プロローグ・5
外は眩しかった。
手に持ったバッグがずしりと重い。この大剣はこんなにも重いものだったか。
そろそろ夕方に差し掛かり、赤色の陽射しは建物によって遮られていても眩しい。あの通りが如何に暗かったのか思い知らされた。
大通りには人が溢れている。太陽が出ている時間帯なら霧が発生することもないため、今のうちに買い物を済ませようとする人々が多いのだろう。その波に私も飲まれ、ふらふらと歩いていると、突然目の前に小さな影が躍り出た。
どん、と軽い誰かが私にぶつかり、情けないことに蹌踉めいてしまう。誰だろうと視線を動かし、その小さな主をすぐに発見した。十歳前後の女の子だ。ぶつかった際に目でも回したか、頭を振っていた。その弾みで左右二つのテールが揺れた。
「あ、すみません」
私が謝ろうとしたのに、先に謝られてしまう。
「いえ、こちらこそ申し訳ありませんでした。よそ見をしていたものでね」
「それじゃ、お互いさま!」
にっこりと笑ってそう言ってきたので、私もつい笑みで返してしまう。
「ええ、そうですね。お互い様です。これは二人だけの秘密ですよ」
「うん、ひみつね。まかせて。ひみつを守るのは得意なのよ」
そういって胸を張る少女。
「神父さまも何か買いに来たの?」
「え、買いに?」
「だってこの時間って、買い物の時間でしょ?」
思わず空を見上げると、赤く染まった広い空間が目に飛び込んでくる。先程まで観察していた人々は買い物をしていた。ならば同じ場所にいる自分もその人々と同じに見えるということだ。
「ああそうですね。確かにそんな時間帯かもしれません」
「なら、買い物ね。わたしもいっしょに買い物してあげるよ。神父さま、この町に慣れてないでしょ?」
「へえ、どうしてわかるのですか」
「だって、見てたもん」
「見てた?」
「テースお姉ちゃんと話してるとこ!」
「テースさんと……ああ、もしかしてシャングリラ孤児院の」
「うん、あそこでいっしょに住んでるの。テースお姉ちゃん達と。ぜんぶじゃないんだけど、ちょっとだけお話聞いちゃった。ごめんね」
「いや、気にしないでいいですよ。大して面白くもない話でしたしね」
「そっかー。うんうん、おもしろくなかったもんねー」
ぴょこんとテールが跳ねる。
「そうだ、わすれてた!」
「わすれてた?」
「えっとね、テースお姉ちゃんが、今度神父さまを食事にさそいたいって言ってたよ」
「私を?」
「そうそう、神父さま。ほかの神父さまや神官さまは孤児院に近付かないから」
それもそうだ。あの教会は神教官府にとって微妙な建物だ。本来ならばケープ市に宗教は一つということで潰す予定だったものを、行政官府が無理矢理止めさせたのだという。その抵抗運動にはあのセーラも関わっていたというが。その所為か、セーラという名前もまたこのケープ市にとって曰く付きとなった。崇拝する者や嫌う者、様々な感情を混ぜた名前だ。とにかく市民から慕われているという話は聞いたことがある。
「テースお姉ちゃんも人が良いから、だれでも誘っちゃうところがあるんだよね~」
「ははは、なら私は危なくないと」
「でもお姉ちゃん、人を見る目はあるから」
あっけらかんと言ってのける。なるほど、確証なんて何もないが、納得してしまった。けど少し正しくないな。何しろ『私が良い人』とは限らない。
「それじゃ神父さま、お買い物にいきましょ!」
少女に手を引っ張られると、突然のことでたたらを踏んでしまう。
「わたしはアンナ。神父さまはお名前なんていうの?」
「私ですか、私は」
ここへ来てから、一度も名前で呼ばれたことがないな。
「ベルホルト・ブランド」
「ブランド神父ね」
アンナは可愛らしく笑った。自分の名を呼ばれるのがこうも嬉しいなんて、今まですっかり忘れていた。
「じゃあ、お買い物いきましょ!」
ただ職務を全うする事というのが支配していた頭の中に、すぅと柔らかい空気が流れ込んできた。
買う物なんて何もない。
ここに思い出を残す必要も無いんだ。
けど、ここはこの小さなレディに付き合うことにした。
何か、テースに買ってあげられるものが無いかを探すのも良いだろうなんて思いながら。
結局テースへのプレゼントはさほど高くもないペンダントとなった。神の使いらしく十字を模したペンダントだが、ただでさえ飾り気のない少女だ、このぐらいなら良いだろう。
しかし品物は明日渡すことにする。孤児院のみんなと食事というのは本当に楽しそうではあるが、今夜はやることがある。食卓に同伴するのはまたの機会としよう。そして、その日を楽しみとしよう。
昼間の内に確保した宿屋を出ようとしたら、その宿屋の主人が驚いて私を止めようとした。お客さんここの夜を知らないのかいと。だから私は答える。この霧は観光名所になりますよ。
どの店の扉も戸も、きっちりと閉められるような構造をしている。霧が家の中へ入ってこないようにするための配慮だろう。その割には二階はさほどきちんとした造りではないことに疑問を持っていたが、夜の街へ繰り出してみてその理由が明らかになった。
昼と夜の温度差は結構ある。いわゆる放射霧というものだろうか。
この霧はある一定以上の高さで止まり、それ以上上にはいかない。つまり二階に届くか届かないかといった程度で止まり、一階にあたる部分はほとんどこの濃霧に覆われてしまう。
しかもこの霧は夜の闇と相まって、視界を効率よく奪う効果があった。月光が差し込む場所ならまだしも、一歩外れれば喩え街灯があろうと腕を伸ばせば見えなくなる。そんな慣れない街の中を来いと、奴は指定してきたのだ。私が迷ってしまうことを期待したのか?
だが、さすがにそういう話も無いだろう。私は壁づたいに、幾つ目の角を右に曲がったか、あるいは左かを、頭の中へ叩き込んだ記憶を頼りに歩いていく。これで迷うことなく目的の場所へ行ける。
ここまで霧が濃いと表だろうが裏だろうが変わりなかった。本当にここは昼間に訪れた場所だろうかと疑いつつ、歩を進める。バッグを置き、中から剣を取り出した。この霧の中では何が起ころうとおかしくはない。それに剣を取り出したところで周囲から見られるわけでもないのだ。
すると右手の方向から人の気配がした。私は警戒して剣を向けると、地面を足で摺る音がし、益々警戒心を強くした。
「ああ、そんな剣を向けないでください」
聞き覚えのある声だ。昼間の男か。
「ここで待ち合わせしようと言ったのはこちらです。先程から待っていたんですよ。ほら、こうしてきちんと情報をまとめてあるでしょう?」
目を凝らし、その男の輪郭を掴もうとする。だが霧と暗闇のせいで視界はまったく使い物にならない。
「ならばこちらに投げ渡し、数歩離れなさい」
「これはまた手厳しい。これでも苦労したんですけどね」
「いや、これは公平な取引です。これだけで君等は向こう十年は安全が保証されます」
「神教官府からの危険は、でしょう。行政官府は関係ない」
「それは君達の問題です」
「そりゃそうだ。んじゃ、言われたとおり投げますよ。それから数歩下がる、と。ああ、そうだ神父様」
男が数歩下がり、その資料を拾い上げたところで、そう呼ばれた。
「あんた、夕方近く、この近くでその男とやりあったんだって?」
「……」
「沈黙ですか。そいつはいけないですよ。こんなところで神父が殺した死体が発見されるなんて、あってはならないんですよ。殺すなら郊外にでも出てください。この町に余計なことを持ち込むと、ちょっと怖いところが動いちまうんでね」
「怖いところ?」
「ああ、それはこっちの話です。神父様が知っても詮無いことですよ」
くつくつと嗤いながら、男は闇の中へ消えていったようだ。嗤い声はすぐに消えた。
「ふぅ……」
溜め息をついて、私は急いで宿へ戻った。
あの男が持ってきた情報が信じられるのかどうか。
私は宿屋で借りた部屋に戻り、マッチに火を付けて蝋燭へ火を移した。弱々しい灯りとはいえ文字を読むには事足りる。それで目が疲れるぐらい、どうってことはない。
男の持ち込んだ書類には以下のようなことが書かれていた。
神教官府の聖堂に並べられている像は合計七つ。聖母を中心とし、その左右にそれぞれ三体並べられているのだという。そもそもきちんとした聖堂は首都のしか見たことがないが……。首都のは聖母ではないのだが、ここでは聖母だと。──どういうことだ。いや、聖母の像がないわけじゃない。シャングリラ孤児院も教会だった時代、聖母として飾っていたと思しき像があるではないか。その七体の奥の部屋に神がおられるという。我々の宗教とは微妙に異なる価値観がそこにある。
だからこそ疑問だ。
どうして神教官府が嫌う元教会に重なるような聖母を置くのだろう。そこを直に調べたいところではあったが、私みたいな者がこの町で最も清き場所に足を踏み入れるのはなんとも恐れ多いことだ。
まぁ、それは私にとって小さな事である。
問題は私が探している背徳者だ。その男がそう呼ばれるのにはもちろん訳がある。その男は元々神教官府の神官だったのだ。神官という位ならば神教官府の聖堂に足を踏み入れることを許可される。だからこそ聖堂まで行け、像を盗めたということになる。盗まれた像は一体だけだった。聖母とその周りの像がどれほどの大きさかはわからないが、神官が楽に持ち運べる程度だ、おそらくはそんなに大きくないのだろう。もしかしたら聖母を囲む天使を模した代物かもしれない。なら、小さくても納得が出来る。
男の名はコンラディン・プデラー。年齢は四十二か。そのまま何もせずに神の従僕として生きていけばもう少し高い位を狙えただろうに、どうして愚かな真似をしたのか。そう、神に逆らうなどしなければ私のような者に狙われることなどなかったはずだ。神官なら巡回神父の存在を知っているだろうに。
――どちらにしろ明日だ。
像を盗んだ後もケープ市から出て行かなかったのには訳があるのだろう。どのような訳かは知らないが、おそらくその理由が在る限りここから出て行くこともない。だからこそ明日、決着を着ける。
そして全てが片付いた後、テース達と一緒に食事をし、その後にこれを渡そう。渡した後はこのケープ市を去ることになるが、この忌み嫌われる身であろうとその程度の楽しみを抱くのは悪いことだろうか。
とても楽しみだ。このケープ市でそんな思い出が出来るなんて思いもよらなかった。
だから、私は明日中に全て片付ける決意を固める。
──この十字架に誓って。
朝になり、太陽が顔を覗かせる前の時間、私は宿屋を出た。
それはここにいつまでも居ないという意思表示であり、今日で奴に引導を渡すという決意でもある。
朝になると霧が引いてようやく街らしい姿が露わになってきた。あの霧は本当に歩くべき道を隠してしまい、ろくに先も見えやしない。かなり酷いものだ。
けど、それも今日まで。
プデラーがどういった訳でケープ市を出ないのかなんて察する必要もないが、それはこちらにとって好都合である。しかも神教官府──元同職から追われる身だ。当然表通りには出てこられない。裏を歩き回り、調べ尽くせば見つかるだろう。巧妙に建物の中へ隠れているかもしれないが、それは私の身分を使ってあぶり出せば良いだけのことだ。神父が一人の男を捜している、協力しなければそれなりの代価を払うことになると脅せばいいだけのこと。誰も彼も教会──ましてや神教官府を敵に回そうなんて思わないし、それ程危険なことをするのなら男一人簡単に差し出すだろう。
湿気った地面を歩くと、ジャリという音がする。
耳障りな音だ。荷物を背負い、なんとなく気になるその音の数を数えながら、私は先を見据えた。ケープ大通り。人は昼間には遠く及ばないが、それでもちらほらと私を通り過ぎる。誰も私に目を合わせないし、私も目を合わせない。
それが奇妙なのはただの錯覚だ。誰だって通りすがりの人に目を合わせようとしない。
ふと、その先に見覚えのある人影が目に映った。
「ハンス?」
手に何か持っている。なんだ、紙切れ? 紙切れの束だ。
「おはようございます」
無視するのも悪いと思い、そう挨拶をすると、ハンスは顔をこちらに向けて「あ、おはようっす」と返してくる。
「朝早く大変ですね」
「いや、別に大したことじゃないけど……神父さんも早いですね。なんかあるんですか?」
「いや、毎朝この時間には起きているので、習慣ですね。それよりもその紙の束は?」
「ああ、これ?」ハンスはそれを持ち上げて言う。「新聞ですよ」
「あ、新聞ですか。なるほど」
新聞なんて首都ぐらいでしか普及していないものと思っていたが、驚いたな、この市にもあるのか。そういえばここ数年、新聞の普及がめざましいという話を聞いたことがある。新聞自体の歴史は長いが、少し離れた村とかになると売っても利益に繋がらないとかで、全国的に見ればまだまだ発展途上といったところだが。
「向こうで売ってますよ」
「でも、新聞にしては大量に持ってますね」
「ああ、一週間分だから」
「一週間? それはまた……」
「朝早く起きるのって、辛くってさー。ついついこうして毎日じゃなくて一気買いしちゃうんです」
「とてもわかりやすいですね、それは」
小さく笑いながら、ふとその新聞が気になってきた。首都にいた頃は時折読んでいたが、ここ最近は新聞なんて単語を耳に入れたことすらない。
「それは、向こうの角で売っているのですか?」
「そうだけど」
「それでは私も一部購入してみることにしましょう」
そう言うと、案外意外だったのかハンスはぽかんと口を開いてしまった。
「新聞を読むなんて、似合わね~!」
「それはひどいな……これでも結構、世間のことは気に掛けているんですよ」
「へぇ。って、急いで戻らなきゃ。すみません、ちょっと弟と妹の目が覚める前に戻らないといけないんで」
「ああ、それは大変だ。急いで戻りなさい」
「すいません」
「気にしないで。ほら、目が覚めてお兄ちゃんが家にいなかったらビックリするでしょう」
「そうですね」
一度頭を下げてから、ハンスは小走りに帰っていった。その姿を見送ってから、私は新聞を買いに先の道を右に曲がる。するとすぐに新聞売りがいた。
「すみません」
それなりに年齢のいった老人だった。声を掛けるとぼんやりとしていたのか、少し後れてから「おっと、すまない」と言われる。
「一部二十マクだよ」
「ありがとうございます」
「ん?」
紙幣と新聞を交換すると、新聞売りの目が私に向けられた。
「あんた、神父さんかい」
「はい。巡回神父です。よく牧師と間違えられるんですが、あちらは元は同じでも宗派が違いますので」
「だなぁ。三年ほど前にもこの町でそんないざこざがあったよ。……しかしまぁ、今日は宗教関係の人と縁があるのかねぇ」
いざこざとはあのセーラに関わることだろうか。
セーラといえば、あの孤児院にいるテースを思い出す。出来るだけ早めに仕事を終えて、彼女に渡したいものがあるんだ。私は彼女のことを詳しく知るわけではないが、こんなことをするのも初めてなので、どうしても心が浮き立ってしまう。良くないな、これでは緊迫感が薄れてしまう。
「毎朝こんな時間に、大変でしょう?」
「これが仕事だからな、別段大変なんざ思ってないさ。それよりあんたのほうが偉いと思うよ。見た目、まだ二十歳そこそこってところじゃないか。それでこの国を廻ってるんだ。色々大変な目に遭うこともあるだろう」
「いえ、私もこれが仕事なので。それにですね」
私は一つ、付け加えた。
「この町で良いこともあったんですよ。それが嬉しいんです」
「それはいい。いい顔だ」
新聞売りは深い皺をさらに深くし、笑顔を作った。
「わしはコンラッド。神父さん、名前は?」
「ベルホルト・ブランドです」
嫌みのない素直な笑みを向けながら右手を差し出した。老人はそれをしっかりと握り返す。
「貴方に神のご加護がありますように」
──だが、私に幸せなど訪れない。
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