名も無い神様1

 日が昇る頃がもっとも冷え込む時間帯という話を聞いたことがある。ハンスはそれを素直に信じていた。疑う余地があるかどうかなど、今の時間に何かしら作業をしていれば全く考慮の余地は無いことがはっきりとする。まだ見えぬ太陽を観ようとしてつい背伸びをするが、それでもやはり見えずに顔を俯かせる。俯かせた先には食器があり、ハンスに何事か訴えているようだった。


 今から洗うのである。


 昨夜洗うのが面倒で放っておいたら、当然とばかりに汚れが乾きこびり付いてしまっていた。その汚れの所為というわけではないと思いつつも今日もなんとなく早起きをしてしまった理由はこれを予感してのことだったのかもしれない、なんて非科学的なことをぼんやりと考える。


「……あー、水が冷たいんだよな」


 ぼやきながらも食器を洗いにかかる。何しろテースに返さなければならないのだ。夕食のお礼も何かしなければならないだろう。弟と妹はまだ寝ていた。昨夜は帰るのが遅れて不機嫌だった二人だが、温め直したテースの料理を美味しいとすぐに笑顔をみせてくれたのだ。一度冷えた料理を温め直しても微妙なだけだと思っていたハンスにとって、その美味たるや人生の観念を揺るがすほどに衝撃的だったのも一晩経てば良い思い出だ。


「ハーにぃ……」


 冷たい水に身震いをしながら食器を洗っていると、そこへ妹が入ってきた。まだ四歳になったばかりのそんな年頃の少女である。つくづく──親というのはなんだろうと思案してしまう。本当にあの二人はどこに行ってしまったのだろうか。


「お、おはようリカ。ずいぶんはやく起きたな。どうした?」

「うー、といれ……」

「はは、もう朝だ。トイレにいったら着替えてきな。じゃあほら、一緒にいってあげるから」


 妹をトイレの前に連れて行き、ハンスは妹が出てくるまでぼんやりと天井を眺めていた。父親と母親が自分の子供達に残していったものは、古い染みのこびりついた天井がくっついているこの家と、どこかから手に入れてきた膨大な資産だった。金の出所ははっきりしていない。とりあえず今のところ生活には困ってないが、この妹が義務教育制度を受け進学する頃には底をつくだろう。二人の為にも早く神官になって稼がなければならない。この年の差はなんとも複雑な問題を抱えていたが、自分がここまで成長していなければそれこそ三人まとめて人生終了していたことだろう。

 あるいはシャングリラ孤児院に預けられていたかもしれない。


(……もしかしたらあそこに預けなきゃならない可能性もある、か)


 自分の人生が一度でも滑ってしまえば、二人をあの孤児院に預けてしまう以外に道は無いだろう。できるならば自分の手で育てたいところだが、現実というのはそこまで甘くない。ハンスはそのことを強く思い知っていた。


(……たかが七年の記憶しかないけど)


 失われてしまった小さい頃の記憶。今更それを取り戻そうという気は不思議と起きない。


(いや、もしかしたら俺は……)


 失われていようとも、やはり脳のどこかには保存されているのだろう。そこに触れようとすると勝手に身体が震えてしまう。


「う~……ねむぃ……」


 トイレから出てきたリカが眠そうに目を擦る。


「そうか。それじゃ、あともう少しだけ寝てていいよ。時間になったら起こしてやるから」

「わかったー……」


 妹を部屋のベットに寝かしつけてから、再び台所で洗い物と対決する。冷え切った手がやっと元に戻ってきたなと思っていたところへもう一度水に触れなければならない。とりあえず目指すべき就職先がどこぞの飲食店じゃなくて良かったと、自分でも馬鹿な考えを頭に浮かばせた。


「飯を作ってもらうのも考え物だな。いやうん、昨晩のうちにやっておけばよかったんだけど……」


 洗い物を拭いて袋の中に入れ、今度は朝食の準備にとりかかる。朝食はパンを焼いてジャムを塗るだけの至極簡単なものだった。──が。


「……」


 袋の中に入った食器へ目をやる。夕べは確かに美味かった。しっかりと作ればああいう料理もできるんだなと関心してしまうほどに。世界中を旅していると、つい自分で作る料理が手抜きになってしまう。その場しのぎの生活をしてきたからだろう。今考えると、どうしてそんなサバイバルをしてきたのか不思議でしょうがない。おかげで様々な技術だけは身に付いた。


「……目玉焼きでも作るか」


 できたての方がいい。弟と妹を起こしてから作ろう。

 そして、テースに礼を言おう。

 彼自身はまだ気付いていなかったが、テースという存在が徐々に心に残るようになっていた。だからこそ無意識にもまた彼女に会おうとしていた。

 それがどの様な意味を持っているかもしらず。




 まだこの時間帯では、霧が僅かに残っていた。

 さすがに昨日までとはいかないが、それでも普段よりは早めに家を出る。

 目的の場所は登校途中にあった。

 この町の誕生からずっと居座り続ける教会。しかしひっそりとしている為に、誰もがその教会を忘れそうになる。事実、ハンスもよく忘れていた。昨日を別とすれば思い出したのは数日前か。とある神父に孤児院の場所を訊かれ、案内したときだ。後に新聞を読んで知ったのだが、その神父は浮浪者によって殺されたのだという。


(あれ? 誰だっけ……?)


 そうだ、誰に案内したんだった?

 いや、その前に数日前? ずっと思い出していなかった気がするのは――どういう理由だ?


(……なんだ、ボケでも始まったのか俺は。ちょっと待ってくれよ、まだ青春真っ盛りなんだけど)


 教会の前で足を止め、ぼぅと見上げる。今は孤児院となっているこの教会の屋根は呆れるぐらいに高い。教会の近くに立ってしまうと、空を見上げてしまうぐらいに首を曲げなければその頂は視界に入らない。なんでここまで高くしたのだろうかと、当時この教会の設計を任された人に問いただしたくなってくるほどだ。さすがにもうこの世にはいないだろうが。


「まぁ、入ってみるかね」


 しばらく待っていれば誰かが出てくるだろうかと期待したが、そんなことをやっている間に時間が無くなってもなんだと、ハンスは昨日入った裏口へ周りその扉の前に立って叩こうとこぶしを持ち上げ──

 突然扉が開き、顔面に直撃する。


「……あ」


 真上から間の抜けた声が聞こえてくる。地面に踞り鼻を押さえているハンスは、声にならない声を上げつつちらりと視線を向ける。テースだった。


「ああ、すみません。まさかそんなところにいるなんて、思いもよりませんでした!」

「いや、いいんだけどね……」


 間が抜けているのは自分の方だ。彼女に罪はない。たぶん。

 そう心の中で言い聞かせつつ、彼は立ち上がった。鼻血が出ていないのは不幸中の幸いである。


「とりあえずこれ、返しに来たんだけど」

「あ、わざわざありがとうございます」

「なんつーか、礼を言わなきゃいけないのはこっちなんだけどね。……まぁいいか」

「洗ってくれたんですね。ご親切にどうも」


 テースはにこりと笑い礼を言った。その仕草が妙に心臓をどきりさせた。


(……こんなこと、今まで無かったのにな)


 頬を掻きながらそんなことを思う。テースという少女にはどうも心がかき乱されて仕方ない。


「これ、片づけてきますので、少し待っていただけますか?」

「ああ、別に良いけど」

「よかった。じゃあ、急いで片づけてきますね」


 孤児院の中に入っていく少女を見送ったあと、ハンスは周囲を一望した。孤児院は広い。市のほぼ中心には行政官府があり、道を挟んだ向かいに、まるで対立するように新教官府がある。教会はそれら二つから結構離れた場所にあった。本来この孤児院は市のほぼ中心近くにあったというが、町が西方向へ広がりを見せ、それによって中心から外れたらしい。すると面白いことに元々中心にはなかった行政官府がちょうど中央へ来るような形となった。

 新教官府も当初の予定では教会の隣に棟を建てるつもりだったらしいが、そういう町の背景もあり、結局は行政官府に並ぶような格好となった。自分たちの威厳を見せびらかす為には、どうしても町の中央でなければならなかったのだ。行政官府と対をなすよう東側寄りに神教官府が神官学校と隣り合わせにして自分たちの建物を建てたのは、結局のところ偶然が重なった結果だ。


 神官学校に通う子供は、いやがおうにもあの威風堂々とした──ハンスには度が過ぎた態度を取っているとしか思えない建造物を目にすることになる。ただ、従順な生徒達の中にはあの棟を偉大なる建造物として崇めているのもいた。

 この元教会にはあの建物ほどの嫌みがない。

 神教官府の建物はこの町で最も高く、特殊な形をしたあらゆる壁に独特の模様が描かれている。三角の屋根はこの教会となんら変わりないが、この教会の頭に居座る十字架とまた張り合うような黄金の十字架が神教官府にもあるのだ。


「エゴなんだよな」


 つい口から漏れてしまう。


「そうですか?」


 それに返事をする声もあった。


「……ッ!」


 心の底から驚き、後ずさる。激しく動揺する心臓と頭で、その声を探す。ハンスの右手に妙齢の女性が立っていた。テースの服装よりかはまだ飾り気があるが、それでも質素といえる白い服を纏っている。六十ぐらいの女性。背は高く、端正な顔立ちだった。


「あなたがハンスさんですね」

「あ、は、はぁ」

「テースが嬉しそうに話しておりました」

「はぁ……」


 この人が例のシスターだろうか、と考える。この元教会の辿ってきた歴史にはそれほど詳しくないが、それでも話程度は聞いたことがある。──以前、神教官府に真っ向から意見したという女性の話だ。


「珍しいですね。その制服は神官学校のでしょう」

「ええ。……って、何が珍しいんすか?」

「神官学校へ通っているのに、神教官府に疑問を持っているということですよ」


 霧が晴れてきた。朝日を浴びた空気が夜の残りカスを払拭してるのだろう。

 シスターは微笑った。


「私のことは知っていますね。有名でしょうから。だからといって貴方の考えに賛同するわけではありませんよ」

「いやまぁ、賛同されるほど凄いことなんて何も無いんだけど」

「……ふふ」

「ど、どうしました?」


 この人はきっと、苦手なタイプだ。初対面でそう印象付いたハンスはどうしても一歩引いた感じの口調になってしまう。


「いえ。本当の神様を考えたことありますか?」

「はぁ?」

「私達は神様を信じなければならない。名も無い神を信じ、崇め、そして神様は我々の望みを叶えてくださる。簡潔に説明すれば、宗教とはそれだけのことです。心の支えとなるきっかけが必要ということです」

「まぁ、ですね。どの地域の宗教も、つまるところそれですからね。――でも名前はありますよ。どの神にも」


 世界中には無数の宗教がある。地域によってその教えこそ違うが、根本的には似ているか、あるいは同じだった。ただ表面上の教えによって根元的な教えがないがしろにされ隠されてしまっている風潮がある。──そう、神官学校で教わる内容がそれだった。

 神を敬い、崇拝し、救いを求める。さすれば我々は死後も光ある世界に導かれ余すことのない幸せに包まれるであろう。教えは単純でありながらも、不明瞭だ。死後の世界? 光ある世界? 幸せに包まれる?

 ──では、生きている今はなんだろう。


「神様とはなんでしょう?」

「──え?」

「そんな疑問を抱いたことはありませんか?」


 女性は笑っていた。小さな笑みではあるが、それでも大きな何かがその笑みに隠されている──そんな気がして、ハンスは心を引き締めた。重要な何かがそこにある。


「そんな疑問を抱いてしまったから、私は神教官府から忌み嫌われてしまったのでしょう。神官になりたいのなら、決して──神の正体など考えぬことですよ」

「……あんたは」

「あらあら。余計なお節介を焼いてしまったようです。今のはほんの、おばあさんの独り言ですよ」

「……」


 何が言いたいのか、その奥底を覗こうとしたときに建物の方から声がした。


「セーラ様」

「セーラさまー」

「テース、それにアンナ。ああ、ハンスさんに?」

「ええ。食器を返してくださったので」


 テースはにこりと笑って、ハンスに弁当箱を差し出した。


(……って、弁当箱?)


 頭に「?」をいくつも浮かべる。そんな様子を楽しむようにテースは目を細めた。


「神官学校はお弁当を禁止されてるんですか?」

「……はい?」

「お弁当です。折角寄っていただいたのに、手ぶらで行かせるのも申し訳ありません」

「いやだから、そこまでしてもらうことも」

「もしかしてご迷惑でしたか?」

「……」


 完全に調子が狂っていた。今更自分のペースが取り戻せるかと開き直ってみれば、意外と今の状況が楽しくなってくる。思わず笑い、ハンスはその弁当箱を受け取った。


「わかったよ。ありがとな」

「やったー。受け取ってもらえたね、おねーちゃん!」


 どうしてアンナが喜ぶのかハンスにはわからなかったが、女の子は嬉しそうにはしゃいでいた。聖母を模したネックレスが跳ねる。


「あ、これ? このネックレスね。むかしママがくれたんだよ」


 ママが? と小さくテースだけに聞こえるよう訊いてみる。


「この子の母親は、二年前に……父親はいませんでした」

「ああ、だから……」


 孤児院というからには、そういった子供ばかりなのだろう。


「そうそう、テース、買い物をお願いできますか?」

「買い物ですか?」

「ええ。お裁縫に使ってたハサミが壊れてしまったので、買ってきてくれますか」

「はい、わかりました」

「良かった。子供達がすぐに服を破るので、小道具を頻繁に使うのですよ」


 セーラの後半のセリフはハンスに向けられたものだった。ハンスは曖昧に笑って応える。


「ハンスさん。雑貨屋に寄っていきますか?」


 アンナがはっとテースに振り返った。首を傾げて少女を見るが、理由を訊くつもりもないハンスはすぐに視線をテースへと戻す。


「あ~。学校があるから寄ってはいかないが、途中までなら道は同じだよ」

「そうですか。じゃあ、一緒に行きましょう」


 テースという少女は本当によく笑う。

 そんなことを思いながら、ハンスは苦笑しつつも首を縦に振った。

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