死神少女
平乃ひら
Eins
プロローグ・1
公園の片隅。
外は暗くなって何時間経過したろうか。公園を通る人もほとんど見かけなくなるような時間帯だ。当然、昼間は溢れるような子供達も今やしんとして姿を消してしまっている。大人ですら見かけないのだ、どうして子供がいようか。
子供がいたら注意しなければならないだろうか──男は苦笑した。今更何を注意するというのだ。そんな時間と余裕と人間らしさはとうにこの手の平から滑り落ちたのではなかったのか。
ポケットから小瓶を取り出す。そこに貼り付けられたラベルには中身を詳細に記した記述が滑らかな字で書かれていたが、この夜の闇は文字を隠すには丁度良く、今は読めないでいる。しかし男はそんなことを気にせず蓋を開けた。
男は睡眠薬を規定を超える量を飲んで、そのまま永遠の眠りに就こうとしているからだ。
もう二度と目覚めることもなかろうと、擬似的な睡眠が甘美な匂いをもって男を闇へ引きずり込もうとする。規定以上の睡眠薬は人間を永久の眠りへ誘うには充分だ。男はその眠りこそ期待してこの世への未練を断とうとした。
そして眠りはやってきた。
──ああ、これで。
男はやっと心を落ち着かせることが出来ると、ひどく嬉しく思った。薬品を盗み、夜が更けるのを待つ間、誰かに知られはしないかと気が気でなかったのだ。どうして間もなくこの世を去るのに心臓を激しく波打たせなければならないのか疑問でならなかった。つくづく人はおかしなものだ。
そうだ、自分から命を絶とうなんて。
男は手を組み、来るべき終わりを待つ。
その瞬間こそ、人は聖者となるのだ。男はそう信じて疑わない。人はいつしか死ぬのだ、ただ自分の場合は少々早く終わりが訪れただけなのだ。
──その時、心の端っこで、僅かな違和感を覚えた。
目が覚めたらそこは白い病室だった。
ここはどこだろうと見回してみれば、なるほど白い部屋というだけあり、死者が行き着く先のそういう場所といえなくもない。だが、寝かせられているベッドはリアルな感触で、部屋の空気は少しだけ暑いと感じられる程度だ。
これは知っている感覚だ。
子供の頃、病気で倒れた後にこういう場所へ連れてこられたことを思い出す。部屋には幾つかのベッドが並べられていたが、そこに寝かせられている人は誰もいない様子だ。ベッドの脇にある腰の高さまでのタンスの上に淡い紫色の硝子瓶があり、そこに一輪の花が飾られている。白い部屋だからだろう、窓から差し込む陽射しが反射され、灯りがなくとも充分部屋は明るかった。
暑い空気の割には淀みが無く、僅かに開いた窓から風が流れてきているようだった。清涼な風に身体がいやがおうにも反応し、脳へ気持ちいいと伝えてきた。
「目が覚めましたか?」
その風に勝るとも劣らない清涼な声が、男を振り向かせた。
白い清楚な服に身を包んだ女性がそこにいた。──まるで天使だ、と心の中で呟く。神の使いと思しき女性を前に、男はそれでも確信してしまう。
「生きている」
「ええ、生きてます」
女性は静かに応えた。男はそれをとても寂しく感じながら、反対に安堵する。死から生還した人間の気持ちは、こういうものかと。
「運が良かったんです。私がちょうど看護師だったので、応急処置が間に合いました」
その白い清楚な格好は別に天使でも何でもない。看護師の正装だ。面白いもので、人を助ける職業の服がそう映るのは案外道理かもしれない。
「……貴女が俺を?」
「はい。見つけたときは驚きました。それで、どうして自殺したいと思ったのか訊きたくて、ずっとここで世話をしてました。貴方の目が覚めるまで」
「ずっと」
薬の後遺症だろう、まだしっかりと動かない身体を目だけで見下ろす形となり、さてどうして自殺しようとしたのか思い出す。だが、靄の掛かった記憶は曖昧で、言葉にするほど具体的な形とはならない。
「きっと」
男は、そこで一旦言葉を切り、言葉を模索する。
「きっと、死ぬしかなかったんだ。あの時の俺は」
それが最良の手だったのだ。あの瞬間までは。しかしいざ死を迎えられず、逆に乗り越えてしまった今、どうして自殺しようとしたのかが疑問でならない。何か嫌な事があった筈だ。それなのに男の心には何も残っていなかった。
それを全て伝えると、女性は微笑みながら男の手を取った。
「きっと、貴方は生きたいと思ったんですよ」
「生きたい……と?」
そうか──男は呟いた。
「なら、俺は救われたんだ」
自殺しようとした男とその女は、男が退院後もしばしば会うようになった。男はその事件の後、仕事がクビとなり、今は小さな飲食店でなんとか雇ってもらっている身ではあったが、決して後悔していなかった。むしろ幸せなぐらいで、自分には勿体ないと零すぐらいだった。それは女の方も同じだろうと男は思っている。男は女といる瞬間、とても幸せな気分でいられるし、女もまた笑顔を絶やさなかった。それはとても幸せな時間だ。
──幸せな時間だからこそ、長く続いて欲しかった。
男は終わりなど考えなかった。終わりなど無い。たとえその時が来ても、きっと二人一緒に迎えられる筈だと確信していた。
確信は、しかし、男を簡単に裏切った。
ある日、男は女に病院へ呼び出された。
もう夜も更けてくる頃に、だった。不思議だと首を傾げながらも呼び出されたのだからと行ってみれば、男はその光景にぞっとした。普段は使われない病室の一つに呼び出されて扉を閉めたら月の光が十分に差し込み、意外にも部屋は明るい。そのはっきりと見える闇の部屋の中央に、女は立っていた。
女はその手に睡眠薬を持っていた。いくら月光が明るいといっても限度はある。それでも男は見間違えなかった。あれを握りしめていた事があるからだ。全く同じものだ。
男は叫んだ、何をするつもりかと。女は答えた、当然死ぬつもりだと。とても冗談とは思えない口調に寒くなり、男は馬鹿な真似は止めろと叫んでいた。
「馬鹿な真似? では、どうして貴方はこの薬で死のうと思ったの?」
男は絶句した。かつて死のうとした人間が、どうして説得力を以て彼女を引き留められようか。体験者だからこそ自殺は間違っていると断言できる。だが、男は自殺しようとしたのだ。しかもその命を救ったのは目の前にいる女性なのだ。
そう、その女がいなければ男は死んでいた。あの夜、男は一生を終え、その後に訪れた幸せを噛み締めることなどなかったのだ。
だからこそ自殺は間違っている。人生を捨てるなんてしてはならないことだ。その先にあるかもしれない楽しさを自らの手で奪うなど間違っている。
「私は結婚してるの」
男は言葉を失った。──知っていたさ、とは言えなかった。心の片隅では別れてくれることを何度も願ったのだから。
彼女の旦那は根は優しいが、どうしても優柔不断だった。誰にでも優しくし、誰にでも心を許してしまう。『誰にでも』だ。そんな生活が耐えられないから女も同じ事をしようと思った矢先に、大量の睡眠薬を飲んで倒れていた男を助けたのだ。その瞬間、白羽の矢が立てられた。
それを策略をいうのなら男は見事に乗せられてしまった。女はそれで少しは未来が改善されることを望んだ。だが、彼女の夫は彼女が不倫していることに気付かなかった。夫は自分の妻を信じていたのだ。──自分自身が妻を裏切っていることなど、奇妙なまでに気付かずに。
「そして、貴方と付き合っていく内に、自殺を思いついたの。そういえば隣に居る人はかつて死のうとしていたな、というのを思い出して」
──なんてことだ。
男は絶望という痛みに胸の奥で悲鳴を上げる。彼女に自殺を思い起こさせる切っ掛けを作ったのは男自身だったのだ。彼女の手が瓶の蓋を開ける。男の力なら止められるだろう。しかし、男は打ちのめされ、呆然としていた。
「疲れた……もう、もう死にたい。もういいわ、神様、死なせてください」
彼女は願いを口にした。
その瞬間、その病院の中の空気が凍り付いた。
男は動けなくなる。凍り付いた空気が男の身体を絡め取り、完全な金縛り状態にしたみたいだ。その冷たさに体温を奪われ、静かに震え始める。震えは徐々に、だが確実に大きなものとなっていった。
この場に何かが現れた。
この病院の一角、しかも誰もいない病室には男と女の二人がいる。──そして、不意にもう一人、何かが現れたのだ。
そうだ、何かが現れた。
男は動けなかった。動いてはいけないと脳が必死に叫んでいた。見てはならないと本能が目を閉じさせる為に全力で命令を下してきた。男は目を閉じてしまう。視界が完全な闇に包まれる。
そうだ、それでいい、それでいい。
何事か囁かれる音色。
「ありがとうございます。神様」
女は礼を述べ、そしてごとりという重い音が男の耳にまで届いてきた。瞬間、男は目を開いた。
女は既に、動かぬ身体と化していた。
その日の朝、病院を清掃していた業者の人間が病院の片隅で冷たくなっている女を発見し、騒ぎとなった。
その第一発見者である男はすぐにマスコミによって取り上げられた。かつて自殺を企んだが、亡くなった被害者に助けてもらったことを切っ掛けに不倫交際が始まった、といった感じでである。とある新聞記事は男が犯人ではないかと臭わせる文章を書いたが、どうしても証拠は出てこなかった。その記者も自分の推論が外れた場合のフォローとして、医者へのインタビューも怠っていない。
医者曰く「急性心不全」だという。
後に男は事件についてこう語る。
あくまでこれは本心だろうと、インタビューをし、記事を書いた男は最後にそう付け加えた文章だった。
「何が起こったかわからないんです。俺は、彼女の自殺を止めようとした後、なんか記憶がないんです。気付いたら倒れていたんです。思い出そうとしても、何も思い出せないんです。混乱しているのかもしれない。直接的ではなくても、間接的に殺してしまったのだから。……ああ、なんで、なんで死んでしまったんだ……!」
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