5話 飯事の終わり -1
神保町のほぼ中心部。靖国通り沿いの喫茶店で陽子は人を待っていた。
平日のせいか窓際の席から外を眺めていても人通りはまばらで、神保町らしく喫茶店に併設された書店にもあまり客の姿はない。
陽子はこの場所が早くも気に入り始めていた。
喫茶店の中に書店がある、というよりは書店の中に喫茶店があるといった方が正しい店だが、ウッドを基調にした店内は明るく、暖かな雰囲気を作り出し、ヒーリング音楽のさえずりが空調の機械的な風に、自然的な優しさを与えているようだった。
今度からサボる時はここに来よう。そんな事を考えていると、一人の男がやってくる。
ベージュの麻の上着を羽織った男が、レジカウンターから現れたウェイトレスと二、三言葉を交わして店内を見渡す。
陽子の姿に気づくと男は穏やかな表情で彼女の席へと近づいてきた。
陽子はこの男とは初対面だった。当然、陽子も男も、お互いの名前を知らない。だが、メールでこちらが二十代の女だとは伝えてあった。
今店内にいるのは数人のサラリーマンと老人だけだ。そのぐらいなら間違われない自信が陽子にはあった。
「えーと、出品者の方ですね?」
陽子は当たり障りのない笑みを浮かべながら視線を上げてうなずく。
長身で厚い胸板とどこか威厳すら感じられる鷲鼻。彫りの深い顔に収まった蒼い瞳は鋭く知性の輝きを放ち、オールバックのブロンドと相まって、蒐集家というよりヨーロッパの演技派俳優を思わせた。
「急に呼びたててしまってすみません」
「ええ、まぁ……ちょっと驚きました」
男が余裕のある大人の態度なのに対して、陽子は若干緊張した面持ちで応じた。
古銭蒐集と聞いて小太りで脂ぎった中年男か、足元のおぼつかない老人を想像していた陽子にとって男の容貌は想定外だった。
「そのところはお詫びしますよ。ただ、物が物なので、直接手にとって見たかったんです」
男の言葉にただ当たり障りのない笑みを浮かべて応じる。
なんとなく大学の面接を思い出しながら、陽子は持ってきたバックからハンカチで包んだ金貨を取り出して、テーブルに置く。
だが、手を離す事はしない。
「あらためても?」
陽子は頷いてようやくハンカチごと男に差し出す。
男はそっとハンカチを開き、重ねられた金貨のうち一枚を手に取る。
「失礼」
男はポケットからツールナイフを取り出し、ルーペを引き出し金貨の仔細を観察する。
「……すばらしい。これをどこで?」
男はルーペを覗き込んだまま問う。
陽子は自分の心臓が飛び跳ねた事に気づいた。
当然予測していた質問だが、実際に相手を前にするとどうしても緊張してしまう。
自分に詐欺師の才能が無いことを自覚しながら、なるべく落ち着いた調子になるように細心の注意を払う。
「イギリス旅行へ行った友人がお土産に買ってきてくれたんです。あまり趣味じゃないので手放す事にしたんですけれど――」
その話を考えたのは智彦だった。彼が言うには、ナチスドイツの金貨がドイツ国内から見つかるのは不味いらしい。
「――それほど価値のあるものなんですか?」
こちらは純粋に彼女の興味だった。何しろ金貨一枚に、大卒の初任給とほぼ同じ金額をつけたのだ。
つまり、総額で百五十万円近い現金が手に入る事になる。
初めて手に入れる大金への期待と恐怖で、陽子の背中を嫌な汗が伝っていった。
「そうですか。蒐集品は興味がなければがらくたでしかありませんからね。とにかく私もあなたも運が良い」
男はルーペをしまいながら言った。やはりこの金貨には相応の価値があるものらしい。
百万円以上の大金をかけてもペイできるだけの価値が。
すでに陽子の頭の中では、百五十万と表書きされた札束が飛び交っている。
「……では、こちらが」
ついに来た。
思わず頬が緩むのを強引に緊張させ、真顔を保ち続ける。
厚みの割りに重い封筒を受け取り、中を覗く。
まず濃いインクの香りが鼻に突き刺さる。
まるで一枚の板のような札束が一つ、九枚の紙幣を半折にした紙幣ではさんだものが五つ。それにバラが数枚。
数えた方が良いのだろうか?
不意にそんな事を思い出す。レジでは全ての札を数えるし、銀行でも客に渡す現金は銀行員が数えてみせるが、この場合はどうするべきなのか。
陽子は封筒を覗き込んだまま、止まる。
悠人や智彦の前で大人ぶってみても、まだまだ『大人』ではないということを痛感した。
大金を見ても動じない事が『大人』の条件だとしたら、永久に大人になれそうもないことも、同時に自覚した。
「どうかしましたか?」
男の怪訝そうな声に、陽子はようやく視線を上げて小刻みに首を振る。
「あっ、いえいえいえ」
「……それでは、取引はこれで終了という事で」
陽子とは対照的な態度で男は言い。右手を差し出す。
「握手、ですよ。それとも男に触られるのはお嫌いですか?」
差し出された手をぽかんと見ていた彼女に男は冗談めかして言った。
確かに外見と背丈の所為で誤解されることもあったが、彼女にその気は全くない。
しかし、彼女にその事を反論する余裕はなかった。
陽子はぎこちなく右手を出し、相手の右手を軽く握る。彼女はそこで初めて掌にびっしょり汗を掻いている事に気がついた。そして、もう一つ気が付いた。
「良い取引でした。それでは、私はこれで……」
表情こそこの男は笑みを浮かべていたが、その目がほとんど笑っていなかった。
それどころか男の目にははっきりと嫌悪の色が宿っていた。
握手にしても向こうから求めた割に、ぞんざいなものだったように思えた。
現れた疑念に表情が硬直しそうになるのを何とか防ぎながら男の姿を見送り、ショルダーバックの中に封筒を急いで押し込んだ。
「緊張した……」
溜息と共に呟き、テーブルに突っ伏す。しかし、すぐに体を起こす。
「もって帰らなきゃいけないんだ」
大金の入ったバックを見て再び呟く。
喫茶店にいる全ての人間がひったくりに見えた。
陽子の脳はどう無事に帰り着くか、という検索に忙殺され、男の不自然な目付きの事などすぐに忘れ去ってしまった。
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