名も無い神様2

 雑貨店の朝は早い。


(というか、早くしているんだけなんだが)


 コールが競争店より早く店を開けるのは神官学校へ通う生徒を見計らってのことだった。学校へ行く途中、必要な物を買えれば便利だろうという狙いだったのだが、その狙いも見事に外れこうしてがらんどうとした店の中では思わず溜め息が漏れる。


「あんまり客は来ないなぁ……こんな予定じゃなかったのになぁ」


 神官学校への通り道に店を構えたのは正解だった。確かに生徒達はよくこの店に来てはペン等の筆記用具を買って帰る。しかし行く途中に買っていくことはほぼあり得なかった。帰りはともかく、行く途中に店へ寄っていくという発想はないようである。朝はとにかく学校のしきたりに習い、子供達が厳しく構えている様子なのだ。

 ごくたまに来る生徒もいるが、それはあくまで顔を見せる程度のものだった。その希少な生徒にあたるハンスという少年はどうも神官学校の風潮に合わないところがある。彼が買わないのは品物を選んで買うという時間が無いからだろう。どうやら普段から歩いてギリギリの時刻に家を出るらしい。それでも律儀に顔を見せてくれるのを喜ばしいと思うべきか、あるいは店として冷やかしに来るなと怒るべきか悩ましいところだ。


「さてっと、こんなもんかね」


 品物を出し、店を開く。開いてから五分と経たないうちに来客があった。


「おはようございます」

「お、テースちゃんか。早いねぇ」


 テースは一礼をして、店の主人に顔を向けた。


「裁縫用のハサミ、ありますか?」

「あるよ。セーラ様に頼まれたのかな? 裁縫好きだからねぇ、あの人」

「ええ、そうです。私も裁縫を勉強しているのですがなかなか上手にはならなくて」

「ははは。その代わりテースちゃんには料理の才能があるじゃないか」

「お料理は勉強すれば誰でもそれなりに作れます。努力をした分、報われますから。けど私なんてまだまだです」

「いやいや謙遜だよそれは。あっと、これでいいかな?」

「はい、ありがとうございます」


 代金を支払い、裁縫用のハサミをテースが受け取る。ふと、コールが思いついたように右手の人差し指を上に向けた。


「セーラ様……まだ反対運動してるのかい?」

「反対運動、ですか?」


 神教官府の教えに真っ向から対立した女性のことを知らない者はこのケープ市にいない。テースは少々首を傾げた。セーラにとっては反対運動というわけではないのだが、世間ではそうみられがちだったからだ。


「いえ、反対運動は元々しておりません。とはいえ、私も三年以上前のことはちょっと……」

「あ、すまないね。セーラ様は本当の教えを説いたっていうけど、神様ねぇ……。望みを叶えてくれるんなら、ほんと叶えて欲しいよ」

「コールさんはどのような願いが?」

「そうだね。ちょっと気弱な部分があるから、そこを治して欲しいかな。もっぱらかみさんに逆らえないってのが、ねぇ」

「ふふ、そうですね。でも、神様はもう望みを叶えてくださったんだと思います」

「へぇ、そうなのか」


 コールが品物の整理をしながら、そう訊いてみる。


「ええ」テースは一瞬だけ、笑みを消し「神は、人々が最も願ったことを、叶えてしまったんです」


「ははぁ、だからもう叶えてくれないってか」


 にんまりと笑いながらそう言うコールに、テースは囁くように言い返した。


「人が望んだものは『死』という希望です」


 少女は、その瞳に深い深い何かを灯しながら、それでもなお悲しそうに笑っていた。

 すぐさまテースはいつものような笑顔になる。やっと主人が顔を棚から少女へと戻す。


「そんなものが希望だなんてねぇ……怖いなぁ。まぁ、俺の希望とは違ったみたいだけどね」

「そうですね」


 にっこりと笑いながら、テースは言った。


「それが、一番良いんですよ」


 ケースに入れられた裁縫用ハサミを、手提げ袋の中に入れる。


「ではこれで失礼しますね。今日も一日がんばってください」

「あいよ。朝からテースちゃんの顔が見れたから、今日も一日頑張れるさ」

「それは良かったです」

「あ、そうだ。また今度行くと思う」

「はい。セーラ様ですね」

「ああ。まだちょっとめんどくさいのが残っていてね。こういうのもなんだけど。セーラ様に相談したいこともあるし」


「セーラ様、でいいんですね?」


「ああ、いいよ。迷惑掛けるのもなんだし、話すだけ話したらすぐに帰るつもりだから。それじゃあよろしく」

「あ……そうですか、わかりました。それでは」


 微笑んでからテースは店を出て行った。

 テースがいなくなると店の中にはまた静寂が訪れた。


「はい、あなた。お茶よ」


 ことりと置かれたコーヒー。その指の先に視線を向ける。コールの妻であるドリスが自分の分のコーヒーが注がれたカップを下唇に当てていた。ドリスは美しい茶色の髪をした女性である。異国からこの地へ一人で渡ってきて、そしてこの町で知り合ったコールと結婚をした。それが三年前。幸せな生活を二人で送れていくことに、コールは神へ感謝した。


「朝はのんびりとしてるからねぇ」

「そうね。でも、のんびりしてちゃ駄目よ。家計も苦しいんだから」

「言うほど苦しくはないだろう」


 苦笑いを浮かべながら、コールは店の外を見る。人通りが少ない道には、せいぜい神官学校へ通う生徒の姿しかない。町を中央から分断するケープ大通りでもない限り人の行き来は激しくない。どうせならそこで店を建てれば人もそこそこに入るのだろうが、そうしなかったのはあくまで学生の為を思ってのことだった。実際、雑貨屋といっても並んでいる品の多くは文具であり、帰りに買う生徒や主婦、その他色々な人のの数も生活を支える程度には来てくれている。しかし今は人が少ない。


「ここで強盗とか来ても、周りに気付かれなさそうだね」

「怖いこと言わないの。じゃあ私、ちょっと買い物に行ってきます」

「おや、何を買ってくるんだい?」

「今日は私達の結婚記念日だって、忘れてない?」

「……あ」

「店に気を遣うのは良いけど、私達のことも忘れては駄目よ。それに今度からは子供の誕生日っていう記念日まで増えるのよ。それまで忘れてもらっちゃうと困るわ」

「はは……」

「じゃあ、行ってきます」


 軽くキスを交わし、ドリスが店を出て行った。

 それからしばらくすると道行く生徒の姿も無くなり、ぽつんとした店内と自分だけという空間に取り残されたようでやけに寂しくなった。時折通る人はこの店に目もくれずさっさと通り過ぎていくだけだ。


「……遅いな、ドリス。迷っているんだろうなぁ」


 晩飯について考えてみる。今夜は何を作ってくれるんだろうか。彼女の料理は絶品だ。しかも今日が結婚記念日だとすれば、気合いの入り方がいつもより違うだろう。楽しみにしないわけがない。


「ほんとに、幸せ者だなぁ、俺は……」


 ドリスのために何かをしてやれる幸せは自己満足だったが、そのお礼としてドリスも自分のために何かをしてくれる。ケープ市一の幸せな夫婦だ! と、自負すらしていた。

 ついにやけ面になってしまう。そんな表情のまま今朝の新聞を手に取り、ざっと目を通した。政治から経済、町の事件などを読んでいると、とあるところでその視線が止まる。


「神官学校で?」


 新聞の隅に小さくその事件が載っていた。神官学校で殺人未遂が起こる。生徒の一人が暴走しナイフで襲いかかった。死者こそ出ていないが、男子生徒一人が重傷、他数名が──


 その時、店の戸が開いた。

 コールは慌てて表情を引き締め、それから営業スマイルになる。まさかこんな時間に、とは思ったが、別段不思議なことではない。町の人がちょっとした小道具を求めてくることなど往々にしてあることだ。心構えはしっかりしているつもりだが、やはり少々気が緩んでいる。

 ──それも仕方ないよなぁ。


 だが、コールは怪訝そうに眉をひそめた。

 その少年は神官学校の制服を着ていたからだ。

 ハンスと同い年程度に見える。黒髪を短く刈った少年。神官学校の制服は白一色と限られているのだが、彼の表情は──


(……似合わない。なんて、荒んだ目だ)


 コールはぞっとした。隈が出来ている。寝ていないのだろうか。それに普段は清楚を感じさせる制服もところどころほつれ、汚れていた。白だからこそ一層汚れが目立つ。


「あのお方は……どこに行ったッ」


 突然その少年がコールに掴みかかってきた。コールは後ろに倒れかかり、左手を机に乗せてバランスをとる。その弾みで机の上にあった何種類かのペンが床に散らばった。


「な、なにをするんだ!」

「この店から彼女が出てくるのを見た! お前は彼女の何だ! 彼女に触れることを許されたのか!」

「な、何を言ってるんだ。警察を呼ぶぞ!」

「あの女性は絶対の存在だ……お前如きが触れられる存在じゃないんだ!」

「やめろ、やめてくれ!」


 少年──ロハンが、コールの首を絞めにかかる。コールは手足をバタバタとさせ「やめ……苦し……!」と呻きつつ、口から唾液がはき出されていた。唾液だけではなく涙までうっすらと流れていく。液体が顔にかかるのも構わず、ロハンはさらに力をこめてきた。


 ──殺される!


 コールはそう判断した。自分の命が危ない。このままでは見も知らずの少年に殺されてしまう。どうして殺されなければならないんだ。理由がどこにも無い。理解不能だ。理不尽だ。理不尽だ。理不尽だ。理不尽だ。


「がっ……!」


 コールは最後の力とばかりに少年の顔を殴りつけた。ロハンは蹌踉めいてコールから手を離す。その隙を逃さず、コールは全身で体当たりをした。体重はそれほど無いとはいえ、大の大人が体当たりをしたのだ。ロハンはその勢いを殺せず背後の壁に激突した。その時彼のポケットから何かが飛び出し、それがコールの足下にまで転がってきた。


(……なんだ?)


 視線を移す。それは赤く染まったナイフだった。血がべっとりとついた、おぞましい物。まだ滴っている液体の意味を理解し、コールは胸の奥から嫌悪感が沸いてきた。


「まさか……まさか……!」

「こっの……ッ!」


 ロハンは立ち上がる。コールは肩から突撃し、その肩がロハンの胸にぶつかったので、さほどの痛みはない。ただ壁に頭をぶつけロハンは多少混乱しているようだった。


「きみは……人を、殺したのか……?」

「殺してやる! この店から出てきた女のように殺してやる!」


 叫びながら、今度こそ、狂気の色を宿した眼で襲いかかってきた。


「……え」


 今度こそ殺されるに違いない。そんな予感が頭の中を走り抜けた。しかし、それ以上に信じられない言葉をロハンは口走っていた。


「あ……」


 何を殺した?

 この店から出て行った女?

 テース?

 違う。テースはもっと前に出て行った。ならば、ならば。


(ドリス……ドリス、ドリス!)


 絶望感が襲ってきた。殺した、殺したのか? 殺されたのか?

 どうして、どうしてそうなったのか。

 コールの頭の中でとにかく単語が湧いて出ては消えていった。少年の言葉を瞬時に理解し、その意味が脳の奥底へ浸透していく。

 この少年はなんだ。どうして俺の幸せを壊す? ドリスが死んだ。ドリスが殺された──壊された。何故壊す。破壊する。ドリスは楽しみにしていた。今夜の事を。将来の子供の事を。幸せな未来を。彼女と掴む、最高の未来を。

 それら一切合切を壊して壊して、何を得るんだ?


「殺してやる!」


 狂気と絶望と死が含まれた双眸だった。少年は少年らしさの全てを天へ返上し、何を得たのか。得たものが衝動的な破壊だというのならば、彼と対峙している自分はどうなる? そして、自分が殺された後、少年はどのような眼で自分を見下ろすのだろう。恐れ、嘲り、無感情。多種多様な感情から、一体何を取り出してその瞳に当てはめるのか──そう、自分を殺した後に。

 ──俺も、殺されるのか?

 恐ろしさが脳に突き刺さる。殺意を含んだその両手が首に掛かったとき、どうなるのだろう。痛いだろうか。苦しいだろうか。もがき苦しみ、暴れ、しかしそれは虚しい抵抗といった程度でしかなく、やがて無意味な行動をとる力も失われた空虚な自分しか残ることが──

 その先にあるのは、死だった。


「……ぁぁああああ!」

 足下に転がるナイフを掴む。ぬたりとした嫌な感触すらわからなかった。無我夢中に、そして自分の行為を深く考えず己が命を守るためだけにナイフを前へ突き出した。瞬間的にドリスの笑顔が頭の中を通り過ぎる。それは怒りだろうか、それとも。

 どちらにしろ、ロハンは目の前にいた。

 肉を貫く感触が、しっかりと手に伝わってきた。



     ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 ──ああ……また一人、私を求めてしまう。

 彼女は嘆いた。

 死は尊き悲しみであり、最も残酷な結末である。

 だが、それを望む者がいる限り、その運命を変えられることもない。酷く酷く矛盾した道を歩むことに決して異議を唱えてはならない。異議とは存在否定となり、存在否定は人々の望みを放棄することとなる。故にあってはならない。人々が願いを求める限り、さながら求愛するかのように神を信じるならば、彼女は失ってはならないし失われてもならない。

 彼女は今宵己を必要とする人物がいる方向へ目を向けた。行為自体に意味はない。自らが望む死へ同情することにどれだけの価値があるだろう。ならば、その方向に振り向くことなど所詮は無駄な行為に過ぎない。

 だからこそ顔を上げて前を向くのだ。

 希望や絶望などといった感情を多分に含む、しかし訪れる結末が全て同一であることを誰も知らないその道を、いつまでも絶えることなく、しかしながら残酷なほどゆっくりと、確実に歩き続けるために。


 ……誰も名を知らぬ存在だとしても──



     ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

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