プロローグ・2

 霧の夜を過ごす方法はおおよそ二つある。重い霧は二階より下に留まる為に、二階まで上がって家で大人しく寝ているか、あるいはこの霧へ闇と共に紛れてしまうか。大概の、いや、このケープ市に住むほとんどの人間は家の二階へ閉じこもる方を選択する。この町の霧は濃く、例え月の灯りが強くとも決して地面にその冷たい輝きを注ぐことなく、自らの体内へ吸収してしまう。吸収された光は一体何処へ消えてしまったのか、少なくとも老人は知らなかった。霧は夜の闇を生み出すと共に、夜の間に起こる悲劇を完全に隠してしまう恐ろしい化け物へ質問する言葉など、誰も持ってはいない。


 霧に紛れて動く連中もいる。昼間は神教官府の影に怯えて生きる彼らは、夜にこそそのステージを見つけ観客の居ない劇場で静かに高らかに踊り続ける。霧の中には誰もいない。だからこそ彼らは霧に紛れるのだ。その所為もあるのだろう──住民が夜の町を出歩かないのは。幾ら霧が濃くても、その濃さに慣れ、平気な顔して歩く町人だっているはずだ。

 そんな彼らも霧の夜は最も懸念すべき時間帯でもあるのだ。新聞の準備をしながら老人はそれは何故だろうかといつも首を傾げてしまう。長年この町に住んできた老人は町の表と裏を知っている。つい数年前から昼間こそ町の活気も溢れているが、夜になると昔以上にひっそりと、誰もが息を潜めてしまっている気がしてならなかった。そう、数年前からだ。


 霧は去った。霧が去ると同時にこの町は朝を迎える。ケープの朝は実に短く、例え上流階級が住む都市と時計針の進みが同じで、太陽もまた同様に昇って来ようが、朝の時間だけは全く違っていた。老人は急いで支度をする。今日は少々寝ぼけてしまった。


 ──市民の味方、行政官府から支援を受けてここまでやってきたがなぁ……。


 老人は腰を叩いた。新聞は住民にとって欠かせない雑誌の一つだからこそ支援を受けつつこの歳までやってきたが、そろそろ身体の方がついていけなくなっている。朝に売るこの新聞紙は昨日の夕方に届くのだが、毎日馬車一杯の新聞が霧で湿気らないよう二階まで持っていくのは腰に堪えた。まだやっていける自信こそあるが、二、三年後はどうだろうか。

 新聞をまとめて馬車の上に載せ、馬を自分で引きながら冷え切った町を歩く。ケープという町を市と呼ぶのを、老人はどうしても好きになれない。ケープは元々町だ。人口こそそこそこにいるし、充分満足して暮らしていけるほどには発展している。首都程の華やかさはないとしても、それなりに進んだ町ではある。

 だが、市ではない。市と取り決めた団体を、老人は嫌っている。彼らはこの町の朝を決め、役割を決め、在り方を決めた。今まで町の行政を司ってきた行政官府に真っ向から対立し、自分たちが世界の代弁者と言わんが如くふんぞり返っている。それが神教官府であり、この市で唯一広まっている教義の中心である。


「嫌な世の中になっちまったもんだ」


 老人はぽつりとそう呟いた。

 新聞を引いていくと、晴れた霧の先から少女が一人、歩いてきた。見覚えのある姿を捉えると、老人は顔を明るくした。


「テースちゃんじゃないか」


 老人が頭に乗せた帽子を取ってぺこりと挨拶をすると、白い服に包まれた少女もまた丁寧にお辞儀をする。さらりと流れる金色の長い髪はとても柔らかそうだった。青い瞳は優しさを内に灯しているようである。


「今日も精が出るねぇ」


 新聞売りが渡してきた新聞を受け取りながら、テースは「いえ、コンラッドさんのほうこそ」と返事をした。少女の髪がふわりと風に乗った。

 老人──コンラッドはにっこりと笑った。少女は実に謙虚だ。今時の若者にしては珍しいと褒めてやりたくなる。


「それでは、あまり長居はできませんので」

「ああ、子供達の朝食かい?」

「ええ」

「大変だなぁ、孤児院も」

「いえ。私が望んだことですし、それに決して大変ではありません」


 笑顔のままで簡単に言ってのけるので、コンラッドは心の中で苦笑するしかなかった。目の前の少女はどうしてこうもしっかりとしているのか。


「それでは、これで失礼しますね」


 ぺこりと頭を下げて去っていく少女を見送り、それと入れ替わるように横の道からまたもや顔見知りが現れる。


「コンラッドのじーさん。一週間分の新聞まとめてくれー」

「まずは挨拶からだろう、ハンス」


 これだ。これが最近の若者だ。挨拶という基本的なコミュニケーションの始まりをすっ飛ばしてしまうのだ。しかも、注意したところで反省した様子がまったくない。本人に悪気がないというのも大きなマイナスだ。


「あ、ごめんごめん、おっはよーさん」

「……おはよう」


 いつでも学校に行けるようにだろうか、神教官府直神官学校の制服を着た男子生徒が幾ばくかの金をコンラッドに渡す。コンラッドはちらりと金に目を遣ると、なるほど金額は足りていた。


「まだ結構余裕がありそうだな」

「どこに行ったかわかんない親でも、金だけは大量に置いてったからな。俺がこうして学校行けるのもそのお陰だよ。そういう意味では感謝してるさ」

「でも、足りないか。……でもなぁ」

「おっと、その先はいいっこなしだろ。これは俺が決めたことなんだからな」


 にやりとハンスは笑った。


「んじゃ、一週間分の新聞は受け取った。いやー、とっといてくれて助かるよ。こんな早起きなんて一週間に一度しか出来ないからさー」

「何言ってやがる」


 弟と妹の面倒を見るために早起きしている少年を、誰が寝惚けていると叩くだろうか。思えば境遇こそ違うもののテースと似たようなところがあるようにも思える。親のいない少年少女。別段、この町は治安が不安定というわけでもないが、何か薄暗い闇が身を潜めながら暗躍している想像を掻き立てられ、コンラッドは左腕を右手でさすった。まさか彼らの親が何かの陰謀になんていうのは小説の読み過ぎだ。


「ほら、弟妹が起きる前に帰っちまえ。いいな」

「サンキュー。それじゃまた来週」

「来週な」


 元々綺麗に畳まれた新聞をさらに自分なりに小さくまとめて、ハンスは一旦家へ帰っていく。おそらくは新聞を置いた後に学校へ行くつもりなのだろう。彼は元々神を信じてはいない。この町では珍しいことだ。しかし、両親もいない家で二人の小さな弟妹を養っていくには手っ取り早く神官かその見習いになるしかないのだ。


「あの世界は、年齢じゃないからなぁ」


 だからこそ彼は飄々としながらも頑張るのだろう。自分の幸せなど微塵も考えることなく。


「すみません」


 そんなことをぼんやり考えていると、突然声を掛けられて我に返る。「おっと、すまない」と一言声を掛けてから「一部二十マクだよ」と新聞を差し出した。


「ありがとうございます」

「ん?」


 向こうから紙幣と共に差し出された手を覗き込み、ゆっくりと手から腕、顔へ目を移動させる。


「あんた、神父さんかい」

「はい。巡回神父です。よく牧師と間違えられるんですが、あちらは元は同じでも宗派が違いますので」

「だなぁ。三年ほど前にもこの町でそんないざこざがあったよ。……しかしまぁ、今日は宗教関係の人と縁があるのかねぇ」


 白と青を基調にした服はその宗教特有のものだった。宗教の中でも幾つか服の種類があるというが、コンラッドはさほど宗教に詳しくないので、適当に神父と言っただけである。その青年は巡回などという厳しい旅をしている面持ちではなかった。とても涼しげで、純粋に世界を信じている穏やかな心の持ち主だろう。──コンラッドはそう思う。

 こういう人間がいれば、きっとこの町の神教官府もちったぁマシになったろうになぁ。


「毎朝こんな時間に、大変でしょう?」

「これが仕事だからな、別段大変なんざ思ってないさ。それよりあんたのほうが偉いと思うよ。見た目、まだ二十歳そこそこってところじゃないか。それでこの国を廻ってるんだ。色々大変な目に遭うこともあるだろう」

「いえ、私もこれが仕事なので。それにですね」


 青年は一つ、付け加えた。


「この町で良いこともあったんですよ。それが嬉しいんです」

「それはいい。いい顔だ」


 コンラッドは嬉しくなった。


「わしはコンラッド。神父さん、名前は?」

「ベルホルト・ブランドです」


 嫌みのない素直な笑みを向けながらベルホルトは右手を差し出してきた。老人はそれをしっかりと握り返す。


「貴方に神のご加護がありますように」




 今日は朝から気持ちの良い連中と会うことが出来た。

 コンラッドはそれだけで一日が素晴らしいものになると確信を持った。普段はもっと口うるさい主婦やら出勤で苛々している男共を相手にしているが、そんなことすら些細な問題でしかないぐらい気分が晴れやかだ。

 今日は天気も良い。よし、馬も洗ってやろう。軽く馬の首筋を撫でながら売り切れた新聞籠の中を一瞥し、足取りも軽く家へ向かおうとした時だった。

 しゃんと空気の引き締まる音。


「しまった」


 ケープ大通りの人達が皆一斉に黙り込む。

 何もただ偶然黙ってしまった訳でもない。このケープ大通りはある時間になると誰もが一言も喋らなくなるのだ。口を噤み頭を下げ、彼らが通るのをじっと待つ。実質この町を支配している彼らが通り過ぎるのを地面を見守りながら待ち続ける。それはコンラッドとて例外ではない。

 コンラッドもまた顔を伏せる。彼らを見るのがなんとなく嫌だった。それに逆らったところで良いことなど何一つない。目を合わさず、記憶にも残さないように努めるのが一番の逃げ道だとコンラッドは思っている。

 その際だった。顔を伏せた先の視界に、奇妙な男が入り込んできた。


(なんだ?)


 その奇妙な男は一見蹲っているだけに見える。当然それだけでも何かあったのか勘ぐりたくなるが、コンラッドを当惑させたのはそれだけではなかった。その男は蹲り、両腕で自身を抱きしめその身体を震わせ、どんよりと濁った双眸をケープ大通りに向けている。男からはケープ大通りがよく見えることだろう。その男がいるのはケープ大通りに繋がる裏道への入り口なので、大通りからでもしっかりと姿が見えるのだ。

 朝と夜の境目を長年見てきた男の勘が告げている──あれは異常者だ、と。


(……まずいだろう)


 下手をすれは今から通る神官達にあらぬ誤解を招く恐れがある。軽いいざこざならいつものことだが、コンラッドは奴らのやり方がいたく気に入らなかった。奴らの宗教はこの町、いや、国教といっても過言ではなく、歴史も長い。コンラッドも別段神を信じているわけではないが、それでも子供の頃から教えられた宗教というのは切っても切り離せるものではないのだ。奴らをそれを利用する。自らの立場を正しく理解し、この国に根付いた、いうなれば国民全員が信じている神の祝福を『剥奪』する。


(ちょっと逆らっただけで天国へ行けないってんじゃぁ)


 誰も逆らえなくなる。


(なんだかんだいって、死後の世界は気になるしな……)


 だからこそ誰もこの町の神官に逆らわない。神の威光を振り翳す神の使者には誰も勝てないのだ。


「ちょっとあんた」


 いくら薬をやっていようが、その刑罰は重すぎる──コンラッドはそう判断し注意を促そうとしたが、男は老人に気付くなり「似非神官共が……」と漏らし、裏路地の奥へ引っ込んでいった。


「なんだぁ、ありゃ」


 呆然とその様を見守っていたが、周囲の空気が完全に切り替わったのを感じると、コンラッドもケープ大通りへ向きを変えてすかさず頭を下げた。

 そこを数名の神官達が通っていく。神官達の中心には神教官府の長たるアウグストという男がいる。歳は五十近いか、その程度だ。堂々と黒い髭を伸ばし、髪の毛は丁寧に後ろへ流している。

 その男はこの町、いやこの市は己の物だと誇示するかのようにゆっくりと堂々と大通りを歩く。その男が通り過ぎるまで人々は決して頭を上げない。逆らえば天国へ逝けないと信じているからだ。かくいうコンラッドもそういう理由で神教官府に逆らうことは出来ない。だが、気にくわないとは思っている。

 神官達が通り過ぎた途端、大通りは活気を取り戻す。活気を取り戻すと同時に、朝の時間が終わりを告げるのだ。神官達は一日の朝を毎日奪い去っていく。実際、彼らは三年前に断言したのだ──我々が歩いた後は一日が動き出す、と。

 本来ならば毎朝の儀式が行われる前にさっさと退散するコンラッドだったが、今日は調子に乗って逃げ損ねてしまった。


「コンラッドさんよ、あんたも逃げ損ねちまったのか」

「ん? お、スティーブじゃないか」


 よれよれのコート姿の三十前の男が右手を上げて挨拶をしてくる。柄からして神官に頭を下げるような男ではないが、大衆を敵に回したくない仕事に就いているので頭を下げていたのだろうとコンラッドは考えてみた。そうじゃなければ神官達に捕まり、今頃騒ぎが起きていてもおかしくはない。神官達の傲慢な態度は日に日に非道くなっていっている様だった。


「久しぶりだな、コンラッドさん」

「まったくだ。仕事が忙しかったのかい。とんと姿を見せなくなっちまったじゃないか」

「ああ、あんたも新聞売りなら知っているだろう」


 スティーブという男は刑事だ。まだ若手ながら相当な腕らしいと、コンラッドはとある記者から聞いたことがある。検挙率も相当なもので、この市では一位か二位なのだと。それ程の男が苦労している事件というなら余程の大事件なのかと訊いてみれば、スティーブはくつくつと笑った。


「大事件なのか大事故なのか、まったく判断ができないんでね。苦労してるんだよ」

「なんだいそりゃ」

「一週間前の事件、知ってるだろ?」

「一週間前?」


 コンラッドは首を捻った。一週間前の事件といえば……。


「ああ、あの看護婦の」

「それだ。その看護婦ってのが殺されたのか自殺したのか、または病気で亡くなったのか、判断が出来ないんだよ」

「そんなことがあるのか。記事では突然の発作だと」

「それが最も可能性が高いからな。だが、俺は突然の発作にしちゃおかしいと思っている。医者も訝しんでいたしな。だから俺はその女の身元を徹底的に洗った。すると埃が出てくる出てくる。あの女の旦那が不倫しててな、そのストレスから女も不倫に走ったんだよ」

「そりゃあまた、えらく生々しいなぁ。朝っぱらから聞くには刺激が強い」

「くく、まだ朝か。さすがコンラッドさんはひと味違うな」

「冗談はよしてくれ」

「いや、そういうところは尊敬に値する」


 煙草を取り出し、スティーブは火を付けた。


「旦那っていうのがな、人が良すぎたんだ。だから色んな女のカモにされていたのさ。それを知っていた女はおそらく何度も男にそう言っただろう。だが、男はそんな事実はない、あるいは人をそんな風に言うのはやめろとでも言ったか、兎に角聞く耳持たずだった。それが精神的苦痛だったんだろう。それはそうだ。自分の旦那が知らないところで知らない女に搾り取られていたんだ。どうにかしようと動いてもどうにもならない歯痒さは堪らないもんだろう」


 ふわふわと空中を漂っていた煙草の煙が一輪の風にまかれて消えていった。


「だから女は自分も同じ事をしようとした。そうすりゃ男の方もわかるだろうってな。そこで目を付けたのが」

「ああ、新聞で騒ぎになっていたな。第一容疑者ってやつか」

「いや、俺の目には殺人犯には見えなかった。あの男はおそらく白だな」

「それじゃ、犯人が他にいるっていうわけか?」

「それがわからない。女は別の男と付き合い始めた。その男との出会いも奇妙でな、自殺して死にそうになっていたところを助けたという。そういう偶然からか、二人の仲は一種異様なまでにスムーズに進んだ。だが、旦那の不倫は治らなかった。駄目だったんだ。あるいは自分の伴侶を信じ、不倫などしていないと信じたのかもしれん。今となってはわからんがな。そして女は男から自殺の話を聞いて、とあることを思った」

「そこら辺はスティーブ、お前の推論だな」

「いや、ほとんど最初から推論だ。当然調べてわかった事実もあるが、死んだ人間からはどうやっても話を聞き出せない」

「それもそうだなぁ」

「女は、自殺をしようと思った」

「……自殺、か」

「そうだ。これはその男から聞いたことだが、どうやら自殺未遂者を見て女は自殺することを思いついたらしい。余程追い詰められていたのだろう。これに関しては旦那の方にも罪があったな」

「スティーブ」


 コンラッドは話を遮って、顔を顰めた。


「旦那ってのを話すとき、どうにも違和感が拭えないのだが」

「なにがだ?」

「その旦那、何故過去形だ?」


 ぷはぁ、とスティーブの口から煙が吐き出される。今度は空中に留まることなく流れていった。


「旦那も死んだ」

「……死んだ、だと」

「死んだ人間を問い詰められないのと同様、今も生きているように話すのは滑稽だ」


 それに関しては何も言えないと、コンラッドは黙った。


「女が『自殺』した翌日、男もまた『自殺』したことになっている。あくまで仮措置だがな。新聞記事では突発的な死か、ゴシップ的に不倫相手が殺したことになっているが……あの男が殺していないとするなら、一体誰が殺したのか」

「ちょっと待ってくれ。それじゃまるで」

「まるで、殺人事件といってるじゃないか、か。ああ、ここまでくるとそれが一番しっくりくるかもな」

「どうしてだ。自殺する要因なら幾らでもあるじゃないか」

「……自殺するのに、どうして不倫相手を呼ぶ? 自殺したのに、どうしてその痕跡が残されていない?」

「なに?」

「自殺の方法は何だ。首を吊るか、手首を切るか、薬を飲むか、海に飛び込むか、迷わずの森に迷い込むか、火の中へ身を投じるか、そんなところか。だが、そのどれでもない。確かに心臓麻痺っていやぁその通りだ。しかしな、綺麗すぎる。どこにも外傷はないし薬を服用した痕跡もない。薬は傍に転がってこそいたが、解剖結果は飲んでいないと出た。それにな、あの顔は穏やかすぎたんだよ。不倫相手が居たからか? それは違う、あの女はあの男を利用したに過ぎない。そこに愛情なんてない」

「何を言ってるんだ、スティーブ」

「自殺する人間があんな顔をするのか? 死にたいと望んだ人間でも、あんな顔をするのか? わからない。数年間死に顔を見てきたが、わからない」


 スティーブは苦々しく顔を歪めた。


「あの女はな、笑っていたんだ」


 しかもまるで祝福を受けたかのようだ、スティーブはそう付け加えた。

 しばらく二人の間に空白が流れる。

 コンラッドは目の前の刑事が何に悩んでいるのかすかさず悟った。この刑事は優秀だ。新人の頃はどうだかわからないが、ここ最近は一目で自殺か他殺か見抜き、獲物を狙う鷹の如き鋭さで犯人を捕まえていたのだろう。だが、今度ばかりはそうもいかなかった。一目見て何も判断できず、ならばじっくりと観察してみようと踏み込んだところ、さらに迷宮へ入り込んでしまい、出口を失ったのだ。優秀すぎるが故に事件の不明瞭さをはっきりと理解し、困惑している状態なのだろう。普段なら事件の事などコンラッドに話さない。コンラッドどころか、一般人に漏らすようなことなどしないだろう。おそらくは無意識下でコンラッドに助言を求めているのだろうが、素人であるコンラッドに返答する術はない。

 このまま迷宮入りさせておけば益々深みにはまっていく。

 コンラッドはそう判断した。ならば気分転換なんかどうだろうかと。


「今朝な、結構気の良い連中と連続で会ってな」

「ほう」

「一人は孤児院で働いている少女なんだが」

「孤児院?──ああ、シャングリラか。元教会という。そういやあそこの管理人は元気にやってるのか? ここじゃ結構有名人だろう?」

「有名人なら何かあれば騒ぎになるだろう」

「そうか、そうだな。あれだけの事をやった人だ。騒ぎにもなるか」

「そこの少女が新聞を買いに来てくれたんだが、若い子はいいね、性格がストレートで汚れていない。次に買いに来た少年もなかなか活発でな。そう、旅の神父ってのも買いに来たよ。礼儀正しかったな。最近の若者にしちゃほんと珍しかった。まるで元気を分けてもらったようだ」

「そうか、そいつはいい。俺にも分けてもらえないか。すっかり汚れちまったからな」

「何言っとるか、わしから見ればまだまだ若造だろう」

「違いない」


 二人して笑いあう。

 これでスティーブの気が晴れればいいが、とコンラッドは思わずにはいられなかったが、そんな考えなど微塵も顔には出さずにその日は別れた。




 明くる日、コンラッドは馬車へ詰め込む予定の新聞に目を通していると、信じられない記事に目を見開いた。

 記事の内容はいつも通りの事件やら政治の話やらで飾られていたが、その中の一部、それも小さくだが、恐ろしいことが載っていたのだ。


「まさか……」


 新聞の記事は政治的圧力が掛かるとき以外は基本的に真実を載せている。新聞売りとしての経験上、コンラッドはそれを学んでいた。故にきな臭い記事ですら見抜く目を持っていると自負すらしている。しかし、その目が語っていた。この記事は真実なのだと。時に信じたくない出来事すら無情にも、経験豊富な目は伝えてくる。


「馬鹿な……」


 そこの記事にはこう書かれていた。


『昨夜未明、第十三番区画の裏通りにて倒れているベルホルト・ブランド巡回神父(21)が発見された。頭には鈍器による傷があり──』

『ブランド神父死亡時刻より十五分ほど前、一人の男がブランド神父発見現場よりたった数メートル離れている場所で死亡しているのが発見された』


 淡々と記事が連ねてある。それが恐ろしく真実味を増す効果を誘っていた。


「そんなことが」


 記事を書いたのは誰だ。

 コンラッドはすかさず目を走らせる。この新聞は書いた記者の名前が最後に必ず載っている。己の記事に責任を持つという意味らしいが、こういうときは役に立つものだ。


(こういう風に役に立たせたくないものだが……あった)


 今日は休業だと呟いてから、コンラッドは新聞を片付けた。




「アンドレアフ、という記者と会いたいんだが」


 新聞屋へ直に行くと、めんどくさそうに自分の机から立ち上がった男が指差した。その動作だけで立ちこめた煙草の臭いが掻き混ぜられて喉に絡み付くようだ。コンラッドは顔を顰めながら指差された方向へ視線を動かすと、そこには窓と、その下に誰も座っていないデスクしかなかった。


「馬鹿にしとるのか?」

「馬鹿になんてしとりませんよ、あの人自由気ままだから、外で一服してんでしょ。会いたければお好きにどうぞ」


 取り付く島もないとはこのことか。

 対応した男を睨むと、その男は顔を歪めて一歩引き、それから「そういや出掛けなきゃならないんだった」と言い残しさっさとその場を退散していった。


「根性無しが」


 悪態をついてから、外に居るという例の新聞記者に会うため、煙の充満した室内を出る。外に出ると、空気とはこんなにも清々しいのかと感動し、如何にあの部屋が煙草の煙でまともな環境じゃ無かったのか思い知らされた。つい背伸びをして深呼吸をしてしまう。清涼な空気は肺の中を洗い流してくれる。


「ウチの会社に何か用ですかい?」


 そこへ、一人の男が話しかけてきた。ちらりと視線を遣れば、見た目の年はコンラッドより少し若い程度だが、それでも十分な年齢だろう。スティーブのコートよりかは綺麗だが、それでも長年使っていると思しきコートに靴、片手には煙草の箱を持っていた。やや出ている腹をへこまそうともせず、まるで威張り散らしているかのように背を反らしている。


「あんたが、アンドレアフって記者かい?」

「ん、わしに用があったんですか。なるほどなるほど。──用件は神父撲殺事件ですかねぇ?」

「……」

「当たりって顔だ。いえですね、先程も同じ用件で尋ねてきた人がいてねぇ。その所為か、上の奴らの態度、悪かったでしょう? そりゃそうだ。神父が来たんだからなぁ。こっちとしても気分が削がれる」

「神父?」

「そう、神父」


 アンドレアフはにやりと笑った。


「あんた、その人知ってるんじゃないですか?」


(こいつは)


 コンラッドは素直に感嘆した。この年を取った記者はその分の経験もあるのだろう、話の運び方が実に巧みだ。まだまだこれから色々と問いを投げかけてこちらのことを探ろうとしてくるその態度は、今まで外で一服していたとは思えぬ程、頭の切り替えが早いことの証左だ。気を引き締めなければどこまでも情報を引き抜かれそうだった。


「わしが知っているのは死んだ神父の方だ。そっちのいう神父などわしは知らんぞ」

「そうですか、それは失礼しました。それではですね、えーっと、お名前はなんていうんでしょう?」

「コンラッドだ」

「ん、コンラッド……? ああ、もしかして新聞屋の。これはこれは、毎日世話になっております」

「わざとらしい礼など要らんわ。それより、あの記事は本当のことかね?」

「あの記事、ですか。基本的に嘘は書かないってのが信条でしてね。誓って言いますが、あれは事実です」

「……」

「昨夜、ちんぴらばかりの裏通りで神父が殺された。頭には打撲の痕があり、神父も格闘した形跡がある。頭への一撃が致命傷となったかどうかはわからないが、殴られた場所から死んだ場所まで、多少距離があったみたいですよ。神父が足を引きずって歩いた痕が地面に残ってたってんですから」

「ちょ、ちょっと待ってくれ」


 いきなりの情報を整理しきれず、コンラッドは手を振ってアンドレアフの話を一旦止めた。


「格闘しただと。あの大人しそうな顔をした神父が、か? とてもじゃないが信じられん」

「いえ、本当みたいですよ、これがまた。知っとりますか。巡回神父ってのは場合によっては神の意に背く者を処罰するっていう話。都市伝説みたいなもんだろうと俺も馬鹿にしてたんですが、今回のでちょっと考えなきゃならんなぁって思いましてね。考えてみれば巡回神父なんて、そういうのにうってつけなんですわ。殺したらそこの町を去ればいいんですからね」

「……馬鹿な、そんなことが。その証拠はあるのか?」

「ありますよ。証拠も無しにベラベラと推論なんざ並べません。何しろ彼は凶器を持っていた」

「み、見せてくれないか!」

「……ん~」


 アンドレアフはわざともったいぶって目を細めて唸ってみせた。それでコンラッドの様子を窺っているのだろう。


「それじゃ、今度はあんたの番だ」

「わしだと?」

「こっちは出せるだけの情報は出した。次はあんたでしょう。どうです?」


 先にべらべらと話したのはこれを狙っていたかららしい。等価交換といこうじゃないか、とアンドレアフの目が語っていた。とても逃げられるような雰囲気でもなかった。


「仕方ない。ただし、大したことはないぞ」

「大したことじゃなくても、話してくれれば良いんですよ。どんなネタだって真実が隠れてるんですからな」


 それでもあからさまに期待しているふうだったので、コンラッドは元々乗り気ではない上、さらに気後れしてしまう。

 昨日新聞を買いに来た客の一人だと話すと、アンドレアフはみるみるうちに肩を沈ませていく。一応断りを入れたのだから申し訳なく思うこともないと自分を納得させるが、それでもアンドレアフの気落ち具合はコンラッドをやや困らせた。


「はぁ……もしかしたら特ダネかもしれんと思ったんだがねぇ」

「それも証拠があってのことか?」

「いや、長年培ってきた記者の嗅覚ってヤツですよ。なーんか、ただ事じゃない気がするんですな、これは。あの看護婦事件といい、なんかおかしい……」

「……看護婦事件」

「ん、なんか知ってるんですかい、それについて」

「いや、新聞で知っている程度だ」


 昨日刑事からその事について色々と聞かされたことは黙っていることにした。神父の件とは関係ないだろうと判断したのだ。

 アンドレアフは煙草の吸い殻を携帯灰皿に押し込んだ。


「まぁ、いっか。これが証拠の品ですよ」


 スーツの裏ポケットから写真が一枚渡される。そこには普段はあまり見かけるような代物ではない凶器がはっきりと映っていた。


「大剣……」


 両刃の剣である。この国か、あるいは隣国で製造されたものだろう。少なくとも東洋のものではない。柄の形がそうではないのだ。問題はそれよりも刃にこびりついた黒い何か──モノクロの写真は正確に写してはくれてないものの、それが何かを淡々とだが克明に伝えてきた。持ち主はその写真に写ってはいなかったが、アンドレアフの言葉から誰の持ち物なのか、すぐに察しは付く。

 逃れられない現実を受け入れたのを見計らい、アンドレアフは名刺を差し出してきた。


「コンラッドさん。何かネタが入りましたら一つよろしく」

「……こんなジジィに入るネタなんぞ無いだろう」

「いやいや」


 新しい煙草に火を付けながら、アンドレアフはにやっと笑った。


「あんたみたいな商売だからこそ入る話もある。それを一番理解しているのは、あんた自身じゃないんですかねぇ」


 その通りだ。

 だからこそ迂闊に喋れないのだ。

 そう言い残して自分の職場へ戻っていくアンドレアフを見送った後、空が気になって視線を上へ向けた。強い陽射しが目に染みて、手で日傘を作る。

 空はこんなにも青い。

 それなのに、この町にはどんよりとした灰色の気配が見え隠れしているようだ。重くのし掛かるような灰色の空気が不思議なことに流れ行く風に乗って町の隅々にまで行き渡っていく……。

 それはおそらく煙草の煙よりしつこく人間にとりついてくるのだろう──コンラッドは身震いした。その空気は今の自分にも取り憑いている。あの記者にも、若い刑事にも、この道を行く老若男女全ての人にくっつき、離れないのだ。

 それは誰にも気付かれず、コンラッドのみが知っている。

 そう。

 何か、得体の知れないことが起ころうとしている。


 けたけたと笑う空気はそれを教えてくれているのだ。

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