プロローグ・3

     ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




 よう。

 お前さん、夜の闇が怖いってこたあるかい?

 無い? おいおい嘘をついちゃいけねぇなぁ。俺っちにはわかるんだぜ。人ってのは闇を畏れるもんさ。なーに、恥じることじゃない。人間だって獣の一種さ。本能で畏れるもんがあったって別におかしかないってことだ。何しろ俺っちにだってあるんだからよ。

 夜のお月さんが綺麗なのだって理由があるんだな、これが。あんな黒い海に、まるで女神様のような神々しさでぽっかりと浮かんでやがるんだ。そりゃ綺麗に映りもするさ。俺っちみたいな真摯な心に負けぬとも劣らずってやつだ。けどな、そんなお月さんですら見劣りしちまう存在ってのがいるんだぜ。信じられないだろ。ほらよ、今日が満月で雲一つなけりゃ、夜空を見上げてみな。そこには手が届きそうで届かないでっかい満月があるだろ? その満月の光ってのはなかなかに強烈だ。

 それすらも見劣り、いや、霞んじまうんだ。

 この町の濃厚な霧ですらその美しさに驚嘆し、この町の隅でこっそり生きる獣たちも息を潜めてやり過ごそうとする。そんなのがいるんだよ。

 そうだ、彼女はそこにいるんだ。

 この俺っちが唯一付き従う、唯一絶対の存在だ。

 誰も逆らえないし、そもそもその姿すら見えないだろう。見えたとしたら、そいつにとって幸か不幸か、願いが叶うことになっちまう。彼女はそういう存在さ。でもよ、それを恨んじゃいけねぇよ。だってよ、それはあんたらが望んだことだろ。彼女の所為じゃあない。

 お月さんを背中に背負ってる女神様が、教会の屋根に立っている。彼女はすっと指を差した。

 その身体に不釣り合いな巨大な鎌を、軽々と片手に持っている。長い髪が靡く度に月の光を反射するから、俺っちは羽を広げてこの闇夜へ飛び込んだ。


「行こう」


 彼女は小さく呟いた。


「今日も──」




     ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




 肩に担いだかなり大きなバッグを地面に降ろす。その重さに土がもわっと浮き上がった。


 夜は濃い霧が充満するという噂だが、どうやら昼間は乾いているらしい。地面の乾燥具合から想定するに、霧は濃くとも雨はさほど降らない地域なのだろう。如何せん私自身がこの地へ足を踏み入れるのが初めてだし、さすがに気候についてそこまで調査をしていなかった。――元々長居をするつもりがないから、という意識がそうさせてしまったのだろう。

 長旅を乗り越え草臥れた靴で踏み込んだこの街、先程告げたように夜になると異様なまでに濃い霧が覆うここをケープ市という。


 私が調べた情報によれば、この市は相当に古い。


 この市に昔からある神を信仰する宗教の起源は私の崇拝する神と同じらしいが、そちらのほうを詳しく調べようにも時間的な問題から、資料に細かく目を通していない。私の持つ知識は一般人よりやや多めといったところだろうか。町の人間達は相当に信心深く、かつ同じ神を崇めているという理由から我が宗派への鞍替えも存外行えたらしい。とはいえ彼らがその宗教替えを意識していたかどうかは不明だが。とにかくそれが十八年前か。当然、違う宗派が入ってきて即座に広まるのならば苦労などしないが、他の場所に比べれば相当ましな方だったという。幾ら二つの宗教が対立しているとはいえ、元が同じなのだ。極めて醜悪に対立しているのは都市部ぐらいなもので、一旦地方に出ればその境目は曖昧だ。ただそれらをまとめて一つにしただけということだろう。


 ここが町だった時は行政官府のみが取り仕切っていた。町民による投票によって五人の議員が決められ、彼らが町を治めるという仕組みだ。国との交渉も彼らが代表となって行ってきた。この国の行政官府という仕組みは別段特別な訳でもないが、本来ならば市長、あるいは町長が代表となり、その下に幾人かの町の議員がついて政策を行うのが習わしだ。そういう意味では長を決めずに五人が対等のトップとなって政治を行ってきたこのケープは少々特別かもしれない。よく治まっていたものだと感心すらする。とはいえそれも過去の話であり、行政官府と神教官府の両方が政治を担うようになってからは五人体勢も崩壊し、現在市長はトルベン・アデナウアー一人のみとなっている。恐らくは強制的に数を減らすことによって行政官府の力を削いだ、といったところだろう。


 昔からこの町を収めてきた行政官府は町民達に馴染んで久しいが、三年前に作られた神教官府によってそれまでの制度が一変した。この国の国教がケープ市に直々の官府を置くと宣言したのだ。その頃には宗教が十分に広まっており、尚かつ信心深い彼らにとってそれは魅力的だったと思う。


「それで、と……」


 神父だから通った町の教会(ここの場合は市であり、神教官府が教会の役割を果たしている)に寄らなければならないところだが、生憎任務に就いている巡回神父はそういう仕事をすっ飛ばして良いしきたりだ。だから挨拶に行かない。

 そもそもここの長はあまり良い評判を聞かない。悪い噂だけを聞くというわけでもなく、良いことと悪いことが入り混じって聞こえてくるのだ。この市を見事我等が神の下で一つとさせたのは見事な技量だが、裏では何をやっていたか計り知れない。つまりそういうことだ。

 別に誰が相手だろうと会話をする分には構わないのだが、関わらないでいられるならそうしたほうが無難である。とはいえ一応神教官府の受付程度には顔を出し、巡回神父がケープ市を廻っていると教えておいた方が後々面倒が無くて良いかもしれない。連絡こそ行っているだろうが実際に顔を出すのとそうでないのとでは相手の印象や対応も変わってくることがしばしばある。そう思い、私の足は自然に神教官府へ向かっていった。宿探しはそれからでも充分間に合うだろう。


 バッグを背負って歩き出す。その神教官府は実によく目立っている。

 町の中心に立ち、顔を上げて一瞥した。

 神教官府と行政官府はほぼ町の中央にある。競い合うようにして高い棟を築き、互いに向かい合わせているようだった。実際は行政官府が先に建てられていたので、神教官府が同等かそれ以上の権力を持っているという意味を込めてわざと同じ高さで対立するように建てたのだろう。行政官府の棟すぐ脇には役所となる二階建ての、横幅のある建物が居座っている。神教官府は棟を挟むようにして教会と神官を育成する機関である学校が設けられていた。その学校へ進学するためには行政官府へ届け出を出し、身辺調査の上で入学届けを配布されるという手順を組む辺り、この二つの関係は相当複雑なのだと察することが出来た。


 なんだかね、とてもめんどくさい町だ。


 町、というと神教官府を打ち立てたアウグスト氏が怒りそうだが、口に出さなければ良いだけのことだ。それに私は彼に会ったことがない。

 神教官府の受付嬢に同業者の証であるペンダントを見せて「訳あってここに来ることとなったイスカリの巡回神父です」と一言告げる。それだけで相手は何も訊いてこなくなるし、私に関しては余程のことがない限り教会から何かをいわれることもなくなるだろう。とはいえ、受付嬢がその理由を知っているとは思えない。

 神教官府からやや離れて改めて見てみると、やはり大きな建物だと、新鮮な驚きがある。ここまで高いのは首都でもそうそうお目にかかれないだろうな。

 さて、早速情報収集だ。

 こういう勝手のわからない街はとにかく情報収集の出来るきっかけの場所を探さなければならない。となると酒場が一番良いのだが、さすがに神父の格好でそういう場所もないだろう。だからこそ同業者を捜すのが一番手っ取り早い。けど、私みたいな特殊な同業者は見つけるのが大変だ。けど、見つけたら互いの情報を共有出来る。私達に『手柄』はない。あくまで先に事を解決するのを最優先とする。神を信じる者が集まり、神の下、その志を一つとするからこそそれが可能なのだ。理解した上でそれらを利用することで効率が飛躍的に上がる――




 行政官府というのは実に面白いところだ、という印象を受けることがある。

 私を案内した背広の男を横切って、行政官府長室へと入った私を迎え入れてくれたのは、市長その人だった。市長――トルベン・アデナウアーは温和な笑みを浮かべて私をソファに座るよう促す。上質な柔らかさを感じながら私は彼に意識させるようバッグを軽く揺らして手を組んだ。威圧的にはならず、しかし教会に属する人間としての立ち振る舞いは常に意識しているつもりだが、この場合はより強く出す必要がある。

 当然、このトルベン・アデナウアーなる男がそれで怖じ気付くなどとは微塵も考えていない。彼もまたこの特殊な環境下において市長を勤め上げている人間だ、そう易々と精神的な揺さ振りに動じてはくれないだろう。


「さて、最近の状況についてお聞きしたいのですが、宜しいでしょうか」

「正式な挨拶はまだ済ませていませんな」


 トルベンの返しに思わず苦笑しながら、私は立ち上がって手を差し出す。


「――これは失礼しました」


 名を名乗り、作法に則って礼をする。


「これはこれはご丁寧に」

「そんなことより」


 元より馴れ合うつもりはないので、早速本題に入らせてもらう。駆け引きが必要ならそれに応じるつもりだが、そもそも互いにそのメリットが無いことは重々承知だ。――そのはずだ。私の知る限りではだが。

 いかんせんこのケープ市というのは幾つか奇妙な点が確認されている。外から手に入れた情報だけでは掴みきれない不気味さを感じるのは私が積んできた経験からのものだろう。


「例の叛逆者の調査についてですが」

「ああ、お話は伺っておりますよ。……そもそもそのことについては神教官府側が情報を把握しているのでは?」

「残念ながら警察としての機能は行政官府側にあります。故にそれらの調査結果を直接聞くなら当然こちらのほうが早い。行政の手続きだとどうしても一日待たなくてはなりませんからね」

「はは、お役所仕事ですからな」


 自虐、というよりもわざとらしく笑みを浮かべる眼前の男に、心の中で僅かに舌打ちする。やはりこのトルベン・アデナウアーという男は一筋縄でいきそうにない。……というよりも元々ここの街を管理する連中は一癖も二癖もあり、さらには経歴すらも不明な連中が多かった。普通、役所の人間と言えばそれこそ経歴など透明に晒されて然るべきなのに、このトルベンという男はケープ市に豪邸を持ち、妻と娘がいる程度の情報以上に必要なものが得られなかったというのは怖ろしいところだ。


(あくまで表は、だが)


 裏から見て回ればそんなこともなく、まさに行政官府を支配するこの男が過去に何をしてきたかという大まかな情報を得ることは可能だ。ただしそれは私自身にとっても少々危険な道を往かねばならない程のものだったが……。


「いえいえ、そこは正式な手続き故に、です」


 そういう手続きを責める気は無い。トルベンはテーブルの上に置かれた花瓶に目を落としてから、再びこちらに顔を向けた。


「それでベルホルト神父の調べたい事についてですが、例の像が盗まれた案件ですな」

「……そうです」


 神教官府から情報が流れたとは疑い難いが、しかし互いに情報の盗み合いをしているなんて暗黙の了解だろうから今更だ。

 それに水面下ではどの様に繋がっているか分かったものではない。私は教会に逆らった者という言い方をし、協会側からもそれ以上の情報を語るなと言われているのだが、奴は具体的に何が起きたのかを的確に告げてきた。


「ふむ、犯人は独自に調べていると思いますが」

「行政官府側での調査結果もお聞きしたいと思いまして」

「警察にそういう被害届は出ていないと聞いています」

「そうですか。では貴方はそれ以上何も知らないと」


 そこで彼は少しだけ言葉を飲み込んだようで、私に目を向けたまま無表情となり、少しだけ経過してから笑顔を作る。


「もちろんです。そもそも神教官府の問題に我々が口を出すことなどあり得ないし、向こうから手助けを要求することなどないでしょう?」

「それもそうかもしれませんね」


 つまり彼は情報を手に入れているものの、神教官府の落ち度には一切関わらないといっているのだ。翻せば協会側もまた自分達に関わるなと言外に述べているようなもので、このケープ市の奇妙な関係と状況を如実に表現しているようなものではないか。そこで「さて」と頭の中で呟いたのは私自身の立場だ。神教官府という存在は教会の一部でしかないが、私は神教官府直々の部下ではない。故に彼らの立場に立って己の行動が阻害される謂われもないのだが、互いの【顔】というものがある。どの様に動くのが今後余計な波を立てずに済むか――いや、そもそも彼らは私が来た時点でそれらの波が立たないことを諦めている可能性もあるか。


「分かりました」


 私は席を立つ。

 これ以上この男から情報を引き出すことは無理だろう。ただ行政官府の立場と状況把握の具合が分かれば良い。――元々この町の人間がどうなろうと、私には関係の無いことなのだから。 




「あれ、神父なんて珍しいな」


 突然、そんな話し声が聞こえて私は振り返った。行政官府を出て少しだけ歩いたところのここは、なるほど神教官府立である例の学校が近いのか。神の教えを説き、さらには一般常識や高度な学問を教え広めることによって優秀な人材を数多く世に送り出してきた学校がケープ市にはある。ケープ市にある大貴族の子達の多くはそこに通わされることが多いと聞くが、実際には優秀なら誰でも入学可能だと聞く。国の政策の一環も関わっており、将来を見据えて優秀な人材を抑えておきたいといった狙いもあるのだろう。


「本当ね。あ、こっちを見てくださったわ」

「相変わらずだなぁ、アンジェラは」


 二人組の学生だ。あの白を基調とした制服は間違いなくその神教官府立の学校に通う生徒だろう。まったくというわけではないが、似たような制服の宗教学校なら首都にもある。少年の方はただ服を着ている印象でそこに神へ対する敬愛の印がまるで見当たらない印象だが、正反対なことに少女の方は清楚な感じがした。おそらく二人の家の位が相当違うのだろう。ウェーブがかった髪も綺麗に整っているし、丁寧な歩き方がそれらしい。


「挨拶をしていきましょ」

「え、マジか?」

「私達は神に仕えるんですから、当たり前よ」

「いや、そういわれても」


 そんな二人が面白くて、つい私は笑ってしまった。


「お二人は学生ですね」


 だから先に話しかける。少年の方は「だろうなぁ」とぼやき、少女の方は軽く驚いた様子だ。まさかこちらからとは微塵も頭に無かったのだろう。


「あ、ええと、は、はじめまして神父様」

「初めまして」

「き、聞かれてしまいました?」


 余程良い育ちか、敬虔な生徒だ。あるいは少し天然か。あの会話が聞こえてないと思っていたのだから、聞かれた時の恥ずかしさは結構なものらしい。一方、少年の方はそこがわかっていたらしく苦笑いを浮かべていた。


「ほんの少しだけ。そこの君の声の方が大きかったぐらいですよ」

「俺っすか」


 この少年は敬虔とはとても言い難い。神官学校に通っているというよりは地元のスクールに通っているような感じだ。


「だったら、アンジェラはあんまり恥ずかしくなかったな」

「もう、ハンスってば」


 隣の少年の腕をを軽く手の平で叩いた少女は、すぐにはっとしてこちらを見てから顔を赤くする。


「す、すみません、はしたないところを」


 アンジェラ、という名前か。確か行政官府市長であるアデナウアー市の娘もそういう名前だったが、やはり同一人物だろうか。疑われないようにその顔を観察すると、なるほど目元とかが似ている気がする。奇妙な偶然があったものだが、えてして世の中はそういうものだ。


「気にしなくて良いですよ。君達ぐらいの年齢ならそれが普通なのですから」とまで言ってから、そうだ、ついでに道を聞けばいいと私は続けざまに口を開く。

「それよりも少々道を教えて欲しいのですが」

「道、ですか。はい、わかる範囲でよければなんなりと」

「シャングリラ教会という場所なのですが」

「教会……?」


 アンジェラが少しだけ首を傾げた。ハンスはすぐにぴんと来たらしく「ああ、あの孤児院か」と呟く。それでアンジェラもどこか思い出したようだ。


「セーラ様の、あの孤児院でしょうか」

「いや、誰が所有しているものなのかまでは」

「ちょっと道が複雑だな」


 頭を掻きながら、ハンスがそう言った。


「なら、俺が案内しますよ。ちょうど帰り道にもなるし。アンジェラは稽古もあるだろ。先に帰ってろよ」

「あ、ハンス、いいの?」

「いーの、気にしない」

「あ、うん、わかったわ。それでは神父様、申し訳ありませんが……」

「ああ、もちろん構わないですよ。私の方から頼んだことです。あなたが気にすることはありません」


 微笑みながら言うと多少は安心したのか、笑みを返して頭を下げてくれた。私はそんな少女に「神のご加護を」と印をきる。


「それじゃ神父様、いきますか」


 ハンスが促してくるので、私は頷いた。




「神父様ってさー」

「え?」


 なんとなく黙ったままになっていた通り道、その沈黙を破ったのはハンスの方だった。私は上手く喋る切っ掛けが掴めずにいたというのに、彼はその空気を読んだのか、気にしていないといった様子で言葉を続けてくる。


「なんでさ、神父になろうと思ったわけ?」


 なんて問いをしてくるのだろう。

 とても神官学校へ通っている生徒とは思えないが、思春期の生徒だ、色々と悩みを抱えているのかもしれない。ケープ大通りから曲がった小道具屋の並ぶ店を歩きながら、私は何故神父になったのかを思い出した。

 その思い出した部分をいくつか切り取り、少年に話す。私の生い立ちは立場は当然伝えず、言葉を濁したり変えたりしながら「よくある」神父への道をとつとつと語った。

 話を聞き終えた少年は「ふぅん」とぼやいた。


「それで神父になろうと思ったわけですか。なるほどねぇ」

「ハンス君でしたね、名前」

「ええ、そうっす。ハンス・ハルトヴィッツっていいます」


 ――どこかで聞いたことがなかったか? と首を傾げそうになるのを抑えながら、私は笑みを浮かべる。


「とても良い名前ですね」


 旅を続けていると会話をする機会も減るから、こうしてゆっくり話すのも久しぶりだった。


「君は何故神官を目指しているのですか?」

「ん、ああ……まぁ、色々とありまして」


 何か言いにくいことでもあるのだろう。それも、神に仕える私相手では特に喋りにくい類のものだ。隠し事をしているからといって私が追求することでもないので、この話はこれ以上しないことにする。


「俺から聞いといて応えないってのも、なんかすんません」

「いや、いいですよ。人には話し辛いことが沢山あります」


 謝る少年を前に、私はハンスという少年を少し見直した。元々の性格故に熱心な生徒ではないなと低い評価で見がちだが、おそらくそんなことはないのだろう。今の質問だって己の将来を真正面から見据えているからこそ出てきたに違いない。そういう将来有望な若者は見ていて気分が良いものだ。

 決して私のようになって欲しくはないが……自分の教え子のことを思い出しながら、そんなことを考える。かつて巡回神父……つまり教会に所属する裏の稼業に就きたいと願ってきた少年が私の元に訪れたことがあった。今はどうしているか分からないが、それこそ様々なことがあり、彼は今や巡回神父として役目を果たしていることだろう。その実力、残忍さ、冷酷さ、容赦のなさは私の比などではない。故に隙があり危なかなしいところもあるが、私の元を離れた以上、もうそれらは自分自身の責任だ。生と死は神の名の下、己の力のみが管理する。それこそが『我々』なのだから。


「あ、そこがそうです」


 指差した先に見えてきたのは、これはまた大きな建物だった。先程の官府に比べればまだ小さいものだが、街の教会にしては少々サイズが大きすぎる気もする。


「んじゃ、俺はここで」

「あ、ハンス君」

「どしました?」

「ありがとうございます、道を教えてくれて。私は君に道を教えてあげることはできないけど、自分の道は自分で決めるものです。それが将来において間違っていたとしても、今、信じている道ならば後悔はしないはずです」

「……神父様、あなたは」

「私から言えることはそれだけです。それでは、神のご加護を」

「──神のご加護を」


 そうして私達は別れた。




 教会を前にして、門のところに掲げられた一枚の板を見る。そこにはシャングリラ孤児院という文字が刻まれていた。なるほど、神教官府によって教会の地位を奪われ、今はこうして孤児院として機能しているわけだ。

 その元教会を歩いていくと、なるほど確かに手入れはされている。教会自体は相当年代物で隠しようもない老朽化こそそこここに見て取れるが、それを気にさせない生活感がここにはあった。教会の神聖さなどここには微塵も無い。そんなものは見た目だけだ。しかしこれほど大きく立派な教会からその空気を取り除くのに、一体どれだけの期間を要したのか――

 真正面の扉に手を掛けたところで、私の前を黒い何かがかすめていった。驚いて一歩引き、その正体を急いで見極めようと首を動かす。


「……鳥?」


 黒い小鳥が私の目の前を横切ったのだ。扉と私の隙間はそんなに無いはずだが、随分と器用なものだ。


「ごめんなさい」


 そんな時、謝る声がして私は振り返った。


「驚かせてしまいましたか」


 そこには、美しい少女がいた。

 白い服に身を包んだ少女だ。一見聖女と見紛うばかりの神々しさに私は両目と心を奪われてしまったようだ。一切の汚れを排除した長い金色の髪に、雲一つ無い透き通るような空の色をした瞳。教会の正装に似た服装がまた神秘性を物語るようだ。

 目が離せずにいると、少女は「あの?」と尋ねてくる。はたと我に返り「あ、ああ、すみません」と詫びた。いけないな、神に仕える者がこんなことでは。


「ごめんなさい。子供達がファイリーをいじめるので、いつもああして逃げるんです。あ、ファイリーというのは、あそこの枝で羽を休めている雀のことです」


 そちらへ目を遣ると、確かに枝の上で悠々と羽を休めている小さな黒い鳥がいた。黒い雀など初めて見る。その木の根本では数人の子供達が「ファイリー降りてこーい!」と大声を上げて騒いでいた。


「みんな、お客様が来ましたので、静かにしてくださいね」

「はーい!」


 なんて素直な子供達だろう。邪念の無い、まさに子供らしく成長をしていることに少し感動する。


「お騒がせしました」

「いや、気にしないでください」

「それと、ごめんなさい」

「え?」

「教会だと思ってお訪ねになられたのでしょう。けどここはもう孤児院になっておりまして」

「いや、それは知ってますよ」

「そうですか」


 ほっと胸をなで下ろした様子の彼女は、私の脇を通り抜けて聖堂への扉を開ける。結構な高さと幅のある扉だから重いのかと思いきや、案外あっさりと開いた。少女が怪力なのかと一瞥してみれば、あんな細い腕のどこに力があるだろうか。


「でも、中に用事はおありでしょう?」


 微笑みながら言ってくる。


「そうですね」


 まるで心が見透かされたようであった。


「ここに、セーラという女性がいると思ったのですが」

「ああ、セーラ様のお知り合いの方ですか。申し訳ありません。只今セーラ様はお出掛けになられてます」

「そうですか、それならばもういいんです」

「いえ、それだけではないと顔が語っています」

「──顔が? そうかな、私はこれで」

「この教会が孤児院になった理由を知りたがっています」


 絶句し、声が出なくなった。

 別段顔に出していた様子はないというのに、どうしてそこまで見抜けるのだ。


「背負っている物も重そうですし、一息ついてください」


 その背中に背負っているものの正体を見抜かれたのかと、一瞬だけ手に力を込めてしまう。そんなことはない。荷物が大きいのだからそう言ってくれただけに過ぎないし、普段ならそう思うのだろう。

 ――何故だ、何故今目の前の少女からゆるりと流れてきた言葉は本当の事を見抜いていると勘違いしてしまったのか。

 滲む汗を拭う気すら起きず、私は手近にある聖堂の長椅子に荷物を置いた。


「正しくは孤児院にさせられたのでしょう」


 唐突に話し始める。瞬時に悟った。彼女は彼女なりのペースを守っている。それが崩されない自信もあり、崩されても良いという余裕すらあるのだ。そのペースは誰もがついていけるものであるが、特に私みたいな相手の話を聞き悟りを促す者には反論しがたい何かがある。あるいは彼女から滲み出る空気がそうさせているのか。


「この町が市となった瞬間、この教会の運命は決まりました。この教会は町の中心であり、町そのものだったといいます。だから教会から神を取り上げ、自分たちのものにして、町から市へと変え、唯一の信仰を己が物としたのです」

「……それを寂しいと感じたのですか?」

「いいえ」


 少女はそれでも微笑んでいた。


「そんなことはありません。あそこに神はおりませんから」


 ぞっとして、思わず背後を振り返った。冷たくなったのは背中の表面だ。なんだ、なんでいきなりそんな──。


「だから、私は寂しくありません。むしろそれを知っている人達の方が、ずっと悲しく感じていることでしょう」

「あなたは聖職者ではないのですか?」


 物事を一歩引いたところからの見方といい、神を語るときの口調といい、神父である私と通ずるところがあったのでそう訊いてみるが、少女は小さく首を横へ振った。


「違います」

「そうですか。しかし、まるで」


 そこで私は言葉を止めた。


「いや、なんでもありません。忘れてください」


 微笑む少女に対し、これ以上の言葉は続けられなかったのだ。


「……それだけで充分です」


 言うことを聞かない右手。外へ逃げだそうとする左手。どちらも私の本能であり、意志だ。しかしそれらを誤魔化しながら、ゆっくりと息を吸った。ここにこれ以上居てはならない。私は何もそれを望んではいない。だからこそ踵を返し、ここを出ようとした。

 そこへ窓の隙間から黒い小鳥が舞ってきて少女の肩に止まった。白い服装に黒い鳥が留まると実に複雑な気分になる。白と黒の融合、似て非なる混じり合わない別物同志。それがピッタリだ。果たしてそう思うのは私だけだろうか。ステンドグラスの彩色を施された幾つかの細い光の下、その少女は私を見ていた。

 硬直してしまう。


「申し遅れました。私はテースと申します」


 それでもなお、その姿は美しい。


「それでは神父様、ごきげんよう」

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