7話 ハートオブアイアン -1
やっと見慣れた街並みに戻ってきた。
痛む体を一歩ずつ引き摺り上げるようにしながらリートは深夜の住宅街を歩いていた。
全てが終わった。
自分を轢き殺そうとした大佐を乗り物ごと装甲鉄拳で叩き潰した時の感触が鈍痛となって腕に残っている。
弾痕で埋め尽くされた盾からも明らかだった。
盾についた弾痕のいくつかは貫通しており、クモの巣状に罅を走らせ、そこに返り血が黒々と根を張っていた。
右腕は自らの血と返り血で染まり、裂けた軍服の下には醜い裂傷が見え隠れしていた。
悠人の家に帰り着いてしまったら、自分は出て行かなければならない。
もちろん行く宛などない、便りになる知り合いも組織もない。
きっと冬までには悠人の温もりを思い出しながらどこかで野垂れ死んでいるだろう。
心身ともにくたびれ果てたリートには、それも悪くない最期だと思えた。
愛する者を守るために必死で戦った戦士は誰からも称えられないまま、静かに死んでゆく。
その救いのなさが、今にも折れてしまいそうな心に染み入る。
「……いいじゃないか。まるで物語の主人公だ」
誰にともなく呟き、喉の奥で小さく笑った。
疲労は人間をどこまでも自虐的にさせる。そして、それは感傷的な妄想へと繋がる。
精神的な強度は肉体的な強度に比例するものだが、どんなものにも限度はあった。
さっきまであれほど熱かった身体が、今は歯の根が合わないほど冷えていた。
興奮状態から醒めて、恐怖がぶり返した。とか、返り血が軍服の中にまでしみこんだ。
とか、身体に受けた傷を止血していない。といった寒気の原因を推測する余裕すらなかった。
ただ、ヒロイックな死を強力に彩る演出にしか感じられなかった。
「……そうだ、〝党〟に拾ってもらうのもいいかも知れないな」
昼間に聞いた、願い事を叶えてくれるという男の話ですら今はとても魅力的に感じた。
今この瞬間にもう一度同じ提案をされたなら、即座に受け入れても良いとさえ思えた。
何はともあれ、悠人の家に帰り着かなければならない。そして、悠人の胸に飛び込んで彼の匂いと温もりを全身に感じながら眠りたかった。
あと少し。
前へ、前へ。
あと少し。
前へ、前へ。
呪文のように呟きながら、一歩ずつ足を踏み出していく。
その度に盾の淵が地面に擦れて、耳障りな騒音を立てた。
何本目かの街灯を通り過ぎたところでリートは立ち止まる。
懐かしい門構えの家があった。
つい数時間前に出て行ったはずなのに、それどころか出入りするようになってから一週間ほどしか経っていないはずなのに、この場所が自分の帰る場所なのだと強く自覚できた。
安堵から腕の力が抜け、盾がアスファルトの路面に落ちる。
リートを強力に援護した盾だったが、ついに力尽きて真っ二つに割れて転がった。
彼女は最後の力を振り絞るようにして扉に縋り付き、叩く。
それなりに力を込めたつもりだったが、扉の手応えは思った以上に軽かった。
それほどまでに消耗していた。
思い返せば両手とも握りっぱなしだった気がしていた。
敵を殴るために拳を握った。
敵を撃つために銃を握った。
弾丸を弾き返すために盾を握った。
恐怖に抗うために己が手を握った。
身体の痛みを堪えるためにも握った。
確かに握りっぱなしだった。手だけではない、全身の筋肉が酷使に悲鳴を上げていた。
扉が開くと、リートは倒れこみそうになりながら玄関へ転がり込む。
たたきから、床へ仰向けに倒れこみたい気分だった。だが、背中には不安定な塩化ヒドラジンを積んだロケットを背負っている。不用意に衝撃を与えて爆発してはたまったものではない。
MG42を杖のように使ってゆっくりと腰を下ろす。
「これで終わりだ。全部、終わりだ……」
リートが溜息と共に漏らしたその言葉が、彼女の肉体と精神を戦闘状態から完全に切り離す。
MG42にすがり付いたまま、彼女は動く事が出来なくなっていた。
装備以上に全身が重かった。
その身体を動かす気力が湧かなかった。
食い縛り続けた顎が、じんじんと痛んだ。しかし、脱力感も痛みも不思議と不快ではなかった。
全身に感じていた寒気も和らいで来るようだった。
生きて帰れた。その事実がたまらなく嬉しかった。
十重二十重の包囲を切り開き、正確無比な射撃を耐え凌ぎ、決死であの大佐を撃ち倒したのも、全てはこの瞬間のためだった。
リートは筋肉を一つずつ動かすようにして振り返る。
悠人の姿を探したが、背後に立っていたのは陽子だった。
「ヨーコ、こちらに来ていたのか」
くたびれ果てながらも笑みを浮かべる、リートの表情には妙な艶っぽさがあった。
「まずは、この軍服を脱いでシャワーを浴びたいな。そうしたら、悠人にキスをしたい。それから、一晩ゆっくり休んで荷物を纏める――」
安堵から来る興奮もあって、リートはいつになく饒舌だった。だが、陽子は呆然と満身創痍のリートを見下ろしたまま全く反応を示さない。
「ユートから聞いているだろう? 早々に出て行くことに決めたんだ。私のケジメも着けた事だし、ユートやヨーコに迷惑がかかってはいけないからな……」
リートは初め、血だらけの自分が陽子に恐怖感を与えているのかと思った。
戦闘を経験した直後の人間はそのつもりがなくても非戦闘員に恐怖感を与えてしまう事がある。
安堵から来る興奮状態は慣れない人間には狂気としか映らないからだ。
だから、リートは話し続けた。
自分が決して恐ろしい存在ではないことを証明するために。
自分が昨日と変わらない人間である事を陽子に認識してもらうための、その行動が狂気として映りかねないと、気付く余裕はなかった。
やはり、陽子は動かなかった。
「ヨーコ?」
リートはようやく異変に気付き、表情から笑みが消える。そして、気付いた。
「ユートは? 彼は、どこにいる?」
「いなくなっちゃったのよ」
ヨーコの返答はごく短く、的確なものだった。
その瞬間に背筋を血とも汗とも違うものが下り、全身の毛穴が開いた。
心臓が不規則に跳ね回り、肺が無意味に酸素を要求し始める。
リートは耳の奥で血が引いていく音をはっきりと聞いた。
「アタシ、ドイツ語読めなくてさ。でも、話は聞いてたからヤバイのはなんとなくわかってたし。で、迷ったけど警察に電話したのよ。でも、全然来てくれないし……」
何とか言葉を纏めようとしていたが、冷静ではない陽子の頭脳は普段通りのポテンシャルを発揮できないでいた。
急かしたい衝動に駆られるが、リートはじっと堪える。
緊急事態に慣れているのは自分だけだ。錯乱してはいけない。
冷静になれ。
リートはたどたどしい陽子の言葉を、彼女に比べて幾分マシといった状態の頭脳で整理する。
まず、警察の対応がないという点。これは先の戦闘での違和感に通じる。
悠人の性別と年齢から、警察が事件性はないと判断したのかもしれないが、警官が顔すら見せないというのはおかしい。
何らかの権力が警察機構に対して圧力を掛けているという仮説を証明できる気がした。
悠人がさらわれたとした場合、犯人として考えられるのは夕方に会った〝党員〟だ。
米軍の可能性も考えたが、自分に対して有効なカードになるはずの悠人を全く活用しなかったのは解せない。
リートは米軍の大佐がウィリアムズという人間の話をしたことを思い出した。
彼も所在が不明だと言っていた。
不意に、彼女の中で仮説が浮かび上がった。
ウィリアムズこそがその〝党員〟だとしたら……
米軍の動向に精通していた事を考えれば、この仮説は真実味を帯びるような気がした。そして、仮説は新たな仮設を生む。
全身から引いてきた血が胃に溜まり、沸々と泡立つような不快感。
「嗚呼、なるほど。そういうことか……シャイセッ!」
リートはやり場のない怒りに床を叩いた。床板は彼女が思っている以上に大きな音を立て、陽子の注意を引く。
「なに、どうしたのよ?」
「全て仕組まれていた。私はまんまと謀られた」
米軍と戦う事も、勝利する事も、それによって弾薬と体力、精神を限界まですり減らす事も。
全て彼らは予測していた。
唯一つの目的の為に。
完全に罠に嵌った事をリートは悟った。
望むものを与える、といったあの男の言葉に恐らく嘘はないだろう。だが、初めからこちらに選択権など与えられてはいなかった。
「ねぇ、何があったって言うのよ!?」
すがるような陽子の声。リートの深刻な表情とは裏腹に自分が何も知らない事への苛立ちが見て取れた。
「私を指導者に祭り上げようとする集団がいるんだ。恐らくその集団にユートは拉致された」
青ざめた陽子の顔が何か言おうと口を開くが、うまく言葉にならないらしい。
リートは続ける。
「信じるか信じないかはどうでも良い。だが、私は今から彼を奪還しに行く――」
息をつくように言葉を切り、立てたMG42のマガジンに触れる。もう、弾丸は残っていない。
彼らに協力し、自分の望むものを得る。それだけが唯一の解決手段だった。
「ヨーコ、さっきドイツ語がどうとか言っていたな。連中からのメッセージでもあったか?」
「う、うん。これ……」
陽子の差し出した紙を受け取る手に、力はない。
そのメモには彼女の危惧したとおりの内容の文面が書かれていた。
やはり悠人は〝党〟に誘拐されていた。
他にはリートの身柄と悠人を交換する旨と会合場所が記され、協力すればあなたの最も欲しいものを差し上げます。という一文で締められていた。
これで疑いようはなくなった。
戦う前から敗北は決まっていたのだ。もう彼らの要求を呑む以外に道はない。
戦う意思は残っている。決意も鈍ってはいない。だが、肝心の武器が無かった。
武器があればと嘆くのは不毛な事だとわかっていた。
しかし、例え武器があったとしても、体力気力が充実して初めて威力を発揮する事が出来る。
体力は武器を正確に操作するのに不可欠であり、気力は恐怖を押しとどめ、冷静な決断を促す。
どちらが欠けても、兵士の攻撃力は激減する。例え体力気力が充実していたとしても、武器が無ければ戦えない。
手足ででも戦える、というのは建前でしかない。
確かにそのための技術を持ってはいるが、相手が火器で武装していた場合、手足がどれほど威力を発揮できるか考えるまでも無いはずだ。
闘争に必要な要素を欠いたまま戦うのはヒロイックではあるが蛮勇でしかない。
無計画な抵抗は無意味な損害をもたらす。この場合の損害とはもちろん悠人と自分の命だ。
有効なカードとなる悠人をすぐにどうにかするとは考えられないが、自分が死んだ場合彼の命は全く考慮されないだろう。
彼は、リートに対してのみ有効に切れるカードだからだ。
悠人の安全を最優先に考えれば考えるほどただでさえ少ない手数が減ってゆく。
たった一人を守る事が、こうも難しい事だとは思わなかった。
だが、守らなくてはならない。例えどんなに屈辱的な手段であっても。
悠人だけは守らなくてはならない。
リートは、陽子から扉へと視線を移しながら、なるべく静かな声で告げた。
「……この場所につれて行ってはくれないか?」
「この場所?」
リートは彼女が文面をよく読んでいないことを思い出し、今一度メモへ視線を戻す。
「我々が連れて行こう」
今まで聞いた事のない男の声だった。
リートは弾の無いMG42を反射的に構える。
眼前の男はいかにも既製品といった背広を身に付けた日本人だった。
「もう、その手の台詞は聞き飽きていてな……」
すると男はどこか子供っぽい笑みを浮かべた。
「なるほど、君のファンは存外に多いらしいな」
男の軽口にリートは銃身を持ち上げて銃口で答えることにした。
自分でも余裕がないことに改めて気がついた。
「ドイツ人は本当に短気だな」
「なら翌日出直してくるが良い。もう少し淑やかに対応してやる」
「悠人君といる時のように?」
リートの表情が固まる。引き結んだ唇の内側で奥歯が鳴った。
「何者だ? 所属と目的を言え」
彼が〝党〟の使いなら、この場で殴り殺すつもりだった。
「防衛省の野村だ。かつての盟友が困ってるらしいから、少しばかり手伝いに……」
「なら、もう少し早く来て欲しかったな」
リートは銃口を下げて言った。
「その点については謝罪する。君の姿は防衛省に来たあの日にわかっていたんだが、君がリートだという確証を得るのに時間がかかった」
嘘だ。
リートは直感的に理解した。
行動しなかったのは彼らにとってそれだけの価値がなかったからだ。
ここへ来て協力を申し出た理由は唯一つ。
何らかの理由でリートの利用価値が上がったからに他ならない。
「何をすれば良い?」
「何も」
首を振る野村にリートはあからさまに怪訝な顔をする。
「君の思うままに戦うといい。その為の武器は用意する。悠人君を助けたいだろう?」
悠人を拉致した集団は我々にとっても敵であるが、自らの部隊で手を下すには問題がある。だから代わりに消してくれ。
野村の言葉をリートはそう解釈した。
リートはMG42に寄りかかるようにして立ち上がる。
戦う事が出来る。愛する悠人と悠人を愛する人の為に再び戦える。それだけで立ち上がることが出来た。
まだ全身が軋むように痛む。だが、立ち上がれるという事は戦えるという事だ。
「もちろん彼を助けるために戦う事は厭わない。だが、条件がある」
「条件?」
「そう、私がユートの奪還に成功し、万が一生還した場合の話だ――」
リートはMG42をスリングで背負い、自らの足で立って言った。
「ユートを守って欲しい」
「わかった約束しよう。では、ついてこい」
野村の言葉に従い、リートは若干ふらつく脚で玄関を出る。
「大丈夫だ。ユートはきっと帰ってくる。私がそうして見せる」
混乱状態を通り越して、呆然としている陽子にリートは静かに言葉をかけた。
陽子はその言葉の中にリート自身のことが全く含まれていない事に気付いていたが、それを言葉にする前にリートは扉を閉じた。
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