絶対領域の守護者

マユ・クロフト

第一話『not(zero)gravity』

▼プロローグ

 ああ! なんてこった! 


 その時、私が最初に抱いた感想はそれだ。

 その次に抱いた感想も、その次の次に抱いた感想も大して変わらない。ただただ、狼狽し思考を空回りさせることしか出来なかった。

 ああ、なんてこった! なんてこった! ――と。

 今、私の眼前には、視野を覆う程のザラついた濃紺の巨大な壁が広がっていた。そこに大小様々なサイズと濃度の、白い靄が幾つもへばりついている。

 センスが無いことを承知で無理矢理例えるなら、それは青い皿の上にレモンの汁を薄くひき、その上から牛乳を垂らして爪楊枝か何かでランダムにかき混ぜたなら、きっとこんなふうに見えるんじゃなかろうかと思えた。

 こんな例えじゃピンとこない人に、眼前の光景が何かをストレートに伝えるならば、それはつまり――海と、雲だった。

 数多の雲と、海面を覆うキメ細かな波は、視界の右から差し込む強烈な太陽光に照らされ、ありとあらゆる黄金色に東側半面を染められている。

 その蒼と白と金の光景は、ゆっくりゆっくりと視界から下がって消え、背後から覆いかぶさる恐ろしい程に暗く深い、漆黒の闇にとって代わる。今、時刻は早朝と言っていいはずなのだが、それは紛れも無く……夜空だった。

 夜空なら無数の星々が見えそうなものだが、今はほぼ真横から射す太陽の輝きが眩しすぎて、星はあんまり良く見えない。

 そして、その夜空と海を、一本の白く細く、長い長~い柱が、視界の隅で繋いでいた。

 数分おきの、海、夜空、海、夜空、その繰り返し。

 これまでの人生では一度も見た事の無い、異常極まりないな光景だった。

 確かに、夜空も海も今までに何度も見た事はある。問題は、少し目を上下左右に動かしただけで、容易くその境界が一つの巨大な環となって視界に入って来るということだ。

 少し首を巡らすだけで、容易くこの星が丸いことを感じることができた。

 地上にいてはあり得ない光景……当然だ。ここは地上じゃないのだから。

 そもそも、そうでなければ〈雲の向こう〉に〈海〉が見えるわけがない! 〈雲の向こう〉に見えるのは、大抵〈空〉ですから!

 雲が小さく細かく、海にへばり付いて見えるのは、雲も海もはるか遠くにあるからだ。

 私はただ雲の上にいるのではなく、雲のとんでもなく上にいるのだ。

 何も聞こえない。そりゃそうだ空気が無いのだから。聞こえるのは、ヘルメット内に反響する荒い呼吸音と、早鐘のように内側から自分を揺さぶる鼓動の音だけだ。

 そして臓腑を襲うゾワワとした異常な心細い感覚……それは普通に生活してたならは、ジェットコースターかなんかで一瞬味わうことがせいぜいのはずの感覚だ。

 だが今私は、その内臓が浮き上がるような、不安極まりない感覚を継続して味わっていた。

 だってだって……私は目下、高度42万メートル。キロにするなら地上420キロの上空……というか宇宙から、地球に向かって絶賛自由落下中なんですもん!

 眼前の光景が入れ替わるのは、そんな中を私がゆっくりと縦に回転しているからだ。

 背後を覆っているのは夜空なんかじゃない、宇宙の暗闇なのだ。

 宇宙はただ暗かった。いや、暗いんじゃない。あまりに広すぎるのだ。広すぎて光が生き届かない程に広いから、結果、暗く見えるのだ。

 そして夜空と入れ替わりでやって来る海と雲の景色は、恐ろしくとゆっくりとではある

が、確実に近づいて来ていた。

 私は、将来についての問題から目を反らしたツケを、目下全力で支払い中だった。

 ああ、なんてことなのさ! どうしてこうなった!? 責任者はいずこだ!?

 事ここに至ったのには、話せば長い訳があった……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る