4話 調査は踊る、されど進まず -3

 靖国通りを右手に見ながら三人は市ヶ谷の駅へと向かっていた。左手はまだ防衛省の敷地らしく、高い鉄柵が続いている。

 先日もそうだったが、リートは、一時は沈んだものの、すぐに立ち直ってしまった。

 確かに彼女はケロッとした顔で「駄目なら次の手段を探すだけだ」と言っていたが、先を行く彼女の足取りは幾分重そうだ。

 それは、気丈でいることを演じているようにしか見えなかった。

「……なぁ、智彦。神保町ってここから遠いのか?」

「歩けないほど遠いわけじゃないが、どうしたんだ? 急に」

 不意に声をかけられた智彦は怪訝な表情を悠人へ向ける。

 その怪訝な表情が気になったが、悠人は先を続ける。

「ドイツ軍関係の詳しい本が置いてある店って知ってるか? って、何でそんな顔するんだよ」

「お前も、陽子さんと同じこと言うからさ」

「陽子姉さんも?」

 智彦は真顔になって小さく頷いた。

「ああ、リートのことをわかる限り調べろって命令された。だから、この後リートはお前と光に任せて神保町まで足を伸ばそうかと思ってた」

 光とは市ヶ谷の駅で待ち合わせることになっている。この後は、彼女の生活に必要なものを買い出しに行く事になっていた。

「当てはあるの?」

「軍事関係に強い古書店ならいくつか知ってるが。リートのことがわかるかどうかは、ちょっとな……」

 自分も智彦について神保町を巡ろうかとも思ったが、神保町にどんな古書店があるのかすらよく知らないことに気づいた。

 この場は智彦に任せた方が無難かもしれない。

 少し無責任な気もしたが、悠人は智彦に全てを任せることにした。門外漢がついて行っても邪魔になるかもしれない。

「わかった。光にはそう伝えておく」

 市ヶ谷の駅へ向かう交差点の前で悠人はそう言った。目の前には外堀をまたぐ橋があり、水門の管理事務所のような建物が建っている。

 リートは既に横断歩道の前に立って信号が変わるのを待っていた。

「私のことを話していただろう」

 横断歩道へ近づいた悠人に、リートは振り返らず言った。

「聞こえてたのか?」

 聞かれて困る話をしていたつもりは無いが、急に言われるとやはり驚いてしまう。

「ほとんど聞こえてはいなかった。勘だな……大方、短気な私をさっさと始末しよう、そんな話をしていたのだろう? 無理からん話だ。少なくとも私がユートたちの立場なら――」

「そうじゃないって!」

 誤解も甚だしい。悠人の声は自然と荒いものになっていた。背後を通り過ぎたサラリーマン風の男が驚いたように振り返り、不味い現場に出くわした、という表情で足早に防衛省の方へと去っていった。

「どうして、そんなことを言うんだよ。リート……」

 ようやくリートは悠人の方を向く。

 世界の全てが信じられない。彼女の蒼い瞳が声高に訴えていた。だが、悠人と視線が絡み合った瞬間、リートの瞳が揺らいだ。そして、耐え切れなかったように視線を伏せる。

「……」

 彼女は何も言わなかった。

 悠人は自分がどんな表情をしているのかわからなかった。

かなり深刻な顔をしていることは、なんとなく想像がついた。

「どうして、そんなことを言うんだよ……」

 詰問するように、悠人は繰り返した。信号が青に変わるが、二人は動かなかった。

 智彦だけは悠人の肩を軽く叩いて横断歩道へ足を踏み入れた。

「確かに、俺たちは何も出来ないよ。多分、リートを警察に引き渡すのが一番正しいんだと思う。でも……」

 そこから先の言葉が告げなかった。

 言いたいことが多すぎて、それが一塊に絡まりあって喉へ詰まってしまったような気すらした。

 逡巡、というには少し長かっただろう。悠人は喉に絡まりあった言葉の中から一つだけ選び出す。

「リートを見捨てようなんて、思ったことは、一度も、無い……」

 こんな言葉では到底足りない。たくさんの言葉とさらにたくさんの感情が、喉はおろか、胸の中にまで溢れかえり、出口を求めてぐるぐると渦を巻いている。

 リートが視線を上げる。鋭い眼光が悠人に突き刺さる。

「……ユートは、何故そうも私に気をかける。一文の得にもならないというのに」


 悠人が気をかけるのはある意味当然の事だろう。

 彼らには金貨を渡した。そして、自分がまだ金貨を持っていることも知っている。

 この協力関係が長引けば長引くほど金貨を受け取れる可能性が増すのだ。大事な金づるを警察や軍に易々と引き渡したりするはずが無い。

 理性的な部分がわめき散らしている。それはまるで、悠人が計算づくで動いていることを望んでいるようだった。

 何故そう思いたいのか、リートにはまだわからなかった。

 もしかすると、さっきからわめき散らしているのは理性などではないのかもしれない。

 彼女は不意にそんなことを思った。

「……何故って」

 今度言葉に詰まったのは悠人の方だった。

 リートは彼の言葉を待った。目は相変わらず厳しいものを保っていたが、リートの胸中は確かに何かを期待していた。

「リートが、リートのことが心配だから……」

「……それだけか?」

 しばらくの間があって、リートは問い返す。悠人はそれだけだ、と頷く。だが、彼の顔には明らかにまだ言いたいことがある。と書かれてあった。

 だが、リートには彼の言葉が嬉しかった。

 きっと悠人だけではなく、陽子も光も智彦も同じように心配してくれているのだろうが、彼女には悠人からその言葉を聞けたことが嬉しかった。そして、どうして自分が、悠人が計算づくで動いていることを望んだのかも、なんとなくわかった。

 それがわかってしまうと、リートは少しだけ切なくなった。ある部分で自分が恐ろしく冷静だということに気づいてしまう自分が、憎らしかった。

 悠人とはあまりにかけ離れた己という存在が、切なくてたまらなかった。

「……光をあんまり待たせるのも悪い。この話はもうお終いにしよう」

 その声にリートは我に返る。視線を上げると、口を真一文字に結んだ悠人が目に入る。

 謝らなければ。

 リートは反射的にそう思った。

 思う通りに事が運ばなかったことで気が立っていた。それに加えて自分の幼稚な感情が悠人を傷つけた。

 完全に自分の落ち度だ。

「…………」

 だが、既に先を歩く悠人の背中にどうしても、声をかけることが出来なかった。

 彼女の口は背中に向かって口を開くが、その喉から声が出ることは無かった。

 リートは肩を落として、小さく溜息を吐いて悠人の背中を追いかけた。

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