プロローグ・4

 教会の扉が閉じられると、途端に汗が噴き出した。

 身体中が酸素を求めるように、心臓の鼓動が激しくなる。脈拍も上がっているだろう。震える両手は酸素を求めてもなお足りず、心の底から安堵出来る場所を求めていた。


「……あの少女は」


 この恐怖の意味は知っている。あの少女はあの僅かな時間で私の心の中を見透かしたのだ。この私の心をだ。私は巡回神父となった瞬間、心を閉ざして生きてきた。そうしなければ普通ではない巡回神父である私の心などとうに砕けていただろう。そう、巡回神父とは二つの種類がある。一つは教えを広めるために世界各地を廻る純朴な神父。もう一つは神の名の下、神に逆らう者を処罰する純朴な神父だ。


 ──私は、後者に類する。


 普段は前者でありながら、いざとなれば神のために牙を剥く狩人となるのだ。この行為は神に知られてはならない。神は潔癖であり神聖である。我らはその神を傷つける不届き者を始末する影の者だ。表舞台と裏舞台を演じる道化なのだ。

 その道化が恐怖を感じ、逃げ出した。

 たかが街の少女一人になんていう笑い話だ。私は恐怖を取り払う訓練をしてきたんだ。何も畏れることなど無い筈の私を恐怖たらしめた正体がわからない。


「恐ろしい……?」


 ふと、あれは本当に恐ろしかったのか、疑問に思えてきた。


「何故私は、恐ろしいなどと」


 恐怖を感じないのならば、別の感情が身体の中に生まれたのではないか。恐怖など忘れて久しい。どういうものかはっきりと思い出せない。その私が瞬時に恐怖するだろうか。


「しない」


 もう一度あの少女に会うべきだ。

 もう一度対面すればその正体がわかるはずだ。

 そう思い、閉じられた扉を開こうと顔を上げ──

 教会の前に、一人の男が立っていた。


「……あなたは?」


 ただ突っ立っているだけなのだろう。しかし、その目は私に向けられていた。こういう人間を私は知っている。大体が神を求めてやまない、心に病を負った人間だ。心に傷を負うというが、私は病という喩えのほうがしっくりくると思っている。


「神父様」


 男はふらりと身体を傾けると、途端に膝を地面について両手を合わせた。


「お、おれは……とんでもないことを……!」

「どうしたのです?」


 こういう場合、こちらは決して慌ててはならない。冷静に、そしてしっかりと相手を見据えて対応するのだ。


「つまが……妻が、自殺をしたのです……ころされたんじゃない。じさつしたんです……! おれのせいだ、おれが……」

「落ち着きなさい」


 ここでは駄目だ。建物の中で話を聞かなければ。

 そうなるとすぐ目の前の聖堂ぐらいしかないだろう。丁度良い。もう一度テースと会える。

 男を立たせてから、もう一度教会の扉を開く。中の聖堂では女性を模した像の前でテースが何事かを祈っていたが、すぐにこちらに気付いて振り返る。


「神父様、その方は?」

「懺悔です。お話を聞きますので、少しだけここをお貸し下さい」

「わかりました。それでは適当な場所をお使いください」


 出来るだけ前列の端を借りて、男を座らせる。


「あの、神父様」

「なんですか?」

「私は席を外していたほうが、いいですよね?」

「ええ、お願いします」

「い、いや!」


 席を外そうとしたテースを、男は引き留めにかかった。


「て……テースさんにも聞いて欲しい!」


 どうしてそんなに必死なのか。


「……ミュラーさん、わかっているとは思いますが、私はセーラ様では」

「ええ、ええ、それでもお願いします。セーラ様が居ないのならば、この教会の聖女は貴女様しかおりません」

「私は聖女ではありません。お願いですから、それは止してください」


 少しだけ困り顔のテースを見かね、彼女と男の間に割って入る。


「ミュラーさんといいましたか、貴方の罪を神の下で告白なさい」


 ここは孤児院とはいえ元教会だ。どちらかといえば神教官府に属するとはいえ、元は同じ宗教である神父ならば咎められることもないだろう──そう勝手に解釈する。この場での懺悔ならば男も罪を告白するに違いない。

 男は項垂れながらとつとつと話し始めた。


「おれは……神に一生連れ添うと誓った妻を裏切ったんです」

「どのようにして?」

「自分でも意識してなかったんです。けど、妻から見ればあれは不倫だった。俺はただ困っていた女性を助けただけなんです。それからお礼をしたいと言われてちょくちょく会うようになったんですが、いつしか深い関係になっていって……。でも、神に誓って手は出してないのです。妻は俺の言葉を信じてくれなかった。妻は俺を責めた。けど、俺は……妻の言葉を聞かなかった」

「伴侶は……」

「あいつは、あいつで別の男を作って……ああそれも俺の所為だ。俺が彼女の言葉を聞かずにあの女性と会っていたからだ。その男に会って、俺を散々後悔させた後、死ぬ気だった……いや、死んだんです」

「つまり貴方は、自分の行為によって伴侶を追い詰め、自殺させたというわけですね」


 簡単にまとめると、それだけで衝撃だったのか、男は赤くなった目をこちらに向けてきた。


「……そうです」

「では、その罪を受け入れなさい。罪を受け入れ、伴侶に許しを請いなさい。それでも許されなければ、許される努力をなさい。人は一生掛けて努力をするのです。貴方はこれから一生を掛けて、許される努力をなさい」

「許される、努力……」

「それが貴方の救われる道です。努力が実れば、いつか貴方の魂は神の元へ召されることでしょう」

「……俺は」

「だから、ここでお泣きなさい。そして今日は休み、明日から懺悔の日々を送るのです。人は休まなければ生きていけない。そして懺悔しなければ生きていけない。貴方は今後、そうして許しを請う日々を過ごし、罪を洗い流していくのです」

「……」


 ミュラーの目は私から像へ、そしてテースへと移されていく。


「おれは……そうすることで、救われるのでしょうか?」

「それは私が判断することではありません。全ては大いなる神の意志」

「そうか」


 男は立ち上がった。

 でもまだ危うい。足下がしっかりとしていない。しかしそれでも自分で立ち上がり、出口へと向かっていく。

 扉の前で立ち止まり、男は少しだけ私を見たようだった。


「神は望めば現れるのでしょうか」


 望めば……か。

 そんなこと、私にはわからない。私はただの神父だ。それでも私の口は勝手に動き、喉は勝手に伸縮を行う。


「望めば現れるでしょう」


 それを聞き安心したのだろう、男の手は先程よりも幾ばくか力強く扉を開いた。そして外へ向けられた足はまだ頼りなくとも大地を踏みしめる感触を伝えてくるようだった。

 ミュラーの背中が消えた頃、テースは自分の前で重ねていた手の片方を持ち上げて、顔にかかった髪をそっと掬った。それからすぐに手を下ろす。私はその一部始終を見ていた。

 テースは小さく呟いた。


「どうして神様を望むのでしょう」


 問いではない。──おそらくは。


「望まなければ、どうなるのでしょう」


 そんなこと、きっとどんな聖職者だろうとわかりはしない。知りもしない、ましてや答えなど無い問いには意味がないのだ。だからこそ彼女のそれは問いではなかった。


「テースさん」


 今の彼女には先程のような動揺を感じない。平常心でいられることに安堵した。一日の間でこんなに心を揺さぶられたのは初めてだ。


「貴女がああいう懺悔を聴くのは、いつものことなのですか?」

「いえ、私はそんな大層な仕事には就いていませんから、こういうことはありません。主にセーラ様がお聞きになります」


 セーラ様、か。この市に住む人達にとって特別な名前なのかもしれない。そのセーラという女性の正体はおおよそ察しがつく。ならばどうしてそうなったのか、そして私の求める情報を持っているのか否か、それが知りたかった。

 しかし長居は無用だ。私みたいな者は出来るだけ一カ所にいないほうがいい。先程、テースに感じた奇妙な感情も今や無い。


「それでは、今度こそ失礼しますよ」

「はい。また何かありましたら」

「……そうですね」


 にっこりと笑う少女を前にして、すぐに去らなければと諫める自分が現れた。おかしいな。私の中の何かがころころと変質する。


「また、貴女に会いにきたいですね」


 なんてとんでもないことを口走っているのだろう。




 教会から離れ、大通りからも離れるために裏通りを歩く。

 本来なら日の当たる世界に住む神父が、こんな日の当たらない暗い道を歩くのなんて滅多にあることではない。普通の神父ならまずしないことだろう。そもそも一般的に知られている神父は私みたいに大きな荷物を背負うこともない。この背中の荷物は私の盾となり、周囲に私が獲物ではないことを伝える役目を果たしている。こういう裏に通じる人間というのは、私みたいな存在をよく知っている。それを教える意味もあって、大きな荷物を背負っているのだ。


 これだけの大きな街になれば表と裏が存在するようになる。山奥や海沿いの小さな村は一丸となって生活を支えなければ生きていけないのだが、ある程度の経済力があり生活水準も高くなれば、我々人は個々で生きていく余裕が出来る。個々になれば、それだけ様々な人間が発生し、いつしか差別化が生まれ──あるいは計られ──表と裏の二面性を持つに至る。そういう傾向はおそらく世界中どこを探しても見受けられるのではなかろうか。所詮は人だ。そういった根源的なところは全て同じだろう。


 ここもそういった二面性を象徴する場所だ。


 古びた建物は使われなくなって久しいのから、今でもまだ誰かが住んでいるものもある。崩れ落ちるまで修理はされない。どれだけ建物が泣き叫ぼうと、ここに住む彼らは決して耳を貸さない。酷く悲しい現実だ。

 表に住む連中はこういった彼らのことを見て見ぬふりをする。それは決して悪い事ではない。お互い様だからだ。ここに居る彼らも表に住む彼らを疎んじ、もし連中が一歩でもこの裏へ踏み込めば容赦なく牙を剥く。逆に裏の住人が表へ一歩踏み出せば、裏のルールとの違いをはっきりと理解せず、最終的には警察機構が動くことになり最後は逮捕される。本当にお互い様なのだ。


 その裏通りを私は歩いていた。

 見た目は表の人間である私が、だ。


「神父様」


 建物の影、その奥から一人、上手く姿を影で誤魔化しながら私を呼び止めた者がいる。


「あなたのような巡回神父が、どうしてここに来られましたかね?」

「人を探しています」

「人、とは」


 声からして男だ。彼は警戒も恐怖も感じさせず、ただ興味だけを引き出しているように思えた。それはおそらくその者の狙いなのだろう。そうすることによって私の出方を窺っているのだ。いくら裏の者でも教会の人間に手を出すことはしない。神教官府が本気で報復をすれば彼らなど一瞬の間に殲滅させられるからだ。

 だが、彼は私を巡回神父と呼んだ。ただの巡回神父相手ならわざわざそう呼ばないだろう。巡回神父、特に私みたいな立場の者は基本的に秘密裏に動く。普通の神父ならば教会の加護もあるだろうが、私が殺された場合に教会がどう動くかは、ケープ市へ来てから取った行動如何による。だからこそまだ手は出さないだろうと思うのだが。


「貴方達に手を出すことはありません。ただ、主を裏切った者を探しているのです」

「それはまた大事ですな。それでは、罰を下すために?」

「おおよそ主の行うべき行為を私如きが行えましょうか。私はその者を主の元へ送るだけで、罰するのは主です」

「これはこれは恐ろしい。それでは我等もささやかながら協力することにしましょう。お目をつけられては敵いませんからな」

「ならば情報を頂きたい」

「なんなりと」

「その者は黒い髪に青い服を着ています。そして神教官府から盗んだ主の小さな像を持っているはずです。心当たりはありませんか?」

「神教官府にある像ですか……これはまた、予想以上に大変なことをしでかしてくれたもんですな」


 神教官府の偶像というのは力の権威を示しているという。それを盗むという行為がどの様な意味を持つのか、その男はすぐに察したのだろう。明らかなる反逆行為。盗みそのものについてではなく、その者が取った行為がこうして巡回神父を呼ぶ問題になったという重要性。影に潜む者から自然と深い息が吐かれるのを察する。


「ということは、知っていますね?」

「ええ、ええ、そういう厄介な人間なら即座に差し出しますよ。ただ、残念なことを伝えなければなりません」

「残念?」


 その者が嗤った。──顔は見えないはずなのに、どうしてかそんな気がした。それにあてられてか、自然と私の身体も引き締まるようだった。


「その像は破壊されていますな。男はこの町のここへ流れてきた際、奇声を上げて像を破壊したんですよ。その時は何の像かまで分かりませんでしたが、そういうことでしたら……まぁ、そうなりますね」


 なんてことだ。壊されていたか。元々回収は絶望的ではあったが、よりにもよって微妙な市で盗み壊してくれたものだ。せめて残しておいてくれたなら神教官府の勢力圏で私が力を振るうことに対する緩和剤にでもなってくれただろうに。

 それにしても『奇声を上げた』か。


「何か、と聞きたそうですな。協力を惜しまないのでお教えしますよ。そう、私達は貴方に協力を惜しみませんから」


 つまりここには決して手を出すな、そして余計な騒動を持ち込むなと明確に伝えてくる。


「そいつは、こんなものは神を模していない、と狂ったように叫んでいました。いえいえ、当方の言葉ではありません。そいつの言葉です」

「……」


 模していない……。

 どういうことだ。他宗教の人間だという可能性はあるか。この宗教に敵する宗教の一派が送り込んだ者か。いや、今は昔と違って相手の出方次第によって戦争が起こるほど緊迫した状況ではないはずだ。だからといって情報収集は怠らない?

 だったら尚更そんな危険な真似はしないだろう。私のような人間が追ってくる可能性を全く考えなかった訳でもあるまいに、そんなことをしたとは。

 これはその者の素性を調べる必要が出てきたかもしれない。敵対する宗教か、錯乱しただけか、あるいは。


「申し訳ありませんが、もう一つだけ頼まれてくれないでしょうか。報酬は神教官府による十年間の手出し無用の保証です」

「――それは有難い。神父様はつくづく我々を理解してらっしゃる」


 やはり嗤っている。それに理解しているとは、私に対してなんていう嫌みだ。


「その男のことを、詳しく」

「……今夜、もう一度ここへ来てください。それまでには調べ上げておきましょう」




 裏通りの随分奥まで来てしまったようだ。少々迷いながら出口を求めて歩いていると、ここが如何に薄暗いかがわかる。夜になると発生する霧の余韻が物陰に残っているのか、空気すら重く感じられた。とはいえこのケープ市にとって夜の闇と濃霧は同一の物という認識だろう。夜になると発生する霧。その霧は本当に濃いというが、一体どれ程なのだろう。

 濃い霧に紛れてというわけではないが、ふらりと濃い影の中から誰かが現れた。

 その姿には見覚えがある。中肉中背の黒髪の男。長い間風呂に入っていないのだろう、煤汚れていた。いや、実際に見たわけではない。その似顔絵と背格好から奴が誰なのかわかっただけだ。私はついつい笑みを浮かべてしまう。調べるまでもない。目の前にそいつが現れたのだから。

 神に逆らう愚者へ制裁を加える時がようやく訪れた。


「あ、あんたが」


 男は手に何かを握っていた。長い金属の棒だ。なるほど確かに凶器だ。あれが頭に直撃すれば怪我どころの話ではない、十分に殺傷能力のある武器だといえる。

 だが、些細な問題だ。たかが素人の持つ金属の棒。人を殺すために作られた道具ではない。

 私は背負っていたバッグの紐を解き、中からそれを取りだした。男の顔が明らかに引きつる。男の凶器をまったく凶器とはさせない、正真正銘、殺人をすることのみを追求した道具がその神聖なる姿を現す。殺す、という明確な意志を埋め込まれた道具はそれだけで対立者を圧倒させる何かがあるらしい。持ち手にも重圧がかかり、対峙する者は己が運命を受け入れるだろう。


「我が教会の掟に背き背徳者よ」


 両手で持つべき大剣を片手で掴み、真っ直ぐに男へ向ける。


「これは我らに可能な最大限の慈愛である」


 慈愛?

 嘘だな。自分でも笑ってしまうほどの嘘くささだ。


「主は慈愛を望み──罪人をも愛してくださるだろう」


 それもない。

 神がどう思ってくださるのか、私にはわからないのだから。そう口にするということは、つまり嘘をついていることに他ならない。

 しかし。

 ──私は神を信じている。


「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 男が絶叫した。おそらくは私を殺しに来たのだろうが、巡回神父とはいえただの神父姿に騙されたのか、あんな棒きれ一つ持てばなんとかなると浅はかに考えた結果がこれだ。私は場慣れしているが、男はそうは見えない。たった一つの武器に動揺し無様にも逃げ出そうとしている。

 逃がすはずもない。

 剣をゆらりと動かし、男に迫る。

 男は反転し、その場から逃げ出した。だが遅い。その程度で私から逃れることは不可能だ。その足の遅さ、心の中に潜む恐怖、惨めに上下する両腕、どれもが哀れとしか思えず、いっそここで命を絶てば今後一生恐怖に彩られる人生を歩まずに済むだろうという憐憫が頭の右端辺りで生まれた。

 すぐに男の背中へ追いついた私は、剣を振り上げて──そこで止まる。


 ……なんだ。

 何かが、おかしい。

 私の剣が動かない?


 力を込めようとしても剣を宙で支えるのみで、それ以上はまったく動こうとしない。まるで剣が意志を持っているようだ。そんな馬鹿な、そんなことなどあり得ない。明確な殺意を形にしただけの、いうなればただの大剣が意志を持つはずもない。


 それなのになんだ。

 何故、この剣は動こうとしない。

 硬直している間に男はどんどんと私から離れていく。逃げていく。このまま見失ってしまうのか。なんてことだ、この剣が言うことを聞いてくれさえすれば今ので使命を果たせたのに。

 神の御意志に反してしまう!


 ──神の、御意志?


 その言葉が妙に引っかかった。


「これは、主の御意志だというのか」


 そう呟いた途端、いきなり剣が重さを取り戻し、危うく腕を捻りそうになった。

 身体が震えている。

 これは、先程テースと出会った時の感情より、遙かに強い感情だ。身体の奥底から頭を擡げて私を見ている黒い感情がいる。そいつは主である私を飲み込もうとゆっくりと近づき、喉頭を抜けた霧の息が魂に触れてきた。

 恐怖だ。

 これは、恐怖だ。間違いない。恐怖だ。

 本物の恐怖だ。

 忘れていた恐怖を簡単に塗り替える程、強烈な恐怖だ。

 あの男からではない。あの背徳者からではない。もっと恐ろしい、もっと高等、次元の違う世界に住まう何かが私の傍に(『彼女』は私を見て)いるのだ。(『彼女』は私の一挙一足全てを見ておられる)信じがたい何か。


「……」


 汗が噴き出し手足が凍える。

 男の姿がとうとう視界から失われる。それからしばらくして私は身体の自由を取り戻した。がくりと膝を突き、荒い息を必死になって整える。


「今のは……」


 今のは、なんだ。

 何がいたのだ。錯覚? そんなものじゃない。私の身体は自由を奪われ、信じられない恐怖を埋め込まれた。そうだ、信じられない恐怖だ。

 今のは、今のは本当に現実か!

 夢の中の出来事ではないか。私は立ち上がり周囲を見回してから、裏通りに誰もいないことを確認する。誰もいないか。確かにこんな場所では誰かが通りすがることなどないだろう。あの男もそれを見越して私を殺害しようとしたのだ。

 けど、誰もいない。

 どうしてそんなことが疑問に思えるのだ。まるで誰かがそう操ったのだといわんばかりではないか。どうかしている。私はどうかしている。

 心が平常心を取り戻せない。身体はようやく息を整えたというのに、心だけは今でも息切れている。

 しばし顔に手を当てたまま立ち尽くし、それから剣を仕舞う。


「外へ」


 そうだ、外へ出なければ。

 バッグを背負い、私はケープ大通りへと向かっていった。

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