6話 マインカンプ -1
悠人の家に向かう道も大分慣れた。初めのうちは自分が本当に悠人の家に近づいているのか不安に思うこともあったが、今ではそう思うこともない。
順応している。その事が実はリート自身、少し意外に思っていた。
この間見たような夢をもう見ることはなかった。これも順応の一環なのかと内心で妙に納得していた。
しかし、現実逃避したいだけなのかもしれない。
彼女の冷静な部分が嘲笑していた。
リートは立ち止まり、自分の服装を見た。
ノースリーブの白いハイネックのサマーセーターとデニムのスカート。
光から貰った雑誌を参考にしたコーディネートだった。
モデルはネックレスをしていたが、前回の買い物でアクセサリーまで手の回らなかった為、自分の認識票をぶら下げてみる事にした。
今の今までこの服装にひそかな満足感を抱いていた。しかし、一度冷静になってしまうと滑稽に思えてならなかった。
軍服を脱ぎ捨て、この時代に染まろうととしている自分が卑怯者に思えた。
どんなに着飾ろうと、それらしく振舞おうと、自分は一九四四年の人間であり、兵士と共に戦い、勝利するという使命を果たせなかったばかりかその兵士に逃げ延びさせてもらった究極の愚か者という事実は決して消えない。
逃げ延びた先でも結局逃げている自分が許せなかった。
目先の快楽を追い、根本的な問題から目を背けている自分が憎かった。だが、どうする事もできない。
リートは答えの見えない思考に歯止めをかけ、足を踏み出そうとする。
踵が浮きかけるが、躊躇うようにゆっくりと元に戻る。
どうすることもできない。
それが既に言い訳じみている。
どうする事もできないのではなく、何もしたくない。
それがリートの正直な感想でもあった。過去を捨て、この世界で一人の少女として生きて行きたかった。
そんな夢想がどれほどささやかにして困難なものか、彼女自身が最も理解していた。
リートは溜息を吐いた。
彼のどうしようもなく平和な空気に触れていると自分が変われそうな気がした。
彼なら自分の全てを受け入れてくれるような気がした。
現在と未来を彼と共に歩んでみたかった。しかし、それは叶わない。
自分が過去に人間だからだ。そして、現在において、自分は極端に弱い存在でしかない。
何の生活基盤も持たず、何の背後も存在しない。
これ以上悠人とその友人たちの下にいるのは彼らにとって負担になる。何より自分の気持ちが駄目になってしまう。
悠人を愛しているからこそ、彼の彼らの好意を都合よく利用してしまうことが嫌だった。
「失礼」
不意に声をかけられ、リートはとっさに視線を上げる。
人通りが少ないとはいえ往来のど真ん中に突っ立っていたのだから、邪魔になったか。
彼女はそんな事を考えたが、その予測は外れた。
彼女の眼前には、カジュアルなジャケットを羽織った背の高い男が立っていた。
知り合いではない。
リートの顔に警戒の色が浮かぶ。
『ドイツ人でしょう?』
男はどこか間延びしたドイツ語で聞いた。
日本人のようだが、悠人たちとは少し雰囲気が違うように見えた。
この男が纏うどこか剣呑な空気のせいでもあったが、よく見れば顔立ちも日本人とは違うように見えた。
『そうだ、ドイツ人だ』
警戒は解かず、リートもドイツ語で応じた。
「よかった通じた」
男はまたもドイツ語で応じた。妙な喋り方ではあるが、かなりドイツ語を使いこなしていた。
「貴女はリートさんですね?」
「誰だ、お前は……」
いきなり名指しされた事で、リートは遠慮していた警戒の色を一気に表面化させる。
「〝党〟といえば通じますか?」
彼女の時代で〝党〟といえば国家社会主義労働者党、つまりナチスしか存在しない。
「
男は笑った。精神的に優位に立った者が浮かべる、嫌な笑みだった。
「それは表向きの話です。我々の帝国は滅んではいません。再興の機会をじっと待っているのです」
「再興? この平和な世の中で?」
「そうです。われわれの意思は挫けません。そして、貴女に協力をお願いしたい」
リートは首を振った。
「私個人は党に義理はない。それに、再興とはつまり戦争だろう? 私はごめんだ」
今も昔も、新たな帝国が創設できるほど世界地図に余裕はない。
帝国を築く事、それはつまり誰かの土地を強奪する事に他ならない。
男はまた例の嫌な笑みを浮かべポケットから小さな円盤状の物を取り出した。
「これを見ても、同じことが言えるのですか?」
ヒトラーの肖像と鍵十字の入った金貨が彼の指先にあった。
「これは、数日前にネットオークションで手に入れたものですが――」
全身の毛が逆立つ感触。首筋から背中が一気に冷え、脂汗が蟲のようにのたうちながら降りてゆく。
自分の懸念が杞憂に終われ。
リートは半ば無駄だと悟りながらも強く念じた。
「――出品者は狩井陽子さんというようで……」
「
舌打ちと共に、リートが吐き捨てた。
この男の言う〝党〟の話がどこかで本当かはわからなかったが、自分の名前を知り、ナチス金貨を持ち、さらには陽子の名まで知っているこの男は大変な危険を孕んだ存在だ。
当時のドイツ軍にすらリートという名を知るものはそう多くない。
「何が目的だ」
「……我々と共に来て頂きたい」
リートの華奢な体躯からは想像もつかないほど剣呑な視線を送るが、男は動じず答えた。
「再興のためにか?」
「そう、復活を象徴する女神として、我が党は貴女を迎え入れたいと考えています」
「その見返りは?」
彼女の言葉に男は一瞬だけ嘲笑浮かべる。
そんな事を言える立場だと思っているのか、と彼の表情は言っていた。
「純潔のアーリア人ならば無償の協力が当然と思いますが、良いです。あなたの最も欲しいものを差し上げます」
純潔のアーリア人。厳密にリートはアーリア人ではなかった。
外見は確かに当事、党が掲げた理想的なアーリア人のそれかもしれないが、その中に流れる血は恐らくアーリア人ではない。
それどころか、人間の範疇に収まるかどうかすら怪しい血が流れているはずだ。
リートは男の言葉に皮肉っぽい笑みを浮かべた。しかし、男は彼女の笑みを交渉成立の合図と受け取ったようだった。
「すぐに答えを求めるような事はしません。とは言え、その時が来れば答えはおのずと出ると思いますが」
「…………」
リートはただ、見上げるようにして男を見つめていた。
自分でも気づかないうちに彼女は警戒を解いていた。
自分の望むもの。
その言葉に揺らいでしまいそうだった。それが、無意識のうちに表情へと現れていたのだ。
これは悪魔の取引だ。信用すれば馬鹿を見る。第一、この男は何を(、、)くれるのかを言ったわけではない。
軽率な判断は最悪の結果を招くとわかっていても、この男の言葉に希望を見出してしまった自分が情けなかった。
「……少し、考えさせてくれ」
リートは押し殺した声で言った。だが、男はその答えに満足げな表情で頷いた。
「わかりました。ですが一つだけ言っておかなければならないことがあります」
リートは目で先を促す。
「アメリカ軍が動いています。主に活動しているのは日本に駐屯するアメリカ軍です」
「陸か? 海か?」
「海です」
「海兵隊か?」
「そうです」
リートの脳裏にテレビで見た兵士の映像が去来する。
あの時の予想が現実のものになりつつある。根拠のない焦燥感が血液の温度を下げる。
「恐らく、暴力的な方法であなたを奪還する作戦を起こすはずです。気をつけて。さようなら」
男は一方的に言い、踵を返す。
「待て」
リートは男の袖を掴んで引き止める。
「何でしょう?」
「何故私にその事を教えた? それも党の指示か?」
男は首だけで振り返りながら、その首を軽く振った。
「違います。私の一存です。信用してもらう必要があると思っての判断です」
慇懃な口調にリートは苛つき始めていた。だが、この男から情報を引き出さなければならない。
党などと言っておきながら、信用などおこがましいとは思ったが米軍の動向に関する情報はなんとしても欲しかった。
情報がなければ行動できないどころか悠人たちを危険に巻き込む可能性すらある。
「米軍は、どこまで掴んでいる?」
男は大人に秘密基地の場所を聞かれた悪ガキのような表情を一瞬浮かべたが、リートに気付けるだけの余裕はなかった。
「今この瞬間に奪還作戦が始まってもおかしくないほどに」
「
リートの目が鋭くなる。しかし、男ははぐらかすように首をかしげる。
「言え! 何時、何処で!?」
掴んだ袖を乱暴に引っ張る。彼女の握り締めた布地がみしみしと悲鳴を上げる。
「……あなたに接触を図った後、今日の零時。ここから五キロほど北にあるキャンプドレイク跡地で部隊と共にあなたと話し合いをするでしょう」
視線はそのまま、リートは薄い唇の端を持ち上げる。
この世の全てを皮肉るような、獰猛な笑みだった。
「武器をちらつかせながら話し合いか。連中のやり口は変わらないな」
「信用してもらえましたか?」
「黙れ」
リートが一喝する。
「確かに伝えましたよ。では、よい返事がもらえる事を願って――」
「失せろ!」
男の顔を見ずにリートが叫ぶ。
まばたきを忘れた眼球がひりひりと痛む。知らずのうちに呼吸が浅く速くなっていることに気付いた。
胃が細かく痙攣しているような不快感。
叫びだしたくなるような閉塞感。
焦燥感が自分の全てを支配しつつあることを自覚した。
遠ざかる男の足音に気を配る余裕は既になかった。
リートは走り出した。
向かう先は武器のある場所。自分の判断を鈍らせる最大の原因が住む家。
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