4話 調査は踊る、されど進まず -4

 防衛省へ行ってから、二日経っていた。壁に掛かったカレンダーの、今日の日付には英語で月曜日と書かれていた。

 リートは脚の低いテーブルに座ったままあたりを見渡す。

 既に陽子は大学へ行ってしまったのでこの部屋には自分ひとりしかいない。

 あまり飾り気の無い部屋。必要なものだけがそこそこ機能的に。そして、そこそこ整理されて配置されている。

 ライティングデスクの上に載ったパソコンという電算機。

 窓の下にはCDコンポという蓄音機。ラジオも兼ねているようで黒い箱の後ろから銀色の細いアンテナが伸びている。

 リートはおもむろにリモコンを握り、テレビを点ける。

 彼女もテレビジョンの存在は知っていたが、試験放送がようやく始まった程度で、これほど鮮明で色鮮やかなものは見た事が無かった。

 彼女は陽子の部屋に来て以来、一発でこの目新しい映像受信機の虜になった。

 リートは時計を確認する。

 ブラウン管が温まると、彼女はチャンネルをニュース番組にあわせる。

 日本語の勉強と情報収集をかねての事だが。この時間帯は内容が通俗的すぎてあまり世事を知るには役に立たない。

 どうせ通俗的なものなら、この番組の後に放送される、日本の中世時代を舞台にした映画のほうがよほど面白いのに。

 彼女は憮然とした表情で画面を見つめながらそんな事を考えた。

 彼女は、特に中世時代に実在したという暴れん坊なエドの領主が好きだった。

 騎士道を尊び、領主でありながら民衆の中に暮らしてその生活を肌で感じ取り、民を食い物にする悪辣な官吏や商人を懲らしめる。

 まさに、理想の騎士であり君主を描いた、あのシリーズだ。

 とにかく、その映画の放送が開始されるまで少し時間がある。

 彼女は立ち上がり、陽子と生活するに当たって取り交わしたいくつかの約束事の一つを果たす事にする。

 炊事を除いた家事全般をこなす、という約束を。

 漫然とテレビを見ているよりはよほど建設的な気がしたし、何より体を動かしている間は余計な事を考えないでも済む。

 これからの事や、悠人の事に煩わされる事無く、ただ目の前に作業に没頭すれば良い。

 そう思い立ったリートだが、テレビから流れた音声にそれまでの思考が一気に吹き飛ぶ。

――謎の墜落物体は米軍偵察機!? ――

――問われる日米関係――

 プロパガンタのビラとまるきり同じ書体が画面に踊っていた。

 リートは立ったままじっと画面を見つめる。『墜落物体』という言葉に心当たりがあった。

 自分の乗ってきたナハトファルケは墜落といわれてもおかしくないほど酷い不時着を果たしていたからだ。

 放映が始まり、いつもはどうでも良いことしか喋らない司会はいかにも深刻といった顔をして、薄くなった毛を無理やり頭頂部に乗せている中年の男に意見を求めている。

 その中年男には軍事評論家というキャプションがついていた。

 二〇一六年の世界情勢に詳しくないリートに、評論家の真剣な言葉はあまり実感を伴って伝わらなかった。

 ただ、日本と米国が非常に緊密な軍事同盟関係にありながら、国民はそれをあまり快く思っていないらしい。という事はわかった。そして、司会がしきりに米軍と米軍に対して弱腰な日本政府を非難していた。

 その政府を選んだのは国民だろう?

 何故そういった政策が採られているのかわからなかったが、リートは素直に思った。

 その辺の事を悠人か智彦にでも聞いてみよう。そんな事を考えた矢先に、画面は墜落現場近くの映像に切り替わる。

 川岸にある広い草むらが一直線に掘り返され、その終点は青い幕で覆い隠されていた。

 機体から脱出したときのことは無我夢中でよく覚えていなかったが、荒川河川敷というキャプションのついたその画面にリートは見覚えがある気がした。

 カメラがズームし、幕の周辺が拡大されると、そこには苔生した古木のような柄の戦闘服を纏った兵士が立っていた。

 その襟には鷲と錨の意匠。そして、胸には金糸で縁取りされた星条旗のワッペン。

 アメリカ合衆国海兵隊。軍装こそ彼女の知る物ではなかったが、意匠と星条旗は間違いない。

 自分の不時着した地点をアメリカ軍が調査している。もしかしなくてもこれはよくない兆候だ。そして、すぐに万が一の事態が脳裏をよぎる。

 何の後ろ盾もない以上、万が一の事態は破滅的な状況に至ってから自分の前に現れるはずだ。

 図らずとも、悠人の家に行く口実ができた。しかし、気分はそれほど晴れやかではなかった。

 とにかく、義務を終わらせて悠人の家に行こう。

 リートはようやくテレビから視線を離した。

どれほど時間が経ったか、リートは視線を上げて時計を見やる。

 時計の数字は午後二時を少し過ぎた頃を示していた。

 リートは続いて部屋を見渡す。

 曇り一つない窓。

 塵一つない床。

 シーツの角が立つほど丁寧に仕上げられたベッド。

 向かいに見える狭いダイニングキッチンも全ての調理器具、食器が磨き上げられ、可能な限り機能的に再配置されていた。

シンクに至っては新品のように光り輝いている。

「こんなものか……」

 リートはポツリと呟く。

 彼女は確かに没頭した。そのおかげでバスルームとトイレも手術室に転用できそうなくらい徹底的に掃除できた。

 そろそろ陽子に教わった悠人たちが帰る時間だった。

 リートは腕を組んで考え込む。

 陽子から出かける許可は得ていた。合鍵も受け取っていた。

 悠人の家に上がる込む理由も取りあえずはある。だが、それ以上にリートはきちんと悠人に謝りたかった。

 彼女は小さく唸り、形のよい眉を八の字にした。

 粛々と進行する理想的な展開から、考えただけで息苦しくなるような最悪の展開まで、様々な想定が頭の中で駆け巡る。

 ただ謝るだけで、どうしてここまで心を砕かなければならないのか、彼女自身よくわからなかった。

 ただ先方に出向いて、「この間はすまなかった」の一言で済むはずだ。

「そうだ、一言で済む。複雑な作戦は破綻しやすい。簡素な作戦こそが最上だ。よしよし……」

 彼女は誰にとも無く呟き、頭の中で繰り返されるシミュレートに納得して頷く。

 リートはテレビの上に置いてあった合鍵を引っつかみ、決意の表情で玄関へと向かった。


 帰宅した悠人が自室の扉を開けると、そこにリートがいた。

 玄関で既に彼女のブーツを見ていたし、階下で母親に散々からかわれたのでよくわかっていた。

「……リート、来てたんだ」

「ああ、すまないが上がらせてもらった」

 部屋の奥、デスクの前でMG42の手入れをしていた。広げた新聞紙に部品らしいものがいくつも転がっている。

 悠人はとりあえず鞄を置いてベッドに腰を下ろした。

 普段ならそのまま部屋着に着替えるのだが、リートの前で着替えるのは気が引けた。

「それが、リートの武器?」

「そうだ、日本語にすれば42型機関銃、とでも言うのか――」

「知ってる。MG42だろ? ヒトラーの電気鋸、だっけ? 智彦が言ってたよ」

 聞きかじりの知識だったがリートは笑みを浮かべる。自分の専門の事に興味を持ってくれたことが嬉しい、そんな表情だった。

「それはアミー米軍の呼び名だな。我々は単にMGと呼んでいた。律儀なやつはマシーネンゲベールと呼んでいたな」

「本物?」

「当然だ」

 リートは銃身を持ち上げて内部に異常がないか覗き込みながら言った。

「戦争は無いのに、そうやって手入れをするのか?」

「……機械は置いておくだけで故障することもある。だから、時々分解して油を差し直してやらなければならない」

 若干の間があってからリートが応じた。悠人には言葉を選ぶために逡巡したように見えた。

 彼女は魚の尻尾のようなバットプレートを取り外し中からボルトを取り出し、グリスを浸した布で複雑な形をした細長い部品を丁寧に磨いてゆく。

「……この間は、済まなかった。ユートの好意を疑ったりして」

 リートが不意に手を止めて、言った。

 悠人は一瞬、何の事だかわからなかった。それはもろに表情に出た。

「別に、気にしてなんかいない」

「そのようだな――」

 彼の表情を読み取ったリートは口元に笑みを浮かべた。

 それは安堵した笑みに見えた。そして、悠人が初めて見るリートの屈託の無い笑みだった。

 悠人の心臓が、一度大きく跳ねた。

「冗談はともかく、あの時の私はどうかしていた」

「いや、わかってるさ。立つはずだった目処が立たなくなったんだから。イラつきもする」

「もっと、根に持たれているかと思ったが、ユートは優しいな」

「は?」

 思いもよらない言葉だった。そうとう間抜けな顔をしていたはずだが、既に手元へ視線を戻していたリートはかまわず続ける。

「私ならきっと駄目だな。あんな無茶苦茶な言葉を返されたら、私はきっとそいつの事を恨んでしまう」

 そう言いながらリートはボルトを元の位置へ戻し、動作の確認をする。

「別に恨んでなんかない。少し、驚いたけど……」

 どぎまぎしながら悠人が応じる。

 顔が熱い気がする。そう思って頬に手を触れるが、やはりかなり熱い。

 このままではいけない。

 何がいけないのか良くわからなかったが、とにかくいけない。悠人は思い立って立ち上がる。

「何か飲み物でも持ってこようか? 何か飲みたいものはある?」

「……そうだな、牛乳が欲しい」

 リートは視線を上げず応えた。

 彼女の頬もどことなく紅い気がした。

 白人ゆえの白さがその肌の色を余計に目立たせているように見えた。

 部屋を出て彼女の所望した物をとってくるまでにそれほど時間は掛からなかった。

 悠人が部屋に戻ると、リートはレンチでラッパ型のフラッシュハイダーを締めていた。

「お待たせ、リート」

「こちらももうすぐ終わる」

 真剣な表情で武器を整備する彼女は、まさに戦闘に備える兵士の顔に見えた。

 もちろん、本物の兵士に会った事はないが、それでも彼女の眼差しの奥にある張り詰めた空気を感じ取れないほど鈍感ではなかった。

「なぁ、リート」

 悠人は麦茶の入った自分のグラスと牛乳の入ったリートのグラスを置きながら問うた。

「なんだ?」

 リートはレンチを置き、MG42をそっと床に置きなおしながら悠人を見つめる。

「リートは、戦った事あるのか?」

「……ある」

 若干の間はあったものの彼女ははっきりと応えた。

「どうだった?」

「どう、とは?」

「怖かった?」

 悠人は言ってから愚問だと気づき、内心で舌打ちをした。しかし、リートは牛乳のグラスを手に取り、口元に小さく笑みを浮かた。

 まるでその時のこと思い出しているかのように言葉をつなげる。

「怖くないわけがないだろう? 銃弾が当たればものすごく痛いし、運が悪ければ死んでしまうんだぞ? だが、戦わないわけにはいかない」

「命令だからか?」

「もちろんそれもある。だが、そればかりではない――MGはこのままこの部屋に置かせてくれないか?」

 話の腰を自ら折った彼女だが、悠人は小さく頷いて先を促す。

 彼女が何を考え、何を見てきたのか、それを知りたかった。

 リートは酷く緩慢に見える動作でMGをデスクの縁へ立てかけ、牛乳を片手にデスクの椅子へ腰を下ろした。

「――仲間がいるからな。戦友だ。戦友がいるからこそ兵士は戦える」

「友情?」

「それ以上だ。愛情と言っても良いかもしれない」

「愛情……」

 悠人は漫然と彼女の言葉を繰り返す。それは彼にとって決して現実感を伴わない単語でしかなかった。

「愛情があれば、人は殺せるのか?」

 現実感を伴わない分、彼女の言葉は魅力的に感じた。少年なら誰もが一度は想像する甘美な英雄像と少なからず重なる。

 その甘美な言葉が、人を殺す動機となりえる事が悠人には少し恐ろしかった。

 リートは彼の言葉をグラスの牛乳と一緒に飲み干す。

「……その話はやめよう」

空いたグラスを両手で包み込むようにしながら、低い声で言った。

 悠人はコバルト色の瞳の中に、ほの暗い何かを見た。

「出来ればユートには綺麗な私だけを知っていて欲しい。血なまぐさい話はやめようじゃないか」

 それは悠人の予想しなかった言葉だった。たっぷり五秒間硬直した後にその意味を確かめようと彼が口を開いた瞬間。

「ユート、お代わりが欲しいな」

 リートは蒼い瞳をいたずらっぽく輝かせながら言った。

 そこに、さっきのような重苦しい空気はなく、純粋に彼の反応を喜んでいるようですらあった。

「また牛乳?」

 間を外されてしまった悠人の口からは本来とは違う言葉がこぼれた。しかし、子供っぽさの中に艶やかさを含んだリートの不思議な笑みが、彼にはなかなか心地よかった。

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