傲慢な神様3

 ──まぁ、すぐには帰れないわけで。


 雑貨屋の中をぐるぐると見回しながら、目的の物を探しているハンスはなんとなくそうぼやいていた。今日は色々とあったので、さっさと帰り弟と妹に晩飯を作って風呂に入り今すぐ寝たい気分だったが、その前にノートを取るためのペン用インクを買わなければならない。決して今日の授業はたださぼっていたわけではなく、ノートが取れないとわかった瞬間に全てのやる気が削がれてしまったのだ。


(……さぼりだ。ただの言い訳だぁ)


 結論から見ればどっちもどっちであり、まったく差はない。

 店の外を見る。もうすぐ夕方に差し掛かろうとしていた。弟妹が心配する前に帰らなければならない。


「ハンス君か。今日は何の買い物だい?」

「ちっす、コールさん。いや、インク無いかなぁと思って」


 なんともひょろりとしたまだ若い男が店の奥からひょっこりと出てきた。この雑貨店の主人であるコールは、客に店が来たことに気付くとすかさず奥から出てくる。現役でいる限り接客第一で通すと断言していたのを、ハンスは思い出した。


「あれ、奥さんは?」

「ああ、家内は中で晩飯作ってるよ。今日はちょっと凝った料理にチャレンジしてるみたいだね」

「へぇ。美味いっすからね、奥さんの」

「まったくだ。羨ましいと思わないかい?」

「はは……」


 苦笑いを浮かべて曖昧に答える。奥さん自慢を始めたらこの主人は止まらないことを、ハンスは身を以て知っていた。


「それでインクか。この間取引先から安くて質の良いインクを発売するっていうので、その試供品が来たんだが、どうだい、試してみるかい?」

「お、まじっすか」

「使ってみた感想をくれればいいよ。試供品だからタダだしな。他にもあるが、使ってみるか?」

「いや、インクだけでいいよ」

「そうか。じゃあこれだ。使う前に無くすなんてことはやめてくれよ。こっちの顔が立たなくなる」

「さすがにそんな間抜けなことはしないって。ちょっとは信用してくれてもいいんじゃないの?」

「神官学校唯一の悪ガキをほいほい信用するほど人間できちゃいないんだな。ザンネンなことにね」

「あ、ひっどいなー。俺ってそんな程度?」

「だったら少しは真面目に勉強しなさい」

「してるってさ。この間もテストで上位に食らいこんだんだから」


 お互いに笑ってから店を出ようとしたところで、ハンスは足を止めざるをえなかった。今まさに店に入ろうとしていた少女とぶつかりそうになったからだ。

 そして足を止めたのはそれだけではない。脳天を貫くような衝撃が走る。


「あ」

「……あ」


 互いに指を差す。


「あんたは、今朝の……」


 シャングリラ孤児院にいた少女だった。笑顔を絶やすことのない、美しいというのか、可愛いというのか、なんとなく見とれてしまう少女である。

 少女は手にバスケットを持っていた。


「こんにちは。今朝ぶりですね」

「あ、あ~。そう、ですね」


 ──何を緊張してんだ、俺は……。

 理解ができない狼狽ぶりに、どうしようもない情けなさを感じた。


「あ、テースちゃん。どうしたんだい?」


 コールがそう言うと、少女──テースは一度お辞儀をし、バスケットを差し出した。


「先ほどお菓子を作ってみたんですけど、大量に作ってしまいまして、お裾分けをって」

「おお、それはありがたい」

「バスケットは明日取りに来ますね。その時でよければ、味の感想もお願いできませんか?」


 ハンスの前で渡されるバスケットからは良い薫りがした。クッキーだろうか。小綺麗なハンカチが被せてあり、中身が確認できなかった。


「あ、もしよろしければ」


 テースと呼ばれた少女がバスケットからそれを出す。案の定クッキーだった。丸い形をしたきつね色のクッキーを前に、ハンスが頭に疑問符を浮かべる。


「よろしければ食べてみてください。お口に合うかどうかわかりませんけど」

「あ、ああ。ありがとう」


 一つだけもらい、食べてみる。

 ──美味い。

 本気でそう思った。このクッキーは美味い。弟妹に料理を作っている手前、腕にはそこそこ自信があったハンスだがそれでも彼女には全く及ばないのがこのクッキーだけで分かる。


「どうですか?」


 黙ってしまったハンスを奇妙に思ったのか、それとも不安になったのか、テースがそう訊ねてくる。ハンスは呆然とした顔で「美味いな」と言うと、元々微笑を浮べていた彼女がはっきりとした笑顔を作った。


「ああ、良かった。やっぱり美味しいって言ってもらえるのが一番です。作った甲斐があります」

「ははは、テースちゃんのお菓子が不味いわけないさ」


 そんなのは当たり前だとばかりにコールが声を出す。


 「じゃあ、これはありがたく頂戴するよ。今度女房のパスタをご馳走するから、楽しみにしててくれ」

「ええ。それはもうぜひ。あ、子供達が待っていますので失礼しますね」

「ああ。早く戻ってあげな。あの子らは甘えん坊だからねぇ」

「ええ、そこが可愛いところなんですけど」

「違いない」


 テースがハンスに振り向いた。「うっ」とほんの小さく呻く。透き通るような瞳に少しでも見つめられると息が止まりそうになる。


「えっと、今朝もお会いしているのに自己紹介が遅れました。申し訳ありません」

「え、あ、いやそんな謝ることじゃないけど」

「テースと申します。シャングリラ孤児院で司祭のお手伝いをしております。まだまだ未熟者で足を引っ張ってばかりなんですけど」


 完全にペースは向こう側にあった。流れを変えるきっかけも見つけられず、かといって喋らないでいるのも辛い。


(けど、司祭?……あの人のことか?)


 あそこはもう教会ではない。だからこそ司祭はいない筈なのに、彼女は躊躇うことなくそう呼んだ。おそらくは三年前のあの事件で有名になったセーラとかいう女性のことだろう。

 兎にも角にも過去の話だ。しかしその時代を知っている人間は今でもセーラに尊敬の念を抱き、司祭と呼んだり、セーラ様と敬っている。


「自己紹介か。なんだかあんまりそんなことしないんで、どうしても調子が狂っちまうけど」

「あ、ごめんなさい」

「謝らなくてもいいですよ。ハンスっていいます。まぁ、機会があれば今後ともよろしく」

「同じ町に住んでるんですから、次もまた会えますよ。──あ」

「ん?」


 何かに気付いたようだった。人差し指を唇にあてている。


「えっと、晩ご飯はハンスさんがお作りになってるんですか? 弟さんと妹さんの面倒を見てるっておっしゃってましたから」

「え? ああ、親父が忽然とどっかいっちまって、お袋はそんな親父を追いかけていっちまったから、弟と妹の飯は俺が作ってるんだけど」

「あ、じゃあ」


 ぱんと手を合わせ、テースはこんなことを言ってきた。


「よろしければ、ハンスさんところのご飯も作りましょう」




 ──まぁ、ここまですぐに帰れないとは思ってなかったわけで。

 厨房に立ったままなんとなく呆れた面持ちでテースの動きを見ていた。ここで飯を作ったとしてどういうメリットがあるのだろう。持ち帰る時には冷めてしまう。冷めた料理というのは大体旨くない。旨くないと、妹はともかく弟はぎゃぁぎゃぁ騒ぐことぐらい目に見えていた。


 シャングリラ孤児院は子供達が全部で八人いる。あとはテースとここの司祭である。司祭といっても実際宗教家として働いているわけではなく、この元教会を管理していることから感謝の意を込められ、ケープ市の人からそう呼ばれているに過ぎない。話によれば昔は教会の中でそれなりの地位だったらしい。ケープ市ではかなりの有名人だ。


(八人分か。それに自分たちの分と……うわ)


 それだけの人数分を毎日一人で作っているテースの働きに、自分を入れてたった三人分しか作らない──しかもたまに手を抜いている──自分に何ができるのかと自問してみた。

 手伝うことぐらいは出来るだろう。おそらく。

 これでもまったく料理に覚えがないわけではない。世界各地を父親に連れ回されて訪問し、各地の料理を口にしてきた者としては、味覚に関して多少自信があった。


「んで、何を手伝えばいいですか?」

「あ、言葉遣いは丁寧じゃなくてもいいですよ」

「あ、そうですか……って、そう?」

「ええ。ちなみに、私のは地です」

「はは……、じゃ、名前のほうもテースでいい?」

「もちろんです」


 穏やかに笑みを作り、彼女はそう言った。

 そしてハンスはやることも無くテースの働きぶりをただ黙って──


「……だから、俺に手伝える事は?」


 余りにも良い手際に思わず見惚れてしまっていたが、作ってもらっているばかりではさすがに居心地が悪い。


「あ、すみません。えっとですね、お水を汲んで来ていただけないでしょうか。裏庭に井戸がありますから、そこで」

「了解」


 手をひらひら振ってオッケーのサインにしながらハンスは台所を出た。玄関に続く廊下の途中に、子供の物と思しき玩具が転がっている。


「……片づけないのか」


 足で適当に脇へ除けつつ、歩いていく。扉が開いている部屋の脇を通り過ぎようとしたその時、いきなり目の前を黒い何かが飛んでいった。


「……ッ」


 驚いて一歩下がり、凄まじい勢いで鼻先をかすめていったそれを目で追いかける。


「鳥?」


 怪訝に呟く。


「まてー、ファイリー!」


 黒い小鳥が飛んでいった道を、その鳥に比べればずいぶんと遅い足で、三人ぐらいの子供が走り抜けていった。


「まさかここで飼っているのか? 元とはいえ教会なのに?」


 教会の色は白が基本だ。例外は無いこともないが、それでもそれに対極する色などあり得なかった。


「黒い小鳥、ねぇ……」


 黒い鳥はカラスを想像させる。全身が漆黒のカラスは魂を運ぶ鳥で、なおかつ死を予告する生き物であり、信心深いケープ市の人間から忌み嫌われる存在であった。少なくとも教会の教えではそうなっている。だからテースの服も、そして今走り抜けていった子供達も白を基調とした服を着ているのだ。そう、そのはずだ。


「まぁ、いっか」


 元々教会の教えを信じていないハンスは、ポリポリと頭を掻いてその疑問をさっさと忘れたのだった。

 とりあえず水を汲んでこよう。

 裏庭に周り井戸を見つける。井戸から桶一杯の水を汲み上げて台所に戻ると、子供達の周りにテースが集まっていた。何やら騒いでいる様子なのでやや離れたところから見ていると、テースの肩に黒い小鳥がとまっている。先ほどの小鳥だろう。


「テースお姉ちゃん、ファイリーが逃げるんだよ!」

「一緒に遊んでいただけなのにー!」


 子供達がそう口々に言うと、なにやら小鳥が一所懸命に首を左右に振っていた。まさか言葉が分かるのか、などと思うがいくら何でもそれはないだろう。


「またファイリーの嫌がることをしたのですか?」

「そんなことないよー!」

「そうじゃなきゃ、ファイリーも逃げたりはしませんよ」


 今度は首を縦に振る小鳥を見て、ハンスは首を捻った。――やっぱり鳥が人の言葉を理解している?


「どんな生き物だって、意思疎通はできるんですよ」


 はっとしてハンスは目を見開いた。

 子供達はやっとハンスに気付いたようだった。一斉に彼に向き直り、今度はハンスにじゃれついてくる。持ってきたバケツの水が子供達にかからないよう、気を遣う。とても人なつっこいというか、人見知りをしない子供達だった。


「ね、ハンスさん」


 テースがハンスを一度でも見た様子はどこにもなかった。少なくともハンスはその素振りを見つけられなかった。


「あ、ああ、できるんじゃないか?」


 ここへ来てから疑問ばかりが浮かぶ。どうしてこちらの考えていることがわかったんだ?

 いいや、と心の中で否定する。偶然だ。鳥がまるで返事をしたかのように首を振ったことや、今のテースの言葉だって偶然に過ぎない。子供達との会話で偶然そういう流れになっただけだろう。そう結論づけた。


「ほらほら、ご飯を作ってるから、ここで遊ぶと危険ですよ。部屋に戻りなさい」

「はーい」


 子供達が、言われたとおりにぞろぞろと台所を出て行く。だが、その中の一人がぴたりと足を止めた。小さな女の子だった。ハンスをじっと見ていたかと思うと、子供らしくない妙な笑い顔を作った。


「テースおねえちゃんを狙っても、無駄だからね!」

「ぶっ」


 ──このガキは、何を……ッ!

 迂闊にも動揺してしまった自分を罵るが、正反対にテースはにっこりと笑っていた。


「よくわからないけど、ハンスさんは良い人ですよ」

「おねーちゃん……ほんとに意味わかってないでしょ?」

「え? そうなの、アンナ?」


 きょとんとした顔でテースが聞き返すと、ハンスと女の子──アンナが、それぞれ違うため息をついた。




「暖めればすぐに食べられますので」

「ありがとな。っと、すっかり暗くなっちまったか」


 空を見上げれば、闇が青を食らいつくそうとしていた。教会の窓からは光が漏れ、もう夜になったのだと静かに告げてくる。


「この鍋は明日学校に行くときに返せばいいよな?」

「ええ、それでお願いしますね」

「そんじゃ、また」

「また明日お会いしましょう」


 テースの動きはゆったりとしていたが、小柄な体型のおかげか、それでも子供らしく思えた。だが、どこか悟った感じがするのは何故だろう。

 全てを悟ったような表情を見せるのだ。

 去り際に魅せた彼女の笑顔は印象的だった。


「ふぅ」


 教会からしばし歩いたところで、今日のことを振り返ってみる。いつもなら朝になれば弟と妹の朝食を作り、そして神官学校に行き、受けなければならない授業を受け、帰り、弟と妹の面倒をみる。それが普通だったが、今日はその隙間にいくつもの出来事があった。


 そう、あの男子生徒。名前はロハン・ショパンズ。


 教師が二人がかりで押さえても、なお抵抗し逃げ出した時の必死さ。教師は関節を極めていた。それでも逃げ出したという事実に気付いたのは、おそらくその教師と自分だけだろう。


「腕がイかれているはずだ」


 だが、ロハンはその腕でハンスを殴り飛ばした。


「痛かったな。……とても」


 とても腕を怪我した者の力とは思えない。


「上手く関節を外したのか。それとも、痛みを堪えて殴ったのか?」


 よくわからなかった。しかし、あれは無理をしたのだろうという気がした。いくら隠そうと誤魔化そうと、瞳の奥で痛がっているのをハンスは見てしまったからだ。


「わからないといえば」


 ──お前らは神を説いているが、真実の神を見た事がないからあんなカスのようなことが言えるんだ。

 彼の発言が生々と脳の中に甦った。


「真実の、神……?」


 妙に引っかかった。

 世界には様々な宗教が存在しその宗教の中だけでいえば、彼らの信じる神こそ絶対真実の神である。

 もちろん教会にも神が存在する。この国の誕生と共に在る神が。

 ──そうだ、誰も公平に見ようとしない、怠惰な神がいるんだ。


 この町には我がモノ顔をして闊歩する神がいる。それはこの町の誕生と共にあり、人を救うこともせず、公平に見ることもせず、願いを叶えることもせず、何もせず、ただ人の心の中にのみ存在する傲慢な神だった。それが教会の教える神の、真実の姿なはずだ。絶対唯一神が我々を救うと説きながら実際は誰も救うことなどできない神の、暴かれた姿じゃないのか。暴かれた正体が何なのか、答えはとても簡単だ。


 そう、簡単なのだ。それは人の心に過ぎない。心に過ぎないということは、いわゆるただの想像だ。人が望んだことを見えない形にして表現するには、神というのはとても都合の良い存在なのだ。


 ハンスは深く息を吐いた。ロハンはもうまともじゃない。それなのにどうして彼の言葉がここまで引っかかるのだろうか。神という単語が出てきただけで、なぜ妙に意識してしまうのだろう。

 帰り道を急ぎながら、ハンスは今日という日を複雑な思いで反芻した。






 ──僕は見た……あの神を見た。

 あれは人間が望んだ究極の救いだ。

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