雪蜂

雪蜂

『本日は気温は最高で5℃、最低でマイナス3℃――』

「うわぁ……」


 ――とある日の朝。

 最悪の気分になりながら、朝食の食器を片づけ、仕事へいく準備を済ませる。 


 家を出る前に、首にマフラーを巻いて。

 手袋を忘れず付けたことを確認して、玄関のドアをゆっくりと開けた。


 白い。白い。

 窓の外に広がる景色が。

 遠くに見える山並みが。


 粉雪交じりの風が正面から吹き付けてくる。

 チクチクと、まるで刺すような痛み。


 白い。白い。

 私の口から吐き出される息が。

 昨日の夕方には帰ってきたのであろう――

 道路向こうのお宅の駐車場に止められた、車のフロントガラスが。


 ……寒い。


 去年の今頃に比べれば、服装も少しは融通がきいてマシにはなってるけど。


 それでも、例年に比べればまだ寒い。

 ――去年の今頃に比べれば。絶対に。間違いなく寒い。


 私はしがない公務員。気象予報士ではないけれど、これだけは断言できる。

 なぜならもう――暦の上では、三月に入っているのだから。






「おかしい……絶対におかしいですってこれ……」

「……どうしたんね、ぶつぶつと」


 温々とした炬燵の向かい側に座る先輩が、うどんを啜りながら視線をテレビからこちらへと向けてくる。


 市役所の奥の奥、職員ですら把握していないような片隅の部署。妖怪返送担当、という胡散臭い名前をもって設置された『怪し課』で、私は先輩と暖を取っていた。何を隠そう、この胡散臭い部署が私の所属だった。


 何故か炬燵があるし、なんなら片隅に畳までひいてあった。……というより、今では私もこの先輩にすっかり毒されてしまい、絶賛満喫中である。


「この寒さですよ、この寒さ! もう三月ですよ!? 先輩なら、この異常気象の原因も分かってるんじゃないんですか?」


「まぁ……分かっとるには分かっとるんじゃけどねぇ。どうにも、“でりけぇと”な問題じゃけぇ、勝手においそれと動くわけにもいかんのよ」


 そう言いながら、うどんに乗せた天ぷらをサクサクと齧る先輩。……そもそも、精力的に仕事をしているところなんて、この一年間で見た覚えがないし。また、のらりくらりと理由を付けてるだけなんじゃないだろうか。


「べっつに、この寒空の中走り回らんといけんわけじゃなし。夏になったら自然に暖かくなるだろうし、適当にこたつの中でゆっくりしとけばいいじゃろ――って、電話じゃ」

「そんな無茶苦茶な……」


 ――けたたましく鳴る呼び出し音。事務所の内線ではなく、先輩が懐から出した携帯からのものだった。見た感じ新しい機種っぽいのに、着メロって……逆に面倒な気がするんだけど。


 ふんふんと誰かとやり取りしていた先輩は、『噂をすればなんとやら』と呟きながら携帯を仕舞う。


「――喜びぃ、この寒波を止めに行けるって」


 ……止めに行けるって、どこに?


 先輩はおもむろにこたつから出ると、机の上に置いてあった車のキーを掴む。どうやら直ぐに出るつもりらしい。


「さてさて、今日は山登りと洒落込もうかね!」

「山……登り……?」


 車のキーを指先でクルクルと回しながら、先輩はにやりと笑っていた。






「こっちの地方の山まで全部真っ白じゃないですか……」


 このあたりは瀬戸内海特有の気候のおかげで、たとえ真冬だろうと雪が積もることも滅多にない。別にあり得ないわけではないけど、珍しいことには違いが無かった。


 だというのに――足元に映える草々も、急斜面だろうと構わず伸びている木々も、整えられた山道の脇に取り付けられている手すりまで、今では何もかもが真っ白である。


「そりゃあ、“せっぽう”がおるけぇね」

「……説法? お坊さん?」


 ……いやいや、それだと説法が“おる”とは言わないか。


「説法じゃのうて。雪の蜂と書いて雪蜂せっぽう

「雪の……蜂? また妖怪なのはわかりましたけど、なんでここに蜂?」


 季節で言えば、夏なんじゃないだろうか。あの頃はこの役所でも、駐車場のあたりに蜂が巣を作っていたと大騒ぎになっていたし――


「確かに、季節というのも大事じゃけど――それはあくまで、生物の営みとしての話。妖怪で重要とされるのは、その『意味』よ」


「山の頂――みねって言わんかね。どちらも『逢う』という意味の字が入っとるんじゃけど――」


 スマホの画面を見せられると、メモ帳が開いていて。そこには一文字だけ“夆”と入力されていた。……読めない。

 “蜂”、“峰”。共通するその文字が音の役割をするのだとしたら、そのままホウと読めば――


「これでもホウと読める」


 あ、合ってた。


「峰で逢う蜂。山の頂の雪。そこに棲む、というよりも雪そのものが妖怪なんよ」


 雪なら、さっきからサクサクと踏みしめている。

 ……これ全部が“蜂”!?


「ええっ」

「まだ、この辺りはまだちごうけぇ、安心しぃ。おるのは、あくまで峰のあたり。それに、そう呼ばれているだけで、実際の蜂とは似ても似つかん。……ただ、逢うためには――登らんといかんじゃろ?」


「でも、先輩の服装ってどう見たって山登りとは程遠いと思うんですけど……」


 雪山だというのに、いつもどおりのジャージ。靴はつっかけではなく、流石に運動靴だった。……小学生の遠足じゃないんだからさぁ。もう少し、山登りに適した服装をしようという心意気はないのだろうか。


 ――そして服装のラフさとは真逆に、荷物は大量にあって。これまた遠足に持っていくようなリュックサックに、なにやら物がパンパンに詰められていた。


 まったくもって女子力というものが皆無だった。私も人のことは言えないけど。


「――さぁ、辿り着いた! ちなみに、峰というのは“神域”という意味でもある。あまり粗相をしないこと、ええかね?」


 先輩に確認に対して、コクリと頷く。むしろ逆に、山での粗相って何をするのだろうか。


……とりあえず、先の先輩の言葉を信じて、出来るだけ雪を避けながら歩いてるけど。


「で、登ったのはいいですけど。今度はこれを……どう……追い返すんですかぁ」


 遠くに広がっているのは、私達が普段過ごしている街。――頂上にあったのは、辺りを一望できる展望台で。流石にこの天候で山に登ろうという人もいないらしく、このあたりにいるのは私達だけのようだった。


「なぁに、新たな季節の訪れが欲しいなら――」

「欲しいなら?」


その答えを待つ私に、溜めて溜めて溜めて、そして不可解な発言をする先輩。


「“七”をお供えすればいいんよ」

「……七とは?」


 首を傾げる私に――先輩はとりあえずなんでもいいから、七の付くものを挙げてみろと言う。それは慣習だったり、風習だったり、行事だったり。人の生活に結びついているものを、とりあえず挙げてみろと。


「……七福神、七つの大罪、七曜、七夕。北斗七星に、七味唐辛子――」


 いろいろ挙げてみるけども、どんどん外れていっているような気がする。


「あんねぇ……。ここは山なんじゃけぇ、もっと他にあるじゃろ?」

「あ……七草? 春の七草です?」


「正解! ……けど、今回はちと捻る必要がある。ちなみに、春の七草は何か知っとるかね?」

「ゴギョウ、ハコベラ、セリ、ナズナ。スズナ、スズシロ、ホトケノザですよね」


 自分でも割と驚くぐらいすんなりと言えた。

 ……案外、小学生の頃に覚えたものでも、出てくるものである。


「へー、言えるんじゃ。それじゃあ秋は?」

「えーっと……。ハギ、キキョウ。クズ……フジバカマ、オミナエシ。オバナ、ナデシコで秋の七草です」


 こっちもなんとか。春はリズムですぐに覚えたけど、秋は五・七・五・七・七で覚えているせいか、フジバカマとオミナエシのどちらが先だったかで詰まってしまう。別に順番はどうでもいいんだろう、と気がついたのは言い終わってからのこと。


「……ほうほう。驚いた。見かけに寄らず物知りじゃね」


 ……『見かけに寄らず』って、どういうことですか。


「〇し釣りで覚えました」

「ぬ◯釣りとは、これまた渋いゲームで遊んでからに……」


「い、いいじゃないですか、別に! 早く作りましょうよ! 七草粥ななくさがゆ!」


 秋はともかく、春の七草は確か食べられるものだったはず。とは言っても、野草であることには違いなく、私は一度も食べたことがないため、内心ワクワクしていたのだけれど。


「正月明けから少し開いとるし……残念ながら野草を取りにいく暇はない!」

「ええ…………」


 聞けば春の七草粥というのは、人日じんじつの節句――つまりは一月七日に食べるもので。ついては、七種の野草をこの雪に覆われた山の中を駆け巡って集めるわけにもいかないと。それには私も同感なんだけど――


「……じゃあどうするんです?」


 このままじゃ、いつまでたっても雪に覆われたままなわけで。


「冬は冬で、冬至の七種ななくさってのがあるんよ」

「冬至も十二月の下旬で、だいぶ開いてますけど……」


「こっちの方が調達しやすかったんじゃけぇ、しゃあないじゃろ」


 そう言って先輩は、展望台に備え付けてあった木製のテーブルの一つに、リュックサックの中身を並べ始めた。これが冬至の七種……。


「“ん”が二つ付いた食べ物を食べようって言われんかった? レンコン、人参、銀杏、金柑、寒天。あとの二つは分かるかね」


 レンコンの天ぷら、人参のかき揚げ、銀杏の缶詰。金柑と寒天のゼリー。


 続々と名前を呼ばれた食材たちが取り出されていく。“ん”二つ入った食材で、あとの二つ……冬至の食べ物といったら、もちろん“アレ”は入っているだろう。


「一つはカボチャですよね、南瓜なんきん。あとは――」


 先輩が出したのは、カボチャの天ぷら。……お惣菜コーナーにあったのであろう、透明なプラスチックの器に入っていた。


 えーと、あとは……?


「……ペンタン?」

「科学物質っ!!」


 ――しまった、大学で勉強していた後遺症が。


「……に、人間!?」

「人身御供じゃない! 人が食べるものだって言ぅとるじゃろ!」


 ――妖怪にお供え物というからてっきり。


「ボンタン?」

「かんきつ類なら既に金柑が入っとる!」


 ボンタン飴美味しいよね。昔は包んでるオブラートを捨てちゃってたなぁ。


「ワンタン!」

「惜しい! 近づいた!」


 近づいたって、どこにどう近づいたのか……。 


「……分かりません」


 ――降参。お手上げだった。


「うどんよ、饂飩うどん

「うどん? でもこれ“ん”が一つしか付いてないじゃないですか」


 うど“ん”、である。まさかこれだけ例外、というわけでもないだろう。


「昔は“うんどん”って呼ばれとったらしいけぇね」


 ……なにそれずるい。


「はぁ……うどんってここで茹でるんですか?」

「ちゃあんと真空瓶でお湯を持ってきとるけぇ。五分だけ待てば完成よ」


「か、カップ麺……」


 あれ……お供え物ってなんだっけ。そんなインスタントに取り出してもいいものなんだろうか。迷わずカップ麺を出す人なんて、全国探してもこの人ぐらいだと思う。


「昔はその時期になると、誰もがそういったものを食卓に出してたし、それを合図に神様も季節を動かす時期を見よったんじゃけども――」


 べりべりと蓋を剥がして、お湯を入れて。茹で上がるまでの五分間の間に、銀杏の缶詰や、寒天ゼリーをつまみながら先輩の話に耳を傾ける。


「今となっては誰も彼もそんなのは関係なし。神様も一体何を見ればいいのか分からなくなって。いつしか見ることも止めてしまって。すれ違いというのは、時に大きな間違いを引き起こしてしまう」

「…………」


 そうしているうちに、五分経って。カップうどんの蓋を全て剥ぎ取って、カボチャをスライスした天ぷらを上に乗せた。


「ちょいと強引じゃけど――今回は七種いっぺんに突きつけて、お帰り願うとしましょうかいね。……というわけで、いただきます!」


「山の頂きでいただきます……ぷふっ」

「……笑いの沸点、低すぎやせんかね?」


「山頂だけにですねっ!」

「あー分かった分かった。はよ食わんと冷めるよ」


 惣菜コーナーで買ったものの詰め合わせとはいえ、雪山の山頂で食べるうどんと言うのも、なんとも特別感溢れていて。


 揚げ物、揚げ物、揚げ物と脂っこいものが半数を占めていたにも関わらず、あっという間に完食していた。


「……これで本当に、今の異常気象が治るといいんですけど」

「まぁ、上手くいかんかったらその時よ。他の方法を試してみりゃあ――」


 ――と、そのときだった。


 あたりの空気がざわりと変わったのを感じた。

 何かが、何か見えないものが、山の麓から迫ってくる。


「おー来た来た。吹き飛ばされんように、マフラーは手に持っとき」


 ごうごうと音を鳴らしながら。

 立ち並ぶ木の幹を揺らしながら山頂へと辿り着いたのは――風。


 瀬戸の海から地表を巡り、巡り、巡り、北へと吹き抜けていく。

 掬い上げるような強風によって、あたりの雪が


「――――」


 しっとりと、湿り気を帯びていた雪がまるで嘘のように。

 軽く。軽く。軽く。


 まるで綿胞子のように。羽虫のように。

 そのまま空に吸い込まれるように高度を上げて。


 ――そして、消えていく。


「これは…………」


 この感覚は、一度だけ経験したことがある。

 去年の冬、ここまではひどくなかったけど、肌寒い山の中で。


 ……そう、先輩に“天蜘蛛”の送り返しを見せてもらった時だ。


「――八から七を引けば、一になる。本来なら、もう少し早い時期にいなくなるもんじゃけぇ、吹き飛ばされることも無かったんじゃけどねぇ」


 不思議なことが起きていた。

 不可思議なことが起きていた。


 ――これも一つの儀式だと、先輩は言う。

 長い歴史を積み重ねて続けてきた、自然との契約だという。


 それが妖怪の仕業だなんて、未だに信じきれていない自分がいるけど。

 それでも、偶然と言い切れない自分もいて。


「一になる……」


 一、始まりの数字。

 生命の始まり、芽吹き。


 ――すなわち、


「“春一番”――」


 新たな季節の始まりを告げる、一陣の風だった。

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