮かべた。


「歳は取りたくないもんだ。どうにもボケちまうなぁ」


 はははと笑いながら馬車を動かして、コンラッドは去っていった。

 本人は必死に隠しているようだが、それを見通したテースは静かに黙りながら気付かないふりをした。

 今し方買ったその新聞を開いてみる。

『脅威! 沼地から飛び出した馬の正体は!』


「……確かに怖いかも」


 ぽつりと呟いてみる。忙しくケープ大通りを行く人の誰も、その呟きを聞いていなかった。

 その時、上空から黒い何かが彼女の肩にふわりと舞い降りた。黒い小鳥である。小鳥は何か言いたげな眼差しをテースに向けていた。


「ファイリー、おはよう」


 黒雀は首を縦に振ってから、新聞に目をやる。そこを読めと云っているかのように。


「どうしたの?」


 テースもつられて視線を移す。


『神官学校で殺人?』


 ハンスの通う学校のことが左右に開いた新聞の左側に大きく書かれていた。今まで神聖を貫き通し庶民とは格別の色を醸し出していたはずの神官学校が、とうとう事件を起こしたことに浮き足立っているのかもしれない。

 なんにしろ新聞を持つ少女がその記事に目を惹かれることはあっても、今はまださほど関心を示すこともなかった。




 ──関心を示そうが、関係ないと顔を背けようが。

 その事件は向こうから、そしてこちらから関わることになるのだ。




「ねぇ、昨日の事件、知ってる?」


 一限が始まる直前の休み時間にアンジェラがそう訊いてきた。ハンスは軽く首を振りながら「ああ、もしかして」と言葉を続ける。


「昨日の、傷害事件?」

「傷害……って」


 アンジェラが眼をしばたたかせる。


「ギリギリで助かったんじゃないのか?」

「ナイフで刺されたというのは、本当だけど……」


 どうしてか、アンジェラは言葉を濁らせた。


「傷害事件って、もしかして他にも事件があったの?」

「何の話だ? 昨日の放課後の事件じゃないのか?」


 その場のことを思い出しながらハンスは首を傾げた。会話がかみ合わない。まさか漏れるとは思わないが、事件の現場にいた者としてもっとも身近でいてもっとも知っているという自負が少なからずあった。

 だが、事実はハンスにとってあまりにも突拍子がない。


「──ナイフで刺されたあと、病院で死んだのよ」

「……え?」


 唐突すぎて理解できる範疇を超えていた。死んだということは殺されたのだろうか、あるいは……。


「だから、今日……午前中で授業が終了なんだって。もう、朝のホームルームぐらいちゃんと聞いたほうがいいわよ」

「あ、ああ……」


 まさか、どうしてあの傷で死ぬ?

 確かに刺された。しかし浅手だった。刺されたというよりも脇腹を軽く切られた程度だ。父親に連れられ世界中を旅して得た応急処置の技術はあの場で役に立ったはずだ。そう、出血もそこまで酷くなかった。

 どうして死んだ?


「ショック死ということらしいけど……」


 確かにそれがもっともらしい。間違っていないだろう。

 机の一点を凝視していると、アンジェラが不安げな眼差しを向けてくる。不安げというよりも、心配してくれているようだ。ハンスは我に返り、慌てて返事をした。


「ああ、なるほど、午前中で終了か。今日ははやいな」


 ナイフで刺され死んだというのは事実なのだろうか。本当にそれが原因で死んだのだろうか。腑に落ちない何かに顔をしかめる。人が死ぬときは一瞬であるが、しかし人というのは案外簡単に死ぬわけでもない。他に原因があったのだと第三者に云われた方がよほど納得したに違いないと彼は思った。病気でも帰り途中の事故でもいい。何か他の理由が──


(いや、良くはないか)


 どちらにしろ、ある意味において自分は用済みだというわけだ。ロハンが殺人者になったのかどうかは気になるところだが……。


「でも一時間ぐらいかけて全校生徒で追悼するから、結局帰るのはお昼近くになるかも。故人の冥福を祈るのに手抜きなんてしたくないし」

「まぁ、それは構わないんだけど」


 ぽりぽりと頭を掻く。

 一限は授業というよりも、その生徒のことについての説明だった。死因はナイフによる殺傷。言うなれば『刺しどころ』が悪かったのだという説明がなされ、ハンスはますます眉をひそめた。その生徒の傷は自分が看た。確かに医者程の観察眼は無いが、それでも程度の具合はわかるつもりだった。

 やはり間違えたのだろうか、と徐々に自信を無くしてくる。結局のところハンスは医者ではない。ただの学生だ。自惚れた自信など重要な場面でなんら役に立たないのだ。余計な先入観もまた判断を鈍らせる結果に繋がりかねない。

 教師の説明通り『殺傷された』と思うのが正解なのだろう。


「なんかここ最近、妙に頭を使う気がするなぁ」

「そうか? まぁ、たまには運動もいいぜ。あとでサッカーでもやらないか?」


 オットーの誘いを軽く手を振って断る。なんとなくそんな気になれなかったのだ。あれでもオットーなりに気を遣ってくれたのだろう。

 学校の大聖堂で行われた追悼式が終わり、生徒がそれぞれの思いを胸に帰宅する。部活も無い。全生徒が帰宅するように命令されているからだ。


「ハンス、帰りにどこか寄っていかない?」


 アンジェラから誘ってくることも珍しい。誰もがいなくなろうとしている教室で、ハンスは持っていた鞄を落としそうになった。


「……何か悪いものでも食べたか?」

「そ、そういうわけじゃないけど……やっぱりああいうのは慣れないなって」


 特に知っている生徒ではないだろうに、アンジェラは身内の誰かが亡くなったような陰のある顔でそう呟いた。聖職者を目指しながらも、その何割かはその職に就くことは出来ない神官学校の中、彼女は本気で聖職者を目指している。その心に迷いはなく、聖職者は清らかな存在であると信じているアンジェラの心もまた清いのだろうと、ハンスはそう思わずにいられない。


「だから、気分転換を兼ねてたまには良いかなと思って。ピアノの稽古までまだ時間あるし。オットーくんは?」

「ああ、そうだな……」


 オットーはしばし二人を見比べたあと、にやりと笑みを浮かべて「いや、俺はいい」と断ってきた。


「二人で行けばいいんじゃないか。俺はお邪魔だろ?」

「もう、そんなこと!」


 顔を赤くして、アンジェラは声を荒くした。

 ハンスは「なんだかなぁ」と誰にも聞こえない程度の声で呟き、どうしたものかと思案を巡らせた。別にアンジェラが嫌いなわけでもない。だが、片やそういった気持ちがあるわけでもない。友達として付き合いたいだけで、それ以上の関係はややこしくなるだけであった。都合が良くない、ともいえる。弟妹の面倒をみるのに、恋人は邪魔なだけだ。

 ──一瞬、テースの顔が浮かんだ。

 ハンスは思いきり首を左右に振って、その映像を吹き飛ばす。どうしてそこでテースの顔が出てくるのだろう。あの純白の少女こそ関係ないはずだ。


「ああ、そうだ」


 ふと、思い出したことがあった。


「帰りに雑貨屋に寄っていかなきゃな」

「雑貨屋?」

「ああ、そこの主人と知り合いなんだけど、このインクを試してくれって言われててね。試供品らしいんだ。一応結果報告を伝えておこうかなと思ってさ」

「そうなんだ。じゃあ、私も一緒についていっていい?」

「ん、まぁいいけど」


 オットーがわざとらしく溜め息をつく。


「雑貨屋か、色気がないな」

「いや、カンケーないだろ。ところでオットー、今度新製品にチャレンジしてみないか、例の会社の。次はビーフ味のジュースらしい」

「ああ、あれか。今度はビーフ味というのがなんというか、オカシイよな。あそこの会社のジュースってどれもマニア受けするというか、不味いを超越してるっていうか、あれだけ案が出て商品化するあのアイデアは素晴らしいとさえ思うよ」

「まったくだ。っていうか、俺は別にマニアってわけじゃないぞ。でも驚きだよな。今度はどこの喫茶店で出されるんだろうな。想像しただけで気持ち悪いよ」


 何かを想像したらしいアンジェラの顔が軽く引きつっていた。


「……何の話をしているの?」

「知らない方がいい世界もあるんだぜ、アンジェラ」

「まぁ、とにかく、雑貨屋にいってこい。いいから」


 しっし、と手を振りながらも笑う友人に心の中で毒づきながら、ハンスはアンジェラと雑貨屋に向かった。

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