傲慢な神様2
この町には我がモノ顔をして闊歩する神がいる。
それはこの町の誕生と共にあり、人を救うこともせず、公平に見ることもせず、願いを叶えることもせず、何もせず、ただ人の心の中にのみ存在する傲慢な神だった。夜と朝に霧が発生する町は寂しく人と共にある。どうしてか、そんな町は無感情に見えるくせに実は奥底で感情を殺しているだけに過ぎないと感じた──少年は小さく呟く。元々神など存在しない。
霧が晴れた朝。人は起き出し、生きていたことに感謝をする。神官達への挨拶を忘れない為に朝食前に表へ出て、道を歩く神の使いへ礼をするのだ。それがこの町の始まりであり、全てである。神官達はそれが当然だとばかりに町の中を闊歩する。彼らは神の使いを豪語しているだけであり、決して神ではない。誰もがその事実を知りつつ、しかし神へ繋がっているのは彼らしかいないことも知っていた。おそらくは生まれたときから死ぬときまで続く、神の使いへのお辞儀。
──そこが全てならば、つまり先は無いということじゃないか。
支配される者と支配する者という極端な組み合わせに過ぎないが、当の本人達にその自覚があるかどうか、その事実こそ誰も知らなかった。たった三年では極端な故に誰もが見つけられないのだろう。彼ら神官達が本当に神の使いだというならば、この町は三年前、神に支配されたということになる。本当に神が存在するかどうか定かではない。しかし彼らが神は存在すると信じ断言する精神、その心の中にこそ神がいるのではなかろうか。そして彼らの心を縛り支配しているのだ。全ては神の為に自らの中に偉大なる存在を造り上げ、そしてそうさせた教会の力は確かに凄まじいだろう。
「まぁ、ケープ大通りさえ歩かなければ神官に頭下げる必要ってのはないんだけどな」
その少年――ハンスは静かに町を見回す。
薄い霧が掛かっていた。今日は少々長く霧が掛かっているようだ。
日が昇ると共に消え去る霧は、それまで夜の闇に潜む謎を隠しているようだった。この町を神が支配しているというのなら、この厄介な霧をなんとかしてほしい。
「だから、神様は傲慢なんだよ」
町はまだ目覚めていない。もうすぐ活気づく。それまでに学校へ着けるだろうか。なんとなく早起きしてみれば心を不快にする霧に包まれた町があり、なんとはなしに早めに学校へ行ってみようと思い立った。出掛ける用意をしてから弟と妹の朝食を作り、それから学校へ向かう。誰よりも早く学校に着くという気分は、霧の不快感を晴らす程度には快適だろうか。普段なら遅めに家を出て誰かしらと喋りながら登校するし、それはそれで全然構わないのだが、時折こういうことをするのも良いのではと思わなくもない。
町の大通りを歩く。町の名前を模したケープ大通りにはまだ人の気配がなく、夜の闇のようにひっそりとしていた。昼にもなればこの町を北から南へ両断する大きな通りは人で溢れ、耳が痛くなるほどの雑音にまみれてしまう。しかしあくまで表通りであるケープ大通りは夜に開く店など無い。
ケープ大通りをまっすぐに歩き、ケープ大通りより一回り小さい通りを曲がる。まだ見えないが、その突き当たりを曲がった先にハンスが通う神官学校があった。基本的な語学・歴史・数学といった一般的な勉強から神学といった宗教部分まで幅広く学べる場所ではあるが、並大抵の学力では入学試験を突破することなど叶わない。神官になるために様々な勉強を行う場所。普通の学校とは違い、神聖なる教えを未来ある若者に伝える場所──
「……大それたことじゃないけど」
そう呟いてからハンスはふと右手の方角に目をやった。
古ぼけた教会がそこにあった。
「ん~。なんだっけ、ここ」
突然現れたわけでもなんでもない。普段は友人と歩く道だからこそ今まで意識していなかったが、こうしていざ一人だけで歩いてみるとこの古ぼけた教会が妙に浮いているのがわかった。前々からあったのは知っている。この教会を知らない人間など、この町にはいないだろう。どうして気付かなかったのだ。まるで自らそこへの意識を手放していたような感覚に襲われ、少し気持ち悪くなる。
ハンスは門に近付き札を見た。
『シャングリラ孤児院』
「ああ。そういや孤児院だっけ」
思わず手を叩いていた。この町唯一の孤児院だ。どうして孤児院となったのか、ハンスは覚えている限りのことを思い出そうと頭を捻る。
元々この町唯一の教会であったのだが、町を取り仕切る二つの機関の片方、神教官府は「我々の建てた教会ではない」として教会の資格を無理矢理剥奪してしまったのだ。建物も取り壊そうとしたが、それはもう片方の行政官府が「しかし、古くからある建物であるし、仮にも教会だ」として反対し、教会としての肩書きは無くなったものの、今は孤児院として機能することになった。行政官府以上に住民達が反対したというが……。
庭がある古ぼけた建物には、やはりこの土地特有の霧がうっすらと覆いかぶさっていた。霧によってぼやけた建物はどこぞのホラー小説に出そうではある。とはいえ特に怖い印象など持てず、ハンスは建物をぼんやりと眺めた。
──つい最近、ここを案内しなかったっけ。誰に? 何故? どうして?
ちくりと痛む頭を軽く振る。
「まぁ、いっか」
いつまでも足を止めていても仕方がない。ハンスが学校へ向かおうとした矢先、声がした。
「あら、おはようございます」
少女の声だった。つい振り返る。
「こんな朝早くから勉強熱心なんですね」
にこりと、少女は笑った。
ハンスはため息をつく。
金髪碧眼の少女。長い髪は腰に届きそうである。神官学校の服を模したと思われる真っ白い服に、柔らかい目元。歳はハンスと同じ十六ぐらいだろうか。美しいというのか、可愛いというのか。とにかくハンスは突如として現れた少女を前にして緊張してしまう自分を止められなかった。
「どうしました?」
「あ、い、いやいや」
不意打ちだった。まさかこんな朝早くから人がいるなんて想像もしていなかった。しかも絵に描いたような美少女が、である。別段異性と話すのに特別緊張するような性格をしているとは思っていなかったが、眼前の少女は美少女揃いと言われる神官学校の中においても並ぶ者はいない程であり、男子として緊張するなというほうが難しい話だった。
「神官学校の方ですね。すごいです、こんな早くに」
「そ、そんなにすごいわけじゃない。今日はたまたま早起きしたからだし」
「でも、ここの子達にも見習って欲しいです」
あ、と声を出した。孤児院にいるとなると、彼女も孤児の一人なのだろうか。それともここで働いているのだろうか。
「ここで働いてるんです、私」
どきりと心臓が跳ね上がった気がした。ハンスの心を見透かしたように少女はそう言ってきた。
「まだ起きてこないけど、起きたら大変なんですよ」シャングリラ孤児院の子供達のことだった。「すごく騒いで。でも元気なのはとても良いことだから」
「つけあがらせると、どこまでもつけあがりますよ。子供なんてのは。怒る時はビシッと怒らなくちゃな」
「そうですか?」
「うっ……えっと」
出過ぎた真似をしてしまったかと、心の中で冷や汗を流した。しかし少女は笑顔のままである。
「参考になります。子供達の面倒を見ているみたいですね」
「ああ……弟と妹がいるから」
「弟さんと妹さんが。ああ、じゃあ私よりずっとベテランということになりますね」
いや、そんなことは、と口に出そうとしたところで、学校の方向から鐘の音がした。
「あ……」
神官学校が生み出す鐘の音は町全体に響き渡る。朝のこの音は、つまり町全体が起き出す合図でもあった。重い重い、ボーンと沈むような音。それでもカーンという高く響き渡る軽快さがどこかに含まれている気がした。だからこそこの音で誰もが目を覚ます。
町の目覚まし時計。誰が鳴らしているか──誰も知らない。
ハンスと少女のすぐ脇を、おそらく町で一番に目を覚ましたに違いない老人が、大量の新聞をかごに入れた馬車をのんびりと動かし、二人に挨拶をした。
学校の中は静かである。
不気味なぐらい静まりかえっている。ここまでくると建物自体が音を吸収しているのではないかと思えてしまう。実際、生徒がある程度集まっても学校はどこかで静寂を守っていた。誰かが音を立てても瞬時に吸収してしまう。静けさこそ空間であり、この神官学校特有の空気であった。ここまで静けさを強調している場所は、神官学校を卒業して後に大半の生徒が進むだろう神教官府教会内部か、この学校ぐらいしかないのではなかろうか、とすら思う。残念ながらハンスは教会内部に入ったことはない。そもそも神官学校ですら一般人の出入りが固く禁じられている。規則的にもそうであるように、それは精神的にも規制をかけている意味があった。神教官府と一般庶民との壁を自らが作ったのだ。──確かに、白色に包まれているはずのここは暗い影を根深く遺し校舎そのものをどうしても近寄りがたいものとしている。慣れている筈の生徒ですらそう感じるのに、一般人は一体どのように受け取るだろうか。
今の時間はさすがに誰もいない。宿直の神官を除き、生徒らしい生徒はどこにも見当たらなかった。当たり前である。まだ登校する時間ではない。だからこそ背筋が冷たくなるような静けさがここにあるのだ。
「ホントに誰もいないなぁ。ま、こんな時間は初めてだし」
白い息が出る。中はこんなにも冷えてるのか、と思った。
一歩入った時からここの温度に震えたのだから、そんなものかもしれないとハンスは小さく呟いた。冷え切ったように思えた外気温よりさらに低い、校舎内部の温度。
教室に鞄を置く。それだけで今できる全ての用事が済んでしまい、心の中にぽかりとした空間が生まれた。視線を彷徨わせる。黒板の上に飾られた院長の写真と、それに並ぶ神則の文字。落書きなどの汚れがない綺麗に並べられた机と椅子は、それだけでここの学校の気品を窺わせた。
ふらりと廊下へ出る。
鞄は大丈夫だろうかと教室を振り返ったが、まさかここで盗みを働くような人間がいるとは思えず、首を振った。ここはいわば『出来のいい』子供が来る場所だ。──そんなことする奴がいたら教えて欲しいもんだよ。
足音だけが主張するように音を奏で、白い壁に吸収された。廊下の先は空気すらも動かずにひっそりと佇んでいる。薄暗い闇こそ確かに存在するが、白い壁にかき消されそうなほど弱い。
制服を見下ろす。白一色に整えられたこの学校の制服。誰もいないからこそ今になって気付いたが、ハンスはここまで白いことに畏怖した。神に仕える為に潔白を証明するのが必要だとしても、ここまで白くする必要はどこにあるのだろう。
「つーか、あれだな」
ハンスは呟き始めた。
「なんで俺は、廊下なんて歩いているかな? いやいや、暇だから歩いているわけで……って、だったら机に突っ伏して寝ていたほうが良くない?」
(……わかった。結局暇なんだ、俺)
朝早く来たのは、やはり失敗だったろうかなとどぼやきながら廊下の突き当たりに到達した。右手には階段がある。上か下かなどと迷いながら上への階段に足を掛け、先を見上げたところで初めて人がいることに気付いた。
「……あ」
男子生徒だった。小言が聞かれてしまったかと真剣に言い訳を探してみるが、廊下の先にいる男子生徒がハンスの小言を聞いていた様子はどこにもない。
むしろ腹部を抱えながらうずくまっていた。
「どうしたんだ? 大丈夫か?」
近寄って声を掛ける。男子生徒はちらりと視線を向けてから立ち上がり、そしてそのまま振り返って階段を降りて行こうとした。それをハンスの声が止める。
「おいおい、何の挨拶も無しか」
「……」
男子生徒の視線がまたハンスを捉える。──ハンスはぞっとした。まるで死んだ魚のような目をしていた。
「なんだよ、イジメにでも遭った?」
「……」
「ちょっとは返事してくれてもいいんじゃないか?」
「……」
「喋れないとか?」
「……」
「……」
ホントに喋れないのか、と危惧し始めたところで、男子生徒がようやく口を開いた。短く、小さく。
「ウザイ」
「……え?」
初めて聞いた声がそれだった。ハンスは眉を寄せる。
「いきなり随分なご挨拶だ」
ハンスはそれでも肩をすくめて笑ってみせた。
「気軽に話しかけないでくれ」
「腹押さえてたから心配して話しかけただけだよ。それのどこが悪いのか、説明願えないかな?」
「……」
ふいに男子生徒は視線を逸らした。これ以上話したくはないという意思表示にとれ、ハンスもそれ以上の言葉をかけなかった。
ただ、男子生徒がびっこをひいて階段を降りていく姿がやたらと印象に残った。
「というわけなんだよ」
今朝の出来事を一通り話し終えたハンスは、疲れたとばかりに机に肘をついた。彼の机の周りには二人の友人──この学校の中で唯一の友人と呼べる二人が、ハンスの話を聞いて笑っていた。
「笑うことないだろ?」
ハンスがそう言うと、少女がくすくすと笑う。
「だって、今日の授業全部寝ててそれで私達に何を言うのかと思ったら、そんなことだから」
「いいじゃんかよ、アンジェラ。疲れてるんだから」
アンジェラはそう言うハンスもおかしいのか、まだ笑っていた。
「本当にハンスって面白い人よね。ねぇ、そう思わない、オットー?」
「まったくだよ。君を見ていると飽きないね」
オットーも同意の意を込めて、口元に握った手をあてて小さく笑っていた。
「結局その生徒、何もお礼を言わなかったんだろ?」
「まぁな。それ以上何か言うのもなんだし、放っておいたよ」
「で、教室に戻ったら戻ったで授業終了まで寝てたのか。呆れて物も言えないな」
「普段より朝早いとロクなことないってのが、よくわかったよ」
二人とも両親が宗教家であり貴族の位である。一般──しかも小さい頃から父親に世界中を連れ回されたという特殊な事情のあるハンスとは違う雰囲気を常に纏っていた。実際、趣味から普段着ている服、食べ物ですら全く違う。上品と呼べば上品なのだろう。この学校だけに限っていえば貴族でも宗教家でもないハンスの方が奇異ではある。だが不思議なことに二人はハンスと妙に気が合い、こうして友人として付き合うことになった。
「でもさ、先生怒ってたよ」
「言うなよな、アンジェラ。……まぁた髪の毛薄くなるんだろうし」
「あははは、わかっているなら寝るなよ」
「無理よ。ハンスってこういう性格だから」
アンジェラはウェーブのかかった長く黒い髪をした、口調の大人しい少女である。同年代から見ても小柄であり、どこか守ってみたくなるような顔立ちをしている。一方でオットーは競技の授業においては万能といえるほどの働きをし、学校のアイドルになっているほどだった。背も高く、顔もすっきりとしている。授業の成績も悪い方ではない。二人曰く「親が厳しい」らしいが。
「まぁまぁ、その分掃除はハンスがやってくれるっていうしな?」
「……は、オットーさんよ、なんだって?」
オットーの言葉に、ハンスは思わず訊き返した。
「聞いてなかったのか? 先生、今日の掃除は一日中寝ていたハンスだけにやらせるって言ってホームルームが終了したんだがな」
「……ああ?」
「じゃあな、ハンス。頑張れよ」
「ちょ、ま……いやいやおかしい、お前らおかしいって。アンジェラ、せめて君だけでも」
「あ……えっと」
少しだけ困った顔をして、アンジェラは軽く手を振った。
「ごめんね、これからピアノのレッスンなの」
「……」
結局、放課後は一人で掃除することになった。
誰もいなくなった教室は今朝と同じ匂いがする。誰もいなくなりさえすれば朝も夜も変わらないのかもしれない。先ほどのまでの喧噪は消えていた。
一通りの掃除を終え、モップを片づけ、ゴミを学校の裏まで持っていく。そんなにゴミがあるわけでも無いが──
「気分良いわけないだろうが……」
学校の裏手に来たところで、ふと、妙な音が聞こえた。
どこの学校でも同じだな、とハンスは呟く。学校自体がどれだけ特殊でも、その裏で行われていることにさほどの差はない。コミ袋をゴミ処理場に置いてからそこに行くべきかどうか少しだけ悩む。とりあえず覗いてみてから決めるかと、ハンスは曲がり角からこっそりとその場所を伺った。
数人の生徒がいた。男女共に。一カ所を中心として数人が囲み、何かを蹴っていた。何かというよりも──
(誰かだ)
いわゆるイジメだろう。
(イジメだけは世界共通だよな)
盗みはなくともいじめはある。一カ所に閉じ込められた鶏と同じだと、ハンスは溜め息をついた。
しかし、ここまで見てしまうと誰がいじめられているのかが次第に気になってくる。もう少しだけ様子を見ようと決めた。
「君みたいなのは正直困るんですよね。家だけで。成績も良くはない。運動だって得意ではない。ただ家のおかげで大きな態度をとっていただけだろう」
誰かが偉そうに喋る様は、ハンスからしてみれば滑稽だった。相手を卑下し追いやり、果てには自殺させるというこの一連の虐待は歴史上絶えたことがない。虐待の理由は一つではない。細かい理由まで含めればそれこそそのイジメは千差万別であった。虐待を正当化するつもりではないが、どうしても止められない虐待をハンスは見たことがある。
──どうするかな。
これはおそらく止めたほうが良い部類だろう。自分にメリットがあるとは思えなかったが、黙って見過ごすのも気分が悪い。
(だが、それでも)
止めた方が良いのだろうと解っていながら、余計な手出しをするつもりはなかった。いじめられている方もいじめている方も、後ほどどうなろうが関係ない。
(まぁ、諦めるんだな)
そろそろ飽きてきたのだろう。集団が解散の雰囲気を醸し出してきた。頃合いだと、ハンスもさっさと場を離れることにしようとしたところで、目を見張った。
集団に囲まれ、暴行を受けていた人物がやっと見えてきたのだ。
(あいつは)
地面にうずくまる姿こそ違っていたが、間違いなく今朝出会ったあの少年である。
「いくら名家だからって、それ以上調子に乗らないほうが良いよ」
リーダー格の男が去り際に蹴りをたたき込む。男子生徒は小さく呻いて、身体を丸めた。
「どうせお前の家は、もう」
ぞろぞろと、リーダー格の男を中心にその場を去っていく。ハンスがいる場所とは反対方向に歩いていったので、ハンスはその後もよく見ることができた。
そう、その後に起こることも。
男子生徒は多少足下をおぼつかせながらも立ち上がった。ハンス以外は誰もその少年が立ち上がったことに気付いていない。男子生徒はポケットから何かを取り出した。ハンカチを投げ捨てると、彼が何を取り出したのか一目瞭然だった。。
ギラリと、鋭く鈍い光がそこにあった。
──まさか。
彼が何をしようとしているのか、瞬時に理解した。
しかしそこまでやるだろうか。止めるべきかどうか悩み、彼は結局一歩遅れてしまったのだ。
男子生徒は掛けだした。
リーダー格の男はそれでもまだ自分の危機に気付いていなかった。
ハンスを除く全員が振り返った時には、男子生徒の持っていたナイフが深々とリーダー格の男の腹部に突き刺さっていた。男子生徒の腕を赤い液体が伝い、一滴、地面を濡らした。ひどくゆっくりと、その光景は流れ──
「くそッ!」
──どうしてそんな甘い判断をした!
ハンスは自分を責めた。もう隠れていることに意味はない。一気に飛び出し、男の身体からナイフを引き抜いてさらに刺そうとする男子生徒に飛びかかった。ナイフを持つ手首を掴んで捻り、関節を極め、身動きできないようにする。
数名が悲鳴を上げていた。
「まずは誰かが手当をしろ、血を止めるだけでもいい! それからお前、先生を呼びに行け!」
おそらくこういった事態は生まれて初めてだろうその連中に、怒鳴るような声で指示を出す。指示を出しても最初は動こうとしなかったが、それでもふらふらと歩き出せば、あとは早かった。数分後に三人の教師が現れ惨劇を目の当たりにして一瞬だけ呆然とする。
「なにがあったんだ……」
「そんなことを訊いている暇はないでしょう。早く医者の手続きを。それと、彼を押さえといてください。応急手当ぐらいなら俺でもできますから」
凛とした声に、大人である教師が従う。関節が決まり、顔を地面に押しつけられた少年を教師に引き渡す。持っていたナイフは無理矢理手首を捻って取り上げていた。それも一緒に教師へ渡す。血がべっとりと付いたナイフを見て、教師はあからさまに顔を歪ませた。それから一連の出来事を察したようにその男子生徒へ注目する。一人がハンスへ向き直り、訊ねてくる。
「……君はどこのクラスだ?」
「二年C組です。ハンス・ハルトヴィッツ」
刺された生徒の手当をしながらということもあり、教師の問いには簡潔に答えつつ、ちらりと男子生徒に目をやった。教師に押さえ込まれ、さらにはポケットに入っていただろう生徒手帳を教師に奪われていた。教師は生徒手帳をざっと読み、深いため息をついた。
「……二年A組のロハン・ショパンズ。君は自分で何をしでかしたか、わかっているのか?」
少々動揺した声も混じっていたが、それでも冷静を装って教師は質問をする。男子生徒──ロハンは何も答えなかったが、僅かに一方を睨んだようだった。殺意を含んだ狂気の瞳が、そこにあった。
──誰にだ……俺か。
なんとはなしに、ハンスはそう理解した。応急手当は終わったので、後はこの生徒を医者に運ぶだけだった。だからこそロハンの行動を逐一確認するぐらいの余裕はあったのだが、正直見なければ良かったと後悔する。
「こら、落ち着きなさい。こら!」
「僕に触るなぁ!」
突然暴れだしたロハンは、どこか虚ろな、それでいてその中に奇怪な光を燈す双眸でこの場にいる全ての人間を一瞥した。
「お前らは神を説いているが、真実の神を見た事がないからあんなカスのようなことが言えるんだ。僕は見た……あの神を見た。あれは人間が望んだ究極の救いだ。生をもたらさない最高の救いだ!」狂ったように叫ぶ。「この世界に貴様らの謂う神はどこにも存在しないんだ!」
「何を言ってるんだ、やめなさい!」
教師が無理矢理その口を押さえ込もうとする。この学校で叫ぶ内容としては最低だった。神聖なる場の教えに背くことを、彼は平気で口にしている。
「二度とそんなことを口にするんじゃない。いいね」
「そもそもだ、なんでこんな真似をした?」
「……さい」
「質問がわからないわけじゃないだろう。ロハン・ショパンズ。君には答える義務がある。そして処罰を受ける義務もある」
「……うるさい!」
ロハンは半ば強引に教師の手をふりほどき、ハンスに襲いかかってきた。ぎょっとしてハンスは対応に遅れ、ロハンのこぶしをまともに頬へくらう。それでも一歩後ろに飛んで衝撃を和らげたのは、おそらく子供の頃父親に仕込まれた体術のおかげだろう。地面に倒れたハンスの脇を駆け抜け、ナイフを持った教師に体当たりをして、そのナイフを奪ってからロハンは逃げ出した。彼を捕まえていた教師が「待て!」と怒鳴りながら追いかけるが、今更捕まえるのは無理なことぐらい誰の目から見ても明らかだった。そもそも追いかけた教師が少々『太め』だったのだ。それでもナイフを持った少年を勇気を持って追い掛けたのは立派だろう。――ハンスからしてみると褒められた行動ではないが。
「……つ~」
頬をさすりながら身体を起こす。
「大丈夫かね?」
「ええ、大丈夫です……それよりも医者は?」
「すぐに来る。心配する事はない」
この学校の隣に建てられている新教官府には専門の医師がいる。その為に仮に大けがをしたとしてもわざわざ町の医師のところまで運ぶ必要が無いのだ。
「事情は明日聞こう。今日はもう帰りなさい」
疲れたような声を出し、教師はそう言った。
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